それでも私は──   作:次作エヴァはきっと鬱エンド

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前回のあらすじ
私はあなたではない
あなたは私の罪

(だいぶ間が空いてしまった……!
でもこの文量と密度なら許してくれるやろ……)


半端者の罪

 新しいシステムが初号機に導入されると聞いたミサトは、仕事の手を休めてケイジヘ移動し、その着工作業を静かに見届けることにした。

 新システムの名はダミープラグというらしい。

 形状は普通のエントリープラグと酷似しているが、ダミーシステムのロゴマークが離れた位置からでもよく見えるほど自己を主張している。

 そのすぐ脇では、ヘルメットを被った冬月とゲンドウが経過を見守っている。

 初号機の射出愚痴にゆっくりと挿入されていく様を少し高い足場から見下ろしながら、ミサトは低く呟いた。

 

「あれがダミープラグ……」

 

「あくまでパイロット補助との名目ですが、単独での自立制御だけでなく、無人でのA.Tフィールドの発生まで可能。子供に操縦させるよりは人道的だそうです」

 

 すらすらとコメントしたのは、ミサトの視察に随伴していたマコトだ。

 マコトを含め、ミサトたちにダミーシステムの詳細は知らされていない。

 今聞かされたこと以上のことは何も知らない。技術的な分野であることは間違いなさそうだから、こういうのはリツコに聞けば一発だ。

 しかしながらリツコも「守秘義務があるの」と一点張り。

 何か裏があるのではとどうしても勘ぐってしまう。

 ミサトだってネルフが完全にホワイトな組織であるとは到底思っていない。それこそ、表の世界には決して出てこない情報があることを知っている。

 

 ――人類補完計画。

 

 不気味な響きであることは否めない。

 間違いなくネルフは裏で何かを画策しているが、まだ尻尾どころか情報の切れ端すら見つからない。

 とはいえ今はダミープラグの件だ。

 無人状態でエヴァを動かせるのならば、それはとても素晴らしいことだ。カノンたちパイロットを危険から遠ざけることができる。

 子供が世界を背負って戦うのはいくらなんでも荷が重すぎる。その負担を少しでも軽減できるであれば、反対する必要はない。

 いきなり実戦に運用するわけにはいかないから、試験運用を兼ねての導入といったところか。

 だからこそ、ダミープラグの全情報は最低でもミサトにも共有されてしかるべきではないのか。作戦立案にも大きく関わることが予想される。

 それに……。

 そのダミープラグには、誰のパーソナルデータが保存されている?

 それを明かさないあたり、やはり疑心は晴れない。

 眉を潜めるミサトとは裏腹に、ふたりの男は深く頷く。

 同時にダミープラグは問題なく初号機に挿入され、アナウンスと共に動作チェックが始まるのだった。

 特にこれといった異常が発生することもなく、比較的スムーズに作業は完了した。

 腑に落ちないまま自分の職務に戻ったミサトは、落ち着かないながらもなんとか仕事を終わらせた。

 時間はすっかり夜で、やや眠気もある。

 帰って風呂に入って、美味しいカノンの晩御飯にありつきたい。そしてビールを喉に流し込み、生を実感したい。

 それを考えるだけでもミサトの気分は高揚した。

 休憩所のベンチに腰かけ、深いため息を吐く。

 ピロン、と鳴ったスマホの通知音に気づき、その内容を見る。

 

『今日は晩ごはんいりますか?』

 

 とカノンからのメッセージだった。

 近頃は3号機搬入準備の件もあり、ネルフにあまり来ていないから、両者の間にはどうしても時差のようなものは発生してしまう。

 脊髄反射で『よろぴく!』と返信しようとした、まさにその瞬間、背筋にぞわぞわとした感覚が走った。

 本能のままに飛び上がり、距離を取る。

 軍人の反射速度で、振り抜きざまにいつでも攻撃できるわよと牽制を込めて拳を向けると――。

 

「おいおい、そんな物騒なことしないでくれよ。俺とお前の仲だろ?」

 

「ぬぁにがあんたとの仲よ! それになにこっそり私の後ろに立ってんのよ!寒気がしたわっ!」

 

 両の眉を吊り上げながらミサトは今さっきまで背後に立っていた男――加持に向けて罵声を浴びせた。

 しかし加持はどこ吹く風。

 やれやれと言わんばかりに肩をすくめたあと、こちらに背を向けて自動販売機で缶コーヒーを買った。

 

「ほれ、お疲れさん」

 

 急にコーヒーを投げ渡されたミサトは、拒否することなんてできるはずもなくキャッチする。

 

「俺も最近は暇でな。どうだ? 久しぶりに俺たちだけで飲みに行かないか?」

 

「嫌」

 

「本当は?」

 

「嫌」

 

「そ、そんなに嫌なのか?」

 

 ここまできっぱり断られるとは思っていなかったのか、いつもの余裕そうな顔が苦笑いを浮かべる。

 

「ええ。あんたとカノンちゃんの料理とじゃ天秤にかける必要すらないわ」

 

「すっかり手懐けられたなぁ」

 

「それは……否定できないわ。だって美味しいし」

 

「確かに毎日三食お世話になってたら染まるわな」

 

 いつか弁当お願いしようかな、なんて呟いた加持は表情を改めた。

 

「たまにはジャンクなやつ食おうぜ。それに……ここ最近は特に物騒だ。色々溜め込んでるんじゃないのか?」

 

「言い方!」

 

 デリカシーのまるでない物言いにキッ! と鋭い目つきで睨みつけるが、加持は臆することなくミサトの懐に潜り込んでくる。

 

「少し真面目な話……あの新システム、お前はよく思ってないだろ」

 

「…………」

 

 目元を僅かに逸しながら喉を鳴らす。

 加持は裏で様々な活動をしていると聞いているが、その実態はミサトですら全容を把握しきれていない。

 掴みどころのない、蜘蛛のような男。

 色々と独自に行動していると聞くし、以前カノンたちを招待した社会科見学だってそうだ。

 もしかしたら何か有用な情報を持っている可能性はあり得る。

 カノンの手料理と加持の誘いを、ミサトは重い腰を上げながら天秤にかける。

 十数秒ほど深く考え込んだミサトは、泣く泣くカノンに返信したのだった。

 

「俺を取ってくれたのか。嬉しいな」

 

「普通なら息をするように拒否ってたわよ、馬鹿」

 

 げっそりとするミサトとは対照的に、満足げな笑みを浮かべる加持。

 タイムカードを切り、ネルフを出る。

 そして連れてこられたのは特に変哲のない普通の居酒屋だった。

 中に入れば、ミサトたちと同じように仕事終わりの大人や少し背伸びした大学生たちが楽しそうに酒を飲んでいた。

 賑やかで騒がしい空気が妙に懐かしく感じてしまう反面、こんな場所で色々話し込んで問題はないのかという不安はある。

 店員に案内されるがままにテーブル席についたふたりは、とりあえず生を注文した。

 メニュー表を見て、あれよこれよと追加で肉メインを注文し始めるミサトをなだめ、加持は野菜も適度に注文する。

 まずはじめに運ばれてきた生のグラスを掲げ、ミサトは一気飲みをする。

 その飲みっぷりたるや、加持も感嘆の息を漏らすほどである。

「ぷっは――! くぅううううッ!!」とグラスを机に叩きつけてそう食いしばった歯の隙間から溢れる悦びの叫びはまさにおっさんのそれだ。

 

「おいおい、まさか家でもそんななのか?」

 

 運ばれてきた鶏の串を食べながら加持は訊いた。

 

「んーそうねぇ……家は自分を解放できる唯一の場だから」

 

「子供もいるんだ、少しは自重しろよ?」

 

「それくらいわかってるわよ」

 

 とは言いつつこれまでの記憶を掘り起こすミサトだが、自重どころか夕食の前後は完全に酔っ払いになっている記憶しか思い当たらず、内心で冷や汗をかく。

 しかしビールは至高の飲み物であり、これを欠いては一日を終えることのできない、言わば日課のようなもの。

 

「葛城がちゃんと子供たちの面倒を見れているのか、俺はちょっと心配だぞ」

 

 ミサトとは対照的に、ちまちまとビールを飲む加持は憂いの感情を交えた声で呟く。

 思わずうっ、と身を強張らせる。思い当たる節がありすぎて、逆に自分が健全である証拠が何一つ思い浮かばないのだ。

 実質的に家を牛耳っているのはカノンだし、最近では家計簿も大半は任せきりになってしまっている。

 アスカはわがままお姫様で、未だに引っ越し時の荷物が全て片付いていない。さらに隙あらばこちらの部屋に置こうとしてくる。

 ちなみにカノンは初日から甚大な被害を受けている。気を抜くと物置部屋にされるから要注意だ。

 

「問題あるわけないでしょう。仮にも女三人。これだけいれば女子力は三百パーセント超えよ」

 

「……それはカノンちゃんだけで三百じゃないのか?」

 

「………………もちろん合わせてよ」

 

「ナルホドナー」

 

 したり顔で野菜をつつく加持の顔は楽しそうだ。

 生の二杯目もぺろりと飲み干したミサトは豪快にコロッケにありついた。

 とても油っこくて、だからこそ美味しい。

 中はふわっとしていながらほくほくで、しっかり味を堪能してから呑み込む。

 するとシーソーのように食を満たしたら飲み物に飢えてしまう。

 三杯目のビールを飲んだミサトの顔はやや紅潮し、酔いが回り始めているようだ。

 へらへらと大人しく笑い始め、机につっぷす。

 

「飲み過ぎたら明日に響くぞ」

 

「大丈夫よ……私、酒には強いから……そんなことよりも……」

 

 重たげに頭を持ち上げたミサトは、一口飲んたかと思うと勢いよく向かいに座る加持の眼前に身を乗り出して愚痴った。

 

「あのダミーシステムってやつ、なんかいけすないんだけどぉっ!」

 

「ゴルゴダベースからの厳封直送品だからな。得体は知らないままだ」

 

 落ち着けとゆっくり宥めながら加持は酒をちびちびと飲む。

 すでにこの居酒屋はどこの組織の息がかかっていないことは把握済み。ついでに尾行もされていないことはわかっている。

 

「そんな危なっかしいものにエヴァを預けるなんて、気がしれないわ!」

 

「人間だからあのエヴァを任せるってことか? 信用されているな、カノンちゃんは。いや、カノンちゃんだからこそか」

 

 もちろんエヴァに乗せられるのはネルフによって完全に情報を掌握し、その上で問題ないと判断されなければならない。それに、戦闘スキルやシンクロ率などといった他の要因も強く絡んでくる。もちろんスパイでないことも。

 そう考えると、カノンは三人の中で最もエヴァのパイロットに向いていない少女だ。

 ずっと前からエヴァに乗るために訓練を積んできたレイやアスカとは違う、親のコネとしか思えない登用。

 ぽっと出。

 事実、シンクロ率はふたりに比べるとやや劣る。

 戦闘訓練のおかげで最近は形になってきたが、それでもまだまだ。

 正直なところ、エヴァに乗らないでいたほうがよっぽど平穏な毎日を送れたと思われる。それがカノンにとっていいことなのかは考慮しないとして。

 しかしながらいざ戦闘となれば、隠された潜在能力のようなものを発揮して果敢に使徒に挑む。

 極度の緊張や恐怖から離人感に似た感覚に陥ることで、ある種の幼児的万能感に目覚めるのだとMAGIは推測している。

 

「それより、ゼーレとかいううちの上層組織の情報、もらえないかしら」

 

 少しだけ真面目な表情になったりミサトは、加持の気怠気な瞳を見つめながら求める。

 微動だにせず返事を待つミサトに、机に片肘をつきながらトーンを落として優しく諭す。

 

「例の計画について知りたいのなら、止めておけ」

 

「人類補完計画……ネルフは裏で何をしようとしているの?」

 

 ミサトとてただ上から与えられる司令のみをこなす人間ではない。

 自分で考え、行動した結果がその計画の名前だ。

 

「それは……俺も知りたいところさ」

 

 つまみをひと齧りする加持の様子はなんだかつまらなさそうだ。

 望んでいた情報は得られなかった。

 がっくしと肩を落としたミサトは乗り上げた身体をゆっくりと元に戻す。

 

「ちょっとくらいはわかっていたが、久しぶりの食事だってのに仕事の話ばっかじゃないか。そういうのはちょろっとだけにしてだらだら話したかったのに」

 

 色々溜め込んでるんじゃないのか? なんて語弊しか生まない言い方をしたくせに、どうやらミサトの口ぶりは想像以上だったらしい。

 

「学生時代とは違うわよ。色んなことを知ってしまったし、背負ってしまった」

 

「お互い、自分のことだけ考えるわけにはいかないか」

 

「カノンちゃんたちはもっと大きなものを背負わされてるし」

 

「……そうだな。子供が背負うには確かに重すぎる。だが俺達はそこに頼るしかない」

 

 現状、エヴァに乗れるのは心の未成熟な子供のみ。

 大人が乗れればカノンたちはあれほど大きいものを背負わずに済むというのに。

 世の中、すべての事象が良い方向に向かうわけではないことは重々承知している。

 しかしながら、せめてこれだけはどうにかなってほしかった。

 ただ、悔しい。

 そして情けない。

 静かになったふたりは、無言で酒を胃に流し込む。

 キラキラと天井の照明を反射して輝くグラスはまるであてつけのようだ。

 直後、ミサトのスマホから電話の呼び出し音が響いた。

 重そうに身体を持ち上げたミサトは紅潮した顔のまま電話に出る。

 

「はい……ええ、わかってるわ。日付変更までには結論出すわよ」

 

 それだけで何の話で、誰と話していたのかを看破した加持は、ほんの数秒に満たなかった電話を終えたところで問うた。

 

「リっちゃんか……3号機テストパイロットの件だな?」

 

「まあね。ホント、嫌な催促よ」

 

 そして大きなため息を一つ。

「幸せが逃げたぞ」なんてツッコミを入れてやろうと思ったが、既のところで気が削がれてしまった。

 酔いの感覚が薄らぐのを感じながら、加持は静かに食事をつまむ。

 ミサトもそれにつれられて黙々と食べ始める。

 すっかり重くなってしまった空気を吹き飛ばす何かが欲しかったが、どうもすぐには思いつかなかった。

 

「人選は君の責任だからな。検討はついてるのか?」

 

「ある程度は。でも3号機到着の予定がずれちゃって……」

 

 話によると、輸送中に巨大な雷雲にのまれたせいで飛行に遅れが生じたようだ。

 仕方ないといえば仕方ないのだが、ずれ込んだ先の日程が――。

 

「よりによってこの日なのよね」

 

 ◆

 

 ミサトさんから夕食はいらないと連絡を受けた私は、手慣れた動きでちゃかちゃかと夕食を用意した。

 アスカは部屋に籠もっている。

 どういう理屈なのかはわからないが、どうやら2号機が封印されることになったようだ。

 そうなれば私は察しの悪い女ではない。

 エヴァに生き甲斐を見出していたアスカの落胆ぶりは想像に難くない。

 ミサトさんの分だけ除いた料理をテーブルに並べ、箸や小皿なども同様に並べる。

 ひょっこりと廊下に首を伸ばした私は「ご飯できたよー!」と少し大きめの声を張ると、アスカの部屋から「んー」と力のない声が聞こえた。

 その数十秒後くらいにアスカが部屋から出てきて、大きなあくびを一つしてから卓上の料理を一瞥し、さらにもう一度あくびをしてドカッと椅子に腰を下ろした。

 その動きを観察していた私は、アスカがやや不機嫌であることを見抜く。

 

「ミサトさん、加持さんと飲んで帰ってくるって」

 

「あっそ」

 

 素っ気ない返事をしたアスカは「いただきます」と礼儀正しく手を合わせて夕食を食べ始める。

 まだ箸の使い方はマスターできていないが、以前に比べるとだいぶ上達してきたような気がする。

 時折ぎこちない動きになったり、持ち直したりすることはあるが、そこまで酷くはない。

 そんな私の微笑ましい観察に気づいたアスカは箸を片手で握りしめ、険しい顔で口を開いた。

 

「なによ、キモいわね」

 

 私はかぶりを振った。

 

「ううん。なんでも。ただお箸の使い方が上手くなってきてるなって思って」

 

「当たり前。私を誰だと思ってんのよ」

 

 依然としてムスッとしたアスカを尻目に、私も黙々と箸を動かす。

 テレビをつけず、外の音が少しだけ漏れ聞こえている中でやけに大きく心をかき乱すのは、壁にかけた時計の秒針が時を刻む音だ。

 

「そうだもやし」

 

 不意に何かを思い出したように顔をこちらに向けたアスカは、不機嫌な猫さながらな目つきのまま言った。

 

「私の生理用品、あげるわ」

 

「え」

 

 なんで食事中にそんな話をするのかなぁ⁉ というツッコミが喉までせり上がってきたが、なんとか奥底に押し込む。

 努めて冷静を保ったまま私は尋ねた。

 

「なんで? アスカ、それがないと困るんじゃないの?」

 

 しかしアスカは心底不愉快そうな顔をして言った。

 

「無理、あれ無理。私には合わないわ。もう新しいやつ買ってあるからあんたにあげる」

 

 生々しい話は食事にリアリティを与える。

 そう考えるだけで食欲が下がる。

 はやくこの話題を切り上げさせたいと思いつつ私は答える。

 

「うーん、ごめんアスカ。私はいらないかな」

 

「なんでよ。……あ、なるほど。あんたはまだ生理来たことないのね。ホントお子様ねぇ……」

 

 小馬鹿にするように口の端を吊り上げるのは少し癪に触るが、もうアスカとの生活でだいぶ許容できるようになった。

 これがいいのかはまた別の話だが。

 

「確かに私はまだ生理とか来たことないよ。けど……」

 

「けどなによ」

 

 食事の手を止めて私を見るアスカ。

 

「前の前の時かな、その戦いでお腹を怪我して、それで生理とかが来ない身体になっちゃったんだ」

 

 なるべく思い返したくない記憶。

 あの戦闘は死ぬほど辛かったし、実際一度心肺停止状態になった。

 二度の狙撃でも撃破できなかったところを、私の単騎行動で追撃を加えて撃破。

 混乱するミサトさんたち全員を説き伏せて初号機と自分を酷使したことは認めざるを得ないが、あれが間違っているとは思っていない。

 払うべくして払った代償として私は受け止めている。

 アスカは私を見つめたままだ。

 そして不快感を露わにする目元を伏せ、だらんと肩の力を抜く。

 

「……ふぅん、名誉の傷ってやつか」

 

 トーンの落とした生気のない呟きに、私は背筋に冷たいものを感じた。

 

「アスカ……?」

 

 アスカはテーブルの縁にしなやかな人差し指を押し当て、ゆっくりと這わせる。

 視線を指先へ向けたまま、ぽつりと口を開く。

 

「何? エヴァに乗れなくなった私へのあてつけのつもり?」

 

「いや、そんなつもりじゃ……!」

 

 どくんと心臓が強く跳ねる。

 全身が熱くなり、気道は狭くなる。

 私は無意識の内にアスカの逆鱗に触れてしまったようだ。他人の感情の起伏には人一倍敏感な私は、アスカの怒りを肌で感じ取った。

 下に見ているはずの私から嫌味ではないとしても、そのように言われたらプライドが傷つくことなんて、簡単に予想できたはずだった。

 

「そうでしょ? そうじゃないならなんなのよ」

 

「ご、ごめんアスカ」

 

「はー、良かったわね。あんたはこれからもエヴァに乗って戦うことができるんだから。戦って受けた傷もさぞ誇り高いんでしょうね」

 

 アスカはあからさまにテーブルに肘をつき、さっと視線を持ち上げる。

 目の合った私はつい反射的に逸してしまう。

 

「やめてよアスカ……」

 

 なんとか宥めようと努めるがまるで効果がない。

 むしろ逆で、アスカの責めはエスカレートするばかりだ。

 

「私はエリートだからエヴァを誰よりも上手く操縦できるの。あんたやえこひいきとは違ってね。だからバカみたいな怪我はしない。あーあ、私がいないからあんたたちの負担がもっと増えるかもしれないわねぇ?」

 

 責めるアスカの口は非常に饒舌だ。

 私は何も反論することができない。方法がわからない。

 なぜなら、こういうときはいつも耐え忍んでいたから。何もせずに受け止めて、どこにも発散できずにストレスを溜め込んでからゆっくり分解する。

 それが私の処世術。

 でも、怖いと言う感情よりも怒りが徐々に膨れ上がっているのを自覚した。

 胸の内で熱を孕んで膨張し、爆発しそうだ。

 顔が熱くなる。

 両の拳を白くなるほど強く握りしめる。

 グラスに注がれる水があとほんの少しで溢れそうな感じ。

 

「お願い……やめて……」

 

「嫌よ。なんで私が降ろされないといけないのよ! 私は自分の力だけでエヴァパイロットになったの! 碇司令のお気に入りはまだなんとか飲み込んであげるわ。昔から訓練していたらしいし」

 

 顔を上げたアスカの顔は怒りに震えている。

 ダンッ! とテーブルを強く叩く。

 私を睨みつける眼力は人を殺せそうなほどだった。

 ひどく怯えた私の視界は濁り、ぼやける。

 我慢できない。やめてほしい。

 必死に私は訴えかける。

 もう本当に耐えられない。

 

「でもなんであんたがパイロットになれるのよ⁉  全部が気に食わないわ! 突然呼ばれて⁉ 使徒と戦わされて⁉ そりゃそうなるでしょう! クズでドジでノロマで、へっぴり腰のもやしだからその障害だって当然よ!」

 

「――やめてって言ってるじゃん!!」

 

 いつになく大声で、ついに私は喉元までこみ上げていた言葉の塊を口から爆発させた。

 

「私は何も間違ったこと言ってないわよ」

 

「言わないで! 気づかせないで! 私のこれは皆を守るために受けたものって信じさせて! 私自身に嘘をつかせて!! そうじゃないと私、耐えられないの……ッ!」

 

 頭を抱え、俯き、声を荒げる。

 ぎゅっと強くまぶたを閉じ、外界をシャットアウトする。

 私の子宮機能の喪失は『名誉の傷』でなければならない。

 それ以上でもそれ以下でもない。そのレッテルを貼ることで、障害の影響を考えずに済むのだ。

 女として大切な機能を捨ててまで戦うのだ。これからもきっと同じように、何かを捨てながら戦うことになるという漠然とした予感は間違いなくある。

 そんな現実を美化するために、私のこれは尊くなければならないのだ。

 そうやって自分を騙し続けないと、悲しくて泣いてしまうから。

 

「――なんだもやし、あんた、猫被ってたんだ」

 

「…………」

 

「皆の前ではいい子ちゃんぶってたけど、本当はどうしようもなく弱っちいのね、全部」

 

「……私はアスカみたいに強くなんてないよ」

 

 皆を守りたいという気持ちは本物。

 これだけは断言できる。

 しかしこれは私ひとりでは不可能で、エヴァに乗るからこそできることだ。

 だから。

 エヴァに乗らない私には何もできない。

 エヴァに乗らない私には価値がない。

 苦しくても、痛くても頑張った。

 その先に新しい私が見つかると信じていたから。

 

「知ってるわよそんなことくらい。だからあんたはエヴァの操縦が下手くそで、そんなことになったのよ」

 

「…………でもアスカのミスを私がカバーした」

 

 蚊の鳴くような声で呟いたそれに、アスカは目に見えて顔の表情を険しいものへと変貌させた。

 

「なんですって?」

 

 ガタタっ、と荒々しく立ち上がる。

 そのままの勢いで私の隣に立ち、胸ぐらを掴み。

 私を強引に立ち上がらせた。

 

「もう一度言ってみなさいよ……!」

 

 私は吐き捨てるように言った。

 

「アスカひとりじゃあの使徒は倒せなかった。私と綾波さんが頑張ったから、アスカはコアを壊すだけの簡単な役割で済んだ」

 

「こんのッ……!」

 

 怒りに身を任せたアスカは胸ぐらを掴みあげたまま、体格差を利用して私を力づくですぐ横の壁に叩きつけた。

 

「ぐっ」

 

 背中に受けた衝撃はそれほど大したものではないが、爪先立ちでないと服で首が絞まる。

 鼻が触れ合うほど顔を近づけたアスカは、唾を散らしながら威圧してきた。

 

「屁理屈言うな! あんたが調子に乗って先走らなければ私だってできたんだから! だって私は完璧なエヴァパイロットなのよ⁉ バカにしないでッ!!」

 

 それを聞いた私のアスカの手首を掴む手は、無意識に力が入っていた。

 それは息苦しかったからなのか、それとも怒りからなのかはわからない。その両方かもしれない。

 でもそんなことはどうでもいい。

 私は負けじとアスカの蒼碧の瞳を睨みつけた。

 

「じゃあなんでもっと前にネルフに来てくれなかったの! そしたら私と綾波さんの苦しみがすごく減ったのに! 私だってこんな身体にはならなかったのに!」

 

 アスカの手首に爪を立てて反抗する。

 不満を爆発させる。

 この際どうなったっていい。

 勢いに任せ、すべてを吐露するように私の口から音の羅列を放った。

 

「あとから来たくせに、偉そうな顔しないでよ!!」

 

「――――」

 

 瞬間。

 私は床に倒れていた。

 何が起こったのかわからなかった。

 しかし、遅れて身体中を激痛が駆け抜けた。

 赤い痛みが頭頂から足の先まで染み渡る。

 特に肩や背中、脚が痛い。

 どうやらテーブルに強く身体をぶつけたようだった。

 私はアスカに押し倒されたのだ。

 ゆっくりと頭を上げた私を、アスカは鼻息を荒くしながら睨み下ろしている。

 無意識に逃げようとしたが、うまく身体に力が入らなくて立ち上がれない。

 私の口の端から漏れたひび割れた掠れ声は、あまりにも矮小なものだった。

 アスカが股を開き、倒れる私の真上に立つ。

 昔から刻みつけられた恐怖心が過敏に反応し、咄嗟に私の両腕が防御体制を取る。

 しかしそれをものともしないアスカは、再び私の胸ぐらを乱暴に掴んだ。

 

「偉そうにして何が悪いのよ! 私はあんたとは違う! ずっと前からエヴァのパイロットになるために死に物狂いで努力したの! それがなに? 自分を変えたいからエヴァに乗る? ふざけるなッ! それだけのためなら他所でやってろ、この雑魚もやし!!」

 

 そのまま乱暴に突き放された私は再び床に倒れた。

 また痛みを感じたが、それ以上に心が痛かった。

 私の気持ち、私の理由に対する侮辱はこれ以上にないほど辛かった。

 アスカがドスドスとリビングから去る。

 そして引き戸を勢いよく閉める音が聞こえた。

 その後、私は堰を切ったように顔を歪め、情けなく啜り泣きを始めた。ミサトさんが帰ってくるまでリビングで女々しく泣き続けた。

 食事なんて、とっくの昔に冷めてしまった。

 

 ◆

 

 周りからの音を一切遮断しようとしても、カノンの情けない泣き声が嫌でも聞こえてしまう。

 掛け布団を被ったアスカは苛立ちを我慢できず、両耳を手で抑えた。

 虫唾が走る。

 奥歯に力を入れ、ついさっきまでのやりとりを思い返す。

 カノンの無神経な言葉は、アスカのプライドを大きく傷つけた。まるで私はエヴァに乗っているのだと暗にアピールしているように聞こえたのだ。

 普段はめっぽう大人しいくせに、言う時は言う。

 怒りに身を任せてカノンを激しく罵倒したが、これに言い返されることは予想できなかった。

 てっきり萎縮して小さくなるとは思っていたが、まるでその反対だった。

 カノンの啜り泣きはまだ聞こえる。

 知ったことか。

 カノンの苦しみなんて知ったことか。

 エリートには、なるべくしてなるのではない。エリートを志す者たち同士で争い、生き残ってようやく胸を張って主張できるのだ。

 アスカはエリートだ。

 だから、蹴落としてきた奴らの背景なんてどうでもいい。

 ただそいつの出す成果こそがすべてなのだ。

 ギリギリと歯の擦れる音。

 カノンが嫌いだ。

 ふわふわした理由でエヴァに乗っているもやしが嫌いだ。

 エヴァに抱く、誰よりも強い想いを侮辱されて胸糞悪い。

 不快感以外の何でもない。

 唐突に、スマホの軽快な通知音が鳴った。

 ミサトからかもしれないと思うと、僅かにもどかしさがこみ上げる。カノンを泣かせたことは、アスカたちの保護者として首を突っ込まなくてはならないのだから。

 

「…………チッ」

 

 無視しようかとも思ったが、ネルフに勤める者として連絡を無視するのは賢明な判断とは言えない。

 気だるげな動きで指を通知タブをクリックしてメッセージを開く。

 差出人は予想通りミサトだったが、内容は予想とは全く異なるものだった。添付ファイルを開くとスケジュール表が表示され、目で追っているうちにアスカの双眸はある部分に釘付けになった。

 

「…………」

 

 天啓、というものなのかどうかはわからないが、絶好の機会であることは間違いなかった。

 自然と口角が上がり、先程までの怒りも急激に七割ほど収まった。

 懸念があるとすれば――。

 

「3号機の起動実験の予定日って……えこひいきの約束の日と被ってるじゃない」

 

 しかしアスカはすぐさまかぶりを振った。

 どうでもいい。知ったことか。

 そっちはそっちで勝手に乳繰り合っていればいい。こっちはエヴァパイロットになれる絶好のチャンスなのだ。

 アスカは反射的にコールボタンを押して、スマホを耳に当てたのだった。

 

 ◆

 

 真っ赤に泣き晴らした目元は、朝になるとすっかり元に戻っていた。しかし腫れ上がった心は一向に回復する兆しがない。

 重たげに身体を起こした私は、ゆっくりとした足取りでリビングに向かう。いつも通りの時間に起きることはできたが、どうしても身体に力が入らない。

 とはいえ染み付いたルーチンワークをこなすことに支障はない。

 普段通りふたりを起こしに行こうとして――。

 

「…………っ」

 

 足が止まる。

 アスカの寝ているであろう部屋の前に立つだけで呼吸が乱れる。

 昨晩の出来事が鮮明に蘇り、乾いた喉を通る空気がチクチクする。

 もしかしなくても私のことを怒っているだろうし、起こされるなんてストレス以外の何ものでもないからまた暴力を振るわれるかもしれない。

 だからといってこちらから避けるのはもっとよくない気がする。でもやっぱり怖い。そんな半端な思考を巡らせていると――。

 

「カノンちゃん」

 

「ッ!!」

 

 不意に後ろから話しかけられた私は肩を大きく跳ね上がらせた。

 恐る恐る振り返ると、そこにはぼさぼさの寝癖の治ってないミサトさんが立っている。

 

「無理しなくていいわよ。アスカは私が起こしておくわ。それに、そんなに怯えてるのに無理はさせられないわ」

 

「ぁ」

 

 ミサトさんに指摘され、シャツを握りしめる右手に過剰なほど力が入っていたことに今更ながら気がついた。

 少し手汗もかいているし、シャツが皺になってしまう。

 緊張状態から解放された私は大人しくアスカをミサトさんに任せて朝食の支度を進める。同時並行で弁当の準備を済ませる。

 と、何やら洗面所の方からアスカとミサトさんの言い合いが聞こえてきた。

 よく聞き取れないが、あまりいい内容ではなさそうだ。

『もういい!』というアスカの突っぱねる声が聞こえたかと思うと、リビングの方に大股でやって来た。

 その姿は制服で、肩には学校とは違った少し大きいバッグをかけている。

 

「アスカ……」

 

 私の呼び声を無視し、テレビ横に無造作に置かれていたヘアゴムを掴んでバッグに突め込む。

 そしてそのまま踵を返してリビングを去ろうとする。

 私は何も考えずにもう一度名前を呼んだ。

 

「アスカ……!」

 

 二度目にして、ようやくアスカは足を止めた。

 しかし、ちらりと私を一瞥しただけだった。本当にただそれだけで、不快そうに鼻を鳴らすこともせず、それ以上のことは何もしないで私の前からそそくさと消えてしまった。

 そして「ばいばい」とか「それじゃ」の言葉すらなくドアの開閉の音が聞こえた。

 どうしようもない辛さに、私の顔はいつの間にか歪んでいた。

 難しい顔をしたミサトさんがリビングに戻ってくると、申し訳なさそうに口を開く。

 

「アスカ……ネルフの方に泊まるって。ほら、明日3号機の起動実験のテストパイロットだから」

 

「……そうでしたか」

 

「……ごめんなさい、なんとかあなたたちの仲を取り持ってあげたかったけど、できなかった」

 

 保護者として責任を感じているところもあるのだろう、ミサトさんの言葉には嘘偽りは感じられなかった。

 しかし、これはあくまで私とアスカの問題だ。

 

「私がもっと早く帰っていればこんなことにはならなかったのに」

 

 私は必死に首を横に振った。

 

「それは……違います。私はアスカの気持ちを考えないで軽はずみなことを言ってしまったんです。その後も感情に任せてアスカを傷つけるようなことを……」

 

 アスカはプライドに泥を塗られることを最も嫌っている。私はそれをやってしまったのだ。

 確かに私も傷つけられたが、発端はこちらにある。

 起動実験に立候補したのも、再びエヴァパイロットになれるチャンスを得るだけでなく、私へのあてつけも含んでいるのだろうか。

 少なくとも明日はアスカに会えないし、仲直りするのはだいぶあとになりそうだ。

 

「私が悪いのはわかってるから、近々ちゃんと仲直りします」

 

 朝食の用意を済ませた私は椅子に座りながらそう言った。

 

「大丈夫? わかってるとは思うけど、あの子は結構気難しい子だから簡単にはいかないわよ?」

 

「……なんとかします」

 

 曖昧な返事をした私はいつもの三割増の速度で朝食を胃に送り込み、部屋から鞄を持ってきて弁当をつめ、玄関へ向かう。

 ドアを開けると、目の前にはいつもの三人組が立っていて、アスカがいない理由を考えるのに苦悩した結果、捻出された言葉が、

 

「アスカは私達とは別の仕事があるから、それに集中するために、ね」

 

 だった。

 微妙に嘘はついていないが、嘘と言われても強く否定できないほど半端な回答に留まった。

 

「式波もなんや忙しいんか。さすが、自称エースパイロットやなぁ」

 

「そう、だね」

 

 陽気にアスカを称賛する鈴原くんとそれに深く首肯するヒカリだが、相田くんだけは得意顔でメガネをクイッと持ち上げる。

 その表情はまるで、すべてを理解した天才の顔だ。

 

「なるほどな。ああ、なるほどな。オレは完全に理解したよ碇」

 

「え?」

 

「いやだなぁ、『あれ』のことだろ?」

 

 口角を僅かに上げて陽気に語る相田くんの顔を数秒ほどまじまじと見つめた私は、ようやく思い至る。

 確か相田くんからは3号機の輸送について追及されたのだった。

 恐らくアスカが3号機関連でいなくなっているのだと察しているのだろう。

 正解であるものの、それは私の悪い心象が原因ではない。

 念の為、私は明言はしない方向で返した。

 

「ごめんね、これはちょっと言えないんだ」

 

「……ま、それなら仕方ないな」

 

 食い下がることなく素直に引いた相田くんが背中を向けて「さっさと行こうぜ」と促してくる。

 学校に到着して教室に入ると、珍しいことに綾波さんが私達よりも早く登校していた。

 いつも通り頬杖をつき、窓の外を見上げている。

 私達の談笑が聞こえたのだろう、ゆっくりとこちらを振り向いた綾波さんは、極々微小な声で「おはよう」と話しかけてきた。

 綾波さんのここ最近の成長は凄まじいものだと思う。まだ皆と比較するとまだまだだが、それでも以前より飛躍的に社交性が向上したといえる。

 席につき、一息ついた私はチャイムが鳴るまでヒカリとぐだぐだしようと心に決めつつ鞄から荷物を移していた、まさにその時。

 

「……碇さん」

 

 水色の声が私を呼んだ。

 

「ん? どうしたの綾波さん」

 

 綾波さんは私の方を向き、子首を傾げながら続けた。

 

「弐号機パイロットは?」

 

「あー……、うん。ネルフにいるの」

 

「どうして? 起動実験は明日でしょう?」

 

 あやふやにするとさらなる追及が飛んでくるような気がした私は、素直に観念して打ち明けることにした。

 綾波さんの席の隣まで移動し、他の誰にも聞こえないように小声で囁いた。

 

「ちょっと喧嘩しちゃって」

 

「喧嘩? どうして?」

 

「私が無意識に傷つけるようなことを言ってしまって、そこからアスカが怒って、ヒートアップして……って感じ」

 

「……」

 

「正直なところ、全部私が悪いとは思ってないの。アスカだって私のこと乱暴に押し倒してきたし、痛かったもん」

 

「どこが?」

 

「それはもちろん身体……」

 

 だよ、と言いかけた私の唇が小さく震える。

 非常に無垢な綾波さんの赤褐色の瞳に吸い込まれるように、私は言葉を続けた。

 

「……と、心も」

 

 話しているうちに、少し気分が沈み込んでしまった。

 別にここまで話すつもりはなかったし、なんなら私から一方的に話しているだけになっている。

 決して綾波さんが聞き上手な人ではないことはわかっているが、どうしてか話すことに強い抵抗がない。

 

「それは、ぽかぽかとは違う?」

 

 抽象的な表現に、私は若干戸惑いながら返す。

 

「いや、違うと……思うけど……?」

 

「なら、よくないわ」

 

「ええ?」

 

 不意に、綾波さんがゆっくりと手を伸ばしてきた。

 触れられたのは胸の中心部分。

 急に驚きと羞恥に爆発し、私の顔はトマトのように赤くなる。

 完全に公衆の面前だというのに、よくも堂々とできるものだ。いや、そこは綾波さんだからここと言うべきか。

 

「痛いのは、ここ?」

 

 心臓の鼓動がなんたらなんてくだりを気にするほど、私の心は平静さを保つことができていない。

 ただこくりと頷くことしかできなかった。

 

「碇さんにはぽかぽかしてほしい。だから、弐号機パイロットとも仲直りして、一緒に、ぽかぽかして、ほしい」

 

 綾波さんなりに懸命に言葉を選んだのだと思う。

 たどたどしい口調がそれを強く主張している。

 私のために頑張ってアドバイスしてくれているのだと思うと、言葉にできない嬉しさがこみ上がってきた。

 胸の上に置かれた綾波さんの手に、私は自身の手を重ねた。

 陶器のように滑らかな白い肌は、冷たいながらも確かな熱がこもっていた。おずおずと私は綾波さんと再度顔を合わせるが、相変わらず表情の読みにくい仏頂面だ。

 しかし……なんとなくだが、わかるような気もしなくないのだ。

 数秒見つめ合った後、先に視線を反らしたのは私の方だった。

 さっきから私達のやりとりをクラスメイトたちが遠目に眺めているのに薄々気づいているから、なるべく早く切り上げたいという恥ずかしさは少なからずあった。

 

「……ありがとう綾波さん。確かに、いつまでもギスギスしたままじゃいけないもんね」

 

『ぽかぽか』という曖昧な言葉は、今の私が最も求めているような感情だと思った。

 曖昧だからこそ限定的でない捉え方ができる。

 それは悪い意味ではなく、良い意味で認識を広くすることができるからだ。

 その後もつつがなく学校での時間は進み、何事もなく放課後を迎えた。

 今日も先日と変わらずネルフへ来ないように言いつけられているため、大人しく帰宅することにする。

 いつもの三人と一緒に、少し寄り道をしたりしながらのんびりと下校を楽しむ。

 家に着くと、玄関前には松代に行くミサトさんの用意が置かれていた。

 肩掛けのカーフリュックには大した荷物が詰め込まれている様子はなく、随分と軽そうだ。

 

「ごみんカノンちゃん! 明日はやいから今日はもう寝るわね。夕飯は適当に冷凍食品食べといたから〜」

 

 リビングに顔を出した私を迎えたのは、相変わらずラフな格好でお尻をぽりぽりとだらしなくかき、ソファーの上で寝転がっているミサトさんだ。

 もう見慣れた光景だから特にツッコミはしないものの、少なくともミサトさんを『素晴らしい女性』と思っているネルフ職員たちの存在は知っている。その人たちに申し訳なく思う気持ちで一杯になりながら、私は相づちを打った。

 

「わかりました。ちなみに何時に起きますか? もしあれなら起こしてあげましょうか?」

 

「やぁねぇ。それくらいちゃんと起きれるわよ。大事な日なんだから」

 

「…………」

 

「……六時です」

 

「わかりました。一応ミサトさんのほうでもちゃんと目覚ましはセットしておいてくださいね?」

 

「ハイ」

 

 私の有無を言わせない圧迫感が、ミサトさんの大人としての威厳をあっさりと吹き飛ばす。

 自分の部屋に消えたミサトさんを目で追いながらそれでいいのかと穏やかにツッコむ。

 今日はどうしても料理をする気分になれず、賞味期限切れに一番近い冷凍のスパゲティを電子レンジでチンすることにした。

 低い唸り音と共に温まるまで六分。心を無にした私は椅子に反対向きに座って電子レンジと面と向かう。

 ほんのりとオレンジ色に明るくなったレンジの中を眺めながら、ぼんやりと物思いにふける。

 ……が、直後。

 私は胸元のポケットからスマホを超高速で取り出して、これ以上にない速度で指を動かして画面を耳に当てた。

 ややこもっている呼出音は、なんとも言えぬ緊張感を刺激する。

 数十秒後ほど経っても呼出音がループするだけで、私は潔く諦めることにした。

 

「まあ、やっぱり出ないよね。明日だし」

 

 単に私だから出なかったかもしれないし。

 さっさと謝ればいいのだ。変な意地なんて張らず、強引に土台にさえ上がれば否応なく話は進展する。

 留守電にするかメッセージに残しておくかで悩んだが、即座に前者を選択。

 

「昨日のことはごめん、アスカ。私も悪いところがあったと思う。だから……無事起動実験が終わったらちゃんと仲直りしようね」

 

 何も考えず、思い浮かんだ言の葉を並べる。

 打算的に言葉を選ぶよりも、こうして直接話しているかのようにその時その時の話し方のほうがアスカに私の気持ちが伝わりやすいだろう。

 それから、きちんと面と向かって仲直りをしよう。

 客観的な評価だが、この動きに私の人間としての成長が現れていると思う。

 以前ならほぼ間違いなくこのような行動には移さなかっただろう。誰かに言われてもなあなあにして、中途半端に相手と距離をとってずるずると時間を無駄にしていた。

 綾波さんの『ぽかぽか』が私にもきっとできるはずだ。

 チン、と軽快なレンジの音が鳴り、私は黙々と冷凍スパゲッティを食べ始めるのだった。

 その味は、特に普通だった。

 

 ◆

 

 せっかくだから、アスカに仲直りの印として何かをプレゼントしようと思い至ったのが数時間前のこと。

 そしてデパートに来たはいいものの、何をプレゼントすればいいかわからず、ぐだぐだ時間を過ごすこと数時間。

 我ながら計画性のなさに笑ってしまいそうだ。

 アスカは当然、ミサトさんもいない。

 さらに今日は綾波さんからお呼ばれもしている。

 休日のデパートはやはりと言うべきか、人が多い。

 特に家族連れなどが多く、どうしても辟易してしまう。

 それにばったりクラスメイトと遭遇したくもない。なぜならひとりでデパートに来ているという事実がバレたくないからだ。

 ヒカリでも呼んで一緒に選んでもらうべきだったかと考えはしたが、これは自分ひとりでやるべきだと判断して却下。

 

「うーむ……」

 

 眉をひそめた私はフードコートで買ったクレープを一口だけ大きく頬張る。

 シンプルなバナナチョコクレープで、値段はやや安めだ。だがよくわからない豪勢なものを選ぶより無難な方がいいだろう。

 実際美味しいから文句などあるはずもない。

 頬が溶けるほど柔らかい生クリームに、チョコのアクセント。そしてバナナというこの完璧な組み合わせ。これを生み出した人は間違いなく偉人だ。

 なんて食レポをしながらあっという間に完食し、口の端についたチョコを丁寧に拭き取ってからそそくさとフードコートを去る。

 ミサトさん曰く、起動実験が行われるのは午後で、そこから後始末などがあるため帰ってくるのは晩になるという。これはアスカも同じだ。

 サプライズの準備をするには十分な時間がある。

 とはいえゆっくりしすぎるのはよくないから、そろそろ真面目に考えなければねらない。

 コンセプトは、アスカにずっと使ってもらえるもの、だ。

 消費型……ボールペンや食べ物だと消えてしまうし、そもそもそれが仲直りの印になるのかは微妙だ。

 ならば服かと思い至ったものの、好みがわからない。毎日洗濯しているからアスカの服のサイズはわかるのだが、傾向がわからない。

 わかるのは、赤が好きということだけだ。

 恐らく選ぶならアスカと一緒がいいはずだから、これも却下。

 となると本格的に悩む。

 下を向きながら歩いていたせいか、いつの間にか人混みの中に突入してしまっていた。

 情けない声を出しながら私はもみくちゃにされ、悪い意味でのビフォーアフターの如く憔悴してしまった。

 

「ついてない……」

 

 少しズレた服を正し、やや疲れた面持ちで顔を上げると、左前方にゲームセンターが目に入った。

 

「……ああ、そういえばまた今度行こうねって約束してたなぁ」

 

 しばらく前のことをぼんやりと思い出しながら、お箸とかマグカップとかならどうだろうかと考えつつ踵を返そうとした、その時。

 見慣れた人物がゲームセンターから出てくるのが見えた。

 

「⁉」

 

 鈴原くんとヒカリだ。

 猫にも負けない反射速度で、私はふたりから見えない脇側の店に飛び込んでいた。

 恐る恐る顔を出して様子を観察する。

 ふたりはとても楽しそうな様子で、特にヒカリはニコニコしながら大事そうにクマのぬいぐるみを抱えている。

 ここからだと距離が離れているから声は聞こえないが、恐らくUFOキャッチャーで獲得したものと思って間違いなさそうだ。

 あのヒカリが、まさかの鈴原くんとデートとは……。

 感慨深い何かを感じつつ、見つからないように早めに退散しようとした時、不意にある記憶が思い浮かんだ。

 そういえばアスカは人形を持ってたな、と。

 少しだけ汚れた女の子の人形。

 アスカの部屋を掃除した時に見つけたのだ。

 どういった経緯でもらった、あるいは買ったのかはわからないが、並々ならぬ思い入れがあるのは確かだった。

 少なくとも大切に扱っていたのは見てわかった。

 そう考えている内に、足は自然とぬいぐるみ雑貨店へと向かっていた。

 私としては物心ついた頃にはこういった類のものから距離を置いているが、やはり目の前にするとどうしても自分も手元にひとつくらいほしいという気持ちにもなる。

 所持金には余裕があるし、ついでに自分のも買おうかと悩む。

 とはいえ、まずはアスカだ。

 ぬいぐるみと一括にされてはいるが、ちゃんと人形も棚に並べられている。

 ただ想像以上の品揃えで、そう簡単に選び抜くことができそうにない。

 直感的に良さそうなものを、実際にアスカが受け取った時のことを脳内でシミュレーションしてみるが、どうも反応はどのぬいぐるみも同じだ。

 口では馬鹿にしながらも、顔はやや喜んでいるところまでは想像できる。……だがそこまでだ。

 どう喜んでいるのかまでがわからない。

 

「いらっしゃいませ。どんなものをお探しですか?」

 

 そうニコニコと笑顔で店員に話しかけられ、私は顔を横に振った。

 店員は二十代前半ほどの女性で、大人びた雰囲気を醸し出しながらも、まだ子供らしさが滲んでいる。

 

「友達へのプレゼントにって考えてるんですけど、あまりいいのが見当たらなくて……」

 

「なるほど、そうですか。ちなみにそのお友達はどんな子ですか?」

 

 私は顎に手を当てながら答えた。

 

「私と同じ年の女の子です。頭が良くて、少し口が悪いけど寂しがり屋なところがある子です」

 

 我ながらわかりやすくアスカのことを説明できたと思う。

 これ以上となると、変に語り始めてしまいそうになるからここまで。

 店員は深く頷いた。

 

「うんうん……それで君はその子に合うものがわからなくて悩んでるってことですね?」

 

「その通りです……」

 

 どれをあげたら一番喜んでくれるのかがわからない。

 まだアスカのことをよく知っていないから当然といえば当然なのだが、そこはなるべく妥協したくない。

 店員は考える素振りを見せた後、口を開いた。

 

「この中からナンバーワンを選ぶことなんて、きっと無理ですよ」

 

 出てきたのは、想定外の否定の言葉だった。

 

「え?」

 

「もし本当に『一番』を求めるのなら、この店以外も探さないといけないですよね? このデパート以外も。でもそこまで特別なものである必要はないと思いますよ」

 

「えっと……どういうことですか?」

 

 もちろんあらゆるものを見て決めるなんてのは現実的ではないとわかってはいる。

 それこそ世界中を探さなければならない。極端すぎる解釈になってしまうが。

 

「その人にとっての『特別』は、その人自身が決めるということですよ。もしボロボロのぬいぐるみを他の人が汚いと言っても、持ち主が『特別』と思うのなら、それでいいのではないでしょうか」

 

 ナンバーワンでもオンリーワンでもない。

『特別』という価値を与えられたものたち。

 所有者が持つのはなにも一つだけではなく、たくさんの『特別』だ。

 ずらりと並べられた商品を一瞥する。

 確かに今現在、ここにあるぬいぐるみたちの価値は見た目と値段によってのみ決定されている。

 これに思い出などの要素が加わることで価値が更新されるのだ。

 

「……なるほどです」

 

 自然と私の腕は持ち上がった。

 そのまま自然意思に従って伸ばし、あるぬいぐるみを手に取る。

 ハンドボールほどのサイズで、デフォルメされたパンダのぬいぐるみだ。

 これを選んだのには特に深い理由はなかった。

 値段とかは一切考慮していない。

 不意に目についた、ただそれだけだ。

 適当だと言われるとぐうの音も出ないが、少なくともこれをアスカにプレゼントしたいと思った。

 これ以上の理由はいらないだろう。

 

「じゃあ、これをお願いします」

 

 そう言って手渡すと、店員は柔らかく微笑んだ。

 

「承りました。プレゼント包装はされますか? その場合少しだけお値段が上がりますが」

 

 上手いなと思いつつも、私は二つ返事で了承したのだった。

 

 ◆

 

 行き来は電車だ。

 日を追うごとに厳しくなる猛暑日であろうとも、電車の中はガンガンに空調が効いている。

 思わず快楽の声を漏らしつつ横長の座席に座った私は意気揚々とスマホを触り始める。

 通知にアスカからの返事はなく、特に興味のない話題でクラスのグループメッセージが盛り上がっているのみだ。

 ちょっぴり残念に思いながらスリープ状態にしようとした瞬間、不快な警告音……もとい呼出音がバイブと共に鳴り響き始めた。

 

「っ!」

 

 乗客にごめんなさい、と小声で謝り、私は即座に呼び出しに出た。

 なるべく隅っこの方に移動し、口元に手を当てて声が漏れないように注意する。

 電車内で通話は禁止されているが、この音が鳴った時は、非常事態の場合だ。

 つまりどういうことかというと――。

 

『カノンちゃん! 今どこにいるかな⁉』

 

 いつもの柔らかそうな声色とは打って変わり、緊張の張り詰めたような声でマヤさんが出た。

 

「今は電車に乗ってるんですけど……使徒ですか?」

 

『たぶんそう。松代で爆発事故が起こったの! 緊急招集したいけど、そこからどれくらいでネルフに着く? もしかかりそうなら一番近い駅に降りてもらって、車で迎えに行くわ!』

 

「ちょっと待ってくださいね……えっと、乗り換えしないとですけど、快速なら五分でネルフの最寄り駅に着きます」

 

『そっちの方が速いわね……じゃあそれでお願いね! こっちは初号機の輸送準備を進めているから、カノンちゃんが着く時にはいつでも出撃できるようにしておくわ!』

 

 通話をしているうちに、電車は一駅分進んだ。

 私はすかさずダッシュでドアから飛び出し、向かい側のホームで発車直前だった快速の電車にダイブした。

 しっかりぬいぐるみの入った箱を傷つけないようにリュックを丁寧に気遣いながら。

 乗客たちからは白い目で見られたが、心の中で強く謝る。

 快速電車は問題なく定刻通りに発車し、ネルフの最寄り駅に到着する。

 怒涛の走りでホームを抜ける。

 改札口を通ると、すでに待機していたらしいネルフの黒服ふたりがこちらに近づいてきた。

 丁寧にエスコートしてくれる……なんてことはなく、だいぶ足早にネルフのゲートへ向かい始める。

 大の男の人の早歩きは私の歩幅では到底追いつけない。だから結果的に自分だけ小走りになってしまう。

 爆発事故ということは、起動実験に失敗してしまったのか。

 そう考えただけで、私の胸はきゅうう、と締め付けられた。

 アスカは3号機の起動実験にすべてをかけていたはずだ。もし失敗しようものなら、アスカはもう本当にエヴァパイロットとしてここにいることができなくなる。

 そうなったらどうなるか、私にはまるでわからない。慰めてあげられる自信は正直なところ、あまりない。

 私にはアスカの気持ちを百パーセント理解することなんてできないから、またあの日のようにふとした失言から怒らせてしまうかもしれない。

 でも。

 それでも。

 きっと悲しむだろうアスカに、寄り添うべきだと思った。

 ――瞬間。

 視線を感じた。

 バッ、と首を後ろに降ると、人混みに紛れて私の方を凝視する男の人がちらりと見えた。

 およそ三十代前半で、痩せぎすな身体。

 少しヨレヨレの白シャツに、姿勢はやや猫背だ。

 男は私を見ながら、スッ、と目を細めて何かを呟いた……ような気がした。

 時間にしてたったの一秒半。

 私はすぐにそんな出来事のことなんて忘れ、ネルフへ急ぐのだった。

 ネルフに到着すると、発令所に向かうことなく直接更衣室に移動してプラグスーツに着替えるよう指示された。

 よほど緊迫した空気感は否応なく私にも共鳴し、意識を切り替えて早急に着替えに向かう。

 初号機はマヤさんと言う通りすでに輸送準備が完了していて、充電用バッテリー搭載車両はもう現地で待機しているという。

 いつもはミサトさんがエヴァの出撃などの号令を出すのだが、今回はいないためオペレーターの人たちが代理でテキパキと指示を出していく。

 エントリープラグに入り、座席に座り、操縦桿を握る。

 L.C.Lを肺に取り込みながら、もう完全に慣れたなと初搭乗時の頃をしみじみと思い浮かべる。

 シンクロも滞りなく完了し、エヴァの輸送が始まる。

 輸送方法は第八使徒殲滅作戦時に利用した輸送用列車だ。

 横たわったエヴァを列車に乗せ、目的地へと運んでいく。松代に到着したら私は身体を起こして予め用意されていた充電ケーブルを背面に接続した。

 山々の間で腰を低く落として待機の姿勢をとる。

 時刻は夕暮れ時になっていた。

 オレンジ色の空はどこか悲壮感を漂わせている。

 微かに聞こえるひぐらしの鳴く声は、不穏な気配を強くする。

 一帯は田んぼで埋められ、張られた水が空を反射している。

 

「……ミサトさんやアスカたちは大丈夫かな」

 

 指定位置に移動した私はぼそりと呟いた。

 するとすかさず青葉さんから通信が入ってきた。

 

『現在救出作業中だ、心配ない』

 

「そうなんですね……でも、私だけで大丈夫か不安です。ミサトさんも、他のエヴァもいないのに」

 

 弾丸のような通信が行き交うのを聞きながら私はさらに呟いた。

 

『作戦系統に問題はない。今は碇司令が直接指揮をとってるよ』

 

「お父さんが……?」

 

 確かに作戦部長のミサトさんに代わって誰かが指揮をしなければならない。そうなると上司が……となるのは自然な流れだ。

 耳を澄ませば通信の中にお父さんの声がところどころ混じっているのが聞こえる。

 こうしてお父さんがネルフの人間として動いているのを実際に目の当たりにすると、胸のあたりがぞわぞわする。

 これをもっとわかりやすく表現したいが、どうしてもできない。

 突然、田んぼの脇道に列をなして待機していた戦車隊の砲塔が動き始めた。

 それと連動するように私も意識を切り替えて、山の影から現れるであろう存在を見逃すまいと注視する。

 すでに戦車隊からは距離や角度的に見えているのだろう、砲撃が始まった。

 爆音がさっきまで静かだった一帯を激しく叩きつける。

 私は指示があるまで不動を貫き、数秒後に見るだろう敵に意識を集中させる。

 やがて有効打を与えられないと判断したのか、戦車隊が砲撃を止めて大人しく撤退していく。

 

『目標は接近中だ。カノン。お前が倒せ』

 

 その声は私の心臓にまで低く響いた。

 今のお父さんは、家族としてではなく、司令としての厳格な男だった。

 より一層無機質さを感じさせる声に、私はすぐさま反応できなかった。

 

「…………はい。頑張ります」

 

 どうせ使徒なのはなんとなくわかる。

 本当は今日、綾波さんのお呼ばれがあったはずなのに、とんだ迷惑だ。

 もし大きな怪我を負うことなく殲滅することができたら、晩にはなるもののお食事会ができたら……。

 ……いや。

 アスカとミサトさんも、それに私も、そんな気分にはなれないかもしれない。

 そしてついに敵が姿を見せる。

 山々の間から墨汁の染みが滲むようにぬうっと現れたのは、人型の黒い影だった。

 だらりと肩の下げ、ゆらゆらと歩いてくる。

 紅色の眼光は夕焼け色よりなお濃く、細められた双眸は私を即座に認識したようだ。

 私は鋭く息を呑んだ。

 

「――――」

 

 おかしい。

 極度の困惑に息が上がる。

 口をパクパクと開閉させつつ、なんとかかすれ声で音を絞り出した。

 

「これが使徒、なの……?」

 

 だって。

 どう見ても。

 あれは。

 エヴァンゲリオンなのだから。

 

『そうだ。目標だ』

 

「いや、でも……どう見てもエヴァだよ……あれ」

 

 なおも敵は歩みを止めない。

 相対距離、約五百メートルあたりの地点で動きを停止させた。

 こちらの様子を伺っているのか。

 私は直立のまま不動を続ける。

 続けながら、お父さんに問いかけた。

 

「お、お父さん……あれってアスカが乗ってるんじゃ……」

 

 ここにエヴァがいる理由なんて一つしか考えられない。

 エヴァが何らかの原因で暴走し、爆発事故を起こしたと考えるべきだろう。

 

『問題ない。そいつは使徒だ。お前が倒せ』

 

「おかしいよ……! それってアスカのこと――」

 

 これ以上の発言は、突如として遮られた。

 なぜならば、一瞬だけお父さんとの会話に気がとられた隙に3号機の姿が消えていたからだ。

 

「――――、ぇ?」

 

 そして、巨人の拳で殴られたかのような衝撃が初号機の胸に直撃した。

 

「ぐ、あッ!」

 

 完全な不意打ちを受けた初号機は、満足に受け身を取ることもできずに軽々と身体を吹き飛ばされた。

 手に持っていたパレットガンがどこかに飛んでいく。

 激痛のフィードバックに歯を食いしばりながら、素早く立ち上がる。

 何が起こったのか、全く理解できなかった。確かにお父さんの言い草にはカチンときたが、それでも3号機からは決して目を離していないはずだった。

 じりじりと間合いを取りながら私は3号機の様子を窺う。

 赤い眼光をすぅ、と細めた3号機は生物の動きとは思えないアクロバティックなステップを踏み、その場で大ジャンプしてみせた。

 咄嗟にその姿を見逃すまいと見上げるが、計算されていたのか夕日と被って眩しく写り、捉えられない。

 

「く……!」

 

 補足より回避を優先し、私は大きく後方に下がった。

 直後、私のいた場所に落下エネルギーの加算された強烈なキックが地面に炸裂した。

 その衝撃はビリビリとフィードバックとして私の骨にまで伝わってくる。

 さっき受けた一撃はあれによるものと考えていいだろう。

 そのまま二足歩行から四足歩行へと体勢を変えた3号機は低い唸り声を鳴らす。

 見下ろすように再度観察を試みた私は、あるものを発見した。

 それは、エントリープラグ射出口に不気味に蠢く青い粘液だ。

 これがエントリープラグの射出を妨害している。

 

「やっぱりアスカ、乗ってるんだ……!」

 

 通信を試してみるが、当然反応はない。

 今、アスカが具体的にどのような状況になっているかは私にはわかない。ただ、使徒に汚染されているというのは事実で、はやくなんとかしなければならない。

 しかしどうやって?

 最適解はエントリープラグを引き抜くことだが、そのためには使徒とゼロ距離に接近しなければならない。

 だが使徒の能力が完全に把握できていない中で接近するのは非常にリスキーだ。

『アクロバティックな動きができる使徒』だけなはずがないのはなんとなく直感でわかる。

 だからといってのんびりと様子見、というわけにもいかない。

 もどかしさに唇を噛みしめる。

 違うのだ。そもそもそれらは結局使徒を傷つけることであり、アスカを傷つけることに繋がる。

 苦悩する時間を使徒は与えてはくれなかった。

 使徒が右腕をぶるりと大きく震わせると、勢いよくこちらに振りかぶった。

 距離は十分に保っている。

 とてもそれだけではこちらまで届かな―ー。

 い、はずだったが、容易く私の希望的観測を打ち破ってみせた。

 使徒の腕は生物のルールを破り、何倍にも伸びて安心しきっていた私の首をガチリと掴んだのだ。

 

「ハ……⁉」

 

 あまりに予想外すぎて、その後の反応まで遅れてしまった。

 もう片方の腕も同じように伸びて首を掴み、強引に山の斜面へと背中を叩きつけられた。

 

「か……ッ! ズ……!」

 

 身体が急激に熱くなり呼吸が苦しくなった私は、呻き声をあげながら力の限りを尽くして使徒の手首を掴んで首からゆっくりと離す。

 さっきから一方的にやられてばかりだ。

 目の前の使徒は必ず殲滅しなければならない。しかし使徒にはアスカが捉えられていて、容易に手が出せない。攻撃すればその痛みがアスカに伝わってしまう。

 それだけはしたくない。

 それだけは、絶対に。

 自分の手で誰かを傷つけることは。

 なんとか絞める手を完全に離すことには成功した。このまま3号機を突き放して一旦距離を取るべく行動に移そうとした、まさにその時。

 使徒の両肩が異様に盛り上がり、パチンッ! と金属質な破砕音が響いたかと思うとそこから新たな人間の腕が二本生えた。

 

「――――――⁉」

 

 ――マズい。

 と悟るにはもう遅すぎた。

 がら空きの首を絞めるには絶好のタイミングすぎた。

 あっさりと二本の手にもう一度捉えられる。

 痙攣する私の身体などお構いなしに力任せで山肌に押さえつける。

 

「ギ……!」

 

 それだけではない。

 先ほどとは異なる、明らかな痛みの感覚が襲いかかってくる。

 ただ絞められる……否、外皮ではなくその内側、肉体にどろりとした痺れが浸透してくる。

 途端、普通に生きていれば決して味わうことのないだろう激痛が首の内部を中心に爆発した。

 必死に痛みを叫ぶことで緩和しようとしても、首を絞められているせいで潰れた喘ぎ声しか漏らせない。

 プラグ内に簡易出力された初号機モデルには、使徒の手から生じる青い粘液によって生体侵食されていると警告がひっきりなしに鳴り響いている。

 その音が頭の中にガンガン反響して苛立ちが募る。

 抵抗しようにも力が入らない。

 肺が酸素を求めて暴れる。

 限界まで口を開いて求めても呼吸ができない。

 

『カノン、なぜ戦わない』

 

 娘が命の危険に晒されているというのに、お父さんは涼しい顔でそう言った。

 その言い方に、私は怒鳴り返した。

 

「アスカがっ、乗って……るんだよ……⁉」

 

『相手は使徒だ。我々の敵だ』

 

「そんなこと、言った、ッて!」

 

『戦わなければ、お前が死ぬぞ』

 

 できない。

 アスカを攻撃したくない。

 その想いは何よりも優先されるべきだ。

 ……思考が定まらない。

 足で使徒の身体を蹴り飛ばそうとしても、身体が微かに痙攣するだけで動かすことができない。

 

「ぅ、ぁ」

 

 本当に死ぬ。

 恐ろしい速度で力が抜けていく。

 使徒の絞める強さは大きくなる一方だ。

 お父さんはそれ以上言わない。

 私を助けてくれない。

 心配をしてくれる気持ちは言葉に少しも感じられなかった。

 世界がぼやけ、霞み、滲む。

 激痛は止まない。

 命の灯火がゆっくり、ゆっくりと弱くなっていくのを自覚する。

 ――死にたくない、と思った。

 その瞬間。

 私という自我が形成された瞬間からの記憶がどっと脳裏に溢れかえった。

 これが俗に言う走馬灯なのは考えるまでもなかった。

 無色な人生だった。

 お父さんに呼ばれるまで、ただ生きているだけの雑草にすぎなかった。

 でもここに来て、色を知った。人の営みを知った。

 私という人間を改めて認識する機会が訪れた。

 でも私なんて結局は子供で、大人っぽい……それっぽい言葉を並べて自分を安心させているだけだ。

 ――私は誰だ。

 私は碇カノンだ。

 ――私はなんのためにここにいる。

 私という弱い人間を変えるために。

 ――では、私は今、何をしている。

『使徒を倒す』か『アスカを助ける』かの判断が中途半端なせいで殺されかけている。

 ――これが本当にしたいこと?

 

「――――――ちが、ぅ」

 

 断じて違う。

 ここで大人しくやられるのは最悪のシナリオだ。

 アスカだって本気で私を殺したいと思っているわけではないはず。

 きっとアスカは何もしなかった私を責めるだろう。そして自責するのだ。人殺しをしてしまった罪を一生背負ってしまうことを。

 そんなことは絶対にさせたくない。

 まだまだアスカのこと、知らないことだらけなのに。アスカにもまた、私のことを全然知ってもらってない。

 こんなところでさよならなんてしたくない。

 仲直りしたい。

 仲直りをするために、

 アスカを助ける以外の選択肢が、

 あるはずが、

 ないだろう――!

 

「ぉ、お、おおおおお――……!!」

 

 胸の内で迸る気合いを、喉奥から力づくで吐き出す。

 ぐちゃぐちゃになってよく見えない世界の中、私は死に物狂いで足掻き始める。

 初号機の顎関節の拘束をバキン! と破壊して雄叫びを上げる。

 感覚がなくなり、冷たくなった手足を根性だけで突き動かす。

 使徒を睨みつける。

 叫びすぎた喉は激しく痛み、ついに音を発することすらできなくなる。

 声無き声を目と鼻の先の使徒に向けて吼える。

 使徒も負けじとドス黒い雄叫びを返す。

 痛みなんてレベルの感覚はすでに通り越し、私のすべては死の一歩手前だ。

 それでもこの命続く限り、最後の最後の最後まで抵抗してやる……!

 ミシミシと首元で嫌な音が響いている。

 損傷が深刻であることを警告されるが無視。

 両腕の拘束からなんとしてでも抜け出すために、我が生涯一の力を込めてもがく。

 だが。

 

「――――――――、ぁ」

 

 それ以上、力が入らなかった。

 どう頑張っても、腕に十分な力が入らなかったのだ。

 そして私は、何もかもを間違えていたことを静かに理解した。

 決断するのがあまりにも遅すぎたのだと。

 使徒が四本腕になる前に……いや、アスカの存在を確認した時点で速やかに決断するべきだったのだ。

 死ぬ間際に気づくなんて、一体どれほど愚かなのだろう。

 お父さんの言う通りだった。

 もっとはやく戦えばよかった。

 赤く充血した瞳から命以上の熱い雫が止めどなく流れるのを感じる。

 ついに私自身の喉が限界に達し、短く喘いだ口元から血が滲み、L.C.Lに溶ける。

 悔しく思うと同時に、それ以上に自分のことを激しく責めた。

 全然私は変われてなんていなかった。

 大切な友達のことを考えてやれなかった。そのせいでアスカが私を殺すことになってしまう。

 こんなので、『ぽかぽか』なんてできるはずがない。

 アスカにも『ぽかぽか』して欲しかったのに。

 情けない嗚咽が、ひび割れた雑音として狭いプラグ内に虚しく響く。

 ……ごめんね、アスカ。

 ……直接言葉で伝えることすらできずにこんなことになってしまって。

 ……どうか、私の弱さを許してください。

 泣きじゃくる声は誰にも届かない。

 私は一人、ここで殺される。

 当然使徒はそんな惨めな私に情をかけることなどなく、確実に屠るために首を絞める力を加える。

 使徒の顔が、死にゆく私を嘲笑うかのように醜悪に歪んだ気がした。

 侵食によってボロボロになった私の首に爪が深く食い込み。

 ギチギチと不快な金属音を歪ませ。

 そのまま拘束から抜け出すことのできなかった初号機の首は呆気なく折られ。

 

 私の生命活動はそこで終わった。




私は間違えた
だから死ぬ

それではまた次回!
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