暗い海の果て ―Er schläft im Weltraum― 作:七水らむね
おはよう、みんなの箱舟。
『…………きて』
遠くから聞こえてくる声。
『……きて、…………』
聞き覚えのある、可愛らしい声。
『起きて…………』
この声は――
『修くん!』
「……ッ!!」
上半身を勢いよく起こす。
今の声は千佳。千佳の声だ。
「え……」
しかし、辺りをキョロキョロ見回しても千佳の姿は無い。あるのは薄暗い空間と、鈍色の壁。
ここはどこだろう。
自分が今まで寝ていたベッドから下りれば、床に落ちていたガラス片がジャリ、と音を立てた。
歩こうとしたが、筋肉が引き攣ったような感覚につられて床に膝をついてしまう。
「いてて」
立ち上がろうともがくが更に力が抜ける。
これはどうしようか、と頭を抱えそうになったその時。
「あれ」
視界の隅に、見覚えのある物が五つ。
「これは…………トリガー?」
修がさっきまで寝ていた枕元に、五つのトリガー(と、メガネ)が寄り添うように置かれていた。
どうしてこんな所にあるのか疑問に思ったが、誰かの物であれば今すぐ返さないといけないと思い、全てのトリガー(と、メガネ)を持つ。
「とりあえず今は……立てるようにならなきゃ」
前途多難とはこの事を言うのだな、と場所も知らない小さな部屋で修は一人呟いた。
***
立つ事に苦戦する事五分、更に普通に歩けるようになるまでおよそ二十分。
生まれたての子鹿のような動きから復活した修は、自身の眠っていた部屋を出て辺りを探索していた。
薄暗い廊下を進み、上へと進む階段を昇る。
「あっ」
階段を昇っている途中、カシャリ、と軽い音を立てメガネが落ちる。
慌てて落ちたメガネを拾う。自分のメガネとは違う赤いフレームのそのメガネは、どこかで見た記憶があった。
「……これ、もしかして宇佐美先輩のメガネじゃ……?」
さっきは暗い部屋だったから分かりづらかったけど、これは多分宇佐美先輩のメガネだ。
どうしてあんな所に置いてあったのだろう。早く返さなくては。
「宇佐美先輩ー? どこですか?」
控えめな声で先輩の名前を呼ぶ。
声は響いて反響する。しかし返事は返ってこない。
扉の前に立つと、ガラス製の扉にバイオハザードマークが光り、自動でドアが開いた。それと同時に涼しい風が流れ込んでくる。
その部屋は何かの研究室のようで、至る所にシャーレやら試験管やらの実験器具が置かれている。だがそのどれもがホコリを被っていた。
「宇佐美先ぱ……」
そう言いかけて、止まる。
視線の先に、通路を遮るようにして水色の首輪を付けた子猫が寝転んでいたからだ。
キャラメル色をした子猫は欠伸をした後こちらをじっと見詰めて、ぴゃう、と一回鳴く。
真っ直ぐな瞳と目が合い――って危ない危ない。このままだとこっちが心臓を撃ち抜かれてしまう。
「か、可愛い」
ゆっくり子猫へと近付き、頭を撫でようとすると――――
「何かお困りですか?」
「うわ!?」
――子猫が喋った。
………………喋った!?
「私の名前はハッブル。以後お見知りおきを」
しかも丁寧な口調だ……
「ね、ねねね、猫が喋っ…………」
驚きのあまりその場で腰を抜かしてしまう。
猫も、ぼくが腰を抜かした事に驚いたのか、目に見えてあわあわとし始める。
「驚かせてしまい申し訳ございません。私の正式名称は”人間支援型人工知能 E-235”と申します」
こちらをじっと見てくる子猫。
「……さ、触れる?」
「ホログラムなので触れません」
きっぱりと断られてしまった。まあいいや。
「じゃあハッブル……、ここはどこ?」
静かな空間に声だけが響く。
子猫――もといハッブルは可愛らしい声で小さく
「ここは、宇宙船の中です」
――と言った。
(うちゅ……え?)
何だって?
あまりにも突然言われたその言葉に呆然とする。
「宇宙船って……?」
「そのままの意味ですよ。ここは、宇宙船の中です」
ぐら、と視界が回り、思わず手に持っていたトリガーとメガネを近くのテーブルに置いてそのままくずおれた。
……いや、ちょっと待て。
現実離れした出来事の連発に驚きっぱなしだけど、そんな非現実的な話、普通は信じないはずだ。
慌てて自分が先程入ってきたガラス製のドアへ向かうが、さっきは開いたはずのドアが今度はビクともしない。
『地下の解除にはレベル五のカードキーが必要です』
突如機械的な声で話し始めたハッブルは、その身体にノイズを走らせる。
「でもぼくはさっきこの下から……」
『地下の解除にはレベル五のカードキーが必要です』
「…………」
これは多分何を言っても無駄なのだろう。
とりあえずドアから離れ、機械的な事しか話さなくなったハッブルを元に戻す。
「ここは研究室となりますが、今は使われてないのでホコリが溜まってますね」
テーブルにも椅子にも実験器具にもうっすらと積もったホコリ。
確かにここはちょっと体に悪そうだな……
「上のフロアは掃除ロボットが動いてますので……そちらに行きましょう」
薄暗い研究室を突っ切って通って来た道の真反対にある階段を昇れば、そこには狭いながらも、ベッドとスチール製のテーブルと椅子とラックが置いてある部屋があった。
「ここは休憩室となります」
この部屋も静かで、僅かにモーター音が聞こえる程度だ。
「休憩室は名前の通り研究の合間に休む場所です」
テーブルの上にはタブレット端末がひとつ。
「そしてここが……メインの操縦室です」
研究室や休憩室とは打って変わって、高い天井と無数の薄いガラスで出来たモニター、壁には金庫扉に似た厳重で頑丈そうな扉。モニターの奥には大きなガラス窓があった。
大きなガラスの窓には、一面に暗く深い海の底のような世界が広がっている。
ただ、一つだけ海の底と違う部分を挙げるとするならば、色んな色の輝きを放つ
まるでSFの世界。
辺りを見回した後、よろよろと覚束無い足取りで扉に向かって歩く。
「こんなタチの悪いドッキリを仕掛けるのは止めてくれ」
「……? 何をされているのです?」
「出口を探してるんだよ。家に帰る」
扉に付けられた『四桁のパスワードを入力してください』と書かれたタッチパネルをがむしゃらに押すが、四桁のパスワードがノーヒントで分かる訳も無く。
何回も何回もビープ音が虚しく響くだけだった。
「現在、地球との距離はおよそ450光年」後ろからハッブルの声が響く。
「そもそも、外は宇宙空間です。家に帰る以前に窒息して死んでしまいますよ」
冷静にそう言うハッブルに対してぼくは、真っ青な顔をして後ろを振り返り一言だけ問う。
「まさか……本当に宇宙船の中……?」
「だからさっきからそう言ってるじゃないですか」
うふふと笑うハッブルに、ぼくは今度こそ本当にその場にへたり込んだ。
そんな、まさか。
ぶつぶつとうわ言のように呟く修に対し、ハッブルは再び冷静な声で更に衝撃的な事を言った。
「三雲修さま」
「あなたには、今から《第二の地球》を探して頂きたいのです」