それは、ずっとずっと考えないようにしてきたことだった。
けれど阿良也くんは、何の躊躇いもなくそれを口にする。
「ルイくんとレイちゃん、だっけ? あの子たちのこと、疎ましく思ったことはない?」
お母さんがいなくなって、あの男がいなくなって、夜凪家の生活は大きく変わった。
客観的に言えば、母親が病気で死に、父親は家から消え、あとに残されたのはまだ小さい双子を抱えた長女。急変した家庭環境は、簡単に言ってしまえば誰がどう見ても同情してしまうような、わかりやすい不幸な家族の完成形だった。
否が応でも、周囲の注目を集めた。
──お母さんが亡くなったって。
──まあ、かわいそうに。
──お父様は何をしているのかしら?
──夜凪さん家って小説家でしょう?
──なんでも、家に帰ってないみたいよ。
同情よりも興味と好奇心の色の方が強い視線に嫌悪感を覚えたのは、きっと景ちゃんよりもわたしの方だった。景ちゃんは以前よりも画面の中の世界にのめり込むようになっていって、わたしはその隣にいることはできても、景ちゃんと同じように映画の世界に逃避することはできなかった。
あるいは、隣にいる景ちゃんの横顔さえ見ることができれば、それでよかったのかもしれない。
あの男のことはたしかに許せなかったけれど、あの男をどうにかしてやる力は、まだ子どもだったわたしにはなかったから。だから、わたしは景ちゃんの一番近くで、景ちゃんを支えることに全力を尽くすことにした。
「……ルイとレイは、2人とも良い子よ。結愛ちゃん以外の人を、家に呼ぶのはひさしぶりだったから、もし阿良也くんに失礼なことを言ったなら」
「いや、そういうことじゃないんだ」
景ちゃんの返答を阿良也くんが否定する。きれいな瞳が、目に見えて泳ぐ。呼吸のテンポが、わかりやすく乱れる。
「夜凪はずっと、3人暮らしだろ? だってこの家、夜凪たちとちびっこと、結愛の臭いしかしない」
君の臭いが染み付いているのは、逆にすごいね、なんて。阿良也さんは無遠慮に笑う。
そう。誰もが夜凪家を遠巻きに見守る中で、わたしはこの家に無遠慮に入り込んだ。かわいそうに、と見られる景ちゃんが我慢ならなかった。景ちゃんがかわいそうな目で見られると、その無遠慮な視線で景ちゃんの幸せが吸い取られてしまうように思えたから。だからわたしは、景ちゃんの隣でなるべく楽しく笑うことにした。
わたしの中で、最優先事項として常に頭の中にあったのは景ちゃんの幸せで。
「夜凪はさ。まだ10代なのに、2人のせいで大人になることを強いられたんじゃないの?」
──ごめんね、結愛ちゃん。今日はレイとルイのお迎えに行かなきゃいけないから。
──ルイね、最近また背が伸びたの。新しい洋服を買ってあげなくちゃ。
──聞いて結愛ちゃん。レイったら、この前お母さんみたいなこと言い始めてね。
景ちゃんの一番近くにいたのは、わたしだ。
景ちゃんの次に、レイちゃんとルイくんの成長を見守ってきたのもわたしだ。
レイちゃんは同じ年頃の女の子よりも、ちょっとだけしっかりものに育った。やわらかく笑ってルイくんを見守る様子には、すでにあの人の面影があった。
ルイくんは同じ年頃の男の子よりも、ちょっとだけ泣き虫に育った。純粋で感受性豊かに物語を楽しむその様子には、すでにあの男の面影があった。
血がつながっているのだから、当然だ。あの子達が、あの2人に似るのは当たり前だ。でもわたしは、景ちゃんがレイちゃんとルイくんの中に2人の面影を見る度に、せっかく忘れていた記憶と感情を掘り起こして、少しだけさびしい顔をしているのが、どうしてもやるせなくて。
──レイが大きくなったら、もっとお家のこと手伝って、お姉ちゃんに楽させてあげるんだ!
──ルイが大きくなったらね、お姉ちゃんにおいしいものいっぱい食べさせてあげるんだ!
わたしにだけ、こっそりと。2人はそんなことを教えてくれて。
ああ、景ちゃんは愛されているな、って。うれしくなると同時に、少しだけこわくなった。
もしもこのまま、2人が大きくなって、あの2人にもっともっと似てきたら、その時、わたしは何も変わらずに景ちゃんの隣にいることができるだろうか?
その時、わたしの居場所は、まだこの家にあるだろうか?
「自分の感情に正直であることは、役者の条件だ。よく思い出してよ」
阿良也さんが開けようとしているそれは、
「
わたしが景ちゃんの隣でずっとずっと考えないようにしてきたことだった。
「万宵くん!?」
気がつけば、手が出ていた。胸ぐらを掴んで、押し倒していた。
頭の芯は自分でもおそろしいほど熱っぽい感覚があるのに、指先はかじかんだように冷たかった。
「……ああ、そうか。この家から、結愛の臭いもするってことはそれだけ、ずっと夜凪と一緒にいたってことか」
「阿良也くん……やめてよ」
「やめないよ。俺は夜凪と話しているんだ。どいてくれないかな?」
「どかないよ。わたしが、景ちゃんを傷つける発言を許すと思う?」
「夜凪を傷つける発言?」
押し倒しているのはわたしの方であるはずなのに、会話の主導権はどこまでも組み敷いた男の方に握られていた。
「おかしなことを言うね。傷つきたくないのは、君のほうだろ」
息が詰まる。
深い色の瞳に、何もかも、すべてを見透かされているような、そんな感覚。
「まあでも……それでもいい。じゃあ、説明してよ、結愛。自分が、なんで怒ってるのか。人間って、意外に自分の気持ちすら、自分で分かってなかったりするだろ?」
ああ、逆だ。
わたしの心は、今、怒りに満ちていて。
「自分の気持ちが分からない役者は、他人の気持ちも分からない。そういう役者は……『嘘吐き』は臭わない」
そのどろどろとした感情の赴くままに、彼を抑えつけようとしているけれど。
「本当に、一緒に夜を過ごしてよかったよ、結愛。今の君からは、とても良い匂いがする。『正直者』だ」
この男は。
わたしの感情のすべてを、舐め取ろうとしている。
「……あったかもしれない」
爆発しそうなわたしの感情に、蓋をしたのは。
阿良也くんの視線でも、腰を上げかけたアキラくんでもなく。
脱力したまま座り込んだ、景ちゃんの声だった。
「『どうして私だけ』って。そう思っていたことが、あったかもしれない。お母さんが死んで、悲しくなって、でも……映画を観ていれば、楽しい気持ちが思い出せるかも、って。レイやルイに、たくさん笑ってあげられるって思ったの」
景ちゃんの瞳が、わたしに向いた。
「結愛ちゃんもきっと、傷ついていたから。
あまりにもあっさりと、景ちゃんはそれを口にした。
「……え」
すっ、と。頭の中が真っ白になった。
ずっとずっと、わたしは景ちゃんを助けているつもりでいた。
辛い思いをしている景ちゃんを、映画の世界に夢中になっている景ちゃんを、わたしが助けてあげなくちゃ、守ってあげなくちゃ、と。隣で横顔を見詰めながらそう思っていた。
「映画の世界の人たちは、笑ってる人も泣いてる人たちもいて……画面の中の役者さんを見ていると、私も幸せな気持ちになったわ。いっそ、映画の世界に入り込めればいいのに……って。そうしたら、全部全部、忘れられるのにって」
実際は、それだけじゃなくて。
わたしが、景ちゃんのことを気遣っていたように。
景ちゃんも、わたしのことを気遣ってくれていて。
「でも、私にはレイがいてルイがいて、結愛ちゃんがいてくれた」
わたしみたいに特別な力がなくても、景ちゃんはきっと気がついていた。わたしがあの父親に向けていた、特別な感情を、その深さを。
「だから……ッ」
だから、わたしが助けて、わたしが守ってあげているつもりだった景ちゃんは、本当は……。
「そうか。ジョバンニは母親に救われていたのか」
ポツリ、と阿良也くんが言葉を溢した。
言葉だけではない、涙を流した。
それだけで、どうしようもなく理解してしまう。
「ジョバンニが病気がちの母親をどう感じていたのか、ずっと掴めずにいたんだ。でも、分かった」
今、この瞬間。
明神阿良也はわたしの目の前で、わたしの大切な人を喰ったのだ、と。
「ありがとう、夜凪。これで俺は、ようやく少し、ジョバンニに近づける」
あれだけ引っ掻き回しておいて、最後は随分あっさりしていた。
そうやって、阿良也くんは食べたいものだけ食べて、言いたいことだけ言って、帰っていった。
残されたわたしたちの空気は、ちょっと気まずかった。
景ちゃんは、遠慮がちにわたしに目を向けて、小さく声を発する。
「ありがとう、結愛ちゃん。私のために、怒ってくれて」
「……ううん」
違う。違うんだよ、景ちゃん。
そんな、きれいな自己犠牲なんかじゃない。
わたしはただ、わたしのために怒っただけなんだよ、と。
「ごめん、景ちゃん。もう寝るね」
そう伝えることは、なぜかできなかった。
★★★★
昔の夢だ。
「景ちゃんのお父さんは、なんで小説を書こうと思ったの?」
我ながら子どもっぽい、バカな質問だったと思う。
──さて、なんでだろうね。
子どもっぽいバカな質問だったから、彼はその問いをはぐらかしたのか。
それとも、その問いが彼のパーソナルの根幹に触れる質問だったからはぐらかしたのか。
今となっては、どちらが正解だったのか確かめる術はないけれど、おそらく後者だと、わたしは思っている。
──結愛ちゃんは、世の中には正直者と嘘吐き、どっちの方が多いと思う?
嘘吐き、と。わたしは即答した。
だって、わたしには心が視えるから。誰が嘘を吐いているのか、その気持ちがどこに向けられているのか、すぐにわかってしまったから。
まだ小さかったわたしの周りには、既に掃いて腐るほどの嘘吐きが溢れていて。
景ちゃんと、景ちゃんのお父さんは、わたしに嘘を吐かない、数少ない正直者だった。でも、正直者であるはずの彼は「そうだね」と、わたしの即答を肯定したあと、唇に人差し指を当てて、耳元で囁いた。
──僕はね。もっともっと上手な、嘘吐きになりたいんだ。
どうして?
──小説家っていう生き物は、世界で一番、嘘が上手くなくちゃあいけないんだ。
じゃあ、おじさんが書いているお話は嘘なの?
わたしは、おじさんの書くお話が、大好きなのに!
そう言うと、彼ははじめて、困った表情になって、わたしの頭に手を置いた。
──だから結愛ちゃんには、僕と一緒に嘘吐きになってほしいんだ。
きみの生き方は役者のようであるべきだ、と。それは優しい口調だった。
正直にならなくていい。
噓吐きになればいい。
人に好かれるように、人に愛されるように。所作も口調も表情も。自然な笑顔も、悲しみに暮れる涙も。
すべてをコントロールして、人に愛されるように生きればいい。
★★★★
瞼を開けて、いやな汗をかいていることを自覚する。
「うあ……アイツの夢とか、最近見てなかったのに」
吐き捨てながら、本当に阿良也くんを恨みたくなってくる。
きちんと寝ていたはずなのに、なぜか全身が重く、気怠かった。なぜか、というか。間違いなく、夢の内容が最悪だったせいだけど。
隣では、まだ景ちゃんの寝息が聞こえる。せめてその寝顔を見て癒やされようと、わたしはごろんと寝返りを打った。
「おはよう、万宵さん」
「……?」
ちょん、と。
わたしの鼻先が、白くてきれいなおでこに、擦れて触れた。
「寝起きだと、声低いんだね。汗、かいてるけど大丈夫? いやな夢、見てたでしょう?」
紡がれた言葉と共に、吐息がわたしの頬をくすぐる。上目遣いの瞳の中の、その虹彩の色遣いまでもが、つぶさに観察できる。
天使が、いた。
並んで寝ている、わたしと景ちゃんの間に、割り込むように。百城千世子が、すぐ隣で寝ていた。
「…………?」
「うっぎゃぁぁああああ!?」
喉から絞り出したわたしの大絶叫が、夜凪家を根本から揺さぶった。
「ち、ちちち、千世子ちゃん!?」
「どうしたっ!? 大丈夫か、万宵君!?」
「入ってくんなァ! 星アキラぁ!」
「ぐぼぉ!?」
意味がわからなかったので、とりあえずイケメンの顔面に、まくらを投げつけた。
次回はデート回です