「うおえええええッ! げほっ、うえ…… 」
「……なぁ、いい加減お前の嘔吐BGMに用足すの嫌なんだけど〜」
「ぜえっ、ひゅう、…… あぁ、俺ここで死ぬかもなぁ、マルコスぅ、なんかごめんな最初会った時お前パシッちゃってさぁ……」
「遺言っぽいこと言ってんじゃねえよ! ゲロ吐きすぎて死にますってお前かなり死因恥ずかしい事になんだぞ!? 」
「……………………………」
沈黙。ただ沈黙。トイレのドア一枚隔てた向こう側で、便器にしがみ付いていた与一からの応答が途絶えた。
「与一! まさかお前マジで……、」
「うぼえええええええッ! ゲッボごふっ、うぶえええええッッ!! げぼっ! ごぶえええええええッッッ!? 」
今までに聞いたことが無い程の大音量で、
「与一ぃぃぃぃぃ!?」
リアルにお亡くなりになられたのではなかろうかと半ば、悲鳴のような声をマルコスは挙げる。
「……あぁ、何か頭がふわふわする」
かちゃん、とドアを開けて出てきた与一は、顔面蒼白で何処となく足元もおぼついていない。
「う、おぉ、生きてたか……」
「マルコス…俺、ちょっと外出てくるわ。そういえば、昔から乗り物苦手だったんだよな。新鮮な空気吸ってくる」
それだけ言い残してふらふらとトイレを後に何処かへ向かっていく。
「おう、分かった。って、待て馬鹿コラ! ハッチ開けようとするな、外は宇宙だぞ! さてはお前意識飛んでるだろ!? 」
「大丈夫だ、今の俺なら空も飛べそうな気がする」
「だから飛んでんのはお前の頭だっつの! 良いから大人しくしてろ、そろそろ実力行使すんぞこの野郎」
「あーい、きゃーん、ふらーい! 」
「寝てろ!」
地球を出発して1週間、与一は慣れない宇宙艦の生活によるストレスと、もともと乗り物に弱い体質が重なって重度の吐き気に悩まされていた。火星までは後32日。ゆうに1ヶ月以上はある。かなり早い段階で前途が多難な状態に追い込まれる羽目になった。これではトレーニングどころではない。真面目な話、任務に響く。
「あれ? 与一君は? 」
シーラがトイレから戻ってきたマルコスに尋ねた。与一が一緒にいなかったからだ。
「ん、ああ。あいつは……星になったよ」
「何遠い目してどうどうと嘘ついてんのよ」
突っ込みがわりに頭を軽く叩く。
「痛ってえな、部屋に戻って寝てるよ。顔面蒼白通り越して真っ白だぜ、死人みてえになってる」
「まさか、与一君があそこまで乗り物に弱かったなんてね」
苦笑いを浮かべながら、シーラは手元のミネラルウォーターを口に運ぶ。
「そう言えば与一君って殆どトイレに篭ってばかりじゃない? 」
側にいたエヴァも困ったように笑っている。確かにこの1週間、食事の時間になっても姿を見かけていなかった。何とかゼリー飲料などで栄養は取っているようだが、それでも十分ではないだろう。
「薬とかは持ってないのかなぁ? 」
「何でも市販の薬は効かないらしいよ。体質なんだって、この前死にそうな声で言ってたもん」
思わず、シーラとエヴァから溜息が漏れた。普段は結構頼りになる人物だというのに、意外な弱点もあったものだ。
「うぅ、……もう駄目だ、乾いた地面が恋しい……」
与一はと言えば、相も変わらずベッドの上で呻いていた。吐き気の無限ループは着実に彼の体力を奪っている。
「与一、入るぞ」
と、急に声が聞こえたと思ったらトントン、ガチャッとノックの後直ぐにドアが開く。母ちゃんみたいな入り方すんなよと心の中で思いつつもそれを口にする元気もない。首だけドアの方を向くと、入って来ていたのはミッシェルだった。
「やれやれ、案の定だな」
ベッドの上の与一を見るミッシェルの眼は、呆れと苦笑の色がある。
「何の用っすか、ミッシェルさん……?」
弱々しい声だ。実際、今にも胃液が逆流しそうだが流石に人の、それも女性の手前故に気力で抑え込む。
「お前専用の薬だよ、市販の物は効かないんだろう? 念の為、地球から持ってきていて正解だった。艦長に言われるまで私自身忘れていたがな」
彼女がポケットから取り出したのは数種類の錠剤が入ったプラスチック・ケース。それをベッドの脇のデスクに放り投げる。
「飲め、いい加減普通の飯も食わないと体が持たんぞ」
夕食の時間は3時間後だ、それまでこれを飲んで寝てろ。とだけ言ってキビキビとした動作で部屋を後にする。出て行き様部屋の電気を消すのも忘れずに。
すぐに、与一はゴソゴソと手探りでケースの蓋を開け、中の錠剤を水と共に飲み下した。そして目を閉じる。今は、とにかく回復に努める必要がある。そもそも、乗り物酔い如きで体力を消耗すること自体が論外だった。
無音の世界の中で、彼の意識は徐々に薄れて行く。
「…………ッ、ん………」
暗闇の中、与一は目を覚ました。どれほど時間が経ったのだろうか。枕元の時計を見るとミッシェルに言われた食事の時間より、30分早い。
「ぬぅ、……ふっ」
ベッドに上体を起こして背筋を伸ばし、軽く首を曲げると関節がポキポキっと小気味良い音を立てた。
「うぁーー、大分良くなったっぽいな、文明の利器凄え。つーかこんな薬あるんだったらもうちょっと早く頂きたかったわ。あー、でもあの人忘れてたとか言ってたっけ確か」
あれ程悩まされていた吐き気が嘘のように無くなっていた。この薬はこれから先も重宝するだろうと、ポケットにケースごとねじ込んでから立ち上がる。その足で意気揚々と向かうは食堂。凡そ一週間振りのまともな栄養を取りに行くために。
「あ、与一君。吐き気治ったの?」
「久し振りにまともな面見た気がするぜ」
食堂に入ると、シーラや燈達が彼に気付いて声を掛ける。
「おう、特別調合の薬のおかげだな。もう手放せねえわ」
ポケットから取り出したプラスチック・ケースを軽くシーラ達の目の前で振る。からからと乾いた音を立てて紫色やオレンジ色の錠剤がケースの中を転がった。
「何か毒々しい色してるわね。……まともな薬よね?」
「当たり前だろ。気分がハイになるってUーNASAのお墨付きだぜ? 」
「それ本当に大丈夫なの!? 」
ーーーー時は過ぎて行く。
「よぉ、また会ったな。だがな今回は別の用事だ、真っ当な理由の元にお前に会いに来た」
「何、便器に向かってしみじみと喋ってんだよ」
ーーーー刻一刻と戦場は近づいている。
本来、与一の任務に馴れ合いは必要なかった。それは彼さえいれば遂行可能なものだったから。
「やっぱ風呂っつったらこれだな」
「全くもってその通りだと思います先生」
「ここまで堂々と覗きにかかるなんて呆れるというかいっそ清々しいよお前ら、…………!?」
「どうした与一? 」
「待って、シーラさん! 俺ちゃんと止めたよ! それでもこいつらが無理やり!! 」
「んなっ、シーラ!? つか与一テメエ独り逃げてんじゃねえよ!? 俺たち仲間だろ!! 」
「知るかボケェ! 俺マジで関係ねえだろうが!? 」
それでも。この仲間達と出会えて良かったと心の底からそう思う。心の底からそう思える。
地球を出発してから20日目。
「もう一回言ってみろやテメェ!! 」
突然の怒声に、その場にいた全員が声がした方向を向いた。
そこには一人の男性が、まるで鬼のような形相でアジア系の青年の胸倉を掴んでいた。
「ふっ、『もう一回同じことを言ったらブッ飛ばす』…か? 優しいねェ。侮辱されても一回までなら許してくれるのかい? 」
青年は全く動じる様子も無く、胸倉を掴まれたままでもポケットの中に両手を突っ込んだままだ。口元には嘲るような笑みすら浮かんでいる。
「お? あの胸倉掴んでる金髪、シーラ達と同じ班じゃねえの? アメリカ人だろ? 」
「やれやれ、どいつもこいつもピリピリしてんなぁ…、無理もないけど。妊娠中の動物の如く気が立ってんな」
「ちょっとォ…、あれ止めた方が良くない? 」
「まあまあ落ち着けよシーラ、日本には『火事と喧嘩は江戸の花』って言葉があるんだ。こんな閉鎖された環境ならフラストレーションもたまるだろうよ。適度なガス抜きぐらいなら別段殴り合ったって良くね? そこから始まる友情だってあるかもよ? へへっ、お前強えなぁ。ふっ、お前もな…的なさ」
「いや、流石にそんな漫画みたいな展開はないと思うけど……」
すっかり観戦モードと決め込んだ与一達。止めるどころか「いいぞ、やれやれ! 」と煽る始末。シーラが頭を抱える中、アジア系の青年は薄い笑みを口元に貼り付けたまま挑発を重ねる。
「いやぁ、悪かったよ。実際生まれつき口が悪くてねェ。えーっと、どの辺が勘に触ったのかな?『 お前らの母親はお前らの命を家より安く売った』…か? それとも『理由は母親がもう自分を売れなくなったから』かな? 『チ××手術野郎』? 」
青年は、オブラートに包もうともしない垂れ流しの悪意がこもった侮辱を次々と並べたてて言った。
「あぁ、『弟は手術で楽に死ねて良かったね』って言ったんだったっけ」
止めの一言。完全に頭に血が上ったアメリカ人の男性は、拳を握りしめ青年の顔面に叩き込もうと振りかぶる。
「止めろって! 」
ーーーーバキィッ!
「は? 」
十分に力が込められた拳は、青年にではなく、突如割り込んできた乱入者の顔面にめり込んだ。殴り掛かった本人も何が起きたのか分からないという顔をしている。
「……誰だあいつ? 」
与一がぽつりとそう呟いた。
「ごめんね、うちのチームメイトがこんな怪我させちゃって。痛かったでしょ? えーっと、ロシアの……?」
「あっ、イワンッす! 気にしないで下さい。自分いつもこんな感じなんで! 」
少年は、シーラに傷の治療をしてもらいながらにこやかにそう名乗った。額から左目に真っ直ぐ走る大きな傷が特徴的だ。
「後先考えずに突っ走ってばかりで、タダのアホだって良く姉ちゃんにも言われるんすよ 」
にこやかな笑いが苦笑いへと変わる。それが短所なんだと言わんばかりだったがシーラはくすっと笑い
「それでも誰にでも出来る事じゃないよ。凄く勇気があるんだね」
「…………」
一瞬何を言われたのか分からないというような表情のイワンだったが、直ぐに顔を真っ赤にしてボソボソと消え入りそうな声で、人として当たり前の事をしただけだ的な主旨の事を呟いた。
その様子はまるで…………
「ハッハッハッ、分かりやすいなお前」
「ひ、人が一目惚れするところ初めて見た」
そう、正に一目惚れのようだった。
「でもなぁ、イワンだったっけ? 」
与一もにやにやしながら問いかける。
「シーラに恋するなら厳しい戦いになるぜぇ? シーラの好きな人はあの艦長だもんな」
投下された爆弾は、その場の空気を一瞬で凍らせた。シーラは赤面し、エヴァは青い顔で口元に指を当て、マルコスやアレックス達もピタリと固まる。
「………………………あ」
今になってとんでもない発言をしたことに与一は気付いた。つい口が滑ってしまったでは取り返しがつかない。
「あー、ディレクターここカットで。ちゃんと編集しといてね」
「手遅れだよ!! 」
「おいマルコスしっかりしろォ! 」
「べ、別にぃ。俺の方が男子力高いし? 」
「こらテメェ元凶が逃げんな与一ぃ!? 」
「あー、あー、聞こえなーい」
脱兎の如く走り出す与一とそれを追いかけるアレックス達。騒々しい空間の中で、自然と笑いが漏れる。命懸けの任務が迫る中、ここには確かに平和な時間が存在した。
ーーーーアネックス1号が地球を発って39日目。
『こちら艦長室ーー』
スピーカーから流れてくるアナウンスに、与一達は雑談を止めて耳を傾ける。
ついに、この時が来た。
『ーー間もなく火星の大気圏に入る。総員2時間後にAエリアに集合しろ』
その場にいる殆どが、不安気な顔をしていた。後は、淡々と聞きいる者や、口を引き結んでスピーカーを見上げる者など、様々だ。
『これより装備確認後プランαに基づき、』
ぽきぽきと与一は無表情で指を鳴らす。
『火星への着陸ミッションを開始する!! 』
2時間後、全てが始まる。表向きのワクチン研究任務、そして、与一独自の任務も。
「ん? どうした怖いのかエヴァ? 」
ふと、隣に立つエヴァが震えていることに気付いた与一は彼女に声を掛ける。
「……後、2時間なんだね。どうしてだろう、このまま着陸しなきゃ良いのにと思っちゃうよ。だってそうでしょ? 火星に着いたらあんな……」
「化け物と戦わなきゃならない、か? 」
エヴァは青ざめた顔で弱々しく頷いた。
「あー、あれだ。別に怖がっても良いと思うぞ? あのテラフォーマーとかいう化け物と
「……え? んーん、違うよ。ただ、アドルフ班長と同じような事を言ってるからちょっと驚いちゃった」
「マジですか! うわー、二番煎じかよ、恥っず! ミッシェルさん意識して、ここいらでちょっと格好良い事言おうとしたらこれだ」
「ありがとう、何だか少し気が楽になったみたい」
微笑むエヴァに、与一は少し罪悪感を感じた。彼自身が帯びた任務を隠していることに。騙すつもりもない、裏切るつもりもないが、何故か微かに胸が痛む。
ならば、せめて誰も死なせないように立ち回るのみ。
そして、
「必ず地球に
「……うん! 」
薄く笑い、装備の再点検をするために自室へ向かう与一。
ーーーー異変はその時に起きた。
前方のエアロック、誰もいない筈のその部屋のドアが何故か開く。
「………………? 」
一瞬の沈黙と共に、中から出てきた“モノ”は、
ーーあり得ない。与一の顔が驚愕に染まる。
「何でだ」
だって、だってまだ。
「まだ、火星には着いてねえだろうがよォォおおおおおおッッ!! 」
その叫び声に、全員が振り返るが脅威を認識するには一足遅かった。そのエアロックに最も近い場所に居た1人のクルーの体を掴むと、紙を千切るかのようにいとも容易く上半身を毟り取る。
「…は、……え? 」
咄嗟の出来事に、引き千切られたクルーも何が起きたのか理解出来ていない。そのまま這って逃げ出す彼の頭を、
グシャッ
肉が潰れる生々しい音を立てて、それは踏み潰した。脳漿や頭蓋骨、眼球などが周りに飛び散る。
「うぐ……ッ!」
嘔吐する者もいる中で、それは次の獲物を探すように辺りを見回す。
その筋骨隆々とした黒い身体、無機質な目、尾葉、触角。
資料で、またそのクローンを訓練施設で嫌と言うほど見てきた。人間をまるで虫けらのように殺したこの悪魔の名はーーーー
「……テラフォーマー」
「う、わぁあああああああ!! 」
誰かが恐怖に絶叫した。
「クソが! 」
与一の脳内には幾つもの疑問点が浮かび上がる。
いつから居た? どうやって入った? 自分達が何者なのか知っているのか?
ドンッ!!
突然の爆音に、機体が大きく揺れる。
余りにも戦略的な破壊工作。これもこいつらがやったとしたら。
「……明らかに誰かが手引きしてやがるな」
浮上する裏切り者の存在。
真っ直ぐに此方へ向かってくるテラフォーマーを見据え、背中にエヴァを庇う。
「与一君! 何するつもりなの!! 」
その声には答えず腕に仕込んだ“専用武器”の調子を確かめ、懐のケースを確認する。
「こいつは予備みたいなもんだが仕方ないか……」
薬は手元にはない、あったとしても“使えない”
この異常事態だ、幹部も来るだろう。だから、せめてそれまでは持ち堪える。
与一は左腕を突き出し、右手を添える独特の構えを取り、無表情で迫るテラフォーマーに照準を合わせる。
「オラ、来いよゴキブリ。《三射》でテメエを地獄に送る! 」