あなたが小さいとき、こんなことはなかっただろうか。
同じクラスの友達が家出をしたとか。
その友達に同情して家出を助けたとか。
同情したのが自分だけではなく、クラス全員だったとか。
見つからないように、その家出した同級生はクラスメイトの家を転々としたとか。
その家出した同級生の両親が担任の教師に居場所を聞いても、教師は知らないの一点張りだったとか。
つまり、この話は一人の犯人と複数の共犯者たちによる大規模な家出であったのである。もちろん、共犯者の中には担任の教師も含まれている。
そんな話、あるわけないだろう。
では、あなたにはこんなことはなかっただろうか。
小さいときから近所に住む同世代の子どもにいじめられていたとか。
無視されたとか、悪口を言われたとか、物を隠されたとか、荷物を持たされたとか、物を盗られたとか、殴られたとか、蹴られたとか。
仲間外れにされたとか。いや、そもそも始めから仲間などではないだろう。ただの雑用係か下僕としてしか仲間として認められない。
友だちと呼べる関係なのだろうか。いいや、これも否定すべきである。強制的に首を縦に振らせる質問には意思は求められていない。
あなたには、このどれかに当てはまるものがあっただろうか。当てはまらなくとも引っ掛かるものがあっただろうか。
木下という青年は二つ目の話であるこれらほとんどに該当していた。
幼い頃、実家の近所に住んでいた子どもに目をつけられ、小学生、中学生、高校生、大学生、そして社会人となる今に至るまで「下僕」として扱われているのである。
木下少年自身はどこにでもいるような「普通の」少年であった。
もちろん、彼の他にもいじめられやすそうな所謂なよなよした弱虫の子どもは近所にも学校にもいた。しかし、木下少年は運悪く目をつけられてしまったのである。
そのような扱いを木下に課したのは後にも先にもこのいじめっこだけであった。
このいじめっこ、沙流という変わった名前を持っているのだが、中学校を卒業した後、離れた高校に進学したと思ったら数ヵ月で退学処分を与えられ数年間自宅周辺をうろうろしていた。もしかしたら夜間に定時制の高校へ行っていたのかもしれないし、通信教育でちゃっかりと卒業資格だけは得ていたのかもしれない。
しかし、木下にとっては沙流のことなど知らなくてもいい、知りたくもない情報であったのだからどうでもいいことである。
ただ、木下は沙流の居場所の把握と連絡先のブロックは欠かさずに行った。沙流と遭遇しない為に事情を知っている知人の協力を得て最新の情報を入手した。時には友人の力を借りて妨害まで行った。
携帯電話は2台以上用意した。もちろん、両方とも沙流の番号を拒否した上で所持する。SNSは使用しない。メールは沙流が言いそうな内容であるとすぐに消去した。出会い系などもってのほかである。
木下少年がまだ中学生の頃、クラスの女子から手紙を受け取ったことがあった。
知り合いから頼まれたのだとその少女は言って、可愛らしい封筒に入った手紙を手渡してきた。中には一言、連絡をください。そして、メールアドレスだけが書かれていた。
名前は、書かれていなかった。
木下少年はてっきり他のクラスの女子からの手紙だと思った。
沙流とのことだけを抜けば一般的な学生であった木下少年。優等生とも言えそうな真面目な性格。クラス委員長も務め、クラスメイトからの信頼も厚い。スポーツも勉強もでき、かと言えば話しやすい気軽さも持っていた。だから、ラブレターをもらうことも多々あったのである。
だからこそ、この時は油断してしまったのである。
木下少年はそのメールアドレスに返信をしてしまった。実はそのアドレスは沙流のもの。沙流はおとなしい女子の振りをして木下少年とメールのやり取りをし、ある程度経った頃にそのやり取りを拡散したのである。その内容の中には、もちろんプライベートなことも含まれた。そして、その内容を種に沙流は木下少年を馬鹿にして大声で笑うのである。それも決まって大勢がいる前で。
こうした手口は沙流の得意なものであった。
騙して、引っ掻けて、弱味を握って、自分の思うままに踊らせる。思い通りに進まなければ殴る蹴る。言うことを聞かなければわめきたてる。
彼らが子どもの頃はまだ子どもの悪戯として周囲には認識されていた。沙流が木下以外は目もくれていなかったからである。きっと、小さな時にお友だちになりたいという欲が変な方向に向いてしまったのだろう。誰もがそう思っていた。
しかし、成長と共に沙流の木下に対する執着は一層異常なものとなっていた。
高校生となったとき、木下は心底安心した。遠い土地にある学校を受験し、合格し、寮に入ったからである。
しかし、沙流はどこから入手した情報なのか、頻繁に、頻繁に、それはもう頻繁に連絡を寄越したのである。住所も携帯番号も教えるはずがない。それなのになぜか知っている。
毎日毎日届く封筒。毎日毎時間入っているメールの通知。木下は気が狂いそうであった。
せめてもの助けであったのは直接会わないということ位であった。
大学進学とともに木下は更に沙流から距離を置こうとした。むしろ、縁を切りたかった。ただひたすら縁を切ろうとする木下とは真逆に、沙流はいかにして距離を縮めようか模索しているようであった。
そうこうしているうちに木下は大学を卒業し、就職した。
結局、彼は成人式にも里帰りすることはできなかった。
沙流がそっちにいる限り、自分は帰れない。木下は両親へそう伝えていた。
その事は両親から沙流の家族へと伝わっていたようであった。だから、彼らも沙流を出来る限り遠くへ行かせないようにしていた。実際、沙流は市外へは出なかった。
「どんなに遠くへ行っても、すぐに自分のところへ戻って来るに決まっている。だって、木下は自分の子分なんだから」
沙流はいつだって自信たっぷりにそう言ってのけた。しかし、その実、木下が何処で何をしているのか知りたくてたまらないのである。
いつ自分から離れて行ってしまうのか。いじめっこはいじめられっこに執着し、依存していた。
しかし、そんな関係にも転機が訪れた。
木下が社会人となり、実家を離れてアパートで一人暮らしをするようになって数年が経ったころ。
ある日突然、沙流からの一方通行であった便りがプツンと途絶えたのである。
嵐の前の静けさであった。
1日、2日、1週間、1ヶ月と手紙もメールも、着信履歴さえ残されない日々が続いた。
木下は始め、冗談だろうと疑い背筋にうすら寒いものが這い回る感覚をおぼえていた。やがて、時間が経つにつれ、徐々にその警戒心は解けていった。
ああ、自分にもやっと普通の人生がやって来たんだ! 木下は歓喜した。
木下は会社に笑顔で休日申請を提出した。同僚たちが彼に彼女ができたのではないか、プロポーズが成功したのではないか。そのようなことを噂するほど、木下は目に見えて浮かれていた。
週末の定休日と合わせて数日間の連休が木下を待っていた。
部屋には大きめのトランクケースに荷物が詰め込まれ始め、それと一緒にたくさんの土産やプレゼントも丁寧に入れられた。
家から離れた間の時間に、彼が大切な人たちに贈りたかった、しかし沙流という存在が送ることを躊躇させた品々であった。
木下は、この連休、初めて実家へと帰宅したのである。
帰郷する当日の朝、新幹線を待つホームで木下は父親へ連絡を入れた。それは、何度も何度も繰り返し彼が聞いた内容であった。
「沙流はまだ町にいるのか」
いつだって返事はYes.であった。
幼い頃から息子を心配していた両親とは、木下はこまめに連絡を取り合っていた。
それは、再び沙流が自分の目の前に現れるのではないかという不安からであった。同時にそれは、木下の心の中には友人らが待つ故郷へ、家族が待つ家へと帰りたいという願いの表れでもあった。帰ってこいと言うことが安易にできない両親ではあったが、それでも木下の想いは伝わっていたのだろう。
しかし、状況が変わり沙流からの交流が途絶えたことを知った父親は、電話口で嬉しそうにいつでも帰って来いと言うことができたのである。
迎えた帰郷の当日となり、逸る気持ちとは裏腹に木下の腹の奥では長年の古傷が疑念を訴えてはいた。本当にあの場所には沙流はいないのだろうか。
いるなら自分は帰れない。かつて殴られた体の部分が、傷つけられた心の部分がじくじく痛んだ。
新幹線がホームへ到着するほんの少し前に、父親からメールが届いた。その内容を見て、木下は肩の力を抜いた。
「沙流くんはいない。ご家族の方が話したいことがあるそうだ」
沙流の家族が自分に言うこと。それは何だろうか。
ぶわりと風を舞い上がらせて新幹線が停車する。これから自分を故郷へと運んでくれる容れ物へと、木下は足をかけた。
木下は懐かしい家族にただいまと挨拶をした。沙流という存在で台無しにされた生活がそこにはあった。
母親も、父親も、笑っておかえりと言って木下を受け入れた。そのことが、より幸せに感じられた。
木下は実家にいられる時間のほとんどを誰かと過ごした。家族と、友人と、あるいはわざわざ足を運んで頭を下げた沙流の両親たちと、木下はただひたすら言葉を交わし続けた。
そして、その中で沙流の両親はこう言った。何故ここまであの子が君に数着するのか、理由がわからない。
謝罪を受けた木下は彼らに言った。
「あなた方が悪いわけじゃない。自分は、止めなかった人たちや助けてくれなかった人たちを憎んでいない」
ただ
沙流だけは一生許さない。
木下は、休暇の最後の日に尋ねた。
沙流はどうしたのか。
ある日突然姿を消した沙流の行方を、誰も知らなかった。
もしかしたら、誰かから聞いてお前のところへ行くかもしれない。
絶対に来て欲しくないけどね。
父親と息子は帰りの駅のホームで話をした。
何かわかったら連絡する。また来てくれ。そう言って父親と親しかった友人は手を振った。
帰りの新幹線が発車した。
明日から、また働こう。しっかり生きて、また帰ってこよう。
これから、「日常」がやってくる。
そう思いながら木下は帰路についた。
アパートの部屋の前で誰かが屈み込んでいる。
「よう、木下」
沙流であった。
顔を上げ、一言そう言ったのは間違いようもない沙流であった。
木下の脈が上がり、冷や汗が伝った。どうして、ここに。指が白くなるほど拳を強く握って、木下はそこに立ち尽くした。
成長した沙流は木下に向かって言った。
「早くお前の部屋へあがらせろ」
昔と全く変わらない物言いだった。
それから1ヶ月ほど、木下は再び暗闇から足を引っ張られることとなった。
朝起きれば沙流がキーキーと、出勤前まで沙流がキーキーと、帰宅するなり沙流がキーキーと、夜は沙流が眠るまでキーキーと。これをしろあれをしろこれは嫌だそれがいい。うるさいうるさいうるさいうるさい。
疲れているのに命令するな、不満なら自分でやれ、何様のつもりだ、嫌だいやだイヤだ。
木下はギリギリと歯を噛み締めた。頭をバリバリとかきむしった。爪をガリガリと咬んだ。
不眠で隈ができ、目が充血しだした。同僚たちはそんな木下を心配した。
大丈夫か。その声に木下は疲れた顔で無理やり笑顔を作って大丈夫と答えるしかできなかった。
彼の頭には幼い頃から繰り返されてきた沙流によるいじめの数々が甦る。心と体に刻まれたトラウマの数々は、木下に抵抗する力を奪っていたのだ。
そして、そのまま彼は1ヶ月堪えてしまった。誰にも言うことができないまま。
沙流は相変わらず木下の部屋に居座っている。働くことも、外出もしていないようだった。
いっそ、自分が出ていこうか。木下がそう考え始めていたときのことである。
職場での休憩時間に見た父親からのメールで、木下の考えは一転した。
「殺人で指名手配されている」
今日は寄り道して帰ろうか。
さて。
あなたは「シュレーディンガーの猫箱」というものをご存知だろうか。
まずは猫を用意しよう。黒猫がいい。
おや、いないようだ。仕方がないので手近にいるサルを使うことにする。
それと、箱を用意しよう。大きさは関係ない。材料が入り、密室に出来、中身が見えないものに限る。
その箱はダンボール箱でもいいし、外から鍵のかかる小さめのアパートの一室でもいい。今回はアパートを使用する。
木下は考えた。
人殺しなんて匿う理由がない。それに、殺した人が殺されても別にいいのではないだろうか。いいはずだ。
沙流が憎い。今までされてきたいじめの数々が木下を蝕む。
たとえ理由があったとしても、なかったとしても、人の人生をこれほどまで玩んでいいはずがない。
あなたは、「シュレーディンガーの猫箱」を知っているだろうか。
箱の中には猫と、猫が死ぬかもしれない材料が入っている。箱の中は、見えない。
箱を開かなくては猫が生きているか、死んでいるか、死にかかっているか、元気か、わからない。
この猫箱の実験の結果は、箱を開かない限りわからないのだ。
しかし、様々な要因を材料として結果を推測することは可能である。
「今朝は特に寒いから、しっかり窓を閉めようね」
木下はそう言って外出した。
花粉症である沙流が買ってこいと言った薬を木下は手渡した。
それは、強い睡眠薬だった。
猫箱の中には要因を用意しておく。
猫箱の中には実験対象となる猫を入れておく。
猫箱は密室となる。
外に出る直前、木下は見た。ソファーに倒れ込むようにして眠っている沙流の姿を。
それを確認した上で、簡単に窓の施錠と換気扇が動いていないことを見て回った。
そして、最後に、
七輪の上に練炭を置き、火を着けた。
火災報知器は鳴らないように設定した。
練炭は台所でパチパチと燃えていた。台所のすぐ近くの部屋には、沙流が寝ているソファーがあった。
猫箱の中には、猫が死ぬかもしれない危険な要因を猫と一緒に入れておく。
木下は部屋を出て、鍵を閉めた。
シュレーディンガーの猿箱となった部屋の中には、一匹のおバカなおサルさんが眠っている。
起きない限り、そこは密室とも言えるのだろう。そして、そこでは練炭が一酸化炭素を出しながら燃え続けている。
木下はぼんやりと思った。睡眠薬をほんの少しでも減らさなくてよかったのではないかと。
木下は外出した。
そして、近所の警官を連れて戻ってくるのである。
扉の前で木下は言う。
「開いて中を見てみてください」
結局、その箱の中は開かなければどうなっているのかわからないのである。
「中には、あいつがいます」
どうなっているのかわからないけれど。
開いてみなければ中がどうなっているのかわからない猫箱。
ここでいくつか仮定をあげようではないか。それを踏まえた上で、最後の問いに答えて欲しい。
まずは猫箱、もとい猿箱の状態である。
例えば、部屋のどこかが開いていたとか。
サルが実は賢くて、睡眠薬を飲んでいなかったとか。
この二つの場合、密室は成り立たなくなり、サルは既に外へ出て行ってしまった可能性もある。
次に沙流というサルについてである。
例えば、沙流が天の邪鬼でいじめていただけとか。
殺人、指名手配の情報が間違っていたとか。
実は沙流が
女性であった、
とか。
これらの場合、木下は沙流を猿箱の中に入れただろうか。
沙流が木下に対して向けていた想いが「好意」であったのならば。木下は沙流をこの猿箱の中に入れただろうか。
全ては仮定の話である。
しかし、この箱の中を開いてみない限り、もしくはこの沙流という人間を開いてみない限り、どうなっているのかわからないのである。
それが「シュレーディンガーの箱」というものである。
そして、もう1つだけ仮定を箱の中に入れておこう。
それは、箱の中のサルがもともと
死んで
いた
場合
。
木下の元に訪れた「沙流」は一体誰であったのか。訪れた者が数年会っていない「沙流」であるという確信はあったのか。
この仮定を箱に入れると、中に入れた「サル」は消えていなくなる。
生きている、死んでいるの他に、いないという答えが発生するのである。
あくまで仮定であり、可能性の話だ。
さて、最後になるが、ここに1つの質問をさせていただきたい。
あなたの考えを聞かせてもらいたい。
木下は人殺しか、否か。
扉の前に立つあなたよ。どうか開いて見てご覧いただきたい。
扉の向こうは、どうなっているだろうか。
後ろに気配を感じたら注意するといい。
逃げ出したサルが凶器を振りかぶっているかもしれない。