巌のおじいちゃんと生活を共にし始めてから一週間と少し。
「ユアユア、今日のご飯はなんだ?」
「同居を申し込んだのはわたしからだから何も言えないんだけど、ちょっと順応が早すぎると思うよおじいちゃん」
わたしはすっかりこのジジイの胃袋を掴んでしまった。
このおじいちゃん、テンプレ頑固ジジイみたいな厳つい見た目に反して、好物はハンバーガーとかなので、完全な子ども舌なんだよね。今もわたしは、せっせとハンバーグのタネをコネコネしている。
「ハンバーグか。悪くねえな」
「悪くねえな、じゃないよ。出されたものは文句言わずにちゃんと食べてね」
「俺がユアユアの作ったものに文句をつけるとでも?」
「ごめん。わたしが悪かったよ」
だめだ。このジジイ、レスバが強すぎる。わたしも大概口論には強いつもりだけど、ちょっと勝てる気がしない。いろいろな意味で。
正直、わたしは自分に向けられる好意に慣れているし、そういう感情をなるべく多く受け取れるように生きてきた自覚もある。けれど、とはいえ……ここまではっきりと好意を示されると、困惑する気持ちもあるわけで。
なによりも、巌のおじいちゃんからわたしに向けられる感情の色は、配信中にわたしがファンから向けられる熱烈な感情の色とは微妙に異なっていた。
「巌のおじいちゃんはさ。なんでそんなに、わたしのこと好きなの?」
「あ?」
我ながらふざけた質問である。自意識過剰も良いところだ。しかし、どうしても気になるところでもあった。
人の感情を可視化できるわたしには、一つの譲れない結論がある。
好意とは、無償の感情ではない。
好いた相手には、自分を好いてほしい。これは、人間として当然の欲求だ。例えばわたしは景ちゃんのことが大好きだし、景ちゃんにもわたしのことを好きであってほしいと思う。人からの好意はプラスの感情であるのと同時に、そういう承認欲求を内包した、どろりとした生々しい部分も、間違いなくあるのだ。伊達に長い間、配信者をやって好奇の目に晒されてきたわけではない。
でも、なんというか、巌のおじいちゃんから向けられる好意は違うのだ。そういうのじゃないのだ。
巌のおじいちゃんからわたしに向けられる感情には、どう言えばいいのだろうか。一言で言ってしまえば、生々しい部分がない。見返りがないというか、無駄に湿っていないというか。対価を求めていないことがわかる、陽だまりのような温かさがある。
「人が人を好きになるのに、理由ってのは必ず必要なのか?」
だから、素知らぬ顔でこんな臭いセリフを吐けるのだろうか?
ご飯を食べたら、お風呂が基本である。
「巌のおじいちゃん。先にお風呂もらったよ」
「おう」
パジャマに着替えて、髪をドライヤーで乾かしながら、巌のおじいちゃんの横に座る。
テレビの画面で流れているのは、一本の古い映画だ。
とても有名な映画監督の、よく知られている代表作。ベルリン国際映画祭で特別賞も受賞した、世界的な評価を受けている作品。
たった三文字の簡素なタイトルとは裏腹に、物語は主人公の胃の中身を大映しにして「これは癌だけど。でも本人は全然そんなことに気がついていないぜ!」という皮肉めいた導入からはじまる。自分が膵臓癌のくせにこの映画を再生しはじめた時は、何の自虐ネタだろう?と思ったのだけれど、巌のおじいちゃんは病気に関係なく、元々この映画が好きだったらしい。
「不幸は人間に真理を教えるらしいぞ。どう思う? ユアユア」
「どうも何も、その通りなんじゃない?」
特に思うところもなかったので、そのまま答える。
すると画面を見詰めながら、演劇界の大御所は薄く笑った。
「映画を見ている時、ユアユアはいつもつまらなそうだな」
素知らぬ顔で図星を衝かれて、押し黙る。
「夜凪と一緒に、数は見ているだろう? あれは、根っからの映画好きだ」
「景ちゃんから直接聞いたの?」
「いいや。だが、演技を見ていりゃわかる。ビデオテープが擦り切れるまで映画を見てなきゃ、あんな演技はできない」
まあ、俺は演劇畑の人間だから特別映画に詳しいわけじゃないがな、と。
らしくない謙遜を話の接続に使って、巌のおじいちゃんは言葉を続けた。
「画面の中の作り物の感情を眺めているのはつまらないか?」
「そんなことは、ないけど」
「顔に書いてある。理解できないってな」
「……いじわるなこと言うね」
「ああ。俺は底意地の悪いクソジジイだからな」
底意地の悪いクソジジイをぐっと睨む。とはいえ、わたしが睨んだところで、この人は平気な顔で「ご褒美か?」とか言いそうだ。まったくもって敵わない。
「わたしね。景ちゃんと千世子ちゃんの演技を見た時、うらやましいなって思ったの」
劇団天球に来てから、わたしは本当にたくさんのものを得た。
七生さんからは、舞台上での演劇表現の基礎基本のすべてを。
阿良也くんからは、己の在り方を食べさせてもらって。
そして、千世子ちゃんに、迷いを振り切る手伝いをしてもらった。
「ねえ、巌のおじいちゃん。わたし、成長してるよね?」
「ああ。スポンジみたいにいろんなもんを吸収してるからな」
「でも、それでも、まだ足りないと思うんだ」
「向上心を忘れないのは良いことだ。それを落とした瞬間に、役者は死ぬ」
「良い風に言ってるけど、それ……巌のおじいちゃんから見て、わたしにはまだ役者としての能力が足りてないってことでしょ?」
「ああ。俺は厳しいからな」
前に進んでいる実感はある。ピースは揃いつつある。わたしは、わたしを演じる役を、もう少しで組み上げることができる。おそらく、今のわたしなら、景ちゃんと一緒に舞台に立つことだけはできるだろう。
でも、それだけではきっとダメなのだ。あの本物を、掴むことはできないのだ。
わたしがまた口を開く前に、今度は巌さんの方が先に言葉を投げてきた。
「なあ、ユアユア」
「なに?」
「心が視えるってのは退屈か?」
「……おもしろくは、ないかな」
「人の気持ちを覗き込んで、自分だけ好きな様に手玉に取るってのは、楽しいか?」
「巌のおじいちゃん、わたしにお説教してる?」
「俺の心は、そう視えるか?」
「……そういう返しは、ずるいなぁ」
言葉だけを切り取れば、たしかにお説教のような言葉だった。
でも、巌のおじいちゃんがわたしに向けている感情が、あんまりにも温いものだから、わたしはこれっぽっちも怒る気にはなれなかった。
「つまらねえだろう」
ぽつりと。
呟かれた一言が、どうしてかやけに重く、心の中に落ちた。
「心ってのは、見えないからおもしろいんだ。想像できるから、楽しいもんだ。それが見えちまったら、そりゃあ、人間のいろんなものがつまらなく視えちまうだろうさ」
「……もしかして、慰めてくれてる?」
「聞かなくてもわかるんじゃねえか?」
「重ねていじわるだね」
わたしには、好きな映画はない。
子どもの頃はあれほど夢中になっていた本も、いつからかただの配信のネタに変わってしまっていた。宮沢賢治の本をたくさん読み漁って、解釈の足しにはなっても、それが活きているという実感が、わたしの中にはまだ足りない。
物語という嘘の塊を、本物として愛することができないから。
だからわたしは、画面の中で描かれる作りモノの物語を、愛せなくなってしまったのだろうか?
「ねえ、おじいちゃん」
「なんだ」
「わたし、本物の嘘吐きになれるかな?」
デスアイランドで見た、景ちゃんと千世子ちゃんのように。
「それは、少し違うな」
返ってきたのは、静かな否定の言葉だった。
「嘘吐きだらけのこの世界で、嘘を吐かない覚悟をした者を役者という」
すらすらと紡がれた言葉は、やけに滑らかで。まるで一人の役者のようで。
なんとなく、昔も同じセリフを吐いたことがあるんだろうな、と。わたしは思った。
「それ、わたし以外の人にも言ったことがあるでしょう?」
「よくわかったな。昔、似たような悩みを持ってた馬鹿に、同じことを言った」
「そのおバカさんは、今は何してるの?」
「俺の舞台で、主演を張る役者になったよ」
阿良也くんのことを言っているのは、なんとなくわかった。
「ねえ、巌さん」
「なんだ?」
肩を寄せる。口元を、耳に近づける。
なんとなく、大きな声で言うのは恥ずかしかった。
「もし、わたしが巌さんの舞台に相応しい役者になれたら……」
「巌さん! 玄関開いてたから入っちゃったわ! 夜遅くにごめんなさい! でも、どうしてもセリフ回しで聞きたいところが、あって……」
バサリ、と。台本が落ちる音がした。
明るくウキウキとした景ちゃんの表情が、こちらを見て能面のように固まっていた。
「……景ちゃん?」
「ゆあちゃん?」
アイエエエエエエエ!?
ケイチャン!?
ケイチャンナンデ!!!?
「ゆあちゃん?」
落ち着け、わたし。
おーけー。状況を整理しよう。
今は夜である。わたしは夕ご飯にハンバーグを作っていたのだから、それは当然だ。
わたしはすでにお風呂を済ませてあるので、もちろんすでに制服は脱いでいて、いつでもこのまま寝ることができるパジャマ姿である。
そして、わたしは今、巌のじいちゃんにぐでーっとよっかかりながら、映画を鑑賞していた。
どのあたりがセーフだろうか? 基本的にはすべてアウトだと思う。くそったれ。
「ゆあちゃん?」
おだやかな巌のおじいちゃんとは正反対の、あまりにもどす黒い感情が襲いかかってきたので、わたしは考えるよりも先に景ちゃんに向かって土下座した。
体の反射が、脳の思考を上回った瞬間だった。
「なるほど。そういうことだったのね」
「はい。そういうことなんです」
パジャマ姿で正座したまま、わたしは景ちゃんに向かって全力で頷いた。人間って正座したままこんなにも力強く頷けるんだね。はじめて知ったよ。
「じゃあ、巌さんとゆあちゃんの間には何もないのね?」
「ないない。ほんとだよ。やましいこととか何もしてないよ?」
「ああ。俺はユアユアの純粋なファンだ」
ちょっと黙ってろよクソジジイ。
「そう。わかったわ」
「本当!? いやぁ、よかった! あ、景ちゃんもハンバーグ食べる? すぐに温められるよ!」
「うん。いただくわ」
それから、と。景ちゃんはセーラー服の上を脱いで言った。
「今日から私も、ここに住むから」
ホワッツ?
「え? 景ちゃん。今なんて?」
「今日から私もここに住むから。結愛ちゃん、着替え貸して」
「いやいや! いやいやいや! ダメに決まってるでしょ!? 現役JKとおじいちゃんが一つの屋根の下に暮らすなんて犯罪だよ!? 事案だよ?」
「は?」
景ちゃんの喉から、景ちゃんのものとは思えない、すっげー低い声が漏れた。
どん、と。景ちゃんは無表情のまま、わたしの頭をすり抜けて、壁に手を突いた。景ちゃんの方がわたしよりも背が高いので、当然の如く見下ろす形になる。
壁ドンである。ちょっとキュンときた。
「結愛ちゃん」
「は、はい」
「結愛ちゃんの職業はなに?」
「は、配信者?」
「その前に?」
「あ、女子高生です」
「うん。そうよね」
みなさんはご存知だろうか?
美人の無表情ほど、こわいものはない。淡々と言葉責めも添えられると、尚更である。
「結愛ちゃんも女子高生よね? JKよね? 結愛ちゃんがよくて、私がダメな理由はなに?」
「で、でも! わたしは景ちゃんが大切だし」
「私も結愛ちゃんが大切だわ」
ひん。即答された。結婚しよ。
いいや、そうじゃなくて。
「巌のおじいちゃん! なんとか言ってよ!」
「……」
「ちょっと!? おーい。おじいちゃん?」
「ああ。すまねえ。良い画だと思ってな」
「いい加減にしろよクソジジイ」
景ちゃんの壁ドンはタダじゃないし、見世物でもないんだよ。金取るぞ、おい。
「良いじゃねえか。夜凪、今日からはお前もここで寝泊まりしろ」
「ええ。もちろん。ありがとう、巌さん」
「ええ……やっぱりそうなるの……?」
「何か不満か?」
「いや、不満はないけどさ〜」
もちろん、四六時中景ちゃんと一緒に居られるのであれば、不満はない。ないはずなのだが、なんとなく不満めいた抗議をしてしまっている自分がいるようで、わたしは思わず首を傾げた。
まあ、いいか。
「わたしはそれでも構わないけど、巌のおじいちゃんは大丈夫なの? 住み込みで二人分の演技指導するってことでしょ?」
「ああ? そっちこそ何言ってやがる。一人見るのも二人も大して変わらねぇよ」
それにな、と。
演劇界の重鎮は、不敵な笑みを浮かべて言った。
「推しが、推しに狂っている姿を間近で見られるんだ。これはもう最高だろう」
「わたしが景ちゃんに狂ってるのは事実だから何も言えないんだけど、やっぱりちょっとおかしいよおじいちゃん」