原作は現代編来るんだろうし、映画版バイオハザードみたいに開き直って書く。
一九九一年(平成三年)一月。
女が座っていた。喪服を着ている。妙齢の、綺麗な女だ。
切なげに垂れた明眸と蛾眉、象牙色の滑らかな肌に、初心な娘のような桜色の薄い口唇とは裏腹に、荒波にすら動じぬしたたかさを感じさせる凛とした居住まい。
その対面にまた、もう一人女が居た。
尼僧みたいな着物を着た、女である。まだ瑞々しい、十代程の見かけながら、その長い髪に幾筋もの白い毛髪が混じっている。
「禰豆子さん」
尼僧の格好の女――変若の御子は、向かい合った女の名を呼んだ。
「本当に、行ってしまうのですね」
御子は、相手の意思を確かめる問いをした。
「――はい。決めていたことですから。今日、兄の三回忌に、竈門家からは離れると」
禰豆子は、一切の迷いが見受けられない、至極澄んだ答えを返した。
一九八九年(昭和六十四年)一月四日、竈門炭治郎――死去。享年八十八歳。
昭和を越え、平成を迎えることは、とうとうなかった。ただ、背負った運命の割に、随分な大往生ではあった。孫やひ孫、娘息子と一緒に正月を祝い、遊んだり、ひとしきり笑ったのちに、温かい布団の中で眠るように息を引き取った。
禰豆子は一人、炭治郎の死期を悟っていた。炭治郎が永眠するその晩、彼女はその寝床へ赴き、彼の手を握った。
――おやすみなさい、お兄ちゃん。
炭治郎の呼吸が止まるのを見て、禰豆子は、彼の額をそっと撫でた。その額に、もうあの痣は無かった。
「ご家族には、言いましたか」
物思いに耽る禰豆子に、そっと気を遣うように御子は尋ねた。
禰豆子は、自然と伏せていた顔を持ち上げ、
「義姉さんには、あらかじめ伝えておきました」
「彼女は、何と」
「特に何も。一言、そうですか、と。ただ……、何かを言いたげではありましたが……」
禰豆子の脳裏には、竈門家を出ると彼女が言った時の、義姉の顔が焼き付いていた。優しく気丈に振る舞いながら、その老いて皺が増えた顔にうら寂しさを滲ませていた義姉を前に、躊躇を覚えなかったわけではなかった。若い頃の義姉も、時折寂しそうな顔を見せることはあったけれど、年を取った今とでは、重みは違った。
義姉は、何かを言いそうに口を開きかけるも、咄嗟に口を引き結んで黙りこくった。次いで、今度は別のことを言おうかという風に、もごもごと口を動かしたのち、禰豆子が言っていたように、『そうですか』の一言を紡ぎ出したのであった。
禰豆子が思うに、きっと義姉は、引き止めたかったのだろう。
おそらく最初の閉黙は、行かないでほしいとか、寂しいといったことが出そうになったのだろうが、されど、禰豆子の意思を阻むようで、言うに忍びなかったのだろう。
次に言いかけたことは、大方彼女を慮ることなのだろうが、それも、お為ごかしに禰豆子を引き止めるようなことだと感じて、憚られたはずだ。
「……兄は、いえ、私の家族は――それに珠世さんも――最後まで悔いていました。私を、一人の人間として幸せにしてやれなかったと……」
唐突に禰豆子は、声を震わせて、懺悔するように紡ぎ出した。
「他の娘が羨ましくないわけではありませんでした。女として、好きな人と子供を作って、子育てに苦心して、たまには喧嘩もして、大きくなっていくのを見守って、門出を祝って、そして最後に自分の老いを自覚して、旦那様と一緒に余生を過ごすことに憧れはあった。でも……、でもその一方で――」
そこで禰豆子は、伏せがちだった目を持ち上げ、前を見据えだし、
「この、人の世界がどこへ行き、どこの果てに辿り着くのかを、その道程を見ていきたいんです」
「……それは――使命、ですか」
御子からの問いに、いいえ、とやんわりとした否定を返した。
「私が、そうしたいだけです。興味……というよりは、見ずに居られない、でしょうか」
「……」
「鬼舞辻無惨は確かに、人を脅かす諸悪の根源でした。でも人々を害するのは、あのような男ばかりじゃない。長く生きて、しみじみ感じます」
ごく分かり切ったことを言うみたいにそんなことを語る彼女の眼は、全体これまで何を見てきたのか。
「そも、鬼舞辻無惨がかのような狂気に囚われたのは、生来のものか、或いは鬼と化したからなのか。いずれでありましょうね」
淡々と御子は、わざわざ聞くまでもないことを、敢えて言問うた。
これに対する禰豆子の答えは、
「生きたかったんだと思います」
実に単純なものであった。
「狼さんの言っていた通り、人も鬼も変わらない。しばしば人は、同胞さえも脅威になる。その蛮人も、生きたいからこそ、奪う。人々は大義名分を掲げて自らを守ろうとするけれど、本当は、人が存続することは、嫌になるくらい意味が無い」
「生きることが億劫になるほど、生き難く、而して生きる意味も無い」
それに合いの手を入れる調子で、御子は言葉を挟んだ。
「それでも人は生きたい。意味は無くとも、それでも、生きたい意思だけはある。だからこれからも人々は、たとえ何があろうとも、この混沌の中を生き続けるのでしょう」
「……それは、とても気の遠くなるような、途方もない旅路となるでしょう。私に出来るせめてものことは、あなたの無事を祈り、お米を授けるばかりでございます。どうか、お気を付けて」
と結んで、御子は禰豆子に手のひらを出させ布を置くと、そこへ米を流し落とした。パラパラと米が落ち、瞬く間に手のひらに湛えられた。
「ありがとうございます。お米ちゃんも、どうか息災に。私と同じで不死なのだから、いつか会えますよね」
米を布で包みながら禰豆子は、親しみを籠めた笑みを御子に贈った。
御子は、ニッコリと笑った。
しばらくお互いに笑顔を向け合うと、禰豆子は立ち上がって、その部屋を後にした。
後ろでまとめた髪の毛に挿してあるクナイ形の簪の、その装飾が、綺麗でささやかな調べを奏でた。その後ろを、光り輝く蝶が釣られるように尾いていった。
その背中を御子は見送った。禰豆子の姿が見えなくなると、その笑みはようよう衰え、ついには郷愁の寂しげな笑みへ変わった。これはどんな気持ちでのことなのかは、本人にも分からない。せいぜい、万感の思いがある、と辛うじて表現出来る程度であろう。
外に出て、禰豆子は連れの者と合流した。顔の右側に白い痣がある、柿色の外套を羽織った壮年の男だ。彼は、やって来た禰豆子の存在を認めると、一瞬目を合わせてからその外套を脱ぎ、傍らに停めてあったトヨタAE86に乗り込んだ。シートベルトを締めて、それから助手席に乗ってきた彼女が同じくシートベルトを締めると、エンジンを掛けた。
車が発進してある程度走ったところで、どこからか電子音が鳴った。どうやらそれは、その壮年の男――狼の懐から鳴っているようだった。これはポケベルの音だ。
運転中で前を見ながら狼は、そこからポケベルを取り出して、禰豆子に渡した。黙って禰豆子は受け取り、そこに映し出されている番号を読み取った。
「産屋敷グループか」
狼が訊くと、
「ううん、
「一心様か」
狼も禰豆子も、わざわざ発信者を見るまでもなく、そのメッセージだけで誰からなのかを悟った。
「また、何かやっていたんですか」
と禰豆子が尋ねるも、
「……」
これに狼は沈黙で肯定した。
少々呆れた様子で禰豆子は鼻から小さく息を吐いた。
「そうですか」
ひとまずこの話題を流して禰豆子は、笑みを浮かべつつ懐から、御子から授かった米の包みを取り出して、
「お米ちゃんからの餞別です。後でおはぎにして食べましょっか」
「そうか」
と狼は素っ気ない返事をした。
「何ですかその返事ー」
禰豆子はむくれた顔をしてみせた。無論、ただからかっているだけだ。彼女とて、狼に愛想が無いことなど分かっている。
「おはぎ好きでしたよね」
「ああ」
「でも狼さん、丁寧に作った物より、ちょっと雑に作った感じのほうが、美味しそうに食べてる気がします。男の料理みたいにって言うか……」
「昔、義父がくれた」
「へえ……。優しいお父さんだったんですね」
と禰豆子から言われて、狼はそのいつも強張らせている顔から、力が抜けた。
彼女には、そう見えた気がした。
「そう言えば、右近左衛門の名前もそうでしたね。狼さんみたいな人が慕っているんだから、きっと立派なお父さんだったんでしょうね」
言って禰豆子は、後部座席から顔を出した発光するミミズクを撫でてやる。右近左衛門と呼ばれたミミズクは、気持ちよさげに目を瞑って禰豆子の撫でる手に自らの顔を擦り付けた。
その後、米の入った包みを持ち上げて、これを見つめた。この米で作るおはぎの味が、実に楽しみなのだ。まだ鬼だった頃には、とても分からないことだったろう。
八十年近く前、鬼だった禰豆子は、同じく鬼でありながら人を襲わない鬼、珠世という女が創った薬で、人の心を完全に取り戻した。
ところが、その薬は不完全であり、故に彼女を完全に人に戻すことはなく、鬼としての凶暴さと食人衝動だけを消した。これに因り、彼女は超人的な力を宿し永遠に若いまま生き続ける、即ち不老不死となった。
かつて鬼舞辻無惨が渇望した、天衣無縫なる生命。それをよりにもよって禰豆子が――別段不老不死なんぞ望まず、争いはむしろ厭うほどであった禰豆子が――体現した。
人と共にありつつ、人を超越した彼女にとって、何かを食べることは蓋し生きることを実感する生き甲斐なのであった。
ふと、窓の外の流れる景色を見た。どこまで走ろうと、映るのは乱立されたビルディングの足元。そこへ、遠い昔、炭治郎に連れられて来た東京の街並みが、ぼんやりと重なる。まだあの時は、もっと落ち着きのあった街並みだった。活気と落ち着きの調和が取れた街だった。
今の街並みも、昔の街並みも、どちらも嫌いではない。でも、その二つの差を知る度、それだけ時間が経ったことを実感させる。自分が『現在』と思っていたあの日々が、夏の木に取り残されたセミの抜け殻さながらに『過去』へ流されていき、言い知れぬセンチメンタル、或いはノスタルジアが燻る。
窓に映る禰豆子の眼から、一筋の涙が流れた。彼女自身がそれに気付くと、今度はそれがひっきりなしに、はらはらと溢れ落ちていった。
それで禰豆子は、嗚咽を漏らしたりといったことはせず、涙が落ち着くまで終始、涙を流し続ける己と向き合っていた。
――大丈夫。平気。ただ、永く生きるだけ……。
――And I heard, as it were, the noise of thunder. One of the four beasts saying, "Come and See." And I saw, and behold a white horse.
(四つの聖獣が
――見よ、
Johnny Cash『The Man Comes Around』
余談ですが、狼が乗る車はマーク2かクラウンかカローラかで迷ってました(トヨタ厨)。なお、ドリフトはしません。