ーー泣くがいい、悲しみを口に出さずにいると、いつかいっぱいにあふれて胸が張り裂けてしまうぞ。
シェイクスピア『マクベス』第四幕第三場
東京、浅草。
「いいのかい、旦那。あの坊主、追わなくて」
そう狼に言問うのは、うどん屋台の主人である。
彼の言う坊主とは無論、炭治郎のことである。彼は今しがた、何かの『におい』を感じ取って、血相どこかへ行ってしまった。
「梟を、付けた」
と言って、うどんのつゆを、狼は啜る。
出汁の風味に包まれた塩の味が、疲れた身体に澄み渡る。柔らかくも噛み応えのある麺は、七味唐辛子が程良い刺激となって、飲み込んだ後にも余韻を残す。
「梟ぉ? まあ……、大丈夫ってんなら、それでいいけどよ。脇で寝てるその器量良しの娘っ子を、こんなとこで一人にするわけにゃいけねえしな。アッツアツのうどんのつゆ、間違ってぶっかけんなよ」
主人が示すのは、狼の隣で、彼の柿色の衣を摘まみながら微睡む禰豆子のことである。
つい先日彼女は、二年間の長い眠りから、ようやく覚めた。目覚めた彼女は、不思議と大人しかった。まるで、人の肉を必要としないかのように。鱗滝が推して量るに、彼女は眠ることによって養分を蓄え、人の肉を喰らわずとも生きられるようになったとのことらしい。
ただ、それでも人喰いの気はあるため、鱗滝は彼女に竹の口枷を咥えさせ、それから、人は皆彼女自身の家族にあり、喰うべからず、守るべき者なり、という暗示を掛けたと告げた。
今こうして、禰豆子が寄り添っているのは、それは狼を家族の誰かと見てのことなのだろう。
「あんた、その娘とあの坊主の血の繋がった家族ってわけじゃないみたいだな。その左腕からして、傷痍軍人ってとこか? 年からして、十年前の戦争(日露戦争)に行ってたか。この国であんたみたいな眼をしてる奴ってのは、軍人か、
主人の推測は、最後の部分だけ当たっていた。それは二年前の、竈門家の葬式の時だった。
葬式には、喪主である炭治郎のみが参列し、鬼化した禰豆子と、彼女を見ておく必要のある狼は参列出来なかった。それで、葬式を終えた炭治郎は、実に口惜しげな様子で帰ってきた。
初めは、何があったのかを話したがらなかった炭治郎だったが、しかし、内に沈殿した嫌な気持ちに耐えかねて、とうとう涙ながらに打ち明けた。
――竈門家を襲撃したのは狼なのではないか。狼は葵枝に迫ったが拒絶されて逆上したのではないか。炭治郎に古銭を売らせて金をやったのは、端から葬式用だったのではないか。
心無い参列者らが、口々に囁いていたらしい。
泣き咽ぶ炭治郎に、慰められる言葉は無かった。
ただ、
「気にしておらぬ」
の一言ばかりを掛けたのだった。
このことは、禰豆子には見せられない。
麺を啜り終え、残ったつゆを飲み干すと、狼は二杯目の器に手を付ける。炭治郎の分だったが、今はどこかへ行ってしまったため、伸びない内に始末しようとのことである。
「何故、俺が渡世人でないと、思った」
「風変わりな奴で子供に優しいのは、傷痍軍人か、立ちん坊――特に家族や夫を失った女――くらいのもんよ。みなみんな、落ちぶれ惨めになると、恵まれない子供が可愛く見えるもんなのさ……。あの坊主もその娘も、親居ないんだろ。あの手の皮の厚さが証拠だ、銭を受け取った時に分かったぜ、親の居る子供の手じゃねえよありゃ。……ま、はぐれもんってこともあるかもしれんがな」
と語って、ガハハと笑ううどん屋の主人。ヤクザの可能性に言及しておきながら、やけに図々しい態度だ。
或いは、こういった商売をしていると、危険な人間とそうでない人間の違いには敏感になるものなのだろうか。
二杯目のうどんを片付けると、狼はもう一杯分の代金を出して、
「そろそろ炭治郎が帰ってくる」
飛んできた梟を腕に停まらせ、告げた。炭治郎が帰ってきたのは、その少し後であった。で、帰ってきた彼に、うどん屋の店主はまず最初にうどんを出した。
エッと戸惑う炭治郎に、主人は、
「俺のうどんを食わねえってのが気に食わねえ。飯は食える内に食っとけ」
と押し付けた。
困惑して狼を見やるも、狼は腰掛に座ったまま、知らぬとばかりに炭治郎に目を向けなかった。
仕方なしに炭治郎は、急ぎ啜り尽くした。うどんの熱さに舌を火傷しそうになりながら、どうにかつゆまで飲み切り、
「ごちそうさまでしたァ! 美味しかったですッ! さ、行きましょう、狼さん!」
主人が圧倒されるような凄まじい食いぶりと勢いで、炭治郎は怒涛のように捲し立てた。それから声を掛けられた狼は、未だぼんやりと眠たげな禰豆子を立たせながら、ゆっくりと立ち上がった。
屋台に背を向けて炭治郎が歩いた先には、一人の青年が佇んでいた。書生みたいな風体の青年であった。キツネ目で、気難しげな面持ちをしている。
「すみません、愈史郎さん、待ってもらって」
例によってへりくだった態度で炭治郎は話しかけるが、
「あの方から、お前らを案内しろと仰せつかった。目眩ましの術を使っているからな、場所が分からなければ、如何にお前の嗅覚が鋭敏だろうとも分かるまい」
対して青年――愈史郎は、やけに刺々しく、滔々と言った。
炭治郎に拠れば、
「この人――愈史郎さんって言うんですけど――彼と、もう一人女の人が居て、その二人はどちらも鬼みたいなんです。それも、人を襲わないどころか、鬼と敵対していると」
成程、鬼であるのなら、鬼殺隊の一員である炭治郎にその態度は妥当と言えよう。
「お前ら鬼殺隊とは敵対してはいないが、味方とも思っていない。それはともかく、何だ、後ろの鬼の娘は、何故鬼なんて連れている。それもそんな醜女を」
「……おい、今何て言った」
突然の兪史郎の禰豆子への暴言に、いつになく炭治郎は低い声で反応した。
「お前今禰豆子のこと、醜女と言ったなッ! 禰豆子のどこが醜女なんだ、言ってみろッ! 禰豆子はなあ! 町でも評判の別嬪だったんだぞッ!」
「そんなことはどうでもいい。行くぞ」
激昂する炭治郎を他所に、兪史郎は勝手に歩き出した。
「狼さんも何か言ってやってくださいよ! 禰豆子は可愛いですよね! ね!」
と、このように、炭治郎は道中ずっと、禰豆子を悪く言われたことを根に持ち続け、しきりに兪史郎に撤回を求めていた。そうしてついには、狼にも絡みだすのであった。
それに兪史郎は、呆れたような嘆息して、
「お前、忍び、どうにかしろ」
と、自分で喧嘩を売っておいて、狼に丸投げをした。
「……」
我関せずとばかりに狼は黙り込む。
そして炭治郎の絶え間ない禰豆子談義。
斯様な珍道中が繰り広げられていた、その折であった。
じろりと兪史郎が視線を後ろの方へ、むっと狼が喉の奥で声を籠らせ、スンと炭治郎が鼻を動かした。三人が何かに感付いたのは、ほぼ同時であった。
「そのまま歩け。人込みを利用して撒く」
ぼそぼそと兪史郎が、背後の炭治郎と狼に囁いた。
「撒けそうか」
狼も同様に返す。
「相手による。ひと気のある所へ行くぞ、そこで幻術を掛ける」
と告げる兪史郎の後に二人が続いて、一行は再び街中へ入った。
程よく人が居て、入り組んだ地形の場所へ来たところで、兪史郎は目配せをして、幻術の用意をした。そこで、狼が兪史郎の肩を叩いた。
「俺が引き受ける」
「……何言っているんだ、お前」
と呆れ顔をする兪史郎の目の前で、狼は自分の腕に梟を止まらせ、
「この梟を、尾けている者に敢えて見せ、その後幻術で俺以外を隠せ」
「で、梟に俺たちが行く場所を覚えさせ、お前は囮になると?」
「どういうことなんですか」
炭治郎が混乱気味に訊いた。
「向こうが俺とお前を見失い、追跡が困難になれば、代わりに、残ったこの忍びを追いに掛かるというわけだ。こいつは梟を利用して後で合流出来るからな」
「そんな!……。そもそも狼さんは隊士じゃない。元々は俺はこの街の鬼について調査しに来たんです。尾けてきている奴が件の鬼なら、ここは俺が――」
「その件の鬼とやらは俺とあの御方のことだ、あいつじゃない。それに、あの御方はお前に用がある、お前を連れていくのが優先だ」
「でも……」
「行け。必ず戻る」
炭治郎にとって、狼からのその言葉はいと頼もしく、それでもって信頼すべきことばであった。けれども、このまま狼に頼りきりでよいものかと、逡巡も禁じ得なかった。
その炭治郎の迷いを知ってか知らずか、有無を言わさず狼は、
「俺が幻術を掛ける、そのすぐ後にお主の目眩ましを掛けろ」
と兪史郎に声を掛けた。
「二重の目眩ましか。お前の媒介は」
「音だ」
「分かった。よし掛けろ」
兪史郎からの合図を機に、
「承知」
と狼は返すや、懐から取り出した奇妙な鈴を鳴らした。よく響き、耳に染み入るその音色に、たちまち辺りの群衆は不思議そうに耳を澄ませた。
誰かが、あっと虚空を指さした。次に他の誰かが、
俄かに一帯がざわめいた。どこかで花火でも上がったのかというくらいだ。
その後、ふっと彼らは我に返ったように静まり返った。数秒、視線を宙に漂わせたのち、連れと顔を見合わせたり、何だったんだろうという独り言を呟いたりする者も居た。皆一様に狐につままれた様相を呈しつつも、しかし自分以外の人々も自身と同じようなものを見たらしき様子の摩訶不思議な状況に、尚更に小首を傾げた。
後には狼だけが残されていた。喧噪の中、歩き出した。
周囲に気を配りつつ、さてどうやって先方を炙り出すか、と思案する。
一度、敢えて敵の術に掛かるという手もある。向こうは、少なくともこちらを生かしておきたいだろうと踏んでのことだ。かと言って、敵の術の内容によっては、こちらが何も反撃することなくむざむざ炭治郎たちのもとへ案内する羽目になる危険もあるため、これは最後の手段となるだろう。
焦る必要はない。釣りは奏功しているのは確かだ。
引き続き、街中を歩く狼。その最中、唐突に横から煙が吹き掛けられ、むせた。
「お、おっと、すまねぇなぁ、ニイさん。ついこいつにムチュウんなっちまってよぉ……、ヒッ、ヒヒヒッ……」
ふかした煙管を片手にした、やせこけた男であった。髪はボサボサで、着物は乱れに乱れ、しかもこれらを気にする様子は一切無い。喋り声の大きさや、抑揚も、それに緩急も。また、身体も傾いているが、これさえも一切気にした様子もない。
「ニイさん、ニイさんも、どうだい。オイラといっしょにやれば、きっとよろこぶよ……、ウヒヒヒヒヒヒヒ」
とても話が通じるようには見えない手合いである。無視をする手もあるが、もしこの男が件の追跡者に関係するのなら、完全には見過ごすわけにもいかない。
どうしたものかと、少しの間沈思していたところ、
「ちょっとあなた、こっちに……」
不意に横から狼の手首を掴む者が、このように言って彼を引っ張っていく。
女の手だった。妙齢の女だ。
「お主、誰だ……」
「別に私のことはどうでもよいでしょう、ただのお節介焼きだと思ってちょうだい。それであなた、あんな危ないのに近づいたら駄目よ。あの男、さっき向こうの路地裏で変なことしてたんだから」
「変なこと、とは」
「何かを抱きしめるみたいに腕を組んで、壁に向かって屈んでいたのよ。勿論、ぶつぶつと何かを言いながらね。ああいうのは、変に刺激すると何しでかすか分かったものじゃないから、関わらないで。あなただけじゃなくて、周りの人にも迷惑になるから」
「……すまぬ」
「分かれば宜しい。じゃ、行くわね。縁があれば、また会いましょ。袖すり合うも他生の縁」
微笑んで、女は行った。
その背中を見送り、狼は再び足を進めた。
果たして、先ほどの男と、今の女、どちらが件の追跡者、もしくはその手先であろうか。それとも両方だろうか。
分かるのは、仮に今ので敵の術中に入ったのだとしたら、後は出たとこ勝負といったところであろう。
「もし」
突然に、誰かに呼ばれて、狼は辺りを見回した。子供のように高い声だ。けれどなかなか見つからない。
「もし、そこのお主。ここじゃよ、ここ」
声を頼りに、ようやく見つけた。それは狼の背後の、視線を少し落とした所に居た。子供か、それとも小柄な人間の背丈程の者であった。
「む、お主、ちょお顔を見せてはくれんか」
と、一方的に話してきて、『その者』は狼の顔をしげしげと見ていった。
「ほほう、似ておる。似ておるのう、お主」
「似ているとは、何だ」
「昔世話になった者と、よく似ておる。そうじゃなぁ、顔というよりは、器がのう」
そう言って、『その者』は、にっと歯を見せて、悪戯じみた笑みをした。子供らしい無垢な笑みで、それでいて、子供を揶揄う意地の悪い大人の笑みにも似ていた。
「お主、名は何というのじゃ」
「……」
「ふむふむ、ほうほう、名は申さぬと申すか。ふふふ……、申さぬのに申す、ふふふ……」
何が可笑しかったのか、『その者』は、くだらない洒落を垂れ流す子供や親父のように独り笑いを漏らした。
「ま、よいよい。ところでお主、ちと儂の頼みを聞いてはくれんか?」
「手は空いておらぬ。後にしろ」
「なに、断る理由はありゃせん、愚かながら哀れな小娘を一人、斬ってくれればよいのじゃ」
と、さっぱりとした笑みで、そう言ってのけた相手に、俄然狼は眉を顰め、腰に潜ませた刀を握る手を強めた。
「そう身構えるでない、悪いようにはせん。そも、お主がこれから斬ろう者じゃろうに。じゃが褒美は取らすぞ。お主が必要とする物、それと、名も無きお主に儂が直々に名を与えたまおう」
悠然と『その者』は狼から放たれる殺気を意に介さず喋り続けた。幼げでありながら、子供に語って聞かせる親さながらの高い声で。
「ほれ、あれじゃ、あれ」
ふと、『その者』は狼の背後を指差して、彼は素直に振り向いた。
童女だ。往来の真中で、童女が独り立って、静かに狼を見据えていた。うなじで切り揃えられた髪の毛に、紅をさした唇の、着物を纏った風体の娘であった。
狼と目が合うと、その童女は、にっこりと笑った。頬を持ち上げて、口角が吊り上がり、可愛らしい歯がチラリ。されど眼だけは、とらえた狼を逃がさぬとばかりに見開かれていた。
とみに狼の心の臓が不規則に早まる。呼吸が乱れる。当然血の巡りも悪くなり、而して具合が悪くなる。発汗。そして身体が重い。
咄嗟に懐から、まだら模様の走った紫の、曲がった瓢箪を取り出し中の薬水を飲んだ。途端に身体から、絡みつく怖気に抗う気力が湧き出し、当面の活力を取り戻した。
一息吐いて、呼吸を取り戻す狼に、『その者』は感心の声を吐いた。
「ま、これくらいは当然か。ただ、そこで教えてやろう、あ奴は己から生み出される胞子を取り込んだ者を僕として操る術を扱う。カビみたいな物での、適合出来ねば逆に肉体組織が喰われ、悪くば死ぬる。適合しようものなら、徐々に肉体をあ奴の組織に取って代わられ、己を失い手駒にされる。あれが童女に見えたのなら、お主はもう奴の術中じゃ。ぐずぐずしておると、その薬水が底を付くぞ? 急げ、急げ」
と『その者』は、おちゃらけた態度を残しつつも、それまでとは対照的に真剣さを滲ませた面持ちで狼に促した。
それを聞いてか聞かずか、狼は押されるように歩き出した。
「あ、そうじゃ!」
後ろで『その者』が声を上げたので、思わず狼は振り返る。
「お主、付ける名は、秀郷と藤太、いずれが良いか考えておけ? ほな、良きに計らえ」
とだけ残して、今度こそ『その者』はその場から消え去った。
気を取り直し狼は、踵を返して前に進む。
当てはないが、犬も歩けば棒に当たるように、とにかく今は前に進むのみ。
うどん屋の豊さんのキャラがなんか濃くなった。出汁変えた?