月のほのかな光を一身に浴びるカナエのその姿を夕顔は目を見開いて見つめていた。
なんて、眩しい。
決して陽の光に照らされた訳ではない。
ただ、彼女の在り方が、彼女の戦う理由があまりにも輝かしく見えて、夕顔は思わず目を細めてしまう。
彼女は最初から自らの心に湧き上がる憎しみの為ではなく、誰かの幸福な未来の為に刀を握っていたのだ。
それは嘗て自分が失ってしまった、在り方そのもの。
鬼になり、多くの仲間を喪ったあの絶望の中で俺が捨ててしまった、嘗ての誓いを一瞬、夕顔は思い出していた。
『私達は、明日この光を拝めないかもしれない。
けど、これから先生まれてくる子供達がこの日の本で明るい光を浴びて生きられるのなら、その為に私は最期までこの刀を振るえる。だから、みんなも戦って欲しい。今の私達の為にじゃない、いつかくる子供達が笑顔で過ごせる平和な未来の為に』
夕暮れの中で彼女と仲間達と共にあの時誓った、夕顔の中に残る人であった時の思い出。
長い時の中で徐々に風化していく記憶の中でも決して夕顔が忘れる事の出来ない一つの戒め。
「夕顔さんは、鬼になる前はなにをなさっていたのですか?」
夕顔が思い出に身を浸していると今度は彼女の方からそう聞いてくる。
どうして鬼になったかという質問でないことは彼女の立場からして当然だろう。
鬼になる理由など一つしかない。
あのお方に血を与えられてしまったから、ただそれだけだ。
それを聞かれたところで俺にはそのことを教えることなどできない。そういう風になっている。
しかし、鬼になる前の生活を聞かれたのは少々予想外だ。
どう答えればいいのかもよく分からない。
「……あまり面白い話ではありませんよ」
「私の話だって面白い話ではなかったでしょう?
いいから教えて下さい。夕顔さんがどんな生活をしていたのか興味があります」
「どんな生活と言われても困るのですが、そもそも俺が人だった頃などもう40年以上前になりますから、今とは随分生活も違いますが」
「え、40年!?
……夕顔さんって実は凄くお爺さんだったんですね」
非常に失礼な感想だった。
もっとこう鬼狩りとして言うべきことが別にありそうなものだが彼女の口から出たのは年齢詐称のような見た目に対する批判だけだった。
これについては歳をとらないのだから俺にもどうしようもない。
「あの頃は、まだ明治になったばかりというよりまだ慶応と言っていた頃でしたから今の世のように平和ではありませんでしたよ」
「慶応というと、大きな戦があったと聞きますが、夕顔さんも戦に赴かれていたのですか?」
「よくご存じですね。あの頃のことを知る者は学者でもなければもうなかなかいないのですが。
……俺も嘗ては武士と言われる存在でしたから、勿論戦にも赴きましたよ。多くの仲間たちと共に日の本に明るい未来を勝ち取る為に、子供達が戦など知らずに笑顔で過ごせるようにと刀を振るいました」
最もその結果は凄惨なものとかしたが。
新政府軍も幕府軍もどちらも未来の為にと戦った。
日の本がより良い未来となるように鉄砲を持ち、槍を持ち、刀を持って、殺し、殺され、殺しと何度も繰り返しその果てに今のこの世がある。
戦は幕府軍の敗北で終わり、新政府を名乗る彼等は明治と年号を改め日の本に新き未来を打ち立てた。
武士の誇りである刀は捨て去られ、今この世において刀を持つ者など軍人か或は彼女のような鬼狩りしかいない。
「俺は人であった時から咎人でした。
多くの人を刀で斬り殺し、彼等の守りたかったものを踏み倒してきた。あの頃はまだ俺にも守りたいものがありましたから、その為に刀を振るうことに躊躇いはありませんでした。
……しかし今の俺にはそんなものもなくなってしまった」
「……夕顔さん」
あの戦いの中で俺はあまりにも多くのものをなくしすぎてしまった。
日々次々と仲間が倒れていく。血と硝煙の匂いの中で何度も心が折れそうになった。
それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。もしも、そこで刀を捨てればそれはとてつもない裏切りだ。
倒れた仲間の想いも殺した敵の想いも何もかもを投げ捨てることと同義だった。
だから、俺は、俺達は走り続けた。
あの日、あの方に出会うまでは……
夜の野営中、友軍の裏切りによって奇襲にあった俺達はちりじりになって方々へと逃げていた。
そんな逃走劇の最中やけに軽装な服装をして腰に刀を差した男が目の前から歩いてくる。
奇襲にあった戦場で見覚えのない男が刀をさして歩いてくるのだ。
当然敵だと思って仲間に声をかけようとしたその時にはもう生きている仲間はいなかった。
一瞬だった。
風が吹いた、そう思った時には周囲にはただ肉の残骸のようなものが転がっていて辺りにはとてつもないほど濃い血臭が広がっていた。余りにも僅かな時間で仲間を殺されて最初俺には何が起きたのか、どうしてみんなが死んでいるのかすら分からなかった。
ただ、俺の目の前に立った何かが人外の存在であることだけははっきりと分かった。
「ほぉ、この状況でまだ私に刃を向けるか」
「っ………」
目の前に立つ存在が放つ圧倒されるような気配に俺は刀を構えるだけで精一杯だった。
身体中に冷や汗をかいてカタカタと震える刀身を目の前の何かに向けて棒のように立ち竦んでいた。
「どうした震えているぞ。その気概は見事だが、お前の身体は私をよく理解しているようだぞ。
……いいだろう、お前にも私の血を分けてやろう」
「あがっ……あっあああああ!?」
怖気が立つような冷たい口調で目の前の化け物が近づいて来る。
それを認識した時にはもう俺の腹には目の前の存在の腕が突き刺さっていた。
腕が刺さっていると理解した途端、身体の中をとてつもないほどの激痛が走り抜けた。
「幸い、この辺りにはまだ多くの人間がいるようだ。食事にはことかくまい」
ずぽっという不快な音と共に腹部から腕が引き抜かれて、俺は地面に倒れ込むがそのことに最初は気付くことすらできなかった。
身体中が痛んでそれどころではなかったのだ。
刺された腹の痛みではない、骨が軋み肉が蠢くような得体のしれない感覚がひたすらに俺の体を蝕む。
何かとてつもない力で自分が変えられていく、それと同時に何かがなくなっていく。
俺にとって大切だった筈のものが次々に消えていく。
「この辺りの人間を喰らえ、そして力をつけろ。私の役に立つように。鬼狩りの柱共を殺せばお前にもっと血を分けてやろう」
そう言って、あのお方は去っていった。
その時には既に俺の体は嘗ての俺のものではなくなっていた。
遠ざかっていく足音に俺もフラフラと立ち上がると、覚束ない足取りで歩を進めた。
命令されたから、あのお方に。喰わなければいけない、人を。役に立つように強くならなければいけない。
足を進めるごとに何かを失っていく。僅かの間にもう沢山のものを失くしてしまった。
何を失くしたのかすらもう思い出せなくなっていく。
それが怖い、怖くてたまらないのに俺の足は止まらない。
何かに突き動かされるように体が勝手に動く、俺が俺で無くなっていく。
「やめろ……」
震える声でか細く呟くが当然足は止まらない。
この体がこれから何をしようとしているのか否応なく理解させられる。
嫌だ、これは違う、想いも何もなく、ただ作業のように人を殺したくはない。
幸福な未来の為でも約束の為でもないただ欲望のままに行う殺戮など、俺は嫌だ。
どれだけそう思っても俺の体は止まってくれない。
そうしている内に人を見つけてしまう。
俺達を裏切った友軍の兵士が、大きな声を上げて近づいてくる。
銃剣を持って次々に俺に向かってくる。
だから殺した。
腕が体が勝手に動いていく、ただ腕を振るだけで次々に人が死んでいく。
血飛沫をあげて人が裂ける。
視界が滲んで周囲がぼやける。
体も止まらず、涙も止まらない。
歩を進める度に自分の変化が確立していく。
殺せば殺す程、消えていく、俺が、俺を俺たらしめていたものが全て消えていく。
あぁ、やめてくれそっちに行かないでくれ。
自分が変わったせいで分かってしまう。
この先に誰がいるのか匂いでわかってしまう。
みんなと約束したんだ。
彼女を守ろうって、彼女の作る幸福な未来の為に守り抜くと誓った。
だから、やめてくれぇ
どうか、あの人を、仲間達を、俺に殺させないでくれ。
そこから先はあまりよく覚えていない。
ただ、口に入った数滴の血はとても甘美でこの世の何よりも美味しかった。
それだけははっきりと覚えている。
殺して殺して殺し尽くして、喰らった。
沢山沢山喰らった。
敵も仲間も…………彼女も。
積み重ねてきた思い出も仲間との誓いも全て無くして、殺して喰らった。
そして、全てが終わった後になって彼女の亡骸を前に俺は再び全てを思い出した。
いっそずっと忘れていられたならよかったのに、あの方に支配されたまま大事な記憶を全てを忘れて、自らの欲望の命じるままにただ人を喰らえたのならまだよかったのに。
なのに、これは何だ。
すべてを失くして、すべてを殺して、喰らって、大事な彼女を殺して全てが終わった後になって俺は思い出してしまった。
彼女との誓いも約束も仲間達との思い出も全て、思い出してしまった。
声にならない慟哭が上がる、そんな資格などないのに、涙が止まらない。
すべてを壊したのは俺で、彼女を殺したのも俺だ。
そんなことは分かっていたが、それでも、止まらなかった。
俺は人であった時から咎人だった。だがあの瞬間、俺はただの咎人ですらなくなった。
地獄など生温い、輪廻など必要ない。俺の全てを滅してこの罪を裁かれなければならない。
仲間を裏切り、誓いを捨てて欲望に身を呑まれて多くを喰らったこの罪を、悪鬼となったこの身を。
「俺は愚かな鬼ですよ。すべてを殺した後になって守らなければいけなかったものを思い出した。理性をなくし人を喰らって美味いと思い、人の心を思い出して尚、俺は人を喰らい続けた。あの飢餓感に耐えきれずこれまで多くの人を喰らってきたまさしく悪鬼といえるべく存在です」
懺悔するかのように月に向かって独白する夕顔の表情をカナエは悲しそうに見つめる。
あまりにも理不尽なその過去に、あまりにも不器用なその生き方にカナエは瞳を潤ませる。
彼が悪いわけではない、そう言ってあげたかった。
しかしそれは私の立場が許さない。過程はどうあれ彼はそれでも人を喰らい続けた。
それは間違いなく悪といえる行いだ。だけど、彼がただの悪者というわけでもない。
彼は悔いている。
己の行いを悪だと認識して、それでもそうせざる負えない自分自身を彼はずっと責め続けている。きっと私の知る他の柱なら彼の首を容赦無くはねるだろう。ある者はきっとそれこそが慈悲だと言って。ある者は後悔しているのなら尚更死ねとでも言いそうだ。
だけど私には彼の首を刎ねることだけが彼にとっての救いだとは思いたくない。
だって彼にはどうすることもできなかったのだ。
鬼に殺されたものだけが被害者なんじゃない。鬼にされた人だって被害者だ。
己の在り方を強制的に変えられて、意思とは裏腹に体が勝手に動いて人を喰らう。
今まで殺してきたすべての鬼達が彼のようだったのかといえばそうではないだろう。
むしろ人を殺して喰らうことを喜んでいるものばかりだった。
でも、彼等が鬼になる前からそんな人達だったのかは私には分からない。
自分が出会った他の残虐な鬼達も無惨によって変えられてしまっただけなのかもしれない。
今の私にその判断はつかない。
だけど少なくとも今目の前にいる彼は、この人は、ずっと苦しんできている。
苦しんで、もがいて、誰かに悪だと言われて殺されることを望んでいる。
彼はあの時、生を望んでいると言ったがそれはきっと嘘だ。彼から感じる感情の色はあきらかに死を切望している。
彼は死こそが罰だと思っているようだがほんとうにそうだろうか?
自分のしてきたことを罪だと、あってはいけないことだと思いながらずっと今まで生きてきたというのなら、それこそが彼への罰になるのではないのか?
私には今の彼の生き方こそがまるで罰を与えられているかのように見える。
「……夕顔さんは、凄い人ですね」
「なんですか、急に。それに俺は人ではありません。鬼ですよ」
意図した言葉じゃない、でも気がついたらそう言っていた。
だって、彼の生き方に他の誰が耐えられるのだろうか。
少なくとも私には無理だ。それほどの後悔と自己嫌悪の中で40年以上もの長い間、人の精神のままで生き続けるなんてとても耐えられない。心が壊れてしまう。
だけど彼はそうなっていない、壊れかけの心でずっと一線を保ち続けている。
「いいえ、夕顔さんは人ですよ。例え体が鬼になっているのだとしても貴方の心は間違いなく人のそれです。鬼殺隊・花柱である私が自信を持って言います。貴方は人で、とても凄い、優しい人です」
「っ!?」
こんな人が居てくれた。鬼になっても人の心を失わずに戦い続けた人がいたんだ。
それが私には何よりも嬉しい。
そしてそんな彼が今ようやく鬼の欲望に打ち勝とうとしている。飢餓感に襲われなくなっていると彼は言った。それはきっと彼の中で何かが変わろうとしていることを表している。
実際今の彼は初めて会った時から比べても気配が少し変わってきている。
ほんの些細な差でしかないが通常の鬼の気配とはどこか異なる。
それは間違いなく、確固たる変化と言えるはずだ。
もしも、もしも彼が人を喰わなくてもいいようになったのだとしたら、それは鬼殺隊にとっても朗報になり得る。今まで鬼になってしまった人は殺すしかなかった。
でも、それ以外の道が開けるかもしれない芽が、今目の前に居る。
「夕顔さん、私と一緒に山を下りませんか?」
だから、提案した。
自惚でなければ彼に起こった変化は自分が影響している筈だ。
彼と過ごす時間が増えれば彼にはもっといい変化が現れるかもしれないし、街に行って私以外の人を見ても飢餓感が襲ってこないのか確かめることができる。
もしも彼が飢餓感に襲われることがあったとしてもその時は私が責任を持って彼を抑え込む。
それに彼に知って欲しい。
苦しんでばかりいる彼に、生きることが罰になってしまっている彼に、生きることの幸せをどうか知って欲しい。
こんなに頑張っている彼がこのままただ苦しんで挙句首を刎ねられて消えるなんてあまりにも救いがなさすぎる。
せめて、ただの一度も笑おうとしない彼を笑わせてあげたい。本の一時でも楽しいと思って欲しい。
それがこの時のカナエの優しい願いだった。
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