そんな日の話。
小さい頃、一緒に遊んだ友人。
最後に別れを言った後のことを覚えていますか? 最後の別れの言葉は「さよなら」でしたか? 「またね」でしたか?
最後に見たその友人の顔、覚えていますか?
私が小さい頃。小学生の頃の話。
もう、昔々の話だね。
道路を挟んで向い側。私の家の前には同い年の友人がいた。クラスは結局、一回も同じにはならなかったけど、私たちはよく遊ぶ友人だった。
学校から帰ってすぐ、習い事とか用事がなければ会いに行った。
「◯◯ちゃん、あーそーぼ」
私が小学校卒業と同時に引っ越すまで、そういう繋がりは切れなかった。
たくさん遊んだよ。
近所を歩き回って小さい世界を冒険した。流行りのアニメの話をした。この歌は何の歌か、歌当てクイズを二人でやった。神社の下に流れる沢でザリガニやカニを釣った。仲間を誘ってごっこ遊びに夢中になった。
たくさんたくさん遊んだよ。
中学生になってからもたまに電話をした。いつだって長電話になっちゃったけど、しょうがないよね。
互いに部活で忙しくなった。話せる機会も少なくなった。両親も学校の先生も勉強しろってうるさくなった。ああ、これは私がもともとしなかったせいだな。
受験生になってからは互いに塾に行くようになった。どこの高校にいくのかな。気にはなったけど、結局連絡できなかった。
高校生になって、たまたま登校中に会った。自転車ですれ違った瞬間、誰だかわかったよ。
私たちは振り向いて名前を呼び合った。
あの学校に進学したんだね。
将来こういう道に進みたいんだ。
本当に少しの時間だった。でも、私はすごく幸せだった。
最後に私たちは言った。
「じゃあね」
また会えるかもしれないし、会えないかもしれないけど、その時会えてよかったと思うんだ。
「じゃあ」の次に来る言葉はさよならでも、またねでもどっちだっていいはず。
私たちは、笑って別の方へ走っていった。
大人になって、私たちは会うことがなかった。でも、まだ会えてないだけだと思うんだ。
また、小さなあの頃みたいに玄関のチャイムを鳴らして。
「久しぶりだね、◯◯ちゃん」
扉を開くこともきっとできる。
そう思うんだ。
ところで。
私がまだ小学生の頃、家の近くに友人がいたんだ。同い年ではなくて、家の場所もちょっと離れていたけど。
その友人たちは二組の姉妹弟だった。片方は姉妹、もう片方は姉弟。
姉の方が私の一つ下。妹弟はどうだったかな。覚えてないな。でも、同い年だったよ。
姉は姉同士、妹弟も同い年。彼女たちの家も道路を挟んで向い側。
つまり、四人は仲がよかったんだ。
その中におまけとして私が紛れ込んでいる時がたまにあった。
友人扱いされていたかはなんとも言えないな。でも、私が中学に上がって引っ越すまで何回も呼んでくれた。
一緒に遊ぼうって。
「××ちゃん、いますか?」
実はね。引っ越してからその子たちとは一回も会ってないんだ。だから名前も曖昧で、顔も声も全部が記憶の中でぼんやりとしているんだ。
あの子たち、どうしてるだろうな。
きっと大人になってるんだろうな。
なんでか、その場所のことはやけにはっきりと覚えているんだよね。
その子たちの家は新築で、他にも同じような新品の家がいくつか並んでいた。それは、分譲地というものだったのかもしれない。
すぐ近く、姉妹の家の裏の方には森があった。そう思っていた。
でも、今考えると違う。家が建っていた所が森だったんだ。森を拓いて住宅地を作った。
見えていたのは残りの木たちで、その向こうは崖になっていた。崖っていうのかはわからないな。そこにも木が生えていたし。でも、当時の私は「崖」っていう認識だった。
家が並ぶ区画に入る直前には小さな鳥居があった。その子たちに聞くと、そこにはお稲荷さんがいると言っていた。確かにキツネの石像があったかもしれない。赤い前掛けをした石のキツネ。
私たちは絶対にそこを遊び場として使用しなかった。面白半分でお参りみたいな真似はしたけど。
何であんなところにあったんだろう。
お稲荷さんの側にも森があった。ただ、そこから下に下りることができるくらい緩やかな坂になっていたから、私たちはよくそこを探検した。奥へ行くと竹林に変わって、子どもでも進めないほどではないちょっとしたダンジョンだった。
更に下へ行くとぽっかりと開いた穴があった。人が余裕で入っていける位大きく掘られた穴。入り口には入れないように柵がされていた。
なんとなく、近づいちゃいけない気がした。その子たちのお母さんたちにも行っちゃいけないと注意された場所。
その場所が防空壕と呼ばれる戦争の置き土産だと知ったのは、社会科の授業で暗い気分になったときのことだった。
どんな気持ちで穴を掘ったんだろう。この穴にどれだけの人が逃げ込んだんだろう。
この暗闇の奥は、どうなっているんだろう。
私は一人でよくその穴を見つめた。ただぼんやりと、見つめた。
誰もいないはずの暗闇に、幼い私は何を感じていたんだろう。
見つめるだけで何かかえってくるわけでもないのに、私はただその穴を見つめた。
懐かしい思い出だよ。
たくさん遊んだし、たくさん笑ったし、ケンカもしたし、おやつも一緒に食べた。
もう昔の話だよ。ずっと昔の話。
懐かしい雰囲気だけが心に刻まれて残ってるんだ。じんわりあたたかくなって、過去を思い出して浸る。
だんだん忘れていく記憶の中で、微かに残っているもの。
そういうものが生きていく中で大切な宝物になるんだろうな。
ぼんやりと、小さな子どもの彼らは思い出の中で生きている。
いつまでも。
キレイな記憶の中で。
たまに思い出す。彼らのことを。
あの子たち、どうしてるだろう。
きっと大人になってるんだろうな。
ある日、増えて溜まっていた部屋の荷物を整理した。本当に気まぐれだった。その時、その子に借りていたはずの物を発掘したんだ。
何でそれを借りたかなんて覚えていないよ。ただ、それには子どもの字で名前が書かれていた。そうだ、あの子の名前だ。唐突に頭の中で蘇ってきた。
その子は姉弟の家の方だった。気が強い姉妹よりも、実は私はその子との方が気が楽だった。
返しに行かないと!
何年も、二十年近くも経っていたのに、急に返しに行かないと。そう強く思ったんだ。何かに呼ばれたのかもしれない。
一体何に呼ばれたのか。そんなの全くわからない。
本当に今さらだったんだよ。それに、返す物も物だった。バケツだよ? なんでそんなものを借りたのか、全く覚えてないし思い出せない。
だから、重要なのは「バケツを」っていうとこじゃないの。「返しに行かないと」って思ったこと。
こうして私は昔住んでいた家に戻った。当時の家はもうそこにはなかったけど。
だけど、そこに立つと蘇ってきた。不思議だよね。
何回何十回も通った道。この道をこっちへ行けば何があった。あっちへ行けばあれがあった。
いろんなものが変わっていた。なくなったものもたくさんあった。増えたものも。
だけどわかるんだよ。思い出すんだ。
あの子の家はこの道をまっすぐ行ったところ。突き当たりにはお稲荷さんの赤い鳥居が見えてくる。そこを道沿いに右へ曲がる。そこには家がいくつか建っている。その中の一つがあの子の家だった。
私は道を歩いた。小さかったあの頃みたいに。今でもそこにいると信じる、年下の友人と会うために。
もしかしたら会えるかもしれない。
覚えていなくても、バケツだけ置いていけばいいや。たかがバケツだ。置いて、押し付けて帰っちゃえばいいや。
渡さなくて、渡せなくて後腐れが残るのだけは嫌だな。後味が悪い。
そうだ。運がよくて、もしあの子に会えたらこう言おう。
「久しぶり。覚えてる?」
そう言って笑うんだ。
私の足どりは軽かった。
何度も歩いた道を歩く。
先の方に小さな鳥居が見えてきた。色褪せて、くたびれてしまったお稲荷さんが変わらず座っていた。
何度も何度も往復した道を歩く。
道を曲がればすぐそこだ。いくつも家が見えてくる。
そう、いくつもの家が見えてきた。
人の気配が全くしない住宅地がそこにはあった。
足が止まった。あんなに軽かった足が。
そこは確かに記憶通りの場所だった。でも、誰の声もしなかった。
時間を重ねた建物。カーテンや雨戸が閉まりきった窓。車が一台も入っていない車庫たち。門の柵は鍵がかかっているのかがたがた揺れるだけ。
最後に見たその場所はもっと明るかった。日が当たってあたたかかった。たくさんの声や、音が聞こえていた。
喋り声、笑い声、子どもや妹弟を叱る声、泣きわめく子どもの声。でも、やっぱり多かったのは笑い声。楽しそうに生活する、家族の声。
私の年下の友人たちを含めた住人たちの声が聞こえていた。
聞こえていた、はずだった。
だから、時間が経ってもその場所は変わらない。そう思っていた。
こんな風に変わってしまうなんて、思わなかった。思いたくなかった。
彼らの未来は光輝いて、希望に満ちていたはずだった。それなのに、なんでこんな風になってしまったんだろう。
外側だけはあの日のままで、中身だけが空っぽにされて置いていかれた家たち。
その場所は私の知らないうちに冷めきってしまった。
私は、気がついたらあの子の家の前に立っていた。何度もチャイムを鳴らしに玄関へ立ったあの家。
他の家と同じように閉じられ、物音すらしないあの家。とても、冷えていた。
だけど、なんでだろう。
その家だけ、なにかの気配がした。
私はしばらくそこに立ち続けた。
あの子は、あの子たちはどこにいるんだろう。そう、ぼんやりと考えながら。
どれくらい時間が経ったのか、私はやっとそこから帰ろう思った。そこにいても何も変わらないから。何もわからないから。
ただ、どうしてもバケツだけは置いていこうと思った。だから私は記憶を頼りに、家の裏手へと回った。そこには水道があった。多分水ももう出ないだろう水道の蛇口に、私はバケツを引っ掛けた。
さよなら。
私は心の中で言った。楽しかった思い出に、別れを告げた。
自分の唇が乾いて、頭が冷えていくのがわかった。
全部終わったんだ。きっと望んだ通りの、後腐れのない終わり方だよ。
そう思おうとした。でもやっぱり寂しくて、私はまたしばらくそこから動けなくなった。
どんな顔で私はあの子の家を見ていたんだろうね。
不意に、後ろから声が投げ掛けられた。それも私を更に突き落とすような言葉が。
「そこの家の人は亡くなりましたよ」
私ははっとして振り向いた。誰かいるなんて。
背後に立っていたのは一人のお婆さんだった。いや、お婆さん、と言っていいのか迷ってしまう。
彼女は短い白髪で、背がひょろりと伸びていた。がりがりに痩せていて、手には皺がたくさんあった。
私がお婆さんと言いにくいのは彼女の雰囲気からだった。
腰が曲がるなんて無縁の真っ直ぐ伸びた背筋。ほとんど傷んでいないだろう白い髪。なんと言ってもギラギラとした目。
私の中にある「お婆さん」のイメージから彼女は遠かったんだ。
それから、彼女の言ったことがじわり、じわり、と、頭に、脳に、染み込んできた。
なくなった
だれが
あのこが
あのこたちが
あの、かぞくが
なんで
いつ
どうして
私は固まった。言葉が染み込んだ脳は理解しようと動き出す。だけど変な甲高い音がして、頭と胸が痛くなる。
もう、あの人たちは、どこにも、いない。
息苦しくなった。息が吸えない。息が、吐けない。
それでも、やっと吐けた言葉に意味はなかった。
「なんで」
私は彼女を見た。たくさん言いたいことも聞きたいこともあった。でも、ひとつだって伝えることはできない。
ここはどうしたんですか? あの家族たちはどうしたんですか?
頭がぐちゃぐちゃして、うまく動かせない。
彼女はそんな私に問いかけた。
「貴女はどうしてここに」
私は淡々と過去を語った。昔一緒に遊んだ友人たちのことを。そのうち頭に冷静さが戻ってきた。それと一緒にやって来たのは、悲しいという感情だった。
ここはああいう場所だった。ああいう人たちがいたはずだった。それなのに、どうして。
私は彼女を見た。見たこともない人だった。
私の聞きたいことが伝わったのか、彼女は顔を家の隣に向けてこう言った。
「私はそこに住んでいます」
彼女は、あの子の家の隣に住む住人だった。見たこともない人だった。
彼女の家の玄関へ続く数段しかない階段に座って、私は話を聞いた。そこからは蛇口に引っ掛かったバケツが見えた。
彼女の話は、私が中学生になって引っ越してからの続きの昔話だった。
「ここらはもともと分譲地として整備され、家が建てられ、そして売却されていったのよ」
知っている。そのうちの一つにあの子たちも住んでいた。
「みんな普通に生活していたわ」
それも知っている。だって、私たちはあの日までは笑って一緒に遊んでいたんだから。
「でも、いつからか変なことが起こるようになった」
変なこと?
「扉が突然閉まったり。棚から物が次々と落ちたり。真夜中に家族のものじゃない悲鳴が家の中だけに聞こえたり。庭に動物の死骸がおかれていたり」
それは、怪奇現象、っていうんじゃ。
「家だけ残して人は次々と出ていった。だから、今は空き家だけが残ってるの」
だから誰もいないのか。引っ越したなら、そうなるよね。引っ越したなら。
「ただ、隣のあの家」
あの子と、弟と、その両親であるおばさんとおじさんの四人が住んでいた、あの家。
「あの家に住んでいた家族だけは家を出れなかった」
出れな、かった?
「まず子どもがいなくなった。姉と弟が行方不明になった。私たちも探すのを手伝ったけど、見つからなかった」
いなくなった。
「次に父親がいなくなった。警察に届けたけど、結果は変わらなかった」
一度だけ見たことのある、おじさん。
「最後に、母親がいなくなった。毎日、一人で泣いていたわ」
遊びに行くといつも笑ってあの子を呼んでいた、おばさん。
いなく、なった。
みんないなくなってしまった。
どこに?! いつ?!
一体どうして!!
私は思い出した。
引っ越した後、一度だけあの子の母親と偶然会ったことを。
あの人は笑っていたはずだった。私のことに気付いて声をかけてくれたんだ。何年も前の、娘と息子の遊び仲間。たったそれだけなのに覚えていてくれた。
「今はどう?」
私の今を心配して、様子を聞いてくれた。
私はそれがすごく嬉しかったんだ。
それなのに。
ああ、でも。最後におばさんとこの近くで会ったとき、一人だったな。それに、おばさん、子どもたちのこと、一言も、私に話さなかった。
もしも。あの時点で既にあの子たちがいなくなってしまっていたら。
私はすっと血の気が引いていくのがわかった。
あの家族は一体どこへ。
あの子たちはもうどこにもいない。その現実が私には痛かった。まるで、鋭く尖った冷たい氷の破片が自分に降り注いだようだった。
私と一学年しか違わなかったあの子。一歳しか違わないのに、どうしてその未来はこんなに違ってしまうの。あの子が、あの家族が何をしたの。ずっと笑って、一緒に遊んでいたのに。
「普通の」家族だったでしょ?
どこにでもある、「普通の」家族だったでしょ?!
なんでそんなことになるの?!!
私は信じたくなかった。信じられなかった。だから、事実だけを話す彼女に向かってこうとだけ言った。
「ここは『普通の』場所じゃなかったんですか?」
彼女は私にこたえた。
「知りたいですか? 家の中に入ってみますか?」
私は、あの子の家の中に彼女と一緒に入った。
頭のどこかでサイレンが煩く鳴り響いていた。此処は危険だ。此処は「普通」ではない。入ってはいけない。入るな。後悔するぞ。
何にも知らずにのうのうと生きてきた自分以上の後悔なんてしないよ。
私は、家に入っていった。
「行方不明」となってしまったあの家族の祖母にあたるという彼女は、住人が消えた後、鍵を預かる身として隣の家に住み始めたそうだ。その鍵を使って、彼女は玄関の扉を開いた。
扉が開いてすぐに私の目の前に広がったのは埃が積もった玄関。何足か靴も置きっぱなしになっていたけど、それも同じように埃の下。
でも、確かに見覚えのある玄関だった。小さかった頃、何回か家に上がってあの子たちと遊んだことがあったから。
私たちは靴を脱ぎ、適当に揃えて置いた。そして、ぎしりという音を立てて床を踏んだ。
彼女のあとを追いながら、私は家の中を見て回った。その間、彼女は家の話をした。
ただの不動産による悪知恵だったのよ、と。彼女は切り出した。
この土地はどうしても売れなかった。おそらく森や竹林に面していたこと。そして、すぐ近くには稲荷や防空壕が残ってしまっていたこと。それらが理由でずっと分譲も整備もすることができずに残ってしまっていた物件。それがこの区域を含む土地だった。
それがある時、ぽんと売れてしまった。
それまで一度も、そんな話などあがったこともなかったというのに。
でも、不動産にとっては嬉しいことであった。彼らはどうしても早々にこの土地を売り払いたかったらしいから。
彼女は廊下を静かに歩きながら続けた。
私たちは誰も知らなかったのよ。彼女は溜め息とともに吐き出した。
それがわかったのはもう手続きも全て終えてしまった後。中には、誰か変に思った人もいたかもしれない。気づいた人もいたかもしれない。
土地情報を似た条件の物件と入れ替えていたの。彼女は苦い顔をしていた。
でもそれは、自分に出されたお茶が苦かった程度の顔だった。たかがその程度の苦さ。だから、それはこうなってしまったことの原因ではないのだと思う。
気の強い人は抗議もしたでしょう。でも、結局整備が終わって家が建てられて、これからここに住むという段階になってしまったらそんなのどうでもよくなったわ。
だって、住みやすい「普通の」家だったんだから。
彼女は振り返って、私の顔を見た。
「知らなかったのよ」
その言葉が私に重くのしかかった。
「私たちは余所者だったから」
なんで情報を入れ替えただけで、すんなりとこの土地が売れたのか。それは、正しい情報の中に危惧することがあったから。地元の人が誰でも避けようとする面倒なモノの印が、そこにはあったから。
それは、住所だった。この区域だけの住所の名前。
ずっとずっと昔から変えられることのなかっただろうその名前は、此処がどんなところか示していた。
余所者が見れば、ただの名前。なんにも感じるものなどない、ただの名前よ。でもね。地元の人は絶対に関わろうとしない名前らしいわ。
だから、決して売れることはなかった。
でも、名前さえ隠してしまえば此処がどんなところか、地元の人にさえわからないみたいなのよ。
私はその名前を聞いた。でも、彼女は顔を横に振って
「私も知らないの」
とだけ言った。
不動産の他の人たちが入れ替えに気づいたとき、それはまずいと正式に名前を別のものに変えたらしい。だから、昔の名前を知る人はもういないそうだ。
それでも。
こんなことになってしまった。
私は、彼女の手によって開かれた二階の子供部屋の中を見た。雑貨の多い、女の子の部屋。私の友人であるあの子の部屋だった。
カラフルな雑貨が溢れる、賑やかな部屋だった。今では埃に埋もれて荒れてしまったモノクロの部屋だけど。
でも、確かに覚えているあの子の部屋だった。
ただ、記憶の中のものと違うのは、あの子の部屋にもあの子の弟の部屋にも、ランドセルがなかったということ。代わりにどこかの学校の制服がハンガーにかけられていた。
カーテンが締め切られた部屋は、いるはずの主だけを置いて時間を重ねていた。
薄暗い二階の廊下を歩き、私たちは階段を降りてきた。ぎし、ぎし、と重い音が耳に響く。
そして、徐々に周囲は家の建つ工事の前へと変わっていった。
一段、また一段と階段を降りるにつれて、頭がぼんやりとしてきた。霞がかかったように自分で考えることができなくなってきた。周りの音も消えて、目の前の色が古い写真みたいに色褪せて見えた。
それでも体は勝手に動く。踏み外すこともなく、私はちゃんと階段を降りきって一階へ戻ってきた。
そう。まるで意識のある夢を見ているみたいに。
操り人形って、きっとこんな気持ちなんだろうね。
自分じゃない、なにかの意思で体が動かされる。それが当然のことのように。運命であるかのように。
それを、不思議に感じない。
埃で被われたフローリングのはずの床が木の板切れへと変わる。
私の足は、滑るようにその木目をなぞっていく。
周りはもう、知らない小屋となっていた。家なんて言えない簡易な見窄らしい小屋。
足の長い食卓が折り畳み式の平たい長机へと変わる。公会堂とかにある、集会を開くときによく使う、あの机。そこへ、一人、また一人と席に着いていく。
でっぷりとした、シャツにネクタイを首に巻いた偉そうな男性。工事現場にいそうな、筋肉ががっちりついた作業着にタオルを頭に巻いた男性。その二人がまず、机を挟んで座りあった。あぐらを組んで座る姿は、いかにも古くさい昔の男性だった。
二人の周りに人が増えていく。シャツのグループと、作業着のグループ。
今、太った男性が机を叩いた。作業着の男性が立ち上がった。どちらも怒っているようだけど、私には何の音も聞こえない。ただ、彼らが言い争っている。その様子しか私には届かない。
何に怒っているのか。何を話しているのか。
何を、しているのか。
何を、しようと、しているのか。
私には、わからない。
私はただそこに立って傍観していた。ただ、それだけだった。
頭の中は真っ白で、その映像という情報だけが視覚を通して送られてきた。
私はそこにはいなかった。
そこには存在していなかった。
だって。
それは、過去の情報に過ぎなかったんだから。
私は立ち続けた。
目の前にあるはずのない過去という情報を、この目にうつしていた。
ふと、私は机の上に目をやった。そこには一枚の紙が広げられていた。
どこかで見たことのある図が描かれていた。
入り口には鳥居のマーク。そこから道を挟んで家が一個、二個、三個。
それは、あの子が住んでいた「あの」分譲地の地図だった。
彼らは、あの場所を作ろうとしている。
私が知るはずもない、不動産と工事関係者たちがそこには集まっていた。多分、そうなんだ。
彼らの言い争いは更に激しくなった。
一体何に怒っているの。何を焦っているの。
そして、とうとう工事は始まってしまった。
始まってしまった。
始めてしまった。
ガラス越しに、重機で穴を掘っている様子が見える。音も、声も、振動も、何も私には届かないけど。
ただ、彼らは、穴を掘っていた。
ガラスという異物を挟んで、私はただ見ていた。
何も思わなかった。
地面を掘る。人が、重機が、シャベルが。掘っていく。黒みがかかった茶色い土が地上へと山になっていく。
地面が、ゆっくりと掘られていく。
穴が、大きくなっていく。
多分、この家のあるところだよ。
視界の隅に木屑と石がまとめられている。枝とかではなく、箱の材料だったもの。そんな風に私は感じた。
大事なもの、じゃ、ないの?
そんな風に、扱って、いいもの、なの?
ざわり。と、胸騒ぎがした。
ヤッテハ、イケナイコト。
このひとたちヤってる。
直感的なものだった。
ううん。地元民っていう本能が、ナニかを感じていた。
ヤバいよ。ヤバい。この人たち、やっちゃいけないこと、してる。
私は、ただ見ているだけだった。
彼らはやってはいけないことをした。
そこにあった小さな祠を壊して、お祓いすらしないで、何にも対策すらしないで、蔑ろにして、そこを掘った。
掘ってしまった。
詳しいことなんて何にも知らないよ。
ただ、最後の最後に残っていたはずの名前を消した時点で。何か悪いことは始まる準備を始めた。
そう思うよ。
地元民でさえ忘れてたのに、無意識で避けていたモノ。
そんなものを、彼らは何にも知らないで、知ろうともおそれようともしないで。
掘り起こした。
知らないよ。
それが何か。昔、其所に何が在ったのか。其処に何が遇ったのか。そこで何をしたのか。
もう、だぁれも知らない。
だぁれも教えてくれない。
だから、知らないの。
知らないままでいなくちゃいけなかったんだ。
なんにも知らない私たちにできることは、知らないまま蓋を閉じ続けること。それだけなんだ。
やってはいけないことをやらせないために、古い旧い地元の人は印をつけた。名前という印を。
それを、無知な外から来た余所者は、いとも容易く破ってみせた。
こんなものこわくなんてないぞ。
それは勇気でも利口でもない。ただの愚かな無謀だ。
だから私は余所者が嫌いなんだ。
私たちのことを、中のことを知ろうともせずに知ったつもりになって、勝手に手を出そうとする。
だから嫌いなんだ。
彼らは掘った。
彼らは。
掘ってしまった。
土の下から木の板が見える。大きい。なんでこんなところに。
彼らはそれを壊した。手は全く止まらなかった。
壊された木の板の下には暗闇がぽっかりと置かれていた。
それは、明らかに人の手によるものだった。
誰かが「こう」した。
なんで? なにを?
なんのために?
知らなくてもいいことだよ。
触れないでいればそれでいいの。
知ってしまえば、触れて開けてしまえば後戻りはできなくなる。
知りたいでしょ。
知りたくないでしょ。
知らなきゃいけないでしょ。
知っちゃいけないでしょ。
どれが正しいのかなんてわかんない。でも、私は確かにそれを見ていた。
彼らが、よそから来た愚か者が、何を仕出かしたのか。見てみろとばかりに、事実が眼前に突き付けられていた。
私からは見えないはずの角度。絶対に見えないはず。でも、なぜかその暗闇の中がどういう造りになっているのか、私にはわかった。
きっと、覗き込んでも見えないはずなのに。
大きな木の板の下、それを本当だったら退けると、ぽっかり暗い四角い穴になる。
そこに明かりを近づけると、四角い穴にぴったりとはまった大きな白い石。そのてっぺんが見える。白い石は穴の奥の奥まで続くほど縦に長く削られている。そう、塞ぐ為にわざわざ削り出された物だよ。塞いで、蓋をして、重石をして。
決して。決して! 何があっても!! 絶対に!!! この世が終わっても二度と開いてはいけないモノが!!!
其所にはある。
一つの木箱が、暗闇の奥深くに埋められている。
たくさんの御札と、呪術の込められた神聖な布。きっと、そんなもので厳重に厳重に箱は包装されて閉じられていたはずの木箱。
絶対に、絶対に、開かないように釘や仕掛けで閉じ込めて、蓋をして、石で封をした木箱。
中に何が入っているかって?
知るわけないじゃん。
知るはずないよ、そんなの。
知っちゃいけないモノが中に入ってるんだ。
だから、箱の中は見ちゃいけない。
開けてみちゃいけないんだ。
二度と開くことのない、永遠の闇の中にあるはずのそれ。そう、真っ暗な。
暗く、黒く、どこまでも続くような闇の中の。
深く、深い、どこまでも落ちていくような闇の奥の。
底のほうに。
なにかが、いた。
何もしなければよかったんだ。触れないで、壊さないで、見ないで、気づかれずにいればそれでよかったんだ。
でも、彼らは禁忌を犯した。
壊された木の板の真下は、一面の白い石のはずだった。でも、なぜか。なんでか。どうしてか。
隙間があった。
暗く冷たい空洞。
その下には。
木の扉が見えていた。
彼らは禁忌を犯した。過ちを犯した。
空洞の奥の方に興味を示した一人が、白い石を退かそうと太い木の棒を差し込んだ。てこの原理で力を加えられた石は、ほんのわずかに隙間を広げた。広げてしまった。
別の一人が空洞を覗き込む。何か言っているようだ。私には聞こえないけれど。
空洞から冷たい空気が吹き上げてくる。
下から、上へ、体温を奪い取るような冷たい空気が上ってくる。血や肉や腐ったものや吐き気のするようなどろどろしたものが、上へ上がってくる。
何かはわからないけれど、何かは解らないけれど、分かりたくもないけれど、きっと、きっと。
ヤバいもの。
彼らは禁忌を犯した。過ちを犯した。取り返しのつかない、悔いることすらできない愚かで大馬鹿な業を犯した。
アレがやって来る。
深い闇の底に埋まる木箱の蓋は、決して開かれることがないはずだった。あれだけ大きく重い石で封じられていたのだから。
でも、彼らはそれを退かしてしまった。
ほんの少しだけ、アレが出て来れる隙を愚かにも自ら作り出してしまった。
音を例えるなら、そうだな。「するり」、とかかな。
底なんてあるはずのない暗闇の奥底に何かが開く気配がした。石の下に敷かれていた木箱の扉が、ゆっくりと、横に、動いていた。
そんなことにも気づかない彼らは変わらず作業を続ける。石を退かそうと重機を持ち出す。時折、誰かが穴の下を覗き込む。
石が、斜めに大きく傾いた時だった。
ああ、なんて愚かな。
それまで全く音なんて耳に届かなかった私の耳に、誰かの悲鳴が叩きつけられた。
一人が暗闇の下を覗き込んでいる。悲鳴をあげた。別の一人がそれを聞いて駆けつけてきた。別の悲鳴があがる。
下から何かが上がってくる。下から何かが上ってくる。暗闇からアレが上ってくる!
音もなく、気配もなく、浮かび上がるように、それはゆっくりと、彼らの前に姿を現した。
闇からすらりと見えたものは真っ白な、血の気の通わない手だった。いっそ美しいと思うくらい真っ白で、傷なんてない、生きていない死者の手だった。
それが穴の入り口に手をかけた。
指が一本、二本、三本と闇から形を現した。
また、別の悲鳴があがる。
白い腕が完全に光の下へ這い出した。誰もが腕の先には肩が、胸が、胴体が、頭があると思っただろう。続いて姿を現したものは同じような白い指、白い腕だった。
一本、二本、三本と同じようにそれらは闇から姿を現した。
指が?
違う。腕が。
いくつもの腕が闇から這い出した。そして、それらの先は一つのまるいものに繋がっていた。
今、音もなくアレが彼らの目の前に姿を現した。
円い、鏡のような形の物。それの縁にいくつも白い腕がくっついていた。違う。くっついているんじゃない。花のように、枝のように、腕はそれから生えていた。
そして、その円の中心には。
人の顔があった。
誰かのようで誰でもない顔。
それが、怒るわけでも泣くわけでも悲しむわけでもない、ただ穏やかに微笑む表情でそこにあった。
やけにその表情が頭にこびりついている。ただ笑っているだけの顔なのに。ただ、笑っているだけなんだよ。何も見ないでただ笑ってる。
それが、私には恐ろしかった。
この世のものではない異形な形をしたアレ。それを見た瞬間、私は一瞬にして全身に鳥肌をたてた。でも、動けなかった。足も、指も、瞬きだってできなかった。
アレから目を離すことができなかった。
誰かがまた悲鳴をあげた。今度はそれが波紋のように伝染していく。
全身を地上に見せたアレは、いくつも生やした手を動かして信じられないスピードで動き出した。
歩くというより泳ぐ、滑空するっていう表現が近いかもしれない。腕がわさわさと動く。全部が別の動きを。一本ずつが、別の人の物のように。別の人の意思があるかのように。
気持ち悪い生き物だった。いや、生きてないんだけど、物と言っていいのかもわかんない。
それが、ぴょんと一人の男に飛びついた。
悲鳴が、絶叫が響いたんだろう。
私には聞こえなかったけど。
でも、それは何かするというわけでもなくすぐに近くにいた別の男に飛びついた。
そうして次々と工事現場にいた男たちに飛びついては離れていく。それはもう軽々と。風に煽られた蜘蛛のようだった。
あっという間にそれは全員に触れ、とうとう部屋の中にまで飛び込んできた。
すい、と私のすぐ横を通過して、机に手をつき立ち上がりかけていた不動産の男たちにも飛びついていった。
悲鳴をあげて哀れなくらい怯える男たち。手で払おうとした次の瞬間には、もう、別の所にいる。
それが飛びついたのは、なにも男に限った者じゃなかった。現場には男しかいなかったけど、お手伝いとしてだろうか、着物にエプロンをした女たちが数人廊下を歩いていた。たまたまだったんだろう。
男たちにしたように、それは女にも飛びついた。甲高い悲鳴が次々とあがっていった。
その中で、二人の若い女にそれが飛びついた時だった。
ぴょんと女の顔に飛びつき、悲鳴をあげて手で追い払おうとした女の手を掻い潜り、隣の女へ飛び移った時に私は見た。
アレが、それまでとは微妙に違うニヤリとした笑みに変わったんだ。
気持ちの悪い、気味の悪い笑みでそれは女の胴を伝って床に降り、サカサカとどこかへ消え去った。
でも、そのすぐ一瞬の後、がくりと女が膝から崩れ落ちてガクガクと震え出した。顔は真っ青で、目の焦点も合っていない。隣の女は支えながらこう叫んだ。
「彼女、妊娠してるの」
次の瞬間、震える女の股から赤い液が垂れてきた。そして、そして。
女は。
女は。
口から唾液や胃液、腸液なんかと一緒に吐き出した。
ウズラの卵ほどの大きさ。丸い、ぶよぶよした半透明の何か。
私には、カエルの卵のようにも見えた。
人の体から出てくる物じゃない。出てきていい物じゃない。そんなものが、女の口から次々と吐き出された。
支えていた女は、もちろん悲鳴をあげて泣きながら飛び退いた。
あっという間のことだった。
私は理解した。
アレは、ただ闇雲に飛びついていったんじゃない。厄を纏って取り憑いていったんだ。
人の手で払えるモノじゃなかったんだ。祓うことができないんだから。
アレが何なのか、私にはわからない。
わからないけど、全くわからないけど。
ほんの少しだけ、可哀想だと思った。
身勝手な人に無理矢理ああいう形にさせられた何か。あんな異形な姿にさせられて、土のずっと下に閉じ込められて。
ああ、駄目だ。同情なんてしちゃったら、自分もアレの一部になっちゃう。
これはただの想像なんだけどね。
アレは、元々何処かに祀られていた神聖な鏡だと思うんだ。一瞬だけ私から見えた、顔のない側の様子。真っ黒で何も写していない顔の裏。あれは鏡だよ。円い形の鏡。
そして、アレに生えたたくさんの腕。死んだ人の、腕。きっと一人の物じゃない。たくさんの人の物だ。
想像してみる。
冷たくて、暗い、土の下の木箱の中に、鏡が一枚。それと、人。
そこで何があったかなんて知らないよ!
でも、きっと何か悪いことがあって、それを納めようとして、誰かを、生け贄にしたんだ。
生きたまま木箱の中に入れて、一緒に祀る鏡を入れて、蓋をして、埋めて、重石をして。
それでも、おさまらなくて。
同じようにその木箱の中に、人を、生け贄を入れて。何度も何度も繰り返して。
おさまらなくて。どうにもなんなくて。
どうすることもできなくて!
もう、引き返せなくなっちゃったんだね。
昔の人は、箱を事実と一緒に深い穴に埋めて、隠してしまった。
開いちゃいけないよ、って。
それができる唯一のことだったんだろうね。
箱の中はいろんなモノが混ざってバケモノになっちゃった。
とんでもないものをつくってしまった。
そんな後悔と一緒に、きっと埋めたんだろうな。土で隠して、掘り起こしちゃいけないっていう印もつけて、簡単な祠も立てて。
『アレを外に出すべからず。』
そんな声が聞こえる気がする。
でも、結局、そんなことも知らない余所者はそんな思いも壊してアレを出してしまった。
余所者じゃなくても、誰かが出してしまったかもしれない。しょうがないよね。しょうがないんだよね。
私の友人は、もう、戻って来ないんだから。
もう、取り返しがつかないことになってしまった。
あの、私が大好きだった家族は、消えてしまった。もう、どんなことをしても、どこを探しても、戻ってこない。
悪いことの繰り返しじゃないか! これじゃ、ただの悪循環を生んだだけだ!
かえしてよ。あの子たちを、あの家族の幸せを、未来をかえして!!!
ぼんやりとアレが消えていった方を見ていた。
もう、どうすることもできないんだって、私は思った。あんなものが地上に出てきてしまった。あんなものが、生まれてしまった。
私には、何もできない。
何度も何度も一緒に遊んだあの子も、あの子の弟くんも、おばさんもおじさんも。
もういない。いなくなってしまった。
なんにも知らないで笑っていられたあの時間は終わってしまった。せめて、私が何か少しでも、ここはおかしいよ。そう言うとこができたなら。ここにいちゃいけないよ。そう忠告することができたなら。
私には、なんにもすることができなかった。
私は、無力だ。
ごめんね。
ごめんなさい。
助けてあげられなくて、ごめんなさい。
もっと早く、気づいてあげられなくて。もっと早く、ここに戻ってくることができなくて。
何も知らなくて、ごめんなさい。
全部が遅すぎた。違和感に気づくことも、事実を知ることも。
もう、そこには誰もいなくなってしまった。
周りは白いでいた。見えていた過去の虚像が、蜃気楼のように揺らいでは消えていく。霧の中に埋もれていくかのように人の影は遠退いていく。
全ては幻だった。
何が見せた幻なのかはわからない。でもそれは、嘘でも作り話でもなくて、実際にあった現実。私にはそうとしか思えなかった。
それを証明する人なんてどこにもいないけれど。
全て、終わってしまったこと。
全部、全部、過ぎていってしまったこと。
ただ自分の中に残ったのは、わけのわからない後悔だった。
もっとこうしていたら。もしこうだったら。自分がもっと。もっと、ちゃんとしていたら。
なにも、無くさなかったのかな。
誰も、悲しまなかったのかな。
みんな、笑っていられたのかな。
あの頃のままでいられたのかな。
結局ね。全部自分が悪かったんだって思った方が楽だったんだ。
本当はそんなことないのかもしれない。私だけが全部背負って、悪かったなんて、そんなことないよ。でもね。どうすることもできない現実から逃げるなんて、もうできなかった。逃げられないから、目を逸らしてしまいたかった。
私は弱い人間だから。
弱いから、自分を責めて逃げようとするの。
何もできない自分に怒りを向けて、何もできなかった過去の自分を正当化しようとするの。あの時の自分はしょうがなかったんだ。そんな風に。
なにが正しいか、どうあることが正しいか、そんなのわかんないんだけどね。
誰も、知らないでしょ?
ぼんやりと立っていることしかできない自分の意識をそこに戻したのは突然のことだった。
私の足首を、何かがひたりと触っている。
息を飲んで下を見ると、白い手が私の足を触っている。
小さな子どもの手だった。アレに付いていたモノと同じように血の気の全くない真っ白な手。
ぺたり。
ぺたり。
そんな音が本当に出そうな触り方だった。実際は音なんて全くしていなかったけど。
ぺたり。
ぺたり。
ぺたり。ぺたり。
ぺたり。ぺたり。ぺたり。
ぺたり。ぺたり。ぺたり。ぺたり。
その手は足を、膝を、ゆっくりと這い上がっていった。
一本だった腕は四本になった。腕だけじゃなく、いつの間にか裸足の足も四本、私の足下で跳び跳ねていた。
怖かった。怖くて恐くて、私の体は震えて、歯はカチカチと鳴っていた。
温度のない手足たち。冷たいも熱いもない、ただ「触られている」という感覚だけを与える手足たち。
泣き出したくなった。叫び出したくなった。助けてって。触らないでって。でも、ふとした瞬間。ほんとにふ、とした瞬間だよ。なんか、知ってる感じがしたんだ。不思議だよね。懐かしい雰囲気が蘇ってきたんだ。私、この雰囲気を知ってる。そう感じたの。
あの子たちだった。
幼かったあの日に別れて、知らない間に消えていなくなってしまった私の友人たちだった。
あの子たちはここにいたんだ。
ずっと、ずっと、この場所にいた。
私を覚えていてくれた。
こんなことになっちゃったのに!
こんな酷い姿になって、こんな酷い最期になって。それでも。
それでも。
大人になった私を待っていてくれた。
そうしてどれくらい時間が経ったのか。ゆっくりと、その手たちは離れていった。
ここから出よう。
自分にはどうすることもできないから。
この家から出ようと、ふらふらした足取りで玄関に向かおうとした時だった。
カサ……カサ……
何処からかかわいた音がした。
その瞬間、ドキリと心臓が跳ね上がった。
乾いてる音。アレの手がカサカサと木の葉の様に動いてる。渇いてる音。命が尽きて潤っていない。そんな、音がする。
家の何処かの隅にある暗闇から、アレが私の方に向かって這ってきた。
過去の映像の中では決して私に向かなかったあの顔が。私を決して見ることがなかったあの目が。
現実の今、私に向かってきている。
あの空虚な薄気味悪い笑顔が、今度は私に向かってきている。
逃げなきゃ!
私は必死に足を動かした。水の中を掻き分けるみたいにすごく重かった。けど、どんなに重くても私は足を玄関に進めなきゃいけなかった。
どうしても今、家から出ないと二度と外へは戻れない。
そう思ったの。
やっとの思いで玄関に着いて、並べられた一足しかない自分の靴に足を突っ込んだ。そのまま倒れるように扉に寄り掛かってノブを掴んだ。でも、開かない。
何度も何度もノブを回そうとしたけど、少しも回らないの。
どうしても、入り口から外に出られない!
後ろからはアレが近づく音がだんだん大きくなってくる。虚像の中では物音一つ聞こえさせなかったアイツが、よりによって今、私の恐怖心を逆撫でするような音を立てて近づいてくる。
開け! 開け!
どんなにガチャガチャ回しても扉は開かない。もちろん、鍵なんてかかっていない。
そこで気がついた。
あんなにうるさいくらい聞こえていたはずの、アイツのカサカサいう音が、止まっていた。
私は振り向いた。心臓はまだどきどき走っていたけど、体は冷えきっていた。
振り向いた先の、玄関から見える廊下の突き当たりの、何もないはずの影になっている角の、深い深い闇の中。
私は、其所にアレを見つけた。
そうして。
目が。
二つの光を失った目が。
私の目と。
私の視線と。
かち合った。
私はアレよりも近くにあった部屋へ飛び込んだ。その部屋からは玄関の先にある門が見えていたはずだ。玄関の扉からは出られない。
アイツが出してくれない。
私には聞こえた。アレが何を言っているのか。
他の人たちと同じようにお前も外へ出すわけにはいかない。
ゆるさない。
頭の中に、直接響いてきた。それは、声ではなかったけれど。
その家に住んだあの家族を閉じ込めたのはそいつだった。外に、別の場所に逃げられないように閉じ込めた。
きっと、かつて自分が木箱の中でされたように。狭くて暗い空間に押し込んで、詰め込んで、どこにも逃げられないようにした。
だから、今回もきっと。外から入ってきた私を帰さない。
アレはわらっていた。
何を見てわらっているのか、そんなのはわからない。でも、私を見ているんじゃない。私なんかを見ていないの。
なにも、みていない。なにも、うつしていないの。
少しだけ、ほんの少しだけ可哀想に思った。胸が、きゅっと締め付けられた。
アレは、外に溢れている光を、綺麗な景色を知らないのか。そう思うと。
飛び込んだ部屋からは、記憶通り正面玄関が見えていた。
外と中を遮るベランダのガラス扉に私はすがりついた。手のひらも頬もべったりと付けて、外の様子を見つめた。
玄関の扉の先にある門。その更に向こうには知らないお坊さんが立っていた。
彼は数珠を手に絡ませて、お経かな、額から汗を垂らしながら一心不乱に何かを唱えていた。
後ろからはカサカサとアレが近づいてきている。
不意にかたんと音がして、ガラス扉が動くようになった。今だ! 私はおもいっきり扉を横にスライドした。扉は途中で止まることも引っ掛かることもなく、それまでの重みが嘘のように軽々と開いた。
私は門に向かって駆け出した。
門は私たちが入ってきた時のまま、開きっぱなしになっていた。私はスピードを落とすことなく、その門を潜ろうとした。でも、そこを通過することはできなかった。
門の開いた口には見えない透明な膜が張っていて、それが私を外に出れないようにしていた。出れると思って勢いよくぶつかって行った私は今にも泣きそうな顔をしていたんだろうな。もしかしたら、もうその時には泣いていたかもしれない。
だって、門の外は当たり前のようにちゃんと見えているんだよ。あと一歩、たった一歩足が進めば「普通の」日常に戻れるんだ。
やっとここから出れる! 正直、そういう期待があったんだ。
でもその希望も弾かれた瞬間、もうダメかもしれないっていう絶望に塗り替えられそうになった。白が、黒に、一瞬にして塗り替えられそうになったんだ。
その時、私の肩を骨張った女性の手が触れた。その手には、ちゃんと生きている人の温かさがあった。
私をこの家に招いた彼女、その人だった。
彼女は力強く、私の背を押した。
後ろを振り向くと、彼女の険しい顔がすぐそこにあった。
彼女は言った。
「出ていけ」
彼女の後ろには、家の建物から出ることができないアレが見えた。笑ってはいるけど、どことなく悔しそうな顔。アレはベランダの扉から少しも出ることができずにいた。
私は彼女の顔を見た。皺がたくさん刻まれて痩せ細った顔。私が、全く知らない人の顔。
でも、強くて安心するような雰囲気がそこにはあった。
彼女はアレと私の間で壁になって、もう一度言った。
「ここから出ていきなさい」
ぐいぐいと私を押し出す手には、更に力がこもる。すると、急に体が前へ倒れ出した。
私は、家の外に押し出された。
驚いた私は彼女を見た。
開いた門の間に立つ、家の外と内側の狭間に立つ彼女を見た。そして、彼女も私を見ていた。
彼女は最後にこう言った。
「あなたは知ろうとしてくれた」
私を見て、笑って、そう言った。
他の人は知ろうともわかろうともしないで逃げた。でも、私は気の狂ったババアとして真実を語ろう。たとえ信じてもらえなくても、語ろう。
そのために外と中を自分は行き来するの。
私に対して言ったことではないかもしれない。でも、その言葉は今でも私の中に残っている。彼女の顔と声と一緒に、しっかり残ってるんだ。
それから時間が経って、もう一度思い出すんだ。ううん。何回だって思い出す。
あの女性は誰だったんだろう。あの家の隣に住んでいると言ったあのお婆さん。
多分、もう会わないだろうけど。
でも、自分は知っている。
あの家のこと。あの家の下のこと。
あの家に住んでいた、昔の友人のこと。
何年も会っていない友人のこと、覚えていますか。
最後に会った日の次のこと、知っていますか。
彼らが今何処にいて、何をして、どうしているか。
知っていますか?
いつでもまた会えるなんて、いつまでも暢気に言ってられないんだよ。
人はいつか必ず死ぬ。いなくなってしまう。
わかるでしょ?
それがいつなんて、誰にもわからない。
だから、全部が自分の知らないうちに終わっちゃっていることもあるんだよ。知らなかった。その一言で終わらせられないくらいの後悔を、私は味わった。
ねえ。会いたいなって思う人がいるなら、その人に今すぐ会いに行って。
電話でも、メールでも、手紙だっていい。
その人のこと、少しでも知ってあげられるように努力して。きっと全部は理解できない。だからこそ、わかってあげられるように努力をして。
その人がいなくなってからじゃ、全部遅いんだよ。
その人に「わかってるよ」って言ってあげられるうちに、会いに行ってあげて。
顔を見て、こう言おうよ。
「また、あえたね」
久しぶりに、同級生に会いに行きたくなった。
あの日の後、自分はこうしていたんだよって、話したくなった。
そして、君たちはどうしてた? そう聞きたくなった。
あの子の手に返せなかったバケツが、今日もあの家の門の所に引っ掛けられている。
もう二度と、あの家の呼び鈴を鳴らすことはないだろう。
あの場所、誰かが新しい名前をつけたらしいよ。
『皆五六四』
ってね。
行ってみる?
私は行かないけど。