昨日、春が目を覚ました時、すでに事件は起こっていた。
現場は瀬古家の1階だ。窓が叩き割られ、リビングに破片が散らばっていて、キッチンには調理途中で放棄されたらしい食べ物が冷めて残されていた。
それからというもの、家中どころか街中を探し回っても明日菜の姿はなく、連絡もつかないまま、時だけが過ぎていった。
それから丸一日が過ぎても明日菜からの連絡はなく、いまだ彼女は帰宅していない。
「どうしよう……なにか事件に巻き込まれたんじゃ……」
今は聖杯戦争の真っ只中である。すぐにでも明日菜を見つけ出すべきだ。
しかしとうに日は落ちており、外に出て探し回るには危険だと、バーサーカーに制止された。
結果、彼はその制止を受け入れつつも気が気でなく、落ち着かないままひたすら室内をうろつくほかなかったのである。
「はぁ……これで何度目? お兄様もいい加減、あの子は勝手に帰ってくるって思わないかしら」
バーサーカーはため息をついて、明日菜の失踪などどうでもいいと吐き捨てる。
だが、そう言ってはいられない。明日菜は12歳。まだまだ幼く、兄が守ってやらなければならない年齢だ。
それに、春は昔から彼女のために生きてきた。それは今でも変わらない。
なんて言って聞かせても、バーサーカーの主義主張もまた、簡単に変わるものではなかった。
「そんなこと言ったって……放蕩妹探しばかりしてたら、勝てる戦も起こせないわよ」
「わかってるよ。だから、明日菜は俺が一人で探す。バーサーカーには気にせず戦って欲しい」
「……それが無意味だって言ってるの」
ぽつりと呟かれた一言は春を驚かせる。
彼だってバーサーカーを蔑ろにしたいわけではない。彼女のことは尊重しようと考えている。
だけど、それでもバーサーカーは不満を抱いているように見える。特に明日菜のことで、だ。
「……まだ一匹も獲物を仕留められていない駄目な女神だけど……私だって神霊級サーヴァントだわ。女神の直感は神託と思いなさい。
あの子、貴方に隠し事してるわよ」
「明日菜だって年頃の女の子だよ。俺に知られたくないことくらい、あるだろ」
バーサーカーは歯を食いしばり、強く拳を握り、衝動的にすぐ傍にあった机を殴りつける。現代の木材が女神の一撃に耐えられるはずもなく、いとも簡単に割れて砕け散ってしまった。
彼女もまた焦っている。それはきっと、一昨日にランサーから受けたという傷が癒えていないことから来るものでもあっただろう。
「……お兄様ってば、いつもいつもあの子ばかり。そんなにあの子が大事? 私よりも? 本当に?
ねぇ、答えて?」
詰め寄ってくる少女。小柄でも強大な力を秘める彼女は、人間の放つそれとはまた違う気迫を伴っている。
それでも嘘はつけない。春は己の本心を話すべきだ。
「……大事なんだよ、明日菜のことが。父さんも母さんも、あいつのことを頼むって言ってたんだ」
「親なんかの言葉が大切なの?」
「大切だよ。神様にはわからないのかもしれないけど」
少女は言葉を続けなかった。そうして静かでありながら、爪を噛み、瞳から光を失わせていた。
「……そっか。そうなの。ふぅん。
私なんか……どうでもいいんだ」
その声色には怒りよりも寂しさが感じられて、春はきゅうに胸が苦しくなる。しかし、彼女との反発も、また明日菜のためだ。自分に言い聞かせ、なんとか思考を続ける。
「……ごめんな、バーサーカー。俺を心配してくれるのは嬉しいんだ。だから、今日はもう家から出ないよ」
取り繕っても無駄だとはわかっている。この言葉は自己満足の正当化だ。明日菜のことしか頭にないくせに、こんなことを口走る。
なんて、自分を嘲った直後、誰かの声が部屋に響いた。
「──ほんと。人の心がわからないお兄ちゃん」
聞き覚えのある幼い声だった。振り向くと、割れた窓から、風が吹き込むと同時に少女たちの影が現れる。
「明日菜……!」
彼女は同年代の女の子に抱えられている。春の知らない、メイド服に身を包んだ女の子だ。
彼女との出会いが明日菜になにかをもたらしたのか、明日菜は笑顔でいた。聖杯戦争が始まってから見せなかった、余裕を含んだ表情だった。
「よかった、無事だったんだな。その子は友達か? 夜も遅いし、うちに泊まっていくか?」
何はともあれ、明日菜が無事に帰ってきたのならそれでいい。魔術の勉強ばかりで学校も休みがちだった彼女に同年代の友達ができたのも、春にとっては嬉しいことだった。
明日菜は女の子の腕の中から床に降り立って、くすりと笑う。
「夜遅くまで出かけて、知らないお友達まで連れてきたのに、叱ったりしないんだ。お兄ちゃんは優しいね」
「なにか事情があったんだろ? でも、またこういうことが起きたらお説教だからな」
「ふふっ、そんな心配、もうしなくていいのに」
明日菜の言葉の真意が測りかねて、春が首を傾げる。すると明日菜は傍らの少女の肩に手を置いて──そして、その直後だった。
「ッ、お兄様!」
バーサーカーは春を庇うように飛び込んだ。咄嗟に腕をクロスさせて防御の姿勢をとり、繰り出される膝蹴りを受け止める。少女の柔肌同士がぶつかりあって、巻き起こるのは不釣り合いな衝撃波だった。
「残念、勘づかれてしまったようですね」
「……やっぱり。サーヴァントだったのね、あんた」
激突したその瞬間の姿勢のまま、バーサーカーと短く言葉を交わした少女。彼女は跳躍して明日菜の隣に戻り、スカートの裾を軽く手で払った。
「これが私のサーヴァント、ルーラーよ。
お兄ちゃん、私はもうあなたと同じマスターなの。聖杯戦争の敵同士なの。
だから、心置き無く潰し合いましょう?」
「っ、待ってくれ、明日菜──」
「お兄様が答えるまでもないわ。言われなくたってそのつもりだもの」
春の言葉を遮ったバーサーカーの答えに対し、ルーラーは身構え、明日菜はまた嬉しそうな顔をする。
「そうこなくっちゃ。
さぁルーラー、命令よ。バーサーカーを倒しなさい」
「承知いたしました」
彼女はゆっくりとした歩調で歩み出てくる。そのスカートから覗いた蒼い龍鱗の尻尾を優雅にくねらせながら、どこか非人間的な鋭い双眸でバーサーカーを捉えている。
対するバーサーカーも低い姿勢で構え、瞳を血走らせ、いつでもルーラーを迎撃する準備が整っている。
そして夜のそよ風がふわりと居間に吹き込んできて、それをきっかけに、双方のサーヴァントが同時に動き出す。
少女たちの姿が見えなくなったかと思うと、ふたりは衝撃波を起こしながら再び現れた。ふたりの繰り出した拳同士が激突し、互いに皮膚と血管が裂け血が滲んでいながらも、全く退こうとしていない。
ルーラーがすぐさま次の攻撃態勢に入り、バーサーカーも回避と反撃に備える。放たれるハイキックを体を逸らしてかわし、体が戻ろうとするのを利用して頭突きを放つ。
ルーラーはそれを伸ばした尻尾で受けきって、バーサーカーを押し返した。よろめいた隙を逃さず、さらに飛び蹴りが打ち込まれる。
だが、衝撃を腹に喰らいつつも、バーサーカーの腕はルーラーの脚をしっかりと掴んでいる。
脚を掴まれてもルーラーには尻尾があった。しなやかな尾による強烈な殴打を首に受け、バーサーカーは怯み、ルーラーを離してしまう。
それでも彼女は反撃に、掴んでいた足首を力任せにへし折ってダメージを与えようとする。
可愛らしいパンプスが脱げ、鱗がいくつか剥がれ落ち、少量の血液とともに床に落ちた。
ルーラーはすぐさま魔力を動員し、霊体を作り直す。だがそれが、今度はバーサーカーが攻勢に出るための隙となる。
彼女は魔力にて大剣を編み上げ、天井の照明や家財道具を巻き込みながら振り下ろした。ルーラーは寸前で回避し、フローリングが破壊される。
戦いはとうに、春なんかには止められない領域のものだ。なんとか春は声を張り上げようとする。
「明日菜! 確かに聖杯は父さんの、一族の悲願だ! でも、兄妹で争う必要なんてないじゃないか!」
マスターが彼女なのだから、きっとわかってくれるはず。ルーラーを引き止めてくれるはず。
「……本当、そういうところ。だから人の心がわからないって言われるんだよ、お兄ちゃん」
春の勝手な淡い期待は、簡単に裏切られることとなる。
明日菜はボロボロになっている服を脱ぎ捨て、その体に刻まれた多くの縫い跡と傷痕、そしてそこから這い出すおぞましき虫の群れを見せつけた。
それらは間違いなく明日菜の体内から現れるものだ。その白い肌に浮かぶ血管は、内側を這い回る虫によって強引に拡張され、不自然に膨らんでいる。
「あ、明日菜、それは」
「なにも知らないお兄ちゃんに教えてあげる。お父様が私に刻みつけた、魔術ってやつを」
呆然とする春に、虫たちの影がにじり寄る。
──バーサーカーとルーラーの戦いが繰り広げられる横で、マスター同士の逃れ得ぬ戦いが始まろうとしていた。