当てはないが、犬も歩けば棒に当たるように、とにかく今は前に進むのみ。
と、意気軒昂には居られないのもまた現状。またもや狼の前に、あの不気味な少女が現れるのである。今度は手に包丁を持ち、次の瞬間には既に狼の目鼻の先まで迫るや、一気に彼に包丁を突き立てた。
これを狼は阻もうと、彼女の手首を掴もうとするも、そうしようとする手はすり抜け、包丁はそのまま狼の腹に突き刺さった。
この包丁だけは本物であり、刺された箇所から鈍い痛みがじわりと広がる。気が付けば少女は消え、代わりに見知らぬ男が居て、狼の腹に刺さる包丁の柄を両手で握り締めていた。
直後に男は、その包丁を引き抜いた。いきなり引き抜かれたものだから、その際に刃が内部を引っ掻いて傷口が一層酷くなった。
狼は相手の眼を見た。その眼には、まともに物が映っているようには見えなかった。男自身の内側にある歪んだ何かが、彼の映す世界を穢しているのだろう。
群衆はこの異常にすぐさま気付いた。べっとりと血の付いた包丁を握った、目の焦点の合わない男が息を乱しながら、刺し傷を抱えた男をじっと見つめているこの光景に、彼らは悲鳴まじりに後ずさった。
まず狼は、目の前の危険な男より、自身が一般市民に注目を受けていることに危機を感じて、すぐ身を翻し人込みをかき分けてその場から離れた。
「あ、ちょっと、あんた!」
しかし、明らかに重傷を負った狼を放っておけない者もおり、止められてしまう。
「平気だ、構うな」
「そんなこと言うなって! せめて手当を――あっ、おんやぁ! おいおいおいおい、その白痣! 見たことある顔だあ!」
突然、声を掛けてきたその男が、このように妙なことを口走ったもので、何だと狼もその男を見ると、
「お主、穴山か」
この男、穴山は、葦名の頃より狼の知り合いである。
元盗賊で、のちに足を洗い物売りに転身。情報と引き換えに狼から元手となる銭を用立ててもらい、また、客が何を欲しがるかの情報を狼から貰い、商売繁盛を為したのであった。
「おらも一緒だよ」
と、穴山に続いて狼の前に姿を見せたのは、いやに童顔の巨漢であった。
「小太郎……」
その巨漢の名は小太郎。穴山と同じく、葦名出身の、太郎兵と呼ばれる人間であり、狼とは仙峰寺にて出会った。その時は小太郎は、泣きはらして途方に暮れていたところを、狼によって、力仕事の出来る人手を欲しがっていた穴山の所を紹介され、穴山の世話になった次第であった。
「それよりも忍びさん! その怪我、早よう直さなきゃ!」
俄かに慌てだした小太郎に、
「案ずるな」
と狼は落ち着き払った風に返し、傷薬が入った瓢箪取り出し、中の薬水を飲んだ。
「そんでも傷口は残ってやがる。まずこっちに来てくだせえ、ここで手当てするわけにゃいかねえ」
と穴山は、狼を連れて近くの路地裏に入った。
そこで穴山は、恰もよく持っていた酒と布で、狼の傷口の処置をした。傷はそう深くはなかった。着物の内側に着込んでいた鎖帷子のお陰だ。
「お主らも、来ていたとは……」
手当てを受けながら狼は、幽霊でも見る眼で二人を見ていた。
「へへ、それはお互い様でさあ」
狼がそんな眼をするのも無理はない。穴山も小太郎も、二人とも、内府による葦名襲撃にて、敵方の赤備えの兵士によって命を落としたからである。
奮闘し力尽きた小太郎の横で、同じく気息奄々に腰を落としていた穴山から、彼の商い手形を一銭で買ったことを、狼は覚えている。
「だが、あの時旦那から頂いた一銭。あの一銭のお陰で、ここでも上手くやれたんでさ。戦国時代で流通していた銭ってことで、高く売れやしてねぇ。それを元手に、また商売を始めたってぇわけなんです。っと、はい、これでようし!」
と結んで穴山は手当てを終え、傷口のあった箇所を二、三度軽く叩いた。
「いやあ、さっきは驚いたなあ。忍びさん、あん人と何かあったんだか」
「見知らぬ男だ。だが心当たりはある……」
狼が答えると穴山は、
「ほぉ……」
と顎を撫でて、何やら企んでる顔を見せた。
「もしや旦那、その刀とその義手、まだまだお使いですかい」
「そうだ」
「そうですか、そうですか! それは良ござんすね!」
「……何か武具を売ってくれるのか」
「流石旦那! 察しが良い。――と言っても、今すぐにというわけじゃ、ありやせんがね。旦那のそのカラクリ義手、そいつを造りそのまんまで、もっと頑丈で新しいもんに作り直せる技師に、ちょいと伝手がありやしてね。で、その材料や道具をあっしが売り、それで作られたカラクリ義手を旦那が買う。どうですかい!」
との穴山からの提案を受け、狼は考え込んだ。確かに、彼が付けている忍義手は、長年こき使ってもまだ十分に動く優れものではある。が、使う側からすれば、いつ動かなくなるかどうか、やはり不安である。それにこの忍義手には、狼と、前使用者である仏師の男によって、忍具を仕込むために増設がされていて、当然そこには歪みや瑕疵があるわけであり、これも壊れる不安要素になりうるのである。
「……悪くない」
狼が良い返事をすると、
「よし来た!」
と穴山はグッと握った拳を上げた。
「では、手筈はこっちで整えときやす。旦那のほうは、新しい義手について、欲しいと思うことを考えておいてくだせえ。……ですが、その前に――」
そこで穴山は、陽気な態度から一変して声を低く落とし、
「まずぁ……、旦那を付け狙ってる奴を、始末してやらにゃいけやせんよねぇ……。ということで――、ムジナの旦那ァ! この忍びの旦那の手助け、お願いしやすよぉ!」
手を口元の横に添えて穴山がそう大声を掛けると、どこか近くで、下駄の音が離れていく音がした。
「かたじけない」
「いいええ、旦那とあっしの仲でしょうよう。それと、今度の情報料は、旦那との取引のための謂わば必要経費ってぇことで、おまけしときやす。そいじゃ、あっしはそこいらで腰を降ろしてやすので、何かあったら声掛けくだせぇ」
と残して、穴山は小太郎を連れて去った。狼もそれとは反対の方へ、足を向けた。
狼はもう一度、曲がり瓢箪から薬水を飲み、戦いへ臨むのであった。
――これが、大体一時間くらい前の事である。
一方、炭治郎たちは、兪史郎に呼ばれて赴いた先の屋敷で、珠世という女性と相対した。彼女は『鬼』ではあったが、しかし他の鬼と違い、人の肉を喰らわない鬼であると語った。
ある時、鬼としての性が一時的に外れた時分があり、その隙に自らに掛けられた鬼としての『呪い』を外し、現在に至るまで、自分が鬼になるように唆してきた鬼の首魁・鬼舞辻無惨への復讐のため、鬼にまつわる医療を中心に研究を続けてきたのだという。
目下彼女は、鬼を人に戻す薬の研究を行っており、そのために、二年間も人を喰らわずに居られた禰豆子に強い関心を示していた。
また、その薬の研究には、鬼の血、それも十二鬼月といった無惨の血を濃く継いでいる強力な鬼の血が必要であるらしく、彼女は炭治郎に、十二鬼月の血の採取を頼めないかと言ってきた。
その矢先に、この屋敷の中に二体の鬼が襲来した。目が無い代わりに手のひらに目の付いた青年の姿の鬼と、鞠を持った少女の姿の鬼だ。
非常に洗練された連携を取る二人組で、炭治郎はそれに終始翻弄され続け、普通なら致命傷になり得た攻撃を二度も喰らってしまった。
しかし、一体どういう幸いがあったのか、炭治郎は死ぬどころか戦闘を継続させ、その後決死の覚悟で放った一太刀で、辛うじて片割れを倒すことに成功した。
残ったもう片方も、珠世の血鬼術『惑血』という、彼女自身から流れた血の匂いで幻惑することで、相手の鬼の自滅を促し、戦いは終息した。
「これは、鬼が来たのか……」
狼が駆け付けたのは、それが終わってすぐのことであった。
「あなたが、彼のお連れの方ですか」
珠世からの問いに、無言で首肯し、
「追手を探し出すのに手間取った」
「十二鬼月でしたか?」
と続け様に出された珠世からの質問に、首を横に振った。
「そうですか……。こちらが相手にした二人も、十二鬼月と名乗ってはいましたが、それにしては弱過ぎる。連携については称賛に値するものでしたが、それが無ければ、おそらく実力はもっと下がるはず。あの子がこうして五体満足で生きているのは、流石に奇跡としか言いようがありませんが……」
結んで、珠世は炭治郎の方に顔を向けた。戦いの間、昂った気力で立っていた彼は、事はもう終わったと実感することで、糸が切れたみたいにくずおれていた。
「炭治郎」
その炭治郎に、狼は速足で近寄り、そばに屈んだ。
「狼さん……、良かった、無事だったんですね……。こっちも、どうにかなりましたよ……」
息も絶え絶えというに、残った気力で炭治郎は微笑んでみせた。
「よくぞ、やった」
という労いの言葉を掛けてやり、狼は取り出した傷薬瓢箪を炭治郎の口に当てて飲ませてやる。あまりの不味さにかすかに炭治郎は顔を歪めるも、疲労から表情を保てず、すぐにそれは霧散した。
「禰豆子は」
「そうだ……、ね、禰豆子は……」
と、思い出したように炭治郎は、この屋敷の壁に寄りかかって倒れている禰豆子に顔を向け、刀を頼りに立ち上がろうとした。狼はその炭治郎の肩に抑えて、無理をするなと押さえた。
炭治郎に代わって狼が立ち上がり、禰豆子のもとへ近づく。近くまで来ると、狼の耳に彼女の寝息が聞こえた。よく見ると、前後に揺れる頭の動きは、寝ている者のそれであった。
「禰豆子さんは私の血の匂いに依る術の影響を受けています。私が診ますので、あまり近寄らないほうがよろしいかと」
と、横から珠世が、引き止めるように狼の肩に手を乗せた。
「何故だ」
「私の血の匂いを通して、相手の判断力を鈍らせる術です。受けた者は、本来口にしてはならぬことも言ってしまう。通常は情報を話させるものなのですが、鬼が相手なら、禁句を口にさせて自滅させることも出来ます。そこの彼女のように……」
このように語りながら、珠世は近くに転がっている女の鬼を指した。
何とも惨たらしいことにその鬼は、両腕と、胸から下が引き裂かれ、肉片となって散らばっていた。辛うじて残った首のほうも、顎と頸部の損壊が激しく、最早、残された部位とも言い難い。
にも拘らず、それはもぞもぞと――死人の痙攣ではない――蠢いていた。
それはどこか、生きているかのように苦悶しているものに見える。
「生きて、いるのか……」
狼の問いに、ええ、と珠世は重苦しそうに答えた。
「鬼の首魁、鬼舞辻無惨は、部下のことを信用していません。百年と少し前までは、配下が徒党を組んで自身に謀反を起こすことを恐れ、鬼同士には強い同族嫌悪の情を染み込ませていました。自身にまつわることが漏れることも危惧し、鬼は『鬼舞辻無惨』の名を口にすると、このように無残に引き裂かれ、再生も出来ぬまま朝陽に曝されるるのです……」
そう続ける珠世の言葉を背に、狼はその鬼のもとへ歩み寄る。背中に帯びた太刀を包む風呂敷をほどき、朱に塗られた鞘が露わになる。
鬼の傍らで狼は屈み、おもむろに背中のその太刀――不死斬りを抜いた。禍々しい妖気を放つ刀身が、こちらを覗き込む。
珠世と兪史郎はそれを見て、何か恐ろしいモノに睨まれた気がして、息を呑んだ。
その後狼は、鬼に頸のすぐ横に不死斬りの切っ先を突き左手を峰に押し当てると、いささかの間を置いて、それから小さく勢いをつけてそれを引いた。切っ先が地面に擦れる音と、肉が切れる音と共に、鬼の頸が切り裂かれ、その首と胴が切り離された。
そうなってようやく、その鬼は蠢くのをやめ、安らかな弛緩をする。
不死斬りを振って血を払ってから狼は、これを鞘に納め、そして目を瞑り、この
そののち、彼女の死骸は灰として崩れ、どこかへ飛び去って行った。
それが消え去り、見えなくなってから、狼は合掌を解いて目を開けた。
「鬼にさえ、そのように慈悲を与えなさるのですね……、狼殿」
珠世に呼ばれ、狼は振り向いた。
「如何なる悪人とて、死ぬれば仏だ。だが――、人も鬼も、変わらぬ」
このように言う狼に、珠世は一瞬気の抜けたように目を見開き、その後、言葉の真意を推し量ると、途端にもの哀しげな面持ちをした。
「さもありましょうね……」
悄然となる珠世の様子を見て、俄かに兪史郎は厳めしい顔で狼を睨み付けた。
「止しなさい、この方には悪意はありません」
珠世は、そんな兪史郎を宥めて、再び凛然とした顔つきをして、
「まずは、禰豆子さんたちの手当てに取り掛かりましょう。失礼します」
と断って、珠世は禰豆子のもとへ行った。
その間狼は、炭治郎の処置を、自分が出来るだけのことを行った。
二人は大分疲れており、しばしの休息が必要だったため、休むための部屋を宛がわれた。
微睡む二人を見守ったのち、狼はその部屋を後にすると、
「ところで、狼殿、あなたに会わせたい方がいらっしゃいます。どうぞ、こちらへ……」
そこへ珠世が声を掛けてきた。
言われるがまま狼は、彼女の後に続いた。
その道すがら珠世は、
「あの男、鬼舞辻無惨は、諸行無常を厭い、不変を好みます。だからこそ、陽の光を恐れることのない、完璧な不死を求めています」
唐突に語り出した。
「そのためであれば、何にでも、他の誰が犠牲になろうとも、手を出すことでしょう。だから私は、いち早く彼女の保護に踏み切ったのです」
「……」
随分と奥の方へ連れてこられたところで、珠世はある部屋の前で止まり、
「失礼します」
中に居るであろう者に一声かけて、静かに襖を開けた。
「彼を、連れてきましたよ」
と言って珠世は、狼の前から退いた。
「お主は……」
部屋の中の人物と相対して、狼は驚愕の色を見せた。
「お久しうございますね、……御子の忍び」
彼女は、儚げな微笑で以って、狼を出迎えた。
『戦いの記憶・黴胞子の鬼
心中に息づく、戦いの記憶
鬼仏に対座し、戦いの記憶と向き合うことで、
攻め力を成長できる
黴胞子の鬼、その正体は無邪気な童女ではなく
老いさらばえた老婆であった』
『戦いの残滓・黴胞子の鬼
心中に息づく、戦いの記憶
今はその残滓のみが残り、
記憶は確かに狼の糧となった
老いぼれ、口減らしに捨てられた老婆
実母を捨てる息子の身を、それでも案じた
息子が帰り道に迷わぬよう、枝や小石を
道標としてこっそりと撒いておいた
皮肉かな
鬼となり彼女が、その道標を辿って、
最初に喰らったのは我が子であった』
ふろうもの様から頂いたトドメ演出のテキストを、今回試しに貼ってみました。また、いくらか私の手を入れています。