僕の彼女は曜ちゃんです⚠再編集中 詳しくはあらすじへ 作:ゆうきoog3
屋上での練習が終わり、日もすっかり傾き始めていた。
みんなが帰り支度を始める中、俺はあることに気付く。
雄飛「……梨子?」
さっきまでいたはずの梨子の姿が見当たらない。
雄飛「千歌、梨子見なかったか?」
千歌「んー? さっき『ちょっと音楽室寄ってくる』って言ってたよ。」
雄飛「音楽室?」
嫌な予感がした。
俺は校舎へ戻り、静まり返った廊下を歩く。
夕日に染まる廊下には誰もいない。
聞こえてくるのは、自分の足音だけだった。
音楽室の前まで来ると、中からかすかにピアノの音が聞こえた。
コンコン。
軽くノックをする。
返事はない。
ゆっくり扉を開けると――。
夕日が差し込む音楽室で、梨子が一人ピアノに向かっていた。
鍵盤に指を置いては止め、また弾いては首を横に振る。
その横には、何枚もの五線譜。
書いては丸められた紙が床に転がっている。
雄飛「やっぱりここか。」
声を掛けると、梨子は肩を震わせた。
梨子「あっ……雄飛くん。」
雄飛「まだ帰ってなかったんだ。」
梨子「うん。」
そう笑うが、その笑顔には疲れが滲んでいた。
俺は床に落ちていた楽譜を拾う。
どれも途中で消しゴムをかけた跡だらけ。
何度も書き直したことが分かる。
雄飛「全部ボツ?」
梨子「……うん。」
梨子は少し恥ずかしそうに笑った。
梨子「何か違うの。」
梨子「頭の中では聞こえてるのに。」
梨子「形にすると、Aqoursらしくなくなっちゃう。」
そう言って、鍵盤を一音鳴らす。
澄んだ音が静かな音楽室に響いた。
梨子「ラブライブ本選だから。」
梨子「今までで一番いい曲にしたい。」
梨子「でも……。」
その「でも」の先が続かない。
俺は何も言わず、近くの椅子へ腰掛けた。
焦って励ますより、今は話を聞く方がいい。
そんな気がした。
しばらく沈黙が流れる。
やがて梨子がぽつりと呟いた。
梨子「みんな、すごく頑張ってるでしょ。」
雄飛「うん。」
梨子「だから私も応えたいの。」
梨子「この曲で、みんなを全国一のステージに立たせてあげたい。」
その言葉に、梨子の責任感がにじんでいた。
Aqoursの作曲担当。
それは誇りであり、同時に大きな重圧でもある。
梨子「でもね。」
梨子「もし、この曲がダメだったらって考えちゃうの。」
梨子は握っていた鉛筆を見つめる。
指には赤く跡が残り、中指には小さなペンダコまでできていた。
ここ数日、どれだけ楽譜と向き合ってきたのかが伝わってくる。
俺は小さく息を吐いた。
雄飛「梨子。」
梨子「え?」
雄飛「今日は終わり。」
梨子「でも……。」
雄飛「その状態で続けても、たぶん同じところをぐるぐる回るだけだ。」
梨子は何も言えず、視線を五線譜へ落とした。
雄飛「気分転換しよう。」
梨子「気分転換?」
雄飛「ああ。」
梨子「どこに行くの?」
雄飛「旅館。」
梨子「……旅館?」
不思議そうに首を傾げる梨子に、俺は少しだけ笑った。
雄飛「ちょっとだけ、違う世界を見せる。」
◇
十千万旅館の裏手に出ると、海からの風が一気に肌を撫でた。
夕方の潮の匂いが、少しだけ湿った空気に混ざっている。
波の音は遠く、一定のリズムで聞こえていた。
梨子「ここ……?」
梨子が小さく首を傾げる。
旅館の裏には、普段あまり人が来ない空間が広がっている。
物干し場の奥。
古い倉庫の横。
その一角に、ブルーシートが静かに被せられた車があった。
俺は何も言わず、そのシートに手を掛ける。
梨子「ちょっと、待って……。」
梨子の声が少しだけ緊張していた。
雄飛「大丈夫だ。」
そう言って、ゆっくりとシートを外す。
布が擦れる音が、やけに大きく響く。
そして――。
現れたのは、青いボディのRX-7だった。
夕日に照らされて、塗装がわずかに光を返す。
梨子は一瞬、言葉を失っていた。
梨子「……きれい。」
それだけだった。
近づくこともできず、少し距離を保ったまま車を見つめている。
梨子「これが……。」
雄飛「うん。」
梨子「雄飛くんのお父さんの……。」
雄飛「ああ。」
梨子「北海道で聖良さんが言ってた車?」
雄飛「そう。」
雄飛「この車に憧れて、聖良さんはあのGT-Rを作った。」
梨子はゆっくりとRX-7の周りを歩き始めた。
まるで美術館の展示物を見るみたいに、慎重だった。
梨子「触っても……いい?」
雄飛「汚れてるけどな。」
梨子「それでもいいの。」
少しだけ躊躇してから、梨子はそっと指先をボンネットに触れた。
梨子「冷たい……。」
雄飛「まだエンジンはかけてないからな。」
俺は工具箱を地面に置く。
金属がコツンと鳴った。
その音で、梨子が小さく肩を揺らす。
梨子「今日は……何をするの?」
雄飛「オイル交換と簡単な点検。」
梨子「お、おいる?」
雄飛「簡単に言うと、車の血みたいなもん。」
梨子「血……?」
雄飛「車のな。」
梨子は少し引いた顔をしたあと、苦笑した。
梨子「例えが怖いよ。」
雄飛「分かりやすいだろ。」
そう言うと、梨子も少しだけ笑った。
俺はボンネットのロックを外す。
カチャ、と乾いた音がして、ボンネットがゆっくり持ち上がる。
中から現れたのは、複雑に入り組んだ機械の塊だった。
ロータリーエンジン。
普段見慣れていない人間には、ただの金属の集合にしか見えないだろう。
梨子「うわ……。」
梨子の声が漏れる。
梨子「すごい……こんな風になってるんだ。」
雄飛「これがエンジン。」
梨子「これで動いてるの?」
雄飛「そう。」
梨子「信じられない……。」
俺は工具を一本手に取る。
レンチの重みが手に馴染む。
雄飛「俺も小さい頃はそうだった。」
梨子「え?」
雄飛「親父の横で、工具持ってるだけだった。」
梨子「雄飛くんにも、そういう頃があったんだ。」
雄飛「そりゃあるだろ。」
梨子が少し笑う。
その笑顔を見て、少しだけ安心した。
雄飛「まずは点検から。」
俺はオイルゲージを抜き、布で拭き取る。
梨子は興味深そうに覗き込んでいた。
雄飛「これはオイルの量と汚れを見るやつ。」
梨子「そんな細い棒で分かるの?」
雄飛「分かる。」
梨子「へぇ……。」
次に冷却水のリザーバータンクを見る。
ベルトの張り。
プラグ周り。
エアクリーナー。
一つずつ確認していくたび、梨子は小さく頷いていた。
梨子「ちょっと待って。」
雄飛「ん?」
梨子は鞄から小さなメモ帳を取り出した。
雄飛「メモするのか?」
梨子「だって、知らない世界だから。」
雄飛「勉強熱心だな。」
梨子「音楽もそうだけど、知らないことって、ちゃんと見てみると面白いね。」
その言葉に、俺は少しだけ笑った。
雄飛「じゃあ、手伝ってもらうか。」
梨子「え?」
雄飛「見てるだけじゃ分からないこともある。」
梨子「わ、私にできるかな……。」
雄飛「できるところだけでいい。」
そう言って軍手を渡そうとして、俺はふと梨子の制服へ目を向けた。
雄飛「……その前に着替えた方がいいな。」
梨子「え?」
雄飛「制服のままだと汚れる。オイルとか付いたら落ちないぞ。」
梨子「あ……そっか。」
梨子は自分の袖を見下ろし、少し慌てたように鞄を抱え直した。
雄飛「千歌の体操服、借りられるか聞いてくる。」
梨子「えっ、でも悪いよ。」
雄飛「大丈夫。あいつなら絶対『いいよー!』って言う。」
数分後。
案の定、千歌は二つ返事で体操服を貸してくれた。
千歌「梨子ちゃん、整備するの!? すごい! ゆうくん、ちゃんと教えてあげてね!」
雄飛「分かってる。」
梨子「ありがとう、千歌ちゃん。」
千歌「いいよいいよ! 汚しても大丈夫だから!」
梨子「それは大丈夫じゃないと思うけど……。」
苦笑しながら、梨子は旅館の中へ戻っていった。
しばらくして戻ってきた梨子は、千歌の体操服に着替えていた。
普段の制服姿とは違って、少しだけ幼く見える。
梨子「……変じゃない?」
雄飛「いや、動きやすそうでいいと思う。」
梨子「そ、そう。」
梨子は少し照れたように髪を耳へかけた。
雄飛「じゃあ、改めて始めるか。」
梨子「うん。」
俺は軍手を渡す。
梨子はそれを受け取ると、少し困ったように手にはめた。
指先が余っている。
梨子「大きい……。」
雄飛「我慢しろ。」
梨子「もう少し可愛いのないの?」
雄飛「整備用に可愛いはいらない。」
梨子「それもそうね。」
そう言って笑う梨子の顔は、音楽室にいた時より少しだけ軽くなっていた。
俺は車体の下にオイル受けを置き、ドレンボルトにレンチをかける。
雄飛「ここ、少し固いから気を付けろ。」
梨子「うん。」
梨子が恐る恐るレンチを握る。
梨子「あれ……?」
力を入れているが、ボルトは動かない。
梨子「固い……。」
雄飛「貸して。」
俺は梨子の横にしゃがみ、同じレンチに手を添えた。
雄飛「力だけじゃない。」
梨子「え?」
雄飛「こう。体重を乗せる。」
梨子「体重……。」
二人で一緒にレンチを押す。
カンッ。
小さな音と共に、ボルトが緩んだ。
梨子「……!」
梨子「回った!」
子供みたいに嬉しそうな声だった。
その瞬間、黒いオイルがゆっくりと落ち始める。
梨子「わ……。」
雄飛「古いオイル。」
梨子「こんな色なんだ……。」
雄飛「汚れてるだろ。」
梨子「うん……ちょっと怖い。」
オイルが落ちる音が、ぽたり、ぽたりと静かに響く。
海の音と混ざって、不思議なリズムになっていた。
雄飛「汚れたままだと動きが悪くなる。」
梨子「うん。」
雄飛「無理して走ると壊れる。」
梨子は黙ってその言葉を聞いていた。
俺はオイルの落ちる様子を見ながら続ける。
雄飛「人も同じだと思うけどな。」
梨子「人……?」
雄飛「無理して溜め込むと、どっかで止まる。」
雄飛「でも、ちゃんと抜けば、また動ける。」
梨子は何も言わなかった。
けれど、その表情が少しだけ揺れたのは分かった。
梨子「……私、溜め込んでたかも。」
雄飛「曲のこと?」
梨子「うん。」
梨子「全部完璧にしなきゃって、ずっと考えてた。」
雄飛「本選だからな⋯。俺にできることはないし、梨子に頼り切ってる部分はあるから、力になれなくて、ごめん。」
梨子「いやいや、そんな謝らないでよ。作曲の担当は私よ、これくらい任せてよ、」
雄飛「いつもありがとうな」
風が吹く。
オイルが抜けるのを待つ間、俺たちは並んでRX-7の前に腰を下ろした。
夕日がゆっくりと海へ沈み始めている。
潮風が二人の間を優しく吹き抜け、どこからかカモメの鳴き声が聞こえてきた。
しばらく、どちらも何も話さなかった。
不思議と気まずさはない。
静かな時間なのに、どこか心地良かった。
梨子「……ねぇ。」
雄飛「ん?」
梨子「こうやってゆうくんと二人で話すの、久しぶりかも。」
雄飛「そうか?」
梨子「うん。」
梨子は少し笑って、海の方へ目を向けた。
梨子「本選まで時間もあんまりないし、みんな一緒にいることが多かったから。」
雄飛「確かにな。」
雄飛は工具を布で拭きながら頷く。
雄飛「でも、こういう時間もたまには悪くないだろ。」
梨子「……うん。」
その一言だけで、胸の奥が少しだけ温かくなった。
北海道から帰ってきてから、ゆうくんはずっとみんなを支えていた。
千歌ちゃんの背中を押し、曜ちゃんの体調を気に掛け、一年生や三年生の様子まで細かく見ている。
誰か一人だけを特別扱いすることはない。
だからこそ。
今日、自分のためだけに時間を使ってくれていることが嬉しかった。
雄飛「どうした?」
梨子「あ、ううん。」
慌てて首を振る。
危なかった。
ぼんやり見つめすぎていたらしい。
雄飛は特に気にした様子もなく、工具箱の中を整理し始める。
その横顔を見ていると、自然と笑みがこぼれた。
真剣な表情。
工具を扱う慣れた手つき。
お父さんから教わってきたんだろうな、と分かる無駄のない動き。
ステージでみんなを支えている時とは、また違うゆうくんだった。
梨子(……かっこいいな。)
心の中でそっと呟く。
その瞬間、自分で自分の頬が少し熱くなるのが分かった。
梨子(もう……。)
梨子(また好きになってる。)
この想いに気付いてから、なるべく考えないようにしてきた。
曜ちゃんは大切な親友。
二人が恋人同士なのも知っている。
応援したい気持ちだって、本物だ。
それでも。
こうして隣で笑ってくれるだけで嬉しくなってしまう。
自分のために時間を作ってくれるだけで、胸が高鳴ってしまう。
その気持ちは、どうしても消えてくれなかった。
雄飛「梨子。」
不意に名前を呼ばれ、肩がぴくっと震える。
梨子「は、はい!」
雄飛「ぼーっとしてる。」
梨子「あっ……ご、ごめん。」
雄飛「疲れてるなら無理するなよ。」
その言葉と同時に、雄飛はペットボトルのお茶を一本差し出した。
さっき旅館の自動販売機で買ってきたものだ。
雄飛「少し休憩。」
梨子「……ありがとう。」
ペットボトルを受け取る時、ほんの少しだけ指先が触れ合う。
たったそれだけなのに、胸がどきりと鳴った。
雄飛は何も気にしていない。
でも梨子は違った。
慌ててお茶を一口飲み、気持ちを落ち着かせる。
冷たいお茶が喉を通る。
それでも胸の鼓動だけは、なかなか静まらなかった。
梨子はそっと雄飛の横顔を見つめる。
夕日に照らされたその横顔は、とても穏やかだった。
梨子(……この時間が、ずっと続けばいいのにな。)
もちろん、そんなことは口にはできない。
だからせめて。
この夕暮れと、この青いRX-7と、この静かな時間だけは、心の中に大切な思い出としてしまっておこう。
そう、静かに決めた。
しばらくの沈黙のあと
雄飛は新しいオイル缶を手に取った。
雄飛「完璧なんて、最初から無いだろ。」
梨子「え?」
雄飛「車も曲も。」
雄飛「走って、ズレて、直して。」
雄飛「それの繰り返しだ。」
梨子はじっと俺を見る。
雄飛はオイルを注ぎ始めた。
とろりとした新しいオイルが、ゆっくりとエンジンへ流れていく。
雄飛「全部書き直そうとするから苦しくなる。」
雄飛「直すのは、壊れてるところだけでいい。」
梨子「……。」
梨子の目が少し開く。
その瞬間。
今まで何時間も考えていたことが、一気に繋がったようだった。
梨子「……あ。」
雄飛「思いついた?」
梨子「うん。」
梨子「サビのメロディ。」
雄飛「え?」
梨子「今、頭の中で聞こえた。」
梨子は慌てて鞄からメモ帳を取り出し、何かを書き始める。
さっきまでの迷いが嘘みたいだった。
鉛筆が紙の上を走る音が、夕暮れの裏庭に響く。
その音を聞いていると、俺まで少し安心した。
やがて梨子は顔を上げた。
梨子「……できそう。」
雄飛「それなら良かった。」
俺はオイルキャップを閉め、最後にエンジンルームを確認する。
雄飛「じゃあ、最後にエンジンかけるぞ。」
梨子「大丈夫かな……。」
雄飛「大丈夫だ。」
キーを回す。
一瞬の間。
そして――。
ヴォン、と低く力強い音が裏庭に響いた。
静かな海の音を切り裂くように、ロータリーエンジンが息を吹き返す。
梨子は目を見開いたまま、その音を聞いていた。
梨子「……生きてるみたい。」
ぽつりと漏れた声。
俺はその横顔を見ながら、小さく息を吐いた。
雄飛「ちゃんと手をかければ、こうなる。」
梨子「……うん。」
梨子はゆっくりと笑った。
さっきまで固まっていた表情が、少しずつほどけていく。
梨子「ゆうくん。」
雄飛「ん?」
梨子「ありがとう。」
梨子「今日は、曲じゃなくて……私を直してくれたみたい。」
雄飛「そんな大げさな。」
照れくさくなって視線を逸らす。
すると、梨子は小さく笑った。
梨子「ふふっ。でも、本当だよ。」
梨子「きっと、この曲は今までで一番いい曲になる。」
その言葉は、音楽室で聞いた時よりずっと力強かった。
夕日に照らされたRX-7。
青いボディに、梨子の柔らかな笑顔が映っている。
北海道で始まった物語は、今度は沼津で、新しい音へと繋がっていく。
そんな気がした。
⋯
放課後。
部室を出る頃には、空はすっかり夕焼け色に染まっていた。
屋上から見えていた駿河湾も、夕日に照らされて黄金色に輝いている。
千歌「じゃあ、また明日ね!」
曜「お疲れさま!ゆうくん、また明日ね!」
部員たちがそれぞれ帰路につく。
曜は千歌と一緒に衣装の買い出しに商店街へ寄る約束をしていたらしく、大きく手を振って校門を出ていった。
俺はその姿を見送ると、隣に立つ梨子へ目を向ける。
雄飛「行くか。」
梨子「……あの、さ。」
少しだけ視線を逸らしながら、指先をもじもじと動かす。
梨子「今日も……手伝ってもいい?」
遠慮がちにそう言って、そっとこちらを見る。
雄飛「もちろん。」
梨子「……うん。」
梨子はほっとしたように、小さく頷いた。
◇
十千万旅館。
営業が始まる前の裏庭は、昼間の賑やかさが嘘のように静かだった。
潮風が木々を揺らし、遠くから波の音が聞こえてくる。
旅館の裏手に建つ小さなガレージ。
俺はシャッターを開ける。
ガラガラ……。
金属音とともに、夕日がゆっくりと中へ差し込んだ。
その光に照らされる一台のスポーツカー。
深い青色のボディ。
低く構えた車高。
丸みを帯びた流麗なフォルム。
父さんの愛車。
RX-7 FD3S。
北海道で聖良さんが憧れた車でもある。
梨子はその姿を見るたび、小さく息を呑む。
梨子「やっぱり……綺麗。」
初めて見た時と同じ言葉だった。
俺は笑いながらボディへ手を添える。
雄飛「親父が聞いたら喜ぶな。」
梨子「本当に大事にしてるんだね。」
雄飛「ああ。」
雄飛「乗らなくても、定期的に動かしてやらないと車は機嫌を損ねるから。」
ボンネットを軽く叩く。
雄飛「な?」
もちろん返事はない。
だけど、不思議とこの車はちゃんと聞いてくれている気がする。
梨子はくすっと笑った。
梨子「ゆうくんって、車と話すんだ。」
雄飛「親父の真似。」
梨子「ふふっ。」
その笑い方が少しだけ柔らかくなっていた。
今日は整備というほど大掛かりなことはしない。
エンジンルームを軽く点検し、動かすために必要な部品リストを作る作業。
そのあと――。
雄飛「よし。」
俺はホースを手に取った。
雄飛「今日は洗うか。」
梨子「洗車?」
雄飛「うん。」
雄飛「海の近くだから塩が付きやすいんだ。」
蛇口をひねる。
勢いよく飛び出した水が夕日に照らされ、細かな粒となってきらきらと輝いた。
雄飛「梨子。」
梨子「はい。」
雄飛「スポンジお願い。」
梨子「了解。」
もう慣れた手つきだった。
最初はぎこちなかった梨子も、今ではスポンジへシャンプーを含ませるのがずいぶん上手くなっている。
泡立ったスポンジをボンネットへ滑らせる。
梨子「わぁ……。」
梨子「気持ちいい。」
雄飛「車が?」
梨子「違う違う!」
梨子は笑いながら首を振る。
梨子「泡が。」
雄飛「なんだ。」
梨子「もう。」
二人で笑う。
ガレージには、そんな穏やかな笑い声だけが響いていた。
梨子「そういえば。」
梨子がスポンジを動かしながら口を開く。
梨子「最初の日のこと覚えてる?」
雄飛「最初?」
梨子「うん。」
梨子「工具の持ち方も分からなくて。」
雄飛「ああ。」
思い出した。
レンチを逆向きに持って、「回らない……」と首を傾げていた梨子。
俺が横から手を添えて教えたら、嬉しそうに笑っていた。
梨子「あれからまだ2週間も経ってないのに。」
雄飛「ずいぶん慣れたな。」
梨子「えへへ。」
少し照れたように笑う。
梨子「先生がいいから。」
雄飛「先生?」
梨子「雄飛先生。」
雄飛「やめろ。」
梨子「ふふっ。」
また笑う。
その笑顔を見ると、音楽室で苦しそうに楽譜と向き合っていた梨子とはまるで別人だった。
ホースで泡を流す。
青いボディが夕日に照らされて、ゆっくりと姿を現していく。
梨子「綺麗……。」
梨子が思わず呟く。
水滴をまとったFDは、まるで海から上がってきた魚のように艶やかだった。
梨子「これがロータリーかぁ……。」
雄飛「まだエンジン見ても分からない?」
梨子「うん。」
梨子「でも。」
梨子「少しずつ分かるようになってきた。」
雄飛「それだけで十分。」
俺はクロスを渡す。
雄飛「拭き上げよう。」
梨子「はい。」
二人並んでボディを拭いていく。
ルーフ。
フェンダー。
ドア。
リアスポイラー。
水滴を丁寧に拭き取るたび、青い塗装が鏡のように夕焼けを映していく。
梨子「ねぇ。」
雄飛「ん?」
梨子「私。」
梨子はクロスを動かしたまま、小さく笑った。
梨子「最近、この時間好きなんだ。」
雄飛「そうか?」
梨子「うん。」
梨子「学校とは全然違う時間が流れてる感じ。」
梨子「ここへ来ると、頭の中が一回空っぽになるの。」
梨子「曲のことも。」
梨子「本選のことも。」
梨子「全部忘れて。」
梨子「また明日頑張ろうって思える。」
俺は少しだけ嬉しくなった。
雄飛「なら良かった。」
雄飛「気分転換になってるなら。」
梨子は一瞬だけ手を止める。
夕日に照らされた横顔は、とても穏やかだった。
梨子「ありがとう。」
梨子「ゆうくん。」
その一言は波の音に溶けるほど小さかった。
俺は気付かないまま、「どういたしまして」と笑って返す。
梨子も笑う。
この時間だけは。
スクールアイドルでも。
作曲担当でもない。
ただの高校生として過ごせる。
そんな、二人だけの静かな放課後だった。
それからというもの。
梨子は時間ができると、自然と旅館のガレージへ顔を出すようになった。
梨子「今日も手伝っていい?」
それが、いつの間にか二人の合言葉になっていた。
そして――。
練習も、少しずつ形になっていった。
最初はバラバラだった振り付けも、何度も繰り返すうちに揃い始める。
歌も、息が合うようになってきた。
千歌「もう一回いくよ!」
曜「オッケー!」
ダンスの動きが揃うたび、みんなの表情が少しずつ変わっていく。
迷いが消えていくのが分かる。
梨子も、あの日から曲に迷うことはなくなった。
音楽室にこもる時間は減ったけど、その分、一つ一つの音に迷いがない。
梨子「ここ、もう少しだけ強くしたいかな。」
千歌「いいね、それ!」
曜「サビ、もっと盛り上がりそう!」
意見を出し合いながら、曲も完成へと近づいていく。
気付けば、本選まであと一週間をきった。
放課後の練習時間は、いつの間にか日が沈むまで続くようになっていた。
夕焼けから夜へ。
校庭に灯る照明の下で、何度も何度も同じ曲を繰り返す。
息が上がる。
足が重くなる。
それでも誰も止まらない。
千歌「まだいけるよね!」
曜「もちろん!」
梨子「うん……!」
その声に、迷いはなかった。
そして――。
本選前、最後の通し練習。
音楽が流れる。
誰も言葉を発さない。
ただ、今まで積み重ねてきたものを、全部ぶつける。
ステップ。
ターン。
フォーメーション。
一つもズレない。
歌声も、ぴたりと重なる。
最後のポーズを決めた瞬間。
静寂が訪れる。
誰も動かない。
やがて――。
千歌「……できた。」
その一言で、全員の緊張がほどけた。
曜「今の……すごかった。」
梨子「うん……。」
息を整えながら、梨子が小さく笑う。
その表情には、もう迷いはなかった。
本選は、もうすぐそこまで来ていた。