お天道様が見てる 作:落伍者
人相の悪い男たちが机を挟み、一列に向かい合って座る。本来であれば酒屋で円卓を数人で乱暴に囲んでいそうな人間たちが、むしろ整然と並んでいる光景は不気味ですらある。しかし私としては慣れたもので、気にすることなく自分の席に着く。卓上には、とても豪勢とは呼べない質素な食事が並んでいる。けれども誰として、それに不平を言うものはいない。
全員が揃っていることを確認すれば、私はいつも通りに手を合わせ、食事前の挨拶を読み上げる。
「私は今、太陽神の加護と民の恩恵によってこの清き食を受ける。品の多少を選ばず、感謝の心のもと、頂きます」
「「「「いただきます」」」」
それに従って他の信者たちも食事への感謝を読み上げる。一瞬の間の後、食器の鳴る音や喋り声が食堂を賑やかにしていく。信者たちの中には、今日の「善行」で感謝されたことを嬉しそうに話している者もいる。そんな様子を眺めながら、その輪の中には入りづらい私は向かいに座る親代わりの男に疑問を投げかけた。
「なあオッサン、『善行』ってなんだろな?」
「あん?そうだなぁ……」
それを聞いて、この悪人顔の老人司祭——アラナンは顔を更にくしゃっと歪めて言葉を探す。端的に説明できるような概念ではないからだ。エルーン族特有の耳が少し垂れ、言葉を悩んでいるのが一目でわかる。少し時間がかかりそうだ。パンを口に入れながら考えていれば、自然と目が上を向く。目に入ったのは助け合いながら生きる人々を描いた絵。
——「善行」。そのキーワードは私たちの暮らしと密接に関わっている。「レナトゥス教」と呼ばれる宗教を信仰している私たちは、その教え「隣人がために善行を為せ」というものに従っているからだ。毎日決まった時間に教会から街へ出て、「善行」を積んでいる。「出善行」と呼ばれるその時間は、荷物運び、赤ん坊のお守り、人手不足のお手伝い等々。教会の信者たちだけでなく、町ひとつを共同体=家族と見なして助け合うのだ。
レナトゥス教の在り方に思いを馳せている間に考えがまとまったらしく、アラナンが口を開いた。
「——ワシにもわからん」
「んん!?」
返って来た予想外の答えに、口の中のパンを喉に詰めそうになった。それを見てアラナンは笑いながら言葉を続ける。
「わかるのは、そいつが「善い行い」だってことさ。『善人による善人のための楽園』。ワシがよく口にする理想だが——この意味がわかるか?」
「あー、そうだなぁ……みんなが互いに助け合えたら、幸せな世界になるってことか?」
「そうだ。そのためには自分の中の悪因を滅さなきゃならねえ。欲に走ったりする悪因だな。だからワシらは太陽神様を信仰してるんだろ?」
私にはなんとなく、アラナンの言おうとしたことがわかった気がした。他人のために為せることをする。まずは自分のわかる範囲で「善行」を為すことが第一歩なのだ。それが毎日町へ出て行う「出善行」だ。あれは教えの実行であり、また修行でもあるのだ。
「他人の為にすることが全て善行ってワケじゃねえ。レナトゥス教の教えを無理矢理押し付けることだって、場合によっちゃ悪になっちまう。毎日の『出善行』は自分で『善行』を見極める修行も兼ねてるのさ」
レナトゥス教の教えが善いものだからといって、望まぬ人々に押し付けることは善ではない。悪因を滅することは、入信しなくても出来るからだ。私たちは皆、出自に何かを抱えている。そんな私たちだからこそ、太陽神の教えに従って悪因を滅そうと日々努力しているのだ。
「とにかく、他人の為に何かをしてやる心を忘れるんじゃねえ。それさえあれば、善行の輪郭は掴めるはずだ」
アラナンは司祭であるが、同時にまた信者でもあるのだ。彼もまた修行中の身であり、日々悪因を滅そうと善行を積んでいる一人なのだと、改めて私は感じた。
☆
「なぁオッサン、最も善い暮らしってなんだろう?」
そんな疑問を私が投げたのは、なんでもない日の午後だった。昼飯が終わり、「出善行」が始まるより少し前。
「私たちは善く生きてる、と、思うんだ。罰が当たらない程度にはさ」
胸を張ってスラスラと言えるほど自信はなくて、歯切れの悪い喋りになってしまったけれど、私は今「善く生きている」と思っている。町の人を助けて生き、悪事だって一度もしたことがない。
「私たちは人に尽くし合うだけで幸せなのかな?『幸せ』と『善行』って必ずしも一致しないと思うんだ」
時々町の他の子供を見て羨ましく思う時がある。自由に遊び、自由に学び、親と家に帰っていく。「善行」をして人の為に生きる私は、どうして満たされない思いの浮かぶ時があるのだろう。
「この身が擦り切れるまで人に尽くして、善行、善行、善行……って、そうやって死んだ人は幸せだったのかな?他の人はその人ほどその人に尽くしてくれたわけじゃなかっただろうのに」
私たちの奉仕する町の人々が、みんな完全な善人だと思ったことはない。もちろん私たち信者も完全な善人にはなりきれない。けれど、裕福で豊かな生活を送っている商人を見ると、自分の中の悪因がふつふつと湧き上がるのを感じてしまう。
「ああ、この道は大変かもしれねぇ。「善行」と「幸福」が一致しないこともあるだろうよ。でもな——」
「身を粉にして死ぬまで尽くせとは、太陽神様も言わないだろうよ。自分の出来る範囲で、無理なく互いに人の為に生きようじゃねえか」
人は何かに依ってしか生きることができない。一人でダメなら二人、二人でダメなら三人で……そうやって共に支え合って生きていくのだ。それが「善い生き方」であり、「尽くすこと」が教えの本質ではなかったのだ。私たちはあくまで「善い生き方」の実践者であり、伝導者なのだ。
「輪を広げることが大事なんだ。ワシらが率先して善行をして訴えかけて、善人による善人のための楽園を築こうじゃねえか」
幸せになってはいけない道理など、初めから存在していなかった。
「善く生きるってのぁ、まぁ、そういうことじゃねえのか」
善と幸福が一致しない、という意見もありますよね。動物的な本能に従った幸福と、理性によって導き出された道徳法則は一致しないとか。でもアラナンやレナトゥス教を見るに、彼らは幸せも噛み締めて、出来る限り善く生きようと頑張っている人たちに私は思えました。教えが全ての指針というよりは、生きる上での教えですね。なかなか面白いフェイトエピソードで、少し興味が湧いたので書いてみました。