邪悪な気配
「ふうぅ……」
ラナがみらいのベッドの上で膝を抱えて丸くなっていた。
「もういい加減に泣くのは止めなさい」
リリンを抱きながらソファーに座っている小百合の声が、寮部屋に胸を締め付けるような余韻を残す。
リコは小百合の隣に、みらいはモフルンを抱いて自分の机の椅子に座って、いつまでも泣き止まないラナを見つめていた。
「……小百合は悲しくないの……?」
弱々しくかすんだ声がラナから聞こえると、小百合がソファーから立って歩き、ベッドの前で右手を腰に当てて膝を抱え込んでいるラナを見下ろす。
「悲しいわよ。けど、いつまでもめそめそしていたら、フレイア様に申し訳ないでしょう。フレイア様はいつ果てるともしれないお体で使命を果たそうとしている。だからわたしたちも使命を果たすのよ。フレイア様との約束を守るの!」
ラナが無言で顔を上げると、小百合は涙で輝く碧眼を見つめる。
「あんたが悲しむのは当り前よ。でも泣くのはそれが終わってからにしなさい」
「今はロキのクソ野郎が残していった、ヨルムガンドとかいう竜を倒すことだけを考えるデビ」
かわいいぬいぐるみの口からそんな言葉が飛び出して、みらいがびっくりした。
「くそ野郎って……」
「リリン、お口が悪いモフ~」
「じゃあうんち野郎にするデビ。ロキは最低最悪のうんち野郎デビ! フレイア様をいっぱいいじめて許せないデビ!」
それを聞いた少女たちに笑みが浮かんだ。
「うんち野郎って」小百合がこらえきれずに失笑する。
「ロキのうんちやろ~~~っ!」
いきなりラナが叫んでみんな一斉に吹き出した。
「なんで笑うの~?」
「笑うでしょ、そんなこといきなり叫んだらね!」
「もう止めて、シリアスな雰囲気が台無しだし」
笑うまいと真顔を貫いていたリコも、ラナの叫びには負けて崩壊していた。
小百合が気を取り直して咳払いしてから言った。
「ヨルムガンドがいつ現れてもいいように、態勢を整えておきましょうね」
「さっき校長先生に会って許可をもらってきたわ。隣の部屋を小百合とラナで使っていいって」
「さすがはリコ、用意周到ね」
「食欲はないかもしれないけれど、しっかり夕食を取ってから早めの消灯でしっかり体を休めましょう」
「異論ないわ。早速食堂に行きましょう」
「わたしめっちゃお腹すいた~」
ベッドの上に立ってお腹を触ったラナを、小百合が唖然として見つめた。ラナの目はまだ少し赤いけれども、もう悲愴感の欠片もなかった。
「……あんた大物になれるかもね」
「おおもの?」首を傾げるラナの手を小百合が取ってベッドから下ろした。
この二人が手をつないで並んで歩いていく姿をみらいとリコがおいかけて、二人とも小百合とラナが姉妹のようだなと思う。
日が暮れて花の海の神殿に落ちた朱が燃えるような輝きを与える。フレイアは夕日が射しこむ祭壇の前で倒れそうになる体を金の錫杖で支えていた。
「まだ倒れるわけにはいきません。レッドエメラルドよ、今少しだけわたくしに命を……」
錫杖の先にあるリンクルストーンから赤い輝きが放たれてフレイアを照らす。真紅の命の輝きがフレイアに少しだけ気力を与えてくれた。
闇の女神は両手で錫杖を持って石床を突いた。そして白亜に黒い六芒星魔法陣が広がり、その中心に赤い三日月、周囲に六つの赤い星が現れて輝きだす。その宵の魔法つかいを象徴する魔法陣の中から、漆黒の結晶が浮き上がってくる。そして、祭壇の周囲を埋め尽くすほどの数の闇の結晶が現れた。
「二人とも見ていますか。何千年にも渡って受け継がれてきた、わたくしたちの思い。それがようやく遂げられるのです。これで魔法界は長きに渡る闇の魔法の脅威から解放される……」
フレイアは時と共に体を蝕む苦しみの中で、最後の力を使って両手に持つ錫杖を高くかかげた。
「……生涯最後の魔法です……」
生命の灯が消えかかるフレイアの視界が霞を帯びる。最後に彼女の命が燃え上がった。
「生まれる命に喜びを! 消えゆく命に希望の光を!」
錫杖のレッドエメラルドが燃え上がるように強烈な赤光を発し、全ての闇の結晶が邪悪を滅する聖なる光を浴びる。光から闇へ、波乱と苦悩の中を彷徨ってきた女神の生が終わりを迎えようとしていた。
刹那、不意に白亜の石床に刻まれていた魔法陣が消えて、別の黒い魔法陣が浮かび上がってきた。その六芒星の中心には、口を開く凶暴な竜の姿が描かれていた。それを見たフレイアは長い生涯の中で最悪の絶望に包まれた。同時に金の錫杖のレッドエメラルドの輝きが、何かに抑え込まれて失われていく。
「そんな……どうしてお前がここに……」
黒い竜の魔法陣から三俣の首を持つ漆黒の竜の像が、水面から浮き出てくるように現れた。同時に邪悪で下卑た笑い声が神殿の中に響き、霧状の暗黒が集まり人の形になった。不定形な人型を取る者の顔に当たる部分に紅一色の目と鋸の歯のように歪に裂ける口が出現する。
フレイアは絶望の中で錫杖で床を突き、片方の手で胸を押さえた。女神の息はもう途切れ途切れで、今にも消えてしまいそうだった。
「いようフレイア! 驚いたかよ!」
「おまえ……は……ロキ……」
「プリキュア共にやられた時は流石の俺様もダメかと思ったが、体だけ捨ててギリギリで逃げ出せたぜ。おかげさまでこんな姿になっちまったがな!」
もう声も出せないフレイアを見ている赤い目が細くなり、この上ない嫌らしさを醸す。
「何千年も先の戦いを予測してこの俺様の記憶を消すとは恐れ入ったぜ。しかも消された記憶はほんのちょっぴりだ。それで俺様は負けた。正直言ってぞっとしたぜ。だがよぉ、最後に勝ったのは、この俺様だぁっ! お前はこのロキ様に負けたのだ!」
フレイアの前で人の形になっていた暗黒の霧が崩れて雲のような形になる。
「こんな姿でもよ、死にかけのお前の魔法を邪魔することくらいはできるぜ!」
黒い霧が蠢きフレイアを包み込む。そして、女神の絶望と苦痛に満ちた最後の悲鳴が上がった。その手から錫杖を手放しフレイアは倒れ、石床で跳ねた錫杖からリンクルストーンレッドエメラルドが零れ落ちた。
「この姿じゃあ、ヨルムガンドを制御することはできねぇ。だからよぉ、俺様はヨルムガンドと一体化し、全ての闇の結晶を取り込んで最強の存在になってやるぜ! 俺様の支配を望まない世界など全てぶっ壊してやる!」
フレイアにまとわりついていた黒い霧が黒龍の像に吸い込まれていくと、その石像に向かって空気が渦を巻く。そして空中に漂っている闇の結晶を吸い込み始めた。
フレイアはもう力尽きて声を出すこともできず、彼女の閉じかけた瞳から流れる涙が石床を濡らしていく。
――わたくしたちの戦いも、二人の友の命も、思いも、全てが無意味だったというのですか……。
フレイアは遠くなっていく意識の中で小百合とラナを思う。もっともっと二人の思いに応えてあげたかった。その後悔が最後に残った。
――ごめんなさい……。
フレイアが目を閉じる。その時、彼女の中に思いの強い声が届いた。
《無意味なんかじゃない! わたしが必ず守るから! 必ず思いは届くから!》
その声がフレイアにほんの少しだけ、ほんの一言だけ声を上げる命を与えてくれた。
「……ありがとう……ことは……」
黒龍の像に無数の闇の結晶が吸収されていく。そして石像からロキの声が発せられた。
「闇の女神フレイア、お前もヨルムガンドの血肉となれ!」
フレイアの体が闇の如く黒く染まり、砂のように崩れていく。全ての闇の結晶が黒龍の像に吸収され、黒砂と化したフレイアも渦を巻く空気に乗って竜の石像の向かって流れていく。黒い砂の中には真紅の輝きが混じっていた。黒龍の像がその全てを呑み込んだ時、夕暮れだった神殿に闇が降りて夜が訪れた。
魔法界からナシマホウ界まで続く宇宙を貫く魔法のトンネルがあった。魔法界の外に出現した若葉色の魔法陣から出ている緑光に満ちるトンネルと、ナシマホウ界の外に出現した黒い魔法陣から出ている穏やかな闇が満ちたトンネル、その二つが魔法界とナシマホウ界の中間点となる宇宙で植物の蔓が絡み合うような形で連結されている。フレイアの存在が消えたことにより、ナシマホウ界側に異変が起こった。
星を覆う程に巨大な月と星の六芒星魔法陣が徐々に消えて、ナシマホウ界から魔法界に向けて走る闇色のトンネルがまるで植物が枯れて朽ち果てるように崩れていく。黒いトンネルが完全に消えてしまうと、中間点でつながっていた緑色に輝く巨大な蔓が、萎れていくように物悲し気に垂れ下がった。
魔法界を覆う程に巨大な若葉色の魔法陣に緑光のトンネルが急激な速さで引き込まれる。その様はまるで、蔓草の成長を逆再生にしてみているようだった。やがて緑光のトンネルも消えて、魔法界の外に広がる魔法陣が小さくなり、最後には消失した。
校長先生が何度目か黒の書に目を通していると、いきなり予想だにしない変化が起こって目を見張る。
「なんと、文字が!?」
消えていた文字が次々と現れていた。校長先生はもしやと思い、白の書をすぐに開く。彼が見ている前で、白紙だったページに文字や絵が次々と出現していた。
「虚無の時代の歴史が現れてゆく。魔法界の歴史の干渉者、あの女神の存在が消えたということか……」
校長先生はフレイアの命が短いことを知っていたが、どうも胸に何かがつかえるような嫌な感じがしていた。
朝がきて、ざっと窓のカーテンが開いて、日光がみらいの顔に容赦なく射しこんでくる。
「うんん……」
みらいがクモ―布団をかぶって日差しをガードすると、リコが容赦なく布団を引きはがした。
「みらい朝よ、起きなさい!」
「休みなんだからもう少し寝かせて……」
「みらい、起きるモフ」
今度はモフルンが体を揺らしてくる。
「みらい、大変よ! 敵がきたわ!」
「え、うそっ!? どこ、どこに!?」
跳び起きるみらいを、リコが両手を腰に置いて見つめていた。
「そうなっても慌てないように、みんなでそろって早起きするって約束したでしょう」
「ああ、そうでした……」
みらいは起き出して魔法学校の制服に着替えると、しばらく鏡の前でつんつん出ている寝癖と格闘していた。
「校長先生、どうなされたのですか?」
「なんじゃこの暗雲は? わしは未だかつて魔法界でこのような曇り空は見たことがない」
校長先生とリズが校舎の間をつなぐ渡り廊下から急激に黒く染め上げられた天空を見上げていた。
「確かに魔法界でこんな曇り空は珍しいですけれど……」
「ただの曇り空というものではなさそうだ。嫌な気配がする……」
まるで生き物のように動く厚い暗雲が、魔法学校に迫るように低く垂れこめていた。
曇りで薄暗くなっている校庭を四人の少女たちが歩いていく。
「まったく! あんたのせいで朝食が遅くなったじゃない!」
先頭を歩く小百合がラナの腕を半ば強引に引っ張っていく。
「眠いれぇす……」
「いい加減に目を覚ましなさいね!」
「まだ半分寝てるし……」
リコが呆れ顔になる。一番最後に起きたラナは、半分目を閉じた状態で小百合に引っ張られていた。
「それにしても、嫌な空だね……」
「さっきまで晴れてたのに」
みらいが立ち止まって見上げると、リコも同じようにして言った。
「魔法界でこんな曇り空は見たことがないわ……」
「……」黙して見上げる小百合の脳裏にはフレイアの姿が浮かんだ。
「お腹すいた~、はやくいこ~」
「あんたは……さっきは眠いって、まともに歩いてなかったくせに!」
空気も読まず、ころころと様子が変わるラナに、小百合は毎度のように呆れる。しかし、ラナの破天荒な行動や言動は、暗くなっている他の友達を明るい気持ちにしてくれた。
少女たちが食堂に近づいて小百合が扉に手を伸ばすと、扉の方が先に開いてフェンリルが出てきた。その足元には浅黒い顔の幼い少年がいて、フェンリルの不安そうに服をつかんでいた。
「お姉ちゃん?」
フェンリルは黙って暗雲を見上げていた。その様子から、少女たちは何か普通ではないと感じ始める。
「どうしたの?」
リコが聞くと、フェンリルのオッドアイが曇り空から少女たちに向けられた。
「朝飯なんて食ってる暇はなさそうだぞ。何かくる!」