開かれた教室の窓から、柔らかな風が流れ込んでいる。
ポカポカとした陽光も気持ち良く、誰もが眠気を催す五時限目。
にも関わらず、私立リディアン音楽院高等部普通科A組の教室には、ピリピリとした空気が張りつめていた。
尋常でない気を発散しているのは、腰に手を当てて顔を引き攣らせている女性担任教師。
その彼女の正面には、なんとも申し訳なさそうな顔付きで、両手に饅頭を持った女生徒が立っていた。
所々汚れた制服を着た立花響である。
「…立花さん。今日は、一体何の日か分かっていますか?」
「は、はい! えーと、新学期の初日…ですよね」
「その大切な初日に、お昼過ぎまで来なかったのは、サボっていたということでいいのかしら?」
「いいえッ! 決してサボったわけじゃありませんッ!」
眉をヒクヒクとさせる担任に、響は毅然と顔を上げる。
「今日、学校に来る途中、木に登って降りられない猫ちゃんを見つけたんですッ! どうにか木に登って助けたら、首輪に住所が書いてあったので、そこまで届けに行きました! そのあと、見知らぬ外人さんに駅の場所を聞かれたので連れていって、それから学校に戻るところで、坂道でおばあちゃんが荷物を落としたんですよね! なのでおばあちゃんの荷物を拾ってあげてそのままお家まで荷物をもってあげてッ!」
むしろ誇らしげに響は言う。
「そして、これがご褒美に貰ったお饅頭ですッ!」
途端にぐ~ッ! と盛大なお腹の音が鳴った。躊躇うことなく響は饅頭にかぶりつき、丸々一個を一口で頬張る。
「立花さんッ!?」
激昂する教師に、響はもぐもぐごくんと飲み下して、
「す、すみません! お昼食べ損ねちゃってッ!」
「そういうこと言っているんじゃありませんッ!」
叱責にきょとんとしてしまう響だったが、間もなく納得した表情を浮かべながら片手を差し出している。
「ひょっとして先生もお饅頭欲しかったり? いいですよ、すっごく美味しいですよ!」
「~~~ッッッ!!」
「…は~、入学初日から先生に目を付けられちゃったよ~。わたしって呪われてるのかも~」
学生寮に戻るなりそういって床にひっくり返る親友を、小日向未来は呆れ顔で眺める。
「あんなの、先生でなくても怒るよ? 遅刻したってレベルの遅刻でもないし、100%響が悪いんじゃない」
「え゛~? 未来までそういうこというの~? わたしは人助けしてたんだよ~?」
「響のは度が過ぎているんだよ。その調子じゃ、学校に通う時間もなくなっちゃう」
「ん~、でも人助けはわたしの趣味みたいなもんだしね~。ま、学校の勉強は、改めて未来に教えてもらえばいいし!」
「…言っておくけどね、ノートを写すのはいいけれど、宿題を写すのはナシだからね?」
「ええッ!?」
うう、やっぱわたしって呪われている~、と、今度はテーブルに突っ伏して頭を抱える響を眺めながら、未来は苦笑を浮かべるしかない。
響は、昔から向う見ずの無鉄砲なところがある。誰かが傍で支えてやらないと、とんでもないことをしでかしかねない。
同時に未来は、響の新品の制服がもう汚れていることを嬉しく思う。
自分で度が過ぎていると指摘したけれど、響の人助けは本物だ。
困っている人を見つけたら、損得抜きで駆けつけて必ず力になろうとする。
今のこの時代において、それはどれほど真っ直ぐで貴重な個性だろう?
そんな彼女と親友であるとお互いに認め合えてることが、小日向未来にとっては何よりも誇らしい。
「ほら、響、制服脱いで。軽く汚れを落としてクリーニングに出さなきゃ」
「あ、はいはい」
テーブルから顔を上げ、あっさりと響は制服を脱ぐ。
橙色のブラに包まれた胸は年齢相応に豊かで、腰もしっかりとくびれている。
おへそ丸出しで、うっすら腹筋さえ見えそうなお腹が盛大な音を響かせた。
「ああ~! そういえばお昼はお饅頭以外何も食べてなかった~! 腹ペコで死にそうだよ~!」
「はいはい。あまり材料の買い置きはないけど、出来るだけたくさん夕ご飯作るから」
「ありがとう未来~ッ! やっぱり未来はわたしの最高の陽だまりだよ~ッ!」
下着姿で抱きついてくる響を、未来は頬を赤らめながら抱きしめ返す。
陽だまりとおさんどんにどういう関係があるの? なんて疑問は些細なことだと思いながら。
千切りにした大根を丸々一本使ったサラダは青紫蘇ドレッシングで和えて。大皿いっぱいに千キャベツを敷いて熱々の豚バラ肉の生姜焼きをのせる。大鉢に粉ふき芋を入れて、だし巻卵も作って、味噌汁の具はワカメと豆腐をたっぷりと。
夕食としてテーブルの上に広げたそれらを、響は健啖に平らげていく。
「うんッ! おいしいッ! やっぱり未来の作る料理は最高だねッ!」
「嬉しいけど、もっとゆっくり食べなよ、響」
「無理! 美味しすぎて箸が止まらないもんッ!!」
その言葉通り、よっぽどお腹が空いていたらしい。たちまち半分ほどの量を胃袋に納めて、ようやく響も会話をする余裕が出てくる。
「あー、そういえば、明日発売だよね、翼さんの新曲ッ! 忘れないで買わなきゃッ」
テーブルの横に置かれた雑誌の裏表紙を箸で指さす響。
「もう、行儀悪いよ。…でも、いまどきCDで発売って」
「えへへー、初回特典とか封入特典が凄いんですよ、奥さん」
からかってくる響に、未来は取り合わない。
「でも、響は、翼さんに憧れてリディアンに入学したんでしょ?」
自分で口にしておいて、未来は心が曇るのを感じる。
いまや、日本のトップアーティストへと上り詰めた風鳴翼。
その前身は、かつて絶大な人気を誇った音楽ユニット『トライウイング』の一翼だ。
そしてトライウイングと言えば、切っても切り離せないのが二年前のライブ会場の惨劇。
急遽ライブに行けなくなった未来に対し、響は一人で入場していた。
親友を誘った手前のこともあったが、叔母の見舞いで家族で盛岡への途上にあった未来は、このニュースを耳にして騒然としたものだ。
自分では良く覚えてないのだけれど、父の運転する車の中で盛大に泣き叫んだらしい。
そのあとのことも記憶になくて、はっきりと覚えているのは電話越しに聞いた響からの『無事だよ』との報告の声。
ライブの収容人数は10万人で、9000人の死者が出たとすれば大雑把な死亡率は10%。10人に1人の死亡者の中に親友が入ってなかったことを、未来は心の底から何者かに感謝している。
だが、その惨劇から戻ってきた響は変わっていた。
昔から思いやりの強い子だと思っていたけれど、より積極的に人助けに奔走するようになっている。
ライブ会場で何かあったの? と未来が訊いても、響は笑って答えてくれない。
それでもしつこく尋ねたとき、たった一度だけ答えてくれたことを未来は憶えている。
それは―――。
『『トライウイング』は、正義の味方だったんだよ―――』
「…うーん、翼さんに憧れて、っていうよりは、『トライウイング』に憧れてってのが正解なんだよねー」
「それでも凄いよ。良く入学出来たものだと思うよ?」
リディアンの入学試験は決して簡単なものではない。結構難しい筆記試験に、歌の実技試験もある。
響の学力はお世辞にも良くはないし、歌だってそれほど上手じゃなかったような。
まあ、一緒に受けたわたしがそんな偉そうなこと言える義理じゃないんだけど…。
「でも、せっかく入学したのに、翼さんの影も形も見当たらないんですけどー?」
風鳴翼は、リディアン高等部三回生のタレントコースに在籍している。
学園側もそのことを積極的にアピールし、生徒集めの看板としてた。
響以外にも彼女に憧れて入学する生徒も多い。
「それは翼さんはトップアーティストだからね。忙しくて学校にはなかなか来られないんじゃない?」
「だったら、クリスちゃんはどうかな? 未来は見かけなかったッ?」
雪音クリスもかつての『トライウイング』の一人。今は芸能活動を休止し、普通に学生としてリディアンに在籍しているとか。
「そういえばお昼休みに中庭に人だかりが出来ていたけど、あれが雪音さんかな?」
「えーッ!! だったら教えてよ、未来ッ!」
「あっきれた。響が登校したのはお昼過ぎじゃないッ」
「あ、そっかー!」
あははと頭を掻く響だけれど、トライウイングの中で一推しが雪音クリスであることを未来は知っていた。
未来は脳裏に雪音クリスの姿を思い浮かべる。
ハーフだという端麗な容姿に、軽くウェーブのかかった銀髪。そして何より…。
未来は箸をおいて、自分の胸へと手を当てる。
「………」
「未来?」
「ねえ? 響もやっぱり胸が」
「なあに?」
「う、ううん、なんでもない…ッ」
「?」
立花響が私立リディアン音楽院へ入学した理由はトライウイングに憧れてというのが大きな一つとなるが、更にもう一つ切実な理由も存在する。
それが判明するのは、四時限目のチャイムが終わって間もなく―――。
「さあ、ご飯だご飯!」
ほとんど一番乗りで食堂に飛び込んだ響は、まずは丼にご飯をチョモランマ盛り。それからトレイに載る限りの大皿を敷いて、そこにもおかずを山のように盛り付けていく。
「いたっだきまーす!」
後続の生徒たちが目を見張るなか、凄まじい勢いでそれらを平らげて行く響。
向かいの席に未来が自分のトレイを持って着席する頃には、全ての皿が空になっている。
「よーし、二回目行こうっと♪」
日本全国に私立学園は数あれど、昼食にビュッフェを提供するところはそう多くない。
このリディアンはその数少ない学舎の一つであった。
中学三年生になったあたりから、どういうわけか響の食事摂取量が飛躍的に増加。
学校の給食だけでは賄いきれず、こっそり弁当を持参してたほど。
それでも六時限目の終了と同時に鳴るお腹の音は、響と未来の母校では知らぬ者のいないほどの笑い話である。
他にも、近隣の大盛り爆盛り食べ放題の店に軒並み名前を連ねていたことは、響が地元を離れたがっていた一因なのではないだろうか?
ともあれ大食漢ならぬ大食娘である響にとって、リディアンの昼食は他の高校に比べてすこぶる魅力的に見えたことは間違いなかった。
「ごはん&ごはん♪ ごはん&ごはん~♪」
自作の鼻歌を唄いつつ丼飯を盛り付ける響に食堂はざわめいたが、生憎と原因はそれだけではなかった。
ざわめきは入口の方からも聞こえている。
何事かと響もそちらを向けば、級友らを引き連れた風鳴翼が入ってくるところ。
そしてその隣には、見目も鮮やかな銀髪の少女が仲良く付き添っている。雪音クリスであった。
中等部時代から蒼姫、銀姫と呼ばれた二人が歩いてくる様子に、ペタペタとご飯をよそっていた響も、思わず手を止めて見惚れてしまう。
すると、二人は響の前で足を止め、大きく目を見張った。
富士山のように盛りつけられたご飯と響を見比べて、風鳴翼は無言でほっぺたあたりを指さす。
ご飯粒がへばり付いていることに気づき思わず頬を赤らめる響の口元を、雪音クリスが苦笑しながらハンカチで拭ってくれた。
これが、響にとって待ちに待った憧れの人たちとの再会だった―――。
放課後、寮に帰りつくなり立花響は悶絶する。
「うがーーーーーーーッ! 最悪だよッ! 絶対翼さんにもクリスちゃんにも変な子だって思われたッ!!」
「うーん、それはわたしでも弁護の余地はないかな…」
「未来までそんなこというのーッ!?」
苦笑する親友に抗議の声をあげはしたものの、響の内心は別の部分でがっかりしていた。
―――やっぱり、わたしのことなんか二人とも覚えてないのかな。
二年前のライブ会場の惨劇。
何やら鎧みたいなものを着てノイズと戦っていたのはトライウイングの三人で、自分を庇ってくれたのは天羽奏で間違いないと思う。
でっかいお爺ちゃんがノイズを全部ぶっ飛ばした後。
わらわらとやってきた黒服の人たちに、響はどこかに連れて行かれた。
そこで、見たことは決して口にしちゃいけない誰にも話しちゃいけない、という誓約書にサインをさせられた。違反したら、最悪刑務所に入ることになるかもとの説明を受けている。
どうにか解放された時にはもう日付も変わっていて、呼ばれたらしい両親が迎えに来てくれていた。
返してもらった携帯電話を見たら、未来からの着信のオンパレード。
夜も遅いけど…とおそるおそるかけた未来の番号の向こうで、親友は盛大な安堵の声とともに号泣してくれた。
なので、ライブ会場で目撃したことを、響は未来にも喋っていない。
一度だけしつこく追及され、『トライウイングは正義の味方だった』と口を滑らせてしまったけれど、黒服の人たちは来ないからギリギリセーフなのかな? と思う。
同時に、未来に誤解を与えているとすれば、立花響はアーティストとしての『トライウイング』へと憧れているわけではなかった。あの時、あの場で、ノイズと果敢に戦っていた戦士としての『トライウイング』に心を奪われている。
人類にとっての天敵、特異災害ノイズを蹴散らし、多くの人の命を救った雄姿は、年頃の少女にとって強烈なインパクトと憧憬を刻み込んでいる。
彼女たちに少しでも追い付かんと思う心根は、響の人助けに拍車がかかった所以だ。
「それより、響。翼さんのCDって今日発売じゃなかった?」
「…え?」
「限定版って、そんなに多く発売されてるのかな?」
「わわわッ! ごめん、未来! ちょっと買い物に行ってきます~!」
スニーカーをつっかけ、響は制服のまま学生寮を飛び出した。
夕暮れの坂を駆けくだり、響は商店街を目指す。
学校帰りの学生、買い物かごをぶら下げたお母さん、様々な人と行き会う。
まずは目に付いた大手メディアショップへ駆け込むと、つい先ほど初回限定盤は完売したという。
「うわ~! 遅かった~~!!」
あまりにも落ち込む響に同情した店員が、コンビニにならまだ残っているかもと教えてくれた。
アドバイス通りに繁華街を走り回り、響はとうとう一番外れのコンビニまでやってくる。
店の表のガラス越しに限定盤のCDが飾られていることに思わず笑みを浮かべた響だったが、ふとその表情が真顔に戻る。
夕方の冷たい風が吹く。
どこか、懐かしい臭いがした。
それは郷愁を思い起こすものではない。
想起させるのは、あの時の
人の声が聞こえない。
人の気配を感じない。
思わず周囲を見回し、響はその臭いと共に過去の記憶を甦らせた。
道路に、コンビニの中に、無造作に転がる塵の塊。
それらは人の形をしていて、風にサラサラと散っている。
―――ノイズ!?
響が身構えるのと、女の子の泣き声が聞こえたのは同時だった。
「おかあさ~ん!!」
数メートル先に小さな女の子。そして左右の路地裏から、わらわらと沸いてくる小型ノイズ。
―――なんでこんなところにノイズが?
そう思う前に響は走る。迷うことなく。
女の子を抱き上げ、全力全開で後退。
しかし、逃げようとする道は塞がれており、響は仕方なくノイズのいない路地裏へ。
女の子の手を引いて、川へ飛び込み、狭い道を通り抜け、とにかくノイズのいない方向へ。
「しまった~! シェルターから離れた場所へ来ちゃったよ~!」
坂道を駆けながら思わずそう声を漏らせば、繋いだ手がぎゅっと握られる。
「あ、ごめんごめん。大丈夫だよ! 絶対お姉ちゃんが護るからねッ!」
女の子に安心させるように微笑みかけ、響は本気も本気だ。
しかし無秩序な逃走は、彼女を思いも寄らぬ方向へと誘う。
追い詰められた工場の一角。
そんの燃料タンクの上へと梯子を使って昇り切り、首に掴まった女の子を置いて、どうにか一息―――とは至らない。
広い燃料タンクの平面の上には、既にたくさんのノイズが待ち構えていた。
下からもノイズがわらわらと上がってくる。もはや逃げ場はない。
「おねえちゃん―――ッ!」
すがりついてくる女の子を庇いながら、響は必死で頭を巡らす。
傍目にも絶対絶命のピンチ。
だけど、響の頭には、諦めるという文字は存在しない。
絶対なんとかなる。
自分では無理なときは、きっと誰かが助けてくる。あの日のトライウイングのように。
そして、わたしは、必ず
グルルッ! と周囲に場違いの音が響く。
なにこれッ!?
思わず響はあたりを見回すも、どこから聞こえてきた音なのか分からない。
グルルルッ!
とまた音が響いた。
まるで獣のような唸り声に、ようやく響も気づく。
「うっそ。これ、わたしのお腹の音…ッ!?」
音は止まらない。空腹を報せる音ではない。本当に獣のような声は、まるでバイクのアイドリング音のようにどんどん加速していく。
思わず制服の裾をめくり上げた響は、自分の腹部が発光していることを確認。
ついには、おへそあたりから眩い光が溢れて―――。
同時刻。特異災害対策機動部二課発令所。
「街中に展開するノイズの追跡中ですッ! …これはッ!?」
モニターを凝視する藤尭朔也に続き、櫻井了子が顔色を変えた。
「アウフヴァッヘン波形が観測されたのッ!?」
次の瞬間、発令所内にアラートが鳴り響き、巨大なディスプレイに大きなアルファベットが表示される。
それを見た総司令風鳴弦十郎は、思わず立ち上がっていた。
「馬鹿なッ! ガングニール、だとッ!?」