トゥルルル……
受話器から呼び出し音が聞こえてくる。
俺にその電話ボックスの使い方を話した人は、俺の母親。
母は恋話が好きだった。特に、誰かの幸せになる恋の話が。だから、一回だけ。一回だけ、まだ俺たちみたいに幼い高校生の頃に、彼女は電話ボックスを使った。
『近所に古い公衆電話があるんです。見たことありますか? 公衆電話。
小銭かテレフォンカードを入れて、番号を押すんです。そうすると、相手に繋がるんです。
どこにでもありましたよね、公衆電話。
ただ、近所にある公衆電話はそれはそれは古くて、新しいデザインの硬貨が使えないんです。本当に古くて、番号を押すところが指で回すタイプの電話なんです。昔の黒電話とかがそのタイプですよ。
なんでまだ残っているんだろう。見た人のほとんどはそう言います。
近所の人は、残っているんだから残っているんだろう。そう言います。
結局、なんで残されているかわかんないんですよ。その公衆電話。
で、その公衆電話なんですけど。
変な噂があるんです。聞きたいですか?
いいですよ。別に秘密にするようなことでもありませんし。
その公衆電話はね。
誰かのコイバナ、恋話を聞くことができるんです。こっちからは声は届かない。だけど、受話器の向こうからの声は聞こえる。それは全部恋の話ばかり。
ね、不思議でしょ?
やり方は簡単。
まず、受話器を外してギザギザのついた十円玉、ギザ十を一枚入れる。一枚ですよ?
次に、番号をダイヤルする。「5187」。コイバナ(5187)、です。で、受話器を耳に当てる。それだけです。簡単でしょ?
そうすれば、その公衆電話の受話器からは誰かのコイバナが聞けるんです。
ただ、十円玉一枚じゃすぐに切れちゃう。だから続きが聞きたいなら、同じことを繰り返すんです。
切れそうだなっていう時に、ギザ十をもう一枚入れる。5187とダイヤルする。それをひたすら繰り返すんです。
ただ注意しなきゃいけないことは、こちらから話しかけないこと。それと、入れる十円玉はギザ十を一枚ずつだけ。
やり方を一つでも間違えると、その瞬間に電話は切れちゃいます。続きを聞きたいなら守らなきゃいけないし、もういいやってなったら途中でやめちゃえばいい。
ほら、簡単でしょ?』
ね、簡単でしょ?
そう言って、母は笑った。ほんの少しだけ悲しそうに、母は笑った。
きっと、当時の彼女も興味本位でその番号をダイヤルしたんだよ。でもまさか、そのコイバナがそんな結末を迎えるだなんて思いもしなかった。
割りきったつもりでいても、きっとそのコイバナは彼女の心に重くて暗い何かを残したはず。そう。例えば、両想いになれたとしてもその先で悲劇が待っている。そんなコイバナだってあるんだって。
母は笑って俺に話をした。その電話ボックスから偶然引き出して、自分の聴いたというコイバナを。
俺は思うんだ。
その電話ボックス、中に入っているのはきっと、幸せなものだけではないんだって。
ハコに入れたい特別なものは、全てが綺麗で優しいものだとは限らない。もちろん、あたたかくて純粋なものもあるんだろうけど。
トゥルルル……
トゥルルル……
俺の手の中の受話器から誰かの話を呼び出す音が鳴り続けている。
まあ、まずは三つ、話を聴いてみてよ。
『隣の席のキミ』
「もっ、もしもし?
誰か、聞いてますか? 聞いちゃってますか?
えっと、×××! ×××からかけてます!
私の! 私の、コイバナ! 始めます!!
ふぅ。えっと、私、家から通ってた中学校までがすごく遠かったんです。毎日バスと電車を乗り継いで行かなきゃいけなかった。しかも、早い時間のじゃなきゃ間に合わない。
すっごく大変でした。
で、似たような人っているんですね。
毎朝、そんなに人が乗っていない電車に揺られてると、途中から乗ってくる男の子がいたんです。しかも、私と同じ制服。同じ中学だってすぐに気がつきました。
初めはもちろん気がつきませんでしたよ? 自分のことで頭がいっぱい。勉強とか部活とか、そんなことでイッパイイッパイな私は周りを見る余裕もなかったんです。
中学一年生なんてそんなもんですよ。慣れないことほど疲れるものもないですし」
「もしもし!
うわ、これ全然話進まないや…
うまく伝わってるかな…
えっと、続きです!
二年生に上がってすこーしだけ余裕が出てきた頃です。私は同じ電車に乗る彼に気がつきました。おんなじ学校だな。それくらいにしか思ってませんでした。
それから私は、彼を見つけると会釈するようになりました。だって、次の日も次の日も、次の週も、次の月も、ずーっとおんなじ電車に乗ってるんですもん。
あ、これは、去年一年間同じ電車だったな? よく私、気がつかなかったな。そう思ったんですよ。やっと。
しかも、彼を見てるとなんと。おんなじバスにも乗ってました。同じ学校なんだからそうなりますよね。
あ! 待って! まだ続きが」
「も、もしもーし。
おんなじ電車に乗ってた子の話の続きでーす。
えっと、なんだっけ? そうそう。
ずっと同じ電車とバスを使ってたんですけど、本当に余裕がなくて周りを見れてなかったんです。だから彼のことも気がつかなかった。
学校でももしかしたらすれ違ってたかもしれません。でも、ただおんなじ電車に乗ってるってだけで知り合いってほどじゃないんです。
今日、電車ちょっと遅れたね。そんなこと言い合う間じゃなかったんですよ。
だから、電車やバスで見つけた時。ううん、違うな。目が合った時に会釈するなんて、すごい進歩なんですよ。私、小心者だから、特にね。
そしたら、なんと! 向こうも会釈を返してくれるようになったんです! あ、これも違いますね。
もしかしたら、私が気がつかなかっただけかもしれませんが、ずっと前から彼は私に挨拶をしてくれてたのかも」
「もしもし! 同じ電車に乗る話です。
そんなんで、私と彼は目が合った時に挨拶するくらいの間となりました。それだけです。
ほんっっっとうにそれだけです。
隣の席に座るとかそんなのないです。
でも、そんな毎日が結局中学三年間続いたんですよ。
毎日毎日おんなじ電車に乗って。バスに乗り換えたらまたおんなじバスに乗ってる。
ああいうのを顔馴染みって言うんですよね。知ってるわけじゃないけど、すごく馴染んでる人。
記憶にも、景色にも、すっと馴染んでる。そんな人。
私、中学生の時のことを思い出すときまず彼のことを思い出すんです。ずっと同じ電車に乗ってた彼。どんな日にだって同じ空間にいた彼。
中学校の卒業式の日。私、少しだけ残念に思ったんですよ。
もう、彼の顔を見ることはないんだなって」
「もしもし。同じ電車に乗ってた彼の話です。
なんか、もうこの作業にも慣れちゃったな。
中学三年間の長距離通学を無事に終了した私でした。
ああ、彼を見ることももうないんだな。
そう思っていた時期が私にもありました。ほんの数週間のことでした。
ふっ。こんなことってあるんですね。
彼、高校もおんなじだったんですよ。
はぁ。つまり、高校三年間もずっとおんなじ電車に乗り続けたわけです。高校の入学式の日の朝、同じ電車でおんなじ制服着てる彼を見たときマジかと思いました。もちろん、彼もマジかっていう顔をしてました。
というわけで、彼とは結局六年間おんなじ電車に乗ってました。
流石にこれだけ一緒だと、どこかで話だってすると思うでしょ?
しないんですよ。
辛うじて挨拶だけ、頑張りました。だって、私、小心者ですから。人見知りで、知らない人とは口もききません。
彼のこと、何にも知らないんですよ」
「もしもーし。六年間同じ電車に乗ってた彼の話でーす。
この中、暑いな。
えっと、その彼について知ってたのは毎日おんなじ電車に乗ってる。
おんなじ中学校に通ってて、おんなじ高校に進学した同い年の男の子。それだけです。
名前なんて知りませんよ。どの駅から乗って、どの駅で降りて行ってるのかも。ただ、気づいたときには同じ空間にいる。同じ電車、同じバスに乗ってる。そんな人でした。
全く話もしない毎日が終わったのは、高校三年生に上がった時でした。
彼と、クラスが同じになったんです!
それまで何の交流も繋がりもなかったのに!」
「はあ! はあ!
も、もしもし? ご、ごめんなさい、興奮しちゃって。
五年間ずっと一緒の電車に乗ってた彼の話です!
高校三年生の春、私は初めて彼と同じクラスになったんです!
それからは毎日がすごくすごく早かった。
クラスメイトとして一緒に授業を受けて、文化祭も体育大会も一緒に乗りきって。
彼がどんな風に笑うのか、初めて見たんです。名前を呼んでもらった。名前を呼んだ。話をした。
それまでの五年間が嘘みたいに、ありきたりの、友人でした。
ただの、友人だったんです。
おんなじ電車の中では、それまでと同じように何も話しませんでした。でも変わらず、一緒の電車に乗り続けたんです」
「もしもし。
同じ電車に乗ってた彼の話、私の、恋話です。
なんとなく変わったのは、ある時の席替えがきっかけでした。
初めて彼と隣の席になったんです。
隣を見たら彼がいる。たまに目が合って、笑い合って、話をする。
距離が一気に縮まった。すごく、近かった。
彼って、こんなんなんだ。
そう初めて思ったんです。
同じ電車の彼から、同じクラスの彼へ。
同じクラスの彼から、隣の席の彼へ。
私たちは、近づいていきました。
それで、とうとうあの日、私たちは電車の隣の席に座ったんです」
「もしもし。同じ電車の彼の話、聞いてください。
私の、恋話なんです。
私たちは、初めておんなじ電車の隣の座りました。
学校の隣の席なんかよりも、ずっとずっと彼が近かった。肩が触れるくらい、手が触れるくらい、ドキドキしているのが、聞こえそうなくらい。彼がすぐ近くにいたんです。
ああ、彼ってこんなんなんだ。
初めてそう気づきました。背が自分より高かった。髪の色が意外と薄くて、茶色っぽかった。手が熱かった。
体温が、高かった。ドキドキしていた。
鼓動が速かった。
私、彼が好きなんだ。
初めてそう気づきました。
私の心臓もドキドキいって、彼に伝わらないかちょっと焦っちゃったりしました」
「もしもし、私の、恋話です。
同じ電車に乗ってた彼の、話。
それから何回も、私は電車で彼の隣の席に座りました。彼も私も話はしませんでした。でも、すぐ近くにいたんです。
ある日、私は疲れて電車の中でうとうとしてました。その時も彼は隣に座ってました。
カバンを膝の上に抱えて、眠いなーって、頭がぼんやりしてたんでしょうね。うん、きっとそうです!
ちょっと、魔が差しちゃったんですよ。
隣に座る彼の肩に、頭を傾けたんです。
ほんの出来心ですよ?
だから、そのまま寝たふりをしたんです。彼のことが好きだったから、ちょっとふざけちゃったんですよね。
私の降りるはずの駅を電車は通り過ぎる。それから何個か駅を通ると、彼が立とうとしたんです。
降りるのかな。そう思いながら目を瞑ってると、彼が」
「もしもし。
電車の隣の席に座ってた彼の話、です。
寝たふりをして隣に座ってた私に、彼、キスしたんです。私の、唇に、一瞬だけ、湿った温かいのが触れたの。
そのまま、彼は降りていきました。
私、どうしていいかわかんなくて、そのまま今までと同じように過ごしました。彼も、今までと同じでした。
結局、高校の卒業式の日になっちゃって。なんにも、言えませんでした。
帰りの電車の中で、私と彼は隣に座りました。
最後になっちゃう。今まで何百回も同じ空間にいたのに、何も言えずに最後になっちゃった。
彼も、何も言いませんでした。
私、小心者だから、勇気が出せないの。
彼のこと、好き。好きだけど、言えない。間違えるのが恐くて、好きって言えない。
彼は遠くの大学へ行く。もう、おんなじ電車に乗ることはない。
だから、これが最後なの。最後だってわかってても、私、彼に何も言えない。
私が降りる駅に電車が着いた。扉が開く。
私、せめて彼にじゃあねって言いたくって、彼を見たの。そしたら、彼、顔を真っ赤にしてノートの切れ端を私に握らせたんだ。
電車の扉が開いた。私は降りなきゃいけない。
その時、彼がこう言ったの」
「もしもし。おんなじ電車に乗り続けた彼の話です。
これが、最後。
彼、降りなきゃいけない私にこう言ったんです。
電話、待ってる。そう言って、番号の書かれた紙を私に握らせた。
扉が閉まる向こうで、彼が笑いながら私を見ていた。
彼は、勇気のない私を待っているって言ってくれたんです。だから、閉まる直前に私、言ったんです。
待ってて。今は言えなくても、きっと伝えるよって。
これが私の恋話です。
もし聞いてくれる人がいてくれたら、最後にちょっとだけ、お願いがあります。
これが最後だから、続きはありません。
でも、もしこの恋を応援してくれるなら、もう一回だけ十円を一枚入れてダイヤルしてください。
私、今から彼に電話をかけるよ。
彼に、ずっと言えなかった好きを伝える。
最後まで聞いてくれてありがとね。
どっかの誰かさん」
そう言って彼女は受話器を置いた。
話を聞き続けた誰かは。
一枚だけギザギザの入った十円玉を電話機に入れ、四つの数字をダイヤルした。
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そして、誰かはそのまま受話器を耳に当てることなく静かに置いた。
「ありがとう
叶ったよ」
受話器からそう聞こえた気がした。