ここは蝶屋敷。蟲柱(兼水柱・冨岡義勇のお世話係)・胡蝶しのぶの私邸で、また負傷した隊士の治療所、鬼で親を失った子供の孤児院、療養により衰えた身体能力を戻す訓練所なども兼ねている。
重傷を負った炭治郎たちは、現在ここで療養中である。
狼は、隠から渡された通帳を眺めて、微かに口角を上げてから懐に仕舞った。
そんな彼の様子に、寝台で包帯に巻かれて寝かされた炭治郎は意外そうに目を丸くしていた。
「どのくらい入ってた?」
後ろから真菰が声を掛けた。
「二百圓*1だ」
「思ったより少ないね」
拍子抜けした真菰に、
「えっ、そんなに貰えたんですか!」
青天の霹靂といった風に驚く炭治郎と善逸。
「ゴメンネ……、甲斐性ナシデ……」
伊之助は意気消沈している。
この通帳は、狼のこれまでの協力への謝礼として、産屋敷から頂いた物である。その他、今後藤の家の利用も許され、その上日輪刀の提供までされるらしい。
「俺には無用のはずだが、既に用意がされているらしい。
「ありゃりゃー」
真菰は苦笑した。語っている当の狼にはあまり表情の変化は見られないが、内心での辟易は想像に難くない。
蛍(三十七)と狼(三十前半)の邂逅は、炭治郎の刀を持ってきてもらった時の事。狼の腰に挿した打刀・楔丸に目を止めた蛍は、その刀身を見せてもらうや、途端にこの刀に強烈な対抗意識を燃やし、あろうことか狼の刀を打つと申し出たのであった。
当然狼はこれを断るも、それ以上の意思で、もとい意地で通そうとしたのが蛍である。随分と長い間、狼の弱々しい拒否と、蛍の押し付けの問答が続いた果てに、何やかんやあって蛍が引き下がったのであった。
本来なら、鬼殺隊の機密である日輪刀の提供は、こうも容易くはなされない。またこの場合、狼が無用としている以上、日輪刀は提供されない運びであった。
それがどういうわけか蛍は、勝手に狼用の日輪刀を打っていたのだという。そしてそれを、先の那田蜘蛛山の戦いで刀を破損した炭治郎に用意した新たな刀と一緒に持ってくるのだそうである。
提供せずに蔵に仕舞っておくにも、蛍があまりに意地を張っているものであったため、泣く子と地頭には叶わぬといった具合に、狼に供される次第であった。
「悪い人じゃない……とは思う……らしいんだけどねぇ……。性格が、ねぇ……。それで一体何人の隊士の担当から外されたことやら……。……あっ。ま、まあ! でも! 腕は確かだから! 刀はあるに越したことはないし!」
普段は何事にも寛容な真菰も流石に、蛍の擁護をする口は歯切れが悪かった。
「それはさておき、そのお金、当分使わない分はお金以外の形で保管しておくのがいいかも。例えば……株式とか国債とか」
「何故だ」
「去年、欧州で戦争(第一次世界大戦)が起こって、日本もその発端の国である
「戦か……、銭がよく巡る」
いささか浮かない面持ちで狼が言うと、
「そうそう、その通り」
うんうんと真菰が頷いた。
「こちらはともかく、向こうでは大分激戦になっているみたいで、工業力のあるうちの国に軍需品を買い求めているんだって。海運とか造船とか買いかも。逆に言えば、それが終わったら一気に景気が悪くなるだろうから(戦後恐慌)、戦争が終わったらさっさと引き上げるのが吉。十年前の戦争でも、終わった後は不景気になったみたいだし」
「株式とやらは、如何様にして買うのだ」
「私や柱たちは、御屋形様を通して買ったよ、そうじゃないと買えないから。皆、余ったお金を使っているね」
「如何程、余るのだ」
「私はそんなに残らないかな。衣食住は幾らでもないけど、所有している施設とかの維持費とか、訓練費とか、あと部下のご褒美に……、相撲部屋へのタニマチ*2とか……」
「真菰さんも相撲好きなんですね」
タニマチという言葉に反応した炭治郎がそれに触れると、
「ま、まあね……、あはは……」
真菰は半笑いで顔を赤らめ、ばつが悪そうに目を逸らし、所在なさげに視線を漂わせた。
これによって話の流れが途絶えて、滞ったこと数秒。
「ところで」
ふと狼が話を変えようと声を掛けた。
「その左腕のこと……まだ聞いておらんかったな」
と、真菰の左腕に嵌められた籠手を示した。
「ああ、これ」
言いつつ真菰はそれを、実にあっさりと外して見せた。
「その腕……」
その振る舞いとは裏腹に、現れた左腕は、どうして機能しているのか不思議な程に、ひどく歪んでいた。
「九年前だね。藤襲山の最終選別にいたあの、手の鬼にやられたの。あの鬼から、鱗滝さんが今まで教えてきた子たちが全部あの鬼に喰われたことを聞かされて、私は恐怖と怒りに身を侵された。それで上手く動けなくて、左腕を潰された私は、もう一切の戦う意思が潰えて、それで逃げ出したんだ……」
籠手を嵌め直し、真菰は続けた。
「鱗滝さんには、言えなかった。言わなきゃって思っても、どうしても言えなかった……。だから私は、錆兎にだけ話して、お願いした。でも――気負わせ過ぎたかな――錆兎も、頑張り過ぎて結局駄目だった。それだけじゃない、義勇も、私が弱かったせいで……。今でも時々、この腕が痛むの。その度にあの時のことを思い出す。治そうと思えば治せたけど、しなかった。やらなくちゃならないことは、ちゃんとやる。そう決めた」
「真菰さん……」
気遣わしげな眼をする炭治郎の頭に、真菰は右手を置いた。
「炭治郎、本当にありがとうね。それ以上に、後始末をさせちゃってごめんね」
「いいえ! 俺も鱗滝さんの弟子! 真菰さんの弟弟子ですから! あの鬼の退治は、俺の務めでもあります!」
大きくかぶりを振って、真菰の煩悶を吹き飛ばさんばかりに威勢よく答えた。あまりに力み過ぎて、傷に響いた痛みに顔をしかめた。
真菰は実に微笑ましそうに相好を崩した。
「……何故、その、手の鬼という者の存在を教えなかった」
不意に狼が問うた。
「でも、逃げることも大事だって、しっかりと言ったよ。襲撃や血鬼術とかを事前に教えてくる鬼なんて居ないからね」
「ヒエェェェ……。か、可愛い顔しているのに、厳しい人だぁ……」
莞爾とした真菰の笑みに、デレデレと鼻を伸ばしつつも善逸がおののいた。気持ちの悪い顔である。炭治郎もまた、目を見開いて固まっていた。
「会議の時もか」
続け様に狼が切り込む。
「そんなところ、かな? 何たって鬼殺隊はこれから、かつてない賭けに出るんだからね。御屋形様も、私も義勇も鱗滝先生も。柱の人たちも皆、腹を切る覚悟で禰豆子ちゃんを容認しなきゃいけない。それを通すのには、命を賭けるくらいのことじゃなきゃ」
「禰豆子が耐えられなくば、どうしていた」
淡々と狼が尋ねた。責める口振りではない。
「賭けてから負けを憂慮なんてしちゃ駄目。それじゃあ本当に負けちゃうよ。でも、私は狼さんのあの笛を当てにしていたから、なかなか吹いてくれなくって、ちょっと焦ったけどね」
冷徹なほどに真菰は、口角を上げるだけの微笑で答えてみせた。もともと目元が柔らかいから、どうにか微笑らしい表情として映えるが。
――錆兎と義勇の最終選別から、真菰は変わってしまった。
以前鱗滝から聞いた言葉が、狼の脳裏を過った。
おっとりと物腰柔らかで、誰にでも分け隔てなく優しい、それが真菰の主な人格。裏腹に、自らの立つ場の苛酷さを知り、自身のみならず、同士にさえ厳格なことを施す。優しい故に厳しい。
温和と苛烈。背反する二つの人格を、さしずめ紙の表裏と同様に垣間見せるのが、今の彼女である。
柱の位を固辞するのも、彼女が己にも厳しいため。葦名流の秘伝を、狼に実際に見せてもらい、実際に受け、そうして『渦雲渡り』を会得してもなお、雲柱を拝命なんぞ頭の片隅にも無い。
「何はともあれ、これで心置きなく禰豆子ちゃんと仲良く。私は勿論、他の柱もきっと支援してくれると思うよ。不死川君は……友好的とは言えないけど、少なくとも禰豆子ちゃんを追い出そうとはしないかな。あの試しを実行したのは他でもない、不死川君なんだから、それが通った以上は彼も反故にはしないよ」
真菰の意見に、本当にそうだろうかと炭治郎は一瞬疑念を抱いたが、しかし思い返してみれば、あの不死川という男は、一見して知性のない野獣の如き男でありながら、御屋形様・産屋敷の御前に於いてはしっかりとした敬語を扱える者ではあった。それを考慮すれば、得心の行くかもしれない。
裏を見れば、真菰はその律義さに付け込んで、敢えて不死川にあの試しをやらせたとも言えるが……。
真菰が病室を後にしたのち、炭治郎らのお見舞いに来た村田に話してみると、
「悪く思わないでくれ。不死川さんも過激だってこともあるけど、柱の方たちを納得させるにはあれくらいじゃなきゃ効かないんだよ」
やや苦い顔つきで村田は、腕を組みながら語った。
「とかく鬼狩りっていうのは、過酷って言葉以外に言い表しようがないくらい過酷だ。甲頭は隊士の統率と管理が主な仕事で、その頭の甲頭筆頭となるともう気が狂う仕事だ。そんな中でお頭が出した結論が、嫌われてでも皆を鍛え上げて、出来るだけ死なないようにするってことだったんだ」
炭治郎の胸に嫌な感覚が落ちた。泥を飲み下したような、けれど吐き出せない気持であった。
最終選別でのあの鬼の言葉。
錆兎の活躍のお陰でその年は彼以外は全員合格だったものの、所詮それは死を先延ばしにしたに過ぎなかった。もしそんな無駄なことをせねば彼は死なずに済んだ、謂わば錆兎の犬死に過ぎなかったと。
そして、その犬死をさせたのが、真菰であったとも。
「嫌な仕事だよ、甲頭ってのは。部下を引っ張るために、自分が前に出て鼓舞しきゃならないことも多々だが、任務を遂行するために、部下が死ぬと分かった上で指示も出さなきゃならない。挙句部下からは嫌われるわ、縦しんば好かれても、そいつらを鬼にけしかけなきゃならないわ。少なくとも俺は、そうしておめおめここまで生きながらえてきた。全く割に合わん」
と喋くる村田を見て、ふと炭治郎は那田蜘蛛山の様相を想起した。
操られ、したくもない同士討ちをさせられ、たとえ身体が壊れて悲鳴を上げようと、お構いなしに無理な動きをさせられ、最早殺されるより他ないという土壇場まで追い詰められた人たち。
相手と自らの力量差を見誤ったとはいえ、太刀打ちしようのない鬼相手に挑み、敢え無くサイコロステーキにされた人。
つい先日知り合ったとは言え、それなりに互いに人となりを見たはずの善逸や伊之助も、炭治郎の見ない間に危うく命を落とすところであった。
それを見つめることが、甲頭の務め。
「……村田さんは、何のために? 仲間……真菰さんのために?……」
どうにか口を開いて、炭治郎は尋ねた。
「甲頭になったことか? いやいや、俺は嫌々なったんだよ、どっかの口下手柱様が勝手にお頭に推薦してくださったお陰でな!」
と、皮肉を含んだ苦笑で言ったものの、
「けど――」
と挟んで村田は、
「俺が甲頭になれるだけの実力を付けられたのは、それだけの修羅場を潜ったからではあるけど……、そもそもそこから生きて帰ってこられたのは、死にそうになった時はいつもお頭が生きて連れ帰ってくれたからなんだよな……。やめられないのは、事実だよな、この仕事」
しみじみと村田は紡ぎ続ける。
「俺程度に何が出来るって話だが……、それでも、部下どもを置いて、一人責任から逃げようって気がして、どうにも辞められないんだよな、この仕事……」
満更でもなさそうに彼は、そう結んだ。
――死するとも なほ死するとも 吾が魂よ 永久にとどまり 御国守らせ
『桜花』特別攻撃隊 緒方穣海軍中尉 辞世の句
史実での事柄に言及することで我々の世界と地続きなんじゃないかと感じさせる手法すこ。
当時の証券取引ってどんな感じだったんだろう。