朝六時に目を覚ましたクリスは、眠い目を擦りながら洗面所へといく。
まずはヘアバンドをしてぬるま湯で洗顔。たっぷりと泡立てたクリームを塗ってから、やさしく洗い流す。
タオルで拭いて化粧水を擦り込んで、大きな鏡を背伸びして覗き込んだ。
長く伸ばすようにした髪は、最近やたらとフワフワになってきている。
良かった、寝癖はついていない。
らっきー、と心の中で呟いてクリスは自室へと戻る。
パジャマを脱いで見上げた壁に掛けてあるのは、卸し立ての制服。
さっそくブラウスから袖を通し、胸のボタンを留めようとしたところで思わず声が出た。
「…うそ」
胸が窮屈に感じる。一か月前に採寸したばかりなのに。
…最近、どんどん大きくなるなあ。恥ずかしい…。
胸の大きさは女性にとってのステータスになるとの噂は聞いていた。けれど、まだ12歳のクリスにとっては悪目立ちする材料でしかなく、恥ずかしさの方が先に立つ。
結局、少し無理してどうにかボタンを留め、スカートを身に着ける。
それにネクタイだけを締めて、クリスは自室を出た。
火の気のないキッチンに来たクリスは、こちらも真新しいエプロンを身に着けて、長い髪を三角巾で覆う。
冷蔵庫を開け、しばし物色。
青物はアスパラガスをソテーして、お味噌汁の具はネギだけでいいかな?
二つのコンロの片方で鍋に湯を沸かし、もう片方でフライパンを熱する。
メインはベーコンエッグにしよう。ベーコンはうんと厚切りで。
手際よくアスパラガス、ネギ、ベーコンと刻んでいき、片手で卵を三つ割る。
フライパンにベーコンを入れて、出てきた油でアスパラガス、目玉焼きを焼けば、メインディッシュの出来上がりだ。
それを大皿に盛りつけ、ダシ入り味噌をといた味噌汁の味見をすれば、ちょうどご飯の炊きあがりを知らせるアラームが。
「…よしッ」
三角巾を外して次にクリスは向かったのは、弦十郎の寝室だ。
「おはようございます。ご飯ができましたよ」
軽くノックをして声をかけるも、返事はない。
「ご飯ですよ~」
更にノックを何度か繰り返しても、やはり梨のつぶて。
埒が開かぬと判断したクリスがドアを開ければ、空気の振動が彼女の小さな身体を揺さぶった。
電気のついてない薄暗い部屋の床には服が散らばっていて、その先のベッドの上では弦十郎が高い鼾の真っ最中。
「…もう」
衣類を拾いながらベッドへと歩み寄ったクリスは、布団から出ている岩の塊のような肩を揺さぶる。
「朝ですよ。ご飯出来てますよ。起きてください」
んあ? と鼾が止まった。
頭を掻き掻き、なんだクリスか、と弦十郎は上体を起こす。
その拍子に布団がずり落ちて、クリスは顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。
「兄さん! 前、前…ッ」
「ん? おっと、これは失礼した」
トランクス一丁でベッドに寝ていた弦十郎は、クリスの拾ってくれた服に手を伸ばす。
布団の中で皺だらけのスラックスを履いてから、ベッド脇へと降り立った。
「おはよう、クリス。…って、なんでまだ横を向いているんだ?」
なお顔を真っ赤にしたままのクリスに弦十郎は尋ねる。
「う、上着も着てくださいッ」
「ふむ?」
まるで彫刻のような逞しい筋肉で覆われた上半身を自分で見下ろし、これも見苦しかったかな? と首を捻る弦十郎。
しかし、妹がそういうのであれば否応もない。
いつもの赤シャツを着れば、ようやくクリスは前を向いてくれた。
「ご飯が出来てますから、早く顔を洗ってきてくださいねッ」
なぜか早口で告げて部屋を出ていってしまう。
その様子に、ああ、妹も年頃か、と恐竜のように鈍い弦十郎もようやく理解。
失敗したなあと軽く後悔しつつ、改めて新しいスラックスに履き替えた。
それから洗面所で顔を洗い髭もあたる。
鏡を見て身形を整えてからキッチンへ赴けば、クリスはさっそくご飯とみそ汁をよそってくれた。
根深汁の匂いに、腹が派手な音を立てた。大皿の厚切りベーコンの目玉焼きもボリュームたっぷりで美味そうである。
さっそく箸を伸ばそうとすると、鳥そぼろの入った小鉢がそっと押しやられてきた。
弦十郎の体格は人一倍のタンパク質を必要とする。それを見越したクリスの細やかな心遣い。
思わず弦十郎はしみじみと呟いてしまった。
「すまんなあ、こんなおさんどんまでさせて」
「いいえ。わたしが居候させてもらっている身ですから、そのくらい…」
この春、クリスが通うようになったのは、私立リディアン音楽院。
小中高一貫の私立学院で、遠方から来た学生のために寮も完備してある。
にも関わらず、クリスが弦十郎宅へいるのはどういう理由か?
私立リディアン音楽院は、実は特異災害対策機動部の管理下にある一種の選別施設だ。
もちろん学院としての機能は存在する。
つまりは音楽院という表の看板で音楽的素養のある生徒たちを集めて、実際には授業などに様々なテストを紛れ込ませ、ある適合性をもった人材を識別、管理するのが本当の目的だ。
その能力を先天的に持つ人間などそうそういないと思われたが、実はクリスはその能力者に該当した。
ならばリディアンに通うのは当然であったが、やはり寮でなく弦十郎宅にいる説明にはなっていない。
「…別に居候させているつもりはないんだがな」
リディアンの寮は、学院から少し離れた場所にあった。
基本的に一部屋を二人で、学年別の生徒たちで使うことになる。
既に適合者としての能力が確定しているクリスの場合、放課後に様々な実験や検査が予定されていた。
それらが長引けば帰りは遅くなるだろうし、そうなれば同居者がいるのは色々と都合の悪い部分が出てくる。
この同居者も適合者であれば問題ないだろうが、そんな人材はそうそういないのは先述したとおり。
事実、クリスより一年早く入学した翼も、寮ではなく近くのマンションから通っていた。
適合者の諸々は、日本政府内でもトップシークレット中のトップシークレットだ。
ならばクリスにもセキリュティの充実した住まいを、と弦十郎が過保護っぷりを発揮して探し回っていたが、(弦十郎基準で)なかなかしっくりくる物件が見当たらない。
そこでふと、
『俺の官舎はどうだ?』
と何気なく提案してみた。
弦十郎に与えられた官舎は、独身にも関わらず3LDKの家族用。
仮にも組織のトップであるという福利厚生の意味合いもあっただろうが、正直持て余していた。
だいたい、本部に泊まることもざらにある。
そういう意味でも部屋自体を遊ばせているのと同様だし、そもそもが特異災害対策機動部の職員用の官舎である。そこらのマンションのセキュリティなぞ比較にもならない。
『まあ、こんなおっさんと一緒に暮らすのは嫌だろうなあ』
自分で提案しておいてそうオチをつけた弦十郎だったが、どっこいクリスは素直に頷いていた。
『はい、よろしくお願いします』
にっこりと微笑まれて、もう弦十郎に拒む理由はない。
これは、あれだ、やっぱり不安なんだろうな。俺が傍に居た方が安心できるってことなんだろう、うん。
なぜか自分を納得させるのに手こずりつつ、弦十郎はさっそくクリスの荷物を抱えて引っ越しの手配。
諸々の手続きも国家権力のおかげでスムーズに済み、晴れて四月からの中学校生活をクリスはスタートさせようとしている。
「それじゃあ行ってきます」
肩を並べてドアから出たにも関わらず、クリスは無人の家にぺこりと頭を下げて挨拶。
その様子を微笑ましく眺めながら、弦十郎はクリスの服装を褒めた。
「よく似合っているぞ、クリス」
「…そうですか?」
はにかむように小首を傾げるクリスだったが、リディアンの制服はまるでオーダーメイドのように彼女の雰囲気にぴったりだ。
最上階の自宅から一階まで降りる道すがら、官舎住みの職員たちと行き会う。
いちいちクリスは彼らに「おはようございます」と頭を下げると、ほぼ全員が笑顔で挨拶を返してくれる。
この官舎内にクリスが住み始めたことは周知されていた。
もともとクリスの愛らしい外見は、おもに男性職員の間で非常な人気を誇っていたが、こと官舎内においてはその上限を完全に限界突破している。
朝にクリスに挨拶をしてもらえると幸せになれる、などとラッキーシンボル的な扱いをするのはまだマシな方で、中には彼女を一目見るためだけに、わざわざ登校時間に合わせて待ち構えようとする者も出る始末。
自分のことにはとことん鈍い弦十郎だったが、クリスがこのように人気を集めていることは把握していた。
俺の妹は可愛いからな、と内心では鼻高々で、部下たちに対して比較的寛容である。
連中とて防人だ。もてはやしても、不埒なことを考えるやつはいないだろう。
まあ、そんなやつがいたら俺が許さんがな。
それに万が一、この官舎にいるクリスが何者からか狙われたとき。
ここに住まう彼らは、職務以上の心意気を発揮してクリスを護る盾になってくれるに違いない。
クリスにとって安全な住まいという一点において、ここは間違いなく日本でも一、二を争うだろう―――。
「…本当に、俺は出席しては駄目なのか?」
愛車を運転しながら、弦十郎は情けない声を助手席のクリスへと向けた。
「だって兄さんはお仕事があるでしょう?」
クリスは笑う。
「それに、わたしも、いつまでも甘えていられません」
もともと戦乱で両親を失ったクリスは、風鳴家の猶子となって様々な便宜を図ってもらっていることを強く実感している。だからこそ、いつまでもその恩恵にあずかってばかりもいられない。
そんなクリスの考えているであろうことが手に取るようにわかるだけに、弦十郎は辛い。
もっと頼って、甘えて欲しいのにと思っている。
―――おまえはまだ子供なんだから。
仮にそう口にしてしまえば、せっかくの彼女の想いに水を差すことになってしまう。
悩む弦十郎こそ、感情が過保護の領域を完全に逸脱しているのだが、本人は全く自覚していなかった。
「…おまえの入学式、本当に見たかったぞ」
未練たらしく、それでも諦めの言葉を口にする弦十郎に、クリスは花が咲くような笑顔を向けてきた。
「だから兄さんには、一番最初に制服姿を見てもらったじゃないですか」
ブラウスこそ窮屈になったが、ブレザーは三年間着ること見越して大きいものを買っていた。
だぼっとした袖口から小さな指だけを覗かせて、クリスは弦十郎に軽く両手を広げてみせる。
彼女としては、敬愛する義兄に、口にした台詞以上の意味を込めたつもりはない。
しかし、弦十郎にとって義妹のこの仕草は、致命的なまでのクリティカルヒット。
何もない平坦な地面で、車が軽くバウンドする。
「きゃッ」
「す、すまん」
小さな悲鳴を上げたクリスに詫びておいて、弦十郎はどうにか平静な声を絞り出す。
「…そ、そいつは光栄だなッ」
クリスは笑顔のまま「はい」と元気な返事。
車は校門前に止まった。
「それじゃ、行ってきます」
「うむ。いってこい!」
クリスを送りだし、弦十郎はハンドルに顔を伏せた。
その表情は決して部下に見せられないほどニヤけまくっている。
部下といえば、そうかこれがあれか? 藤尭の言うところの『萌え』というやつなのか?
新たな観念を獲得して顔を上げれば、クリスが友人らしき生徒から声をかけられている。察するに小学校の同級生のようだ。
その後ろ姿を眺めて、弦十郎は大きく頷く。
やはり俺の妹の可愛さは、どの新入生よりも群を抜いているッ!
むう。ここはやはり、こっそり入学式に忍び込んで参列を…。
そもそもの勤務先の本部は学院の直下にある。
ならば、少しくらい遅れても問題はないはず。
そう判断し、視線を巡らせた弦十郎は大きく目を見開いた。
なんと紋付き袴の正装をした風鳴訃堂が校門を潜っていくところ。
その胸のところにある名札を超人的な視力で読み取り、弦十郎は思わず呻いてしまう。
「…ずるいぞ、親父…」
訃堂の名札にはこう記してあった。『私立リディアン音楽院終身名誉理事長』と。
なお、訃堂による理事長の挨拶。
「本日、ここに集いし新入生とその保護者の方々に、謹んでお祝い申し上げる。
そして、理事長である儂から、この学園で学ぼうとする若人に贈る言葉は五つだけだ。
一つ、腹ペコのまま学校に行かぬこと
一つ、天気の良い日に布団をほすこと
一つ、道を歩く時には車に気をつけること
一つ、他人の力を頼りにしないこと
一つ、土の上を裸足で走り回って遊ぶこと
以上である」
この言葉は初等部の生徒には比較的素直に受け入れられたが、中等部と高等部の新入生たちは盛大に首を捻りまくった模様。
入学式も終わり、クリスはリディアンの校舎を出て中庭を歩く。
他の新入生もぞろぞろといて、皆して明日からの学園生活の始まりに、不安と期待で胸を高鳴らせている。
そんなクリスの背後から、軽やかな足取りが近づいてきた。
その気配に気づいて振り向いたとたん、正面から抱きつかれる。
「クリスッ!」
私立リディアン音楽院中等部二回生となった風鳴翼だ。
「つ、翼」
狼狽えるクリスの首を抱え込むようにして翼は破顔。
「うむッ! 思った通りここの制服が似合っているではないかッ!」
まるで弦十郎のような男前な口調に反し、クリスの頭を撫でつける手は優しく丁寧なことこの上ない。
その物言いと態度のギャップに、見ていた在校生たちから驚きの声が上がる。
後ろ髪を肩口までのボブカットにし、頭頂部には短いサイドテール。
加えて翼の凛とした佇まいと言動から、蒼姫、もしくは蒼の王子という異名が、リディアン中等部高等部はおろか、近隣の中学校、高校までにも浸透していた。
その蒼姫が、ここまで相好を崩す相手は一体…?
たちまち注目を浴びることになったクリスも、その可憐な容姿から、銀姫の異名を賜わることになる。
「ちょっとやめて、翼。苦しいよ…」
良いように弄られていたクリスだったが、あまりにも執拗な翼のスキンシップに悲鳴を上げた。
「う。す、すまない。クリスがあまりにも可愛かったものだから…」
「もう…」
ぷうっと頬を膨らませるクリスの顔が真っ赤なのは、周囲の視線を集めてしまったことが恥ずかしくて仕方ないから。
風鳴家での二年あまりの薫陶は、かつてのガキ大将みたいな少女を、すっかり引っ込み思案な性格に改変していた。
「相変わらずあっちーな、二人とも」
その声に反射的に翼が身構え、クリスを庇うように前に出た。
翼の肩越しにクリスが送る視線の先には、リディアン高等部一回生の天羽奏が立っている。
「…何用ですか、天羽先輩? こちらは中等部ですが」
翼の声は冷え切っている。
「つれねえなあ。せっかく入学祝いに出向いて来たってのによ」
笑う奏に屈託はない。
かつて、クリスの頬を全力でぶん殴った彼女は、あのあとすぐに謝罪に訪れていた。
『色々と熱くなっちまっていた。本当にごめん。あたしが悪かった』
元々の模擬戦自体が、わざと翼の激発を誘って適合係数を高めようという実験の一端との説明を受けていた。その上で深々と頭を下げられては、クリスとしては許すしかないと思う。
ところが当事者以上に激昂したのが翼である。
涙声でぎゃんぎゃんと奏を罵ってから、いま今日に至るまで、蟠りは解消されていないようだ。
「………」
厳しい表情で睨みつけてくる翼に半ば呆れながら、奏は翼の肩越しにクリスに挨拶。
「よっ、雪音。入学おめでとさん」
「…どうもありがとうございます」
ちなみに奏もクリスと呼びたいのだが、翼の猛烈な抗議を受けて雪音呼ばわりを余儀なくされていた。翼曰く『クリスをクリスって呼んでいいのは私だけなのッ!』
「ま、今日から一緒の学校に通うんだ。仲良くやろうぜ」
そういってクリスに片手を差し出してくる奏に、周囲から驚きの声が上がる。
翼に比して、いやそれ以上に天羽奏はリディアンの有名人だ。
才気煥発、スポーツ万能、成績優秀。
恵まれた体に、姉御肌の性格から、同級生たちからの信任も厚く、慕う後輩も数多い。
その赤毛から赤姫という異名が、こちらも翼と同様に近隣に鳴り響いていた。
そんな赤姫が、初対面で気安く手を伸ばす新入生とは一体…?
奏の手を握り返しながら、クリスはやはり顔を赤らめる。本当に目立つのは苦手になってしまった。
クリスの様子に、奏は悪戯っぽい顔付きになって耳打ち。
「これからアイドルデビューするんだぜ? そんなことで真っ赤になってちゃ、この先おねーさんは心配だな~」
「………ッ!」
ハッとした顔になるクリスを押しのけて、翼が噛みついた。
「奏ッ! それは最重要機密でしょッ!?」
「おまえ、人を先輩呼ばわりしたと思ったら呼び流しか? 本当に一貫性がないなー」
「そういう話をしているんじゃないッ!」
ぎゃいぎゃい言い合いを始める蒼姫と赤姫。
これももはやリディアンの名物的な光景で、こうなったらもう止められない。
誰もがハラハラとして見守る中、二人の制服の袖がくいくいと引っ張られた。
なんだよ? と歯を剥く勢いで振り向いた双姫の先にはクリスがいる。
「…そんなギャーギャーいう翼は怖いからきらい…」
「うぐッ!?」
「奏も、もうチーズケーキ焼いてあげないよ…?」
「ッ!? わ、わかった、あたしが悪かったッ!」
一瞬で事態を収拾してのけたクリスに、またぞろ在校生たちの視線が集中する。
あの子は何者ッ!?
その視線に耐えかね、とうとうクリスは顔を真っ赤にしたままその場から遁走。
「ちょ、ちょっとクリス?」
「おい、どこへ行くんだ?」
わけが分からずそのあとを全力でついてくる蒼と赤の姫。
その二人に「来ないで!」とも言えず、クリスはひたすら無言で逃げ回るしかなかった。
その後、この三人のよく分からない追いかけっこをする姿は、新たなリディアン名物の一つに数えられることになる。