その日、風鳴本邸を訪れた八紘は、心の底から後悔していた。
訃赴堂直々に「不測の事態だ」と緊急の連絡を受けて、正直頭が真っ白になった。
つい先日、知己の葬式に出席していたこともある。
次々と不幸な考えが脳裏を巡り、八紘は取るものも取りあえず鎌倉へと車を飛ばしていた。
たからといって慌てず騒がず、まずは情報を収集すべきだった。
これでは情報技官の名折れではないか!
許されるなら、自分自身を面罵したい気持ちでいっぱいである。
それでなくても、屋敷に到着した時点で誰も上の兄たちの気配がないことで、色々と察するべきだろうに…ッ!
しかし、後悔はいつだって先には立たない。
八紘は、横目でそっと隣に正座する訃堂の様子を伺う。
この土壇場ですら、まったく悪びれず堂々としている様は、我が父ながら尊敬に値するのではないか。
……いやいやいや!! やっぱりどう考えても父上が悪い!
心の中で首を振りつつ、八紘は視線を戻す。
それから恐る恐る正面を見上げた。
そこには、母である琴音が端座している。
未だ若々しい外見を誇る母は、まるで花のような笑顔を浮かべていた。
「それで? 訃堂さんは、どこぞの
「それは…云えぬ」
非常に珍しく、訃堂は声に苦汁を滲ませている。
「卒寿も越えておさかんなことですなあ」
コロコロと笑う琴音。
八紘は、こんな雰囲気を放つ母の姿を見たことはなかった。
ということはすなわち。
母は怒っている。
しかも尋常ではない激怒だ。
そしてその原因は、今、部屋の隅で安らかな寝息を立てている赤子。
訃堂のご落胤である。
これが普通の家庭であったら。
『すまん母ちゃんしゃーないんや! 昔の血が騒いだんや!』などと夫は言い訳に終始し、妻は無言で包丁を持ち出したことだろう。
だが、生憎、防人たる風鳴一族は色々と尋常ではなかった。
訃堂は、表面上は微動だにせず言い訳すら口にしない。
対する琴音は、包丁ではなく日本刀を手にしていた。
「おいたのすぎるモノは、ちょんぎっても構いませんわな~」
物凄い笑顔で琴音は日本刀を抜き放つ。
刃紋に、絡みあう蜘蛛が煌めいた。
「ぬッ、それは儂の群蜘蛛…ッ!」
愛刀の切っ先を突きつけられ、さすがに訃堂も眉を顰めたが、それだけだ。
真っ直ぐ琴音を見返す瞳の奥には、実に様々な感情が行き交っていたかも知れない。
だが、それをまだ若い八紘が見通せるはずもなく。
「ふう」
琴音の溜息とともに、切っ先は下げられた。
「では、なぜにその子の母親に手をお出しになったんです?」
この問いには、さすがに訃堂の双眸にも動揺が走る。
「…む」
「む?」
「む、娘を作ってみたかったのだ…ッ」
訃堂と琴音の間に生まれし十子は全て男。
未だ防人たちの家系でも万世一系の思想は強く、その意味に於いては、琴音は十全の働きをしたと言っても良い。
そこに来てこの訃堂の言い分である。
普通の防人の妻であれば激怒したであろう物言いであったが、やはり琴音は普通ではなかった。
「では、そういうことにしておきましょ」
おそらく、訃堂は生涯に数えるほどしかない言い訳を口にしている。
逆説的に、そこには重要な意味が存在するはずだ。
それを一瞬で看破し、追及を止めた琴音は、様々な意味で夫を信頼しているのだろう。
だが、やはり女である以上、感情と理性は別のようだ。
「わたしより若いお相手がよろしいんでしょうなあ…」
それは嫌味か、はたまた嫉妬か?
しかし、未だ彼女の容色は、今年で30を超えた八紘と比べても見劣りしないもの。
その妻の前で膝頭を固く握りしめる訃堂も、先述されたとおり卒寿を迎えていたが、実に矍鑠としていた。全身から迸る精力は働き盛りの男そのものだ。
全てが冗談染みて見える光景が、風鳴一族にとっては普通の日常だった。
「む…」
歯ぎしりし、珍しく額に汗を浮かべる訃堂は、さすがに妻に対する不義理を働いた自覚がある模様。
「しかし父上。相手の名は言えぬとなれど、秘したままにもしておけますまい」
とうとう八紘が口を挟んだ。
これは別に父を見兼ねたわけではない。
訃堂の子であれば、当然八紘にとっても異母妹である。
年齢の離れた兄弟など今さらだから、ほぼ30も離れた妹であってもそれは問題ではない。
もっとも重視すべきは、この娘が風鳴とどこの家の血を引いているかである。
今や風鳴家は、日本の政治の中枢へと食い込んでいる。
ここに来ての醜聞や、家同士の諍いなどが勃発してはたまったものではない。
すると、ジロリと訃堂は一瞥してきた。
「その心配は無用ぞ」
一喝を覚悟していただけに、淡々と返され拍子抜けする八紘。
「娘を産み落とし、母親は力尽きている。元の家名も断絶しておるで、後顧の憂いはない」
八紘は驚く。
訃堂のその物言いは冷たいようで、むしろ微かな傷心さえ伺わせた。
琴音も、訃堂の声音に何か察するところがあったらしい。
「つまり、この娘は親戚やらなにやらといったものはおらず、天涯孤独になったと」
「…うむ」
妻の問い掛けに、訃堂は重々しく頷く。
「それはなんとも都合の良い話ですなあ…」
全くその通りなわけだが、八紘は冷静に頭を働かせている。
とりあえずは父の言を信じ、後継や相続などの法律的な問題はないとしよう。
ならば残るは感情の問題だ。むしろ正答が存在しないだけに、こちらの方が数段やっかいなわけだが。
「母上のお怒りはごもっともです」
まず、八紘は琴音の味方をする。
「父上は、浮気をして子を成しました。これは既に母上と夫婦である以上、言語道断の振る舞いに相違ありません」
甲斐性のある男は、妻だけではなく妾も囲う。
戦国時代の頃は側室という形で一般的であり、近代史においてもそれほど珍しい話ではない。
事実、風鳴の歴史に於いても、幾人もの女を娶り子を産ませていた時代がある。
その例に則れば、訃堂は外に子供を作っても咎める道理はない。
だが、訃堂自身が、妻は琴音だけと公言していた以上、もうこれはどうしようもない裏切り行為だ。
「ですがッ! 父上の娘が欲しかったという言葉を信じるならば、そこは母上を慮ってのことと…!!」
「………」
琴音はハッとした顔つきになった。八紘は自身の言葉が届いたことを確信する。
琴音の旧姓岩戸家の祖先は、貴顕の血を護り伝えるために、様々な薬学上の知識や秘術を駆使する呪術集団である。
その一子相伝とも伝えられる秘術に、古代中国より伝えられし調気胎息法を用いた秘奥が存在した。
意図的に呼吸を調整し、代謝を押さえ、神仙の域へと至る。
その秘術を持って交われば、男女陰陽の互いの気を通わせることによって双方に若さと力を与えると言う房中術の側面も持つ。
そうして琴音は、子を孕んでいる十月十日は別として、一年のほとんどを眠りのうちに過ごす。
一か月のうちに三日間ほど目を覚ませば良いほうで、最近は目を覚ましている時間も短くなりつつあった。
秘術は琴音の肉体的な老化を抑えるも、寿命までは伸ばしてくれない。
一人の人間が十人もの子供を産むことも、よくよく考えれば尋常な話ではないのだ。
そこに秘術が介在するとはいえ、確実にその母体は蝕まれているはず。
おそらく、望めば琴音は未だ子を成すことも可能だろう。
だが、訃堂より年上の彼女にとって、それは確実に寿命をすり減らす行為に他ならない。
それでも娘を欲した訃堂は、妻ではなく外部の女に子を産ませることにした。
確かに浮気ではあろうが、妻の身体に対する想いやりも存在したことは間違いない…。
八紘の訴えを要約すればこうなる。
母の立場を肯定した上で、父の弁護を務めてみせた。
さて、どうなる? 鬼がでるか蛇が出るか…?
冷や汗を流す八紘の目前で、父と母は見つめ合っている。
そして、先に視線を逸らしたのは母の方。
「…ま、生まれてきた子に罪はないですからなあ」
これで喜びも露わに相好を崩すような訃堂ではない。
相も変わらず厳しい顔付きで、ふとこちらを見てきたことに八紘は気づく。
…まさか。あの父上が、私に礼を…?
正座したままの男たちを置いて、琴音は腕に赤子を抱えて戻ってきた。
「いい機会ですし、わたしも
晴れやかな笑顔を浮かべて見せたのは、訃堂に対する許しの意味もあったのだろう。
ここに至り、訃堂の厳つい肩からも少し力が抜けたような気がする。
これでめでたしめでたし―――なはずなのだが、八紘は思わず叫んでいた。
「ちょっと待って下さい! よもや本邸で育てるつもりなんですかッ!?」
「八紘さん、急に大声なんぞ出してからに。この子は訃堂さんの娘ですよ? そんなの当然ではないですか」
「いやいやいやいや、ちょっと待ってくださいッ!」
母は確かに一年の殆どを眠って過ごす。
なので、子育てはもっぱら乳母任せだった。
実際に八紘も乳母らに育ててもらい、三十路を過ぎた今でも、彼女たちと親交がある。
この業界的にも優秀な乳母が担保されているため、その点は心配していない。
八紘が心配することはただ一つ。
「その子は、女の子なんですよ? 男の子と違うんですよ!?」
「そんなん、当たり前のことと違いますか?」
きょとんと見返してくる母に、八紘の懸念はきっと伝わっていない。
八紘が最大限問題視しているのは、父である訃堂の趣味に他ならない。
確かに子供が男児であれば、それほど問題はなかろう。
だが、女児相手に、あんな特撮モノを四六時中見せて訃堂なりの英才教育を施した日には…!!
『冗談抜きで嫁に出せなくなりますよ!?』
そう叫ばないほどの分別が、いまの八紘には存在した。
なので、表面上は穏やかに自分を取り繕い、落ち着き払って進言する。
「父上。母上。その娘、私の子として頂けませんか?」
八紘は既婚である。
相手は、それなりの身元のしっかりした家の娘で、学生の頃から付き合った末の恋愛結婚だった。
国家中枢に近い場所へと就職し、たちまち頭角を現した八紘は、風鳴機関の後押しもあり重用された。
となれば、有象無象の政治的婚姻とやらが押し寄せてきたわけだが、八紘はそれらを跳ね除けて意中の彼女との入籍を果たしている。
風鳴一族の中からも反対する声が上がっていたが、それらを裏で押さえ、婚姻が上手く果たされるよう父が影で奔走してくれていたのを、八紘は結婚式を挙げてから知った。
父に感謝をするも吝かではなく、晴れて結婚生活も順風満帆―――とはいかなかった。
結婚して七年あまりが経過しようというのに、八紘夫妻に未だ子宝に恵まれていない。
これが八紘の方に責任があればまだ救われたが、問題は妻の身体的欠陥だった。
絶対に子を成せぬとは言えない。しかし、作れる確率はほぼ0に近い。
八紘も風鳴の一族である以上、後継者を成す義務があった。その子が成せないとあらば、口嵩のない親戚が煩いことこの上ない。彼らの面子を潰してまで結婚を強硬したのだから尚更だろう。
泣きながら妻に別れを切りだされたのも一度や二度ではなかった。
そのたびに宥めては、そろそろ養子をもらうかと検討していた今日この頃だ。
だがもし、この娘を貰えるのならば。
「………」
母も父も、黙って顔を見合わせた。
八紘夫妻の事情は、二人も知悉するところだった。
この娘を頂き、八紘の妻が出産したことにすれば良い。
周囲の反応も改善され、八方丸く収まるだろう。
それに真実この娘は風鳴の血を引く子供だ。親戚連中も口を挟めまい。
「だが…」
「妻のことは、私が必ず説き伏せてみせます」
訃堂の言葉を八紘は封殺。
最大の難関に思われるが、妻は元々子供好きな女だ。
子を成せないと弁えている以上、この娘を実の娘と思い、慈しんでくれるはず。
「なら、決まりですなあ」
琴音が赤子を渡してくる。
受け取り、八紘の胸を不思議な感慨が満たす。
弟である九皐や弦十郎を抱き上げた時とは違う感触。
それも当たり前か。この子は女の子だ。
そして、今日から私の娘となるのだ。
八紘の眼鏡の奥の目が細くなる。
父親になれないと思っていた男は、急遽父になることが決まってしまった。
普通の人間であれば戸惑うところだが、やはり風鳴八紘は普通の男ではない。
この娘がどのように育つかは分からねど、精一杯の愛情を注いでやることを密かに誓う。
両手足を動かし、無邪気に顔が見上げてくる。こちらを信頼しきった無垢な瞳に自分が映っている。
そのことに気づいたとき、八紘の両目には自然とじんわりと涙が滲んでくる。
誤魔化すようにゴホンと咳払いをし、さっそく父親の責務を果たすべく声を上げた。
「では、この子の名前を…」
「それはもう決まっておる」
八紘と赤子を見守っていた訃堂が口を開く。
「ち、父上?」
さすがに抗議の声を上げようとした八紘だったが、訃堂の鋭い眼差しを受けては口を閉ざすしかない。
反論を許さぬ、それでいて万感の想いを込めた声音で、訃堂は告げた。
「その娘の名は『翼』よ―――」