「なんで……なんで私がこんな目に……ッ!」
感情に任せて、明日菜はコンクリートの壁を殴りつけた。弱った少女の非力な拳は痛む。壁には、まるで何も起きていない。
──瀬古邸から逃げ出した明日菜とルーラーは、目に付いた適当な民家に押し入って潜伏先としていた。
住人は何人かいたようだが、すべて虫に食わせて養分とした。ベルチェ相手に消耗させられた以上、魔力は少しでも回復したかったからだ。結局ほとんど魔力の足しにはならなかったが、決して八つ当たりなんかじゃない。
逃亡という選択は、明日菜にとって最悪の手段だった。
もうすぐ聖杯が手に入るはずだったのに、もうすぐ両親の言いつけのとおりになったのに、その夢から引き離された。
「もう、私にはなんにもないのに……」
気がつけば、全部自分から切り捨ててしまっていた。
手元に残ったものは悔しさと、苛立ちばかり。せめて、サーヴァントの一騎だけでも滅ぼせていればよかったものを、それさえできなかった。
ふと振り返ると、ルーラーがなにも言わず、なにを考えているのかもわからない瞳でこちらを見つめていた。
「……なによ、その目は。どうせあなたも、私から奪っていくんでしょ……なにもかも!」
ルーラーは、一度たりとも明日菜を裏切ったことはない。どころか、彼女の意に従わなかったことさえなかった。
それでも、今の明日菜には、彼女にも敵意を向けるしかできなかった。
そんな明日菜の目に、変わらず意図の読めない瞳が向けられる。たじろいだ明日菜とルーラーの間にはしばし静寂が立ち込めて、少しするとルーラーから口を開く。
「──掟とは」
「……掟とは、なによ」
「主を滅ぼすためのものではありません。
人々に安寧を齎し……主と共に歩むためにある。
私がなにかを奪うなど、有り得ません」
そう告げるルーラーの視線からは、少なくとも、悪意や敵意は感じられない。明日菜はなにも言えなくなって、歯を食いしばりながら、彼女から目を逸らした。
そんな明日菜の頬を、竜の手のひらが捕まえて、無理やり首を戻された。
「命令外ですが……訂正を、ひとつ。
あなたにはなにも残っていないわけではありません。ここに、私が残っています」
ベルチェに負けたのは明日菜だけだ。サーヴァントがいる限り、聖杯戦争には負けていない。明日菜はその程度のことさえも忘れていたのだ。
「ルーラー……」
彼女は今までだって、どんなサーヴァントにも優勢に戦ってきた。朝の襲撃の時だって、セイバーとアヴェンジャーとフォーリナーを一斉に相手にしていたのだ。
ここから先だってきっと、彼女なら勝ってくれる。
そう思うと、苛立つ心も落ち着いていった。聖杯を手にする術はある。全部、ルーラーが叶えてくれるんだ。
明日菜はそっと、自分の頬にあてられたルーラーの両手を握り、彼女に向かって頷いた。
「あなたなら、あなたと一緒なら……きっと……」
聖杯を手に入れられる。お父様もお母様も、喜んでくれる。
この時明日菜が浮かべた笑顔は、年相応に
◇
暗い地の底で蠢くのは、死ぬことすら許されないまま脈動する
実に千人以上もの人間を用いたこの聖杯は、正しく稼働し、サーヴァントたちを殺し合わせている。
その聖杯が佇む空洞に、フォーリナーと複数体のドロレスが集まっていた。
そのうち何体かの監督担当が指揮をとり、他のドロレスたちは作業員として、聖杯に対してなにかの干渉を開始しようとしているらしい。
フォーリナーはその光景をぼんやりと眺めながら、時折目に留まる聖杯に縫い込まれた少年少女の姿は見て見ぬふりをして、洞窟の冷たい岩壁に寄りかかっていた。
そんな中で、背後からいきなり声をかけられる。
「我々は今、第三魔法を全ての人間にかけ続けるように、聖杯を加工しているのですわ」
聞いてもいないのに作業の内容を教えてきたのは、新たに令呪を受け継ぎマスターとなった「ですわ」口調のドロレスだった。かつてのマスターだった「なのです」口調の個体は、朝の戦闘で停止してしまったらしかった。
「この方法で……本当に世界すべての人間を、笑顔にできるんでしょうか」
「もちろんですわ。我らが師が夢見た楽園が、ついに実現されるのですわ!」
マスターは目の前で、楽しそうにくるくると回ってみせる。ほとんど表情を変えないドロレスだが、今だけは笑顔に満ちている。
第三魔法──魂の物質化によって、人々は肉体を不要とし、不滅となるだろう。そんな世界で、子供達はドロレスのように笑っているのだろうか。
それはフォーリナーにはわからない。けれど、確かにわかるのは、そこに雪村小夜とマッチ売りの少女の姿がないことだった。
「私は……」
どうしても決意が揺らぐのは、その二人のことが脳裏にこびりついているからだった。
思い出すのは、ルーラーから助け出された時に包まれた、アヴェンジャーの炎の暖かさ。そして、彼女にかけられた言葉。
──こんなところで物語を終えるなんて、許さない。
彼女もまた
「私は……私には」
きっと、ルイス・キャロルの幻影は、彼女たちを心から笑わせたいのだ。
冷たい路地裏で力なく笑っていた、マッチ売りの少女を。
己が消えゆくことを知ってなお突き進む、儚き修道女を。
だったら、取るべき答えは決まっている。最後に彼女たちが笑っているためには──フォーリナーとドロレスは、一番の邪魔者なんだから。
「どうかしたのですか、フォーリナ──」
「ごめん、なさい」
「──?」
衣服から飛び出した触手は、滞りなく少女の上半身を消し飛ばした。先程までマスターだった残骸が、生命を失い崩れ落ちる。
腹部があったはずの場所から体液が流れ、無造作に転がり落ちているその様は、それがとうに生命を失っていることを感じさせた。
いくらドロレス同士が魔術回路をリンクさせていると言えど、直接サーヴァントと繋がっているのは令呪を持つ一人だけ。令呪ごと消え失せた今、フォーリナーは消滅を待つだけだ。
罪悪感を覚えないはずがない。さっきまで笑顔で、可愛らしく踊っていた少女を、フォーリナーは己の意思で死なせたのだ。
肩で息をしながら、その様を眺めているばかりだった。
「──令呪を以て命じますわ」
その時、大空洞に響いたのは、有り得ないはずの命令の声だった。振り向いて、そこに立っていたのは右手を掲げ、その甲に刻まれた紋様を輝かせるドロレスの姿だった。
「考えるのを、やめてくださいませ」
すうっと透き通るように、フォーリナーの中にあった疑念が消えていく。どうしてこうなったのか、理解することを脳が放棄している。知覚は正常だが、そこからなにも感じ取れない。
「ぁ、わ、わた、あ──」
うまく言語を発することもできず、うめくフォーリナー。対するドロレスはすぐに、今度は左腕の袖を捲りあげて見せた。
右手の令呪は使い切っても、彼女は聖杯戦争の主催者だ。アーチャーのマスターが使うことなく遺した令呪を持ち出したとて、不思議ではなかった。
もっとも、今のフォーリナーには、それが令呪であることさえほとんど理解できなかったが。
「重ねて令呪を以て命じます。微睡みなさい、フォーリナー」
瞼が重くなる。思考はキャンセルされ、意識は薄れゆく。それに呼応するかのように、ドレスを形成する肉塊はぶくぶくと湧き上がり、ルイス・キャロルを飲み込んでいく。
「う、ぁ、あう……」
眠りに落ちていく中で、最後に少女は手を伸ばした。そうして、虚空の中に、一匹のウサギを生み出した。
それは慌てた様子で走り出し、膨れ上がる渾沌から逃れ、地下通路からどこかへ走り去っていく。
ドロレスはそれを追おうとはせず、眼前で膨れ上がる白痴かつ遥かなる肉塊を前に、高らかに笑っていた。
「頑張ってくださいな、ウサギさん。哀れな