それでも私は── 作:次作エヴァはきっと鬱エンド
父と娘はまだ歩み寄れない
海と同じように、宇宙はかつて神の世界だとされていたという。
決して人に手出しできない領域。遥かソラの彼方。暗黒に包まれた未知の空間。
しかし今や、人は宇宙でも活動できる術を身につけ、緩やかながらも宇宙開拓は確実に進んでいる。
現在でも月に活動拠点を建てるほどだから、数十年後には火星に人が降り立つ日が来るかもしれない。……使徒という脅威をすべて排除できればという前提であるが。
月の周囲をゆっくりと航行するスペースシャトル。ネルフ御用達専用のものではあるが、乗客はゲンドウと冬月しかいない。
宇宙服に身を包む二人は食い入るように窓の外を眺めている。
その先には月の表面に点在する巨大クレーターに位置する、ネルフ第七支部の発掘用仮設基地【タブハベース】。しかしながら実質的にここはネルフの背後にいる秘密結社ゼーレの庇護を強く受けている。
「月面基地を目の前に上陸許可を出さんとは、ゼーレもえげつないことをするな」
そう冬月が不満を口にする。
シャトルがそのまままっすぐ二〇〇メートルほど進んだところで、建造施設の影からようやく目当てのものが見えてきた。
そこには一体の巨人がいた。
その体躯は白く、人による手入れがされたと思われる仮面は、ネルフ本部のセントラルドグマに眠るリリスの特徴に似ている。
地に座り込み、上半身を起こしてクレーターの窪みに背中を預けている。いっさいの身じろぎをせず、その身体の周囲に建造施設が建てられている。
どうやら、今ちょうど頭部装甲を接合する場面のようだ。
「Mark.6の建造方法が他とは違う。その確認ができただけでも十分だ」
「しかし、5号機以降の建造は計画されていなかったはずでは?」
「おそらく我々に開示されていない死海文書の外典がある。ゼーレはそれに基づいたシナリオを進めるつもりなのだろう」
「だがゼーレも気づいているだろう。ネルフ究極の目的に」
シャトルの頭上を、三隻の輸送機が通り過ぎる。各輸送機から伸びるケーブルは、巨大なカバーによって覆い隠された細長い棒状の物体をぐるぐる巻きにしている。物体の長さはおよそ八十メートルほどで、エヴァにしか持ったりすることはできないだろう。
「そうだとしても、我々は我々の道をゆくだけだ。たとえ神の理と敵対することになろうとも」
そう言い切ったゲンドウの視界に、ふと何かが写り込んできた。
ゲンドウの視線の先には建造中のMark.6の開かれた右手……ではなく、ソラに伸びた五本の指、その薬指の上で座り込んでいる人影があった。
幻か……?
ゲンドウは目を凝らして今一度その人影らしきものを見詰める。
「……人か? いや、まさかな」
冬月もゲンドウと同じものを見ているらしいが、即座に否定する。
そもそも宇宙服なしに宇宙空間で生きることはまず不可能だ。
なんとか捉えることのできる輪郭から、宇宙服を着ているわけではないのはわかる。
だからふたりは気のせいだと意識を切り替えた。
「ところで……」
冬月はこれまでの真剣な面持ちからややリラックスしたものへと変わっていた。
「つい先日、第三の少女と話したそうじゃないか。どうだったんだ?」
「…………」
ゲンドウは僅かに頬を強張らせるが、それだけだった。
脳裏によぎるあの微笑みを、冷徹な理性でかき消す。
「私はあの子を一目見ただけで、まだ会話すらしたことがないからな。お前は果たして、最後まであの子に運命を押し付けられるのか?」
「問題ない。すべては悲願を叶えるため。そのためならば、あらゆる障害を――乗り越えるまでだ」
「あの子を『障害』呼ばわりするか。聞かれたら嫌われるなんてものじゃ済まないぞ?」
「…………」
ゲンドウは答えなかった。
◇
「――初めまして、お父さん」
と、銀髪の人影は言った。
◇
『日本海洋生態系保存研究機構』
と、正門のプレートに長々と書かれた施設の名前を私は一瞬にして忘れてしまった。
さすがにこれほど長い名前を覚えようとは思わないし、なんだかすごそうなところだなぁと頭の悪そうな感想を頭の中で思い浮かべるしかなかった。
しかしそんなことを言えば『汎用人型決戦兵器 人造人間エヴァンゲリオン』はそのさらに上をいっている。
正直、最初はうへぇと思ったし、『これってロボットじゃないんですね』なんてコメントしてしまったが最後、リツコさんに耳にタコができるほどあれこれ言われてしまった。
そのおかげもあってか、早口言葉並みの精度で言えるようになってしまった。
結局は皆エヴァエヴァと言っているけど。
名称がとても長いため大幅に略すが、この施設はつい昨日、加持さんに突然社会科見学として招待されたため来ている。
沿岸部を埋め立てて作られたというこの施設は、実際のところ、その約半分ほどを海が占めている。名前の通り、海に関する研究をしているためだろうか。
少し色気を感じさせるスマイルと一緒に、『皆を連れてくるといい』と私に言ってくれた。
それをミサトさんに伝えると拒否されてしまった。やはり加持さんからのお誘い自体が気に食わなかったのだろう。
でも私の目にはミサトさんが本当に加持さんを嫌っているようには見えず、どちらかというと未練……のようなものが垣間見える。
式波さんもミサトさんに便乗してパスしようとしたが、これは七本目のビールを飲みながら拒否された。
加持さんの言う皆とは誰のことを指すかわからないが、とりあえず呼べるだけ呼ぼうと思った。
その結果、私と式波さんに綾波さんは当然として、あとペンペンも。
そして――。
「すごい! すごすぎる……! 失われた海洋生物の永久保存と、赤く染まった海をもとの姿に戻すという、まさに神の如き大実験計画を担う禁断の聖地! その表層の一部だけでも見学できるとはッ! まさに持つべきものは……友達ッ!!」
この上なく大興奮状態の相田くんが超早口言葉で所感を述べ、カメラを顔面にほぼ貼り付けた状態でそこら中を歩き回っている。
相田くんの言葉通り、この施設は赤く染まった海を青に戻すという浄化実験を行っており、その成功を収めている。
ここに来る前にパンフレットをもらっているが、どうやら何段階かにわけて浄化を行っているらしい。
そしてもう一人。
「ほんま、感謝すんでぇ〜」
と私の肩に手をぽんと置く鈴原くん。
「お礼だったら加持さんに言ってよ。それにほら、この前のゲームセンターに遊びに行くの結局なくなっちゃったから、これで許してもらえるかな?」
「許すもなにも、ほんまはわしらがなんかしてやりたかったけど、まあそうやな。目一杯楽しませてもらうわ!」
あの時は式波さんがゲームセンターにいて、そこで不良たちとひと悶着あったせいで楽しむことができなかった。
でもここならガラの悪い人は決して入れないし、心から楽しんでもらえると思う。
「ヒカリも誘ったんだけど、用事が被ってしまってて……ちょっと残念。相田くん、カメラがあるなら、撮った写真、あとで私達にも送ってね」
「承知! 超高画質でお送りしてやるさ!」
綺麗な青い海に寄せられてきたのか、たくさんのカモメが空を飛んでいる。
その間にも『管理区画』と書かれた正面ゲートの詰所に加持さんが青白い清潔そうな服で姿を現し、ガラス越しにこちらに手を振った。
『もっとも、ここからがちょいと面倒だけどな』
と面白そうに言った。
間もなくゲートが開かれ、私達は加持さんに導かれるがままに移動、男女に別れた更衣室に入り、素っ裸になるよう指示される。
式波さんが「はあ⁉」と脊髄反射で激昂するが、『まだ序の口だぞ』と言われ、綾波さんはそそくさと裸になってしまったから私達もそれに続く。
そこからは地獄だった。
まずは裸のままひとりひとりレントゲン撮影みたいなものをされて。
その次にようやく下着が与えられたと思えば、男子ふたりと合流して水責め……もとい、小学校の、プールに入る前の儀式として有名な地獄のシャワー(熱いver)を五分以上もかけてじっくりと浴びせられて。
そしてよくわからない液体に沈められて。
命からがら助かったと思えば今度こそ地獄のシャワーに暖かく、ではなく冷たく出迎えられ。
また液体に沈められて。
地獄のシャワーのニパターンは経験したから次は何が来るの⁉ と身構えれば極寒の豪風が容赦なく私たちの素肌を叩きつける。
そしてメインディッシュとばかりにまた液体に沈められた。
どうやらそれですべては工程は終わったらしく、新しく与えられた下着と加持さんと同じ青白の服を与えられるが、それに手を伸ばす気力すら湧かない。それは式波さんも同様で、げっそりした顔で、死んだ魚の目をしながら裸のまま呆然と立ち尽くしている。
その姿は普段とは真逆でとても面白かったが、私にそれを笑う余裕なんてこれっぽっちもなかった。これまでさんざん馬鹿にされてきた鬱憤をここで晴らしてやろうと思ったが、できないのが残念だ。
「もやし、あんた……なんて顔……してんのよ」
そう小馬鹿にしようとしたのか、式波さんの声に力はまるでない。
疲弊した筋肉を動かそうとしているのか、顔の所々がピクピクと小刻みに痙攣しているのがよくわかる。私を笑おうとしていたのだろう。
「式波さんさん、こそ……今皆に見せられない顔してるよ?」
「二度とあんなのゴメンだわ」
「私も同感」
なんとか服を着る気力を回復させ、いざという頃にはすでに綾波さんは着衣を完了させていた。
「先、行って待ってるわ」
そう言い残してすたすたと更衣室を去っていく。
「……あの仏頂面は気に入らないけど、何事にも動じないところは、素直に尊敬するわ」
「綾波さんってすごいなぁ」
おそらく男子ふたりも着替えているだろうから、くたびれた手を懸命に動かして服を着る。
式波さんと一緒に小走りで更衣室を出ると、やはりというべきか、私達が最後だったようだ。
私たちを待っていた鈴原くんと相田くんもどこかげんなりした顔だ。
やはり男の子でもあれは相当きつかったのだということを如実に物語っている。
「おお……お前らもえらい顔しとんなぁ」
男の子にそんなことを言われるのは恥ずかしい。私は胸に抱いていたペンペンを地面に下ろすと両手で頬をほぐし、無理やり笑顔をつくった。
「き、気のせいじゃないかなぁ?」
「…………」
ジト目で見られるが知らないふりをしていると、チーン、と軽快な音が響いてスライドドアの上部ディスプレイに通行可と表示され、静かにドアが開いた。
私は飛び込んできた光景を見て、これまでの苦行など一瞬でどこかへ消え去ってしまった。
そこは地下三階。巨大な水槽がいくつも並べられた目を見張る場所だった。
驚くべきはそれだけではなく、私の知っている海とは違って、美しい青なのだ。
外から水槽に差し込んでくる光のおかげで、地下三階は仄かな青色に包まれている。
さらに、水槽の中には見たこともない生き物がたくさん生き生きと泳いでいる。
「わあああ……!」
興奮のままに私が口を開くと、その脇から男子ふたりとペンペンが勢いよく飛び出した。
あっという間に気力を回復させた私は、まだ湧き上がる感情についてこれていない身体に鞭打って脚を動かす。
棚に備えられていたパンフレットを手に取り、前方不注意ギリギリの感じで水槽と視線を行き来させる。
こういうのを『水族館』というのを私は知っている。
背中に硬そうな何かを背負い、四肢を使って泳ぐ生き物がいれば、平べったいひし形のような身体に長い尾を持つ生き物が、身体の両端を波打たせて水槽の中を悠々と泳いでいる。
「こんな変な生き物もいるんだ……」
セカンドインパクト前は海が青くて、たくさんの命に満ち溢れていたなんてまったく信じられない。
ペンペンと邂逅したとき以上の衝撃を受けつつ、私は咄嗟に相田くんを呼ぼうとした。
しかし彼はすでに遠くに離れていて、鈴原くんと歩き回りながら写真を取るのに夢中になっている。
「ま、いっか」
生き物の写真を撮ってもらおうと考えていたから別にいいだろう。
カメラの知識は私にはないが、それなりに高品質なカメラであることは見たらなんとなくわかるし、送られてくる写真が今から楽しみだ。
きっとミサトさんも羨ましがること間違いなしだ。……いやでも『こいつらおつまみとかにできないかねぇ?』と酔っ払いながら言いそうな気もしなくもない。
そんなことを考えてしまったせいか、生き物たちへの見方が少し変わってしまいそうになってしまう。
おのれミサトさん、と心の中で勝手に責めつつぶんぶんと頭を振った私は、ふと大きなパイプに腰掛けている式波さんを見つけた。
「どうしたの式波さん?」
私の声に反応した式波さんは気怠そうに顔を上げると、馬鹿にするように鼻で笑う。
どうやら身体の疲れは取れたようだ。
「こんなのではしゃいじゃって。バッカじゃないの?」
「む。はしゃぐよ、これは。だってセカンドインパクト前の生き物なんだよ? 知らないのがいっぱいいて面白いじゃん」
「ふーん」
何やら含みのある返しだった。
興奮冷めぬ男子組が私達の目の前を走り去っていくのを見送る。
「……子供ねぇ」
と式波さんがコメントし、心底つまらなさそうな顔で懐からゲーム機を取り出して遊び始める。
私には式波さんが『大人な私ってすごい』みたいな妄想に取り憑かれているのではと邪推してしまったが、それを指摘してしまうと間違いなく激昂するだろうから口にはしない。
もしかしたら、本当に心が大人のように成熟している可能性だってあるのだから。
「もう少し明るいところでやったら? 目が悪くなるよ?」
「あんたは私の保護者か!」
ぶつぶつと文句を口にしながらも明るい所へと移動を始めた式波さんを尻目に、私は少し離れたところにある細長い筒状の水槽に興味が吸い寄せられた。
鉄製の階段をカンカン、と鳴らして上り、立てかけられた橋の中央に立つ。
「あ」
私と同じくこの水槽に興味を持った綾波さんが、向こう側からこっちに来ようとしている。
「一緒に見ようよ」
「……ええ」
私のすぐ隣に立った綾波さんと、水槽の中を観察する。
この水槽にいるのは先程の『カメ』や『エイ』のような大きさの生き物ではなく、比較的小さい……手のひらサイズの小さな生き物がたくさん泳いでいる。
「綾波さんも来れて良かったよ。身体は大丈夫なの?」
前回のヤシマ作戦からしばらく期開が開いている。
初号機は大破で現在修復中。リツコさん曰く、明日にでも完了するらしい。
零号機は狙撃手を担当していたため比較的軽傷で済んでいる。
どちらかというと初号機と私のほうが傷は深いが、しかしながらパートナーを心配するのは当然のことである。
「碇さんの方こそ大丈夫なの?」
「うん。もう元気いっぱい。心配してくれてありがとう」
「ええ」
「式波さんも新しく来たことだし、これから三人で頑張ろうね」
「そうね」
ほぼ一秒にも満たない返事だったが、私はそれでもいいと思った。
なぜなら、その言葉に僅かな感情の機微のようなものを混じるようになったからだ。
以前ならば本当に言葉通りの意味しかなかったが、ヤシマ作戦を乗り越えて、私たちの距離は確実に縮まったと確信できる。綾波さんは感情を言葉や顔に出すのが苦手な人だ。式波さんとは正反対だからおそらく度々衝突する可能性は否定できない。
「どう? 楽しい?」
私は水槽に手を触れながら訊いてみた。
「……楽しいかはわからないけど、嫌いではないわ」
「良かった。これからも一緒にたくさん出掛けて……色んなものを見て……気持ちを共有したいな」
なるべく明るく話すが、後半にかけて私の声は気恥ずかしさに萎れていく。
ちょっぴり不器用だけど、私なりの精一杯の歩み寄り。
自分から他人の心に踏み入ろうとするのは恐らくこれが初めてのことだ。
綾波さんが弾かれたように顔を持ち上げて私に向ける。
少しだけ驚きが混じったような顔だったが、すぐにいつもの無表情に戻る。
「碇さんとなら……いいわ」
「……!」
今度は私が顔を向ける番だった。
少しだけ私という人間が変われたような気がして、綾波さんと距離がまた一歩縮まった気がして、私はこの上ない喜びを感じた。
自然と口の両端が吊り上がる。
「……この魚たちは、この中でしか生きられないのね」
突然話題が変えた綾波さんは私と同じように手を伸ばして水槽に触れる。人差し指からそっと……そっと手のひらを触れさせる。
「私と同じ」
その言葉に如何なる意味が含まれているのか、私には理解することができなかった。
憂いのような、憐憫のような。
そんな簡単に言葉にはできない顔だったことだけが、私にわかったことだった。
「おっ、こんなところにいたのか」
下の方から声が聞こえたから橋の下を見下ろすと、加持さんがこちらに手を振っていた。
「そろそろ昼飯にしよう。君たち待ちさ。俺も腹が減ったよ」
「すみません、すぐ行きますー!」
と返事をして、私は綾波さんに声をかけた。
「行こっか、綾波さん。お昼ごはんはね、私がお弁当作ったんだよ〜」
「そう。自信があるの?」
「ある程度はね。ミサトさんいつもレトルトとかだから、毎日私がお弁当作ってるんだ」
階段を降りて加持さんと合流、案内されるままに水族館を離れて、預けていた私服に着替える。
きっと水族館に入館する前にあれほど地獄を味わされたのは、万が一にも菌を持ち込まないようにするための措置なのだろう。
服は綺麗に畳まれていて、『除菌済』の付箋が持参してきていた弁当箱と一緒に置かれていた。
出口で待っていた加持さんに連れられて、私達はテラス……と思いきや、巨大な水槽をくり抜いたような広場に入った。そこはガラス張りの高い天井になっていて、日差しが海をすき透して広場に降り注いでいる。
「待っとったでセンセ! ささ、はようはよう!」
最近になって鈴原くんに私を『センセ』呼ばわりするようになったが、その理由はよくわかっていない。
時々勉強のわからないところを教えてあげているからなのか、それともエヴァで戦っているからなのか。
前者はどちらかというとヒカリのほうが相応しいと思うし、後者にいたっては綾波さんだと思われるのだが、鈴原くんは良くも悪くも意志が硬いから特に矯正させるつもりはない。
センセと呼ばれて別に悪い気分になるわけでもないのだから。
すでに広げられたレジャーシートに靴を脱いであがった私はキラキラと目を輝かせる皆の前に弁当を披露した。
「じゃーん! 私が今日の朝頑張って作ったお弁当でーす」
そう言いながら私は重箱のように積み上げられた弁当箱を丁寧に分ける。
中身は私が昨夜から楽しみにしながらしこみまでしていた具材を小綺麗に盛り付けた一品たち。
式波さんに「まあ、もやしの弁当楽しみにしてるわ」と期待の声をもらったのだからそれに応えるのが女というもの!
中で具材が崩れたりしていないことにほっと胸を撫で下ろす。
「「おおおお!!」」
男子諸君の感嘆の声が漏れる。
私が手渡したお箸を受け取るもどこかふわふわとした意識のまま弁当に食い入るように見つめる。
「いやぁ、葛城から料理が上手いってのは聞いていたが、想像以上だよ」
加持さんが僅かに驚愕しながらそう言う。
「まだ食べてないのにはやいですよ……?」
「見た目ですでに美味そうなのに、もしこれで不味かったらある種の才能だよ」
「あ、ありがとうございます」
素直に褒められて照れてしまうが、その間にもお腹を好かせた人たちが私の『よし』を待っているから照れ笑いから苦笑いに変えて『よし』を出した。
それとほぼ同時にいただきまーす! と元気な声が広場に響き、各々が箸を伸ばす。
そして口にぱくっと運んで――
一同に衝撃走る――!
何かの発作のように手をぷるぷると震わせながら弁当、そして私の間を視線を何度も行き来させる。
「んんまいっ!!」
初めに高らかに感想を述べたのは相田くんだった。
「絶妙な焼き加減と味付け! それにちょこっと可愛らしいウインナーの切り方とかが相まって、その辺りの中学生にできる料理とはとても思えない!」
「なんかケンスケ、今日はずぅーっとハイテンションやなぁ」
「こんなのローテンションじゃいられないぞ! こんなにも素晴らしい施設を見学させてもらえて、さらに碇の手料理が食べられるなんて……俺は……俺は……幸せだ……!」
「あかんなこいつ、チョット逝ってるわ」
上の空になった相田くんは放っておけとばかりに首を振った鈴原くんが目にも止まらぬ速さで箸を走らせる。
「俺の見立ては間違っていなかったな。君は絶対に良いお嫁さんになるよ。なんたって家事スキル皆無の葛城と一緒に住んで生きていられるんだからな。これは俺のお墨付きだ」
何を根拠に自ら『お墨付き』と断定できるのかはよくわからないが、大人の人にも認めてもらえるのは嬉しくないはずもなかった。
「これを毎日食べられる葛城とアスカは羨ましいよ」
「この前つくってもらったとんかつは美味しかったわよ!」
「ああ、あれね」
買ってきたお肉をそのまま揚げるのではなく、柔らかくなるようにほぐしてから揚げたのが効果抜群で、式波さんからは絶賛の声、ミサトさんからはビールの追加が止まらなかったのは新しい記憶だ。
「確かにセンセの弁当はクラスの中では毎日楽しみにされてるからなぁ。美味さはもちろん、見た目とか。式波のもなんやろ?」
「そうだよ。ミサトさんのもつくってるんだ」
「はえ〜、毎朝ご苦労さんやな〜。式波もセンセに感謝しとけよ」
「当然よ! おかげで舌がしっかり肥えてしまうわ!」
嬉しい誤算だ。
しかしながらふたりが私の料理に依存しきっているのには少し問題があるような気もしなくもない。
もしいつか私達が家を出る日が来た時、それぞれの食生活がどうなるか想像するだけで背筋が凍るほどの悪寒が走る。
心の中でふたりの私への依存を改善することをメモしながら視線を振ると、綾波さんがいっさい弁当に手を付けていないことに気づいた。
箸の先も汚れていないし、一口も食べてないことが伺える。
「あ、ごめんね綾波さん。口に合わなかったかな?」
私をちらりと見た綾波さんは次に弁当に視線を落とす。
「いえ……私、肉、食べないから」
「あ、そうなんだ」
思えばこの弁当にはやや肉系が多いような気がする。男の子も食べるのなら、力のつくやつのほうがいいと思ってレシピを選んだが、どうやらそれが裏目に出てしまったようだ。
「なんで悪くもないのにもやしが謝んのよ」
これに突っかかったのは式波さんだった。勢いよく立ち上がると、不愉快な眼差しを向ける。
綾波さんのつふらな瞳と視線が絡み合うが、それだけで何も反論もしてこない。
口を歪ませ、しびれを切らした式波さんが「えこひいき!」と罵倒する。
来る人数分の肉を用意していたから、綾波さんのだけいらないとなるとその分だけ余ってしまう。
「肉いらんのか? じゃあわしがもらったるさかいなー」
鈴原くんが言葉に隠せない喜びが前面に押し出されているが、私はそれを敢えて指摘しないでおく。
しかしそうはさせないぞと今まで気をうかがっていたペンペンがその邪魔に入ろうとしてきた。
鈴原くんの足元に立ち、ひときわ甲高い鳴き声で牽制してこようとしてくるが、ここで勢いに負けてまんまと肉を横取りされるつもりはさらさらないようだ。
「うわっ! なんやこいつ! 卑しいやっちゃなー!」
なにくそ! と思ったのかどうかはわからないが、弁当箱そのものを持ち上げて徹底抗戦を宣言すると、ヒートアップするペンペンの怒りも相まって、一気に広場は慌ただしくなった。
ペンペンの華麗な追撃を躱しながら向こうへと消えていってしまった鈴原くんを暗黙の了解で放置することになる。
とはいえ綾波さんがこのまま何も食べてくれないのは私も悲しいから、何か食べてもらえそうなものがないか思考を巡らせていると、あるものが思い浮かんだ。
私が手を伸ばして掴んだのは一見すれば水筒と見間違えられる魔法瓶だ。
中に入っているのは――
「じゃあ味噌汁はどうかな。お肉入ってないし、これならいけると思うよ」
きゅっ、と蓋を開けて、そこに中身を注ぐ。
さすがは魔法瓶で、結構な時間が経過したはずなのに冷たくも温くもなっていない、最適な温度のまま維持できている。
ほのかに沸き立つ湯気が溶け込んだ味噌の匂いと混じって何とも言えぬ食欲を誘う。
蓋を受け取った綾波さんは鼻を少しばかりひくつかせて匂いをかいだあと、ゆっくりと口をつけて含む。
「ああっ、ふーふーしてないけど大丈夫?」
私のとっさに出た心配に対する返事は返ってこなかった。
どくん、と身体を大きく跳ね上がらせた綾波さんの目は大きく見開かれていて、数秒ほど硬直していた。
その珍しい反応に一同の注目が一気に集まる。
「……美味しい」
という短い呟きは、私には綾波さんの可愛らしさがぐっと凝縮されたかのように聞こえた。
その後はつつがなく食事は進み、私が張り切ってつくりすぎたはずなのに、想像以上の男子たちの食欲のおかげで見事弁当は空っぽになったのだった。
◆
「なあ、ケンスケ」
「ん?」
「どうや? うまいこと撮れたか?」
「ああ、もちろんだとも。俺がその辺ミスするわけがないだろう?」
カノンは加持と散歩にでかけ、アスカとレイはどこかに行ってしまった。
一応一時間後に広場に再集合になっているが、トウジとケンスケはその場から動かない。
ケンスケがかばんから取り出したのは、今日一日ずっとお世話になっているカメラだ。
カノンから撮った写真データを送るように言われていて、それは申し分ない量の写真は取れているはずだ。
生き生きと海を泳ぐ魚たち。カメラの質も相まって、とても素晴らしい一枚になっている。
が、トウジが訊いたのはそれについてではない。ケンスケも分かっているとばかりにデータフォルダを漁り、真の目的たるフォルダを開く。
そこにあったのは魚たちではなく、なぜかカノンやアスカ、レイの隠し撮り写真ばかりだ。
水槽のガラスに張り付いて目を丸めて興奮しているカノンに始まり、静かに魚を観察するレイやひとりでゲームに耽るアスカなど、その数は少なくとも百枚はくだらない。
「最高な写真がこんなにたくさん……被写体はもちろん、学校じゃないところだからこその価値ってもんが付与されるのさ」
ケンスケが恍惚とした表情で写真をスライドさせる。
これを印刷して学校で売り払えば、目を見張るほどの速さで売り切れることはまちがいないとふたりは確信する。
「これでわしらの懐もほくほく、男たちもにっこりやな!」
「ああ、前は綾波だけだったけど、碇に加えて式波までも加わったんだ。これはもう需要が鰻登りだ。今が最高潮と言ってもいい」
「エヴァのパイロットちゅうんは、あないにかわいいおなごにしかなれないルールでもあるんやろうか?」
「さあな。俺もエヴァには乗ってみたいけど、もしそれが本当なら……諦めるしかないかもな」
綾波レイ。
氷のようでいて、なおかつ纏うミステリアスなオーラがより一層魅力を際立たせる。しかし最近になってカノンとの触れ合いを経て氷が溶けてきていて、見え隠れする感情の隙間に人気爆発中のファーストチルドレン。
式波・アスカ・ラングレー。
歩く火山。誰にも負けない強さとプライドは人間的な意味でも憧れられていて、しかしながら暴力的なせいで特殊性癖に目覚めてしまった哀れな男子が後を絶たないセカンドチルドレン。
碇カノン。
スタイルはレイとアスカには些か劣るものの、内向的な性格を直そうと頑張るその姿が健気で可愛らしいと評判が高い。また、時折見せる幼さを強く残した言動が男子の庇護欲を強烈に刺激するサードチルドレン。
派閥はこの三つに大きく別れ、これらが表の世界で衝突しないように上手く操作するため、適度なタイミングでこうして彼女たちの写真を供給することで束の間の平和を維持しているのだ。
この前カノンをゲーセンに誘った時は、もちろん勉強という鎖から一時的に解き放ってやろうという善の心はもちろんあった。しかし普段学校では見られない活発的なカノンの姿をカメラに収めたいという邪な願望も少なからずあった。
だから今回カノンからお誘いが来たのは絶好の機会としか言えなかった。
「わしらを……世界を守るセンセたちを盗撮するのはちょっと心が痛むけど、やっぱ男のリビドーはどうしても止まらへんもんやなぁ」
どこか悟った口ぶりで虚空に呟いたトウジは、写真をチェックをするケンスケの後ろから二重チェックに勤しむのだった。
◆
外の空気を吸いたい、と言った私に着いてきてくれたのは加持さんだった。
一緒にエレベーターに乗って水底から水面、そして更に上昇して私達が出てきたのは、浄化された青い海と赤い海を隔てる境界面の天端だ。
水面から目算でおよそ三十メートル。思ったより高い位置で、つい身体が萎縮してしまう。
「高いところは苦手か?」
加持さんは平然と歩いている。
「いえ……手すりがあるからなんとか大丈夫です」
「そうか」
高いところが怖いだなんて、ここよりエヴァのエントリープラグのほうが遥かに高い。しかしそれが気にならないのは、高さゆえの恐怖ではなく、明確な死――使徒を目前としているという恐怖のほうが勝っているからなのだろう。
なんとか平常心を取り戻した私はそれでも手すりだけは決して離さないようにしながら加持さんの跡をとてとてと追いかける。
懐からタバコを取り出した加持さんはライターで火をつけようとする。
「あ、加持さん」
「ん、なんだい?」
「すみません、私、タバコはちょっと……」
「ああ……悪いな、配慮が足りなかったようだ」
タバコをしまい直した加持さんに私は慌てて謝る。
「いえ! 私の身勝手で……すみません」
「別にいいさ。実際、タバコを吸っていいことなんて何もないからな。ただ気を紛らわせることしかできない」
じゃあなんで吸うのだろうと不思議に思ったが、別に私がしたい話ではないのでそこでタバコの話題は切り上げ、代わりを口にする。
「私が産まれる前は、海が青かったなんて信じられません」
背後には水平線の彼方まで赤が覆い広がっているが、私の眼下には、きらきらと日差しに反射する青い水面が広がっている。
もしこの施設がもっと大きく……例えばネルフの傘下に入って本格的な運用が開始されればネルフという強力なバックの力によって資金や機材、さらに場所などの提供が大いに期待できるはずだ。
そして何年後になるかはわからないが、美しい青い海を取り戻すことだって可能になるかもしれない。
「すごく……きれいです」
私の口から自然と感想が溢れた。
「人が生きていける環境だけでも、よく復元できたものさ」
「でも……なんだか変な匂いがしますよ」
外に出てからずっと気になっていたことを口にする。決していい匂いなどではない、むしろどちらかというと不快感を募らせてしまう腐った匂いだ。
「海が生きている証さ。赤い海とは違って、海には色んな生き物がいて、産まれて、死んでを繰り返す。海は生命の起源でもあるしな」
「正直あまり好きな匂いではないですけど、これが……命の循環、みたいな感じでしょうか?」
「お、良いこと言うじゃないか。うん、まさにそんな感じだな。かつて、海はいろんな生命に満ち溢れていたんだ。そのことを君たちに知っておいてほしかったんだ」
淡水で生きる魚たちはだいたい知っているが、海となると話は別だった。
考えれば地球の約七割は海が占めているのだから、陸に生きる生物より遥かに数や種類が多いことは自明の理なのである。
その一部分を知り、実際に見ることができたのは人生においてもとてつもなく貴重な機会だった。
加持さんに誘ってもらえて、私は本当に嬉しかった。
「ありがとうございます、加持さん。すごく勉強になりました!」
「そいつはよかった」
「ミサトさんも来たら良かったのに。今日は非番だから、きっと家で寝てるかビール飲んでるに決まってます」
容易に想像できてしまうだらけきったミサトさんの様子に、思わず笑ってしまう。
たまにはこうして景色のいいところに出かけて気分をリフレッシュしてくれたらいいのにな、という気遣いから出た言葉だった。
しかし加持さんは手すりにもたれ、誤魔化すように顔を上に向けてさらりと言った。
「んー、葛城は絶対来ないぞ。たとえ俺が招待していなくても。あれを思い出すからな」
「あれってなんですか?」
「――セカンドインパクト」
「ぁ……」
セカンドインパクト。
南極の氷が溶けたことによって海面が上昇し、世界中の大都市が呑まれてしまったという、人類史における最大規模の災害。さらにそれだけではなく、地球の地軸を変化させ、日本は四季によって様々な趣のある風景を生み出していたというが、それもなくなって常夏の国となってしまった。
難民や食糧難などから世界中の混乱は紛争にまで発展し、確かその中で旧東京に新型爆弾が落とされて――と学校で習った。
本当のセカンドインパクトの原因はつい先日式波さんの説明で知った。
私はこの災害の後に生まれた人だから、どれだけ厳しい生活状況だったのかは想像を絶する。
思えば、加持さんたちが子供の頃くらいがちょうどその時なのだったと、今更ながら気づいた。
加持さんは私とは違って、この青い海を見て違う想いを抱いていたのだ。
「すみません、私……!」
とんでもないことを言ってしまった。私は加持さんの過去の傷を、無意識に深く抉ってしまったのかもしれないと掠れ声で謝る。
しかし加持さんは「俺は大丈夫だよ」と柔らかい微笑みを向けるがすぐに表情を改め、
「でも葛城にはあまりこの話をしないでやってくれ」
「それは、はい、もちろんです」
「ところでカノンちゃんは葛城がなぜネルフに入ったか知ってるか?」
潮風に煽られ、加持さんのくくられた後ろ髪がふわりと靡く。
「葛城の父親は、自分の研究……夢の中に生きる人だったそうだ。あいつはそんな父親を嫌っていたそうだ」
「私と同じ……」
明確には私のお父さんとミサトさんのお父さんは違っているが、父親を嫌っていた。と言う点においては同じだった。
そういえば私はミサトさんの家族について、何も知らない。
「セカンドインパクトの日、葛城は父親に連れられて南極にいたんだ。それで爆発に呑まれる瞬間、その父親に脱出ポッドに押し込まれて、助けられた」
「…………」
私のお父さんは……最期の場面でも、命をかけて私を助けてくれることなんてしてくれなさそうだ。
ミサトさんは一方的にお父さんを嫌っているが、私の場合は互いが互いを嫌っているのだ。そんなの、どう考えても……。
「生き残るっていうのは、いろんな意味を持つ。死んだ人の意志を受け止め……継ぐ。それがひとりだったら尚更だ」
私は口を閉ざしたままだ。
「……辛いのは、君だけじゃない」
お父さんも、お母さんを失っている。
もしかして……お父さんも、どこか物憂げな加持さんの言っている通り、辛いのだろうか。
私とは違って、毎年きちんとお墓参りをしている。私と目を合わせようとしないのは、お母さんの面影を私に重ねてしまうからだろうか。
……わからない。
お父さんは私に何も言ってくれないから、何もわからない。
命を循環させる風が、そっと私達の身体に吹き付けてきた。しかしそれが運んでくる特有の匂いのことなんか頭になかった。長い後ろ髪がふわりと大きく舞い上がっても気にもとめない。
伏せ目になった私は、碇ゲンドウという人間の真意を理解するには、まだまだ距離が遠すぎるのだと再認識させられた。
◆
海と同じように、宇宙はかつて神の世界だとされていたという。
決して人に手出しできない領域。遥かソラの彼方。暗黒に包まれた未知の空間。
――そして。
今度の使徒は宇宙より飛来する。
これなるは、罪を犯した人類につきつけられる第八の試練。
暗く、暗く。さらに暗く。
暗黒の調べ。
降り注ぐ死の隕石。
是、凶星なり。
種の保存。失われた青い海の再現。
過去を乗り越えられず、呪いを背負う者にも等しく朝は訪れる。
そして現れるは、第八の使徒。
それではまた次回!