景ちゃんの動揺は、あの日だけだった。
巌さんの余命に関する心のざわめきはやはり見て取れたけれど、傍から見れば何も変わらない、いつも通りの夜凪景に戻った。それは、景ちゃんに対して自分の余命を伝えた巌さんも同じく。
「まって結愛ちゃん。巌さんに勝てないわ……」
「うん。だってこのおじいちゃん強いもん。ちなみにわたしでも中々勝てないよ」
「え?」
「まだまだだな、夜凪」
『巌さん相変わらず格ゲー強くて草』『景ちゃんボッコボコやんけ』『まあ、景ちゃん元々そこまでゲームは上手くねぇしな』『それにしても巌さんが上手すぎるよ』『それはそう』『役者と演出家の姿か? これが……』『ゆあゆあが後ろで腕組んで見守ってるのクソおもろいな』『後方保護者面定期』
それこそ、いきなりぶった切った屋形船配信の後始末をお願いできる程度には、二人はいつも通りになった。
「巌さん! そんなにドバドバお醤油かけないで!」
「薄味だとうまくねえ」
「薄味じゃない! ちゃんと味付けてあるでしょ! 結愛ちゃんからもなんとか言って!」
「おいジジイ。景ちゃんのご飯だ。黙って味わって食え」
「わかった」
「なんで結愛ちゃんの言うことだけは素直に聞くの!?」
一緒にご飯を食べて、映画を見て、演技の話をして。
シンプルに同じことを積み重ねていく、三人での共同生活が続いた。
女子高生二人に、死にかけの演劇バカのジジイが一人。普通なら、ありえない組み合わせ。
でも、不思議と楽しかった。
「おじいちゃんってさ。家族とかはどうしてるの?」
「昔はいた。今はいねえ」
「ははぁん。出て行かれたんだ」
「なんでわかった?」
「そりゃあわかるよ。どうせ芝居にばっか現を抜かして、家族のことほったらかしにしてたんでしょ」
「……」
巌のじいちゃんにしてはめずらしく、言葉が返ってこない。
押し黙った横顔の皺が、いつもより深く見えた。
「ゆあゆあの言う通りだ。俺はろくでなしだからな」
「ろくでなしだねえ。家族よりも芝居を優先するなんて、本当にろくでなしだよ」
世界で一番きらいな男の顔を思い出しながら、わたしははっきりと告げた。
そうだ。大切な人よりも芸術を優先するなんて、本当に人間としてどうかしてる。
家族よりも小説を愛した、景ちゃんの父親のように。あるいは巌のおじいちゃんも、家族よりも芝居を愛してしまった、同じ種類のろくでなしなのかもしれない。
それでも、わたしは隣に座るこのろくでなしのジジイのことを嫌いにはなれないのだから、つくづく人の心というものは理屈ではないな、と実感してしまう。
「巌のおじいちゃんって、家族が死にそうな時でも、芝居を優先しそうだもんね」
「……」
「いや、そこは否定してほしいんだけど」
「否定はできねえな。否定できないまま、ずっと芝居をやってきて、この歳になっちまった」
「はぁ、やれやれ。本当の幸ってなんだろう、なんて。宮沢賢治は言ってるわけだけどさ」
「ああ」
「ろくでなしの巌のおじいちゃんは、絶対幸せにはなれないね」
「……ああ。そうだな」
本当は、それも否定してほしかったのだけれど。
素直じゃないジジイの心の内を覗き見て、それ以上の追求はやめておいた。
言葉にすると、野暮なこともある。
「かわいそうだから……おじいちゃんが死ぬ時、わたしくらいは側にいてあげるよ」
「余計なお世話だ」
△▼△▼
その日は、あっという間にやってきた。
舞台、銀河鉄道の夜。
主演、明神阿良也、夜凪景。
簡素なパンフレットを、百城千世子は客席で穴が空きそうなほどに見詰めていた。
「何度見ても、書かれている内容は変わらないわよ」
「うん。わかってる」
隣のアリサが呆れたように言ってきたが、それでも千世子はパンフレットから顔を上げなかった。
万宵結愛。
探している名前は、まるで端役のようにひっそりと記載されていた。
「おもしろいね。本番当日になっても、役名すらわからないなんて」
「外部から客寄せのために呼び込んだキャストよ。扱いとしてはそんなものでしょう」
「アリサさん。それ、アキラくんに言ってる?」
「皮肉のつもりはないわ。事実として述べているだけ」
自分の息子に対して手厳しいなぁ、と。千世子は笑った。
とはいえ、アキラの名前は役名と共に記されているので、扱いとしては結愛よりも上だ。
周囲を見回す。公演初日ということもあって、客席は満員だった。千世子やアリサのように、純粋に巌裕次郎の舞台を観に来ている役者畑の人間もいれば、明らかにそわそわと浮足立っている、アキラや結愛目当てのファンの姿も見受けられる。ネットの記事では、初日以降のチケットも完売だと書かれていた。結愛のチャンネルでの宣伝、スターズ俳優であるアキラの出演。それらは間違いなく、興行面ではプラスに作用していた。
「ゆあゆあ、やっぱり脇役なのかな?」
「役名もないもんな」
「ちょっとがっかり」
「アキラくんも、これちょい役なんでしょ?」
だからこそ、その扱いに不満を持つファンがいるのは、わからないでもない。
ひそひそと聞こえてきた声に、千世子は少し溜息を吐きそうになった。
「がっかりした? あなた、万宵結愛のこと、推していたものね」
きっと、意図したものではないのだろうが。
推している、というアリサのその言い回しが、少しおかしかった。
「うん。そうだね。でもべつに、がっかりはしてないよ」
アリサは、彼女と一緒にカメラに映ったことはない。
千世子は、ある。
今、この舞台を観に来ている観客の中で、万宵結愛の隣に並び立った経験があるのは、自分だけだ。
だから、期待できる。純粋に、彼女の演技を楽しみに待つことができる。
そういう意味では、
「きっと、すごいものが見れるって、信じてるから」
やはり、万宵結愛は、百城千世子にとって
スマートフォンの電源を切るために、バッグから取り出す。
「……え?」
そして、目に入ってきたニュースに千世子は目を奪われた。
『演出家 巌裕次郎 緊急入院』
★★★★
本番当日。
心の中を覗けるわたしから見ても、みんなのコンディションは完璧だった。
体を引き締める、心地良い緊張感。練習の成果を見せる、ワクワクとした高揚感。
うん。良い雰囲気だ。
良い雰囲気だからこそ、それを壊してしまうかもしれない事実を告げるのが辛かった。
「……結愛ちゃん」
「わかってる」
衣装に着替えた景ちゃんと、目配せをし合う。
どちらがそれを言うか。
少し迷ったけれど、適任なのはわたしだと判断した。
「ごめん。本番前に、みんなに伝えておきたいことがあって」
手を挙げたわたしに、視線が集まる。
「お、どうした?」
「みんな聞けよ。ゆあゆあから、ありがたいお言葉があるってさ」
「なんだなんだ」
亀さんはゆったりと笑っている。七生さんはちょっと緊張しているのか、少しだけ表情がぎこちない。阿良也くんはさすがというべきか、もうほとんど役に入り込んでいる。
息を吸う。
意識して、言葉を紡ぐ。
「今朝、巌さんが倒れたの」
簡潔に、その事実を告げた。
「……は?」
全員が黙り込んで目を見張る中で、亀さんの間抜けな声が、はっきりと響いた。
「前から病気で、余命の宣告も受けてた。騙し騙しやってたけど、やっぱり限界だったみたいで」
不幸中の幸いというべきだろうか。わたしと景ちゃんが家にいたことが、良い方向に作用した。
すぐに救急車を呼ぶことができたし、考え得る限り最速の措置ができたと、お医者さんは言っていた。
ただし、それはイコールで、巌のおじいちゃんの命が絶対に助かる……ということではない。むしろ逆。今、巌さんは危篤の状態だ。
「なんだよ、それ……俺らは何も聞かされてねぇぞ」
「うん。わたしと景ちゃんしか知らなかったから」
「そんな、どうして二人にだけ……?」
「みんなには、隠しておきたかったんだと思う」
動揺が、広がっていく。瞳と感情に、突き刺される。
落ち着け。
わたしは、今、天球の役者全員に見られている。
声を整えろ。
平静を装え。
フラットに、事実を伝えろ。
わたしだけが、みんなの心を見れるのだから。
「結愛」
阿良也くんが、顔を上げた。
「巌さんは、死ぬのか?」
「うん。いつ亡くなっても、おかしくないって」
「……そうか」
瞳が伏せられる。
爆発しかけた感情に、そっと蓋がされた。
すごいな、と。わたしは純粋にそう思った。
阿良也くんの一声で、広がっていた衝撃が、また静まり返った。
その隙を逃さずに、言う。
「……今まで黙ってて、ごめん」
わたしと巌さんの付き合いは、みんなに比べれば、圧倒的に浅い。
でも、この数ヶ月は、家族といっても差し支えないほどに、一緒の時間を過ごしてきた。
動揺があるはずだ。悲しみがあるはずだ。迷いが生まれるはずだ。
それらすべてを断ち切って、みんなの背中を押す。目の前の芝居を最高のものにするために。
わたしは、あの演出家に託されたのだ。
わたしの……わたしにしか、できない役目。
それを果たそう。
動揺するみんなの心を見る。
不安。焦燥。悲しみ。
こちらに向けられる、それらすべてが、わたしには見える。
でも、大丈夫。大丈夫だ。
「聞いてほしいの」
声を発した瞬間に。
あのいけ好かないジジイの顔が、自然と浮かんできた。
──サインください。
最初はまず、ファンであることにびっくりした。
──やっぱりユアユアはかわいいな。
その好意を不審にすら思った。
──宣伝? 何言ってやがる。俺が出たいから出ただけだぞ。
でも、触れてみたらその感情は、思いの外あたたかいもので。
──当たり前だ。配信は俺の楽しみだぞ。
指導は厳しかったけど、純粋にわたしのことを応援してくれていて。
──俺の晩メシはどうすんだ?
ご飯を食べて。映画を見て。どうでもいいことを喋って。
一緒に過ごす、そういう時間がとても楽しくて。
──俺の死を、喰えるか?
あ、無理だ。
「今日の舞台は中止にしよう」
あれ?
なに言ってるんだろう、わたし。
違う。そうじゃない。
わたしが言うべきことは、そうじゃない。
巌さんの分まで、みんなでこの舞台を成功させようって。そう言うべきなのに。そう言うはずだったのに。
否定する心が、あるはずなのに。
口が、勝手に動く。
極めて一般的な、理屈を説くように。
「平気だよ。公演は何日もあるんだから。今頃、ネットニュースにもなってるし、お客さんたちもお芝居観るどころじゃないでしょ」
口が、勝手に動く。
つらつらと事実を述べるように。
「大丈夫。誰も責めたりしないよ。わたしたちにとって、巌さんがすごく大切な存在だって、みんなわかってるもん」
口だけが、勝手に動く。
言い訳を、必死に紡ぐように。
「だから、だからさ……」
ああ、ダメだ。
気がついてしまった。
覚悟していたはずなのに。
理解していたはずなのに。
わかっていたはずなのに。
わたしには、人の命よりも、芝居を優先するという選択ができない。
「みんなで、巌さんのところに行こうよ」
絞り出した声は、枯れていて。
自分の声じゃないみたいで。
隣に立つ景ちゃんは、何も言わずに目を細めた。
ああ、ダメだ。
わたしは、役者にはなれない。