閑散とした公園のベンチに、一人の老人が座っていた。
持った杖に両手を重ね、そこに顎を載せている。
その老人の前にもう一人の老人がやって来た。
驚くほどの巨躯を誇る老人である。
白い長髪をたなびかせ、顔の所々に深い皺が刻まれていたが、全身から生命力が溢れている。
背中から見れば、壮年の男にすら思われたかも知れない。
そんな精力と迫力を感じる老人だった。
「待たせたか」
巨躯の老人―――風鳴訃堂がそう声をかけた。
「ああ、待った。待ちくたびれたわ」
ベンチの老人―――
「まあ、座れ」
冥法が訃堂にベンチを指し示した。
従い、訃堂は隣へと腰を降ろす。
その巨体に関わらずふわっとした体重を感じさせない挙動だった。
冥法が懐から四角い箱を引っ張り出す。箱に書かれた銘柄はゴールデンバット。
蓋を破り、一本引き出して咥えると、マッチで火を灯す。
美味そうに煙を吸って吐き出したあと、訃堂にも勧めてきた。
「やるか?」
「儂は煙草はやらん。それより、おぬしの身体に悪かろう?」
「最後だ。好きにさせろ」
取り合わず、たちまち冥法は一本を灰にする。
温かい風が吹きぬけた。
遠く、子供たちの遊ぶ声が聞こえる。
五月晴れの空は青く澄み、二人の老人を見下ろしていた。
「…先週、娘が逝った」
残った吸い口を灰皿へ擦り付け、冥法が言った。
「ッ!! そうか…ッ」
訃堂が呻くように呟く。
何人にも容赦はせぬ護国の鬼神。
そう謳われる威容が著しく減退している。
その理由を説明する前に、まずは藍空冥法と、その娘について語らねばなるまい―――。
藍空家は、風鳴家と同じく玖桜衆へと属する一家である。
空の名を冠する藍空家の特異性は、凶祓いに集約されている。
神州日本の中核たる貴人たちに降りかかる凶兆呪術の一切を祓う。
その代価は、盾とした己の身体。
様々な呪いに蝕まれて、藍空家の人間は代々短命を重ねていく。
藍空家が、別名『
藍空冥法は、赴堂より五歳ほど年長であるが、訃堂と同じく若くして藍空の当主を継いでいる。
藍空も、風鳴や他の一家と同様に、先の大戦に多くの一族の命を奉じていた。
それゆえのやむを得ない世代交代ではあったが、藍空家の場合、他家とはやや事情が異なる。
彼らは、神州日本を襲った空からの凶兆を、全てその身をかけて護り抜いた。
科学によって造られ落とされた二つの太陽も例外ではない。
人の身に余る膨大な力を、霊的な力を励起して退ければ、その代償は自身の命だけでは済まされない。
物理的な破壊力は呪いへと変換され、藍空一族の子々孫々まで波及した。
終戦時に六歳であった冥法も例外ではなく、一族の血を介して全身を呪いに蝕まれている。
その呪いさえなければ、おそらく冥法は、訃堂を凌ぐほどの最強の防人として日本の影に名を遺したことだろう。元々頑健であるがゆえに、呪いに侵されても老齢まで生きてこられたとも言える。
藍空一族は、もはや冥法以外、その枝葉まで死に絶えている。
むろん冥法も、藍空の血を絶やさないために様々な努力を厭わなかった。
健康な若い女に子を産ませようとしたが、頑迷な呪いは子を成すことさえ阻害する。
それでも諦め切れず、訃堂の呪切の儀などの協力を得て、ようやく子を成すことが叶ったのは、彼が七十の老境に差し掛かる寸前。
訃堂と同じく精豪であったからこその快挙だったが、生まれてくれた娘にもやはり呪いは及んでいた。
先天的に盲いて生まれた娘は、虚弱体質でもあった。
外を走ることは愚か十歳までも生きられないだろう。
医者からそう告げられた冥法は、防人としての活動から一切の手を引き、娘と余生をひっそりと過ごすこと選ぶ。
一族の深い業ゆえに短命に生まれついた娘だったが、真っ直ぐ聡明に育っていく。
冥法が惜しみない私費を投じた屋敷の一室は、無菌室染みた殺風景さはあれど、優しさに満ちていた。
その部屋で娘は点字を学び、幾つもの本を読む。
本も読めないほど体調を崩した時は、冥法が一晩中付き添い、昔語りをしたものだ。
もっとも世俗的な趣味に疎い男でもある。話題は、もっぱら朋友である訃堂の武勇譚に終始したらしい。
嬉しそうに語る父の話に、いつしか娘は強く引きこまれていた。
そして願う。
―――日ノ本一番の防人であられる、訃堂様にあってみたい。
父である冥法は、驚きつつもすぐに娘の願いを快諾。
傲岸不遜、唯我独尊を絵に描いたような訃堂をしても、朋友の頼みを無碍には出来ぬ。
激務の合間を縫って見舞ったとき、娘は十歳。
医師の見立てを裏切り、いまだ命の炎は燃えていた。
娘は喜び、訃堂の口から直接話を聞くことをねだった。
朋友の娘を突き放すわけにも行かず、不器用なりに会話を終えた時には、次の見舞いの約束をさせられている始末。
意外な娘の押しの強さに困惑する訃堂だったが、冥法に拝まれるとやはり断ることは出来ない。
そのまま奇妙かつあまりにも歳の差のある逢瀬は、五年余り続けられていく。
予想だにしない快活さと生命力を見せる娘に、冥法が一縷の奇跡を垣間見たとて無理なからぬこと。
そして十五の誕生日。
娘は、父親に頼みごとをする。
我儘を言ったことのない娘だった。
生まれついた身体のことで、父を恨むことのない娘だった。
粛々と己の宿命を受け入れて、ついぞ頼みごとをしたことすらない娘の最後の頼み―――。
打ち明けられ、驚き、悩み、顔を歪め。
結局、冥法は娘の頼みを受け入れる。
その日の訃堂は、彼なりに吟味した点字本の誕生祝いを持って藍空邸を
一歩邸内に足を踏み入れるなり、訃堂は立ち尽くした。
目前には、白装束を着て土下座する冥法が居た。
「頼む。娘の願いを叶えてやってくれ―――」
尋常でない態度と声音に込められた想いは、訃堂をして絶句させる。
押し黙る訃堂に対し、冥法はこう言った。
どうか娘を抱いてやってくれ、と。
「正気か」
訃堂は憤怒した。
女児を持たぬ訃堂は娘をもつ父親の気持ちなど分からぬ。
だが、朋友の言動は、逆鱗に触れるには十二分に過ぎる。
如何な目的があったとて、父が我が子を差し出すなど忘八の極み。
「違う」
顔を伏せたまま冥法は降り注ぐ怒気に抗う。
「これは、我が娘の望みしこと」
その物言いに、訃堂は今度こそ立ち尽くす。
「娘は自分の命数を知っている」
更に頭を低くして、冥法は朋友へと言い募る。
「その上で、娘ではなく〝女〟となって死にたいと望んでいるのだ」
「………」
訃堂は、男女の機微に疎い。若いころは商売女を抱いたことはあったが、娶った妻は琴音一人のみである。
その訃堂であっても、朋友の言葉の意味を悟らざるを得ない。
「…儂とおぬしの娘御と、どれだけ齢が離れていると思っている?」
訃堂にして珍しく歯切れも悪くなるというものだ。
「重々承知の上だ」
顔を上げて冥法。
「この老木のモノが、今更役に立つと思うてか?」
「似合わぬ謙遜はよせ。おぬしがその気になれば、もう一人や二人子は成せよう?」
冥法の指摘は、不躾であると同時に正鵠だった。
卒寿を越えてなお訃堂の身体は頑健。さすがに若い頃には及ばぬも、精力も旺盛である。
これは、妻である琴音との交わりにおける房中術の恩恵であったかも知れない。
「…なんにせよ、酔狂がすぎるぞ」
珍しく溜息をつく訃堂。
「伊達や酔狂でこのような申し出なぞするものか」
対して、冥法はどこまでも本気だった。
「儂なぞではなく、知己にもっと若い男とておろうが」
「貴様、おれの娘を愚弄するつもりかッ!?」
訃堂の返しに、とうとう冥法は声に怒気を漲らせる。
未だ防人の頂点にある男と、防人の頂点に立てたかも知れない男の目線がぶつかりあう。
その中心に氷柱でもあれば、溶けて穿たれそうなほど鋭く熱い視線だった。
先に視線を外したのは、果たしてどちらだったのだろう。
「…娘は、おぬしに惚れておる」
ポツリと冥法は呟く。
「それは無理もなからぬことだ。なにせ、おぬしの武勇譚を手ずから教えたのはおれだからな」
これが並みの娘であれば、単なる憧れであると一蹴しよう。
現実的にも祖父と孫ほどの年齢差もあろう。
だが、冥法の娘は、それを承知で訃堂に抱かれることを望んでいる。
そんな娘の望みを叶えようと朋友に頭を下げる、父の胸の内はいかばかりか。
短命の娘を守るためとはいえ、鳥籠のような部屋へと閉じ込めた。
そこで注ぎに注いだ愛情が、
…いや。歪であるは百も承知。
娘の欠けた命を補うために、冥法は自身の注いできたこと、間違っていたなど露も疑わぬ。
もしおれが間違っているというのなら、それは世俗が間違っているのだ。
鳥籠の世界に、人倫も醜聞も禁忌なんぞあるものか。
ただ、真綿のような優しさで包まれていればそれで―――。
そう思うがゆえに、冥法は朋友に頭を下げることに躊躇はない。
そして、その悲壮な覚悟は、確実に訃堂へと伝わっている。
「…儂は、琴音しか愛したことはない」
訃堂は言う。
「だが、このひと時であらば、あの娘御を愛してみせようぞ」
「…ッ! 感謝するッ!」
床に額を擦り付けんばかりの冥法の手を取り、訃堂は立ち上がらせた。
「仮にも儂の親父殿に、土下座させたままではおられんでな」
これが訃堂なりの諧謔であり、この男に一番縁遠いと思われている思いやり。
軽く笑い、一つ大きく頷き、冥法は顔から表情を消した。
そのまま後ずさりし、闇に紛れて見えなくなる。
友の気配が遠ざかったことを確認し、訃堂は娘の部屋―――鳥籠へと手をかけた。
「…お待ちしておりました」
娘の鈴のような声が出迎える。
中の灯りは、柔かな光を投げかけるランプが一つだけ。
薄闇の中でベッドに端座する娘を前に、訃堂は静かに膝を折る。
娘は、既に何も身に纏っていなかった。冷たいほど白く見えるシーツが、華奢な骨格と痩せた胸を辛うじて隠している。
美しかった。
炎が燃え尽きる寸前、一際妖しく揺らめく姿に似ていた。
「わたくしの申し出、理不尽と思われますか」
軽く息を乱しながら、娘は窺うように訃堂に言の葉を向けてくる。
「いいや」
静かに首を振り、訃堂はその壊れそうなほど小さな手を、自らの手で覆った。
「生きとし生けるもの皆が生きた証を求める。若いころの儂もそうだったわ」
その証は人それぞれによって違う。
訃堂とて、かつては自分より強い相手に敗れることを望んだ。
なぜにそれが証となるのか、その理由は誰にも理解してもらおうとは思わない。
だけに、訃堂は笑わぬ。
目前で裸で震える娘の望む証を決して笑わない。
訃堂の手を伝って、何かが伝播してきたのだろうか。
娘は静かに息を呑み、儚い
「では、どうかわたしに一夜のお情けを…」
「いいや」
再度訃堂は首を振る。
盲しいた目を見張る娘の肩に手を置き、そっと告げた。
「今宵のおぬしは、儂の妻ぞ」
娘の双眸から涙が溢れるの見つつ、訃堂は壊れ物を扱うように優しく華奢な身体を組み敷いた。
月が欠けるほどの時間をかけて睦みあう。
ことが済み、褥に横たわる訃堂の頬へ、娘は小さな手を伸ばす。
「…やはり、思った通りのお顔ですこと」
顔を撫でるこそばゆい感触に眉を顰めながら、訃堂は応じた。
「なに、もはや儂もただの枯れたジジイよ」
「そんなことありませんわ」
くすくすと娘は身じろぎする。
「少なくとも今宵は、訃堂さまはわたくしの旦那さま…」
光の浮かばぬ濡れた目を向けてくるのは、娘ではなく確かに
以上が、訃堂と冥法の娘の一切である。
あの夜以降、訃堂は藍空邸を訪れていない。
風鳴機関を国内の日の当たる組織へ再編するという一大事業に忙殺されていたこともある。
なにより、いかに朋友の頼みとあれど、あの一夜は妻琴音への裏切りに他ならない。
訃堂なりのけじめをつけ、もはや今生の別れと考えていたのに。
「…あの夜より、一年近くも命を永らえていたとは、な」
息を吐き、巡らす訃堂の思いは深い。
あの華奢な娘を抱いたとき、訃堂は精を放っていた。
もしかしたら琴音を介した房中術が効を奏し、娘の命の炎に継ぎ火をしてくれたのかも知れぬ。
「おぬしには、いくら感謝してもし足りぬわ」
冥法が新たな煙草を一本咥えると同時に、一枚の紙片を手渡してくる。
「…これは?」
「おれの信頼のできる者の住処よ」
マッチを擦り、冥法は近所に散歩でもいくかのような口調で告げた。
「そこに女の赤子を預けてある」
「…赤子、だと?」
「おぬしとおれの娘の子よ」
「…ッッ!? ほ、本当か、それはッ!?」
訃堂は狼狽えていた。
朋友の稀有な反応に、冥法は笑う。
されど、次の瞬間には、ドスの利いた声で釘を刺す。
「おれの娘を見損なうなよ? あいつにとって、訃堂、おめえが最初で最後の男よ」
「………」
複雑な表情で黙り込む訃堂に、冥法はふーっと紫煙を吹きかける。
「まあ、父親だったらしっかりと責任をとってくれや。なあ?」
若い頃の伝法口調に戻る冥法に、訃堂は苦虫を噛み潰したような顔をしつつ頷かざるをえない。
「…承知した」
その返答を当然とばかりに、冥法は煙草を唇の端で咥え、ベンチに背中を預けている。
長閑な沈黙が二人の間に横たわった。
不意に冥法は口を開く。
「なあ、訃堂」
「なんだ?」
「おれは、あの子のために良かれと思ってきたことを成したつもりだ。だが、あの子は名前の通り、雛のまま巣立つこともなく逝っちまった…」
藍空雛子。
それが冥法の最愛の娘の名。
「けれどよ。不思議なことに、あいつの幸せそうな顔しか思い浮かばねえんだ。おまえの
「……」
「おめえの血を受け継いだ子なら、きっと呪いなんぞ断ち切って、しっかりと空に羽ばたいていってくれるに違えねえ。そうだろ?」
「…ああ。儂が責任を持って養育してみせよう」
「ありがとよ。ようやっと肩の荷が下りたぜ」
冥法はゆっくりと顔を上げる。
「名前もおめえが好きに付けてやってくれ。おれぁ、藍空の血が残ってくれりゃそれでいい―――」
訃堂の見つめる先で、長い戦いと苦労を重ねてきた横顔がほころんでいる。
「ああ、空が目に沁みやがる。…綺麗な空だ………」
そのまま老人二人は、ベンチに腰を降ろしたまま空を見上げていた。
「…冥法?」
訃堂の声に、朋友の唇に咥えられて煙草の長い灰が、ゆっくりと崩れた。
軽く息を呑み、訃堂は目を閉じる。
次に見開かれた双眸には、はっきりと悲しみの色が浮かんでいた。
「何も今日、笑ったまま逝くこともあるまいよ…」
藍空冥法は、既に彼岸を渡っていた。
その全身を呪いに蝕まれ、それでも笑ったまま、もっとも信頼する友の隣で静かに逝ったのだ。
「…御前」
ただならぬ気配に、護衛の数人が駆け寄ってくる。
冥法の亡骸を抱えようとする手を、訃堂は止めさせた。
「良い。儂が運ぶ」
ベンチから立ち上がり、巨躯を折り曲げ訃堂は最後の友の身体を抱き上げた。
こんなに小さかっただろうか。軽かっただろうか。
「…俗世のことは安心して、あの世とやらで先に酒盛りでもしているがいい」
呟き、友の亡骸を抱きかかえたまま、訃堂は空を見上げた。
風が吹き、ヒラヒラと鳥の羽らしきものが舞い踊る。
その様に、訃堂はまだ見ぬ我が子に『翼』の名を与えることに決めた。
彼の子の母は、雛のまま空を舞うことはなかった。
されど、翼があれば、空を飛ぶことは叶うだろう。
そして翼は風に乗り、高く高く飛ぶに違いない。
このどこまでも広がる藍色の空の果てまで。