アイオワさんはとても頼りになるお姉さんですが、中身が絶対超絶乙女です。間違いない。
「あ……
「あの、あのね、
「あなたのことが、」
鏡の中の自分が、真っ赤な顔をしていた。それは、風邪を引いたわけでも、激辛メニューを食べたわけでも、運動のし過ぎでもない。たった今、私が口にしようとした、言葉のせいだ。
ようやく朝日の昇った自室。懐中時計が示す午前六時過ぎは、総員起床の時間を考えてもまだ早い。そんな時間にベッドを抜け出して、身支度を終え、ドレッサーの前に座るのは、ここ最近の
動悸がする。心臓は打ち鳴らす船鐘なんかよりずっと早く打っていて、静かな部屋中に聞こえるんじゃないかってほどだ。上がりきった呼吸を整えようと、深呼吸。冷えた空気が、加熱された体には心地いい。
……よし。もう一回。そう決意して、真っ赤な頬を張った時だ。
「それ、いつまでやるつもり、姉さん」
背後から聞こえてきた声に、今度は心臓が止まるかと思った。
まさか、聞かれた!?頭から急に血の気が引いていく。同室の妹にバレないよう、早起きしていたというのに。この秘密の演習を、聞かれないようにしていたというのに。
顔の筋肉が引きつっているのがわかる。壊れかけのロボットみたいにぎこちない動きで、私は後ろを振り返った。
締め切られていたカーテンが開いて、ベッドからニュージャージーが顔を覗かせていた。寝ぐせのついた短髪を指で軽く梳かしつつ、細いフレームの眼鏡をかけた彼女は、呆れたと言いたげに半目でこちらを見ている。
一瞬で姉の威厳(元々あったのかは怪しいけれど)を失った私は、せっかく冷却した頬の再加熱を自覚しつつ、妹に尋ねる。
「い、いつから?」
「起きたのは姉さんと同じくらい。告白の練習の話なら、二週間前から」
ごまかそうとした質問に、律儀に答えてくれるニュージャージー。つまり、ほとんど最初から聞かれていたということだ。
一六インチ砲があったら入りたい。
「私の身支度もあるんだから、ほどほどにしてよ」
「お、オッケー」
ベッドから抜け出したしっかり者の妹は、私にドレッサーの前の譲渡を求めた。思考のまとまらない私は、ともかく頷いて、席を譲る。手早く髪を梳かし、メイクに取り掛かるニュージャージからの
「私は気にしないから、告白練習、続けて」
という申し出は、ありがたく全力でお断りさせてもらった。
「姉さんが、提督を、ねぇ……」
食堂で向かい合ったニュージャージーは、ブレックファストのトーストを齧りながら、やや遠い目でそう言った。私はといえば、朝一で妹に告白練習を聞かれるという稀有な体験をしたせいで固形物が喉を通りそうになく、シリアルにしておいた。現在進行形で胃がキリキリする以上、その判断は正解だったみたいだ。
「まあ、知ってたけど」
「知ってたの!?」
ママレードを塗るニュージャージーが、うるさいと言いたげに上半身を引く。自分でも信じられないくらい素っ頓狂な声が出た。持っていたスプーンを取り落としそうになり、慌てたジャグリングの末、何とか手の中に戻す。
「まさか、バレてないと思ったの」
「う、うん」
「それはない。あれだけあからさまなら、私以外にも気づいてる子はいるんじゃない?」
「ま、まさか……」
私という艦娘は、そんなにわかりやすかっただろうか。いやいやそんなはずはないと、首を振る。
そんな私に対して、観念しなさいと、ニュージャージーが根拠を羅列する。
「挨拶がなんだかぎこちないし」
ぎくり。思い当たる節があって、私は肩を跳ねさせる。
「旗艦を任されると、やたら張り切ってるし」
ぎくり。自覚がありすぎて、背中の冷や汗が止まらない。
「褒められてハイタッチしたら、翌朝まではしゃいでたし」
ぎくり。身に覚えがあることばかりで、頬の加熱が加速する。
「名前を呼ばれた時なんて、」
「ストップ!お願い、ストップ!」
最早言い逃れなどできず、私は机の上に轟沈した。せめてこれ以上の被弾を防ごうと、ニュージャージーに待ったをかける。向かいの席で、妹が溜め息を吐きつつ、口を噤んだのがわかった。替わりに、トーストを齧る軽やかな音が、再び聞こえて来た。
しばらく机に突っ伏して、熱くなった頬を冷やす。ようやく顔を上げて、私ははっきりと、私の気持ちを口にした。
「私、提督が、好きよ」
改めて口にすると、体温が上がる。目の奥で星が散った。頭脳が熱暴走気味なのを感じ取って、私は再び、机に額を押し付けた。ステンレスの表面が、今はこの上なく心地いい。
ニュージャージーが再び溜め息を吐く。今度は、呆れよりも感心のニュアンスが強い気がした。
「なんていうか、乙女ね、姉さん」
「……正真正銘の乙女です」
「それもそうか」
残ったトーストを全て口に放り、ニュージャージーが立ち上がった。懐中時計が指す午前八時半は、もうすぐ課業が始まることを示している。秘書艦である妹は、これから提督と今日の執務だ。自他ともに認める艦隊の頭脳は、今日も提督の右腕として、その辣腕を振るうことになる。
……自分に書類仕事の適性がなかったからとはいえ、提督と二人で仕事ができる状況は、正直、羨ましい。特に、今みたいな状況では。
少しでも、提督と同じ時間を過ごせるなら、それ以上の願いなんてない。
「いってらっしゃい。お仕事頑張って」
「ん、ありがと。――姉さんも、頑張って。提督の出発、明後日だからね」
最後に残された言葉が、私の心に一番、ずしりと圧しかかって来た。
提督は、とても優秀な方、だと思う。少なくとも私は、ずっとそう思っている。
――「ようこそ、我が艦隊へ!君たちの力、思う存分振るってくれ!」
半年前の光景を、今でも、何度だって夢に見る。基礎訓練を終えたばかりの私とニュージャージーを、不敵な笑みと共に迎えてくれた、提督のことを。白い歯剥き出しで笑って、私たちの肩を叩き、豪快な声で激励してくれた、彼のことを。
豪放磊落。提督の第一印象はその一言に尽きた。
けれど、それだけじゃないって、今の私は知っている。
作戦を立案すれば、頭脳明晰。艦隊を指揮すれば、大胆不敵。艦娘と語らえば、呵々大笑。
どこの鎮守府や基地よりも戦果を挙げているのに、私たちの基地がただの一隻も轟沈艦を出していないのは、提督の尽力によるところが大きい。基地最古参の艦娘が、誇らしげにそう語っていた。うちの提督が、世界で一番だ、って。
その意見には、私も賛成だ。
そして、それだけ優秀な提督を、海軍が放っておくはずはなかった。
「激戦続きの南太平洋へ赴き、他国海軍と協力して、深海棲艦を撃滅せよ。そのために、精鋭艦隊を率い、横須賀へ向かえ」
そんな辞令が提督に下ったのは、つい三週間前のことだった。彼は基地司令の任を離れ、合衆国で最も精強な艦隊を率い、日本へと向かうことが決まったのだ。
横須賀といえば、世界中の精鋭艦隊が集う、対深海棲艦戦略の最重要拠点だ。そこへの派遣とはつまり、合衆国海軍を代表して、他国海軍と共同戦線を築くということだ。
突然の栄転に、基地は喜び半分、寂しさ半分。ここ数日は、別れを惜しんで提督を酒に誘う艦娘が、後を絶たない。
私は……もちろん、嬉しい。自分の指揮官が世界に認められたんだから、嬉しくないはずがない。それが好きな人なら、なおさら。
でも……でもね。好きだから、なおさら――
「……会えなくなるのは、やっぱり、寂しいわ」
やり切れない思いを呟いて、私はパソコンから顔を上げる。集中できないせいか、目が疲れるのが早い。デスクワーク用の眼鏡をはずして、目頭の辺りを揉んだ。触れた親指と人差し指が濡れたのは、きっと疲れのせいね。
ニュージャージーのいない自室の天井に、重い息を吐く。一人の時くらい、許されるだろう。
……日本への派遣艦隊に、私は選ばれていない。この艦隊から選ばれたのは、イントレピッドとフレッチャー、ジョンストンの三人。私はここから、提督を見送らないといけない。
だから……だから、決めたんだ。残った短い時間の内に、必ず提督に、私の気持ちを伝えようと。そうして、ちゃんと、笑って、胸を張って、彼を送り出そうと。絶対に、後悔しないように。
そう決意して、すでに二週間が経過していた。私はいまだ、提督どころか、鏡の中の自分にさえ、想いを口にできずにいる。
「好き。大好き」
パソコンの前に突っ伏して、その言葉を呟く。たった一単語。文にしたって、三単語だけだ。それなのに……ただ一言が、伝えられずにいる。
「なんなのよ、もう……」
自分で自分が嫌になる。
わかっているのに。きちんと想いを伝えるのが、一番後悔しないやり方だ。ここで言えなければ、絶対に後悔するって、わかってる。大好きな人を、一番の笑顔で送り出すためには、絶対に伝えないといけないことだって、わかってる。
でも……だけど……提督のことを、想えば想うほど、身が竦んでしまう。動悸がして、頬が上気して、喉が貼りついて、舌が空回りしてしまう。
こんな緊張は、こんな恐怖は、どんな深海棲艦と戦った時にも、感じたことはなかった。
このまま伝えない方がいいんじゃないか。そんな考えが、頭に浮かんでくるほどに。
やっとの思いで、机から顔を上げた。もうすぐ中天に昇る太陽が、窓の外を穏やかな光で満たしている。燦々と降り注ぐ陽光を駆け抜けた風は、潮と春の香りを運んで来た。白いレースのカーテンと、彼の好みまで伸ばした髪が、やや強い風にはためいた。
「……いた」
その時、入り口からニュージャージーの声がした。懐中時計が示す十一時半は、お昼の休憩時間には少し早い。時間一杯まできっちり執務をこなす妹には珍しい。
特に何を言うでもなく、ニュージャージーは部屋に足を踏み入れて来た。私の側まで来ると、パソコンを見遣って尋ねる。
「演習の報告書?」
「そう。今日中に出さないと、でしょ?」
多分これが、私が提督に提出する、最後の書類になる。
ふーん、と気のない返事をしたニュージャージーが、そのまま自分のベッドに転がり込んだ。あまりにも妹らしくなくて、ベッドの方を振り向く。すでに閉め切られたカーテンの隙間から、彼女の手が伸びていた。その手には、「秘書艦」の文字が書かれた腕章が握られている。
「姉さん、これ」
ベッドの中から、くぐもった声が聞こえる。腕章を差し出すニュージャージーの意図が読めずに、私は尋ねた。
「どういうこと?」
「熱があるから休むわ。代打よろしく」
「熱?大丈夫?」
心配になって、カーテンの隙間から妹の顔を覗く。でも、ベッドの上に見えたのは、寝転んでスマホをいじるニュージャージーの姿だ。今朝と何ら変わらず、元気そうだった。
「仮病よ、仮病。明日まで休むから」
悪びれた風もなく、ニュージャージーはひらひらと手を振った。今日の午後からは、秘書艦の仕事を、私に任せる、と。
「ちょっと待って、私――」
「いいからさっさと行く。ほんとに時間ないんだから」
私に質問を許さず、ニュージャージーは強引に、私を部屋から追い出した。何とか書きかけの報告書だけ回収して、自室を出る。
ドアに背中を預ける。腰が抜けて、そのままずりずりと、自室の前にへたり込んでしまった。激しくなる一方の動悸と呼吸を抑えようと、スリープ状態のパソコンを胸元に抱える。
どうしよう。どうしよう。妹の謀略とはいえ、私は最後の二日間を、提督と過ごせる。執務室で、彼の一番近くで、最後の時間を過ごせるんだ。そう思うだけで、心臓が高鳴る。頭が沸騰する。嬉しさが込み上げる。
こうしてはいられない。いまだふわふわしている下半身に鞭を打って、私は立ち上がった。まずはランチだ。ああそれから、髪を整えて、メイクを治す時間も欲しい。
それから……それから、どうか。この胸の鼓動を、伝える言葉を。そしてその決意と勇気を、手にできる時間が欲しい。
ニュージャージーの言う通り、本当に時間は残っていなかった。
一日と半分。少しも無駄にしたくない。早くランチを手にしようと、開いたばかりの食堂へ、私は歩みを早めた。
「いやー、助かったぞ、アイオワ。一日ありがとう」
午後五時ちょうど。せめてもの報酬だ、なんて言いながら、提督は執務終わりのコーヒーを差し出した。淹れたてで、思わず手を引っ込めてしまうほど熱いコーヒー。ゆっくりマグカップを手にして、表面に息を吹きかけ、私はそっと、黒い液体を口にした。
しびれるような熱さが唇を襲う。ほんの一口啜っただけのコーヒーは、舌に苦い。出された角砂糖に手を伸ばし、迷わず二つをマグカップへ投入した。
「あっつ!?苦っ!?」
隣の提督も、私と同じような反応をしている。マグカップの中身をしかめっ面で見つめて、提督は角砂糖とミルクを投入した。自分で淹れたコーヒーに悶絶する彼は、なんだか可愛らしかった。
やや飲みやすくなったコーヒーをすする私へ、提督は肩をすくめておどけてみせた。
「BJのようにはいかんな」
ニュージャージーの愛称を口にして、提督も二口目をすすっていた。普段コーヒーを淹れるのは、妹の役目だったみたいだ。彼の言う通り、ニュージャージーが淹れた方が、百倍おいしいだろう。
でも……提督が私に淹れてくれた、というところに意味があるのだ。
「しかし――本当に助かった。一人でやってたら、今頃書類の山に埋まってたな」
「気にしないで。お役に立てたなら、何よりよ」
「まさに百人力だ。本当に、君はいつも頼りになる」
口角を吊り上げて笑う提督の顔を、直視できない。
頼りになる。その一言が、何物にも代えがたい、報酬だ。ふやけてしまう口元をごまかそうと、マグカップに口をつける。相変わらず苦い液体からは、ほんのりと甘さが感じられた。
ぽつぽつと会話を交わしながら、苦みが強いコーヒーを、少しずつ流し込んでいく。角砂糖二個が入っても、まだまだ苦みが強くて、飲むペースが自然とゆっくりになった。それが、今はとても嬉しい。
二人で揃ってマグカップを空にした。マグカップを片付けようとする提督へ、私はやっとの思いで声をかける。
「ねえ、提督。今夜は、暇?」
私の質問に、提督は申し訳なさそうな表情をした。
「悪い、今日はワスプたちに、誘われてるんだ」
ああ、間が悪い私。でも仕方ない。今日まで、まともに声をかけられなかった、私の自業自得なんだから。
「そ、そう。いいの。ディナーでも、って思っただけだから」
本気で謝りそうな提督の表情に、慌てて両手を振った。謝られる筋合いなんてないもの。これは私のわがままなんだから。
提督の側で執務の手伝いができただけでも、十分に幸せだったから。
ポンと、何でもなかった風に、柏手を打って笑う。
「ささ、これで、一日のお仕事も、終わりね。提督は早く、ワスプのところに行かないと。きっと待ってるわよ」
「……ああ、そうする」
提督を急かして、執務室を後にする。提督を送り届けた艦娘行きつけのバーには、空母たちが集まっていた。ワスプが強引に提督を引っ張って、席につかせる。
「おつかれ、アイオワ。BJに、お大事にって言っといてくれ。明日もよろしく」
もみくちゃにされながらそう言った提督に笑顔で手を振り、私は自室へと戻る。扉が閉じた瞬間、体からすべての力が抜けて、座り込んだ。
ちょっぴり泣いてしまったことは、多分、ニュージャージーにも気づかれていなかったはずだ。
最後の一日も、私は執務室で、提督の手伝いをしていた。
明日には出発するのに、今日も提督は忙しくしていた。出撃や遠征、演習といった、普段通りの書類。それから、引き継ぎ資料の山。
午後には、提督の後任となる提督もやって来た。提督の同期で、大親友兼ライバルだという女性提督は、一しきり提督の肩を叩いて、「あとは任せろ」と胸を張った。
残った仕事を片付ける提督の横顔を、私は見ていた。真剣そのものの表情に、ほうっと意識を持っていかれそうになった。
……そういえば、そうだった。仕事に手がつかなくなる時はいつも、提督が側にいる時だった。私は最初から、彼を目で追っていて。動かす手のことをすっかり忘れて、ニュージャージーに怒られていた。
最初から、あなたのことが好きだった。それだけのことだったんだ。
全ての執務を終えて、コーヒーを飲んだ。今日は私が淹れてみた。やっぱりニュージャージーみたいにはいかなくて、提督と同じでひどく熱くて苦いコーヒーができて、二人で砂糖とミルクを入れながら、大笑いした。
ディナーは、基地の皆で揃って食べた。提督と最後の夜を誰もが惜しみ、思い出を語らい、テキーラを酌み交わし、歌を歌って祝った。
それで、おしまい。提督は明日、基地を立つ。
「……これで、おしまい」
「何がおしまいよ、バカ姉」
自室の机へ突っ伏した私に、温かいコーヒーを差し出す優しい妹。少し――いいや、かなり飲み過ぎた。顔中が風邪でも引いたみたいに熱い。指先一本動かすのも怠い。肺に吸い込む空気が、ひんやりしていて気持ちいい。
懐中時計は、もうすぐ日付が変わろうとしていることを教えてくれた。何とか体を起こして、ニュージャージーのコーヒーに手を伸ばす。顔の前まで運んだマグカップからは、すでに安らかな眠りの香りがする。提督のとも、もちろん私のとも違う。同じ豆を使っているはずなのに、不思議で仕方がない。
暖かい飲み物に口づける。口の中に広がる苦味と酸味のハーモニーに、私はほっと息を吐き出した。思った通り、妹のコーヒーの方が、何百倍もおいしい。
「なんで、言わなかったの」
優しさの塊みたいなコーヒーとは裏腹に、隣に立つニュージャージーからは容赦のない言葉が飛んでくる。コーヒーをすする顔には、「あれだけお膳立てしたのに」という不満の色が、ありありと見えた。
微睡む思考でもう一度コーヒーに口づけ、私は理由を考えた。
「なんで、かしら」
「いや、訊いてるのは私なんだけど」
「……提督のこと、そんなに、好きじゃなかったのかも」
心にもないことを言っていると、自分でもわかった。そんなわけない。そんなの絶対あり得ない。
でも、自信もない。
恋なんて誰も教えてくれない。好きなんて誰も教えてくれない。愛なんて誰も教えてくれない。
どうして言えなかったのかも、誰も――自分ですらも、教えてくれない。
殊更に大きな溜め息が聞こえた。呆れたという目で私を見たニュージャージーが、一息にコーヒーを煽って、自分のベッドへ向かった。やがて彼女は、数枚の紙とペンを持って戻ってくる。それらを、私の目の前に叩きつけた。
「じゃあ、提督の嫌いなとこ、書くといいよ」
「どうして?」
「嫌いなところが見えた方が、好きか嫌いか、はっきりするでしょ」
それだけ言い残して、ニュージャージーはベッドに潜り込んだ。いつもより強くカーテンが閉め切られ、妹がこれ以上話しかけるなと言っているのがわかった。
花柄のカーテンをしばらくボーっと見つめていた。十分とせず、ニュージャージーの寝息が聞こえてくる。どれだけ飲んでも、気持ちよく眠れる妹が羨ましい。私はといえば、思考はぼやけているのに、眠気だけが襲ってこない。目は冴えたままだ。それと、軽い頭痛がする。
まだ残ったコーヒーをすする。ぬるくなったコーヒーには、酸味だけが残っていて味気ない。香りも薄くて、おいしさが半減した気がする。残った分を最後まで飲み干し、私はニュージャージーが差し出した紙に向き直った。
眠れない頭のまま、ペンを取る。
「……提督の、嫌いなところ」
靄のかかった思考で、ゆっくりゆっくり慎重に、半年間の思い出を手繰った。
一時間ほどを悩んで、まず一つ、思いついたことを、ペンで書きとめる。
「コーヒーを淹れるのが、下手なところ」
熱くて苦いコーヒー。火傷するほど熱くて、飛び上がるほど苦くて、おいしさの欠片もなかったコーヒーを、二人ですすったこと。目に涙を浮かべて笑った提督の横顔。
一つ思いつけば、次から次に、ペンを走らせることができた。
剛毅な笑いで、優しい言葉をかけるところ。
真剣なまなざしで、書類に向き合っているところ。
大きな手で、髪が乱れるくらい褒めるところ。
穏やかな目で、いつも私たちを見守っているところ。
痛いぐらい背中を叩いて、激励するところ。
ポンと一度肩を叩いて、慰めるところ。
私に、人を好きになることを、教えたところ。
ぽつり、ぽつりと、雫が零れる。大粒の水滴が、無機質な蛍光灯の光のみを宿して、紙面へ落ちる。目尻から頬を伝う川を、燃えるような涙が流れていく。こんもりとした露は、綴った文字の隣でラピスラズリのような輝きを放ち、でもやがて紙へ染み込んで、まばらな模様になった。
滴る涙で文字が滲む。堪えた涙で景色が霞む。顔を覆った時、両の手が震えているのに気づいた。漏れ出そうな嗚咽を、喉の奥で堰き止める。
「好き。大好き」
でも、心の内に秘めてきたものだけは、堪えきれずに零れ出た。
今更確かめることなんて、何もない。好き。提督のことが大好き。何者にも代えがたく、愛している。そんなこと、わかりきってた。
ニュージャージーも呆れるはずだ。
溢れ出る涙も、想いも、止める術なんて知らない。引き留める者もない夜に、流れるまま泣き続ける。微かな妹の寝息だけが、辛うじて私の意識の糸を保ってくれた。
気づけば、夜が明けていた。鳥のさえずりすら聞こえない、午前六時。窓から差すぼんやりとした光が、私の視界を白く染める。
体の節々が痛い。それもそのはず、私は自分のベッドではなくて、机の上に腕を枕にして寝ていた。
まだ眠い目をこする。頬に残った涙の痕が、ぱりぱりとした感触を残す。
「……起きたのね」
関節を解そうと伸びをした私に、ニュージャージーが声をかけた。彼女も寝起きらしく、緩い寝間着のままベッドから這い出てきた。眼鏡の奥の瞳だけが、すでに日中の輝きを取り戻している。
「おはよう」
「……おはよう。机で寝てたの?」
「気づいたらね。たまになら、いいものよ」
やれやれと首を振るニュージャージーが、そのまま私の隣へ歩み寄る。ひょいと伸ばされた手が掴んだのは、私の手元にあった紙。彼女の「提督の嫌いなところを書く」という提案に対して、私が綴ったものだ。
その上で寝たせいでくしゃくしゃになっている紙を、妹は一瞥して、私に尋ねた。
「で、提督の嫌いなところ、書けたんだ」
「……うん」
頷く以外の選択肢はなかった。
「嫌いなところなんて、ない。提督の全てが、好き」
まだどこかに残っていた涙が、乾いた川を一筋流れた。
「……そんなの、わかりきってたでしょ」
溜め息を吐いたニュージャージーが、その胸に私を抱きしめる。赤子でも癒すように背をさすり、温もりの内に私を包み、穏やかな手つきで頭を撫でる。甘えさせてくれるのをいいことに、私は妹の細い腰へ、力の限り抱き着いた。
「……最後のチャンスよ」
「うん」
「アイオワ級の底力、姉さんが見せてきて」
「わかってる」
「……じゃあほら、まずぱっぱとシャワー浴びてきて。顔ひどい」
私を引っぺがした妹の助言に従って、シャワールームを目指す。これが最後のチャンス。最後の戦いだ。
熱々のシャワーを浴びて目を覚まし、目もとの腫れがやや引いてきたのを確認してからシャワーを出る。伸ばした金髪をしっかり乾かして、自室へ戻った。
ニュージャージーの出してくれた、クリーニングしたての制服に袖を通す。鏡に向かって髪を整え、メイクをする。
懐中時計を確認すると、時刻はもうすぐ七時になろうとしていた。提督を乗せる船は、九時出港の予定だ。彼はまだ、この基地のどこかにいる。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
ニュージャージーが思いっきり背中を叩いた。痺れる痛みを引き金に、私は走り出す。大好きな人を探して。
自室にはいなかった。執務室に影はなかった。食堂、工廠、倉庫、埠頭。走って走って走って、探して探して探して。朝日を受ける基地に、カツカツとヒールの音がこだましていた。
どれくらい走っただろうか。とても短い時間にも、あるいは途方もない時間にも思えた。懐中時計を確認する余裕もなく、私は膝に手を置いて息を整える。
先に探したはずの執務室から、提督が出てくるところだった。手提げの旅行鞄を持つ彼は、私を見ると驚いた表情を浮かべる。
額の汗を拭って、私は笑う。
「探したわ、提督」
「みたいだな。なんだ、どうした?」
何事かと首を傾げる提督を前に、私は深呼吸を一つ。収まる気配のない動悸は、一先ずそのままにしておく。
「何をしていたの?」
「……まあ、なんだ。お別れってやつだな。三年間、色んなことがあった執務室だ」
「そう」
三年間。それだけの間、提督はこの執務室で戦ってきた。その、最後の、たった二日でも共有できたことが、私には何よりの喜びだった。
気を紛らわすのはここまで。本題に入ろう。
「あ……提督。あなたに言いたいことがあって、探してた」
私の雰囲気を察してくれたのか、提督が姿勢を正す。私よりほんの少しだけ高い位置の彼の瞳が、真っ直ぐこちらを見つめて、私の言葉を待っていた。
……ああ、やっぱり、好きだ。
星空のごときラピスラズリの瞳に、私が映っている。頬は真っ赤で、目は泣きそうで、不安げに眉尻を下げ、開きかけの唇から言葉を紡げない、そんな私が映っている。
頭の中は真っ白だ。あなたを探すのに夢中で、せっかく考えて練習した言葉を、部屋に置いてきた。ここにあるのは、膨らむばかりの想いだけで、焦がれた心を抱える私一人。どうやったら伝わるかなんて、何もわからない。
だから……だから。
緊張の朝に。溜め息の昼に。微睡みの夜に。あなたを想って零れた言葉だけが、私の口をついて出た。
「……好き」
たったそれだけの言葉が、心のダムを決壊させた。
「好き。大好き。提督のことが、世界で一番好き。あなたのことを、心の底から愛してる」
上がった息のまま、それだけの言葉を、一息に絞り出す。肺一杯の空気を使って想いを語る。酸欠で意識が飛ぶ前に、何とか肺をこじ開けて、空気を吸い込んだ。まだ冷たい春の空気に、胸が痛い。
「……アイ、オワ」
掠れた提督の声が聞こえた。息を整え、もう一度彼を見る。
大きく目を見開いた提督は、鞄を取り落とすのも気にせず、両の手で口元を覆った。大きな手のひらで隠れた頬が、微かに朝焼けに染まっている。その表情を、私は知らない。
やがて、提督がゆっくりと、口を開く。
「……本当、に」
「……うん。提督を愛してる」
それ以上の言葉を紡げる余裕はなくて、私はただ黙って、提督を見つめていた。
「……俺は、人間で、提督だ。それでも、いいのか」
コクリ。人間なんて、提督なんて、艦娘との違いなんて、関係ない。私はあなたが好きなんだ。
「俺は君を、幾度となく戦場へ送り出した。それでも、いいのか」
コクリ。だからこそ、あなたが私たちを大切にしてくれていることを、知っている。あなたのためなら、私は喜んで戦場を駆け、この砲を唸らせよう。
「俺は……俺は、今日、去ってしまう。もう会えないかもしれない。それでも、いいのか」
コクリ。それで悩むことなんてない。理由なんてない。別れはきっかけだったけど、この想いは本物で、例えあなたと永遠の別れになっても、変わらないものだから。
だから私は、あなたへ想いを伝えたのだから。
「……ありがとう」
提督の手が、ゆっくり、伸びてくる。その手は、ハイタッチを求めるわけでも、私の頭を撫でるでもなく。震える腕は、実に緩慢な動きで、私を抱きしめた。
破裂しそうな私の胸と、彼の胸が重なる。いまだ早鐘のような鼓動が伝わるのではと、思った。でも――
「……提督、ドキドキしてる」
「……アイオワもな」
二人分の心臓の音が、私の体を震わせる。それでも構うものかと、私も力の限り、提督を抱きしめる。旅立つあなたの感触を、忘れないように。
「俺も君が好きだ、アイオワ」
耳元で提督が囁く。恥ずかしくて、くすぐったい。何より嬉しくて、まるで天に昇りそうな、そんな気分。
「君ほど美しい人はいない。君ほど頼もしい人はいない。君ほどかっこいい人はいない。君は世界で一番、素敵な人だ」
一言一言がこそばゆい。素敵なのはあなたの方だ。あなたは世界で一番、素敵な人だ。
一分ほど、互いを抱きしめていただろうか。そろそろ恥ずかしさに耐えられなくなって、どちらからともなく離れる。腕の中に、提督の感触と温もりが、残っている。
真っ赤な顔の提督。同じく赤面中の、彼の瞳の中の私。恥ずかしさを紛らわすように、二人で笑う。
「私たち、恋人、ね」
「ああそうだ」
改まった確認が、むず痒い。提督の瞳を見つめ続けられず、私は目を伏せる。汗が出るほど熱い顔に、手であおいで風を送った。
その時、ぐーっと、私のお腹が鳴った。思わずお腹を押さえるが、もう遅い。あまりの羞恥に、せっかく冷ました顔が再加熱した。
一六インチ砲があったら入りたい。むしろそのまま、四万二千ヤード先まで吹き飛ばしてほしい。
「とりあえず、ブレックファストに行くか」
小さな笑いを浮かべて提案する提督に、頷く。取り出した懐中時計は、八時三分前を示していた。
提督の自室に寄ってから、食堂へ。二人揃っての朝食は、これが最初で、最後。
話したいことは山のようにある。あなたは笑うだろうか。どんな言葉をかけてくれるだろうか。そんなことを想像するだけで、足取りが弾む。
ふと、私は自分の懐中時計を見た。ちょうど午前八時。私にいつも時間を教えてくれる時計。
「ねえ、提督」
隣の彼を見る。私の呼びかけに、どうしたと、こちらを見る提督。鞄を自室に置いて、空いている彼の手を、私の手で取った。
その手に、懐中時計を預ける。
「これは?」
「私の懐中時計。提督に、預けるわ。日本に持って行って」
太平洋時間に合わせた懐中時計。日本との時差は、サマータイム込みで十六時間。そんな時計を、提督の手に、預ける。
提督が、静かに私を見つめている。その瞳に、私は答える。
「……待ってて。必ず、その時計を、合わせに行く」
私が刻んできた時間を、遥かな異国へ赴くあなたの時間に、合わせに行く。またあなたと同じ時間を刻みに。あなたと同じ時間で、同じ戦場へ立つ。
だからあなたに、私の時間を、預けさせてほしい。
「……君の時間、確かに預かった」
提督は微笑み、頷く。
「君が必要だ。戦力としても、俺個人としても」
何より嬉しい言葉に、私も笑う。きっと、一番の笑顔だ。だってこんなに、心の底から、あなたを愛しいと思えるから。
「……行っちゃったわね」
水平線へ消えていく船影を見つめて、ニュージャージーが呟いた。その言葉に、私は黙って、頷く。
午前九時発、横須賀行き。提督を乗せた船は、派遣される艦娘と共に、太平洋へと出航した。私含め、残された艦娘たちは、それを見送り、手を振った。
十分前まで送別の艦娘たちが整列していた埠頭には、もう、私と妹が残るだけだ。ここには誰もいない。愛する人は、遠い国へと、出立した。
でも……うん、笑顔で送り出せた。
「遠距離恋愛だね」
「そうね」
「私だったら耐えられない」
「私もよ。……だから、早く会いに行かないと」
やることはたくさんある。素敵な提督に、愛する恋人に、必要だと言われたのだから。悲しんで、寂しがって、いつまでも追い縋ってはいられない。
私は艦娘。アイオワ級戦艦のネームシップだ。波の向こうに運命の人がいるのなら、その波を乗り越えて、会いに行く。そうでなければ、戦艦の名が廃るというものだ。
「さあ、やっちゃうわよ、BJ!私たちを日本に送らなかったこと、海軍に後悔させてやるんだから」
「……了解。喜んで付き合うわ、姉さん」
拳を突き上げた私に、ニュージャージーが笑う。星を宿す瞳を細め、太陽のような笑顔を見せる。せっかく可愛いんだから、普段からもっと笑えばいいのに、というのは余計な姉心だろうか。
踵を返し、基地へと戻る。新提督の元、今日から執務の再開だ。ニュージャージーには、引き続き秘書艦の任が与えられている。
もう一度だけ、水平線へ目を向ける。船の影はすでにない。引きずっていた白い航跡も、ほとんど波間に飲み込まれてしまった。
提督はもう、ここにはいない。今の私は、彼の側にはいられない。だけど……私の時間は、今でも彼と共にある。時計の針はまだ、十六時間遅れてるけど。
その十六時間を埋めるために。あなたと同じ時間を刻むために。私はこの海を越えよう。
そしてもう一度、力の限りの抱擁を、彼と交わそう。
風が吹く。私を海へと――遥かな日本へと、押し出すように。
「姉さん?」
「……なんでもない」
今度こそ振り返らず、基地の庁舎へと駆ける。恋人と歩いた一時間のように、私の足取りは軽やかだった。
アイオワさん、結婚セリフで「Me too」って言うんですけど。
どういうことですか?
今までずっと好きだったってことですか??
好きだけど告白できなかったってことですか???
という思いで書いてました。つまりアイオワさんは可愛い。