風鳴訃堂は、かの日本の命運を別けた大戦の最中に生を受けた。
翌年には、日本は全面降伏し、その戦は終焉を迎える。
赴堂のもっとも古い記憶にあるのは、その敗戦の報せを受け、血涙を流す父、
当時、齢1歳に満たぬ訃堂の原風景はそれであった。
戦後の米国の占領政策による、日本国内の軍事設備及び機関の解体。
風鳴機関もその例にもれず、活動を停止させられる。
しかし、それは表向きの形であり、風鳴の一族は歴史の闇へと身を隠した。
再び陽の目を見る時までの臥薪嘗胆。
敗戦したとはいえ、国体は失われてはいない。
そう判断した当主風鳴雨竜は、嫡男となった訃堂へと手ずから教育を施す。
一族こぞって鎌倉の山奥へ押込められはしたが、その環境は訃堂にとって決して少なくない影響を与えている。
豊かな山河とその恵み。
それらあるべき姿の自然は、訃堂にとって格好の遊び場であり、故郷そのものであった。
母なる故郷に抱かれ、訃堂はすくすくと成長していく。
人並み外れた体格に秘められた膂力は、連綿と受け継がれた風鳴の血がなせる業か。
数えで十を幾つか超えるころには、その肉体は武人としての完成を見た。
あとは風鳴の誇りと、防人の生き様を、身を持って教えるだけ―――。
そう考えていた雨竜が高齢のために臥せったのもこの頃である。
訃堂は雨竜の末子であり、他の息子らは全員が大戦の最中に国に殉じていた。
生き残った他の一族も高齢者がほとんどで、訃堂へと身を持って訓示をすることも覚束ないものばかり。
考えあぐねた挙句、雨竜は訃堂に一人下山することを許す。
世間を見て、守るべき人と国をしっかりと見定めて来るのだ。
雨竜は、この末子が風鳴一族の歴史に残る傑物であると期待していた。
肉体もそうだが精神も頑強の一言に尽きる。彼奴ならば、世俗の毒にも染まるまい―――。
結果として、これが悪手だった。
喜び勇んで下山した訃堂が向いしは、やんごとなき方がおわす東京。
そこで彼の目に飛び込んできたのは、煌びやかなビル。その間を行き交うは着飾った人々。軽薄な音楽が街頭に溢れ、誰もが浮き足だって見える。
訃堂の見てきた神州日本とは違う光景がそこにはあった。
古の武人と思しき人間など影も形も見えず、そこいらにはかつての敵国の言葉は氾濫している。
まるで、母なる国土が巨大な毒虫に蚕食されているように見えたに違いない。
もっともこれも推測であり、訃堂の本心は決して余人には理解できるものではなかったのだろう。訃堂自身も、生涯誰にも語ることはなかった。
ただ、確かなのは、訃堂は期限が過ぎても一族の住む鎌倉へとは戻らなかったこと。
そしてこの時期、明らかに東京におけるチンピラや愚連隊の死亡者数は増加していたことが記録されている。
この時から数年、訃堂の消息は完全に途絶える。
その期間に起きたことを詳細に記せば、小説数冊分に相当するだろうが割愛させて頂く。
次にその動向が把握されたのは、やんごとなき方の下知により風鳴機関再興の命が下ったことに由来する。
雨竜が病身をおして、こちらも再編した緒川忍群の手のものを放ったとき、訃堂は京都に居た。
訃赴堂が京都で何をしていたのか。
こちらは打って変わって明確に記録に残されている。
京都は日本における古都であり、本来の日ノ本の神の子孫が住まう場所だ。
そこには、古の日本の佇まいと文化が色濃く残り、東の京ほど夷狄に侵されてはいない。
加えて、やんごとなき方の守護のため、国内屈指の武人たちとその末裔が居を定めている。
その武人たちが次々と叩きのめされていた。
道端で。道場で。路地裏で。山中で。
これはもちろん風鳴訃堂の仕業であり、この時の彼はまだ十代も半ば。
されどその体躯はすでに成人を凌駕し、その怪異な容貌から京都には鬼が出ると評判になっていた。
事実、夜にもなれば大通りの人通りは絶え、京都っ子たちは弁慶の再来かと噂しあったほど。
もっとも訃堂の破竹の暴れっぷりを鑑みれば、かの武蔵坊より源為朝といった方が相応しい。
そのことを把握した雨竜は、現代の鎮西八郎の跳梁を止めるべく、かつての同胞たちの協力を仰ぐ。
古来より日本国を守護する
それぞれが家名に地、水、火、風、空、木、雷、土、花の名を抱く防人の一族で、そもそも風鳴もその一家に過ぎない。
先の大戦で多くの家が断絶していたが、それでも残った各家より新たに育った精鋭たちが京都へと差し向けられた。
その中に、後の訃堂の朋友となる藍空冥法がいたのだが、この時点で面識はあるはずもなく。
玖桜衆の手練れの連携に、さしもの訃堂も手こずる。
一対一なら決して負けはせぬ、との自負のもと、一時引いたは広大な屋敷の庭先。
美しい庭園を、月光が青く染め上げていた。
そして、真夜中にも関わらず、その東屋に訃堂は人影を見出す。
その人影が妙齢の女性であることを見定めた瞬間、訃堂は彼女に心を奪われていた。
この時、岩戸琴音18歳、風鳴訃堂16歳。
二人の運命の出会いを経て、日ノ本の未来も大きく変わっていく。
鬼の跳梁は止まった。
京の夜を震え上がらせた百鬼夜行の噂は、ある日を境にピタリと聞かれることはなくなっていた。
もちろんその正体が若干16歳の少年であることは知られるはずもなく。
されど、玖桜衆も含め日本を守護する防人たちの間では、訃堂の蛮行と、それが終息したことは周知の事実だった。
なにせ訃堂が見初めた琴音の岩戸家も、古の昔よりやんごとなき方へとお仕えしてきた一族の末裔である。その血の霊験もあらたかで、抜きんでた才と麗しい容姿を持つ琴音は、岩戸姫と呼ばれ関西の防人たちで知らぬものはなき存在だった。
―――かの岩戸姫が、あの鬼を慰撫したらしい。
この国の影の世界は、この噂でもちきりだった。
そして噂の当人はというと、足繁く岩戸の屋敷を訪れて平然としていた。
岩戸家としても鬼の来訪を苦々しく思っていたが、実力で妨害出来る血筋ではない。
それでも、訃堂が琴音を手籠めにするようなことがあれば、玖桜衆を頼り、更に一家の総力を挙げて呪殺の儀を執り行っていただろう。
琴音は、京のやんごとなき方の血筋である貴顕に所望され、その家に嫁ぐことが決まっていた。
もちろんそんなことを露も知らぬ訃堂は、野山で摘んだ花を携えて日参を繰り返す。
岩戸本家は、その光景を、弁慶を従えた義経を見るように静観していたに違いない。
訃堂が尋常ではない胆力の持ち主であるならば、琴音も女傑だった。
不器用だがあからさまな好意をぶつけてくる少年に向かい、ある日忽然と言い渡す。
「わたしは、既に嫁ぐ方が決まっております」
鬼もかくやと思われる体躯を持つ少年である。彼にその気があれば一瞬で縊り殺されるだろう。
そのことを承知して、なお平然と琴音は訃堂と向かいあっている。
告げられた少年はというと、一瞬だけ虚を突かれた表情をした。
しかし、間もなく鬼神もかくやという凄惨な笑みを浮かべる。
「いや。おまえが俺が娶る。俺の嫁となれ。俺がそう決めたのだ」
傲岸不遜そのものと言って良い物言いだったが、実行するだけの膂力をこの少年は秘めている。
その言葉に、琴音は嬉しげな顔も、悲しげな顔もしなかった。
芸能の神である岩戸姫の異名を持ちながら、その表情こそまるで岩のように静かに不動。
「邪魔するものは殺すのですか」
物騒な台詞を事も無げに口にする。
「無論だ」
言下に訃堂は肯定した。
「おまえを得るためなら、後世に残るような屍山血河を築いてみせようぞ」
少年の台詞に諧謔の意味は全く込められてはいない。
つまりはこれが訃堂の本気であり、彼なりの愛の告白とさえ言えただろう。
そんな凄惨極まりない告白を受けても、琴音は顔色一つ変えなかった。
替わりに、物憂げな表情を浮かべる。
「貴方が、京の街で
今度は訃堂も面食らう。
懸想する彼女が自分の京での蛮行を知るのはともかく、その理由を尋ねてくるなど想定外。
この少年にしては珍しくしばし迷い、それでもようやく口にする。
その内容は、訃堂が決して余人に語ったことのない本心。
「…俺より強い相手を得るためだ」
恵まれた体躯と隔絶した技量を持つ訃堂。
そんな訃堂は、敗戦後に逞しく立て直されていくこの国を見て、絶望していた。
誰も彼もが利便性と豊かさを蟻の如く追い求め、そこに古の日本人の矜持を見出すことは困難だった。
東京では、武も柔も眠りについて久しい。
そう感じた訃堂は古都である京都へ河岸を変え、神州にあるべき武人の姿を追い求める。
その上で、個人として自分より強い相手を求めた理由は―――負けたかった。
自分を叩きのめすほどの武に出会い、そして導いて欲しかった。
未熟者と叱咤し、かくあるべしという理想と未来を掲げてくれる先達を求めていた。
しかし、悲しきかな。それは叶わぬ願い。
個人の武という一点に限れば、今の日ノ本に、彼に比肩しうる防人は存在しないのだから。
そのことを薄々察し、されど希望は捨てがたく、拳を固く握りしめる訃堂。
いつの間にかその巨大な手の上に、柔らかく嫋やかな手が重ねられていた。
「なれば、わたしが貴方の子を産みましょう」
弾かれたように訃堂は顔を上げていた。
その厳つい顔は、みるみると紅潮していく。
なるほど、それは盲点だった。
自分の血を受け継ぐ子が育てば、いずれは自分を打倒する
無論、訃堂が顔を赤らめた理由はそれだけではない。
娶るためなら邪魔するものは全て鏖殺するとの言葉が赴堂の告白であるならば、この答えは琴音なりの告白に相違ない。
気と気が通じ合った。若さの迸るままに、太い腕で琴音を抱きしめようとする寸前。
ぴしゃり!
訃堂の手の甲は、琴音のもつ扇子で打ち据えられている。
少年は傷ついたような顔つきになった。
そんな訃堂に向けて、琴音はゆるゆると言い放つ。
「貴方が力を振るえば、誰かが傷つきましょう。無体な傷を受ければ人が恨むが世の常。
そして恨みは無尽の呪いを産みましょうぞ」
この言葉の真意に気づけぬほど、訃堂は愚鈍ではない。
琴音は、力づくで自分を手に入れようとするのは悪手であると、訃堂の覚悟を一蹴しているのだ。
だからといって、この力を振るう以外、自分には何の能がある?
懊悩する少年へ向かい、琴音は初めて笑顔を浮かべていたかも知れない。
「皆から祝福を受けたそのとき、わたしは貴方に心から嫁ぎましょう―――」
かぐや姫の難題もかくや、と思われる言葉を受けて、訃堂はひたすら思い悩む。
その思いの深さに反し、時間は無慈悲にも過ぎていく。
答えを見いだせぬまま、二人は出会ってから二巡りの年を重ねていた。
そしてその年。
二十歳を迎えた琴音の輿入れの日である。
もはやこの時に至れば、訃堂が岩戸姫に執心していることは知れ渡っていた。
されど、この婚姻は多分に政治的な意味合いも大きい。
古の物語に伝えられるように、身分違いの悲恋で終わるであろう。
そう半数は楽観し、残り半数は悲壮な顔つきで身支度に勤しむ。
訃堂が岩戸姫を強奪しにくる可能性が捨てきれない。むしろその可能性は高い。
だけに、玖桜衆も含めた多くの防人が京の都へと集っていた。
やんごとなき方の傍流の婚姻において、これは異例のことである。
秋の吉日。都の大通りを、琴音の載った輿が粛々と進む。
多くの家人を引き連れた荘厳華麗な行列に、見物客たちは酔いしれた。
護りを固める防人たちの緊張に反し、輿は婿様のおわす屋敷の前まで至る。
輿から、着飾った琴音が降り立った。
このまま何事もなく輿入れの儀は終わるかに見えたが、そんなはずもなく。
屋敷の門から忽然と現れるは、屋敷の当主ではない。
風鳴の紋付袴を纏った、風鳴訃堂その人だった。
前もって警戒を知らされていたため、その姿を見るなり数人の家人が躍りかかる。
しかし、皆が皆、その場でピタリと硬直したまま動けない。訃堂の眼力で射竦められたのだ。
ここに至り、警護の玖桜衆も歯噛みして見守るしかない。
既に岩戸姫は訃堂の間合いの内だ。訃堂がその気になれば、瞬殺できる距離である。
訃堂は悠然と歩みよる。その顔に浮かぶ表情は、思ったより若々しい。
ひょっとして緊張していたのでは? そう推察されたのはかなり後日のことで、いまや輿入れ行列の誰もが訃堂の一挙手一投足に注目するだけ。
風鳴訃堂が岩戸琴音の前に立つ。
訃堂の常人離れした巨躯との対比では、琴音の身体は消え入りそうなほど小さく見える。
「琴音殿」
訃堂は語りかける。
「よくよく考えたが、お前の言ってくれたことの意味はやはりよく分からん」
あっけらかんとした口調だったが、琴音は真剣な面持ちで耳を傾けている。
「だが、おまえのことは、俺が全身全霊を尽くして、護ろう」
訃堂の大きな手が琴音へと伸びる。
そのまま肩を掴み引き寄せると、訃堂は琴音を抱きしめていた。
この様相に、防人たちは一斉に腰を浮かす。
さては飛んで逃げるか、それとも花嫁を抱えたままま暴虐の限りを尽くすのか?
どちらにしろ、ここから逃れられる道理はないと知れ―――。
果たして訃堂はというと、そのまま動かなかった。
ただ、全身を使い、覆うように琴音を抱きしめてその場を動こうとしない。
ジリジリと時間だけが過ぎていき、ここに至りようやく防人たちは訃堂の意図に気づく。
訃堂の巨躯は、ほぼ完全に花嫁である琴音の姿を覆い隠していた。
岩のような体躯に、不動の佇まい。
それはまるで伝承の岩戸そのものが出現したかのよう。
この様相に、婿である貴人が奇声を上げていた。
彼も琴音の美貌に心を奪われた一人であり、輿入れ目前の花嫁が、突如現れた巨人に抱きしめられている姿を見て尋常な心持ちでいられるはずもなく。
彼は、伝家の宝刀を引き抜いて、ためらいなく訃堂の背中を斬り付ける。
次の瞬間、その刀が折れ飛ぶ。
これには見物客も度胆を抜かれた。
なおヒステリックに叫ぶ貴人の命により、家人が数人がかりで訃堂の抱きしめた腕を解こうとする。
しかし、これもビクともしない。
人を集めて力を凝らすが、夜を徹しても訃堂は不動。
痺れを切らした貴人は、家人に武器の使用を許可する。
幾太刀もの斬撃が容赦なく浴びせられた。
鉄矛や鎚が何度も打ち据えられた。
それらはさすがに訃堂の肌を斬り、抉り、血を滲ませる。
足もとには血だまりが出来るも、それでも訃堂は動かない。
とうとう当時の日本では珍しい重機も搬入され、機械の力を用いて引き剥がそうとすら試みられたが、訃堂は決して琴音を離そうとはしなかった。
そうして三日三晩も過ぎれば、京都っ子たちの見る目も変わってくる。
それこそ身体を張って花嫁を護る男。そして、不平も言わず男の腕に抱かれ続ける花嫁。
最早、誰の目にも二人の紐帯は明らかだった。
なにより、本来の婿である貴人が諦観していた。
彼自身とて、一端の男である。
訃堂のやりように呆れると同時に、訃堂ほど全身全霊を込めて女を護るというその有言実行に感服するしかなかった。
婚姻はなかったことになり、岩戸家は臍を噛む。
されど、天駆・風鳴と称された防人一族と婚姻を結ぶのも悪くはないのではないか。
岩戸一族の総意はそのように傾く。
何より、琴音を抱きしめ続ける訃堂の姿こそが、防人としての真意を体現していたのだから。
「もう良いぞ」
生ける岩戸に手を添え、声をかけたるは風鳴雨竜。
すると、ゆるゆると岩のごとき筋肉が解け、花嫁が姿を現す。
三日も男の腕の中で過ごしたにも関わらず花嫁衣裳に汚れは見当たらず、当人はと言えば、心配そうに抱きしめ続けてくれた男の頬に手を添えていた。
「訃堂」
雨竜は、文字通り血達磨となっている末子へと声をかける。
「今日、この時より、おまえが風鳴の当主を名乗れ」
雨竜の頬を滂沱の涙が伝っていた。
彼は、一番手を焼いた末息子に、輝かしいまでの風鳴家の将来を見ていた。
その背後には、緒川忍群が整然と膝をついている。
父と背後に付き従う緒川國電らを一瞥し、訃堂は花嫁へと視線を転じた。
額から流れる血を拭いもせず、笑いかける。
それは、まったく若者の笑顔だった。
「おまえは俺の妻だ、琴音」
「…はい、旦那様。末永くよろしゅうお願いします」