デスアイランドの撮影も終わり、女優としての仕事に一区切りがついて。
夜凪景は悩んでいた。
「最近、結愛ちゃんの様子がおかしいの」
「……おかしい、とは?」
対面に座る柊雪は、きょとんと首を傾げ、景の発言を反芻でもするかのように繰り返した。
「まず、朝から勝手に私の布団に潜り込んでくることが減ったわ」
「布団に潜り込んでくる」
「前はレイが止めなければ、少なくとも週に三回は潜り込んできたのに」
「週三で」
「今週は一回しか潜り込んでこなかったの」
「潜り込んでるじゃねぇか」
思わず、鋭くツッコんでしまう。
「それだけじゃないわ。朝ご飯を食べに来たらすぐに出て行っちゃうし」
「それは舞台のお仕事があるからじゃない?」
「私に抱きついてくる回数が明らかに減ったし」
「普通の友達はそんなに抱きついたりくっついたりしないんだよ?」
「私が着替えている時に覗かなくなったし」
「うん。ちょっと結愛ちゃん予想以上に気持ち悪いね」
「とにかく最近、結愛ちゃんの様子がおかしいの!」
「正常な関係に戻っている、の間違いでは?」
雪は思った。ツッコミが追いつかねぇ。
「えーと、つまり?」
「最近、結愛ちゃんの様子がおかしいの」
「うん、それはさっき聞いた」
「きっと何かあったのよ」
「何かって?」
「それがわからないから聞いているの。雪ちゃん、何か聞いてない?」
「うーん……私はいつも通りだと思うけどなぁ」
と、何の身にもならない会話をしている景と雪に、後ろから黒山が爆弾を落とした。
「男でもできたんじゃないか?」
ぶふぅ、と。景の口からオレンジジュースが噴出して雪の顔面に直撃する。
「げほっ……ごほっ……お、男っ!?」
「ちょ……墨字さん! タオル! タオル取って!」
ニヤニヤと胡散臭い笑みを浮かべる黒山は、雪のヘルプコールを無視して、動揺を隠せない景に追撃を仕掛ける。
「最近は舞台の仕事でいろいろな人間と関わる機会も増えたしな。配信少女は、外面の性格もルックスもいいし、言い寄られても不思議じゃないだろ」
「はあ!? なに言ってるのこのひげ? 結愛ちゃんに限ってそんなことあるわけないでしょう!? 絶対にありえないわ!」
「まあ、たしかに。ゆあちゃん、けいちゃんにぞっこんだもんねぇ。墨字さん、あんまりからかっちゃダメですよ」
「おい。俺のシャツで顔ふくな。柊」
黒山のTシャツで遠慮なくオレンジジュースを拭きとった雪は「うわ、親父くさ」と、的確に成人男性のウィークポイントを突く呟きを添えつつ、言葉を続けた。
「でも、たしかに最近がんばってますよね、ゆあちゃん。なんか、一皮剥けた感じっていうか。役者としてももちろんですけど、配信の方もこの前SNSでバズってたし」
「ああ。あのクマ食べる動画な」
雪が話題に出したのは、結愛が先日、山登り配信のあとに投稿した『お腹空いたのでワイルドにクマ食べます』という動画だ。現地のマタギに仕留めてもらった熊をその場で調理して食べる、というぶっとんだ内容がたちまち話題を呼び、かなり再生数を伸ばしていたのが、記憶に新しい。
「くくっ……あのジジイが絶句してる姿を見れたのは収穫だったな」
「ジジイ?」
「あー、こっちの話だ。気にすんな。とにかく、夜凪。お前もこんなところでそんなくだらないこと悩んでる暇あったら、なんか他の有意義なことに時間使え」
「だったらさっさとお仕事寄越しなさいよ、ひげ」
「……ん、そうだな。ちょうどいいか」
そこで何かを思い出したように、黒山が懐に手をやる。
無造作に突き出されたのは、二枚分の舞台チケットだった。
「これって……舞台のチケット?」
「ああ。勉強代わりに観てくるといい」
「あー、明神阿良也の舞台! 景ちゃんいいな~!」
「明神阿良也?」
「今、一番売れている若手俳優の舞台だ。配信少女を誘って観てこいよ。最近、二人で出かけてないだろ?」
たしかに。思い返してみれば、景はデスアイランドの撮影、結愛は舞台の仕事、とここ最近はお互いに忙しく、ゆっくりとどこかに出かける機会もなかった。このひげにしては、珍しく気の利いた提案だ。
「わかったわ。じゃあ……」
「なになに~? わたしの噂でもしてた~?」
「結愛ちゃん!」
事務所の扉を勢い良く開け、スキップしながら上機嫌で入ってきたのは、まさしく話題の張本人だった結愛だ。スポーティーなピンクのジャージ姿から見るに、また仕事の舞台帰りらしい。
「結愛ちゃん!」
「なになに~、どしたの景ちゃん?」
「次のお休み、えっと、その……一緒に舞台を観に行かない?」
「舞台? 景ちゃんと一緒に? もちろん行くよ! いついつ?」
きらきらと目を輝かせ、まるで猛禽類のように食いついてきた結愛の姿を見て、雪と黒山は顔を見合わせた。どこからどう見ても、いつも通りの万宵結愛である。夜凪景が大好きな、いつもの万宵結愛だ。
「あ」
だが、鼻歌を口ずさみながらスケジュール帳を開いた結愛は、何かに気がついたように片手で頭を抱えた。
「ごめん……景ちゃん。わたし、その日行けないや。先約があるんだ」
「え」
結愛に誘いを断られる。
その事実に、景は完全に固まった。
★☆★☆
「ああ、なるほど。だからせっかく舞台を観にきたのに、そんなに落ち込んでいたんだね」
観劇当日。
事の経緯を聞いた星アキラは、ようやく納得できた、といった様子で苦笑いを浮かべた。
「ええ……結愛ちゃんに断られたから、せめて千世子ちゃんを誘って一緒に楽しもうと思っていたのに……」
「あはは……それはなんというか、本当に申し訳ない。千世子くんも急に仕事が入ってしまったんだ。許してほしい」
景は変装用のメガネと帽子を身につけているアキラを見て、頬を膨らませた。
結愛に演劇(デート)の誘いを断られ、せめて慰めてもらおうと千世子を誘った結果がこれである。急に仕事が入ってしまい、来れなくなった千世子の代役として来てくれたのが、アキラだった。
「そうよね。千世子ちゃんだって仕事で忙しいものね……仕方ないわよね……ありがとう。結愛ちゃんも千世子ちゃんも来てくれなかったけど、せめてアキラくんが来てくれて私とても嬉しいわ」
あの星アキラが目の前にいるにも関わらず、ため息を吐いてしょんぼりする女子は、かなり希少である。
「君、実は芝居ヘタなんじゃないか……?」
芝居が絡まない時の夜凪景は基本的に変人ポンコツ女なので、仕方なかった。
とはいえ、いつまでもくよくよしていてもはじまらない。気持ちを切り替えて劇場の中に入ると、景はその席数の多さに驚いた。
「大きい……それに、広い」
「そうだね。客席の数は三千を超える。とても大きな舞台だ」
「演劇って、お客さんの前で直接演じるのよね……本番中に吐きそうになったらどうするのかしら?」
「いや、そんな心配するのは君くらいだと思うけど」
役の感情に入り込んでしまう景特有の懸念にまた苦笑しつつ、しかしアキラは鋭い目線で舞台を見た。
「でもたしかに、舞台は勉強になるよ。夜凪君の言う通りお客さんの目の前で、カメラもマイクもない中、自分の身体一つで演じ続ける。失敗だって許されない。誤魔化しの利かない役者同士の体当たり。それが舞台だからね」
映画やドラマといった映像媒体とはまた違う、芝居の世界。それが舞台だ。
「僕も学ぶべきなんだろう。さて、そろそろはじまると思うんだけど……」
アキラは腕時計を見た。開演予定時間から数分過ぎているが、アナウンスがない。客席も、少しざわつきはじめていた。
「おい、みたか?」
「みたみた。事故だってよ。かわいそうに……どうするんだろうな」
「……? すいません、何かあったんですか」
後ろの席に座る男性二人に、アキラが声をかける。すると、片方の男性客が、慌てた様子でスマホの画面を見せた。
「それが……女性の出演者の一人が、事故にあったそうなんですよ」
「え?」
「だから多分、代役をどう立てるか、揉めてるんじゃないですかね?」
「普通の舞台ならいざ知らず、明神阿良也の舞台だからなぁ……生半可な役者を立てちまったら、食われて終わりだろうし」
舞台通らしいもう一人の男性が、腕を組んで唸る。景は隣に座るアキラを不安げに見た。
「お芝居、観れないのかしら……?」
「うぅん……」
どう返すべきか、言い淀んだアキラがなんとか言葉を紡ごうとしたその時。会場の照明がふっと落ちた。
『大変お待たせ致しました。これより、開演致します。会場内のお客様は──』
「ああ、よかった。はじまるみたいだよ」
だが、先ほどの情報がさざ波のように観客の中に伝わっているのだろう。照明が落ちても客席はまだどこか浮足立っていて、引き上げられた幕に意識が向いていないようだった。
しかし、
「その羆に親父が喰われたのは、俺が十五になった夜のことだった」
芝居に関係のない、余計な意識が。望む芝居を観ることができないのではないか、というその懸念が。
彼が発したその台詞によって、一分の隙なく塗り替えられる。
「親父はマタギだった」
景は、その役者に自分の視線が釘付けになっていることを自覚した。
景が座る席は、決して彼に近いわけではない。黒山が苦心して用意してくれたのであろう席は、むしろ舞台からかなりの距離がある。
だけど、けれど。
その距離を感じさせない、この近さは、何なのだろう?
「逃げろ!」
ただ一言。
彼が発した怒声が、客席の全てを鋭く貫く。
「腸を溢した父親が、俺に叫んだ!」
彼の一挙手一投足に、目を奪われる。
「親父を背にして俺は逃げた!」
幕が上がってから、まだ一分も経っていない。
「……後悔はない。俺が生きのびることが、親父の望みだったから」
ただ、純粋な演技力だけで、別の方向に向いていた観客の意識を完璧にねじ伏せた。
たった一人。
ただ一瞬で。
この舞台の主役は自分であることを。
自分を観ろ、と突きつけた。
「恨みはない。ただ今夜、奴を殺して喰うのはこの俺だ」
──刮目せよ。
これが、演劇界の怪物。
憑依型カメレオン俳優、明神阿良也。
「すごい……」
知りたい、と景は思った。
あの人のことを、あの人がどうしてあんな演技をするのかを。
景も含めて、全ての観客の意識が、明神阿良也に集約される。
そこに、
「兄さん。またあの山に入るの?」
割り込む声が、響いた。
いや、割り込んだわけではない。
極めて自然に、観客の意識が阿良也に向いていることを理解したまま、その合間に滑り込んだ。
「え……?」
力強い阿良也とは対照的に、その発声は嫋やかで美しく、儚い。だというのに、声音には確かな芯があり、景の耳にもしっかりと届いた。
質素な着物に、乱雑にまとめた髪。けれど、阿良也を見詰めるその横顔には華がある。
何故なら景は、その横顔をずっと間近で見てきたからだ。
「結愛ちゃん……?」
ずっと彼女に見られてきた夜凪景は、この日、はじめて。
万宵結愛を、