舞う花びらの、鮮やかで華麗な太刀筋であった。
ぼんやりと受け待つ者の手には自ずから降り立ち、乱暴に掴み取ろうとする者の手からはひらりと抜け、決して捕らわれることのない。
この上なく、綺麗だった。
「危ないっ!」
その叫びで狼は我に返り、迫り来ていた刃を忍び義手で防いだ。間一髪、相手の刀は狼の頸を斬ろうというところで阻まれていた。義手の尺骨部が刀の反りより下辺りとぶつかって、切っ先が狼の頸に触れるか触れないかというところまで来ている。
「ごめんなさい! 大丈夫? 怪我とかは……」
刀を持っていた彼女、胡蝶カナエは慌てながら狼に寄って彼の肩に手を置いてその首筋を覗き込む。
「大事ない」
と言って狼はそっと押し返した。
「でも……」
「本人が大丈夫なら、大丈夫なんじゃないの、姉さん」
と横から声を掛けてきたのは、カナエの妹である胡蝶しのぶであった。
「そもそもこの人に直接話を聞くなんて意味ないのよ。だって、この前運び込まれた時に、どこが痛いとか訊いてもちっとも答えてくれないんだもの」
素気無いことを言いつつしのぶは、一歩下がった所から狼の首筋をそれとなく覗き込んでいた。
「私が声を掛けなかったら、あの剣筋だと頸動脈行っていましたよ、貴方もご存知でしょうけど、切っ先が一番鋭いんですからね。それにしても何をぼんやりしていたんです」
何気なくしのぶはそう尋ねた。それだけに彼女は、次に狼がどう返すか予想もしていなかったために、
「すまぬ。綺麗なもので、見惚れておった」
狼に臆面もなく答えられて、しのぶは瞠目した。
「やだわ狼さんったら、褒めても何も出ないわよー」
言われた当のカナエのほうは、手招きをするみたいに片手を前に振って切り返した。こういったことは言われ慣れているためだろう、どうかすると、当人ではないしのぶのほうが泡を喰っている様子であった。
「花の呼吸……と言ったか。教えていただき、かたじけない」
「え、ああ、そっち? いいええ、力になれたなら何よりよ。それで……何か掴めたかしら」
「試さぬことには、分からぬ」
そう言って狼は背を向け、この広い庭の中で誰も居ない方に向かって構えた。
一歩二歩と踏み込みつつ狼は一回り。それで付いた勢いのまま、錐もみに回転しながら狼は飛び上がった。
雲の呼吸『暮の叢雲・桜舞い』
昇るさなか、狼を中心に幾重もの斬撃が発せられ、そして昇り切ると、最後に大きな円を描く一太刀が振られた。舞うような身のこなしで振られる刃の軌跡から、桜の花びらが散るのが幻視される。さながらそれは、つむじ風に巻きあげられた花嵐が、再び儚げに地に降り行く様であった。
わぁ、という声がカナエの口から漏れた。しのぶに至っては、感嘆の声も無いという有様。
まだ人を殺める者の振るう剣の無骨さはあれど、忍びの身軽さに、花の呼吸の絶妙な弛緩による素早さと柔軟さを足した剣の舞は、軽快でありながら力強い。
トッと小さく音を立てて着地した狼に、パチパチとカナエは小気味良い拍手を送った。
「凄いじゃない! もう花の呼吸を取り込んだのね!」
カナエの称賛は、どちらかと言えば素晴らしい演舞を見た時のそれであった。
「まだ粗があるにしても、こんなに短い間に?……」
と呟くしのぶは、驚愕を通り越して胡乱な眼になっていた。
技を繰り出してみて狼は、動きにはまだ粗があると感じた。
「それに、息も上がっているじゃないですか。まだ馴染んでもいないのか、はたまた無理に別の呼吸なんて使おうとするから……」
しのぶの言う通り、水の呼吸に違う呼吸を綯交ぜるのは実に負荷が強かった。『花』は『水』からの派生でありながら、ここまでの負担になるのなら、全く系統の違う呼吸ならば如何様になったやら。長い道のりを走っている最中に呼吸が乱れると苦しい、ましてや呼吸の仕方を変えるとなるとより厳しくなる、と例えれば解りやすいか。
やはり、今のままでは雲の呼吸をより強く昇華させることは叶わないであろう。呼吸の仕方に、改善の余地があるようである。より強靭な肺活力も然り、如何なる呼吸の一部分でも取り込めるだけの、それこそ雲の変幻自在を現したような柔軟な呼吸法を作り出すことが急務である。
さもなくば、あの男と――上弦の弐と渡り合うには、話にならぬ。
「修練を続ける」
「駄目です! そんな調子で続けていたら持ちませんよ。最悪、肺が破けたり、呼吸に使う筋肉が断裂します」
と、新たな呼吸の研鑽の続きを敢行しようとする狼の衣服を、しのぶは背中から掴んで引き止める。
「然したることでもない」
肺が破けようと致命的な負傷をしようと、竜胤の力がある限り問題はない。
「駄目と言ったら駄目です! いくら貴方の治癒力が異常だとしても、そんな損耗をみすみす見逃すわけにもいきませんからね! 基礎もなっていない生兵法の技を、無闇に練習したところで身に付くわけもないですから!」
両手を腰に当ててしのぶは、狼の前に立ちはだかる。狼が別の方を向いても、他の所へ行こうとしても、それを追って彼女なりに厳めしい――端正な顔立ち故に迫力が無くむしろ愛らしい――顔で、彼が刀を振るのに邪魔となろう正面に陣取るのである
そこへカナエが横から、顔を覗かせるように、身を傾けて狼としのぶの間に入ってきた。
「しのぶの言う通りよ、薄井さん。課題に積極的に取り組むのも良いかもしれないけれど、逆に敢えて温めておけば良い閃きもあるかもしれないわ。それに、薄井さんはいつもせわしい感じがするし、この際ゆっくりと腰を降ろして休息を取ってみるのも良いんじゃないかしら」
一見してしのぶに肩入れし、狼を説得する風ではあるが、穿った見方をすれば狼としのぶを取りなそうとしている節が看取される。
「そう言えば薄井さん、あまり食べていないわよね。お腹空いていない?」
「……」
とカナエから指摘されて狼は、空腹を自覚して、自身の腹に視線を下げた。それでも何も言わなかったが、否定もしなかった。元々そういった主張をしない性格もあるが、食事などといった、任務などで制限されるものについては、言ったところで解決するでもなく、どころか口に出せば余計に苦悶となるために、殊更に主張をする習慣が無いのである。
「あらあら、その様子だとお腹と背中がくっつきそうってところかしら」
「……」
狼が何も発さないにも関わらずカナエは勝手に話を進めた。これについても狼はムッツリと何も言い返さなかった。
「何か食べましょうか。折角なんだから、薄井さんが美味しいって思える物を食べたいわね! ね、薄井さんの好物って何かしら」
「……おはぎだ」
「まあ! おはぎ! 良いわねぇ。ちょうど頂き物の小豆があるの!」
「……」
これにも狼は、取り立てて引き止める真似はしない。もう修練の続きをしようという気にならず、興ざめした様子で納刀した。
「あ、でも……、もち米はあったかしら」
と、顎に指を当てて上を向いて考え込むカナエを見て、はたと狼は、たしか米を持っていたはずだと思い出し、
「これは、どうだ」
自分の懐を探って取り出した、巾着に包まれた米を差し出した。
「あら、これってお米? わ、綺麗な白、雪みたい。色褪せてる所が無いわ。これ、使っちゃって大丈夫なの?」
「よい。頂き物だ」
「なら、これ、使わせてもらうわね。あ、薄井さんも一緒に作りましょ。おはぎの作り方くらい、知ってても損は無いと思うわ」
そう言ってカナエは、狼の否応を聞かずに彼の腕を掴んで引っ張った。
「えっ、ねえ! 姉さん、私は?」
「しのぶは待っててー! とっておきの作ったげるから、楽しみにしててちょうだーい!」
とだけ残してカナエは、しのぶが追いすがるよりも早く、炊事場へと小走りで駆けていった。
着いたそこで狼は、カナエに促されるままに手を清め、殊更に拒否する理由も無かったので、彼女と一緒におはぎ作りに臨む。
忍び義手は、外しておく。左手が使えぬのは不便だが、この義手は、食物を扱うにはあまりに血を吸い過ぎた。
狼が提供した物の半分の量のうるち米を混ぜ米を洗い、少しの塩を入れた水にしばらく浸けてから炊く。これと並行して、餡子を作るためにまず小豆を渋切りし、それから芯が無くなるまで適度に水を足しながら煮詰める。
「ここでミソなのは、この煮汁を取っておくの。しばらくすれば沈殿するから、うわずみを捨てて、小豆と一緒にもう一度煮る。そこに砂糖と、あと水飴ね」
「そんなに入れるのか……」
ただでさえ狼の居た時代では砂糖が貴重で、しかも葦名という閉鎖的な土地では更に価値が跳ね上がるという物を、そこまで惜しげもなく使われるのは、いくら現代大正の世に慣れてきた彼とて、ゾッとしなかった。
「あらあら、甘いのはお嫌い?」
「……そうではない」
今昔の感覚の板挟みに戸惑って言葉が出ない狼であった。
カナエは小首を傾げて訝しむも、必要以上に喋らない狼ならきっと話さないと思ったのか、気にせずそれ以上深追いをしなかった。
「ところで、何故俺をここに連れてきた」
話が行き詰ったところで、狼はかねてからの疑問を呈した。
うーん、とカナエは一瞬だけ沈思し、
「一緒に居たかったから、じゃ駄目かしら」
いささかぎこちない笑みを浮かべながら言った。
「……」
無言のまま狼が見つめ返す。これを受けてカナエはその笑みのまま膠着する。
しばしそうした睨めっこをしていると、ようよう彼女は顔を赤らめて、
「ご、ごめんなさい! 冗談、冗談! 慣れないことはするものじゃないわねぇ……」
狼から目を背けるように再び釜に顔を向けた。
どうも彼女ははぐらかすのは不得手であるらしい。さもなければ、嫁入り前の身で、慣れてもいないはずの甘言を使うわけもない。
「……やっぱり、分かっちゃうかしら」
「話の進め方が、唐突だった。……何か、悩み事か」
「悩みって言うより……前に薄井さんが言っていたこと、思い出してね」
「言っていたこととは」
ここに来て少し経つが、狼としてはそれほどのことを言った覚えはなかった。
「薄井さん、自分には人斬りの術しかないって、言ってたでしょ」
「ああ」
カナエに花の呼吸の教えを乞うた際に、左様なことを言った気がすると、狼は想起した。
餡子と飯が炊き上がったので、いよいよおはぎを握る。餡子を幾らか取って適当に延ばし、その上に半分潰した飯を乗せ、丸める。片手でやるには少々コツが要るが、出来ないわけではない。
「私、薄井さんはそれだけの人じゃないって思うの。あなたからはそぞろに、哀しみさえある優しさを感じるの。そんな人が、自分が人斬りだけが能だなんて思っているのが、一寸腑に落ちなくて……」
狼に顔を向けず、おはぎを握りながらカナエは言った。取り立てて表情を作っているでもなけれど、端正な顔に、生まれ持った垂れ目のせいか、その横顔は愁いを帯びているものに見える。
「……」
「薄井さんがお米をくれた時、閃いたの。薄井さんも、おはぎの作り方でも学べば、それを自覚するんじゃないかしらって。恰もよく最近、おはぎの作り方を、教えてもらったから」
微笑むカナエの顔は、どこか自信が無さげであった。おはぎを握る手は、妙齢の女らしく細いけれど、それにしても逞しく、傷跡が多く、皮が厚かった。料理などといった女らしいことよりも、刀を振っていた時間のほうが長かったに相違ない。
そんなことは、とても言えないが。
「さ、出来た! うん、良い出来ね。早速皆にも食べさせましょう。あっ、しのぶ! ちょうどよかった、おはぎが出来たから、皆を呼んできて!」
カナエは、たまたま近くまで来ていたしのぶを呼び止めて、頼んだ。
「あー、はいはい……」
嘆息しながら露骨に呆れを見せつつ、しのぶは言われた通り、この屋敷の皆を呼んできた。
そうして来たのは、この屋敷に住む少女らであった。胡蝶姉妹を除き、八人居た。まずカナエの継子である三人の隊士と、十は行くか行かないかという三人の少女きよ、すみ、なほ。鬼殺隊士志望の神崎アオイに、最近人買いから保護したという栗花落カナヲである。
自らの愛想のアの字もない仏頂面を自覚している狼は、彼女らがこちらをあまり意識しないよう、そっと一歩下がって気配を消そうとした。ところが、カナエによってその腕を掴まれ、引き寄せられた。
「今日はねぇ、おはぎ作ったのー! ここに居る薄井さんがくれたお米を使って、一緒に作ったの!」
とカナエが言ったことで狼の存在は彼女らの知るところとなり、果たして彼女らが浮足立ったものと、そこはかとなく狼には見えた。
「ほら、ほら、食べてごらんなさい」
というカナエの一言で、おっかなびっくりながら彼女らは各々一つずつおはぎを手に取る。最後に取ったのはカナヲで、彼女はしのぶから、「取って食べなさい」と指示されてようやく動いた。
「おいひっ!」
めいめい口にしたところで、誰かが花が開くような声を上げた。
くどいほどに甘い餡子が口の中でしっとりと溶け、半分潰れた米がほろほろと綻び、舌の上で餡子と一緒に泳ぐ。塩と炊いた米の、分からぬ程度のかすかな塩味が、きっと甘さを引き立てているのだ。
狼の時代の塩餡子のおはぎの慎ましい甘さとは比べ物にならない、贅沢な甘さであった。
「ね、薄井さん、ほら見て」
狼の肩に手を置きながら、カナエは彼から少女たちに目を移した。見れば、彼女らは喜色を湛えた面持ちで舌鼓を打っている。
「皆、狼さんのおはぎで、あんなに笑顔になっているのよ」
染み渡る声で、そっと囁く。
互いに顔を向け合い、楽しげに美味しいよねと言い合う、継子の三人。
幸せそうな顔で顔を綻ばせる、きよ、すみ、なほ。
情緒が判然としないながらも、口元に餡子を付けて旨そうに咀嚼するカナヲに、自らも味わいつつもそんなカナヲの口元を拭ってやるアオイ。
いつもしかめっ面をしているしのぶも、眉間を寄せつつも、小さな口の中に頬張ったおはぎに、頬を桜色に染めて味に夢中になっている。
「あなたは、人斬りの力ばかりの人じゃない。こうして、女の子たちを笑顔にする能もあるの。それだけは、忘れないで、心の片隅に留めておいて」
この時では、印象には残れど、狼の心中にしかと残るものでもなく、ただ記憶のどこかで揺蕩う程度であった。
カナエから贈られたこの言葉は、狼の心にいつまでも焼き付くことになる。
それは、のちに彼女が命を落とした時。
「あれれー? おかしいなー、たしか君は死んじゃったはずなんだけど。あの手応えは確かにそうだった」
頭から血を被ったような、虹色の瞳を持つ鬼が、口元に折りたたんだ鉄扇を当て、小首を傾げた。
「しかし残念だなぁ。折角彼女を救済してやれると思ったんだけど……、気息奄々のその娘に対して、夜明けまでの時間は短い……。とんだ横やりが入ったものだ」
上弦の弐・童磨と対峙する狼の背後で、命に係わる深手を負ったカナエが、咳き込み吐血した。
「姉さん! お願い、しっかりして! 大丈夫だから!……、すぐ治すから、だから目を閉じちゃ駄目!……」
彼女の身体を抱え、悲痛なまでに届かぬ哀願をするしのぶ。
「おや、その娘――。ふうむ……」
狼の横から顔を出すように、しのぶを見やる童磨が、うんうんと何やら頷いた。
狼がその視線から彼女を庇うように、自らの身体で隠すと、おっと童磨は気が付いたように狼に目を戻し、
「ま、今度も仕方ない。ここは引き下がろう。でも……いずれまた、ね」
含みを持たせた科白を残して、童磨は去っていった。これを見届け、念のためしばらく注意を配っていた狼だったが、やがてゆっくりとそれを解き、それからカナエとしのぶに向き直った。
しのぶに抱えられているカナエの傍らで屈む。その時には最早カナエは、今にも事切れるといったところであった。その状態でカナエは、朦朧とするであろう意識の中、緩慢に顔を狼に向け、碌に力も入らないであろうに震える唇を動かした。
「ごめ、ん、な、さい。お、ね、がい、ね……」
と残して、彼女は逝った。
これがどんな意味を持つのか。事切れる間際で言ったからか、詳らかには分からない。
その言葉を反芻する内に、かつて言われた言葉が喚起された。その言葉は、さながら燃え盛る炎で局所が焼け残るが如く、心の中に焼き付いたのである。
たとえ、これらの出来事が無かった事になろうとも、起こった事実は絶対に変わらないのと同じで、消えることはない。
デジャヴのように。
『桜の呼吸
呼吸術「桜の呼吸」を習得する
花の呼吸を取り入れた葦名流
一部の技を花の呼吸で強化出来る
この時代に来た当初
鬼を斬り裂くすべを持たぬ狼に
誰かが教えてくれたかもしれぬ、
思ひ出の呼吸
だが、そのもしもは無かった
故にこの呼称がされることはない
ただそっと、技の中にのみ根付く』
『おはぎ
変若の御子がくれたお米で、
狼とカナエが拵えた、おはぎ
一定時間、HPがゆっくりと中回復し、
加えて体幹が常に回復するようになる
人斬りだけが能だった
そんな狼でも、少女を
笑わせるくらいは出来た
昔、義父がくれた、あのおはぎ
如何な心持で、あれをくれたか
今になって、分かった』
どうでもいい余談
文中で「あたら」という言葉を使った箇所がありましたが、私はあれを「みすみす」と同じ意味の言葉と勘違いしてたので、修正しました。「あたら」とは、何かを惜しんだり勿体無いといったニュアンスの言葉です。皆さんもご注意を。