これ完走できるのかな……。
「恐れながら、御屋形様、それは承服しかねます」
案の定、産屋敷からの禰豆子という鬼の容認の要請は、悲鳴嶋筆頭に一部の柱より反対を唱えられた。
「水柱、甲頭筆頭、及び彼らの育手である鱗滝殿の切腹の覚悟については、認めましょう。しかしながら、ここで斬るべき鬼を斬らずにいて、のちに死すべきではない方が死んでしまえば、いたずらに死者の数が増えるのみでしょう! 特に、柱一人と甲頭筆頭の損失は甚大です!」
続き煉獄が反論を重ねた。
「それは承知だよ。その上で頼みたいんだ。今までにない特異な鬼……それは単に戦力としてだけでなく、鬼にまつわる肝心なことに切り込める楔ともなるやもしれない」
「根拠はおありでしょうか」
「無論だよ。証言もある。今から聞いてみようじゃないか」
と産屋敷が召喚したのは、村田であった。那田蜘蛛山で狼らを先行させた、甲頭である。
「甲頭・村田、証言のために参上しました」
「足労をしてもらってすまないね。恐縮だが、君が禰豆子を見た時の状況を説明してもらえるかな。まずは、君が彼らに合流するところから頼むよ」
「はい。まず合流したのは竈門隊士でありました。道中、女の鬼を一体倒してすぐのことです。折しも、下弦の伍との交戦の末に、あと一歩のところで鬼の頸を斬り損ねた瞬間でありました。そこへ加勢に入ったところ、その鬼――竈門禰豆子のものらしき血鬼術での援護を受けました」
「禰豆子の状態はどうだった」
「いえ、交戦中であったため、状態の確認は出来ませんでした。ただ、彼女の血鬼術は自身の血を燃やすものであり、敵の血鬼術に絡められていたことから、負傷をしていたことは分かりました」
終始村田は淡々と、低く平坦な口調で、それこそ科白を読み上げる調子で証言してみせた。那田蜘蛛山での頼りなさげな声の主とは思えない。
「宜しい」
そう産屋敷が話を切り上げさせ、
「聞いての通り、禰豆子は身内のみならず、初めて見る人間にも味方することが出来る。仮に彼の見立てが正しければ、負傷で消耗したところから、血鬼術まで行使して人間に味方出来ると言えるだろう」
と自身の見解を語って聞かせた。
だが、
「異議あり。信用出来ません。その鬼が、自身の兄を喰らうのを楽しみにとっておいた、それも二年も我慢していたのなら、その程度のことは訳もないでしょう。むしろ自分の楽しみを奪おうとした鬼の排除を優先したのやも……。人に与する鬼の可能性があるのなら、その逆も考えて然り」
伊黒小芭内という、首に白い蛇を巻いた、口元を包帯で覆い隠した左右の瞳の色が異なる小柄な男が、異を唱えた。
「君の言うことは尤もだ、小芭内。では、次は、禰豆子を生かしておくべき理由を提示しよう。真菰、お願い出来るかな」
産屋敷から促され、真菰は、はっと返事をして語り出した。
「御屋形様のおっしゃる通り、身内である私と水柱様の贔屓を抜きにしても、竈門禰豆子の特異性は無視してよいものではないと存じます。而して、かつてない好機でもあります。途轍もない危険を孕んではおりますが、それを見越しても、彼女を生かしておく価値はございましょう。好機をものにするのなら、須らく時として危険を冒すものである故」
また、と彼女は間に挟み、
「狼殿のこともございます。皆様方がご覧になった通り、彼はかなりの手練れ。竈門禰豆子を斬らずに狼殿の協力を得られれば、戦力増強を期待出来るでしょう。裏を返せば、彼との敵対は、我々にとって鬼と並ぶ脅威となるでしょう。確かに彼は人間であり、炭治郎の意に沿って鬼を抹殺対象としてはおりますが、狼殿自身にはそれを目的とする意思は無い。どころか、炭治郎を害するのであれば、人でさえ斬る腹積もりですらございましょう」
と真菰が語る横で、柱たち各々は狼へ目を向けた。
いずれも、先ほどの不死川への奇襲、真菰との立ち合いを目にして、すぐさま真菰の意見に異論を示すことはしなかった。
ただ彼らは、狼の戦力に異議は無くとも、彼が敵に回った時のことについては、いささか疑問である。いくら腕が立つとは言え、たかが一人の男に、柱九名が遅れを取るとは到底思えない。
その中で一人、甚だしい危機感を覚えているのは冨岡義勇であった。一度対峙したということもあるが、何よりも二年前、彼は鬼に殺されたはずの狼が起き上がる姿を間近に目撃した。全体あれが、尸解仙さながらの死んだふりであったのか、はたまた本当に死の淵から蘇ったのかは分からない。
されど、あれをもし柱たちを前に実行されれば、最低一人の命が落ちることは免れない。それは義勇が柱たちに説明したところで変わらぬ。……尤も、口下手な彼では、伝えることもままならないであろうから、同じことであるが。
「しかしながら――」
真菰が続けた、
「お言葉ながら、これらの根拠では、やはり押し付けとなりましょう。ここは、おのおの方にとっての根拠が、必要と愚考します」
「その根拠とは?」
産屋敷が促した。
「それは柱の方々がお決めになることです。例えば、風柱様などいかがでしょう」
「その理由は?」
と尋ねられて、真菰は目を瞑って一呼吸間を置き、
「彼は、家族が鬼になることの恐ろしさを、そしてその家族を守ろうとする人間の恐ろしさを、誰よりも知っているからでございます」
と答えると、とみに、水を打ったような静けさが訪れた。
一聞しても、熟考しても、この言葉の理屈なのかは、解らない。されど皆、この言葉の含蓄を、感覚的に理解したためか、或いは彼女に限ってはいつものことであるからか、取り立てて異議を申し立てる者は居なかった。
「ふむ、なるほど。――と、真菰は言っているけれど、実弥はどうするんだい」
解ったような解らなかったような素振りで産屋敷が二、三度小さく頷き、風柱・不死川実弥に話を振った。
ゆくりなく振られ不死川は、当初面食らって言葉に詰まり、その後咳払いをして調子を整えてから、
「一つだけ……御座います。おそらくおのおの方も察しているでしょうが……、甚だ無礼な方法でございます。それでも宜しければ……」
低く落ちた声の、辛うじて丁寧さを残した刺々しい口調で、不死川は申し上げた。
「構わないよ。恐縮だが、禰豆子を生かすか殺すかの是非の証明を、任せられるかな」
との産屋敷からの指示が出るや、不死川はそれまでの産屋敷の前での慎ましい振る舞いを脱ぎ捨てて、獣さながらの荒々しさを明け透けに、禰豆子の入った箱を引っ掴むや、産屋敷の居る屋内――陽の光の当たらない屋内に、
「ご無礼を承知ながら、日陰をお貸しいただけますか」
「構わない」
一言断りを入れ、産屋敷からの許しを得てから上がり込んだ。
禰豆子の入った箱を放って踏みつけて、それから己の刀で自らの腕を切り付けた。
動脈を傷つけたわけではないため、致命的なまでな出血ではないが、深く切ったためか痛々しいまでに血が滴る。
「オラ、鬼よォ! 飯の時間だッ!」
と言って不死川は刀を箱に突き立てた。乾いた音を立てて切っ先が箱の板を突き破った。それとは対照的に、刀が中を突き抜ける音は、肉を貫く音みたいに鈍かった。一瞬だが苦悶の声もあった。
「禰豆子ォ!」
当然炭治郎が黙っているわけはなく、彼は両腕を縛られたまま駆け出さんと地面の上でもがいていた。
それを意に介さず不死川が、箱に空いた穴に自らの傷口をかざし、血を落とす。
「おうどうしたァ? 稀血の中の更なる稀血だぞ。遠慮するんじゃねえよォ……。腹、減ってんだろォ?」
煽る不死川の下で、箱の中の禰豆子が、呻きを上げながらもがいていた。
そろそろかといった具合に、不死川が足を退けると、箱が開いて禰豆子が、身体を元の大きさに戻しながら立ち上がって現れた。
血走った眼で、不死川の腕から流れ出る血を凝視していた。口に咥えた竹の猿轡から滾々と迸り出る涎を拭う余裕もないらしかった。今すぐその猿轡を噛み砕いてでも、目の前の御馳走にかぶりつきそうである。
「真菰さん! どういうつもりなんですかッ! このままだと禰豆子が――」
と立ち上がって真菰に迫ろうとする炭治郎の背中を、伊黒が肘を叩き込んで制圧した。ただそれだけで炭治郎は身動きはおろか、呼吸すら極端に制限された。疲労に因る抵抗力の減退ではなく、楔を打ち込む具合に、肺を動かすのに必要な筋肉へ肘を打ち込んだことに因るものである。
「離してあげていただけますか、蛇柱様」
「何故離してやらねばならない。先刻から場をかき乱すばかりだぞ、こいつは」
「だからこそですよ。取り乱しているからこそ、落ち着かせてあげなければ」
真菰が言うと、伊黒は不満な眼をするも、鼻白んだ顔を見せてわりかた素直に炭治郎を解放した。
解放された炭治郎は意外にも大人しかった。その目の前に膝を突き、真菰は彼の両肩に手を置いてと間近で目を合わせた。
「炭治郎なら、私の心中は匂いで分かるだろうけど、一応口に出すね。禰豆子ちゃんの生き死には、最早炭治郎たちだけじゃなくて、ひいては鬼殺隊全体の問題なの。私も義勇も、そして鱗滝先生も、何かあったらただ割腹して済ませようとしているんじゃなくて、その覚悟をしている。御屋形様だってそう、ただの親切心じゃなくて、一世一代の覚悟のつもりなの。だから炭治郎も、腹を括って、禰豆子ちゃんを信じてあげて……」
そう語る真菰から発せられる匂いを感じ取り、炭治郎はたじろいだ。
これが覚悟の匂いというものか。今までに嗅いだことのない匂いだ。恐ろしい運命を遠くに見据え、腹を括った者の匂い。堅固でいて静謐な、凛然とした。一周回って苛烈で、一周回って慈しい。表現に尽くしがたい匂いであった。
いつの間にか炭治郎の中の激情は下火になり、瞳の中に迷いをたゆたわせて、禰豆子と不死川の対峙を見た。その後やがて、目と歯を食いしばってかぶりを振り、
「頑張れェ! 禰豆子ォ!」
と、屋敷の縁側に駆け寄って、そう叫んだ。
その声が聞こえているのかどうかは分からない。禰豆子は変わらず、不死川の稀血を前にケダモノさながらの唸り声を立てている。
必死に抗っている。自身の内に居る鬼を押さえ込み、眼前に垂らされた極上の血肉の香ばしさを拒まんと、息さえ止めている。
やがて禰豆子は不死川に背を向け、自らの鼻を掴むようにつまみ、その場で蹲った。
多くの者が、その結果に驚愕を隠せなかった。不死川の血は稀血で、その中の更に稀な血。普通の鬼なら、匂いを嗅いだだけで前後不覚に陥るほどの濃厚な物である。その誘惑に、ただの理性で打ち勝ったというのである。
ここらが潮時か。
そこへ、いずこからか笛の音が飛んできた。
悲しげな、寂しげな笛の音。それだけに美しく、心に染み渡る音。ひとたび響けば、誰もが、雑念に囚われることなくこの音に傾聴するものだ。
義手忍具『泣き虫』
禰豆子は呆然とその音に耳を預けていた。心さえもそれに惹き込まれていた。そばで稀血が馥郁としているにも拘わらず。
禰豆子が笛の主に視線を向けると、皆がそれを追った。その主は、狼であった。
その彼が、自身の義手に仕込んだ、人の指で出来た笛に口を当てているのを……。