凡人の軌跡   作:kuku_kuku

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北方戦役の亡霊

「正直に言うと、最初は嫌悪していたわ。あの身の程知らずの凡人さんの事を」

 

 晩餐も終わり、グラン・シャリネやスタインローゼの瓶が空になるスピードも徐々に上がって来た頃。

 十月戦役の結末が旧Ⅶ組の面々から語られた後、酔いで頬を少し赤く染めたヴィータがそう切り出した。

 

 結社の使徒《蒼の深淵》にして古の《魔女の眷属》ヴィータ・クロチルダ。

 十月戦役を裏から計画し、世界を蝕む呪いに抗った裏の功労者たる彼女。

 最後の戦いで負った致命傷により死に行くはずだった《西部戦線の狂犬》と《蒼の騎士》の命を繋ぎ止めた人格者。

 

 そんな彼女が不貞腐れたような様子を隠そうともしないその様は、少なくともミュゼにとっては初めて見るものだった。

 

「呪われた騎神の攻撃からクロウを庇った。土壇場でオルディーネの準起動者になり、アンゼリカ、トワ、ジョルジュとの間に生まれた霊力パスを保ち、結果的にクロウの命を繋いだ。クロウがあの時死ななかったのは、私と婆様の治療が間に合ったのは、間違いなく彼の執念あってのものだったわ」

 

 琥珀色のブランデーを飲み干し、無言でサラにグラスを突き出してヴィータは続けた。

 

「感謝はしていたわ。クロウを救ってくれたのだから。でも、同時に憎んでもいた事も事実よ。クロウに騎神と繋がっていなければ生きていけない半死半生の歪な命と、相克を完遂させ世界を救うためだけの限られた人生を押し付ける事になったのは、彼のせいでもあったのだから」

 

 ヴィータは語った。

 最終決戦時に《緋き終焉の魔王》によって負わされた傷は確かに致命的なものであったが、しかしクロウが半ば不死者と化したのは別の要因があったと。

 

「さっきの内戦の話の時にも何人か言っていたでしょう? 彼がどうして生きているのか不思議な状態だったと。実際その通りだったのよ。あの身の程知らずは、文字通り霊力を、そしてその根源たる命と魂を燃やし尽くしながら戦っていたのだから。いくら魔女の術と聖獣の加護を駆使して治療をしようと、いくら奇跡的に繋がりが出来たトワ達からの霊力の供給があろうと、既に消えかけている所に追い打ちで致命傷を受けた命を繋ぎ止めるには足りなかったわ。本来ならあの戦いを最後に燃え尽きてしまうはずだった彼が生き永らえたのは、意識を取り戻したクロウが自身の生命力を糧に、起動者としての権能を駆使して騎神に宿る秘跡を使ったからなのよ。その代償としてクロウは、騎神の存在がないとたった数年で限界が来てしまう程に魂と命を崩壊させてしまった」

 

 いくら魔女の術が優れていようが、零れた命を何の犠牲も無くすくい上げる事は不可能だった。

 彼ら二人が揃って一命を取り留めるには、《蒼の騎神》オルディーネという至宝の一端の超常の力と、それなりの対価が必要だったのだ。

 

「零れたはずの水を掬い上げる外法……騎神と不死者の存在を知らなければ、到底信じられないお話ですね。彼はその事を知っていたのですか?」

 

「当時は知らなかったわ。クロウに口止めされていたし、何より私達の計画上その事実が秘匿される事こそが鍵であったのだから」

 

 ミュゼは当時、後のヨルムンガンド戦役に備えて、あらゆる手段を講じて魔女ヴィータ・クロチルダと協力関係を結んだ。

 しかし帝国の裏の歴史を知る魔女たちと友誼を結び、そして己の異能を以って帝国の過去、現在、未来の一部までもを掌握していたはずのミュゼでさえも知らなかった事がある。

 

「計画、ですか。蒼の起動者、クロウ・アームブラストの生存。それは確かに《西部戦線の狂犬》の生存と両立出来ない事象のはずでした。ふふ、私も狂犬さんの生存を知らされ、まんまとクロウ先輩の事については騙されてしまいました」

 

 大前提として、騎神と繋がり生き残る、もしくは不死者として蘇る事が出来るのはただ一人。故に、彼ら二人が揃って生き残るには奇跡が必要だった。

 

 聖獣であるローゼリアの献身。躊躇わずに命を共有した五人組の絆。そして、至宝の一端の力。

 

 それら三つの奇跡が同時に発生しなければ、二人が揃って生き残る事はなかっただろう。

 一つ一つはともかくとして、三つの奇跡が同時に発生する確率はゼロと断言しても間違いではないはずだった。

 それ故にミュゼを含め、オズボーン宰相や地精、イシュメルガをも欺き、クロウと蒼の騎神と言う切り札を隠し通した状態で、彼女たちは全ての因果が収束したあの黒キ星杯での戦いを迎える事が出来たのだ。

 

「ヴィータさんとは人生の先輩としても魔術の師匠としても、そして協力者としても良好な関係を築けていたと思っていました。なので嘘をつかれたと知った時は、私、少し傷ついたんですよ?」

 

「あら。私、嘘はついていないわよ? 最初に貴方と会った時の会話、覚えていないのかしら?」

 

「確か、『私に残った手駒は一匹の野良犬だけね。残念ながら私の騎士は、クロウ・アームブラストはいなくなってしまったから』だったと記憶していますが?」

 

 ミュゼは当時の記憶を手繰り一言一句誤り無く正確にその言葉を繰り返し、そしてその直後に気づいた。

 サラからなみなみと注がれたブランデーをあろうことか一気に飲み干し、悪戯っぽく笑う酔っぱらいの魔女の意図に。

 

「騎士ではなく旦那様になっていたし、クロウ・アームブラストではなくてクロウ・クロチルダになっていたから、嘘ではないわ。もちろん、手駒ではなくパート……っ! 痛いわね、どうしたのかしら?」

 

 無言で脛を蹴り始めたサラにヴィータが抗議の声をあげるが、当然の如く誰も止めはしなかった。色々な意味であまりにも酷い。

 

 正直あまり見たいとも思えないヴィータとサラが年甲斐も無く幼稚な喧嘩をする様に目を瞑りながら、ミュゼは咳払いをして続きを促す。

 

「彼の事を最初は嫌悪していたと言われていましたが、それ以降で何か考えを改める機会が会ったと受け取って良いのでしょうか? 少なくとも私と協力関係を結んで頂いた直後の頃には、彼を表の世界に返されようと……言い換えれば、厄介払いをしようとしていたと記憶していますが」

 

「そうね。計画の邪魔になるとしか思えなかったから、貴方の言う通り早く手放したいと思っていたわ。正直、クロウがどうしてあの無才にして無力、無謀な子を高く買っているのかも理解が出来なかったしね」

 

「ああん? あんた、喧嘩売ってんの? 私の教え子に何ケチ付けてんのよ、何様のつもりかしら? 年下の男捕まえられたからって調子乗ってじゃないわよ? て言うかよく考えれば何私の教え子に手を出してんのよ、私、教官よ? 保護者みたいなもんよ? ちゃんと許可取りなさいよ」

 

 相変わらず脛を蹴り続けるサラに、ヴィータは溜息を吐きながら返す。

 

「今のセリフ、覚えてなさいよ。泣く事になっても知らないわよ? アンゼリカ、ちょっとこの酔っぱらいお願いしてもいいかしら。好きにしてもいいから」

 

「ふふ、仕方がないが任されるとしよう」

 

 阿吽の呼吸と言った様子で、もうほぼ酔い潰れている状態のサラを宥め、アンゼリカが嬉々とした様子で肩を貸しながら部屋の出口へと向かう。

 幾ら何でも酷すぎる年長者勢の様子に若干引いていると、オーレリアから真顔で、

 

「心配せずとも三十分もすれば戻ってくるだろう。毎度の事のようだ」

 

 と、フォローされた。

 唯一ヴィータの言葉に焦っているアリサは例外だが、ガイウス、ユーシス、オーレリアは慣れた様子と言わんばかりに互いにワインを注ぎ合い、何事もなかったかのような様子で悠然とグラスを揺らしていた。

 ある意味一番頼りにしていたアッシュですらも、ヴィータに付き合いブランデーのグラスを煽り始める始末。

 

 話に集中している隙に、自らが致命的な過ちを犯していた事に薄々と気づき始めたミュゼは、大きく溜息を吐いた。

 そんなミュゼを楽しそうに眺めつつ、ヴィータは苦笑しながら続けた。

 

「貴方の言う通り、考えを改めさせられたのでしょうね。本当にね……あれほど頭がおかしいとしか思えないほど無謀に戦場で暴れていたのに、あの子は普通だったのよ。イシュメルガの呪いによって始まる事になる戦争で犠牲になるかもしれない人を救う、呪いで理不尽に戦わされる事になるかもしれない人を救う、不幸になるかもしれない誰かを救う……そのために強くなる。事もあろうか、そんな普通過ぎて……誰もが最初に考えて、でも結局は見ないふりをするであろう善良な考えを貫くべく、意識が戻った次の日には、婆様と私に頭を下げて修行をつけてくれなんて言い始めたのよ。今、自分の命があるのは多くの人に助けられたからなんだ、だから自分はその人達が間違っていなかった事を証明するためにも、困っている誰かを助けて、その上で幸せにならないといけないんだなんて……クロウの人生を犠牲にしてまで拾った命だなんて知らないくせに……そんな、誰が聞いたって正しいとしか言えない、偽善に満ちた普通すぎて誰も言えないような事を本心から言うのよ」

 

「……つまりは、絆されたと?」

 

 端的に問い掛けたミュゼに、ヴィータは小さく笑った。

 

「まあ、そういう事になるのでしょうね。あと、彼は、私とクロウの結婚を初めて純粋に祝福してくれた人だったのよ。限られた時間であってもクロウと共に過ごせる日々を、善良な感性を持った平凡な人間が純粋に祝福してくれる……今考えても不思議に思うけれど、それだけの事が随分と嬉しかったわ。ふふ、なかなか公にクロウの事を話せる人も居なかったから、彼には随分と話し相手にもなってもらったものね」

 

 感傷的に微笑むヴィータであったが、その隣でそっと目を逸していたアッシュに気づき「どうしたのかしら、弟君?」と首を傾げる。アッシュは珍しくも数瞬迷っていたが、最終的には少し言い難そうに、

 

「いや、兄貴が前、あんたの話がめちゃくちゃ長くて困ってたとか言ってたなって思ってな。愚痴りたいのか惚気けたいのか分からなくてどうしようもなかったって話だが……まあ、今日で納得いったぜ。ぶっちゃけアラサー独身遊撃士がキレんのもわかるわ」

 

 と、とんでもない事を言い始めた。が、ミュゼとしては表には出さないながらも、その意見には完全に同意するばかりである。

 

 正直、自らの魔術の師匠は、思っていたより数段面倒臭かった。

 

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「本当に普通のただの良い人なんだ、あの人……。リィン教官を筆頭に旧Ⅶの先輩達って、守護騎士とか魔女とか起動者とか剣になっちゃったり普通じゃない人達ばかりだから、そういう不思議な力でヨルムンガンド戦役の時も内戦の時も死ななかったんだって思っていたけど……そっか、私と一緒で、普通なんだ」

 

 三つの奇跡の果てに命を拾った、ただの凡人。

 ユウナはその事実に、少し呆然としていた。

 

 一方で彼を一人の武人として慕うクルトは別の事が気になったようで、少し思い悩んだ様子でリィンに問いかける。

 

「内戦終結時の特任教官は、どれくらい強かったのでしょうか?」

 

「そうだな……少なくとも今のクルトより弱かったのは確かだ」

 

「やはり、そうなんですね。だけど僕には、いざと言う時に特任教官と同じ事をやれる自信がない……。それはきっと……少し口にするのは恥ずかしいですが、愛する人の有無の差なのでしょうね」

 

 自分で言って恥ずかしくなったのか顔を赤くするクルトに、リィンは優しく微笑んだ。

 

「そう思えるのなら、きっとその時がくればクルトも同じように戦えるはずだ。実際、俺もそうだったからな」

 

「……ん?」

 

 さらりと挟み込まれたリィンの言葉に、全員が驚き固まる。

 が、ミュゼは騙されない。

 

「リィン教官の愛する人とはどなたの事なのでしょう?」

 

「ああ、エリゼ、妹の事だ。俺が八葉を学び始めた切っ掛けも、鬼の力を制御できたのも、エリゼの存在があったからこそだからな」

 

「……分かってはいたが、こいつほんっとにブレねえな」

 

 ぼそりと呟くアッシュと、安心したかのように頷くユウナとアルティナ。

 やはりリィン・シュバルツァーは何処まで行ってもリィン・シュバルツァーだった。

 

 溜息を吐く生徒たちに少し困惑した様子のリィンだったが、気を取り直したクルトの「特任教官がたまに使う結界の術は、エリンの里で身につけられたものなのか?」と言う質問で、一旦は生徒たちの呆れた視線から解放されていた。

 

「いえ、別のタイミングだったようです。最初はローゼリアさんから魔術の修行をつけて頂いていたようですが、才能がないとの事で数日で見限られたと伺いました」

 

「そ、そうなのか……何と言うか、ある意味期待を裏切らない人だな、あの人は……」

 

 肩透かしを食らったようで少し吃ったクルトに、ミュゼはくすりと笑う。

 

「ですが、ヴィータさんもローゼリアさんも彼の霊視の能力だけは手放しで認めていらっしゃいましたよ」

 

「ああ、あのカンパネルラの結界も破ったって言う。私達が物量に物を言わせてどうにかやっとって感じだったのに、一撃で壊せちゃうんでしょう?」

 

 ちょっと狡い、と小さくボヤいたユウナ。

 結社の道化師を名乗る執行者と根本的に相容れず敵視しているユウナのそんな感想に、リィンが苦笑しながらフォローを入れる。

 

「あれも一つの技術の延長だから、ユウナでも鍛錬すれば会得する事は不可能じゃないぞ?」

 

「え、そうなんですか?」

 

「ああ。幼い頃に培われた目前の危機に対する察知能力と観察眼。霊力が渦巻く旧校舎地下遺跡に潜り続けることで高まった感知能力。戦場で研ぎ澄まされた第六感。一度死にかけ、繋がった他者の霊力によって生き返ったと言う経験。それらが合わさり、目前の事象を細部までありのままに視るあの技術は成り立っている」

 

 リィンの解説を受け、いまいち良く分かっていない様子のユウナの「へえ、そうなんですか」という気の抜けた返答を食い気味にクルトが割って入った。

 

「特任教官も教官も、あの並外れた広範囲の状況把握能力や本質を見抜く力は共通しているようですが、説明を聞くに教官の《観の眼》とは違うと言うことでしょうか? 」

 

「いや、根底にあるものは同じだ。八葉の残月を授かった者として当然《観の眼》にも習熟している。だから、純粋な八葉の教えとは別方向に特化していると言う方が妥当だな。興味があるならまた詳しく話すが、表面的に説明すると、事象の本質を見抜く力、牽いては適応範囲と事前察知能力という意味においては俺に分があるだろうな。だが、本来なら視覚情報では捉え切れないものを含め事象の細部をありのままに視ると言う意味では、あいつには及ばない。少なくとも今の俺では、戦闘の中であれ程容易に術の核だけを見切り斬る事は出来ないからな」

 

「なるほど、局所的な場面ではともかくとして、教官の《観の眼》の方が概念的、そして戦闘面においても有用と言うことですか……」

 

 真面目な顔をして、しかし何処からどう見ても楽しそうに唸るクルトに、リィンも真面目に楽しそうに返す。

 

「いや、そうとも言い切れないだろう。あいつの《無月》を、あの無謀とも言える致命傷だけを避ける正確無比な見切りを実現するには、あの能力は必須だ。それに老師程の極地、天元眼と呼べるまでに至れば、あいつと同じことも十分可能になるだろう。おそらく順序が異なるだけで、どちらも到達する先は同じはずだ」

 

「お前ら、もう他所でやれよ……。ほら、兄貴に通信繋げてやったからよ」

 

 放置しておけば延々と続けかねない二人に溜息を吐きながら、アッシュがリィンにARCUSを投げて渡す。しまったと言う顔をしながら端末を受け取ったリィンは、

 

「すまない、ちょっとクルトと盛り上がってしま」

 

「あれ? リィン君?」

 

「トワ先輩ですか?」

 

 謝罪に対して返されたトワの誰何の声に、流石に想定外だったのかARCUSの画面に表示された接続先を確認していた。

 

「ごめんね、驚かせちゃって。ちょっと今お料理中で手が放せなくて、急ぎの用事だといけないから代わりに私が出たんだ。でも……あはは、アッシュ君の悪戯だったみたいだね」

 

 ARCUSから響くトワの的確な指摘にアッシュが気不味そうに目を逸らすが、リィンを含めた大半の人間はそれよりも前半に食いついていた。

 

「料理中って……え? あいつが……料理?」

 

 と言うよりもリィンは驚愕していた。料理という文明的行為と彼の存在が、どうやっても頭の中で結びつかなかったようだ。

 

「うん。アンちゃんとヴィータさんにね、たまには手料理でも振る舞わないと私に愛想つかされて捨てられちゃう、なんて変なこと吹き込まれちゃったみたいで、マーサ叔母さんからこっそり料理を習ってたんだって。ふふ、そんな事するはずないのにね」

 

「あ、はい」

 

 嬉しそうな声で語られたトワのそんな説明に、色々と複雑そうな感情が混ざり合った結果平坦になった声でリィンは生返事を返していた。

 

「あ、ちょっと待ってね、リィン君とお話したい事があるって…………え……うん、二人もいるみたいだけど……」

 

「狂犬さんとトワ教官、とっても仲良しですね!」

 

「そうだな……だが、あいつが料理か。トワ先輩のためと考えれば納得だが……そうか、何と言うか置いて行かれた気分になるな」

 

 少し遠くなったトワの声に重なり、ティータの嬉しそうな声が響く。そして相変わらずリィンは遠い目で生返事をしながら、やたらと大袈裟なコメントをしていた。

 普通に考えれば料理くらいで大袈裟なと思ってしまうが、しかし改めて今夜語った彼の壊滅的な日常生活を思い返せば、その感想も理解できなくはない。

 

「お待たせしてごめんね、リィン君。明日の午前中なんだけど、もし暇だったら私達の訓練に付き合ってくれないかな? よかったらアッシュ君とクルト君も一緒に。もちろん他の皆も一緒なら嬉しいけど……あはは、他の子たちには断られちゃうよね、たぶん」

 

「俺はむしろ望むところですが……そうか、確かトワ先輩、あいつから近接用の護身術を習っていると言われていましたね」

 

「うん。遠近感が掴めなくなったせいで、士官学院で習ったのは上手く使えなくなっちゃったから。前に共和国に行った時にも色々あったし、それに士官学院の主任教官としても最低限の接近戦は出来ないとだからね。リィン君に手伝ってもらうのはちょっと気が引けるんだけど……」

 

「いえ、確かにあいつの零距離戦闘技術は今のトワ先輩には向いていますが、護身術と言うには偏りがありますからね。歪みが出ないように正当な八葉と泰斗、俺と、行く行くはアンゼリカ先輩の動きを体験させようとするのは理に叶っていると思います。クルトとアッシュを呼んだのは、あいつなりの教官としての俺への謝礼と言う事でしょう」

 

「うーん、やっぱりリィン君はすごいなぁ。リィン君なら分かるからって言ってたけど、ふふ、ちょっと妬けちゃうかな。でも、アッシュ君とクルト君を呼んだのは、単純に自分の訓練に付き合って欲しいからみたいだよ。リィン君へのお礼は別に考えているって言ってたから、楽しみにしておいてね? 秘密だから私には話せないって言ってたけど……あれ? もしかして何かやましい事だったり……それは嫌だなぁ……え? 違う? …………え、それって……ええっ! 本当にっ!?」

 

 唐突に途切れた会話と肝心な部分が何一つ聞こえないトワと彼の通信の向こう側でのやり取りに、生徒全員が何事かと耳を澄ます。

 無邪気に純粋に《秘密のお礼》という怪しい単語だけを残されたリィンも、何事かと焦り気味に「トワ先輩……?」と端末に向かって語りかける。

 

 が、無情にもARUCSからはトワと彼の会話が断片的に漏れ聞こえるだけ。

 

「あれ? でも、秘密って約束したなら私に言っちゃったらダメなんじゃ……え、約束より大事って、私そんなに悲しんでなんてないよ…………だけど、えへへ、ありがとう。あ、でも、どうしよう……次会う時、どんな顔して会えばいいか分からない……え、クロウ君とジョルジュ君も知ってるのっ!?」

 

 詳細と対象が誰かはともかく大凡の話の背景を把握しつつある生徒達とは正反対に、しかし只一人何事か理解出来ていないリィンの初動は致命的に遅れた。

 

「でも、本当にびっくりだよ……何時の間にかそんな事になりつつあるなんて、リィン君と――」

 

「明日、分校の訓練所で待っています! 参加者と詳細な時間は後で調整と言うことで!」

 

 通信越しに大切な何かを暴露されかけたリィンは、慌ててそれだけ言い残して通信を一方的に切断した。

 

「嘘ですよね!? え、嘘ですよね、教官!?」

 

「不埒です不埒です不埒です」

 

「いや、良く分からないが違うぞ。正直俺も何の事かわかっていないが、通信を切らなければ危険だと判断しただけだ」

 

 荒れるユウナとアルティナに、本気で何の事か分かっていない様子のまま慄き首を横に振り「危なかった」などと真顔で宣うリィン。

 ある意味想定通りの反応に、ミュゼは死んだ魚のような目で小さく溜息を吐く。

 

 そんな渦中の四人を遠巻きに見ながら、

 

「あいつ、さっき物事の本質がどうのとか言ってなかったか?」

 

「危機察知能力と言う意味では嘘ではないが……いや、だが、本当に酷いな。あのもう一つの可能性の方の教官は違ったのに……何でここまで悲惨な状態になってしまったんだ?」

 

「たぶん、狂犬さんの悪い所が悪い方向に影響しちゃったんじゃ……教官、かわいそう……」

 

「まあ、確かにたった数分の通信で的確に燃料撒き散らして放火してく兄貴と姉貴も同類か……どうせさっきのもあのド天然共の勘違いだろ」

 

 アッシュ、クルト、ティータは、本当に酷い会話を繰り広げていたリィン、トワ、そして彼に顔を引き攣らせ、最早一周回って同情すらしていた。

 

 ユウナとアルティナ、そしてミュゼの圧力に冷や汗を流しながら宥めるリィンに、溜息を吐きながら再びクルトが助け舟を出す。

 

「ミュゼ、そろそろ特任教官のその後について話してくれないか? どうやら北方戦役にも関わっていると言う話だったが、目覚めてから戦争まで半年程あるはずだ。内戦時には今の僕よりも弱かったと先ほど教官が言われていたが、その半年で何かがあったんだろう? そうでなければ……少し失礼な言い方になるが、あの人が今程の高みに至れるとは到底思えない」

 

「まあ、そうだよな。ぶっちゃけセンスがない兄貴が普通に鍛えてあそこまで強くはなれねえだろ」

 

 クルトの言葉に、アッシュが同意する。

 正直すぎるその感想に苦笑しながらミュゼは、話が逸れたことでほっと一息吐いていたリィンに「適宜補足して頂きたいです」とお願いし、クルトに向き直った。

 

「七耀暦1205年3月末、彼は魔女の里から出て修行を始めました。場所は彼が帝国に来て数年を過ごしたレグラムから南下した人里離れた川のほとり。そして師は彼の義理の祖父、つまり八葉一刀流開祖ユン・カーファイ氏です」

 

「なるほど、そういうことだったのか……。ですが、単純に八葉一刀流を修めたと言う訳でもないのですよね?」

 

 クルトの半ば確信を持った問い掛けに、リィンは「ああ」と頷く。

 

「剣術としての八葉一刀流の修行ではなく、八葉の根幹を成す極意そのものの伝授が主な内容だったと聞いた。八葉では全ての型、言い換えれば八葉の極意を識り、極めるべき一つの型を老師より授けられる事が初伝を授かる事と同義なんだが、あいつは全ての型を修める前に破門されていたからな。《無月》の完成には、どうしても根幹の一つである八葉を正しく修める必要があったと言うわけだ」

 

「はい。日記にもそのように書かれていました。途中からはアイゼンガルド連峰で山篭りをされながら、北方戦役が始まるまでの半年間、常に修行を続けられたようです。定期的に連絡を取っていたヴィータさん曰く、基本的には何時連絡しても修行しかしていなかったとの事です」

 

 士官学院生時代も十分に狂った生活を送っていたが、どうやらその比ではなかったようだ。

 寝食以外の全ての時間を使った、名高きかの剣仙を師としての荒行。

 日記に断片的に残されている修行内容を見る限り、実践した狂犬もそれを実践させた剣仙も等しく狂っていると断言出来るようなものだった。

 

「詳しい修行の内容は日記には書かれていませんでしたので、もし詳細が気になるのであればご本人に聞いて頂くしかありません。ですが彼はその修行を経て俗に言う達人クラスの一歩手前まで到達し、その証として《無月》の名と短剣を授けられたようです」

 

「達人クラスの一歩手前……驚異的な成長速度だが、逆に言えば当時はそこまでの力しかなかったのか……。ノーザンブリアで何をしたのかは知らないが、戦場の怪談になる程には……いや、だがそれを言うなら《十月戦役》の時の方が状況は酷いな」

 

 戦争において何かを成すには、所詮は達人の域にもない凡人只一人の力はあまりにも小さい。

 そんな当然の事実と相反する彼の過去に頭を悩ませるクルトに、ミュゼは小さく笑う。

 

「ちなみに、彼とジンゴさんが出会ったのも北方戦役の直前の事のようです。もちろん、武器商人と顧客という出会い方ですが。そこで導力バイクや対物ライフル、対戦車砲、各種爆薬類といった装備を購入されて、彼はノーザンブリアに向かいます」

 

「へー、そんなタイミングで知り合ってたんだ。何か店主と店員にしては随分と仲がいいみたいだったから不思議だったんだ」

 

 すっきりしたとばかりに頷くユウナににっこりと笑いながら、ミュゼは完全に自分の趣味の赴くままに情報を追加する。

 

「ちなみに、北方戦役の後に彼はクロスベルに潜伏する事になるのですが、その際にはジンゴさんと一つ屋根の下で暮らしていたようです」

 

「…………は?」

 

「さらにちなみに、その前後にはローゼリアさんと二人きりで生活されていたとのことです」

 

「…………」

 

 無言になったユウナに追い打ちをかけるようにミュゼはダメ押しをする。

 

「ユーシスさんとは同好の士として仲が良いようです」

 

「え、それって本当に小さい女の子が好きってこと……?」

 

「何故今のタイミングでそういう結論になるのでしょうか? 勝手に私の義兄になるかも知れない人を巻き込まないでください」

 

 ジットリとした目で睨むアルティナに「あ、いや……ごめんなさい」と焦りながら謝罪するユウナ。ミュゼはそんな彼女に少し眉根を寄せて言ってみせる。

 

「そうですよ。多少の年の差なんて関係ありません。ユウナさんはもう少し視野を広く持つべきです」

 

「えぇ……何であんたがそっち側なのよ」

 

「早とちりをしたのはユウナさんの方ですから。ジンゴさんとローゼリアと一つ屋根の下で暮らしていたと言っても、そういった関係ではなく、単純に養ってもらっていただけということらしいですし」

 

「小さい女の子に養ってもらうって、それ、ダメなんじゃ……」

 

 心の底から戸惑うユウナに笑いを堪えていると、溜息を吐くリィンにコツンと頭を小突かれた。

 

「あらぬ誤解を招くような言い方は止めるように。養ってもらうと言っても正当な……いや、真っ当な仕事でないことは確かだが、とにかく仕事の対価としてだったはずだ。それに小さいと言ってもローゼリアさんは見た目だけだろう」

 

「なんだ、そうだったんですね。あはは、ちょっとトワ教官の見た目の事もあったので、本当にそういう人なのかと……」

 

「外見はともかく、トワ先輩もローゼリアさんもジンゴも中身は色々な意味で普通とはかけ離れているからな。単純に馬が合うんだろう。先輩達もそうだが、あいつは少し変わった人達に好かれやすいからな」

 

 ほっと胸を撫で下ろすユウナに、そう笑ってみせるリィン。

 

 そんなリィンを、アッシュとクルトは信じられないモノを見るような目で見ながら呟き合っていた。

 

「あいつ、何で変人枠筆頭に自分が入ってないって体で話してんだ……?」

 

「どちらかと言うと、リィン教官の周りに集まった変わり者の上澄みがその層と言うだけの気が……」

 

 毎度の事であるが収拾がつかなくなって来た場に苦笑しながら、ミュゼは「さて、ではそろそろ北方戦役のお話に移りましょうか」と場を仕切り直す。

 

「ここからは主に分校長が語って下さった内容になります」

 

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 七耀歴1205年11月3日。

 その日、後に《北方戦役》と呼ばれるエレボニア帝国とノーザンブリア自治州における戦争が始まる。

 

 しかし戦争とは言え、帝国とノーザンブリアの間には隔絶した戦力差があった。

 

「どう見積もろうとも、帝国の敗北は在り得なかった。故に我が軍の北方戦役における優先順位は、第一に自軍の損害、第二に併合予定のノーザンブリアの人的、物的損害の最小化。そういう意味でもあれは、到底戦争と呼べるものではなかった」

 

 淡々と当時の事を語るオーレリアの表情からは、完全に感情が削ぎ落とされている。

 喜怒哀楽全てを飲み込んだままに続けられる言葉は、それ故に誰にも安易に口を挟むことを許さない。

 

「国境の防衛線であるドニエプル門。そしてキルヴァ、リヴィリを代表する幾つかの街の北の猟兵の拠点。それら全てを制圧し、最後に首都ハリアスクで残った北の猟兵の本部を叩き戦争を終わらせる。自軍、そしてノーザンブリアの損害を最小化しつつそれを成すために、私は短期決戦を選択した。結社の介入を踏まえた上で、開戦から終戦までに必要な日数を最大でも三日と置いた上でな。とは言え、ハリアスク市内への人形兵器の展開という捨て身の戦術は流石に想定外ではあったが」

 

「件の首都籠城期間を除いて、実際に分校長の部隊がハリアスクを包囲するまで、言い換えれば事実上のチェックメイトまでに要した日数は五日でしたか。では、その二日間の誤差を生んだ要因は何だったのでしょう?」

 

 オーレリアの言いたい事を、既にミュゼは確信していた。

 その確信故の敢えての問い掛けに、オーレリアは獰猛に嗤いながらその名を口にする。

 

「亡霊だ。100体の機甲兵からなる我が軍の前に立ちはだかり、たった一人で戦力の三割を削ってみせた亡霊。それこそが二日の誤差の正体だ」

 

 二日。時間にしてたったの四十八時間。戦況を揺るがすはずもなく、大局においては何一つ意味がない短い時間。

 

 されどノーザンブリアの民にとって、その限られた短い時間は値千金だった。

 

 機甲兵という従来の戦争の常識を覆す機動力と制圧力を誇る兵器による、ピンポイントでの敵軍拠点の強襲。確かにそのオーレリアの策は、ノーザンブリア側の被害を最小限に抑えるものではあった。

 しかし、その常識外の短期決戦戦術を自軍の犠牲を払わずに成功させるには、敵軍に徹底抗戦の準備を終えさせる前に決着をつける必要があったし、当然逃げ遅れた民間人を気遣う時間的余裕などあろうはずもなかった。

 

「西部戦線の時と同じだ。あの男は私が大局のために蹂躙すると決めた無辜の民の命を掬い上げてみせた。四十八時間という時間はより多くの住民達が避難可能な時間的猶予をもたらし、そして何よりあの男は自らの戦う姿とその理由を以って、一部の猟兵……元ノーザンブリア大公国正規軍の軍人に、帝国への抗戦ではなく民の保護を、更にあろうことか我が軍の精鋭の一部にまで剣を捨てる道を選ばせた」

 

 楽し気に、そして何処か寂し気に嗤うオーレリア。

 珍しくも負の感情を露わにした彼女に興味が赴くままに問いかけようとする己を律し、ミュゼが投げ掛けた「彼が戦った理由を確認させて頂いてもよろしいでしょうか?」という問に、オーレリアは苦笑する。

 

「ノーザンブリアの人たちが逃げるための時間稼ぎに来た。本当は戦いたくないと思っている人を、力ずくでも戦えなくするために来た。帝国に蔓延する歪んだ熱気に当てられ、薄っぺらいでっち上げられた偽物の大義を振りかざし、理由も目的も無く戦う人を止めるために来た」

 

 ミュゼは表情に出さないまま静かに驚く。オーレリアが淡々と発したその言葉は、彼の日記帳に書いてあった文章と一字一句違わぬものであった。

 

 ミュゼの内心を見透かしたように、オーレリアは続けた。

 

「どうしてあれを忘れる事が出来ようか。北方戦役でのあの男との初戦。当時は認識阻害の魔術の効果もあり、死んだはずのあの男が生きているとは夢にも思っていなかった。故に今でもあの時の驚愕は鮮明に覚えている。十月戦役、西部戦線において戦争という理不尽そのものを敵として戦い続けた狂犬と同じ、平凡な感性のままにどうしようもなく狂った人間が他にもいたのか、とな。そして、いざ我が軍の精鋭が駆る機甲兵と戦い始めてみればどうだ。あの死んだはずの狂犬という他ない無謀な戦いぶり。本人と確信するには十分だった」

 

 あれは本当に愉快だった、とオーレリアは嗤った。《黄金の羅刹》から漏れ出る覇気に、背筋に冷たいものが走る。

 よくあの狂犬は彼女に目をつけられて生き延びれたものだと内心感心した所で、以前から疑問に思っていた事を問い掛けた。

 

「初戦の記述は彼の日記にもありました。彼の認識では分校長が彼を敢えて見逃したように書かれていましたが、実際の所はどうだったのでしょう?」

 

「単純に深追いを避けただけだ。あの男は追い詰めると何を仕出かすか分からない。実際、その後に離脱のために文字通りの意味で周囲に手榴弾をばら撒き自爆を決行するなどという頭の可怪しい戦術を用いた男だからな。それも何度も」

 

「…………」

 

 流石に閉口した。

 幾度も奇襲をかけて来る敵を追い詰めたと思えば、自滅覚悟で爆殺される。幾ら何でもタチが悪すぎる。

 

「……よく死にませんでしたね、彼」

 

 ようやく絞り出したその言葉に反応したのは、扉を開けてサラと共に戻って来たアンゼリカだった。

 

「泰斗の発勁によって大気を打ち正面からの爆破の衝撃を緩和し、八葉の螺旋を取り入れた化勁で受け流し、僅かに時間差を持たせた周囲の爆破を相殺する。彼が今は叢雲と呼んでいる技の原型だね。頭が可怪しい事に違いはないが、生き残るために、爆弾の取り扱いも含め持ちうる全ての技術を集結させた戦術だったという訳だろうさ」

 

 苦笑しながら肩を竦めるアンゼリカに僅かに頷くことで同意し、オーレリアが補足する。

 

「当然、全ての衝撃を殺せる訳ではない。死んでも不思議ではない程度には重傷を負っていた。もっとも、だからこそ《北方戦役の亡霊》などという名が浸透したのだろうがな」

 

 帝国軍と戦う、正体不明の襲撃者。

 包帯まみれの全身を襤褸切れと化した外套で覆い、何処からとも無く這い寄る怪異。

 何度打ち飛ばされようと立ち上がり、幾度打ち据えられようと這い上がる不死者。

 北の大地を蹂躙する忌まわしき鉄の巨人を、己の血を撒き散らしながら地に沈める狂人。

 戦場において「何の為に戦う」と静かに繰り返し問いかけ、そしてたった一人で戦い続ける亡霊。

 

「覚悟のなかった者はあの姿に怖じ気付き、覚悟のあった者もあの凡人の背中に己が剣を振るう理由を見つめ直した。ふふ。ヨルムンガンド戦役においてハーシェルの下で剣を取った民間人達を指揮したのが、北方戦役を堺に退役した我が軍の精鋭達だったのは、つまりはそういう事だ。もっとも西部戦線であの狂犬と直接戦った者達にも同じ事が言えるがな」

 

「北の猟兵も同じね。北方戦役直後に正規軍に素直に吸収された人達も、その後に紆余曲折あった人達も、あんなものを見せられたら動かない訳には行かないだろうなんて言ってたわ」

 

 オーレリアと、微妙に焦点の合っていない様子のサラの言葉を、ミュゼはすんなりと受け入れる事が出来た。

 今日まで自分が見落としていた要素、己の異能による予測を大きく狂わせる事になった要因は、結局は西部戦線の時と同じだ。

 

 小さく溜息を吐きながら、ミュゼは首を傾げてみせる。

 

「何と表現するのが正しいのでしょうね。革命家というわけでもなく、将の器というわけでもない。かと言って、英雄という言葉も少し違うように思います。ですが実際、彼の行動の積み重ねが多くの人々を動かしたのは事実のようですし」

 

 答えたのは、アンゼリカだった。

 

「トワの言葉を借りれば、《希望》なのだろうね。彼に人を率いる能力はないし、英雄と崇められるには余りにも無才でカリスマもなく、そして頼りない。だが、だからこそその凡人が己の全てを賭けて血反吐を吐きながら泥に塗れて戦う姿は、とても小さな光ではあるが強く輝いて見える。あの男が戦っているのなら自分も戦わなければならない、今度は自分が彼を助けてあげなければならない、という気になる。事実、ずっと戦い続けている彼という希望の存在を、翼たるトワが過去に彼と関わった人達に伝え、そして多くの人にその希望が伝播し集った事で、ヨルムンガンド戦役を数時間に渡って帝国内に押しとどめた現実が成り立っていたのだから」

 

 名前も、そして実体もない集団。トワ・ハーシェルの下に集った、《大地の竜》に対抗するためだけの一時的な戦力。

 皇帝陛下という後ろ盾があったからこそその行為は正当化されたが、ヨルムンガンド戦役において帝国正規軍に真っ向から立ち向かった、言わば革命集団。

 トワ・ハーシェルという規格外の怪物の存在があってこそ成り立ったはずのその集団ではあるが、しかしそれを構成した人々の根底には、確かに彼の存在が根付いていた。

 

 帝国における正当な権力構造の外にある求心力、影響力という点では、トワ・ハーシェルやリィン・シュバルツァーを筆頭とする英雄達には、彼の存在は遠く及ばないだろう。

 だが、トワ・ハーシェルが実際にやってみせたように、今度は悪意を持った何らかの権力者が彼の存在を利用する危険性を考えれば、安心は出来ない。

 

 少しばかり頭を悩ませるミュゼは、しかし、

 

「《亡霊》でも間違いではないんじゃないかしら? ノーザンブリアで、いい子にしてないと血塗れの亡霊が出て『何でこんな事をした』って死ぬまで囁かれ続けられるぞ、なんて悪ガキのしつけ用の怪談として語られてるくらいなんだから」

 

 と言うサラの笑い声に、急に馬鹿らしくなり、思考を緩める。

 

 そういう理不尽にこそ彼はまさしく怪談のように亡霊となって戦うだろうし、そもそも狂犬である彼の手綱を握っているのはあのトワ・ハーシェルなのだ。

 

「つーか、さっきの兵士の間で広まってたって方の怪談の話だが、『何処からとも無く這い寄る怪異』って何だよ……。導力バイクで特攻してたんじゃねーのかよ」

 

「ああ、それなら婆様の隠形の術がかかった外套のせいね。奇襲にはもってこいだから、バイクは移動用、離脱用にのみ使って、基本は姿を隠して接近して奇襲をかける戦法を取っていたのよ」

 

「え、じゃあ本当に全身包帯だらけのあいつが急に目の前に現れて襲い掛かって来るの……? なにそれこわい」

 

 アッシュ、ヴィータ、アリサのそんな微妙に笑えない会話を聞きながら、ミュゼは完全に悩む事を止めた。

 

 

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