マスターを捕えた頼光が森へと消えてから、およそ十五分が経過していた。管制室からの通信は絶え間なく、鵠佑の座標を読み上げ続けている。ロマニとレオナルドの両名は、次の一手についての議論を手短に切り上げて、状況の整理をマシュへと指示する。鵠佑の生命はひとまず無事らしいと告げるロマニの声は、すっかりと憔悴しきった力ないものだった。
現状は、率直に言えば芳しくない。バーサーカーのクラスで顕現した頼光は、並のサーヴァントとは比べ物にならない力を用いているにも関わらず、マスターを有している様子がない。魂喰いによる魔力補給の可能性もあるが、それ以上に考えられるのは、彼女が聖杯の持ち主であるという事だ。マシュが感じた事を口にすると、管制室のふたりもまた、その意見に同意した。
「鵠佑くんの座標とバイタルは、ボクたちで常時チェックしている。都度、最新の情報を送るから、可能な限り即急に奪還して欲しい。……ごめんよ、こんな事しか言えなくて」
「ああ、私からもひとつ。鵠佑くんの通信機だが、出力は完全に破損しているらしい。こちらからの呼びかけにも、返答がない。入力も完全とは言い難いが、まだ聞こえるだけマシってやつさ。ところで、彼女……宮本武蔵くんとは、どの辺りで挨拶を交わすべきかな?」
沈んだ様子のロマニと、相変わらずのレオナルド。不意、やり取りの最中に水を向けられて、武蔵の口から素頓狂な声が出た。それぞれの言葉を誰より興味深そうに聞いていたのは、他でもない武蔵である。興味津々でいたものの、自分の名を呼ばれるとは思っていなかったという様だった。
カルデアという組織の何たるかを説明する時間は、ない。故にロマニとレオナルドは手短に、武蔵に協力を仰ぐ言葉を選ぶ。そうだねと思案するような声は、ほんの少しの無言を挟む切り口だった。
「我々カルデアは、そうだね……鵠佑くんと共に戦っている、正義の味方と思って貰って構わない。だが悲しいかな、こんな大役にも関わらず、彼はただの少年でね。源頼光の手から彼を助けるためにも、貴女の力を貸して欲しい」
レオナルドの説明は、単純で真っ直ぐなものだった。だからこそ武蔵も、想像していた通りであったと笑った。少なくとも、あんな子が悪党のはずがないのだと。その言葉は、傍で聞いている少女の心に喜びを与えてくれた。
「あの、わたしからもお願いします、武蔵さん。何も返せるものがなくて大変恐縮なのですが、どうかご協力いただけないでしょうか」
マシュもまた、深々と頭を下げて助力を乞う。最初こそ面食らっていたものの、不敵な笑みを浮かべると、武蔵は己の胸を拳で打って頷いた。
「ええ、ええ、勿論です。あの可愛──見返りも求めずに私を助けてくれた鵠佑君を、真摯な目をした貴方たちを、どうして見捨てられましょう。私の剣が役に立つなら、それこそ天運と言うものね」
握手を交わしながら、武蔵はにこやかに笑う。それもすぐに引き締まり、瞬きを挟む頃には、戦に臨む者の顔へと移り変わった。ちらと聞こえた言い間違いを問い直す時間はなさそうだと、マシュは多少の困惑を隠しながら差し出された手を握り返す。
そんなふたりを他所に、半歩ばかり退いた立ち位置で黙しているのは玉藻だ。形の良い眉を下げ、狐耳を寝かせながら、彼女は引きつった作り笑いを浮かべていた。
「あのあの、ちょっとよろしいです? いえ、この空気に水を差すようで、大変に申しわけのない事なのですけれど……私、ちょっと、別の意味で助けが欲しいなぁ……なんて思ってましてぇ」
発言と同時に目の前のふたりから視線を向けられて、玉藻は自然を泳がせる。不思議そうな顔をしたマシュが小首を傾げると、さらさらとした髪が小さく揺れた。
「助け、ですか。玉藻の前さんは、何か、具合が悪いのでしょうか?」
「いえ、具合と言うよりは、相性です。ほら、私って、平安時代に退治された狐の妖怪みたいなものでしょう? 対する源頼光となれば、京における最強の神秘殺し……ぶっちゃけ、ちょっとなんてものじゃなく、天敵レベルで勝てない相手と申しますか、ええはい、尻尾も丸めてしまいそうなくらいと言いますか」
お手上げの仕草を見せる玉藻に、マシュは納得した様子で声を漏らすと、それから黙り込んだ。マスターとしての活動経験がない少女には、状況を理解できても対策は見えない。助け舟を出してくれた鵠佑は、頼光の元に拐われたまま。彼ならどうするだろうと思うも、思考の迷路から抜け出す術は、今のマシュには見出せなかった。
「なるほど、頼光がいるなら玉藻の前も……カルデアってすごいのね、偉人大妖勢揃いじゃない。……えっ、なに、遮那王もいるの? うわあ、これは是非とも鵠佑君を助けて、ひと目だけでも……こほん、いえ、今からくよくよしても仕方ないわ。まずは敵情視察から始めましょう、玉藻さんも切った張ったは私に任せてくれたらいいのよ、ね?」
ロマニとやり取りしていたらしい武蔵の声は、悩みに耽るマシュの気持ちを軽くしてくれた。場違いなほどに明るく笑い飛ばしながら、剣士はひとり、前を行く。振り返りしなの表情は、こんな死地には似つかわしくない、涼やかな風のようだった。
頼光の跡を追う道中、管制室から島の霊脈を捜索するロマニの声は、どれも浮かばないものだった。ため息が通信機から聞こえるのは、四度目。その原因は、言うまでもなく発見した霊脈の状況にある。
「ここも、だね……地形が変わってしまっているけれど、その辺りが霊脈だった、はずだ。破壊の痕跡も、随分古い……観測できなかっただけで、かなり前からこの特異点は存在していたのか……?」
森の只中、爆弾が落とされたように深く抉れた穴が、地面にぽっかりと口を開けていた。この有様では、たとえマスターを救出しても、サーヴァントの現界は絶望的だ。
「ランディングポイントの霊脈は、さっきの戦いで壊滅した。この調子で島中の霊脈が破壊されているとすると、ちょっとまずいかもしれない。……わかっているかもしれないけれど、物資の送付や、新たなサーヴァントの現界ができそうにない」
最初に準備をさせなかった自分の判断ミスだと、ロマニが漏らす。何を言う事もできず、マシュは立ち上がると行軍を再開した。
頭上を覆う木々のお陰で雨露に晒される不快感こそなくなったものの、行く先々で見る凄惨な爪痕に、マシュは時折表情を曇らせる。そんな背中を、ぽんぽんと叩く掌があった。
「弱り目に祟り目、というやつでしょうねえ。けれどほら、武蔵さんも仰るように『くよくよしてても仕方ないゾ☆』ってやつです。私、なんだか今回は足を引っ張る図しか見えませんし、せめてムードを盛り上げるくらいは頑張りますよ!」
そう言って、玉藻は拳を振り回す仕草でおどけてみせた。わずかに遅れて、マシュも自身の表情を明るいものへと変化させた。上辺だけでも、取り繕うものだとしても、沈んだままでいるよりはずっと良い。そう教えられたような気がして、力強く頷きを返す。
「そう、ですね。明日には明日の風が吹く、とも言いますし、ネガティブ思考は改めます。まずは、先輩を助ける事に専念しましょう」
言葉にしても尚、マシュの内側に根付いた気弱は消えない。マスターを拐われるなど今までにない失態で、彼の身に危険が迫っていると考えるだけでも背筋が凍えそうになる。焦燥感に突き動かされそうな頭を、大きな深呼吸で鎮めた。澄んでいるとは言い難いものの、森の中の空気は、外の腐臭に満ちたそれより幾分かは呼吸もしやすい。酸素を取り込むだけで、頭が少しは冴えた気がした。
先導を引き受けた武蔵に追従しながらも、マシュはいつだって、様々な想像に意識を捉われそうになる。それを断ち切ろうと、傍らの玉藻へ視線を向けた。
豊かな尻尾を揺らしながら、玉藻の歩みは止まらない。自らの天敵だと告げた頼光の元へ向かっているというのに、彼女が逃げ出すような事はなかった。それが強さに見えて、マシュは言葉を探す。どうすれば、どんな心でいれば、そう在れるのか。自身の心が強くないと知っているからこそ、マシュはこうして、様々な英霊たちの言葉を聞きたがった。
「あの、玉藻さん。貴女は、その……どのような心構えで、いらっしゃるのでしょうか。大変、不躾な質問だとはわかっているのですが……」
わたしも、皆さんのように、強くなりたくて。最後の言葉は、喉の奥で止まった。それは何かが違うと、理由もわからない直感がマシュにはあった。強くなりたいと、本当にそう思っているのか。自問自答に陥りかけた寸前に、玉藻の楽しげな声が返事をした。
「心構えと致しましては、まあ、イケ魂の殿方をゲッチュして良妻賢母になろうという極々一般的なもの、ですねえ。いつかこう、運命の相手が現れるのだと、そんな確信がありまして花嫁修行真っ最中です! ……あっ、ちょっと待ってストッププリーズ! マシュさんの言いたい事はわかっていますよ、今のはちょっとした可愛い冗談ですので☆」
手指で狐の頭を形作りつつ、玉藻がへらりと笑った。不思議そうな表情を見せるマシュの、無垢と言って良い反応に、玉藻の口から注意しても見落とすほどの小さなため息が漏れたのはその場の誰もが知らない事だ。
「抽象的ですけれど……私は、いつかやってくる時に向けて、前に進むのみです。どんなに傷付いても、如何に絶望的でも、愚直なほどに歩みを止めず諦めない。そうしていれば最後はどうにかこうにかなると、そんな気がしているのです」
語られる玉藻の言葉を聞いて、暫しの無言が訪れる。咀嚼し、少しだけ考え込んでから、マシュは笑った。
「それは、……とても素敵な言葉だと、思います」
泥濘に足を取られそうになっても、木の根に躓きそうになっても、もう一歩を踏み出して、倒れないように踏ん張る。今の自分の行軍に通じるようで、玉藻の言葉は強く気高いもののように感じられた。
彼もそういう人なのだと、ふとマシュは思う。いつかのあの日、仮初の月下、子供のように涙を流した切ない姿は、今でも時々夢に見る。それでも、傷付きながらも、彼は歩みを続けている。前に向けて、明日に向けて、誰かの笑顔のために、彼の目指すものに向かって。
そして同時に、マシュは先ほど抱いた違和感の原因に気付いた。強くなりたいのではない、結果として強くなっていたとしても、願うのは強さではない。あの人のようになりたいと、そう願っている自身に気付く。胸が高鳴るその感覚の正体には至らなくても、冷えた身体に、凍えた精神に、熱い炎が宿るような感覚があった。
「ええ、とっても素敵な言葉だと、私自身もそう思います。なんだか知らなくても、耳にコーン、尻尾にピーンと来ますもの。……おや、あちら武蔵様、諸手を振っておりますねえ。何かあったのかしらと、駆け足、行っときます?」
促されるままに、マシュは力強く最初の一歩を駆け出した。玉藻は離れぬように、その背後へと続く。水溜りを踏み締め、泥を蹴散らす足音が森の中に小さく響いた。
距離が狭まるに連れて徐々にはっきりと見えてきた武蔵の表情は、少し緩んだマシュの気を引き締める、刃のような鋭さを宿したものだった。
「すみません、遅れてしまって」
「平気平気、私はこういう場所を歩くの、慣れてますから。それより、鵠佑君を見つけたわ」
ぴりぴりと張り詰めた空気を感じて、マシュの声色は自然と潜められる。武蔵に示されるままに、森の奥へ。重たいものを、人ひとりを引きずった痕跡を、駆け足になりそうな脚を抑えるように追いかけた。
長かった森の出口では、岩山に設けられた登山道と、かつては人の生活があったであろう廃屋がマシュを出迎える。巨木の影に身を潜めて様子を伺う彼女に、武蔵が背後から語りかける。がさりと茂みを揺らした玉藻が、潜めた声で謝罪した。
「三軒のうちの、奥のあれ。頼光が中にいるから下手は打てないけれど、連れ込まれる所までは確認しました。先に言うけれど、貴女の盾では屋内戦は不利よ。向こうは弓も使えない、刀の動きも制限されるでしょうけれど……あの膂力、無手だとしても侮れない」
指し示されるあばら屋は、変哲のない平屋造り。日本人の体型を基準とした木造建築は、武蔵が言うように大立ち回りをするには狭過ぎるものだった。少なくとも、自分の戦法とは相性が悪いと判断して、マシュの愁眉が一段と陰った。
「確かに、待ち伏せを考慮するといきなりの突入は悪手ですね。ドクター、内部のサーヴァント反応はどうでしょうか?」
「正確な位置は不明だけれど、一騎の存在が確認できる。先ほどのパターンと相違ない、頼光と見て間違いないだろう。突入に関しての意見は、ボクも慎重な行動を取るべきだと思う。今の状況で一番恐ろしいのは、彼女を刺激して鵠佑くんに危害が及ぶ事だからね」
そして、彼の生体反応もあの中だ。付け加えるようにして、通信越しのロマニが武蔵の言葉を裏付ける。思案に耽るマシュの隣で、険しい表情の武蔵が鯉口を切った。驚いたように振り返ったマシュの視線に、戦に臨む心境の女剣士は困ったように笑って誤魔化す。
「ごめんなさい、ついつい、癖で……今すぐ斬り合いたいってわけじゃないから、心配しないで。ええ、私は大丈夫、ちっとも問題ありませんとも! 鵠佑君の救出、それが私たちの目的よね!」
我に返った武蔵が慌てて両掌を左右に揺らし、そう言われるとマシュもまた頷くしかない。自分とはまるで異なる精神性が不思議に思えて、無垢な少女は極東の大剣豪の横顔を盗み見た。
短い時間のやり取りながら、武蔵の姿は話しやすく優しげな、真っ直ぐな人としてマシュの瞳に映る。だからこそ、闘争心を抑えきれないその様子が、とても不思議なものに見えた。血を好む殺戮者には見えないのに、危険な戦場に心を踊らせているような、ひと目見ただけの印象にはまるで似つかわしくない気配。戦いを求める存在をどこか恐ろしいものとして感じていた少女にとっては、武蔵との出会いは新鮮で、驚きに満ちていたのかもしれない。
「やはりここは、日本式にアレですかねぇ。踊って歌って大騒ぎ、天岩戸作戦を決行するのが宜しいかと」
そんなふたりの背後から、ひょこりと顔を覗かせた玉藻が尻尾を揺らしながら挙手をする。中に入るのが危ないのなら、外に出て来て貰うのです。嘯く玉藻の得意げな表情に、マシュが大きな目を瞬かせた。
「つまりは、私たちで敵の気を引いて誘き出し、その隙にこう、マスターをえいやと救出すれば万々歳。問題としては、誰がどう動くかを考える必要がありますし、私は化生の身の上なのでタンク役には不適切、そこはやはりクラス相性的に見てもマシュさんにお願い致しますと思うのですけれど……如何でしょ?」
指で象る狐の頭も、うんうんと頷くように動かして、それが良いと腹話術まで披露する。彼女がおちゃらけているのは相変わらずだが、先ほどよりも肩の力が抜けたようで、武蔵の口からくすりと笑いが漏れた。わかりましたと頷きながら、マシュの背中を掌で叩く。驚き混じりの声を上げて、盾持ちの少女は目を白黒させた。
「正直、私もこういう事は苦手です。髪を剃っても、私が尼僧に化けられるとは思いません。なので、まあ……あの頼光と斬り合うのは、私の役目でしょうね。それから、さっき見ていたけれど、頼光の剣は防げそう?」
「は、はい! きちんと受けさえすれば、どうにかなるかと。わたしのクラスはシールダーですので、皆さんの盾として前に出る事に特化しています。その分、制圧力や殺傷力に関しての自信は、ありませんが……」
「そこはほら、私がどうにかするわ。その様子なら頼っても良いみたいだし、貴女には、頼光の刀を受け止める役目をお願いしたいの。こっちの刀を折られたら、私の敗北がそこで決まってしまうから。というわけで、私とマシュさんが囮になる、玉藻さんが鵠佑君を助けに向かう。この采配で、問題ないかしら?」
武蔵の言葉に首肯しながら、鵠佑の無事を願いながら、マシュは気を引き締めるように盾の持ち手を握り締めた。
彼女も彼も常人で、サーヴァントのように斃れた後はカルデアで目を覚ます、などという事はない。武蔵が如何に超絶の剣技を持とうと、そこだけは覆しようのない摂理である。だからこそ、その武蔵本人から頼られて、マシュの胸は熱くなる。人を護るこの力は、きっと、どんなに辛くても自分が背負うべき役割なのだと思った。
「お任せください、武蔵さん。わたしの命に換えても、皆さんを護ります!」
「こーら、そう簡単に生命を投げ出す覚悟なんてしないの。貴女が死んでしまったりしたら、鵠佑君が悲しむでしょ」
だから、全員で生きて帰りましょう。穏やかな声で諭されて、マシュの目元が赤らんだ。こくりと頷くその仕草を前に、武蔵も満面の笑みで頷き返す。
この生命はあの日に一度尽きているのだから、盾持ちという役割に殉じる事も厭わない。そう思う一方で、人間として当然の、隠しきれない恐怖心は存在する。だから、こんな風に気遣われるのが、嬉しかった。
仲間というものの頼もしさや心強さは、確かにマシュの心に存在している。多くの特異点を巡る旅路の中で、無菌室では知らなかった、数え切れないほどの物事を学び知った。護られるだけでなく、護り、助け合う、対等の存在。その一端として戦場へ立ち向かう精神は、まさしく英雄のそれだった。
「行きましょう、皆さん。わたしたちで、マスターを救い出しましょう!」