士官学院入学当初までの足取り
ミュゼ・イーグレットはここ数日で集めた情報をまとめた書類を捲りながら、小さく溜息を吐いた。
幾度読み返しても、やはり己が立てた仮説は棄却せざるを得ない。
故に、認めるしかない。結論は出たと。
「トワ教官の事を考えれば喜ぶべき事なのでしょうが……そうなると、いよいよ本当に指し手の渾名は捨てなければなりませんね」
嬉しさ半分、自己嫌悪半分の複雑な気持ちを紅茶と共に飲み干してそう呟けば、背後のベッドの上からルームメイトのティータ・ラッセルの苦笑が聞こえた。
「ミュゼちゃん、狂犬さんの事まだ疑ってたんだね。共和国新大統領関係のスパイだって」
「疑うというのは意地悪な表現ですね。私、悲しいです」
「え! ご、ごめんなさい! でもミュゼちゃんがみんなの為に色々と調べてくれてたのはちゃんと知ってるから!」
偽物の涙にあたふたと慌てる純粋なティータに、少しだけ救われた気分になった。
正直に嘘泣きだと白状すると、ティータは可愛く不貞腐れながら、ミュゼが机に置いた書類の束に視線を向けた。
「アガットさんの他にも、色々な人達からお話を聞いたんだよね? あれ? でも、ミュゼちゃんの考えなら、もっと昔のことを調べないと意味ないんじゃ……」
「はい。実は一通りの経歴は内戦直後に調べていたので、再度その調査結果を精査するだけでも、何かあった時に彼の潔白を証明する証拠としては十分だったんです。それに、私が何もしなくてもトワ教官がその点を見落としはしないでしょうしね。なので今回は少し視点を変えて、彼と直接交流のあった方を中心に話を伺い、念押しの証拠とするためにプロファイリングを行ったんです。トールズ入学前の話はアガットさん。トールズ入学後はアリサさん、ユーシスさん、サラさん、アンゼリカさん、ガイウスさん。内戦時のことはアッシュさんと分校長。それ以降はヴィータさんから。もしご興味があるのでしたら、読まれますか? ご本人からも許可は頂いてますので」
「え、もしかしてミュゼちゃん、狂犬さん本人に言ったの? その、スパイだって疑ってるって……」
「はい、流石に秘密裏にというのはフェアではないですから。共和国新大統領ロイ・グラムハート、または彼と協力関係にある組織のスパイであることが、今の彼が置かれた状況……あのリィン教官が投じた疑惑を説明するのに最も無理がないという私の仮説を説明すると、彼もすぐに意味は把握されたようで、やるなら徹底的にやってくれと、逆にそうお願いされてしまいました。トワ教官や皆に迷惑がかかる可能性が少しでもあるのなら、今のうちにどうにかしておきたい、と」
今日出した結論を基準に思い返せば、あれは完全に素の反応だったのだろう。
ミュゼの仮説と、件の疑惑に対してその仮説を立てられてしまう事自体の危険性を瞬時に理解できる程度の戦術的思考力を持っていながら、それでもなお狂犬と呼ばれるに至った彼。
狂犬と呼ばれながらも、表裏問わずに今の帝国を支える各勢力の中心人物と強い繋がりを持っている彼。
彼がここに至るまでの軌跡が全てが計算尽くであった方が、むしろミュゼは素直に納得できただろう。
だがしかし、既に結論は出た。
彼は、一部の方向に頭がおかしいだけの変人で、凡人だったと。
彼の調査結果をまとめた資料を読み始めたティータを横目に、ミュゼは大きく伸びをした。
「先日の件でいよいよ極まった感じのあるリィン教官も大概ですが、トワ教官の旦那様にも、私達新Ⅶ組の先輩方を始め多くの方が色々と苦労されたようですね。そこそこ真面目な気持ちで始めた調査でしたが、面白おかしく仕上がってしまったことが衝撃です」
「えっと、今の基本情報からまとまってるんですね。現職は、七耀教会と魔女の里から連名で対古代遺物の専門家として遊撃士協会に派遣された準遊撃士。現在の任務は、NGOの副代表、トールズ士官学院第Ⅱ分校主任教官、帝国政府特務室室長を兼務するトワ・ハーシェルとその家族の護衛任務。その任務の実体……実体? は、帝都のアパルトメントで妻であるトワ・ハーシェルと暮らし、毎朝毎晩の導力バイクでのトワ・ハーシェルのリーヴスへの送迎。午前中は第Ⅱ分校でオーレリア分校長と訓練することが多く……月、水、金ですよね。授業中でも、けっこう音が響いてますもんね。それ以外の日は、帝都のハーシェル雑貨店で勤……務? え……雑貨屋さんの店員さんなんですか? 他にも、ナインヴァリの各支店にも貸し出されている状態……こっちはまだ分からなくもないですけど……。なお、手配魔獣の討伐等には、遊撃士の任務としてではなく個人的に積極的に参加……。……えっと……結局、何をされてるんでしょう?」
一枚目から苦笑を漏らすティータに、ミュゼは曖昧な笑顔を浮かべる。そんなに細かい所まで気にしていると、一日では読み切れないだろう。
「ティータさん。オルディスから取り寄せたお気に入りのお菓子があるのですが、今から食堂で紅茶と一緒に如何ですか? 良ければ私が掻い摘んでお話させて頂きますよ?」
ミュゼは頷くティータの手から書類を受け取り、順を追って、七耀歴1207年4月13日、先日のクロスベル自治州再独立宣言までに彼が辿った軌跡を語ることにした。
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彼が帝国に初めて姿を表したのは、七耀暦1199年12月の事だった。
八葉一刀流の創始者、《剣仙》ユン・カーファイに連れられて帝国に入った彼の過去に、特筆すべき黒い影はない。
世間では小悪党と呼ばれる分類の男の息子として生まれ、歪んた価値観を以って育てられる。その後、何かの切っ掛けで老婦人に保護され、その縁で商人の養子となり、最終的には事故で家族を失った彼は剣仙に拾われて孫として育てられた。
改めて彼の口から語られた経歴を完全に追いきる事は出来なかったが、ミュゼが以前に調査した内容と、そして新たに入手したかつての帝国軍情報局の調査結果とも相違はなかった。
そもそもこの時点で、彼は白だと九割九分以上は確信を持っていたのだ。
それでも彼の辿った軌跡を人伝に聞いて回ったのは、半ば意地のようなものだった。
「1202年の11月までは、レグラムの近くで剣の修行をしながら過ごしたようですね。詳細は聞いていませんが、その年に八葉一刀流から破門されて、彼はリベールに渡ります。ここからはアガットさんから聞いた話になりますね。ティータさんも、少しはお話を伺っていたのですよね?」
「うん。私も直接面識はなかったけど、アガットさんやオリビエさん、アネラスさんから当時に少しだけ。でも、……例の事件もあったから、本当に少しだけだったんだ」
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リベールのA級遊撃士にしてティータの想い人でもあるアガットは、エレボニア帝国との国境に最も近い、リベール北端の街、商業都市ボースで初めて彼に会ったという。
曰く、
「俺よりもスチャラカ皇子に聞いた方がいいと思うが……まあ、一言で言えば今よりもよっぽど狂犬って感じだったぜ。俺も詳しいことは知らねえが、オリビエが初めてあいつと会った時は、腰に差した剣も使わずに魔獣と素手で、それこそ、どっちが魔獣が分からねえような、獣じみた戦い方で殺し合ってたって話だ。死のうとでもしてるんじゃねえかってくらい、後先考えずに血まみれになってな」
と、彼の事を語ってくれた。
「たまたま通りかかったオリビエが手伝ってその魔獣、まあ、遊撃士協会が対応する予定だった手配魔獣だったんだが、とにかくそいつを討伐した後は、あのお人好しが流石に放っておけないって理由で、暫くボースで一緒にバカやってたらしい。あいつは剣仙の手紙をアネラスに届けるためにリベールに来てたんだが、アネラスが不在だって知ると、怪我でまともに歩けるような状態でも無いくせに、その足でふらふらと街から出ようとしてたって話だ。それをオリビエが口先で丸め込んで、面倒見てたんだとよ」
オリヴァルト皇子がお忍びで、旅の演奏家オリビエとしてリベールで好き勝手やっていた事は、つい先日も共に死線をくぐり抜けた仲間内では有名な話だ。
1202年の11月中旬から約一月の間、共に帝国出身の自称「漂白の詩人にして愛の狩人」である演奏家の青年と「野良犬の方がまだ文明的」と称された少年は、エレボニア帝国の信頼を地の底に貶める事に余念がなかったという。
ある日には、明らかに未成年と分かる少年を連れて酒場に現れた青年は、酒場でリュートを掻き鳴らし歌い、酔いつぶれた者達だけが「楽しかった」と語る地獄のような宴会を繰り広げた。
獣のような少年は煽られ挑まれるままに悪いオトナ達と飲み比べを始め、酒場の酒を全て飲み干して地獄を作り上げた後、演奏家の青年と共に連行された遊撃士協会ボース支部においても遊撃士達を等しく酒の海に沈め、「訓練しないと」と言い残して姿を消した。
ある日には、大通りで道行く男女問わずに歌いながら愛を囁く演奏家と、その隣で何故か一心に剣を振る少年が、「色々とこわい」という切実な依頼を受けた遊撃士によって連行される姿が見受けられた。
ある日には、「実戦訓練」という依頼を早朝に遊撃士協会に提出した少年が、深夜に「依頼期間は一日だから、まだ六時間は付き合え? え、俺、何か恨まれるようなことした? なあ?」と死んだような目で遊撃士から問い詰められる姿と、「遊撃士側が先に音を上げる」に全財産を賭けていた演奏家が楽しそうに笑う姿が目撃された。
最初は煙たがられていた変人の演奏家と獣じみた少年だったが、何時しか「またあの変態と野良犬か」と苦笑されるようになった。
奇妙な二人の帝国人は一月の間で、遊撃士達の心に小さな傷と、市民にほんの少しの笑顔を残すくらいには、ボースで有名になっていたという。
「ルグラン……ボース支部の受付の爺さんによると、俺とアネラスが任務でボースに着いた頃には、最初に比べるとあいつも随分と丸くなったって話だったぜ。まだそれでも十分に獣じみてたが、オリビエに毒されていい方向に変わったんだろうな。まあ、オリビエの奴が面倒見てたってよりかは、一緒に面倒起こしてたって方が表現としては正しいんだろうが」
アガットが彼とボースで過ごした時間は、そう多くなかったという。
その時期のリベールは後に《リベールの異変》と呼ばれる大事件に向けて徐々に雲行きが怪しくなっていたし、彼は彼で用事を済ませた後はすぐにボースを発ったとの事だった。
ユン・カーファイ、つまりは祖父からの手紙で義理の弟の存在を知ったリベールの遊撃士アネラスは、彼が一年後にトールズ士官学院に入学するまでは面倒を見ると申し出たが、彼は「老師に破門された身で、お孫さんにまで迷惑をかけるわけには行かない」と断ったらしい。
「まあ、そういう訳で俺自身が直接話せることなんて大してねえよ。俺が覚えてんのは、自分からしつこく試合を申し込んで来たくせに、剣を抜きもせずにでたらめな体術……とも言えねえような原始的な戦い方をしてたクソガキだったって事くらいだ。今思えば、破門されたから流派の動き以外でどうにか強くなろうと本人なりに考えてたんだろうが……それにしても、致命傷覚悟で突っ込んできて噛み付きはねえだろ。お陰でしばらく歯型が取れなかったんだぞ……」
アガットは当時を思い出してか、呆れたような苦笑するような何とも言えない表情で愚痴って、最後に「あとは、あいつが使ってる片方の銃の事くらいだな」と締め括った。
「装飾がついてる方の銃は、あいつが旅立つ時にオリビエが餞別にって渡したもんだ。普段はあれなオリビエが、珍しくも真面目な顔で真面目な事を言ってたからな。今でもよく覚えてるぜ」
演奏家の青年は、旅立つ獣じみた少年にこう伝えたという。
「何時の日か、君が君だけの人生を楽しく笑って生きていけるようになる事を、僕は心の底から願っているよ。だからその銃がほんの少しでも、君の力になればと思う」
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小休止とばかりにクッキーと紅茶を味わって、ゆっくりと頁をめくる。
「その後から1204年のトールズ士官学院入学までの一年間、彼は徒歩でリベールと帝国を回ることになります。遊撃士の活動を参考にしたとは本人の談ですが、軍の対処がどうしても遅くなる辺境で、周辺住民から僅かな食料と寝床と引き換えに魔獣討伐を請け負い、戦っては怪我を負い、怪我が治るまでは受験勉強をして、という生活を繰り返しながら、トールズ士官学院本校、トリスタまで旅をしたようです」
ミュゼの頭には既に調査結果は全て入っているため、あまり情報のないその期間の事は半ば流しながらすぐ次の頁に移る。
そこでふと、「うんうん」と楽しそうに頷くティータの様子に気付いた。
存外ティータは、彼の話に興味津々だった。ミュゼの視線に気付いたのか、ティータは「えへへへ」と可愛らしく笑った。
「もうちょっとだけタイミングが違えば、もしかしたらオリビエさんと一緒に旅をしたかも知れないんだなって思うと、ちょっと興味が出てきちゃって」
そう言って期待するティータに微笑んで、ミュゼは続きを語り始めた。
「ここからは一週間ほど前に、分校長とアッシュさんとラマール州に里帰りしていた時に、アリサさん、ユーシスさん、ガイウスさん、サラさん、アンゼリカさんから同時に伺った話になります」
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七耀暦1204年3月31日。
彼はトールズ士官学院一年Ⅶ組の一員として、士官学院に入学した。
入学時の成績は九十位。下から数えた方が早い成績だが、士官学院に入学できただけでも同世代の平均よりはその頭脳は優れているはずだった。
アリサは入学当初のことを、
「あんまり参考にしないでね? たった数年前のことだけど、まあ……今よりももっと未熟だったとしか言いようがないのよね。あの頃はやっと自立できる、これからはラインフォルトなんて関係ない、なんてちょっと的外れな開放感で浮かれてただけの小娘だったから」
そう前置きをして、少し気恥ずかしそうに、それでも出来るだけ当時思っていた事をそのまま語ってくれた。
「先ず入学当初、四月に関してはそんなに語れる事はないわ。私も自分の事だけで精一杯だったし、何よりクラス全体の仲も良くなかったから、正直あいつとほとんど関わってなかったのよね」
今の彼女等を見ていると嘘にしか聞こえないが、入学当初は旧Ⅶ組の面々の仲ははっきり言って悪かったらしい。
「信じられないと言われてもね。貴女達もやられたって聞いたけど、入学式直後のオリエンテーションで旧校舎、ヴァリマールが眠ってた遺跡に叩き落されたのよ、私達。そこで私はちょっとリィンと……って、その察したような目は辞めなさい。とにかく私はリィンと喧嘩しちゃったの。まあ、私からの一方的なものだったけど。他にもマキアスも当時は貴族ってだけで……特にユーシスを目の敵にしていたし、フィーはフィーで自由過ぎて協調性もなかった。ユーシスも四大名門って事は差し引いても、それでもやっぱり傲慢で無愛想だったしね」
「ふむ。素直になれず約一月もリィンに謝罪できなかった何処かの誰かも大概だがな。その上、あれでラインフォルトの名を隠せている気になっていたのだから救いようがない。俺はむしろ皆から事情を聞いてもらいたがっているものだと思っていたが」
「ふーん? クラス一のツンデレは言うことが違うわね」
本題に入る前に始まったアリサとユーシスの直接的過ぎる皮肉の応酬はガイウスによって止められ、話は本筋に戻る。
「まあ、とにかく最初はそんな状態だったから、あいつについて言えることなんて……そうね、何故か入学初日からすでにあちこち破れてるような制服を着てて、その上朝から血だらけで授業受けてたり、一般科目や芸術の授業なんて殆ど聞き流して課題やってたし、放課後になると同時に消えて、毎日深夜を過ぎて寮に帰ってきて数時間で寮を出る、何時寝てるかも分かんない、士官学院に何しに来てるか分からないような変人……と言うか、端的に言ってヤバイ奴だったって事くらいかしら? まあ、しばらくすると授業以外の時間は全部訓練に費やしてるって分かって来たけど、それにしても改めて考えると、あいつ普通にちょっと頭おかしいわね。トールズで日常の光景になりすぎて、後半は誰も疑問に思ってなかったようだけど、こうして口にすると意味がわからないわ」
散々な暴言を吐き始めたアリサにミュゼが何も言えずにいると、しかし当時の知る他の者は全員揃って頷いていた。
「最初の印象で他に言えることは、まあ……剣術の事くらいかしら。ミュゼちゃんは知らないかも知れないけど、最初はリィンと同じで太刀を持ってたのよ。同じ流派だったらしいから。え、トールズに来る前の事、知ってるの? それはちょっと興味あるかも……まあ、それは後にするとして、印象的なのはやっぱりその剣術のことね。さっきも言ったけど、私達、入学式の直後に遺跡で実戦形式のオリエンテーションがあったのよ。その遺跡の奥で、最後に全員で暗黒時代の人造大型魔獣と戦ったの。それまではあいつは素手で、何て言えばいいのかしら、アンゼリカさんから格闘術を習う前だったからか、野性的な戦い方? をしてたのね。だけど最後の最後、倒したと思ったガーゴイルが起き上がってエリオットを襲おうとした時、あいつが剣で腕を切り落としたの。それまでの戦い方が戦い方だったから……そうね、全く逆の洗練された動きには驚いたわ。えっと、上手い言葉が見つからないわね……リィンの剣は、何ていうか底が見えない、まだこれからもどんどん凄くなるんだろうって、素人目にもそう思える可能性に満ちた剣技でしょう? でも、あいつのはその逆で、限界の限界まで磨き抜いて、擦り切れて無くなっちゃいそうな、そんな儚くて張り詰めた印象を受けた。とにかく、当時の私からしたら、それはとても綺麗で凄いものに見えたのよ。でも、戦闘中にあいつが太刀を使ったのって、私が知る限りではそれが最初で最後だった。だからあんな剣術があるのにそれを使おうともせずに、その上すぐにアンゼリカさんから格闘術を習い始めたって噂で聞いた時は、本当に理解できなかったわ。えっと……何か長々と語っちゃったけど、入学当初の印象はそんな感じね。最後の剣術の事に関しては、サラ教官やユーシスがいる前で、素人の私の意見は蛇足だったわね」
恥ずかしそうにそう語り終えたアリサに、しかし先程は皮肉をぶつけていたユーシスは静かに頷いて同意した。
「最後の剣術の件まで含めて、第一印象としては俺も同意見だ。個性だけで生徒を集めたようなあの士官学院においても、奴の行動は異常に見えたし、事実大半の生徒は理解し難い狂った人間と認識していた。そして正直に言って、同じ剣を使う身として、あの年であそこまでの完成度、そして鬼気迫る居合いを魅せた奴に、畏怖と尊敬を覚えた」
そんな二人にガイウスは微笑み、「だが」と語る。
「吹き荒れる暴風ではあったが、決して人に害を成す悪しき風ではなかった。それどころかあの暴風が何かを守るためだけにあったのは、最初から最後まで一貫していたと、俺はそう思う」
魔獣が徘徊する旧校舎地下遺跡からの脱出を目的とした、旧Ⅶ組メンバーでの初の活動であったオリエンテーション。
その際、武を重んじる帝国貴族であるが故に孤高である事を良しとしたユーシスと、そのユーシスが貴族であるが故に対抗しようとしたマキアスは、それぞれが単独で遺跡を攻略しようと動き始めた。主催が士官学院であるという前提条件はあったが、それでもどのような魔獣が蔓延るかも分からない状態の未知の遺跡で、一人でだ。
別に示し合わせた訳ではなかったようだが、彼とフィーは何も言わずに彼らの後を追ったと言う。
「残されたあの場には、ラウラやリィンと言った武に長けた者もいた。それ故に、万が一の時の備えとして、ユーシスとマキアスの後を追ったのだろう。本人達から直接聞いた訳ではないがな。あの二人は奔放で、あの時点では確かに他の者に興味などなかったのだろうが、それでも心配していた事だけは断言できる」
「……まあ、そうなのだろうな。否定はしない」
「何ていうか、流石よね。あの時点で危ない奴じゃないなんて思えてたの、ガイウスくらいなんじゃないかしら」
彼の第一印象をそう締め括った三人に、サラは「今更だけど、ほんとにあんたら仲良しねえ」と笑っていた。そしてミュゼを見て、「次は私とアンゼリカが話せばいいいのね?」と語り始めた。
「ぱっと見の第一印象は、当時の担任としてもそこの三人とあまり変わらないわ。だから私は、教師陣の反応と、後は武術教官としての立場から話そうかしら」
サラは当時、トールズの教官の間で、彼が間違いなくタチの悪い問題児として扱われていたと語った。
「問題児と言っても、別に問題行動を起すような不良生徒だったって訳じゃないのよ。いや、まあ、毎朝毎晩非常識な時間帯に公園で鍛錬してたせいで、幽霊騒ぎになって憲兵に補導された上に、そのせいで学院のグラウンドと練武場を常時解放する羽目になったりと、最初の一週間で色々と問題を起こしはしてたけど、この際それはいいわ。そういう意味でも問題児には違いないけど、そっちの方はかなり初期の段階で全員諦めてたから。アンゼリカやクロウみたいなのが一つ上にいたから、まあ、教師陣にも耐性があったのね」
「ふふ、褒められても熱いベーゼくらいしか返せませんが」
「あーはいはい、あんたはもうちょっと黙ってなさい。二年の代表としても、五人組の代表としても、三大問題児の代表としても後で沢山出番はあるんだから」
隙あらば話の腰を折ろうとするアンゼリカを制して、サラは続けた。
ミュゼからするとその時点で間違いなく面倒な生徒像に違いなかったが、サラが言うには、教官陣がある意味で最も頭を悩ませたのは、彼の評価が悪い方向に二分されていた事が原因だったという。
「ちょっと信じられないかもしれないけど、あの子、微妙に勉強ができたのよね。一般科目に関しては正直な所、士官学院で教える範囲は既に終わってたの。もう調べてあるんでしょうけど、あの子がまだ帝国に来る前、養父母と暮らしてた頃にそこら辺は済ませちゃってたらしいのよ。勿論全部の科目で百点を取れるような出来じゃなかったけど、要点だけはしっかり押さえてあって、最低限の合格点は上げられるくらいには優秀だったわ。だからアリサもさっき言ってたように、一般科目なんて殆ど授業中は別の課題やって過ごしてたわ。で、微妙にって言うのは、専門科目の方が壊滅的だったからなのよ。こっちの授業態度は一般科目とは正反対で、人一倍真面目に授業も受けてた。まあ全部じゃなくて、興味のあった軍事学とか導力学、政治経済とかに限ってだけど」
つまり、授業態度と成績は完全に矛盾した結果で、一般科目の成績は上位であったが、専門科目はほぼ赤点に近いような状態だったと言う。
それ故に彼は、教師陣からの評価を悪い意味で二分していた。
そして更に話をややこしくしたのは、教師陣の中でも特に口うるさかった政治経済担当ハインリッヒ教頭が、彼を悪くは言わなかった事だったと言う。
周囲は当初、「あの野良犬をこの伝統ある学院から追放すべきだ」とハインリッヒ教頭が校長にすぐにでも直訴するだろうと噂していたが、その予想は大きく外れる事になる。
エレボニア帝国の社会制度に疎かった彼は、ハインリッヒ教頭の授業においては試験の成績を除けば模範的生徒であった。そして自らの知識にある国外の制度と比較した際の疑問点について、個人的に質問に来る彼を、ハインリッヒ教頭は『決して悪くはない生徒』として扱っていた。それは客観的に周囲から見ると、十分に『お気に入り』と言えるレベルであったと言う。
「物覚えと要領と成績が悪い事は確かだが、多くの生徒が、それも伝統ある貴族生徒までもがただの暗記科目などと平然と宣う中で、確固たる目的と己自身の疑問を持って授業に臨み、そして授業範囲に囚われずに自ら学ぶべきことを模索できる生徒を、何故諸君らは愚か者と断言できる? 聞く所によると、諸君らの担当科目の成績は良い方だと言うじゃないか。教科書を読み上げるだけの授業、暗記すれば点数を取れるようなテストになっているという証拠ではないかね?」
とは、彼に不満を持つ教師陣を、逆にハインリッヒ教頭が説教した際の言葉である。
その当然の結果として、説教された側の教師は「一理はあるが、興味ない教科にはとことん興味示さねえから困ってんだよ」と更に不満を募らせたという。
「そんな訳で、どう転んでも扱いに困る残念な生徒だったのよね。……何か話してたらイライラして来たわ。信じられる? 飲む度に、教官陣ほぼ全員からどうにかしろって苦情が来てたのよ? こっちだって取り扱いに困ってたっての! あんな頭のネジ飛んでる奴どうしろってのよ! 入学初日から深夜過ぎて帰って来るのも論外な上、『今から銃と体術の訓練をつけて欲しいです』なんて平然と言ってくる奴なのよ! どうしようもないっつーの! まあ? どこかの歴史学担当の守護騎士殿は、彼は帝国の歴史には疎いようですねー、何時も興味深そうに授業を聞いてくれるので私も話しがいがありますー、あれー? サラ教官、どうしたんですかー? 彼、とてもいい子じゃないですかー、なんてほわほわ楽しそうにしてたけどね!! じゃあお前が担任変われっつ―のよ!!」
余程の気苦労があったのだろう、サラは徐々に声を大きくして行って、最後には流れでかつてのトールズ教官にして星杯騎士団守護騎士トマス・ライサンダーにあらん限りの怒りをぶつけていた。トマスと同じ守護騎士にして後輩でもあるガイウスは、居た堪れないような表情でそっと目を逸していた。
「ふう、まあいいわ。明後日にまたあいつとトワと飲む予定だから、当時の愚痴は直接本人に直接ぶつけさせてもらうとして、後は武術教官としての話ね。まあ、こっちでもある意味では問題児だったわね。さっきの剣術の話、担任としての色眼鏡じゃないけど、アリサもユーシスも、当然ガイウスも、やっぱり分野に関係なく根本的に人を見る目があるわね。公女様があえてあんた達を呼んだ理由もわかるわ」
的確に人選の基準について触れて、サラはミュゼが期待した通りの観点と、そして意趣返しのつもりなのか、あくまでも彼の担任としての観点で語ってくれた。
「先ずそもそも前提として断言しておくけど、当時のあの子は実力を偽ってた訳ではないわ。入学当初は本当に大した事なくて、例え剣を使っても当時の発展途上だったリィン、ラウラ、フィーにも勝てない程度の実力しかなかった。間違っても十月戦役から今までを、あんな無茶して生き残れるなんて、そんな奇跡みたいな事を狙って起こせるような力はないわ。……まあ、元祖《C》さんが三味線弾いてた事に気付かなかった私が言ってもちょっと説得力に欠けるかもしれないけど、的確に授業をサボってたクロウと違って、あの子は私の授業ではちょっと引くくらい本気で取り組んでたから、それは断言出来るわ。で、ぶっちゃけ、私は当時のあの子に武術教官として、あれ以上何を教えてあげればいいのか、何を教えてあげることが正解なのか、全く分からなかったわ。オリエンテーションの時、私も見てたのよ。あの子が最後に使った、八葉の《残月》を。アリサの言ったように、もうそれ以上は無いに等しいほど磨き抜かれてて、ユーシスの言ったように完成と言っていいほど完成に近かった。それなのにあの子は、同じクラスの発展途上の天才三人組に勝てない程度の実力しかなかったんだから」
彼の剣術は、当時の段階で既に事実上の限界を迎えてしまっていたと言う。
武の道に終わりはないと言う言葉は、その世界で生きるわけではないミュゼも当然良く耳にする。そして武術だけでなく、それは他の全ての事にも汎用的に使われる言葉だ。
そして周囲から天才と称され、その自覚と自負もあるミュゼであるからこそ、「才能の限界」と言う諦めでしかない言葉が安易に使われる事には、少し反感を覚えた。
「誤解しないで欲しいけど、私の目からしたらあの剣技にも、まだまだ改良の余地も発展の余地もあったわ。でも、そうね。アリサのさっきの言葉はかなり良い例えよ。当時のリィンが底知れない無限の可能性に満ちてたのとは対象的に、あの子はその可能性がもう残ってないって思えるまで引き出した状態だった。でも当然、極限まで練り上げたと思っても、実はその先はまだある。無くなるまで磨き上げたと思っても、実際にはまだ残ってる。次元が一つ変わるだけで、無限にしろ無にしろ本当の意味では到達出来ない。だけど、人に与えられた時間には限りがあって、その歩幅は違う。どんな道にも終わりはないけど、それぞれ行き着ける場所には当然限界がある。一言で言えば、あの子には剣術であれ以上劇的に強く成れるだけの伸び代が……才能が無かったのよ。かと言って、私の猟兵仕込みの剣術は勿論、体術、銃技があの子に合ってるようにもまるで思えなかった。どれだけ使わないようにしても、やっぱりあの子の動きには八葉一刀流のそれが染み込んでたしね」
結局、私はあの子に教師らしい事なんて何もしてあげられなかったのかもね。
サラは最後に小さくそう呟い、自分の話は終わりだと告げた。
少しだけ悲しそうに苦笑するサラに、「ならば次は私の番だね」と続いたアンゼリカは、楽しそうに笑っていた。
「別にフォローする訳ではないですが、教官には何時も学んでばかりだ、三十を過ぎても教官のようになれる気がしない、と零していた記憶がありますね」
「だから勝手に四捨五入すんな! ……って、そういう意味だったの? ちょっとしたお遊びでフィーを撃ちながら追いかけ回してた時に、私もそんな事を直接言われたから、またナチュラルに煽られたのかと思ってたけど……」
「ふむ。その文脈ならそういう意味で使った可能性も捨て切れないか。私とクロウの高尚な議論に自然体でついて来れる所などは、酒豪である事以外の彼の数少ない才能ですからね」
「あんたねえ……」
何とも言えない顔をするサラに、神妙な顔で唸いて見せるアンゼリカ。
そんな実りの無い会話をする二人に、Ⅶ組の三人も「ああ」と妙に納得したように頷いていた。
「そういう所あるわよね。何で今喧嘩売られたのって、何度思ったことか。特に自分の事は棚に上げて常識を語るのは、妙に腹立だしいわよね。信じられる? 私、あいつからかけられた一言目なんて『最近まで、助けてくれた人に礼も言わずに暴力で返す、恩知らずの暴力女と思って避けてたけど、そういう人間も普通にいるって知ったので、これからは考えを改めようと思う。だから、これまでの事、申し訳ありませんでした』だったのよ。確かに、私が恩知らずの暴力女だったのは事実よ? 事実なのよ? でも、でも、だからって……!」
「ああ、そうだな。今も奴は何一つ変わってない。ああ、そうだとも。奴にだけは言われたくない。何が『少女趣味だと聞いたが本当か? 犯罪になるから、そういうのは程々にした方が良いと思う』だ。貴様は先ず鏡を見ろ!」
「ユ、ユーシス、あれは一部でそういう噂があるという話で、ミリアムを心配しての発言だ……」
「分かっているから余計一層腹立たしいんだろうが!!」
憤慨するRFグループの後継者と四大名門当主を存分に堪能しながらも、彼との数少ないやり取りを思い返してみると、ミュゼも確かに思う所はあった。
しかし放っておけば「そう言えばあの時も」と愚痴とも笑い話とも取れない発言が次々と出てくるので、小さく咳払いしてアンゼリカに続きを促した。
「では先程の教官の話の流れで、先ずは彼の師匠としての立場から語るとしようか。サラ教官が匙を投げて……まあ、教官の名誉のために補足しておくと、彼の元の流派である八葉と同じ東方の理念と術理を汲み、そして武器術ではなく格闘術に重きを置く泰斗流を扱う私と、その私と一年間、敵としても味方としても戦い続け、学院で最も泰斗流に慣れ親しんでいたクロウに銃の師匠役が回って来たのは、入学式の翌日だったかな。泰斗の師として私からも最初に断っておくが、我が愛弟子が共和国のスパイ故に泰斗流を最初から扱えた、などと言う事は絶対にない。そもそも今の彼が使っているのも純粋な泰斗流ではなく、私の我流を更に独自に改良した、全くの別物なのだからね」
アンゼリカも先程のサラと同じく、前提を明確にしてから語ってくれた。つまり、彼は全くの凡人であったと。
「剣の才能よりは、まだ格闘の方が才能はあったのだろうね。八葉にも無手の型があると言うし、先程から少し話に上がっていたように、素手での戦いの経験はあの時点でも十二分にあった。だから天才などとは断じて言えないが、飲み込みは悪くなかったよ。とは言え、適当にそこら辺から十人くらい集めれば一人は見つかりそうな程度の才能しかない、言ってしまえば平凡で退屈なだけの少年と言うのが、一番最初の印象だったかな。人格面で言っても、そこに危なっかしいという評価が加わるくらいだね。ふふ、こうして思い返してみると、彼を愛弟子や親友と呼ぶような関係になるとは当時はこれっぽっちも想定していなかったよ」
人格面に関しては世間一般で言う『平凡で退屈』と些か乖離していると思いはしたが、アンゼリカの基準は当てにならない事をミュゼは承知しているため、深くは追求しなかった。
同じ四大名門出身であるユーシスなどは何とも言えない顔をしていたのが良い証拠だろう。
「最初に彼に興味を持ったのは、数回ほど稽古をつけた後だったかな。週に三回、放課後に三時間ほど稽古をつけていたんだがね、稽古が終わった後も彼は携帯食だけ食べた後、毎回一人残って訓練をしていた。その事は最初から知っていたから、私とクロウ、どちらが言い出したかは忘れたが、青春に生きる学生の本分を全うするために、彼の訓練風景を肴に一杯やろうと、買い込んだ食事とアルコールを持ち寄って校舎の屋上で二人で再度落ち合ったんだ。最初はその日の訓練内容を復習する彼を遠目に、やれ飲み込みが悪いやら教えた事が出来てないじゃないかと、まあ楽しくやっていたわけだ」
「あんたら、控えめに言って馬鹿でしょ」
「若さゆえの特権と言って頂きましょうか」
「せめて監督として私も呼びなさいよ」
大体全てにおいて学生としてあるまじき行いを語り始めたアンゼリカと、見当外れな指摘をする当時は教官であったはずのサラ。
そんな二人を見て、ミュゼは人選を誤ったかと少し後悔したが、笑顔を崩さずに色々な事を飲み込んだ。
「剣術の訓練もやっていたから、最初の方は目新しさもあって楽しんでいたかな。だが、日付が変わる頃になってもまるで終わる様子がなくてね。そこら辺で少し、鬼気迫る様子で訓練を続ける彼に、これは流石にと思い直した。そして日付が変わって漸く素振りを辞めたかと思えば、今度はまた泰斗と銃技の訓練を再開して、結局その日は夜中の二時くらいまで続けていたかな。そこまで来ればもう、彼がどういう生活を送っているのか気になってね。興味半分心配半分でクロウと朝と夜に手分けして彼の生活を探ってみたのさ。結局、夜は何時もだいたい同じ時間、朝は五時前から訓練をするような生活をしていた。時には実戦の勘を鈍らせないためか、件の出鱈目な戦い方で血反吐を吐きながら、そして血塗れになりながら、魔獣と殺し合いをしていた。当然の結果として、睡眠不足に体力の限界が重なって、数日おきに訓練中に気絶するように倒れて眠っていたよ」
トールズ第Ⅱ分校のカリキュラムと、当時の本校のカリキュラムに大きな差はない。そうであれば彼の生活が明らかに破綻していた事は明白だった。
文字通り倒れるまで鍛錬に全てを費やすその在り方は、ミュゼからすると俄には信じ難いものだった。
「と、まあ、最初は才能も無く退屈で平凡だと思った少年が、当時は理由を知らなかったが、文字通り何故か血反吐を吐くような鍛錬を当然のように続けていると知って、それから徐々に評価が変わっていったかな。雨が降ろうが風が吹こうが決して歩みを止めないと知って、強い人間だと思った。誰からも評価されなくても誰から批判されても決してその芯はブレないと知って……と、些か話の展開を急ぎすぎてしまったかな。総括は最後にするとして、話を四月頃に戻そうか。私のその時点での彼への印象は、先程話した事もあって、そう悪いものではなかったよ。クロウも、呆れるほど面倒見の良い男だからね。随分と気にかけていたし、気に入ってもいた。ジョルジュやトワに、彼が学院で過労死しないようにそれとなく気にかけてやってくれと頼むくらいにはね。まあ、お察しの通り、師匠役という関係にあった私達の彼への評価は、学院全体からすると例外的なものだったよ」
アンゼリカ曰く、彼に対する上級生からの彼の評価は、Ⅶ組を始めとした下級生とほぼ同じで、悪評と言って差し支えのないものだったと言う。
端から断片的に見ると、学業を疎かにして何時も深夜に徘徊し、そして怪我の耐えない生活を送る異常な生徒でしかないのだから、当然の評価だろう。何時の頃からか定着した狂犬という呼び名や、野良犬、野犬も、既にその頃から一部では蔑称として定着していたらしい。
彼自身、誰とも馴れ合う気はないと言わんばかりの態度だったのが、その悪評に拍車をかけていたともアンゼリカは語った。「もっとも本人は絶対に『解せないです』などと言って認めないだろうがね」と、楽しそうに笑いながら。
「さて、では次はまた旧Ⅶ組の諸君に語り手を任せれば良いのかな? 時期を四月と縛ると私が彼について話せることは、もう残っていないからね」
そしてアンゼリカは最後に涼しい顔でそう言って、それっきり口を噤んでしまった。
明らかに楽しんでいる様子のアンゼリカに内心でやはりかと苦笑しながら、ミュゼはちらりとアリサを盗み見た。そして思っていた通り、こちらを盗み見るアリサと目が合う。
あわよくばアンゼリカが自然と、それが叶わなくてもアリサが、という可能性も僅かにはあったが、二人共それは許してくれなかったらしい。
故にミュゼはにっこりと微笑みながら、彼を語る上で必須とも言える人物の名前を口にしながら、手札を一枚切った。
「あら? おかしいですね。まだ、トワ教官との出会いを教えて頂けていないのですが。彼の日記帳によると、教官との出会いは四月の中頃だったはずです」
効果は覿面だった。
成り行きをニヤニヤと楽しげに見守っていたアンゼリカなどは紅茶が気管に入ったのかむせ返っており、サラも「なんて物をなんて娘に渡してんのよ、あの馬鹿は」と唖然としていた。
流石にその反応には思う所もあったが、気を取り直してミュゼは告げる。
「勿論ご本人からも許可は頂いておりますし、トワ教官も検閲済みですので、要所要所は穴抜け状態です。トワ教官が恥ずかしがって、主にご本人同士のやり取りなどが記された部分が重点的に」
当然、トワが他人に見せるべきでないと判断した、戦時中の事なども省かれている。
渡された日記の写しは、士官学院での彼の生活を窺い知れる内容と、内戦以降の最低限の足取りを追える内容だけだ。
「トワ教官にも、皆さんから話を聞く分には問題ないと許可は頂いています。この素敵な日記帳、ここにいるメンバーで穴埋めしてみませんか? お二人のご結婚のお祝いとして、学生時代からの思い出をアルバム付きの日記としてまとめなおすなんて、素敵ではないでしょう? 勿論、ここにいない方々にもお二人とのエピソードを、当時を振り返ってという体で日記として提供頂くつもりです。実は既に、当時の皆さんの写真もこっそり各所から取り寄せているんですよ」
ミュゼがやろうとしている調査は、必要とは理解されても快く受け入れられるものではない。
特に当人からしたら、隠しておきたい過去を重点的に暴かれるようなものなのだから、尚更のはずだ。
だが、当の本人は利益を重視して、ほぼ他人であるミュゼに日記帳を無頓着に渡してくるほどに協力的で、どちらかと言うと渡されたミュゼの方が罪悪感に苦しめられている。
だからそんな罪悪感を少しでも紛らわせるために、謝罪も兼ねた結婚祝いなどと言うものを用意しようとしている。
ただ、確かに純粋な祝福の気持ちもこもっているミュゼのそんな提案に、当時の彼の同級生と先輩、そして教官は、揃って呆れたような苦笑を浮かべていた。
彼らはやはり、どこまでもお人好しの集まりだった。
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「……薄々気付いてましたけど、ミュゼちゃん、もうこの時から楽しむ方向に完全に切り替えちゃってたでしょう?」
「えへ、バレちゃいました?」
ジットリとした目を向けてくるティータに本心のままに返して、ミュゼは紅茶で喉を潤す。
そしてちらりと視線を後ろにやれば、いつの間にか自分のクラスメイト達が集っており、特に興味津々な様子のユウナ・クロフォードとアルティナ・オライオンが目を輝かせて話の続きを待っていた。
まだ、長い夜は始まったばかりだった。