リィン・シュバルツァーとイシュメルガ=リィンは、異なる因果の先にある根源を同じくする存在だ。
そして本来であれば異なる因果の先にのみ存在し得るイレギュラーでしかなく、自己の存在を確定しきれていなかったイシュメルガ=リィンは、リィン・シュバルツァーと同化する事でこの世界において確固たる一つの存在になろうとしていた。
そして最後の決着の瞬間に完全なる同化が成されようとした結果、二人のリィンは己の内面世界で会合を果たすことになる。
「こうして面と向かって話すのは初めてだな、この世界の俺」
空と鏡のような水面が無限に広がる先、境界線上で交わり溶け合う深層心理の世界。
そう語りかけて来たもう一人のリィンは多くを語らず、ただ「俺との同化を受け入れ、お前がイシュメルガを引き継ぐんだ」と淡々とリィンに告げた。
「イシュメルガとの無限相克で残滓に成り果てた俺では奴をどうする事も出来ないが、お前になら出来るだろう。イシュメルガと一体になった後、《巨イナル一》の力を使い女神の枷を解き、イシュメルガを引き連れて大気圏外に行く。世界を救うために、みんなを助けるために、かつての俺が選択した手段だ。違う因果を辿った俺とお前だが、それでも俺とお前はリィン・シュバルツァーだ。だからお前にも、これがイシュメルガを封じる唯一の確実な手段だと言うことは分かるだろう」
だから同化を受け入れ、命と引き換えに皆を救う決断しろ。
一方的な通告に、しかし暫くの沈黙の後にリィンは静かに首を横に振った。
「いいや、それは出来ない」
静かで穏やかな、しかし確固たる意志を以っての否定に、もう一人のリィンは驚愕する。
「何故だ? お前、まさか今更自分一人の命が惜しいとでも言うつもりか!? もしも半年前のように同化したイシュメルガを自分から切り離し、滅ぼせるとでも安易に考えているのなら現実を見ろ! お前が半年前にイシュメルガの悪意に打ち克てたのは、お膳立てされた舞台で、霊力で繋がった皆の補助を受けられたからだ! 今のこの何の準備も出来ていない状況で、それが成功する可能性が限りなくゼロに近いことは分かるだろう!?」
「だが、可能性はゼロではないだろう?」
苛つきを隠しきれず、それでもどうにか説得を試みようとするもう一人のリィンに、リィンは少しだけ笑って見せながらそう返した。
もう一人のリィンは唖然として、そして、もどかしそうに歯軋りをして、大きく溜息を吐く。
「お前は……お前には、俺以上に危機感が足りていない。そうだろうな……お前は間抜けにもクロウやミリアムを眼の前で死なせる事もなく、黄昏の引き金を直接引いてしまった罪の意識に悩まされる事も、まともな人間じゃなくなってもそれでも生きていてくれたクロウとミリアムの二人を道連れに、自分を犠牲にして世界を救う道を選ぶ事もなかった。俺の人生で最も辛かった経験をせずに、それでも世界を救って今まで生きて来たのがお前だ。楽観的になるのも仕方がないのかもしれない」
リィンの知らないはずの、もう一人のリィンが辿った悲劇の軌跡。
しかし断片的ではあるものの同化現象によって記憶を共有しているリィンには、もう一人のリィンが何を言いたいのかは理解できた。
だから、もう一人のリィンの言葉を聞きながら視線を横に向け、空と水面が交わる境界線上に立つもう一つの人影を見る。
「俺の知らない、八葉一刀流の最後にして唯一の破門された直弟子。輪の外で戦い抜いた存在しないはずの十二人目の旧Ⅶ組生徒。そして西部戦線の狂犬、北方戦役の亡霊、希望の翼」
《八葉の後継者》であるリィン・シュバルツァーの内面世界に在り得るはずがない第三者である《八葉を継げなかった最後の直弟子》は、しかしリィンともう一人のリィンの因果が交わる境界線上においてのみは存在が許される、唯一の存在に違いがなかった。
「俺は、名前も知らない彼がいなかった因果の先にある、お前の成れ果てだ。だから俺はリィン・シュバルツァーとして、彼らを救える確実な手段を捨てて、お前自身が生き残るためだけに僅かな可能性に賭ける事を許すわけには行かない。リィン・シュバルツァーには、自身を救ってくれた彼に報いる義務があるはずだ。彼がトワさんと生きるこの世界を、クロウとミリアムだって幸せに生きているこの世界を、自らを犠牲にしてでも救う義務があるはずだ。それを分かっていながら、お前はそれでも自分の命を優先するのか?」
否定する事は許さないと、太刀を抜くもう一人のリィン。そんなⅦ組の《重心》であったリィンに声をかけようとした、Ⅶ組の輪の外側で《接線上》を駆け抜けた彼を、リィンが遮る。
「お前が言いたいことは、理解は出来る。だけどそれでも、俺は俺が犠牲になる道は絶対に選ばない」
「だから何故だ!? 本当に自分の身が可愛いとでも言うつもりじゃ――」
「ああ、その通りだ」
「――は?」
呆然としたもう一人のリィンに苦笑しながら、リィンは続けた。
「俺は――俺も、幸せになりたいんだ。家族やⅦ組の皆や生徒達、今まで知り合って来た人達、そして一緒に苦難を乗り越えてきた多くの仲間達と一緒に頑張って生きて、そして何時かクロウやそこの俺の恩人みたいに誰かと結婚でもして幸せになりたいって、何時からか、心の底からそう思えるようになれたんだ。お前は俺だから分かるよ、もう一人の俺。本当の親に捨てられた子で、鬼の力なんて持ってる人間かも怪しい素性に悩まされて、そんな自分なんてどうなってもいいって、昔はそう思ってたんだよな? トールズに入って色々な事を経験してその悩みは無くなったけど、自分が犠牲になって誰かを救えるんなら、誰かを幸せに出来るなら、それでもいいって相変わらずそう思ってるんだよな? それが自分にとっての幸せだって、お前はそう信じてるんだよな?」
「何を言ってるんだ、そんなの当然――」
「当然じゃない。お前は、残される側の気持ちを知らないんだ。大切に想ってくれている人達を幸せにするには、ちゃんと自分が生きて帰ることが、自分自身が生きて幸せになることが必要なんだって、俺はお前と違ってそう教わったんだ。それに簡単に自分の命と引き換えに皆を幸せにするなんて言ったら、たぶん今この場でぶん殴られてしまう。そうだろう?」
問い掛けられた《西部戦線の狂犬》は不思議そうに半ば首を傾げながら「そんな事する必要ないから当然だろう」と頷き、もう一人の十月戦役の英雄《灰の騎士》に語りかけた。
「自分だって一度イシュメルガを切り離す事が出来たのだから、同じ自分にも出来ると思わないのか? 前から思っていたが、リィンは自己評価が低いし、そろそろその天然は直した方がいいと思う」
「……いきなりこんな世界に連れて来られて混乱するのは分かるし、説明が不十分だった事は謝罪する。俺は貴方の知っているリィンではないし、それに、そこのリィンが半年前にイシュメルガに勝てたのは事前に準備が――」
天然という言葉に若干眉根を寄せたもう一人の《灰の起動者》は、再度溜息を吐きながらまるで授業かのように彼にゆっくりと説明しようとするが、しかし《北方戦役の亡霊》はそれを遮って続けた。
「事前の準備なんか無くても、諦めないで最後の最後に引き寄せたで千載一遇の機会で、ぶっつけ本番でイシュメルガに打ち克ったのは、俺がいない世界の方のリィンだ」
「え?」
再度唖然とし、意味がわからないと固まるもう一人のリィン。リィンもまるで意味が分からず、同時に思わず声を上げていた。
「俺は俺がいなかった因果の先で、イシュメルガを倒して、不死者になったクロウ先輩も概念兵器になったミリアムも至宝の力で復活して、Ⅶ組の皆も先輩達も誰一人欠けること無く、左目を失明しなかったトワ会長がお前の横で笑っている世界を知ってる。半年前に仮死状態だった時、偶然発生したばかりのエリュシオンと繋がって、繋がった俺自身の存在の有無が制約条件となって予測されたもう一人のリィンの世界をずっと見ていた。まあ、エリュシオンの未来演算だと確信したのは今日だが」
「俺が……イシュメルガに勝った世界?」
呆然として呟く《イシュメルガを継いだ者》に、《希望の翼》は「もしかして昔の演算結果までは把握していないのか?」と不思議そうにしながらも、淡々と何でもないように告げた。
「俺がいなくても、リィンは自分も含めて世界を救える。俺はそう信じてるし、エリュシオンもそう予測している。もう一人のリィンは、俺の存在がない場合に最も在り得ただろうその世界から派生する、もしもの世界のリィンなんだろう」
あまりにも淡々と当然のように告げられた彼の言葉に、疑う余地はなかった。
少なくとも彼自身はそれを真実と信じて疑っておらず、リィン・シュバルツァーならば世界を救えて当然だと言わんばかりに、何故もう一人のリィンが驚くのかをまるで理解出来ていない様子ですらあった。
「はは……そうか、そんな未来もあり得たのか。クロウもミリアムも生きていて、トワさんと生きられる可能性が、俺にもあったのか」
握り締めていた太刀を離し、そして力が抜けたように項垂れ、しかしどこか嬉しそうにそう呟いたもう一人のリィン・シュバルツァーの頬には、涙が伝っていた。
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「で、最後にあいつは感極まっていたもう一人の俺に『二つ言っておきたい事がある。この世界のトワ会長は俺と結婚してくれて世界で一番幸せと言ってくれている。だからさっきトワ会長を妙な目で見ていたが、無駄な事はやめてほしい。それにもう一人のリィンの世界の方のトワ会長を悲しませるのも駄目だ。トワ会長なら絶対に今でもずっと待ってるに決まっているから、頑張ってイシュメルガに勝って、今すぐもう一人のトワ会長の所に帰らないと許さない』なんて急に威嚇し始めた上に無茶苦茶な事を言っていたな……。と、まあ、もう一人の俺とあいつにも協力してもらってイシュメルガを俺から引き剥がすまでの間に、こんなやり取りがあったんだ」
「ええ……ええええ……ええええええええ……」
何だそれはとひたすら唸り声を上げて両手で頭を抱えるユウナ。
「もう一つの未来の起点、そういう事ですか……」
やっと納得できたと頷くクルト。
「よかったです……もう一人のリィン教官が幸せになれる未来があって、本当によかったです」
少し涙ぐんで恥ずかしそうにそっぽを向くアルティナ。
そんな新Ⅶ組の様子を見ながら、ミュゼはアッシュとティータに悪戯っぽく「答えは合っていましたか? アッシュさんはラピスさんの信条でピンと来たようでしたが」と笑いかけた。
「まあ、な。何でそんな人間くせえ信条を生まれたての機械知性が持ってんのか不思議に思ったのと、よくよく考えると姉貴と兄貴が化物染みているのは確かだが、シンプルに徹底的に物量と兵力で俺らを潰そうとした奴が、あそこまであの二人だけを遠回りに排除するのが妙な話だって思っただけだ。まあ、俺の方はついさっき気付いた訳だが、ラッセル、てめー、本当はもっと前から気付いてただろ?」
アッシュは吐き捨てるようにミュゼにそう応え、少し呆れたようにティータをじっとりとした目で睨む。
新Ⅶ組から集まる視線に居心地悪そうに笑って誤魔化そうとするティータだったが、アッシュはそれを許さなかった。
「お前さっき、もう一人のシュバルツァーに比べてこっちのシュバルツァーがここまで悲惨な産業廃棄物染みた鈍感野郎になったのは、同類の兄貴の影響だって言ってたよな?」
「わ、私そこまで酷いことは言って……あ」
半ば自白した事に気付いたティータは、ニヤニヤと笑うアッシュとミュゼに観念したように「ごめんなさい」と素直に謝罪した。
「エステルお姉ちゃんが、ラピスちゃんが狂犬さんに少し似てるって言い始めたのが発端だったんだ。それで気になってレンちゃんと一緒にラピスちゃんとお話した時に、直接答えを聞いた訳じゃないけど、『誇り高きローゼンベルク人形としてあんな野蛮な人を認めはしないけれど、ある意味で父のような存在』だって言ってたから。それでいくつかレンちゃんと仮説を出して、その中の一つが正解に近かったんだ。でも、私達も確信を持ってなかったのは本当なんだよ?」
「エセふわがどうかは知らねえが、俺は別に責めてはねえよ。単純にお前が兄貴の件に興味を持った理由に、やっと腹落ちしたってだけだ」
「私もアッシュさんが内心どう思っているかは知りませんが、むしろ旅立ってしまってなかなかコンタクトが取れないラピスさんの証言まで得られたのですから、感謝しているくらいですよ?」
不毛ではあるが自分たちには必要な牽制をアッシュとし合い満足したところで、ミュゼは一つ咳払いをして笑顔でリィンへと向き直りつつ、しかし皆に語りかける。
「補足ですが、私も今リィン教官が話して下さった内容は、調査が一通り終わった後に初めて伺いました。前情報なしの第三者による調査結果の方が信憑性が増すとの理由で、主にリィン教官に都合良く弄ばれてしまいました」
「人聞きの悪い表現だが、否定はできないな……」
悪戯が見つかった子供のような顔で申し訳無さそうに「騙して利用するような真似をしてしまってすまなかったな」と謝罪して来たリィンに、普段とのギャップに少しだけ胸を高鳴らせながらミュゼは微笑む。
「ハーシェル夫妻からは謝礼として例の集まりでご馳走して頂くことになっていますから、リィン教官には今度デートで埋め合わせて頂くことを期待しておきますね」
「はは。それくらいで許してくれるなら安いものだな。さて、ここからは本当に皆も知っている通りだ。もう一人の俺と切り離された事で《巨イナル一》としては不完全になり暴走したイシュメルガを総掛かりで倒した後、イシュメルガは最後の置土産を残して行った」
イシュメルガはその存在が消える直前に、人類を破滅させるために《逆しまのバベル》の制御権を人類の集合無意識に譲渡した。その結果バベルによる砲撃の照準は、人類の憎しみが集う場所、つまりは大陸全土へと向けられてしまう。
制御権が譲渡されてしまった以上バベルを止める手段はなく、砲撃の発射シーケンスが開始されてしまい、霊脈から膨大なエネルギーを吸い上げ始め高熱に晒されたバベル内に生身で留まる事は不可能で、どうしようもなく一度転移で外へと退避する事になった。
「だが、ルーファスさんは一人、転移陣から逃れてバベル内に留まった。人々の憎しみが集う場所に天の雷が落ちるのであれば、バベルにその憎しみを集めればいい。ルーファスさんは、蒼の大樹や帝国の内戦から始まる一連の騒動の黒幕が自分だと宣言し、あえて人々を煽り自分だけが悪者になる事で世界を救おうとした」
「ですが、結局それは失敗に終わってしまいました」
リィンの言葉を引き継いで、ミュゼがあの時に起きた現象を振り返る。
「管理者権限を取り戻したラピスさんによって削除プロセスが実行された後に、おそらくはエリュシオンが自発的に行ったと思われる最後の限定収束式未来演算。それによって私達は、帝国の主要都市とクロスベル、そして私達自身に天の雷が降り注ぐ光景と、最終的にルーファスさんごとバベルが自身の砲撃によって崩壊する未来を知らされました。ルーファスさんの策が失敗に終わった原因は、帝国とクロスベルの民が安易に憎しみを彼に向けなかったためでしょう。過去、ヨルムンガンド戦役において、イシュメルガの悪意に打ち克ってしまった経験故に起きた、皮肉としか言えない出来事でした」
「あの後は本当に急展開過ぎて、正直、私は置いていかれちゃってたな……」
ぽつりと呟いたユウナに苦笑して、ミュゼは「仕方がありませんよ」と続ける。
「ルーファスさんの救出作戦はともかくとして、その後は……そうですね、奇跡と呼ぶことすら出来ないような出来事でしたから」
その命を散らそうとしているルーファス・アルバレアを救い出すために、短い旅路ながらも彼と強い絆を結んだラピスの助けを求める声に応じ、彼と縁のある者達が転移術によって再びバベルへと向かった。
しかし一方で、知らされてしまった絶望的な未来に、あの場に集った皆は間違いなく絶望していた。
天の雷によって滅ぼされる事が確定してしまっていた帝国とクロスベルの民。彼らを救う手段が、本当に何もなかったのだ。
どうにかしたくても、どうにすることが出来ない理不尽な現実。
痛いほどの沈黙が支配する中、最初に口を開いたのは狂犬だった。
『俺をバベルに送って下さい。発射装置を壊して来ます』
唐突に出鱈目で不可能と断言出来る事を言い始めた狂犬に、しかし悲痛な顔をしたトワが同調した。
『天の雷の発射の直前、霊力が完全に充填された状態のところに、外部から無理やりエネルギーを注ぎ込んでオーバーフローさせる……私も、それしかないと思う。さっきバベルの端末で設計図は確認済みだから、核になる装置の場所も機構も案内できるはずだよ』
限りなく不可能と断言は出来るが、成功率が完全なゼロとは言い切れない無謀な作戦。
『我が弟子の氣だけではエネルギーが足りないだろうね。幸運というべきか不幸と言うべきか、浸透勁を使える私の体力は有り余っている』
『流石に機構側に細工くらいはして、霊力が暴走しやすいようにしないと現実的ではないだろうね。という訳で、僕も参加かな』
そんなほぼ自殺と言っても過言でもない提案に、バベル突入作戦の中核を成した高速巡洋艦アルセイユⅡから通信越しに、諦め開き直ったように溜息混じりに同意を示すアンゼリカとジョルジュ。
『まあ、師弟コンビ程のエネルギー効率にはならねえが、俺の短距離転移陣越しに魔術付与したトワとジョルジュの分も合わせて攻撃をぶち込めば、それなりにはなるだろ。ぶっちゃけ俺はもうほぼ体力が残ってねえがな……』
『魔術付与するのもオーバーフローの刹那の瞬間に転移術で脱出するのも、これ、私ありきの作戦よね? まあ、いいのだけれど』
そして大きく溜息を吐くクロウとヴィータ。
失敗どころかほぼ命を捨てる事が確定しているような作戦に青褪めた顔で参加表明した五人と、巻き込んでしまって申し訳無さそうにする狂犬。
絶望的な状況には変わりはないが、六人組は生き残ることも無辜の民を救うことも諦めてはいなかった。
「アンゼリカさんとジョルジュさんをアルセイユから転移させ、そしてヴィータさんが転移術を発動し、六人組が決死の作戦を決行するためにバベルに飛ぼうとしたその瞬間に、再び奇跡は起きました」
転移術が発動する直前に、無人だったはずの狂犬のバイクが自律稼働し、六人組を転移陣から弾き出した。
義手の思念操作装置のみによって遠隔操作可能なはずのバイクのその動きに、誰もが一瞬狂犬の関与を疑ったが、その本人が誰よりも一番驚いていた。
「今でもまだ俄には信じられないが、あれは本当に……」
言いよどんだクルトの言葉に頷き、ミュゼは応える。
「はい、あれは間違いなくこの世界の黒の騎神イシュメルガでした。灰、蒼、金の騎神が再定義されたように、半年前に滅んだはずのイシュメルガもあの瞬間だけは再定義され存在していた。そう考えれば、矛盾はありません。そして他の騎神がリィン教官達のティルフィングに宿ったように、イシュメルガは彼のバイクに宿り、自らの意志で動き、あの発言を残して行きました」
『あの日より今日この時まで、全て見ていたぞ。我が《呪い》に正面から《闘争》を以って打ち克った貴様が、貴様らが、本当の闘争を経験していないもう一人の我を騙る矮小な存在程度の《悪意》に敗けるなど、情けないにも程がある』
霊力を介して直接脳裏に語りかけられる声と、そしてその圧倒的な存在感に、その場にいた全員が臨戦態勢を取った。
しかしイシュメルガは不気味に笑い、鷹揚と続けた。
『良い機会だ。あの玩具が人の悪意によって動くというのなら、今こそ半年前の雪辱を果たすとしよう。我が《悪意》が脆弱な人間どもの集合無意識に打ち克つ所を、貴様は指を加えて眺めているが良い』
ともすれば人類に敵対すると悪意を滾らせるイシュメルガに、しかし狂犬は『もしかして』とぼつりと呟いた。
『助けてくれるのか? 今のイシュメルガは、何て言うか、あの頃と違う感じがする』
『巫山戯るな。貴様らを助ける道理などない。生意気にも我が呪いに克った気になっている人類へ、どちらが上位の存在かを分からせてやるというだけの話だ。それに、もう一人の我を騙るあの矮小な存在の《悪意》の使い方が気に入らない。我が真に求めるのは、貴様の過去の言葉を使えば《闘争》。奴の意志のない《悪意》は……美しくない』
皆が呆然とする中、既に発動した転移術の光が強まる中、イシュメルガは最後に彼に純粋な憎悪をぶつけながらバベルへと消えて行った。
『貴様に一つ言っておく事がある。七耀暦1206年8月29日のことだ! 貴様は我の《呪い》の被害を受けたと断言していたが、あんなくだらない事に我は関与していない! 全て貴様の軟弱な精神故に生まれた憎悪だ! そのことだけは決して勘違いするな!』
そしてその後、ルーファスの救助が成功し救助隊が戻って来た後、天の雷は未来予知とは異なり初撃から《逆しまのバベル》へと落ちた。
イシュメルガ単体の《悪意》が人の集合無意識を上回り、イシュメルガが転移したバベルこそがこの世で最も強い悪意が集中した場所となったが故の結果だった。
そうして、逆しまバベル、イシュメルガ=リィン、エリュシオン、それら全ての特異点は消え去り、《クロスベル再事変》はようやく終わりを迎えたのだった。