「『月が綺麗』だなんて……漱石ですか? 初対面の相手に、随分と情熱的な挨拶をなさるんですね。百城千世子さん」
本当に、綺麗な子だと思った。
ショートボブの髪の毛は、触らなくても見ているだけでふわふわだってわかる。夜の闇に浮かび上がる真っ白な肌は、いっそ不気味なほどで。人々の視線を釘付けにする確かな魅力の塊が、わたし一人の前に佇んでいた。
なんて、贅沢。
おかしな表現だけど。完成された名画を独り占めにしているような。そんな感覚だ。
ぺこり、と。天使は頭を下げた。
「不躾でごめんなさい。でも、私があなたに興味を持っているのは、本当だから」
天使は、笑みを重ねて懐からスマートフォンを取り出す。
「いつも、配信みてます。ファンです」
「……え?」
思いがけない一言に、体が固まる。
視線の感覚を探る。
軽く、息を吸って、
「本当に!? うれしい!」
わたしは、天使の懐に潜り込んだ。
距離を詰めて、その小さな手を握る。感激に、目を潤ませる。声に、熱を持たせる。
「わたしも、百城さんの大ファンなんです! 出演作も、全部じゃないけどいろいろ観てます! 今回、コラボのお話がきた時もすっごく嬉しくて! プロデューサーにすぐ「受けます!」って即答しちゃいました。今、こうやってお会いできたのも本当に夢みたいで……」
「うん。ありがとう」
完璧だと思った。
どこにも、何の違和感もないと思った。
けれど、天使は握った手をゆったりと振り払って。
わたしの唇に、人差し指をそっと当てて囁いた。
「
イメージが、塗り替わる。
かわいい。美しい。そんな表現だけでは表しきれない、別の何か。
上目遣いの、男を簡単に射止められるであろう視線が。至近距離でわたしの心を突き刺した。
(……うわ。なんだこれ)
感情の色を、一言で表現することができない。でも、例えるなら……まるで全身をまさぐられているような。昆虫を至近距離でじっと観察するような、そんな『純粋な興味』が、真っ直ぐに向けられている。
全身の毛が逆立って、肌が粟立つ。
けれども、わたしは貼りつけた笑みを崩さなかった。
「やだなぁ……お芝居だなんて。わたし、噓は言っていませんよ」
「うん。そうみたいだね」
今度は、天使の方が自分から。一度は振り払ったはずの手を、握り返してきた。
「お互いにファンだなんて……私たち、相思相愛だ」
「……そうですね」
微笑みには、微笑みを。
表面上のやりとりはできても、深い部分で、戸惑いが隠せない。
この子は、わたしの中に何を見ているのだろう?
「急に会いに来て、本当にごめんなさい」
捨てた帽子を拾って、埃をはらう。その所作にすら、見惚れてしまいそうになる。
ああ、なるほど。
この子も、今。わたしの前で演技をしているんだ。
「多分、近いうちに打ち合わせがあると思うから。また会える日を、楽しみにしてるね」
群衆に紛れるための装備を、再び身につけて。
「直接会えて、よかった」
静かに、一礼。
「さようなら」
天使は、夜の闇の中へ。
それこそ、幻のように消えていった。
「……百城千世子」
あのクソプロデューサーが、企画の話を「断ってもいい」と言った理由が、なんとなく。わかった気がした。
油断していたら、頭から足の先まで。食われかねないからだ。
「こわいなぁ……あんなのがゴロゴロいるのか、芸能界は」
スターズの天使。
直接目にして、よくわかった。彼女は、たしかにかわいかった。かわいくて、美しかった……けど。
「なんか……気持ち悪いなぁ」
天使を信奉する者に聞かれたら、殺されそうな呟きを。わたしは漏らさずにはいられなかった。
★★★★
翌朝。
「では、第151回夜凪家家族会議をはじめます」
「はーい」
「はーい」
「はぁい」
「昨日のひげの男。怪しいと思った人、挙手をしてください」
ルイくんはすっと片手を挙げ、レイちゃんはビシッ! と両手を挙げた。なので、わたしは両手を挙げて、さらに足も挙げることにした。
「レイ、2人分も挙げないで。不正よ。結愛ちゃんも。3人分も挙げちゃダメ」
「ていうか、ゆあねーちゃんはなんでここにいるの?」
「わたしが夜凪家家族会議に参加しない理由を逆に聞きたいよ、レイちゃん」
「ああ……うん。うん?」
「ゆあねーちゃん、パンツみえてるよー」
「結愛ちゃん、脚と手をおろして。まだルイには刺激が強すぎるわ」
「はぁい」
挙げていた手と足を戻す。
トーストにジャムを塗りたくってむっしゃむっしゃと咀嚼しつつ、わたしは己の無力さに打ち震えていた。
くそっ……性悪プロデューサーや気持ち悪い天使やらに絡まれて、わたしが景ちゃんに会いに行けなかった間に、まさかこんなことになっていたなんて。
昨日の夜、あやしいヒゲ面の男が景ちゃんを自分のスタジオに勧誘しにきたらしい。このわたしのいない間を狙って、だ。まったく、やってくれる。めちゃくちゃあやしい。そもそもヒゲ面っていう時点であやしい。人間的に信用できない。そんなあやしいやつと景ちゃんを接触させてしまうなんて……この万宵結愛、一生の不覚だ。
朝ごはんを食べながら、レイちゃんとルイくんが口々に文句を言う。
「おねーちゃん美人だから狙われているんだよ。監督は監督でもエッチな監督に決まってるわ」
「そうだね、レイちゃん。わたしの目が黒い内は、景ちゃんにエッチな撮影はやらせないし、景ちゃんとエッチな関係にもさせないよ」
「車おっきくて怖かったしヒゲだし、絶対悪い奴だよ。今度きたらケーサツ呼ぼう」
「そうだね、ルイくん。そんな大きな車にホイホイ乗っちゃったら、マジックでミラーな感じでチョメチョメされて、景ちゃんがあられもない姿になっちゃうよ」
「結愛ちゃんは黙ってて。私、べつにチョメチョメされる気はないし、あられもない姿になる気もないから」
結局、今朝の第151回夜凪家家族会議は『ヒゲ面の男、あやしい。ダメ、絶対』ということで決着がついた。
とはいえ、どんなにあやしい事件があっても、学校には行かなければならない。
「あーあ……。一から芸能事務所探し直さないと」
朝の通学路をきれいなフォームで全力疾走しながら溜息を吐く……という地味に高等技術を見せつけてくる景ちゃんに並走しながら、わたしは「まぁまぁ」と。ネガティブな発言を押し留めて慰めた。
「大丈夫だよ、景ちゃん。芸能事務所なんてスターズだけじゃなく、それこそ星の数ほどあるんだし。きっと、景ちゃんの魅力を理解してくれるべつのスタジオがあるはずだよ」
「そうかしら?」
「そうだよ」
余談ではあるが、景ちゃんは外見だけじゃなく、基礎身体スペックが非常に高い。意思疎通ができない……というかコミュニケーション能力が低いから団体競技は苦手だけど、走るのとかはめちゃくちゃ速いので、個人競技に関しては一定のレベルでこなせてしまう。
「速っ! すげぇキレイなフォーム! あの子誰!? あと、その隣走っている子も!?」
「2年の夜凪さんだよ。あと隣はほら、配信やってる万宵さん」
「あの!?」
だから、こうして朝の通学路を走っているだけで注目を集めてしまうのだ。脚が速いし、美人なので。
「そこの2人~! よかったらチャンネル登録よろしくねー」
「え? あ、はい!」
せっかくなのできっちり大声で声をかけて宣伝しつつ、景ちゃんの後ろにぴったりと張り付いて、街の中を駆け抜けていく。
「やっぱり、結愛ちゃんは有名人ね」
「そんなことないよ」
たしかにわたしも学校の中では有名人だが、景ちゃんだって負けていない。
部活どころか遊びの誘いすら全て断っているので、プライベートがミステリアスになった結果。景ちゃんを取り巻く噂には尾ひれがつきまくって、わりと大変なことになっている。中学の頃から新聞配達をダッシュでやっているとか(これは本当)、そのせいで身体能力はアスリート級とか(これに関しても間違ってはいない)、最近は芸能界進出狙っているとか(当然だ。わたしの景ちゃんに不可能はない)、人の噓がわかるとか……それはわたしだね、うん。
「結愛ちゃん、先に学校行ってもよかったのに」
「ダメダメ。ダメだよ景ちゃん。昨日、不審者に声をかけられたばっかりなんだよ。通学途中に狙われでもしたらどうすんの?」
「こんな朝から誘拐を実行するような不審者は、さすがにいないと思うわ」
「それは、そうかもしれないけど~。でもこういうのは、用心するに越したことはないよ。備えあれば憂いなしって言うし」
「そういうものかしら?」
「そういうものだよ」
小さい頃から景ちゃんと一緒に公園を駆け回って鍛えられたおかげか、それとも純粋にわたしも身体能力が高いのか。こうして凄まじいスピードで走る景ちゃんと肩を並べて風を切ることができるあたり、わたしの運動能力もなかなか捨てたものではない。今度、新規ファン層の開拓にランニング実況でもしてみようか。いや、カメラが揺れるしマイクの音も拾いにくいからダメか。
と、そんなバカなことを考えていたせいだろう。
目の前で急停車し、ドアを開けた一台のワゴン。それに対するわたしの反応は、一瞬遅れてしまった。
「は?」
するり、と。腕が伸びて。
ワゴン車の中に、身長のわりに軽い景ちゃんの身体が、あっさりと吸い込まれる。
「はあ!?」
思考ではなく、身体の方が先に動いたのは幸運だった。
ドアが閉まる前に、わたしも車の中へと飛込み、ドアが閉まるのと同時に、ワゴン車は急発進した。
「おはよう、夜凪。迎えに来たぜ」
ハンドルを握って、ついでに景ちゃんの肩を抱え込んでいるのは、見覚えのある……むしろ見覚えしかない、ひげ面の男だった。
「急で悪いが、早速仕事だ。このまま撮影所に連れて行くから、学校に欠席の連絡をいれよう。そっちのは友達か? 驚かせて悪かったな。次の信号か、もしくは学校の近くで降ろすから、もしよかったらお前の方からも欠席の説明を学校、に……?」
滑らかに、上機嫌で言葉を紡いでいた口が、わたしを見て止まる。まるで油が切れたロボットのように、首を動かした『ひげのおじちゃん』の顔から、ぶわっと冷や汗があふれ出した。
うん。油が切れたロボットのように、っていう例えは適切じゃなかった。
「は、配信少女?」
「おはよう。ひげのおじちゃん」
ロボットは、こんなに冷や汗をかかないだろうから。
「どうして、お前がここに……?」
「それはこっちのセリフだよ」
いやはや、まさかまさか。世間っていうのは本当に狭いものだ。
想像もしていなかった。景ちゃん達が言っていたあやしい『ヒゲ』と、わたしのよく知る『ひげ』が同一人物だったなんて。
「結愛ちゃん、この男、殴っていいかしら」
「もちろん状況的にはぶん殴って股間を蹴り上げて縛り上げていいと思うけど、ちょっと待って景ちゃん。この人、一応わたしの知り合いだから」
「え、そうなの? 本当に?」
「うん。そうなの。残念ながら本当に」
息を拳に吹きかけている景ちゃんを、どうどうと落ち着かせる。運転中の車内でどったんばったん大騒ぎをしたら、それこそ大事故につながりかねない。
フリーズしていたおじちゃんは、ようやく目の前にわたしがいるという現実に頭が追いついてきたのか、視線をきちんと正面に戻した。
「いや、なんというかアレだな」
「どれだよ」
「いや、驚いたな。まさか配信少女の言う親友の『K子ちゃん』が、夜凪だったとは」
「うん。わたしも驚いたよ。おじちゃんが誘拐犯だったなんて」
「断じて違う」
「でも、これ誘拐だよね?」
「誤解だ。配信少女」
「……ふむ」
まあ、とりあえず。噓をいっている気配はないし『敵意』や下品な感情も刺さってこない。
素早く『110』の番号をスマホに打ち込んで、ひげのおじちゃんに突きつける。
「車はこのまま走らせていいよ」
「本当か? それはありがたい」
すっごくあやしいし、完全に信用したわけではないけれど。でもこれは、景ちゃんにとってすごく大きなチャンスかもしれない。
「た、だ、し」
にっこり、と。笑みを添えて。おじちゃんの肩を強く掴む。
「その間に。簡潔に、わかりやすく、説明して。おじちゃんが何者で、何をする人なのか」
「……わかった。とりあえず、自己紹介いいか?」
「どうぞ?」
そういえば、このおじちゃんの名前知らなかったな。
「黒山墨字。映画監督だ」
わたしは応えた。
「万宵結愛。配信者」
「でもあれ、お芝居じゃないよね?」
アクタージュ第2巻、scene10より
千世子が夜凪にはじめて喋りかけた時。