巌裕次郎の朝は、それなりに早い。
おおよそ、6時ちょうどには起床し、朝食を摂る。とはいえ、独り身の寂しい家だ。大したものは作らない。精々、目玉焼きを焼いて葉物野菜をサラダ代わりにちぎる程度である。洗面所で顔だけ洗って、台所に向かう。
「あ! おはよう! 巌のおじいちゃん!」
「……」
なんか、エプロン姿の推しがいた。
巌はもう一度洗面所に戻り、念入りに顔を洗った。それはもうめちゃくちゃ念入りに顔を洗った。
「おはよう! 巌のおじいちゃん!」
「……」
巌はさらにもう一度洗面所に戻り、重ねて念入りに顔を洗った。もう巌の顔面はぴかぴかのつやつやである。洗うところが残されていないレベルだ。今度こそ、と三度台所に向かう。
「はぁ……おはよう、巌のおじいちゃん」
「……」
「いや戻らないで。座って。夢じゃないから。わたしに何回おはよう言わせれば気が済むの?」
まだ自分は寝惚けているのだろうか、と巌は思った。
白いセーラー服に、紺色のエプロンを身に着けて。茶色のポニーテールを揺らしながら、台所で料理の味見をしている美少女がいた。
どこからどう見ても、万宵結愛である。巌裕次郎の推しである。巌は、医者に注意されても一度も気にしたことがなかった血圧を気にしながら、深く大きく深呼吸した。
「いやぁ、やっぱりおじいちゃんは早起きだねぇ。あ、食材とかウチから適当に持ち込んだから、冷蔵庫使わせてもらってるよ。そうそう! これから生活を共にしていくわけだし、先に聞いておきたいんだけど、お味噌汁は赤と白どっち派?」
「……赤だな」
「あー、そっか〜! 赤かぁ。ごめんおじいちゃん、申し訳ないけど、今日はわたしの趣味ってことで、白で我慢してね。でもちょっと意外かも。なんかお年寄りって濃い味より薄味が好きなイメージがあったから」
「メシの味付けは濃い方がうめぇだろ。あと、俺を年寄り扱いするな」
「はーい」
結愛の口は相変わらずよく回っているが、それに負けないくらい手もテキパキと動いている。焼き魚をメインに味噌汁と副菜が添えられた朝食が、すぐに完成した。
「はーい、いただきます!」
「いただきます」
いただきます。独りで食事を摂っていると、昔は当たり前に言っていたはずのその言葉も、自然と言わなくなってしまっていた。誰かが対面に座っていることに奇妙な違和感を覚えながら、巌はまず最初に味噌汁を口に運んだ。
「……うまいな」
「ほんと? よかった」
「心なしか、空気もうめぇ」
「うん。換気扇つけるね」
結愛はドン引きしながら換気扇のスイッチを素早く入れた。
「それにしても、料理が上手いのは、夜凪の方だと思っていた」
当然のことだが、巌は結愛の配信にはすべて目を通しているので、K子ちゃん、もとい景ちゃんがとても料理上手で、その料理をいつも結愛が楽しみにしているのを知っている。
「いやぁ、さすがに景ちゃんほどうまくはないけどね。でも、昔から隣に立ってお手伝いしてきたわけだから、それなりのものは作れますよ」
「なるほど」
「お夕飯は何がいい?」
「ハンバーガー」
「もっとお年寄りっぽいメニューにしてくれない?」
「俺を年寄り扱いするな」
箸を進めながら、その合間に会話もポンポンと進んで行く。
「食べながらで悪いんだけど、これからの予定を確認していい?」
「ああ」
「まず昼間は学校に行くし、景ちゃんとあんまり離れてるとわたしが保たなくて死んじゃうから、景ちゃん家とおじいちゃん家と学校と稽古場をぐるぐる回る感じになると思うんだけど」
「わかった」
当然のことだが、巌は結愛の配信にはすべて目を通しているので、K子ちゃん、もとい景ちゃん成分が枯渇した結愛がどうなってしまうかはよく把握している。訓練されたファンは推しへの理解が深い。
「昨日も言ったと思うんだけど、基本はここで寝泊まりする感じにしたいから、配信もこっちでやっちゃいたいんだよね。あんまりスケジュール崩したくないし」
「当たり前だ。配信は俺の楽しみだぞ」
「なんでえらそうなの? ていうか、本人が目の前にいるんですけど?」
「それとこれとは話がべつだ」
べつである。べつと言ったら、べつなのである。
まあいいや、と結愛はさらに引き気味な笑顔を浮かべながら、続けて提案した。
「だからまぁ、どっか空いてる部屋借りて、なるべくうるさくしないようにするからさ。おじいちゃんがわからないゲームの配信とかもやるけど、気にしないでね」
「なに言ってんだ。俺もゲームくらいやるぞ。何度も言わせんな。年寄り扱いするんじゃねぇ」
「あー、はいはいすごいすごい。で、なにやるの?」
巌は無言で立ち上がり、居間に入って戻ってきた。
その手には、少し前まで結愛が頻繁に遊んでいた2D格闘ゲームのアーケードコントローラーが握られている。プロ仕様の一番高いものである。
「……っ!?」
どこに出しても恥ずかしくない美少女が、味噌汁を吹き出した。
ああ、この表情はレアだな、と。巌裕次郎は思った。
「ごほっげほっ」
「大丈夫かユアユア? ティッシュだ。布巾はこっちにある。ウェットティッシュも使うか?」
「あ、ありがとう」
幸い、エプロンをつけたままだったので、セーラー服は汚れずに済んだ。
「あ、あのさ。おじいちゃん」
「なんだ?」
上目遣いに、結愛が問う。
「……配信、一緒にやる?」
「やる」
即答だった。
△▼△▼
スターズ所属の俳優、堂上竜吾はそこそこ売れっ子である。
アキラのような子役時代からの叩き上げの役者とは異なり、竜吾はティーンオーディションを経て芸能界入りした、いわば正統派の男性俳優だ。事務所の顔である千世子やアキラと肩を並べて、映画デスアイランドにも出演し、知名度は上々。これから売れていくスターズ俳優のお手本のようなコースを歩んでいる、と言える。
そんなそこそこ売れっ子の堂上竜吾は、非常に浮かれていた。今日の仕事は、そこまで大きなものではない。地上波のバラエティ番組の出演でも、ドラマのレギュラー収録でもない。だが、竜吾にとって、今日の仕事はこれまでで最も待ち望んだものだと言えた。
「……待ってろよ、ユアユア!」
そう。今日の竜吾の仕事は、あの万宵結愛とのコラボ配信である。
実は、竜吾はスターズでデビューした頃に動画サイトにチャンネルを開設しており、それなりの登録者がいる。具体的には大体10万人ちょい。売れっ子のスターズ俳優であることを考えると少ないくらいだが、竜吾本人が動画編集をめんどくさがって更新をサボっていたので仕方ない。今回の仕事のことを同僚の和歌月に話したら「え、竜吾さんってチャンネル持ってたんですか。へー、知らなかったです。あ、興味もないです」とか言われた。正直、竜吾はちょっと泣きそうになった。
だが、今回はそんなほぼ死んでいたチャンネルが仕事に繋がった。なんでも、結愛側のプロデューサーが、千世子以外のスターズとのタレントともコラボを、ということで打診してきたらしく、それならトーク力があり若年層を中心に知名度がある竜吾に、と白羽の矢が立ったらしい。あの天知とかいうプロデューサー、めちゃくちゃ良いヤツだな、と竜吾は深く感謝した。
「あの男と仕事をするのは非常に癪だけれど、今や万宵結愛の知名度は無視できないものになりつつあるわ。良い機会だから彼女を通して、配信関連のノウハウを学んで吸収してきなさい。ただし、はしゃぎすぎないように」
とアリサから言い含められている。
だが、そんなことはどうでもいい。死ぬほどどうでもいい。竜吾にとってなによりも重要だったのは、あのユアユアと一緒に仕事ができるということ。ただその一点である。竜吾はただの万宵結愛のファンだった。
今日のコラボ配信の内容は、有名タイトルの格闘ゲームのオンライン対戦。何事にもハマりやすくすぐに飽きる趣味の範囲が広く浅い竜吾は、以前からこのゲームに触っており、それなりに強い方だった。具体的にはスターズ組でオフの日に遊んだ時に千世子を一方的にボコボコにして、舌打ちされた程度には強い。
『はーい、そんなわけで、今日はなんとスターズから特別ゲストをお呼びしています! 堂上竜吾さんです!』
ついに、出番が来た。
モニターの準備、よし。コントローラーの準備、よし。
大きく深呼吸をしてから、竜吾はカメラを入れて、マイクを口元に寄せた。
「ど、どうもー! みなさんこんばんは、堂上竜吾です!」
『竜吾くんだ!』『スターズゲストシリーズ第二弾』『誰だ』『誰……?』『誰なの!?』『こわいよぉ!?』『いや竜吾くんはわかるやろ』『おれはアキラくんがよかった』『ホモ乙』『竜吾くんトークおもろいから好きよ』
ずらずらとコメントが流れていく。
めちゃくちゃ緊張しているのが、自分でもわかる。しかし、ここでヘマをするわけにはいかない。
『竜吾さんは、公開予定の映画デスアイランドで、千世子ちゃんや景ちゃんとも共演されています! わたしがデスアイランドの取材に行った時も、撮影を案内してくれた、役者の先輩さんなんだよ〜!』
「いやぁ、はっはっは! それほどでもあります!」
『わたしの配信も観てくれてるんですよね?』
「もちろん観てるぜ!」
おっと、オタクが出そうになった。
竜吾はあわてて声のトーンを抑えた。
『仲間か』『竜吾くんへの、好感度が、上がった!』『ユアユアのファンがスターズにもいてくれて鼻が高いよ』
『今日はなんと、竜吾さんが格闘ゲームで対戦してくれまーす!』
「ふっ……俺は強いぞ! 勝負だ! ユアユア!」
『うん! 受けて立つよ……と、言いたいところなのですが』
「ん?」
『実は今日、もう1人飛び入りゲストが来ておりまして、わたしの隣でスタンバってくれています! まず、竜吾さんにはその人と対戦してもらいたいと思います!』
「え?」
打ち合わせにはなかった内容である。竜吾は戸惑った。そして、戸惑いとはまた違う感情が心の内から湧いてくるのを感じた。
──ユアユアの、隣に?
おれはここ数日の特訓で積み上がったエナジードリンクの積まれた寂しい部屋の中で、孤独にコントローラーを握りしめているのに、そいつはユアユアの隣に!?
ビギィ、と。竜吾は自分の額に青筋が浮かぶのを自覚した。だが、堂上竜吾は腐っても役者である。
「……受けて立つぜ」
怒りは胸の内に秘めて、勝つための糧にすればいい。
『ROUND1・FIGHT!』
戦いのゴングが鳴る。
竜吾のコントローラーが、指先の凄まじい動きと共に唸る。そこから先の勝負は、あまりにも一方的だった。
「なん……だと」
『ボコボコで草』『え、強くね?』『これは相手が悪い』『ていうか、このプレイヤーネーム、前もいなかった?』
もはや、コメント欄の文字など目に入らない。コントローラーを握り締めて、竜吾は呟いた。
「くそっ……こんなはずじゃ……!」
『まだまだだな、若僧』
予想より遥かにしわがれた声に、竜吾は一瞬喉を詰まらせた。しかし、すぐに持ち前の負けん気を取り戻して、声を張り上げる。
「若僧、だとぉ……てめぇ、何者だこのジジイ! 名乗りやがれ!」
ぴっ、と。モニターの小窓が開いて、対戦相手の顔が映る。
ひゅ、と。竜吾の呼吸が比喩抜きに止まった。
『おう。名乗るのが遅れて悪かったな。巌裕次郎だ』
『はーい! そんなわけで、本日の特別ゲスト、ナンバーツー! 演出家の巌裕次郎さんです!』
『?』『?』『!?』『は!?』『ワロタ』『おじいちゃん!?』『誰だこのジジイ』『なにやってんですか巌さん……』『バカ、お前!』『演劇界の重鎮だぞ!』『日本を代表する演出家だぞ!』『有名なん?』『いやぁ、詳しくなきゃ知らないでしょ』『でもお前、大御所だぞ』『昔この人の舞台観たけどめっちゃ良かったよ』『竜吾くんこの顔晒されてかわいそう』『巌さんなにやってんの!?』『クソワロタ』『とんでもないゲストでワロタ』『あのさぁ……ほんとになにやってんの?』『普通にお茶吹いた』『コーヒーこぼした』『俺も出たかった!』『まじ?』『演劇業界には詳しくない。誰かいい感じに例えてくれ』『RX78のパイロットがテム・レイだった』『ポケモンの対戦してたら相手がオーキド博士だった』『ふざけんな』『バカッ!!』『とんでもない神回で草』
△▼△▼
星アリサは疑問だった。
アリサは、かつて巌裕次郎の舞台に出演した経験がある。だから、彼がどれだけ芝居を愛し、芝居に狂っているかもよく知っている。
夜凪景の起用は、理解できる。あの黒山が目をつけた役者だ。千世子も、デスアイランドの共演では、彼女の演技にいろいろと思うところがあったようだった。良い影響を受けたらしい。
だが、万宵結愛と星アキラ。この2人を起用した理由がわからない。後者のアキラに関しては、こちらがねじ込んだから、と言ってしまえばそれまでだが、少なくともアキラは劇団天球の芝居についていけるレベルの役者ではない。
万宵結愛に関してもそうだ。動画配信者を舞台にあげるなんて、昔の巌裕次郎なら絶対に有り得なかった。
──なにを考えているの……巌裕次郎。
「アリサさーん」
思考を遮ってアリサを現実に引き戻したのは、無遠慮で楽しげな声だった。
「千世子。入るのなら、ノックくらいしなさい」
「ごめんごめん。でも、これ早くみてほしくて」
千世子が差し出したのは、タブレット端末である。そういえば、今日は竜吾と彼女のコラボ配信だったか。アリサは、画面を覗き込んだ。
『すぐに近づくからテメェはダメなんだ。勢いがあるのは悪いことじゃねぇが、敵の間合いを把握しろ。考えて指を動かして、技を出せ。そもそも、そのキャラの特性は……』
『うす! 勉強になります! 師匠!』
『じゃあもう一戦いくぞ』
『ふっふふ……次はわたしがお相手するよ、竜吾さん!』
『負けねぇぞユアユア。巌師匠の教えを受けた俺は最強なんだ!』
『ああ。ユアユア、ボコボコにしてやれ』
『師匠ぉ!?』
自分の会社のタレントが、日本を代表する演出家を師匠と呼びながら、格闘ゲームに興じていた。
『巌師匠、アドバイスがわかりやすくて草』『最強なんだ!(集中線)』『竜吾くん流れるように弟子入りしててウケる』『指導(格ゲー)』『これは学びになりますね……』『芝居学べバカ』『動きもガチだったけど指導もガチだよこれ』『巌裕次郎に学ぶ!投げ技の対策!』『芝居しろバカ』『師弟関係が築かれたと聞いて』『イケメンとジジイの間に挟まるユアユア』『孫と一緒にゲームしてるおじいちゃんだ』『正直いいか? この絵面めちゃくちゃ微笑ましい』『わかる』『わかる』『わかる』『巌裕次郎がこんなに格ゲー強いとか普通思わねぇよ』『この李白の目を以てしても……』『節穴定期』『ユアユア、押されてて草』『巌師匠の指導が早速効果を!?』『マジで教えるの上手くて草』『これが指導者の資質』
コメントが、早すぎて追いきれなかった。
「おもしろいね」
星アリサは固まった。
──本当になにを考えているの……巌裕次郎。
コメント欄には知ってる人が何人か紛れているらしい