炭治郎を迎えにゆき、そのまま一夜を越した狼が、翌朝炭治郎と共に竈門家へ戻る矢先だった。何か不吉な臭いを嗅ぎ付けた炭治郎が、突如として走り出した先にあったのは、竈門家の変わり果てた家族たちの骸であった。
どれもこれも悲惨な死に様であった。室内じゅうに飛び散った血は天井にまで至り、いずれの血が誰から流れた血なのかも分からぬ有様。
玄関先で、もう動かぬ六太に覆いかぶさって倒れこんでいる血塗れの禰豆子。
隅っこのほうで、葵枝が壁にもたれ掛かりながら絶命していた。その背中には、花子の死骸があった。きっと葵枝は、我が子を庇おうという涙ぐましい試みをしたのだろうが、無情にも彼女は我が子諸共貫かれてしまっていた。
竹雄は、狼が狩りに使っていた弓と矢を手に、仰向けになって事切れていた。その背中には茂が下敷きになっており、こちらも同様に手遅れであった。
これらを前にして取り乱す炭治郎を見て、呆然と狼は立ち尽くしていた。が、すぐに持ち直し、そして気付いた。
竈門家の者たちは軒並み息絶えていたが、禰豆子には、虫の息ではあるがまだ息があったようだった。すぐ近くに倒れていたから、分かった。
「まだ生きてる!……、まだ生きてます、狼さん!……」
狼が言及するより、先に炭治郎が言ってきた。分かっているとばかりに、すぐさま狼は禰豆子を背負い上げ、走り出した。炭治郎もそれに続いた。
その道中狼はやや足を遅めて走っていた。一般人である炭治郎は、狼の忍びの足について来られないであろうからだ。まだ下手人が近くに居るやもしれぬ中で、気が動転している炭治郎を置いていくわけにはいかなかった。
しばらく走っていると、やがて前方から、人影が見えてきた。
狼は足を止めた。それから、背中に負っていた禰豆子を下ろし、怪訝な顔をする炭治郎に託した。遠目からでは分からぬが、狼の持つ忍びの目には、そのやって来る人物の不審な風体に気が付いたからだ。
風呂敷の中に隠していた刀を取り出し、腰に帯びて柄本を握る。そう警戒しながら、その人物を見た。
「お主……」
「あの時の……」
驚いていたのは、向こうも同じであった。
鬼殺隊、水柱・冨岡義勇。ふた月程前に、狼が出会った男だった。
義勇は、狼の背後に居る炭治郎の背負う禰豆子に目をとめた。
「鬼か」
そう彼に問われ、狼はコクリと首肯した。
「そうか……、遅かったか……。俺があの鬼の追跡を、もっと早く断念していれば……」
と、義勇は何やら独り言を呟いた。
「どういうことだ」
それを聞きつけた狼は問うた。
いささか動揺したように義勇は狼を見返し、それから少し間を置いて、やおら口を開いた。
「お前が二か月程前に取り逃がした鬼だが、結局奴は逃げおおせた。あれほどの傷を負って、血鬼術――妖術みたいなものを使って消耗していたにも拘わらず、遁走にあたって一人も人を喰っていなかった。おそらく痕跡を残さないためだろう」
そう語る彼の口調は、責めるようであった。
「そうか……」
狼は、悟った。
もしあの時、鬼に確実にトドメを刺し、この目の前の男、義勇が追いかける必要がなければ……。
ならばせめて、狼が昨晩、竈門家に留まってさえいれば……。
そうしていた時であった。
炭治郎の背中に居た禰豆子が、急に呻きだしたのであった。苦しそうな声であった。重傷を負った人間が呻き出す、それは症状が悪化していることを示す。
まずい状況になった。
禰豆子を見やりながら狼が思案していた隙である。
「狼さん前ッ!」
突然炭治郎が叫んだ。
ちょうど義勇の方を向いていた炭治郎は、義勇が抜刀してこちらに走ってきているのが見えたのだ。
間合いに入り義勇は、刀を顔の横で、切っ先を向けるように構え出す。
全集中水の呼吸『漆の型・雫波紋突き』
義勇が扱う剣術の型の中で最速の突きであるそれが狙っていたのは、炭治郎――否、禰豆子であった。端から炭治郎などは狙っていなかった。狙うは禰豆子のみ。
豪雨の落つる雫の如く鋭い突きは、炭治郎の認識を置いてきぼりに、禰豆子の顔を刺し貫き、そうして炭治郎の背中から引き剥がすはずであった。
それが弾かれた。
いつの間にか抜刀していた狼によって、その突きは甲高い音と一緒に上にかち上げられていた。
泡を喰った義勇に出来た隙を突き、狼は肘打ちと掌底を喰らわせた。それから背撃による追い撃ちを仕掛け、義勇を後退させた。
仙峰寺拳法『拝み連拳・破魔の型』
瞬時に立て直した義勇は構えを取り、同じく霞の構え(切っ先を相手に向け頭の高さで構える形)の狼が睨み合う。
たった今、瞬く間に行われた一連の攻防を追い切れなかった炭治郎は上手く状況の把握が出来ず、しかしそれ故に凄まじい駆け引きに激しい緊張感を持っていた。
「行け」
と狼から掛かった声に、炭治郎はハッと我に返った。
されど炭治郎は、ここに狼を置いて行ってよいものかと躊躇する。
「早く行け。為すべきことを為せ!」
いつになく声を張る狼に、俄かに炭治郎は気が引き締まり、いささかの逡巡をしたのちに、
「お医者さんの所で待ってます!」
と禰豆子を連れて駆け出した。
それを義勇は、対峙している狼に意識を置いたまま、目で追ってから再び狼へ目を向けた。
「退いてくれ」
「出来ぬ」
「あの娘は鬼になっている」
「それはどの意味でだ」
「鬼にされているんだ。人を鬼にする力を持った、鬼によって」
そう告げて義勇は、構えを解いて、敢えて納刀した。
「話すのは無駄だ。あの少年を追う」
見ての通り、今義勇は説得に回ろうとしている。
先ほど義勇が繰り出した高速の突き。あれは本来なら、炭治郎が警告を発していた時点で既に遅かったはずだった。
狼が攻撃に気付き、抜刀して対応するより前に、あの突きは禰豆子に届いたはずだった。それを狼は見事に弾いてみせた。その居合の速さもさることながら、彼は義勇が発した殺気をあらかじめ察知したことで、対応を間に合わせたのだ
このことから義勇は、狼を相当な手練れと読んだ。而して、彼と戦うことは無意味、いわんや強硬手段で禰豆子の首を切り落とすなどは愚の骨頂と判断し、説得に回ろうとする次第であった。
尤も、義勇自身の口下手が原因で、問答無用に禰豆子に危害を加えようとしているようにしか見えないのだが……。
その膠着状態となった空気が、遠くから聞こえた炭治郎の叫び声によって打ち破られた。
須臾にして狼と義勇は敵対を解き、走り出した。声を頼りに駆け付けた先には、何と、今まで重傷を負い虫の息だった禰豆子が、実の兄であるはずの炭治郎に、殺意をもって襲い掛かっていた現場であった。
これに愕然となったのか、立ち止まる狼。義勇はそんな彼を追い越して、刀を抜いて禰豆子に突っ込んでいった。
ところが、義勇がそこへ肉薄した時、どこからか不思議な笛の音色が響いてきた。
その笛の音は、谷の中で木霊するかのように幾度も響いた。まるで、子供とはぐれた母鳥の、悲しげな声だ。
それから義勇は瞠目した。何と、その笛を聞くや否や、炭治郎に圧し掛かっていた禰豆子が、頭を抱えて炭治郎から退き、涙を流しながら蹲ったのである。
「これは一体どういうことだ……」
義勇は辺りを見回し、笛の音の主を探した。それはすぐそばにいた、ちょうど彼の背後だった。そこには、左手の義手から取り出した、人の指で出来た笛を吹いていた狼が居た。
――これらのような出来事があってから、もう二年が経つ。
結局義勇は、鬼と化した禰豆子を見逃すことにした。必ずではないが、禰豆子は安全だと判断したためだ。
そして、その禰豆子を元の女の子に戻す方法を探すために、炭治郎は鬼と戦うべく鬼殺隊に入ることを決意した。
それにはまず炭治郎は、鬼と戦う剣術を修める必要があり、これを為すにあたって義勇から紹介された、鱗滝左近次という育手の下で『全集中の呼吸・水の呼吸』の修業をすることとなった。
この鱗滝左近寺という男は鬼殺隊の元水柱であり、炭治郎を鍛錬するにはこれほどの人材はいない。
想像通り、鱗滝の修業は、狼が見た限りでは命の危険があるほどに過酷なものであった。
それを炭治郎は一年も耐え抜いた。その果てに鱗滝から、巨大な岩を斬るという最後の課題を課された。これを越えた先で、最終選別という、鬼殺隊に入隊するための試練に臨み、これを切り抜ければ晴れて炭治郎は鬼殺隊の一員というわけである。
その最後の課題に炭治郎が取り組み、かれこれ一年程。
一九一五年(大正四年)
「酒だ」
「頂こう」
狼から差し出されたサカズキを、鱗滝は受け取った。
そのサカズキに、狼は徳利から酒を注いでやった。
被っていた天狗の面を取ってから、鱗滝は舐めるように酒を飲んだ。
「そうか……、義勇がそんなことを言ったのだな」
天狗面を取った人相は、実に優しげで、如何にも好々爺といったものであった。炭治郎にあれだけ厳しい言葉を投げ掛け、過酷な修業を課した者とは思えぬ。
「悪くは思わないでほしい、あの子は少々口下手なだけなのだ。聞くところに拠れば、貴方が追い詰めた鬼はなかなかに手強く、十二鬼月か或いはそれに匹敵するやもしれん」
鱗滝の狼に対する言葉は、炭治郎への厳格さとは対照的に丁寧であった。これは即ち、彼が狼の器を見抜いた上での敬意である。
「義勇は、事もあろうにそれを取り逃がした己を恥じたのだろう、故に責めるような口調だったのだろう。決して、貴方を責める意図はなかったはずだ」
「そうか」
「返杯を」
今度は鱗滝が、狼にサカズキを差し出したので、
「ああ」
狼は受け取り、酌を受けた。これをひと呷りし、またサカズキを鱗滝に返した。
狼の義父・梟は下戸で、すぐに赤くなったものらしいが、狼は平気なようだ。
「炭治郎は、あの大岩を、斬れるのか」
もう一度サカズキに酒を注ぐ鱗滝に、ふと狼は尋ねた。
「おそらく、無理だろう……」
サカズキに口が触れようかというところで、鱗滝はそれを持つ手を下げて、ポツリと言った。
「この大きさならきっと無理だろう、とのつもりで選んだ岩だ……。斬れんで当然だ……」
「……」
悔い改める口吻の鱗滝に、狼は非難するでも憐れむでもない、知ってか知らずか分からぬ、変わらぬ仏頂面を向け続け、先を促すように黙り込んでいた。
「……十五人」
重苦しい沈黙ののち、ゆっくりとひり出すように、鱗滝は言葉を紡いだ。
「炭治郎を含め、これまで私が指導してきた子の数だ。その中で最終選別を抜けてきたのは、
「俺に水の呼吸の型を――鬼の斬り方を教えたのも、そのためか」
「貴方も見たはずだ。私と貴方がたが会った時。あの子は優し過ぎるのだ。普通、鬼に家族を殺され、ましてやこちらを喰らおうとしてきた鬼に憐憫の情を向けるなど……」
炭治郎らが鱗滝と会ったあの日、折しも炭治郎らは二体の鬼に襲われた。
血鬼術も使えぬ、さして手強くもない相手であったが、意外にも狼はこれに手こずった。まだ鬼との戦闘に不慣れで、岩あるいはそれ以上に頑強な鬼の斬り方を知らぬ故である。
どうにか、表皮と比べて幾分か柔らかい目玉を突き潰すことで相手の視覚を封じ、そうして目が再生する間に、狼は背中に携えていた不死殺しの紅き妖刀でその鬼の首を斬り飛ばし、始末した。
少々時間を喰ったためか、始末を終えた狼が炭治郎のもとへ駆けつけた時には、もう一方の鬼は首と胴体が離れ、しかも首のほうは斧によって木の幹に拘束されていた状態にあった。
炭治郎は、これにトドメを刺すという行動が、どうしても出来なかったのだ。
「ただでさえ、百年以上も前から、二体三体一組で動く鬼が現れだしたというのに、あれでは到底鬼狩りなど出来ん……」
そう結ぶと鱗滝はそこで、はあ、と魂が抜けるような溜息を吐いた。
「これが、年というやつなのかもしれん。近頃、やけに弱気だ。鬼殺隊に入れるということは、死地に行かせることも同義だというのに、今更、子供たちが死ぬのは嫌だとは……。子供たちが死んだと悟るたびに、私自身が独り取り残された心持になって、また身体が死んでいく感覚がする」
訥々と語ってから鱗滝は顔を上げ、そうしていやに改まって狼に向き直り、
「炭治郎はきっと、あの課題を断念するだろう、他でもない私のせいで。恨まれるかも分からん。禰豆子を……炭治郎の妹を人間に戻すのを、諦めろと言っているようなものだ。――そこで、恥知らずながら、貴方にお頼み申したいことがある」
そこで鱗滝は、床に手を突いて頭を下げ、
「どうか、あの子の……炭治郎の代わりに、戦っていただけないだろうか」
最早、鱗滝は、炭治郎に見せていたような威厳は無かった。矍鑠としているのは変わらずとも、長く生きてきた中で気力が擦り減った、草臥れた老人の面影を覗かせていた。
これに狼は、幻滅するだとか、侮蔑の眼を向けるといったことはしていなかった。勿論、内心だってそんな情を抱いておらず、どちらかと言えば敬意を払っていた。
だが狼は、
「断る」
一寸間を置いて、毅然と言った。
「俺の歩む道は、炭治郎次第だ」
狼からその言葉を聞き、鱗滝は目を見開いて顔を上げた。
「……そうか」
あまり釈然としていないものの、ひとまず鱗滝は受け入れた様子で、身を起こし居直った。
「だが、貴方の持つ技なら――『葦名流』なら、或いは如何なる局面さえ切り抜けられるかもしれん。その技も、我々が扱う呼吸術と、何らかの共通する呼吸があるはずで、それを合わせれば、技に更に磨きが掛かるはずだ。呼吸術とは、何も鬼殺隊だけが扱うわけではないからな」
鱗滝が言うように、鬼殺隊以外にも、呼吸法によって身体力の補助を行う技術は存在する。
例えば、狼ら忍びが扱う技術に『忍びの呼吸』という、敵にトドメを刺すことで心体を整え、多少の負傷を和らげる術がある。これは、取り入れた酸素で肉体を活性化し、同時に傷口の血液を固めて止血する行為を、敵を倒す高揚感で強まった血流でひとしお効率化したものである。
その一方で敵方にも、深い呼吸に依って取り入れた酸素を躯幹(体幹)筋に供給することで、崩された体勢を立て直す技術を自然と習得している手練れが居た。
『エマの薬識・嗅ぎ薬』という、薬の匂いと味をよく覚え込み薬効を上昇させるものも、取り入れるのが酸素でなく匂いという違いはあれど、これも呼吸術の一種なのではなかろうか。
このように、目的や方向性が違うものの、やはり呼吸とは生物が初めて現れてから絶え間なく行われてきたものであり、故に呼吸術は鬼殺隊に限られた術ではない。
ついては、鬼殺隊が扱う以外の剣術が、鬼殺隊の剣術と融合する場合がある。
「貴方の持つ剣術と、この水の呼吸を合わせた剣術……、私はこれを『雲の呼吸』と呼んでおる」
「何だと……」
鱗滝の言葉に、狼は引っ掛かりを覚えた。
その『雲の呼吸』やらが――狼の持つ『葦名流』と『水の呼吸』が合わさった剣術が、さもかねてからあったかのような口振りであったからだ。
そこで鱗滝は、自らの傍らに置いておいた天狗の面を手に取った。
「この天狗の面をくださった方と、編み出した流派だ。私が駆け出しの頃からの知り合いだ。その方は水の呼吸の持ち味である足運びによる変幻自在な型を生かし、あらゆる戦法を自らに取り込み、そして自在に変化する、けだし雲の如き型を作り出した」
「雲の……呼吸」
「編み出した、とは語るものの、生憎と私はその雲の呼吸をとうとう使いこなせなかった。その後、試みに、教え子たちにも教えてみたが、果たして習得に至ったのは僅か一人だけだった。いや、あの子はどちらかと言えば、雲の呼吸を形にした、と言うべきか」
そう結んで鱗滝は最後の酒を呷り、天狗の面を片手に立ち上がった。
「炭治郎の様子を見に行くか。根を詰めすぎていなければよいが……」
言い残して家を後にした。
後に残されたのは、狼と、それと、二年前からずっと眠り、ずっと起きない禰豆子であった。
いつ起きるか、その見込みは定まっていない。ひょっとしたら、もう起きないかもしれない。それでも炭治郎は、いつか彼女が起きると信じて、ひたすらに修業に明け暮れていたのだ。
狼は、莫迦みたいにそれを見守っていただけだった。
自然と狼は、背中に携えていた赤の大太刀に触れた。
不死斬り『拝涙』――それがこの刀の名だ。
この太刀には、不死を殺す力がある。が、同時に、抜いた者を一度殺す刀でもある。故に狼は、これを片時も手放したことはない。左腕の義手と、腰の打ち刀『楔丸』は、身から外したことはあるが、この不死斬りだけは、他の者の手に触れることがなきよう、常に背中に括り付けていた。
おもむろに狼は、不死斬りの柄を握り、抜いた。その朱色に塗られた鞘から、禍々しい刀身が覗いた。そこから溢れる赤き妖気を、狼は肌で感じていた。
二、三寸程抜いた辺りで、狼は再び鞘に納めた。鯉口と柄元が打ち鳴らされ、音が響いた。
そのまま狼は、胡坐の形で瞑想に入って、鱗滝と炭治郎を待った。
果たして、鱗滝と炭治郎は帰ってきた。それも、炭治郎が、ついにあの大岩を斬ったのだという成果を持って。
「やったんです、狼さん!」
「ああ」
嬉々として報せてくる炭治郎の背後で、鱗滝が頷くのを、狼は見た。
その晩の食事は、やけに豪勢であった。川魚焼きや、動物の肉や山菜を味噌で煮込んだ鍋。全ての修業を乗り越えた祝いだと、鱗滝は言った。
相伴した狼は、纏わりつくように味噌の味が絡んだ肉に、驚いた。あまり物事に動じない狼が、驚くほどに、その鍋は美味かったのだ。狼の時代では味噌が貴重だったこともあるが、時代が進んだことで味噌の味も良質なものになったことも、美味に感じられた理由だろう。
美味な食事に、安らかな眠りでつかの間の休息を取った炭治郎は、後日、最終選別に出発することになった。
出発する炭治郎に、狼は御守りを差し出した。
「これは、御守り?……」
「苦難を抑え、守ってくれる。お主が持っておけ」
この御守りは、かつて狼が仕えていた、竜胤の御子である九郎が、狼と竜胤の契りを交わした際に密かに彼の懐に忍ばせていた物であった。爾来これは、降りかかる艱難辛苦から、狼をずっと守ってきた。
「でも、大切な物なんでしょう。俺が持っておくわけには……」
「なら、預けておく。いずれ、お主が必要としなくなった折に、返しに来い」
「……解りました。これは、いずれ俺が十分強くなるまで、お借りします」
決意した面持ちで、炭治郎はその御守りを受け取った。
こうして狼は、さらなる苦難へ足を踏み入れた。
「代わりにってわけじゃないですけど、これを」
と、入れ替わりに炭治郎が懐から取り出してきたのは、クナイの形をした簪であった。
「これは……」
「二年前、狼さんが禰豆子にくれた、あの簪です。鬼になった禰豆子と揉み合っていた内に、俺の懐に入ってきたみたいで。よければ、狼さんが持っていてくれませんか。出来るなら、狼さんが禰豆子に、改めてあげてやってください。禰豆子も、きっと喜ぶと思うんです」
手のひらにその簪を乗せ、微笑む炭治郎。少しの間、狼はその簪を眺めたのち、黙って受け取った。
『幻蝶の簪
まぼろしお蝶が使ったクナイを狼が削り簪にしたもの
歩くと音が鳴り、まぼろしの蝶々が後を追う
うら若き乙女が着飾るには無骨な代物である
しかし、後を追う蝶々のまぼろしは、霧が霞む山に住む少女にはとても似合うだろう』
「……承知した」
受け取ったそれを、優しく握り締めて、狼は了承の返事をした。その際に触れた炭治郎の手の皮は、ひどく分厚かった。それだけ多く、刀を握り、振ったのだろう。
予想していなかったわけではないが、狼はこれを、初めて知った心持であった。
家を離れていく炭治郎の背中を、狼は見送った。まだまだ未熟で、頼りないかもしれない、小さな背中。けど、少しだけ大きく、逞しくなっていた。修業を始めてから二年も経つのだから、当然だ。
でもやはり、狼からすれば、いつの間にか大きくなったという心持であった。
それから狼は、家の中に戻ろうと踵を返した。
そんな折に、
――こっちだ。
どこからか声が響いてきた。それもまだ若く、少年の声らしかった。
――こっちだ。
再度同じ声が聞こえてきたので、狼は訝みながらも、声の聞こえてきた方向に足を向けた。山の方からだ。
しばらく歩いていると、やがて、木々に囲まれた開けた場所に出た。中央辺りには、真っ二つにされた巨大な岩があった。巻かれていたであろう注連縄ごと、真ん中から綺麗に両断されていた。
「ここだ」
不意に聞こえてきた声に、狼は振り向いた。そこには、少年が居た。
顔右側、口元から頬に渡って大きな傷があり、宍色の髪の毛の、整った顔立ちの少年であった。
「いきなりの呼び出し、失礼した」
案の定、先ほどから狼に呼び掛けていた声は彼であった。
「俺の名は
錆兎と言えば、炭治郎が出発の際に口にしていた、鱗滝の死んだはずの弟子の一人の名前だ。
「貴方のことは炭治郎から聞いている。そこで、お頼みしたいことがある」
と言って錆兎は、腰に差していた刀を静かに抜いた。
「先生が一目置く貴方と、手合わせを願いたい」
その丁寧な言葉遣いは、鱗滝を彷彿とさせるもので、彼譲りであるもの見受けられた。
「勿論、無条件でとは言わない。貴方の修練の相手になる。鱗滝先生以外での水の呼吸と打ち合ってみれば、何かしら見えてくるものもあるはずだ。それと、雲の呼吸についても、何か教えられるかもしれない」
錆兎の『雲の呼吸』という言葉を聞いて、む、と狼は反応した。それを見て手応えを感じたのか、錆兎は、
「とは言え、俺も雲の呼吸を上手く扱えるわけじゃない。しかしそれなりに練習はしてきたから、何か得られるだろう」
と、ひとしお声を張って言った。
これを受けて狼は、しばしの間ののち、腰に帯びた刀の鍔に指を掛け鯉口を斬り、ゆっくりと、穏やかな音と共に刀を抜いた。
錆兎は、光栄といった様子で笑みを浮かべ、
「感謝する」
正眼に刀を構えた。
いざ――、と口ずさみ、
「――参る!」
幻蝶の簪のテキストは、『笛吹きの人』様のコメントから引用させていただきました。
あまりにもマジェスティックなテキストだったので、お願いしてみたところ、快く貸していただきました。誠に感謝を申し上げます。