天体観測してたら原始の女神に捕捉されたショタの話。 作:いしゅキチ
立香の弟、翔太に防犯アラームを持たせるようになったのは、幼稚園の年長組に入った頃。
――お友達の姉に拉致監禁されかかった時である。
当時、立香は横抱きにされた弟が華麗に拉致されていくのを茫然と見守ってしまった。理解出来ない事が起きると咄嗟に行動出来ないんだな、とぼんやりと感じたのは今でも忘れられない。
秒で捕縛された犯人は『私の弟の気がした』『なんか手元に置いておきたかった』と供述し――わかる、と頷いてしまった立香の頭を母が小突いてきたのも忘れる事は出来ないだろう。
それから弟は他人に対して、少し警戒するようになり――そのせいで余計やべー奴を引き寄せる結果になったが――兄として、立香は安心していたのだ。気を許した相手にはヒマワリみたいな満面の笑みを浮かべて、ひょこひょこアヒルの子になってしまう翔太が危ない目に遭う事が少なくなったから。
でも……でもさぁ……!
――まさかこんなトンデモ存在を引っ張ってくるなんて、にいちゃん思わなかったなぁ……!!
………
……
…
立香の意識は、宇宙の彼方という大海原を漕ぎ出し掛けていた。
出港したら絶対に正気に戻ってはこられない類である事は理性が分かっているので、何とか堪えている体ではあるが――何の脈絡無く変な事を思い出すほどには、立香は現実を直視する事を拒否していた。
全身に感じるおぞましいまでの倦怠感。手先にまで伝わる緊張の痺れ。それら全てこれまでの戦いで培った気合いで強引に捻じ伏せ、前を見る。
「えへへ……えへへへ……――むっ」
「あら、どうしたのショウ」
「おにいちゃん!おにいちゃんに会うためにここまで来たんだよ!」
「……そう。優しい子には私の神殿に永住出来る権利をあげ――」
「あっ、いらない。ベル・マアンナさーん!おにいちゃんの近くに降ろしてっ!」
『………』「………」
「……ねぇ、アシュリーさま?なんでマアンナさん、ハリウッドのピカチュウみたいに顔クシャクシャにしてるの?」
「どうしてなのかしらね。……気持ちは分かるが、女神の威厳をだな貴様……」
『………』
「はっ?私はしてないが?言い掛かりは止めて欲しいのだが?」
とてん、と巨大な女神の手から地面に降りた弟。その姿はまぎれもなく、見間違えでは毛頭無く、心底本当に――立香の弟、翔太だった。あの笑顔は一年間の戦いの中でも決して摩耗する事は無かった、光だった。
――頭を抱えたくなった。てか、抱えた。
のたうち廻りたくなる疑問が脳内をグルグルしている。
何故異邦の女神によって理不尽に蹂躙されたのか。なんで最愛の弟がこんなところに、しかも女神の側にいるのか。浮かぶ疑問はたった二つだけなのに、それだけで立香の頭はキャパオーバーになっていた。
助けを求めるように隣に居るマシュに目を向けるが「えっ……先輩の弟さんが……えっ……えっ……?」と目をグルグルさせて混乱している。駄目だ助けにするにはか弱過ぎる。かわいい、すき。
「それにしても、やっぱりショウの家族とは思えないわ。危ないから近寄らないようにしましょう?」
「いや、絶対おにいちゃんだって!」
「――おにいちゃんおにいちゃん詐欺よ」
「おにいちゃんおにいちゃん詐欺!?」
「肉親を騙るなんてとんだ外道ね。私の銀河なら先祖まで遡って存在抹消します。いや、するわ。今これから」
「えっと……?」
「平たく言えば死刑」
「ざいけいがおもいっ!ぜったいやめてよっ!?」
ともかく、落ち付くんだ。びーくーるびーくーる。一瞬、女神の手の平に触れれば即死しそうなブラックホールが形成されたのを見て肝を冷やしている場合ではない。冷やすべきは意識である。
意識を整える為、立香はここまでの道筋を辿る事にした。そうすれば、疑問の答えが見えてくるはずである。
混乱したら、一回立ち止まり、深呼吸をしながら現状把握に努める――というのが、フィールドワークで教わった英霊達の知恵袋である。
――――――
地球を救う為の最終決戦の場。
通常の時間軸から切り離され、今や“星の意思”に喰い込んでいる時間神殿。
人類全てを掛けた戦いは――異邦の女神によって台無しにされた。
各々の抱いた意志など塵屑のように蹂躙され、何の理由を以て攻撃されたのすら分からず――滅ぼされる、天災の如き理不尽。
しかし、それを止めたのは――救いたかった自分の弟。
そしてなんかイチャイチャしはじめた。
――――――
(――わかるかぁ!)
落ちつきかけた意識はメダパニの重ねがけにあった。発狂とは、半端に現状を理解してしまう事で起きてしまうのである。
そういえば、バビロニアに出てきたラフムってニフラム効きそうだよね――益体の無いクソどうでもいい事ばかり、知恵袋の結果として出てくる。
立香は頭を抱えながら――さらに頭を抱えたくなった。
「なにしてんだよ、翔ぉ……」
人理焼却はどうなったの、とか。そもそもどこでそんなヤバいのと知り合った、とか。自分が居ない間に何が起きたの、とか。
二つの疑問がねずみ算方式で疑問で疑問を生み……やがて視界の端に在る赤い宇宙を泳いだらどんなに気持ちが良い事だろうなぁ、と現実逃避を始めた頃――
「――おにいちゃんっ!」
ふと、話の水を掛けられて、立香は頭を上げる。すぐに弟と目が合った。
こちらに見つめてくる翔太のキラキラした瞳には、米粒ほどの曇りも疑いも無い。
――この人は絶対に兄であるという確信に満ちていた。
「……っ」
ふと、声に出せないほど熱い気持ちが胸から溢れてくる。
弟の知っている兄は――今、この場に居ない。居るのは、“一年間戦い続けた立香”なのだ。
……気付いてくれるとは思っていた。だけどそれは、知らない人を見て怯える弟を見てからと思っていたのだ。
「……翔……!」
その時だけ、全ての疲労を立香は忘れた。
立ち上がり、ふらつくような足取りで近づきながら、手を伸ばす。
端から見れば不審者に見えるような足取りでも、翔太は満面の笑みで駆け出して来てくれた。
「おっ、にいっ、ちゃぁぁ――!」
近づいてくる小さな弟――立香の、大切な家族。ただの青年を、救世者足り得るまでにした小さな笑顔。
――報われた。喜びも楽しさもあったけどそれでも苦しみが勝った一年間が、報われたのだ。
……理性が「いや、結局何も終わってないけど……大丈夫?」とかなんとか言ってるのを蹴っ飛ばして、腕の中に迎え入れる――
――こつんっ。
小さな音。弟が、蹴躓いた音。
「へべぇあ!?」
――ぐしゃっ。
軽く宙に浮いた後、身体前面が地面に倒れた。
ただでさえ、弟と女神の声しか聞こえてなかった時間神殿に無音が広がった。
数瞬すると――弟の身体がブルブルと震え始めた。姿勢そのままで顔だけが此方を向く――真顔が直ぐにくしゃりと歪んで、
「お゛に゛い゛ち゛ゃあ゛あ゛……!!」
助けを求める顔も泣き声も何もかも――前に戻ったみたいで。
立香は頬に何かが伝ったのを感じた。熱いものが。
「……っ。ったく、危なっかしいなぁほんとに」
――歯を食い縛って湧き出るそれを押し留める。
兄は、弟を守るもの。であれば弱いところを見せない、見せたくないのだ。
よたよたと翔太の前に近づき、跪くと背中をトントンと叩く。
「ほら、立てるか?痛いとこあるか?」
「ひぐっ……おにいちゃんの前ですっころんだ心がはずかしいたい……」
「なら大丈夫だ。そらっ――」
疲労で震える腕を堪えて、小さな弟を持ち上げて立たせる。
派手に転んだにしては怪我が無く、胸元で光る地球のような星のペンダントが目に付いた。
ひくひく、と愚図る翔太の肩に手を置く。
手の平から伝わってくる体温が、遅ればせながら、立香に実感を与えてきた。
「本当に翔、なんだよな」
「……そうだよ。おにいちゃんはおにいちゃんだね。サーフィンでも始めた……?」
「ああ、世界をサーフィンしてきた。そういう翔は変わってないな」
「……?うん」
長いようで短い時間の果てに。
立香は静かに翔太を抱き寄せる。記憶よりも小さく感じる弟の温もりはすっぽり腕の中に収まった。
ぽかん、と翔太は立香を見上げていると――大粒の涙が零れ出した。
「おにぃ、ちゃん……!」
「おう」
「おにいちゃんおにいちゃんおにいちゃん……!」
「ああ、お前のにいちゃんだぞ。翔太」
「――うわぁぁぁぁぁん!!おにぃぃちゃぁぁん……!!」
泣きじゃくる弟の背中を撫でる。
しょうがないと呆れながらも、当然か――と立香は思った。
――
むしろ泣き虫でさびしがり屋な弟が、発見と同時に巨大な女神から飛び降りて来なかっただけでも褒めてやりたいくらいだった。
一年の間に、少しだけ成長したのかもしれない――と、立香は思った。
そう考えると、どういう理由か理屈か分からないが、人理焼却から弟を助けてくれた女神に対して――そこだけは――感謝した方がいいかと視線を上げて……素で後悔した。
「………」『………』
何の感情も籠ってない瞳で見つめてくる女神と目が合った。熱く昂っていた感動が、瞬間冷却の憂き目にあった。
アレは氷のような、とか。養豚場のブタを見る、とか。そんなのを遥かに超えた、表現も思いつかないほどの無機質な瞳だった。
「こわい」
「ん……?おにいちゃん?」
「ああ、なんでもないぞぉ、なんでも。うん」
立香は見なかった事にして、腕に収まる小さな弟の頭に顔を押し付ける。嗅ぎ慣れたシャンプーの香りと一緒に感じる視線の圧が強くなった。こわい。溶岩水泳部よりもこわい。
泣いていた翔太は一回、涙を拭くように強く立香の胸に顔を押し付けると――女神の方へ振り向いた。
女神の顔は瞬きの間にふんわりとした、女神らしい慈愛のある笑みになった。
「アシュリーさま!やっぱりおにいちゃんだったよ!」
「ええ、よかったわね。ショウ」
「うん!」
えへへー、と女神に笑いかけた翔太はまた立香の胸に顔を押し付ける。
――すん、と。女神の顔から表情が抜け落ちる。
無機質な瞳は「ショウを抱きしめてる分際でなに余所見してんだこの野郎てかこっちみんな死ねいや殺す絶対殺す貴様がショウの血縁とは絶対認めないぞああショウ早くこっちに来てこんなサーファーもどきなんかよりも私の方が柔らかいのにああショウこっち見てこっち向いてショウショウショウショウ――」と言っていた。
ていうか、たぶんテレパシー的なナニカでダイレクトに立香の脳内に突き刺さった。
途中から入ってきたヤベェ思考にも畏れ慄いた。
……後ろの方で小さく「ひぇ」とマシュが怯えた声が聞こえる。もしやこの場にいる全員にテレパシー的なのが広がったんじゃないだろうな。
ていうか、弟が見ていない時の表情切り替え器用過ぎるだろ、と突っ込む気も起きないほどの落差だった。エベレストからマリアナ海溝なみの落差。いや、地球基準では表現し切れないかもしれない。
藪を突いて女神を出す度胸は無く、見なかった事に出来るスルー力は一年間の中でもっとも役立ったと思う技能だった。
――『むっ……さっきの、おぞましい思考は……』
ふと、この戦いの元凶の声が聞こえた。
きゅっ――と弟を抱きしめる腕に力が強くなった。むむぅ……と苦しげな声を上げる弟はやけに嬉しげだった。
振り向くと、最早元は何があったのか分からない瓦礫の中から――ゲーティアが這い出てきた。木々が巻き付いたような肢体から漏れる魔神柱の戸惑いの声がやけに喧しい。
威厳に満ちた姿は最早無く、立香達と一緒に満身創痍だった。
マシュが近づこうとしているのを感じる。
満身創痍でもゲーティアは人間を遥かに超える力を持っている。同じ満身創痍でもゲーティアの方が有利なのは確かだった。
「――ああ、忘れていたな。おい、私。その屑を押さえろ」
……確かな、はずだったのだ。
巨大な女神が動き出す。姿形だけを見れば、何も持った事の無いようなたおやかな手は――むんずとゲーティアを掴み上げた。
抵抗をするように魔術を使おうとしているが、その前に霧散した。女神パワーだろうか。
『ぐっ……離せ!』
「――蛆風情が私の前でのたうつな。気色悪い」
女神は掴まれたゲーティアを少し見やると――無造作に頭を掴んで、力を入れた。
あっ――と、立香はこの後起きるであろう惨劇を何とは無しに察し、静かに弟の小さな耳を塞いだ。
『やっ、やめっ……!』
女神はそのまま――強引に首を引き千切った。
『ぎぃあ『ああああ『ぐあっ『あぎゃっ『ああああああ!!!!!!!!!!!』
響き渡る激痛への叫び。それは何重にも重なり、おぞましい連続。
怨敵の苦しみの声。それだけを思うならば、少しはすっとするものがあるかと思ったが――むしろ心にしこりが残るような感覚だけが残った。腕の中で、何が起きたか分からずきょとんとしている弟が癒しだった。
捻じ切れた生首が近くに放り投げられる。
絶妙に空気の抜けたボールのように中途半端に跳ねた後――それはグネグネと形を変えて、一つの人型を象り始めた。
蹲る成人男性。
ソロモンが在った国、中東方面に近い肌の濃い男。炎のように揺らめく髪と瞳。
立香にとって、どこか既視感のある顔立ちだったが、今はピンとくる事は無かった。
「ぐっ……このっ……!」
呟く声は聞き覚えがあった。
つまり、これはゲーティアなのだと立香は当たりを付けた。ソロモンの死骸を纏ってもおらず、“七十二柱の悪魔達”を束ねていない――真実、一つだけのゲーティア。
特に歯を噛み砕かんとばかりに苦虫を噛み潰したような表情は、立香の想うゲーティア像そのものだった。
女神は、声にならぬ声を上げるだけになった魔神王の残骸をそこらに投げ捨てる。ゲーティアを見つめる瞳は、立香を見ていた時よりは感情はあったが、道端で死にかけのセミを見る時よりはマシ程度の感情だった。
「さて――ショウ、おいで」
女神は立香の腕の中に収まっている弟を呼ぶ。
呼ばれた翔太は、少し……いやかなり名残惜しそうに顔を胸に押し付けてから離れる。とてて、と離れて行く温もりが、何故だがかなりずっしりと心に来るほど寂しかった。弟に気付かれないようにドヤ顔かましてくる女神にかなりイラっときた。
「なあに、アシュリーさま?」
「ショウ。コイツが犯人よ」
「むっ……わるいヤツ?」
「そう、わるいヤツよ」
「――この人が……おかあさん達を!」
翔太の怒りを立香は見た事はあまりない。
あるとすれば、夜は付き添いがいなければトイレに行けない事をちょっとからかって泣きながら怒ってきたくらいで可愛いものだった。
こんな――今にも噛みつかんとばかりに顔を赤くする弟は見た事が無かった。
そんな弟を見て、何故だが蕩けるような笑顔を浮かべた女神が軽く手を上げる。すると、空間が波紋のように揺らめき、そこから何某かが飛び出て来た。
ソレに、立香は見覚えがあった。それはまるで、ギルガメッシュ王の『
「――という訳で、はい」
「はい?」
お駄賃をあげるように簡単に、弟に手渡されたのは短剣だった。
子供が描く雷にも似た大きくギザギザした刃を持つソレに――立香は、また見覚えがあった。
ギリシャ神話の裏切りの魔女、コルキスの王女・メディアが持っている宝具『
「……アシュリーさま。すごいかっこいいけど、なあにこれ」
「私の宇宙に在る宝具の一つ。刃で傷つけた有象無象全てを分子レベルまで分解し、消滅させるモノよ。名付けて『
「……ええっと?うん?どゆこと?」
言ってる意味が分からなかったのか、首をこてんこてん、と二転三転させた翔太は――助けを求めるように立香を見る。
立香は震える身体を抑えるしかなかった。
女神の説明が正しければ――――
「しょっ、翔……それは斬ったやつを跡形も無く消して……その……絶対刃の部分に触るんじゃねぇぞっ……!!」
なんつうもんあげてんだあの女神!と視線を向ければ、翔太に気付かれないようにドヤ顔をしてきた。
いや、馬鹿じゃねぇのと素で思った。
「………」
「………?」
「………」
「……??ショウ?どうしたの?さぁ、一思いにその屑に向かってぐさっと」
「――ぴぇ……!?」
翔太は反射的に短剣から手を離す。
短剣は地面に落ちる――――事は無く、じゅっ……と何かが溶ける音を立てながら地面の中へと落ちて行った。誇張無しの性能だった。
「あっ……あっ!ごっ、ごめんなさいアシュリーさま!かっこいい剣が……!」
「いいのよ、大丈夫よショウ。アレなら後二、三本あるから」
「でっ、でも……!せっかくアシュリーさまが……!」
「……そうね。じゃあ、何でも一つだけ私の言う事を聞くって事にしましょう。軽いおしおきよ、それでおあいこ」
「……うん、わかった。ごめんね、アシュリーさま」
「頭下げなくてもいいわ。もう、
ほんとにいい子ね、ショウは」
「えっ、えへへ……そうかなぁ……」
そうだけど……ここでこんな生真面目にならなくていいんだぞ翔太。顔を上げてみろ、何もかも計画通りな女神のしたり顔が見えるぞ。あの女神『ショウなら絶対にこう言うだろう』って予測付けてやったぞ絶対。
――っと言いたかった立香だが、口を噤んだ。これがいつものカルデアの面々なら言うが、あの女神に軽口は死のビジョンしか見えない。
ていうか今更だが、ほんとやりたい放題だなこの女神。
「――ともかく。なにか言ってやりなさい。ショウを苦しめたんだもの。その程度許されるわ」
「えっ……えっと、馬鹿野郎……とか?」
「3点。もっとヒネりなさい。さっ――男の子なんだから、頑張りましょう?」
「うっ、うん、わかった!」
一歩、二歩と翔太がゲーティアに近づく。
その事に不安は無かった。何故ならカルデアとゲーティアを赤子の手を捻るように捻り潰した女神が側にいるから。不安という文字すら思い浮かばなくなる。
そう思うくらい――ゲーティアに対してガン垂れる女神が怖かった。
「……なんだ、茶番は終わりか?」
ゲーティアに抵抗の意思は見られなかった。
だが、屈辱的だという表情は隠そうともしておらず、口から漏れたのは侮蔑に塗れた嘲りだった。
それに少し仰け反った翔太だったが、一つ深呼吸すると――
「あっ、あなたがこんなことをした犯人ですか」
「……ああ、そうとも。人理を焼却し、新たな創世を築こうとした、魔神王ゲーティアである。まあ、貴様の女神に全てを台無しにされたがな。釈然とせん、納得できん。我らの偉大な計画が、別宇宙の存在に妨害されたなど屈辱の――」
「な、んで――」
「んん?」
「……なんで、そんなことをしたの?」
「……まあ、いいだろう。貴様を説き伏せる事が出来れば、かの女神も妨害を止めるか」
そうして語られたのは――立香も聞いた、ゲーティアの計画。
人理を焼却し、集めた人類の熱量を用いた世界そのものの時間逆行。
それによって、ゲーティアが“星の意思”に成り代わり、人類を再定義する。
苦しみの無い、定命の無い世界へと。
「………」
冷や水を掛けられた形の立香は、そんなゲーティアの説明を冷静に聞く事が出来た。
理解出来る、気持ちを否定出来なくなっていた。
確かに人類の歴史は間違いだらけだったかもしれない。過去に起きた戦争だって無ければ無い方がいいに決まってるし、立香が生きている平和な現在も――その平和は、夥しいほどの先人の死体によって築き上げられている。
それでもなお、仮初めに近い。
ゲーティアのソレが成されれば――きっと、確かに起き得る苦しみは無くなるのだろう。
だけど、
理屈はない。論破なんて出来ない。
ただそれでも――認められないと声高に立香は叫べる。冷静になっても、ゲーティアの理想は、立香には認められなかった。
「つまりだ――艱難辛苦の無い幸せの世界になる。今の苦しみは無くなる。そこに何の否があるのだ」
そんなゲーティアの問いに、欠伸を隠さない女神の前で聞いていた翔太は――小難しい事を何とか噛み砕こうとして、目を回していた。
開く口は、どう見ても頭の神経を通してない反射的なものだった。
「――そっ、そんなこともないもん!」
否定の言葉にゲーティアは鼻白んだ。
だが、その目は翔太を見定めるようにじっと見つめていた。
「お母さんは温かいし!お父さんは優しいし!ともだちはぁ……ちょっといじわるだけどっ!たのしいし!おにいちゃんはかっこいい!すてき!ずっといっしょにいたい!」
矢継ぎ早に叫ぶ言葉に理性は感じられなかった。思い浮かぶ言葉だけを言っていた。
……ちょっと他より特別扱いな感じなのが、立香は結構嬉しかった。ふと「……私は……?」と呟く女神が視界に入る。いや、たぶん焦り過ぎて頭回ってないだけで懐いてると思う。そう慰めを込めて見ていると――殺さんばかりの視線で睨みつけられた。どう見ても八つ当たりである。なんでさ。
「苦しいとか、悲しいとか……そりゃあ、ちょっとあったし!泣いたけど、それでも幸せになったし!――ええっと、ええっと……!」
頭に浮かぶ言葉の濁流が無くなったのか、グルグル目のままなにかを考え――こう、言い放った。
「ぼっ、ぼくたちの事はほうっておいてよ!――
はぁ……はぁ……と息を荒らげながら、何か言い放ったよと女神を見る翔太。
女神は良くやった、とばかりにサムズアップしていた。いや、アレでいいのか。論にも何にもなっていない言葉だったけど、と立香は思った。
ゲーティアはどう反応するんだろう、と視線を移すと――
「――くっ――」
――思わず噴き出したばかりのような声が聞こえた。
「くっははははは……ハーァッハッハッハッハ――ッッ!!!」
ゲーティアは笑っていた。
ぎょっ、と翔太は振り向く、女神はなんだこいつと白けた目をしている。
「なんだ、なんだそれは!答えにすらなっていない!自分本位にも程がある!餓鬼一人狭い世界で幸せだからいいと?――大きなお世話だと!?」
ゲーティアの笑いは、立香は何度も聞いた事がある。
初めてあったロンドンでの蔑み。そしてこの時間神殿での嘲り。
立香にとってゲーティアはそういった存在であり、だからこそ倒さなくてはいけない敵だった。
だけど――
「あぁ……これは
――ゲーティアの言葉に、蔑みも嘲りも無く。
ただ、納得と――どうしようもない子どもを見つめるような生温かさだけがあるのに、立香はひどく驚いた。
翔太は訳分からんとばかりに首を傾げる。
「えっと……もっ、もうしない?」
「ああ、しない。諦めた。そも、この女神がいる以上、私の計画が成功する事はあり得ない」
「おっ、怒らない……?」
「いや、怒っている。この理不尽、正直君を殺したいほどには。だがそれ以上に――納得した。人類がこうであるならば、私のやる事に意味はないと理解出来た。私の“命題”としてはこれで十分だ」
「ん……?ん……?」
「理解しなくていい。いや、出来なくていい。君の愚かな思考で考えつく“命題”なんて、私にとって侮辱以外の何物でもない」
ゲーティアの表情に敵意は無くなった。
言葉の端々にゲーティア足り得るトゲはあるものの、穏やかな空気が二人の中に漂っていた。
……それにしても、と立香は思う。ああしていると、やはり何処かで見たような――
そこで。
――『ユ』――『る』――『sa』――『ヌ』――
ふと、蠢きが立香の耳に入り込んだ。
底より湧き上がった泥のような湿り気。反射的に振り向くと――
『認メぬ』『赦さヌ』
『我ラが偉大ナ計画の邪魔をシた愚カ者に罰ヲ』『台無シにしタ異邦の愚者ニ鉄槌を』『反故ニしタ裏切り者に断罪ヲ』
そこにいたのはゲーティアを失った魔神柱、“七十二柱の悪魔達”だった。
指揮系統を失い、彼らを束ねていた
そこに理知の欠片も無く、本能からの意思のみが在った。
抵抗への。理不尽への。裏切り者への。――“
魔神柱の感情はそれのみに満たされていた。
『我ラの計画ハ失敗ニ終わッた!そレは何故カ!?』『カルデアの愚か者共のせいだ!!』『下らぬ理由で邪魔をした愚者のせいである!!』『理もない戯言を飲みこんだ裏切り者!!』『然リィ!デアルナラバ、我ラノヤル事!!!』
『復讐!!』『殺戮!!』『最早、我ラニ日ノ目ハ非ズ!七十一柱全てヲ以テ奴ラ全テニ応報ヲ!!』
『『『応報ヲ!!!!!!』』』
蠢く魔神柱の残骸。規則性も協調性も無く――ただ怒りのままに襲おうとするソレは、醜悪に尽きた。
「……馬鹿共め。怒りで思考すら飛ばしたか」
ゲーティアの目は冷たい。同胞を見ているとは思えなかった。
「先……輩……っ!」
ふと、肩に手を置かれる感触。
振り向くとマシュが這う這うの体で立香の前に出た。長盾を持つ手は震え、戦えるはずもない。
「マシュ!大丈夫だから!」
「いっ、いえ……!私は貴方のサーヴァント!この命は、最期まで……!!」
「いやだから大丈夫。ここは……あの女神に任せよう」
「えっ……」
立香を守ろうと必死になっていたマシュには見えなかったのだろう。
蠢くソレの怒りに――怯えた翔太を抱きしめる女神の事を。
『………』
『殺ス!』『殺ス!!』『殺す殺す殺す殺スコロスコロスゥ!!』
蠢くソレは何の理性も無く、有る物識っている物全てを以て、女神に攻勢を向けていた。
――しかし、効かない。効くはずがないのだ。
さっきまでの戦いで、魔神柱たちも理解しているはずなのに。
それほどまでに“怒り”で我を忘れたのだろう。それほどまでに――口惜しくて、屈辱だったのだ。
ある意味、蚊帳の外に追いやられて、場を俯瞰的に見る事が出来ている立香は――魔神柱たちが哀れでならなかった。
『………』
最早、言葉を告げる事も億劫なのか、女神は手で合図をする。
すると――巨大な女神のドレスの裾から、無数の極光が飛び出し、それが上空に打ち上げられた。宇宙の彼方に吸い込まれたソレらは一つの星となって、堕ちてきた。
金色に輝くあの星は、見覚えがある。カルデアのイシュタルが時たま使う金星の輝き――その金星そのものが、魔神柱たちへと堕ちている。
『許サヌ!我ラ、我ラノ悲願!』『我ラノ大望!』『愚カナ人類ヲ導ク為ノ』『私タチハ!!!』
――そうして、金星は堕ち、魔神柱たち諸共地を抉った。
潰された呻き、死に際の断末魔も、その刹那も無く――魔神柱たちはその命を終えた。あっけなく。
「ショウ。終わったわ」
「……もうこわいおばけいない……?」
「いないわ。私がやっつけた。えいっ、て。だから安心して?」
女神の抱擁の中で、翔太はほぅと息を吐いた。
確かにアレは怖かった。威厳だとかそういう怖さではなく、本当に言葉通りの意味で。
翔太はのそりとゲーティアに目を向ける。
ゲーティアはそんな翔太を、またどうしようもないものを見るような瞳を向けていた。
「これで仲直り?」
「いや、それはない。納得はしたが、私のやった事に後悔はない。よって、君にやった事は謝る事はないし――
「……んぅ」
「もう幸せなのだろう?なら、気にするまでもない」
ゲーティアは苦笑をこぼして、翔太を見て――此方を見る。
嘲るように歪む瞳も、何処か悪戯な気すら感じられた。
「だから――これでお別れだ、少年」
「ショウ、こっちを向いて」
「……?なあに、アシュリーさま?」
瞬間――眩いばかりの極光が、音も無くゲーティアに降り注いだ。
立香の目の前で、この戦いの元凶は――人理焼却を目論んだ“獣”は痕跡すら残さず、消え去った。
「アレ?さっきの人は……?」
「ごめんなさい。逃がしちゃったみたい。でも、懲りたみたいだし、もう二度と姿を見せないと思うわ――もう、二度と」
「……そっか、悪い事したんだもん。しょうがないよね」
「ええ、そうね」
二人の会話に何とも言えぬ感情を飲み下す。
終わったはずなのに、釈然としないナニカが残ってしまった。
最終決戦は最初から最後まで――女神の独壇場で幕を閉じた。
蚊帳の外に追いやられた立香は、結果的に生きてるからいいかと楽観的に笑えばいいのか。俺の戦いを盗るなよ、と暑苦しく怒ればいいのか分からなかった。
「……これで全部終わり?もうこわくない?」
「ショウを苦しめたとんでもない奴らは私が滅したわ。安心して」
「……お母さん達は戻る?」
「順当に行けば、問題無く元に戻るでしょう」
「そっか……そっか!えへへ、ありがとうアシュリーさま!――だいすきっ!」
「にゅふっ――いいえ、私の庇護する人類の為です。女神として当然の事をしたまで」
……まあ、弟が笑顔で終われるならそれでいいか。
ていうか、ほんとにあの女神大丈夫か。付き合う相手は選びなさいって言ったぞ、にいちゃん不安だぞ……。
――立香はぼんやりとそんなイチャイチャしている二人を眺めていると、手首から火花が散った。
「……っ!」
「――先輩!通信が……」
マシュも同様のようで、立香は一緒に端末を注視する。
少しの時間――火花がノイズが変わり、青い空間ディスプレイが浮かび上がった。だが、砂嵐のテレビのような画面しか映さない。
また少し――ノイズの中から声が聞こえ始めた。
――『……シッ!繋がっ……!通信を安定さ……!よぉし、よぉしいいぞ!諸君よくやった!立香くん!マシュも聞こえるか!』――
「はいっ!ダ・ヴィンチちゃん!マシュ・キリエライト!先輩と一緒に聞いています!」
――『……駄目か、こっちには聞こえない。ロマニ、管制室は!――問題無い!レイシフトはいつでも出来る!――わかった!二人とも、聞いてる事を神に祈るよ……!』――
立香はマシュと頷き合う。
ゲーティアが居なくなった今、この時間神殿がどうなるかは自明の理だった。……いや、宙はあの女神の“赤い宇宙”なのでどうなのかはわからなかったが。
――『こちらである程度の状況は把握出来てる。君たちは生きていて、ゲーティアは死んだ。そこまでの経緯はわからないが、その結果さえあればいい!』――
――『私はカルデアの炉を起動し直して、魔力を戻していた――今なら、君たちを時間神殿から離脱させる事が出来る!』――
そこで――時間神殿自体が揺れ始めた。
主を失い、存在を保てなくなったようで――遠くからは何かが崩れる音が聞こえ始めた。このまま此処にいる訳には行かないだろう。
視界の端でわたわたと慌ててる弟が見えた。
――『レイシフトの場所は、突入した最初の場所だ!崩壊の速度を見ても走れば十分に間に合う!迅速に且つ焦らず向かってくれ!』――
「先輩!行きましょう!」
「ああ!」
疲労で震える身体に鞭打って、勢いよく立ち上がる。
何がともあれ、全てが終わったのだから、この後全身筋肉痛で少しの間動けなくなっても何の問題はない。
二人でまた頷き合うと駆け出す――
「えっ、おにいちゃん……?」
そこで二の足を踏んだ。
一年間の反射行動で一瞬、弟の事を失念していた己を恥じた。
不安気な表情の翔太を置いて行くなんて、立香には考えられなかった。
「翔!」
そう呼び掛けて――はたと止まる。
弟にレイシフト適正があるかわからない事に気が付いたからだ。
時空を渡るレイシフトには適正が要る。立香は魔力に恵まれなかったが、レイシフト適正は限りなく高かった。
……では、翔太は?魔力は遺伝するらしいが、これもまたそうであるのだろうか。不安が残った。レイシフトに失敗してしまったら、翔太は時空の彼方に置き去りになってしまう。
それは――決して許容出来ない。
立香は女神に目を向ける。
馬に蹴られるべき邪魔者でも見るような目をしながら『さっさと失せろ』と目が言っていた。
「ショウ。アレらは勝手に帰るわ。私達は私達で帰りましょう?」
……業腹だったが、今迄の事を見てこの女神が弟を害するとは思えなかった。
無傷で時間神殿に侵入し、ついでに浸食して自分の宇宙に塗り替えるまでやってのけたのだから――むしろ自分達のレイシフト技術よりも安全に戻る事が出来るような気がした。
業腹だが……ほんと業腹だったが――翔太を任せるという選択肢しか見えなかった。
立香は女神に任せるぞと視線を向ける。ケムシを見るような目で返された。……快諾だろうきっと。
「おにいちゃん!どこに行くの!おにいちゃん!」
「翔!直ぐに会いに行くからその人と一緒にいろよ!」
「やだ、おにいちゃん!行かないでよ、おにいちゃん……!」
立香から離れるのを翔太は嫌がった。
真ん丸とした瞳からは大粒の涙がこぼれる。ひくつくその姿は――立香の心を抉る光景だった。
一年間も離れていてようやく出会ったのにまた離れるのは立香をして嫌だったが、マスターとして培った感覚がそれを許さない。
この後、うんと埋め合わせをしてあげなきゃならないとまた声を掛けようとして――立香は固まった。
「……
立香と……その横にいる女神だけが聞こえただろう。
泣きじゃくる翔太から漏れたとは思えない――暗い声を。
「翔……?」「ショウ……?」
「やだ、やだやだやだやだ!!行かないで一緒にいようよ!なんで……なんでぼくを一人にするのおにいちゃん!せっかく、せっかくまた一緒に……!!やだぁ……いやだよぉ……!!」
立香は困惑した。
どこか翔太の様子がおかしい。
弟が泣いている姿を何度も見てきて、それをあやしてきた兄として――見た事も無い取り乱し方だった。
女神が落ちつかせるように抱きしめてなければ這ってでも自分のところに飛び込んでくると思うくらいの感情が渦巻いていた。
「――
そこで――立香の脳内に、一年前の情景が重なった。
自分の夢の為――弟の為。
カルデアに向かう当日。荷物を抱えて玄関を出る立香に向かって泣きじゃくった翔太の姿。呆れた母に抱き抱えられて、同じく泣きそうな父に宥められながら叫ぶ――弟の姿。
立香は表現出来ない感情に支配されて、茫然と固まってしまった。
「翔。俺は――」
「先輩!」
そこでマシュの声で我に返る。
――時間神殿の崩壊の音が足元から聞こえてくるのが耳に入った。
慌ててもつれながら後ろに下がる。
ガラスが割れるようにガラガラと地面が崩壊し、底の無い“赤い宇宙”を映しだした。
泣きじゃくる弟との距離が――完全に遮られてしまった。
――『立香くん!急いでくれ、時間が無い!』――
「先輩!早く来て下さい!」
急かす声。
立香は胸から込み上げる感情を蓋にした。ここで駄々をこねていれば死んでしまう。
それでは駄目だ。何の為に一年間戦い続けたんだ――家族に会う為だ。皆を救う為――自分の為にここまで来たんだ。
――弟には、また謝れば大丈夫だ。
立香はそう心に言い聞かせた。
「大丈夫だ、翔!絶対……絶対にこの後会いに行く!約束する!だから、また少しだけ我慢していてくれ!」
立香はマシュの手を取って――振り切るように走り続けた。
レイシフトの渦が見えるまで、無我夢中に。喉の奥から血の味が込み上げても、走り続けた。
「ショウ……泣かないで。貴方の悲しい声は聞きたくない……私がいるわ。私は絶対に何があっても側にいる。だからお願い嘆かないで……私に笑い掛けて……?」
弟の悲痛過ぎる泣き声とともに、漂う甘い香りからも――逃げるように。
程なくレイシフトが始まり、立香とマシュは――カルデアに帰っていく。
その中、立香は世界を救ったという達成感に浸る訳でもなく、誰も犠牲する事も無かったと胸を張るでもなく、手に触れる温もりに安堵するでもなく。
ただ、弟の泣き声だけが立香の心に染み込んでいた。
『………』
――ふと、意識が起き上がる感覚。
立香が目を開けると――見慣れたカルデアの管制室、地球を象ったカルデアスが視界に映った。
「立香くん、よくやったね」
声に振り向く。
そこには華美な服装で肢体を彩った妙齢の女性がいた。
彼女は――レオナルド・ダ・ヴィンチ。立香の人理修復への戦いをサポートしてくれた人類史における『万能の人』。……自分の絵画に惚れ、それ自体に成り代わった密かにカルデアのヤベー奴らにカテゴライズされるリアルTS男である。
そんなダ・ヴィンチの周りには、陰に日向になって助けてくれたカルデアスタッフも沢山いた。皆、疲れ切った表情の奥で――隠し切れない喜びに満ちていた。
でも、その中に見えない顔があって、立香はダ・ヴィンチへ向いた。
「あれ……?マシュは?それにドクターも……」
「ああ。急なレイシフトだったせいで、タイムラグがあったようでね。マシュは少し前に着いたんだ。少し無理をしていただろう?ロマニのメディカルチェックを受けてる」
「そう、ならよかった……です」
マシュは無理を通して、立香の側にいてくれた。
なら、もう――ゆっくり休むべきだ。
だって、世界を蝕む元凶はこの世に居ないのだから。終わったのだ、世界を救う戦いは。
「立香くん、本当に良くやり遂げてくれた」
ダ・ヴィンチのその言葉は万感の思いが込められていた。周りのスタッフ達の言葉も代弁するように、それは重く――温かい。
「世界は元に戻った。外と通信が回復したんだ。一年間はどうやら過ぎてしまった体ではあるようだけど、人理焼却が起きたその瞬間まで、人類は元に戻った。全部、君のおかげだ」
「……いや、それはダ・ヴィンチちゃんたちも――」
「――そりゃあ私たちのおかげでもあるともっ!だ・け・ど!それでも、君のおかげなんだ――本当に、ありがとう」
そこでわぁ……!とスタッフ達が立香に殺到した。
ありがとう、よくやった、お前は私達の誇りだ、ありがとう、ありがとうと。もみくちゃにされながら告げられる立香の心は遅ればせながら達成感と安堵に満たされた。
涙すら見せて、喜びあう中――耳の奥に、弟の泣き声が反芻した気がした。
立香は慌てて、もみくちゃの人波を掻き分ける。
少し離れたところで静かに嬉しさをかみしめていたダ・ヴィンチは驚いた顔を浮かべた。
「……?どうしたの?」
「――電話!電話は繋がる!?急いで、ウチに……翔に……!」
「ああ……そのこと、なんだけど……」
――ピンポーン。
そこで。聞き覚えの無い音が聞こえた。
普通の家のチャイムのようなベル音。それを聞いた立香以外の人々は――唐揚げに善意でレモンを掛けられ、礼を言えばいいのか怒るべきなのか迷うような顔をした。端的に換言すれば、とても微妙な顔をしていた。
「あっ、来たか。やっぱり」
「やっぱり……?」
「……私はね。立香くん。映画の続編は嫌いなんだ。やっぱり一回ですっぱり締まるような――」
「――いや、何の話!?」
――ピピピピピピピ、ピンポーン。
「……まあ、行ってあげな。なにはともあれ、君が一番頑張ったことは私達が一番理解している事だ。報われる時だ。喜ぶべきだよ――後の事は、私達が頑張ればいいことさ!」
笑顔で背を押された立香は、良い予感がした。
あの女神の事だ――翔太の願いを無下にするとは思えなかったからだ。
礼を一言。
立香は直ぐに管制室を出て、廊下を走る。目的地は入り口――立香が初めて気絶したあのちょっと良い思い出の無い入り口へ。
――本当にここまで来たんだな。
立香は通り抜ける
この一年、トータルで苦しいに一票だったが――古今東西の英霊たちとのつかぬ間の温かい日々も楽しかった。
幼心に憧れた英雄に会えたのは嬉しかったし、偉人達の含蓄溢れる言葉は本当にタメになった。綺麗な女性たちも………いや、それは思い出さなくていい。忘れよう。特に溶岩水泳部は忘れよう。
それにしても、今日は吹雪の音が聞こえないな。もしかして運良く晴れたのかもしれない。
きっとカミサマも祝福してくれたんだろう。ほら……とっても綺麗な……赤い、空が……。
「………」
立香は立ち止まった。
……廊下には等間隔で灯り取りの窓が併設されている。
基本的にカルデアはどっかの雪山に位置する為、吹雪しか映らないが――天気が良い日は綺麗な朝日が在るんだと。スタッフの誰かが言っていた。
立香が来たのは人理焼却の真っ只中。そうなってからは外と断絶された影響か吹雪しか見た事は無かった。
だが、吹雪が晴れ――立香の望んだ空が見えた。
――満天の、“赤い宇宙”を。
「………えっ、まじ」
良い予感は直ぐに悪い予感に切り替わった。
悪い予感を振り切るのは不可能で、そういう時は満を持して受け入れるしかない――と苦労人の英霊たちに聞いた通りだった。
「――きちゃったっ☆」
入り口を開けた先。
そこにいたのは――満面の笑みを浮かべる翔太と、その少し後ろで仏頂面を隠さずに宙を泳いでいる女神。
そして、広がっているはずの蒼の空を、
「は、ははは……」
不意に零れた空笑い。
自分が出したのに、どこか他人事のように聞こえた立香は――頭を抱えた。
「おっ、おにいちゃん!?どうしたの、おなかいたいの……?」
「い、いやなんでもないなんでも……。よく来たな、翔」
「……っ!うんっ!よく来たの、おにいちゃんっ!」
『………』
慌てて近寄ってくる弟の頭を乱雑に撫でながら、その横から『私のショウに気安く話し掛けんな殺すぞ』とばかりの眼光を放ってくる女神から目を逸らす。
――“新たな危機”は、世界の救済者たる青年の前に、ゆるくふんわりと待ち構えていた。
――斯くして。
“地球の危機”は去った。
青年の確固たる思いと、少年の家族を求める望念が――“憐憫”の獣を打ち倒したのである。
過去と現在と未来。絡み合っていた全ては解け、靄が晴れるように元の現実へと回帰していく。
人理は残酷なもので、“過ぎ去った一年”という事実は決して変えられないが――人類は知らずに、元の日常を取り戻した。
何も知らぬ無辜の人々は、“過ぎ去った一年”に疑問を覚えながらも、流れる日々を懸命に生きるだろう。
いつしか、その疑問すら忘れて。
世界の真実を識る人々は、“過ぎ去った一年”の原因は、今も地球を覆い尽くす赤い宇宙であると考え、不毛な調査を始め――その間に、カルデアは密かに己を守る為に保身に走るだろう。
いつしか、その真実は揺らいで。
人類の復活と同時に機能を回復した“
いつしか、その苦脳は薄らいで。
だから――
誰も気付かなかった。
安堵と安寧と、ゆるく迫る半端な危機に包まれて、数億の内の一つの想いなど誰も目にも留まらない。
“過ぎ去った一年”を――“過ぎ去った地獄”を。
その苦痛と絶望は決して消える事は無く、小さな燻りとして、少年の心を焦がしている。
兄も知らず、親も知らず、誰も分からず。
女神だけが、そんな少年を見つめていた。
時間神殿は崩壊し、人類を“憐憫”した獣は消滅した。
人類を愛するが故に、人類を滅ぼす人類悪……その兆しは、何ら残されていない。
だが――残っているモノが、一つだけ在る。
獣が臨んだ、煉獄の果ての至高天。良き者達のみが赦される理想郷。
定命を滅ぼし、艱難辛苦を消し去るはずの世界の中心として用意された、かの御座は――
――
NEXT ASHTARETH's HINT!!
マ ッ チ ポ ン プ !!