夜鶴の夢、雷光の如し   作:しゃくなげ

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第5話

 森を抜け、岩山を駆けて、ひた走る。四人の足並みは乱れずに、一定。背後から迫る頼光を引き離そうと、止まらぬように足を動かし、地面を踏み締めて前へと進む。

「ドクター、聞こえますか、ドクター! マスターを確保しました、現在、退却中です! 次の指示を、ドクター!」

 殿として背後を警戒しながら、マシュが管制室へと呼びかける。鵠佑の無事を喜ぶ言葉を前置きに、ロマニが小さく吐息を漏らす音が通信に混じった。

「頼光は今も、君たちの跡を追い続けているのが確認できる。鵠佑くんと玉藻の、廃屋内での会話は聞いていた。あの中では、聖杯は見つからなかったんだね?」

 通信機の破損で届かない分は、自分が仲介すれば良い。マシュは一字一句を違えずに己がマスターに問い、少年もまたそれに応じる。やはりかと漏らしたのは、管制室のロマニだった。

 聖杯の反応は、この岩山の山頂付近にある。それが、管制室の報告だった。目的地には未だ遠いものの、開けた山腹で一度足を止めて、鵠佑が乱れた呼吸を整える。

 足場の悪い山道は、歩むだけでも体力を奪う。それが駆け足での行軍、しかも背後から敵が迫っているとなれば、精神的な負担も大きい。その事実を理解しているからこそ、管制室ではロマニもレオナルドも、この一時休止を咎めはしなかった。

「山頂で聖杯を回収したら、逃げ場がない……足場も悪くて狭いとなると、あの雷は危険だと思う。全員で固まった所に撃ち込まれたら、どうにもならない」

「私も、鵠佑君に賛成。こういう戦いやすい場所で迎え撃ちながら、誰かがその、聖杯とやらを取りに行く方がまだ勝ち目があります。聖杯さえ回収すれば、あの頼光もどうにかできるのね?」

 最後に大きな深呼吸をして呼吸を整えた鵠佑とは対照的に、涼しい顔で武蔵が尋ねる。恐らくはと前置きをしながら、マシュ、そしてロマニが肯定した。

 方針を決めるのに、時間は要さなかった。足を止めていては、結局、追い付かれる。鵠佑が麓を見下ろしてみても、登山口に頼光の姿は見えない。彼女がもう、陰となった山道を登っているであろう事は明白だった。

 動かなくてはならない、行動しなくてはならない。そう思う心とは裏腹に、俯いていたのはマシュだった。黙り込んだ彼女の様子に、その場の面々が視線を向ける。

「あの……頼光の攻撃は、わたしの盾で、防げると思います。確かに、頼りないとはわかっています。けれど、わたしが防ぎますから!」

 マシュ自身も、自分が何を言っているのか、わからなくなっていた。胸の中に渦巻いている感情を、言葉に変換できない。必死に訴える視線の先で、鵠佑はふっと、柔らかな笑みをみせた。

「うん、防げると信じてるよ。マシュの力を疑っているわけじゃない」

「それなら──」

 言葉を遮って、肩に置かれる手。澄んだ瞳を瞬かせ、眉を下げていた少女は驚きの表情を浮かべていた。

「でもね、防げるからって、それだけが役割だと思ったらダメだよ。君は確かにシールダーのクラスだけれど、その役割のために、わざわざ辛い状況で皆を護るのは違うと思う。……聖杯を回収できるのは、マシュだけだ。頼光の狙いはぼくだから、できる限り囮になって、ここで持ち堪える。けれど、なるべく早く、帰ってね」

 守りの要は、いつだって君だからさ。最後に付け加えると、鵠佑は返事を待つようにマシュを見つめる。小さな間を置いて、少女もまた、力強く頷いた。

「行きます、先輩。直ぐに、直ぐに戻ります。マシュ・キリエライト、全力で聖杯回収を完了させます!」

 盾を担ぎ直しながら、マシュが告げる。そんな折に、少女の通信機から、申し訳なさそうな声色でロマニが発言を挟んだ。むすくれたマシュの表情が珍しくて、鵠佑も小さな笑いを漏らす。ほんの少しだけ、張り詰めていた気持ちに潤いが満ちた気がした。

「現在地と、七合目付近にも開けた土地がある。無理にそこで戦闘を続けずに、撤退戦も視野に入れてくれ。敵サーヴァント反応は、もうだいぶ近いぞ!」

 少年少女の、凛とした返事。その声を聞きながら、武蔵は腕組み、感慨深そうに頷いていた。横目でそれを見遣る玉藻の口からは、ため息混じりの愚痴が漏れるばかりだ。

「頼光の魔力は、それこそ無限。聖杯を保有してますものねぇ、当然といえば当然ですけれど……調伏される側の存在としては、玉藻、絶体絶命のピンチとか感じちゃいます。というかラスボスが天敵かつズルして無敵モードとか、私だけ難易度高すぎじゃありません? ハードコアって言うか、ナイトメア?」

「あはは……玉藻さん、時々、変な事を言いますよね。辛いとは思います、ごめんなさい。武蔵さんも、よろしくお願いします」

「ええ、ええ、任せてちょうだい。ここまで来たら、どうあってもあの頼光に、全身全霊の一の太刀を入れてやるんだから。頼れる用心棒として、二天一流宮本武蔵、鵠佑君にかっこいい所を見せるからね!」

 各々が、視線だけで互いの無事を祈り、励まし合うように笑った。刀を抜く音、呪符を取り出す指先、岩山を駆け上がる足音、現れた敵を見つめる双眸。交錯する様々な想いを意に介す事なく、眼前の万物一切合切をこの手で擂り潰さんと宣言するかの如く、鬼の咆哮が雷鳴のように轟いた。

 

 

 

 今の身軽さは、まるで羽毛のようだとすら、少女は思う。地を踏み締めて、蹴り抜く。一足で切り立った岩山を駆け上がる、脇目も振らずに頂上だけを見据えて直走った。

 己の内に渦巻く感情の正体を、彼女は未だ、正しく認識できてはいない。マスターの役に立てない事への恐怖も、マスターを拐われた時に感じた何かも、マスターの言葉に生じる高揚も、意識こそすれ解明はできない。それだけの人生経験が、マシュには与えられていなかったからだ。

 転がる石を踏み砕き、崩れかけた岩を蹴り抜いて、一度限りの足場に変える。前髪が煽られて左右に暴れ、風を切る音が耳の中で渦巻いた。見上げた空からは重たい滴が降り注ぎ、稲光が雨雲の合間を駆け巡る光景が幾度も見えた。

 夜の山は、暗く、そして冷たく、何より淀んでいた。今まで踏破してきた特異点のいずれにも、こんな濁った空気はなかったようにマシュは思う。

 道すがらで聞いた鵠佑の推測を、ふと思い出す。起こるべき何かが起こらなかったまま、ずっと時が流れてしまった特異点。ずっと以前に殺戮された痕跡、破壊され尽くした島中の霊脈、正気を失ったサーヴァント。

 どこもかしこも、異常ばかりだ。だからこそ、どんな特異点とも似つかない。

 考えてみれば当然で、故に、マシュの気持ちは恐怖でざわめき立つ。それを押さえ込むのもまた、少女の抱いた、無自覚な想いだ。

 恐ろしいものに立ち向かう時、マシュはいつだって、彼を護る事だけを考える。多くの人を助けたいのは事実だけれど、一番、護らなくてはいけない人は誰なのか。人理修復の要石、人類最後のマスターを護り、支えて、せいぎのみかたを目指して歩む。そのささやかな約束が、いつだって、少女の背中を押してくれる。

 奮い立つ気持ちの原動力は知らなくても、それで構わないとマシュは思っていた。この手を握ってくれたあの人が、子供のように涙を流したあの人が、笑ってくれる世界を見たい。褒美も見返りも求めない、献身。その感情を何と呼ぶのか、それを未だ、マシュは知らない。

 未だ透明な、ほのかな想いに背を押され、山頂の聖杯を目指して少女は駆ける。鬼と化した頼光を討つ、最初の一手を打つために。

 

 

 

「炎じゃダメだ、止められない!」

 鵠佑の声に従って、攻撃もそこそこに玉藻が飛び退く。直後、呪符によって生み出された炎の中から、壁を突っ切るように頼光が姿を現した。肌髪が焼けるのも厭わずに、引き絞られた矢弓の如く、殺すべき対象へと突き進む。割って入った武蔵の不意打ちすら片手で受け止め、薙ぎ払う剣圧で竜巻すら起こすよう。

 光を宿さない頼光の瞳は、最早、何を見ているのかすら曖昧。そこにはただ、夜の井戸のように、底の見えない凄味があった。

 開いたままの口から、糸を引いて落ちる唾液。緩やかな息吹の音と共に、身体中の筋肉が蠢いて、奇怪な音色を奏でる。瞬きを挟むよりも早く頼光が駆け、肉薄し、真横へ飛ぶ。まるで瞬間移動のように視界から掻き消える姿を追い切れず、鵠佑の指示が遅れた。

「あっ、ちょ、ストップ、待って痛い痛い痛い痛い痛い!」

 ぞぶりと肉を抉る音が聞こえたのは、玉藻の悲鳴が上がるのとどちらが早かったのか。剣から弓へと持ち替えた頼光の動きは、目で追えるものではなくなっていた。正面への肉薄で身構えさせておいて、背後に回り込みながら次々と矢を射掛ける。十本以上を突き立てられて、泣き声と共に玉藻が頽れた。

 赤い血溜まりが広がる中、己を穿つ矢を抜こうともがく玉藻の頭上で、頼光の振り上げた童子切が雷光を反射する。介錯などとは程遠い、斬刑でなければ、生き試しにも等しい光景。

 止めようとする鵠佑の声よりも先に、武蔵の放った小刀が頼光に迫る。振り返りしなに肩を貫かれ、尚も鬼は止まらなかった。突き刺さった異物を抜き、捨てて、血止めもせずに次の標的へと駆ける。武蔵が時間を稼いでいる合間に、鵠佑は玉藻の矢を引き抜いた。

「ごめんなさい、ぼくの見立てが甘かった……!」

 傷付いた玉藻にかける声は、泣き出しそうな子供のそれ。エーテルで編まれた仮初の身体にも関わらず、熱い血潮が流れる事に胸を痛めている少年の声は、存外、悪いものでもないと玉藻は思う。こんな切羽詰まった状況で、呑気なものだと自嘲をしながら。

「これ、ちょっとと言うか割と本当に、いけませんね……あぐっ、ぅ! 嫁入り前の乙女の肌が、穴だらけになってません……?」

 剣戟の音を聞きながら、鋼の弾け合う音を聞きながら、玉藻はふらつきながらも身を起こして、よろよろと立ち上がる。ひと呼吸を置いてからの、思案。まずは傷を回復させて、どう立ち回ったものか。おちゃらけた態度とは裏腹に、頭脳は至極冷静に、次の一手を思案する。

 兎にも角にも、まずは魔力をと言いかけて、そこで玉藻は目を見開いた。痛みが薄れ、塞がる傷口。確かに深傷を負ってはいたが、サーヴァントならば修繕は容易い。だから、この、これは、まったくもって非効率な対応だ。故に言葉を失って、ただ呆然と、鵠佑を見つめた。すぐに沸き上がる思いは、苛立ちだったのかもしれない。

「マスター、それは、貴方の傷を癒すためのスクロールでしょう! 言わば、ほんとうに困った時にのみ使うべきエリクサー! 貴方のような極一般的な市民なら、それこそゲームクリアまで残しておくべきものですよ!」

「あんなに痛がっていたのに、何もしないだなんて嫌だ! 皆は、ぼくの代わりに戦ってるんだ。その誰かが傷付いた時に使わなくて、どうするのさ!」

 馬鹿な子供の意見ではあった。効率的でも論理的でもない、誰にも手を差し伸べようとする、身の丈を知らない子供の。魔術師としてはまず大成しない、ただの優しい子供の言葉。

「本当、嗚呼、まったくもう! そんな所まで作り込むだなんて、性質が悪いったらありゃしません。見てくれだけなら、ええ、本物の玉石のようです。まったく、なんて──」

 言いかけた言葉を飲み込んで、玉藻は鵠佑に背を向ける。その考えは侮辱だと、自分自身を戒めながら。

 独り言は、囁くような声量。武蔵の支援をしようと、頼光の動きを必死に追う鵠佑には聞こえないような、小声。頼光の咆哮どころか、吹き荒ぶ風にさえかき消されてしまうようなもの。そして、それで良いのだと、玉藻は思う。己の胸中、心が動いた事実など、彼は知る必要がない。

「良いです、ええ、もうわかりました、私も少しだけやる気になりましたとも。出血大サービスの大盤振る舞い……ちょっと神様っぽいところ、見せちゃおっかな」

 衣擦れの、小気味良い音が一度。左右に伸ばした白い腕、細く美しい左右の五指は、無手を示す奇術師のよう。大きく息を吸い込んで、玉藻は笑う。艶やかに、そして朗らかに。歌うような声色で、戯れめいた言葉を紡ぐ。その視線の先にあるのは鬼と剣士と、振り返ればひと時の主人。

 突きを弾き身を躱して、踏み込みながらの一刀。武蔵の剣は頼光を捉えるも、未だ浅い。崩れた姿勢を筋力のみで立て直し、頼光の太刀が閃くように空を断つと、わずかに遅れて武蔵の胸元から赤い血潮の花が咲いた。その場に倒れそうになるのを堪えて、武蔵は尚も、前へ出る。次の一撃を防ぐため、互いの膂力を押し付け合う鍔迫り合いへと引き込んだ。勝てる算段がなかろうと、最後の最後まで足掻くために。

 薫風が武蔵の頬を撫ぜたのは、まさに、その時だ。

「出雲に神在り、是自在にして禊の証、神宝宇迦之鏡也」

 血生臭い斬り合いの、殺し合いの真只中。言の葉を紡ぐ高らかな声は雷鳴も風音も、雨音さえも打ち消していく。澱んで腐った空気が、澄んだそれへと塗り替えられる。円を描く両腕の軌跡、掲げる右が天を指し、光を放つは八咫鏡。四方を覆い尽くすよう、展開される大結界。

 べたつくような風ではない、涼やかな、心地良い一陣の風。邪悪なものを祓い清めるかのように、肩で息をしていた武蔵に、苦しげに顎を歪めていた鵠佑に、精気と活力を漲らせる。裂かれた胸さえ癒えていく、痛みさえも消えていく。ふたりの驚愕は、突如として感じた頼もしさへの笑みへと変わった。

「『水天日光天照八野鎮石』……なんちゃって☆」

 どこか惚けた戯言を添えて、玉藻の英霊たる力の一端が目を覚ます。その効力を知らずとも、戦うふたりは迷わない。頼光との鍔迫り合いを続ける武蔵へと、鵠佑は打ち捨てられた小刀を投げ渡す。押し切られかけていた武蔵が鋒を捌き、頼光の裏へと回り込む。

 中空の脇差を掴まえて、武蔵が二刀を奔らせる。疲労困憊だった先程とは、打って変わって鋭く重い剣の冴え。振り下ろした大刀が、突き払う小刀が、防御の綻びをこじ開けるように拡げていく。唸りと共に武蔵の股先へ鋒を跳ね上げようとした頼光の肩へ、腕へ、無数の氷柱が降り注いだ。振り返った鵠佑の目に、あざとく目配せをしてみせる玉藻の姿がちらりと映る。動きを止めた頼光を、武蔵の瞳は見逃さない。

「行けぇぇぇえええ!」

 叫ぶ声は、武蔵のものか、鵠佑のものか。地表に沈んだ剣士の身体が、発条のように跳ね上がる。下段からの突き上げは、肋骨を避けて腹から心臓を狙うもの。背を突き破り赤霧を散らすは、研ぎ澄まされた刃の鋒。瞬発力を最大限に乗せた、深々と胸を抉る一撃に頼光の身体がぐらりと傾いだ。

「御然らばです、源頼光。貴女の剣……とても、とても恐ろしかった」

 静かな呼吸は、武蔵のもの。穿った剣を引き抜いての、血払い。たたらを踏んだ頼光の目は、足元の地面しか見ていない。痛々しい傷口の穴から血液が溢れ、身体を、地面を汚していく。

 決着めいた光景を見ながら、玉藻はひとり、華胥の心地で鵠佑の、今は小さなその背中を見つめた。

 他の英霊がどうかは知らないが、玉藻の目にはおぼろげに、この少年が見えている。どのようにして生まれたのかはわからなくとも、どういうものであるのか、そのくらいは見えている。光を浴びて煌めいている、透き通ったガラス玉。そういう風に動き、そういう風に思考する、そういうものだとわかってはいる。

 最初はそれを、哀れに思った。そして同時に、好きになれないとも。如何に美しく見えようと、そう見えるようにできているのだから、紛い物に変わりなし。何よりその成り立ちに、美しい煌めきが感じられなかった。だから、ほんの少しだけ、どういうものかを見定めるだけのつもりだった。玉藻が鵠佑の召喚に応じた理由は、そんなものだ。

 彼の人となりを知るのは、容易い。特異点を修復してきた作戦ログも多々あれば、カルデアの中での触れ合いもある。何より、今回の特異点で共に戦った経験が、その性質を如実に表している。

「──なんて、馬鹿なひとなのでしょう。あの頼光を、憐むなどと。傷付きながら前に進んで、損ばかりする生き方だと思いますよ、マスター」

 廃屋でのやり取りを、玉藻はひとり思い出す。壊れてしまった頼光を、泣き出しそうな顔で見つめていた少年の姿を。震えるほどに怯えているくせに、鬼の境遇を悲しむ様を。だから彼は、今もきっと。あの頼光の傷にさえ、涙を浮かべているのだろう。

 そういう姿を見るたびに、玉藻は鵠佑に対して、力なくも善良なものを感じている。そういう風に見えるのは当然なのだとわかっていても、玉藻が定義する美しいものとは違っていたとしても、忌むような相手ではないのではないかと、感じるようになっていた。

「──まだだ、武蔵さん!」

 鵠佑の叫びに、玉藻は突如として夢想から現実へと引き戻される。

 倒れない。どうと音を立てて、頼光が地に伏せることはなかった。童子切を握る手は、今も尚、力強い。その異変を察知して、鵠佑が叫んだのだ。

 跳ね上がる、頼光の顔。口の端から血を溢しながら、何も見ない双眸で何かを探しているように。開いた口からごぼごぼと音を立てて、赤い泡が弾けて消える。乱れた黒髪に隠されて、優しげな顔の面影は何処にも見えなくなっていた。

 呆気に取られる武蔵の胴を、袈裟懸けに抉る一刀。倒れる剣士には一瞥もくれず、鬼は地を蹴り宙へと舞って、崖のような山肌を駆け上がった。山頂へ、恐らくは、この特異点の聖杯へと向かって。

 鵠佑の動きは、玉藻の反応よりもずっと早かった。倒れた武蔵へと駆け寄るなり、最後のスクロールを躊躇なく用いて胸の傷を治癒させる。わずかに遅れて咳き込むと、武蔵は食道に流れ込んだらしい血の塊を吐き出した。

「玉藻さん、武蔵さんをお願いします! このままじゃ、マシュが危ない!」

 武蔵の生存を確認するなり、鵠佑は玉藻に叫んだ。未だ残る痛みに眉をしかめながら、武蔵も片手で少年を押しやる。行きなさいと、そう言外に伝えるように。玉藻もまた武蔵へと駆け寄って、その身を支え、頷きをみせた。

「私たちも直ぐに追い付きます、必ず。だからどうか、生きてくださいまし。──貴方だって、散らして良い生命ではないのですよ、マスター」

 玉藻の言葉を背に受けて、少年が走る。空は未だに暗く重たく、このまま落ちてきそうなほど。稲光に照らされる山道は、黄泉路のように恐ろしくも、何処か寂しいものだった。

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