それでも私は──   作:次作エヴァはきっと鬱エンド

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前回のあらすじ
【カノンチャンの障害まとめ】
・子宮:機能不全
・腎臓:機能低下(左側)
・右腕:麻痺(微)
    ┗リハビリで改善可能
・左腕:麻痺(極微)
    ┗リハビリで改善可能
・両脚:麻痺(重症)
    ┗リハビリで改善不可
・精神:↘


壊死

 かかりつけ医とナースが来るまでの数分間、私は泣きながら脚を叩き続けた。

 通信の悪くなったテレビを叩いたら治る、みたいな短絡的な荒療治が通じると思ってやってみただけ。

 そのうち、そんなに甘くないことを理解し、赤く腫れ上がってもどうせ感じないのだからと八つ当たりをした。

 今まで出したことのない声で呻くように叫びながら何度も、何度も。

 病室に入ってきた人たちは私の豹変した様子を見て、速やかに私を押さえつけた。

 それでも私は暴れるのをやめなかった。

 でも起きたばかりで、力も弱いし、腕もうまく動かないし。

 両手首を結束バンドでベッドの骨に結ばれて、あっさり拘束された。

 どうしようもなく悔しくて、受け入れられなくて。嫌で嫌で仕方なくて、あらん限りの声で叫んだ。

 それすら結局は子供の駄々でしかなくて。

 両肩をベッドに押さえつけられ。

 鎮静剤を打たれて。

 意識を落とされた。

 

 ◆

 

 起動実験失敗から一週間。

 特殊隔離室にて、黒い棺桶が安置されていた。

 その周囲を、高さ三メートルほどの黒い柱が何柱も囲んでいる。地面には赤い霧が立ち込め、物々しい雰囲気を醸し出している。

 それをガラス越しに見下ろすリツコは、本日何本目かわからないタバコの吸い殻を灰皿に押し付けた。

 その頭には痛々しい包帯が巻かれている。

 同じように壁に持たれかけながら棺桶を見下ろすミサトの右腕にはギプスがはめられている。

 松代の爆発事故に巻き込まれたものの、なんとか無事に済んだのだ。

 本来なら喜ぶべきだが、喜べるはずもなかった。

 

「細胞組織の侵食跡は消えたものの、使徒による精神汚染の可能性も否定できない。このまま隔離するのが妥当ね」

 

 ふたりの脇で監視データをまとめていたマヤが重々しく切り出した。

 

「このまま処分ってことはないですよね……もしそうなったら、カノンちゃんが浮かばれません……」

 

 カノンの文字通りの死闘によってアスカを救い出すことには成功したが、綺麗な状態で救い出せたとは言い難い。

 使徒と調和状態にあったアスカの身体にどのような危険があるかわからない以上、使徒封印呪詛柱によって使徒の力を抑え込んだ状態で隔離するしかない。

 

「……処分なんてありえないわ。貴重なサンプル体だもの」

 

「……とりあえず一命はとりとめた、という認識でいいのよね」

 

 苦々しい顔でミサトが口を開いた。

 

「ええ。そう受け取ってくれて構わないわ。でも、もしアスカに何かがあれば――」

 

「それ以上は言わないで」

 

 鋭い言葉に、リツコは素直を口を閉ざした。

 しかしすぐさま別の話を切り出す。

 

「…………ついさっき、カノンちゃんが一週間ぶりに目覚めたそうよ。低酸素脳症による記憶の欠落が起こると思われていたけど、どうやら手足に痺れが出たみたい。脚の方は……ダメらしいわ」

 

「――――ッ」

 

 事実のみをすらすらと述べるリツコの口調はどこまでも冷たい。

 ミサトはくしゃりと顔を歪めた。

 

「面会は?」

 

「無理ね。目覚めてから随分錯乱したらしくて。今は眠らせてるそうよ」

 

「そう……」

 

 以前、カノンの子宮機能が死んだ時、リツコと言い合いになったことがある。

 これが戦いなのだと。

 こういうことに耐性はつけておけと。

 そう、鋭く指摘された。

 その言葉はカノンたちがエヴァに乗る度に、ミサトに重くのしかかった。

 どれだけ言い訳を並べても世界を救えるのは子供たち。大人たちはサポートしかできない。

 本質的に背負っているものは同じだが、傷つくのは現場で戦うカノンたちだけだ。

 大人として、女として、保護者として。これからどうカノンに接してやればいいか。

 方法がポンと出てくるほど聡明ではないミサトはさらに顔を歪めた。

 しかしそんなカノンのメンタルケアをするのもミサトの仕事である。

 

「治……らないのよね?」

 

「絶対にとまでは言わないけど。リハビリをすれば、少なくとも腕はある程度マシにはなるでしょうね。でもやっぱり脚はあきらめるべきかもしれないわ」

 

「なら……一生車椅子?」

 

「ええ。そうなるとミサトの家はバリアフリーではないから不便かもしれない。引越しをはやめに勧めておくわ」

 

 確かにあのアパートは通路が狭いし、車椅子の大きさによっては通れないなんてことが起こるかもしれない。

 そうなれば必然的に通路に荷物なんて置けないし、そもそも物を出しっぱなしになんてできない。

 ガサツなミサトにはクリティカルだが、カノンのためならば必ず改善しなければならない。

 さらに家事もほとんどできなくなるだろうから、ミサトにもその役が回ってくる。

 

「……どれだけあの子に頼ってたのよ、私は」

 

 そう呟き声で自責したミサトはガリッ、と下唇を噛んだ。

 じわりと鉄の味が口内に広がった。

 

 ◆

 

 意外なことに、私はこういうのに興奮する系の人間だったようだ。

 いざ自覚すれば結構楽しい。

 少年のような無邪気な喜びを噛みしめると同時に、ベッドで散々暴れたことが恥ずかしくなる。

 

「どうですか、碇さん?」

 

 看護師に尋ねられた私は、そっと手すりのざらざらした感触を確かめながら返した。

 

「大丈夫です。使い方もだいたいわかりました。面白いですね、この車椅子は」

 

 ただの車椅子ではない。

 電動の車椅子だ。右手側にあるレバーを倒せばその方向に進んでくれるやつ。

 正直楽しい。

 レバーを倒せば、低いモーター音を鳴らして廊下を緩やかだが進むのは非常に楽しい。

 楽しいしか言っていない気がするが、仕方ない。

 ご機嫌ななめだった私の気分はすでに普段通りに復調している。

 もしこれがエヴァみたいに思考するだけで動いてくれたら最高なんだけどな、と超オーバースペックを夢見たり。

 一応手動――自分で車輪を回して進ませることもできるそうだが、今の私の力では絶望的に不可能だ。

 

「……あの時はご迷惑をおかけしました。すごく暴れてしまって、私……」

 

「気にしないでください。あの混乱は仕方ないですよ。それに問題はこれからです」

 

「そう……ですよね」

 

 そう話しながら試しに手動に切り替えて自力で進もうとするが、タイヤ横のハンドリムを上手く握れず、思うように進まない。

 説明を受ける時に、リハビリも兼ねて時々手動で動かす練習をした方がいいと言われた。

 だがリハビリについて言及したのは腕と手についてだけで、脚は一切触れられなかった。

 ……そういうことなんだろうな、と察しはつくが、泥が胸に詰まる感覚だ。

 今後の予定としては、念の為に今日一日だけ入院し、問題なければ退院。これから学校はどうなるかが非常に気になるが、友人との付き合い方も多少は変える必要が出てくるだろう。

 ……というよりここ最近、ゆっくりと、しかしながら確実に学校と私のいる世界が乖離していってるような気がする。

 使徒との戦いは激化する一方だし、今度来る使徒がどれだけ強いかなんて、正直なところ想像もしたくない。

 今回は手足の麻痺だけで済んだが、次は本当に死――……。

 それに、

 

「アスカ……」

 

 私の不意な呟きが聞こえたのか、看護師は少しだけ悲しげな顔をした。

 

「先程も説明した通り、式波さんは特別隔離室にいますよ」

 

「……私、アスカを救えたんですよね?」

 

「…………はい。碇さんが助けるのが遅ければ、もっと酷くなっていました」

 

「…………」

 

 私でもどうかと思うくらい、同じやり取りを何回も繰り返している。といっても、どうしても不安で仕方のない私が我慢できなくなってつい口にしてしまうのだ。

 それも四回もだ。

 私がアスカを救ったという事実を、揺るぎないものであるとして私は私を安心させたがっているのだ。

 毎回これに付き合ってくれることにはとても感謝しているのだが、そろそろ注意してほしい。

 なんだか私が落ち着きのない女の子みたいに思われていそう……いや落ち着きとかそういうことではなく、ちょっと心が不安定になっていると思われたくない、が正しい。

 きっと、さっき看護師が悲しい顔をしたのはアスカに対してではない。私に対してだったのだ。

 馬鹿みたいに入れていた肩の力を抜き、背もたれに背中を預ける。

 暗いことはなるべく考えたくない。

 私は大丈夫だ。

 頭をブンブンと振った私は電動車椅子の練習を続ける。

 ふたりきりのリハビリ室で、ずっと、ずっと、虚しい唸り音を響かせながら練習をするのだった。

 

 ◆

 

 次の日、特に問題なく退院が許された。

 担当医師からしっかりと今後の生活についての話を聞き、家でできる腕のリハビリ方法をまとめた資料を受け取った。

 必ず毎日やれば、かなり改善されると太鼓判を押された。

 脚はどうですか? と尋ねると、みるみるうちに顔が自信が抜け落ちるのを見た。

 少し、意地悪なことを言ってしまったと思う。

 つい吐露してしまった私の心。

 でも腕がマシになるだけでもすごく嬉しいですよ、と空回りの元気を見せつけた。

 数人のスタッフたちに見送られて玄関を出ると、車椅子を乗せるための車がすでに私を待っていた。

 運転手さんが私の接近に気づくと、忙しなく動き始めた。

 バックドアを開け、車椅子を乗せられるように短い橋がかけられる。

 その間に助手席のドアが開き、よく見知った人物が車から降りた。片腕にはギプスをしている。

 

「ぁ……ミサトさん」

 

「カノンちゃん……」

 

 ミサトさんは私の様子を見て一瞬だけ悔しそうに両拳に力を入れた。

 私がそれに気づいたことに気づくと、すっと力を抜いてはにかんだ。

 

「元気そうで良かったわ。その車椅子、使い方とかは大丈夫なの?」

 

「はい、昨日いっぱい練習したんで大丈夫です。一応ちゃんと取扱説明書ももらってるので、忘れてしまっても読めばわかりますよ」

 

「なら良かったわ。体調はどう?」

 

「問題なしです」

 

「どこか身体が痛かったりしない? 気分は? あとは――」

 

「もお、ミサトさん」

 

 さすがに公の場でここまで大っぴらに心配されるのは少し恥ずかしい。

 私の考えていることを理解したミサトさんは、ごめんごめん、と小さく謝りながらそっと私の手に触れた。

 軍人さんだからか、少しだけ肌が硬い。しかしその内の熱はしっかりと私の手に伝わってきた。

 ミサトさんの手を握り返す。

 

「カノンちゃん、ごめんなさい。それとありがとう」

 

 そう言って私と目線の高さを合わせたミサトさんは、私のことをぎゅっと抱き締めた。

 

「――――」

 

 いつからなのかわからないが、少しずつ凍り付いてきていた心がほんのりと温められるのを自覚した。

 誰かに抱きしめられるなんて経験は、恐らく物心がついた時から一度もされたことがない。

 喉が震える。

 何か言葉を口にしなければ。

 そう思った。

 でも上手くいかずに唇が戦慄く。

 この温もりにどう返事すればいいのかわからなかった。

 ミサトさんは私の鼓動を感じ取ったのか、より一層強く抱きしめてきた。

 

「ぁ」

 

 その瞬間、とても気持ちいいと感じた。

 気分的な意味ではなく、私の身体が気持ちいいと感じた。

 だから、もっと気持ちよくなりたいと思った。

 そっと両腕をミサトさんの背中に回し、優しく抱き締めた。ミサトさんほど力入れられないが、私の行動に驚いたのか、目を見開く。

 今さっき公の場でうんぬんと心の中で抜かしていた私はすでに裏切られている。

 そのまま抱擁は続く。

 急に目頭が熱くなるのを感じた。

 安心できる人からの私に対する言葉が何よりも嬉しかった。

 だが、それと同じくらい悲しかった。

 普通の家族ならば、娘の退院に駆けつけるのは両親のはずで、ミサトさんではない。

 お母さんはいないし、お父さんは来ない。

 また使徒が来れば、きっと何事もなかったかのようにエヴァに乗って戦えとお父さんは一方的に指示するだろう。

 今や、私にとっての心の拠り所がミサトさんだけになっている。

 そのミサトさんに、私はこれから日常生活を送る上でたくさんの迷惑をかけることになるのだ。

 不甲斐なさに思わず唇を噛みしめる。

 じわりと鉄の味が口内に広がった。

 

 車椅子仕様車に乗った私とミサトさんは、そのままアパートへと送ってもらった。

 バックドアが開き、リフトが伸び、それを使って車椅子で降りる。

 私とミサトさんは運転手さんにお辞儀をしてから、アパートに入っていった。

 電動ではなく、背面のグリップをミサトさんに握ってもらい、手動で車椅子を進める。

 エレベーターは車椅子が入ると結構窮屈で、私とミサトさんと、あとひとりくらいならいけるほどだった。

 そもそもこのアパートは障害者のことを考慮された設計ではないため、仕方ないと言えば仕方ない。

 ミサトさんが我が家のドアを開け、ゆっくりと中に入る。

 そして私は強烈な違和感を覚えた。

 

「――――」

 

 ほとんどと言っていいほど家が荒れていないのだ。

 通路にあったはずの荷物はひとつもなく、ゴミひとつ散らかっていない。

 私のミサトさんに対する家庭的評価は下の下だが、いったい何があったのだろうか。

 呆気に取られる私をよそに、ミサトさんがそそくさと玄関横に立て掛けられていた、折りたたみ式の別の車椅子を広げた。

 そういえば、さすがに外で使っていた車椅子を室内で使うわけにはいかない。タイヤの汚れを持ち込んでしまうから。

 テキパキと用意を終わらせたミサトさんは、「ちょっとごめんね」と断りを入れると両腕を伸ばし、私の脇の下を通してがっちりと背中でホールドした。

 そのまま私の身体はすんなり持ち上げられ、速やかに室内用の車椅子への移動が完了する。

 

「痛くなかった?」

 

「は、はい。ありがとうございますミサトさん」

 

「ノープロブレムよ。自分でその車椅子動かせる?」

 

 タイヤ横のハンドリムに触れる。

 凹凸があって握りやすく、これなら回転の勢いが余って手が滑る、なんてことはなさそうだ。さらに、室内だからこそ手が少し不自由とはいえゆっくり落ち着いて移動ができる。

 

「大丈夫です。ありがとうございます、ミサトさん。たぶん部屋がキレイなのも――」

 

 そう言いながら車椅子を動かしてリビングに向かっていると、不意にアスカの部屋の横を通り過ぎた。

 きちんとドアが閉められていなかったから、中が見えてしまった。

 無意識に私はドアに手をかけ、開ける。

 中は恐ろしいほど静かだった。部屋の主人とは正反対の……死すら連想させるほど静かだった。

 カーテンは閉められ、薄暗い。

 鎮座するベッドの上や机の上、さらに床には箱に詰められた荷物が散見された。

 これは、アスカはここにはもう戻ってこないという意味を持つ。

 さらに意味を深めると、アスカは数日や数週間……いや、それよりもっと療養に時間がかかるということになる。

 私のための引っ越しに先駆けて用意している、ということにしてしまいたい。

 うなじから脊髄を無理やり抉り取られるような息苦しさを感じ、私は静かにドアを閉めた。

 ミサトさんは何も言わなかった。

 リビングはわりとコンパクトに整頓されていて、どちらかというと以前よりもキレイに見える。とはいえ普段リビングを占拠しているのはアスカ四割ミサトさん六割ほどで、まあ色々と散らかすことがあった。

 しかし今は掃除屋の手が入ったのではと勘ぐってしまうほどキレイだ。

 だが、台所の洗面台の方を視線を向けると、やや乱雑に置かれた食器類が顔を覗かせている。

 私は小さく笑った。

 

「どう、カノンちゃん。これくらいなら家の中でも動き回れるかしら」

 

「はい……ミサトさんがすっごく頑張ったの、よくわかります」

 

 人格が入れ替わったとしか表現しようがない。

 実はそっくりさんでした、なんてネタバラシを食らってもやっぱりそうですよねってなってしまうほどだ。

 

「まあね。今まではカノンちゃんに家のことほとんど任せちゃってたから。どちらかというとカノンちゃんが私の保護者みたいな感じだったわ。でもこれからは違う。私がしっかり支えるの」

 

 ミサトさんの曇りない眼が私を見る。

 嘘を言っているような口ぶりではないが、それでもどうしても気になってしまう。

 

「なんでそこまでしてくれるんですか? 保護者とはいえ、ミサトさんにも自分の生活があるはずです。その時間を私に割かなくても、ネルフに私を預けたほうがずっと楽じゃないですか?」

 

 自意識過剰という自覚はあるが、少なくともミサトさんは私のことを好意的に想っている。

 しかし、私が手足が不自由になってしまってもこれまで通り接しようとする理由がわからない。

 絶対に「面倒だな」とか「邪魔だな」といった不快な気持ちがあるはずだ。もし私がミサトさんと同じ立場になったとしたら必ず一度や二度は思ってしまうと確信している。

 私はそこまで良い人ではないから。

 ミサトさんは落ち着いた口調で、諭すように言った。

 

「だって、私はカノンちゃんのことが好きだから」

 

 スキだから。

 好き、だから。

 私は言葉の意味を咀嚼するのに数秒ほど時間を要した。

 どうやら私は『好き』という言葉に対して絶望的に耐性がないようだった。

 みるみるうちに顔が赤面するのを自覚し、陸に打ち上げられた魚のようにぱくぱくと口を開閉させる。

 

「もちろん人としてって意味よ。変な意味で受け取らないでね?」

 

「ももも、もちろんですとも⁉」

 

 自分のものとは思えない、変に上擦った声が喉から溢れ出てしまった。

 ミサトさんは私の反応がよほど面白かったのか、いたずらっぽい笑みを浮かべる。

 面と向かって好きなんて言われたことが初めてだから、つい少女漫画の主人公並みの想像が爆発してしまっただけだ。

 胸に手を当てて軽く深呼吸。

 平然を取り戻す。

 

「勇気のあるところ、子供とはいえ人として本当に尊敬しているわ」

 

「勇気、ですか。すごく頑張ってる、とかではなく?」

 

「頑張るのはもちろんある。私が言いたいのは……そうね、気持ちの問題。例えば前の作戦で、アスカが使徒の落下に間に合わないとわかった時。あの時点で本当はもう作戦は失敗のはずだった。でもカノンちゃんが勇気を出して、死にもの狂いで走って、それで間に合わせた」

 

 それがアスカと仲違いをしてしまった大きな原因のひとつになってしまったが。

 

「…………」

 

「正直私も少しだけ、ほんの少しだけ諦めに入ってた。でもカノンちゃんの声に目が覚めた。あれほど頼もしいと思ったことはなかったわ」

 

「あの時は私も必死で……」

 

「ずっと前からエヴァに乗るために訓練をしてきたアスカやレイじゃなくて、カノンちゃんが他の誰よりも勇気を出した。私達よりもね」

 

「――――」

 

「こればかりはどうしようもないけど、これからもエヴァに乗ってもらうことになる。きっと、辛い目にあうこともあると思う。だからこそ、身も心も落ち着ける場所……この家、そして家族として支えてあげたいの」

 

 ミサトさんの瞳は微かに自責の光が煌いていた。

 その念から来ているものなのかと邪推してしまったが、態度がそうではないと一蹴する。

 私がもしネルフに預けられたらどうなるだろう。社宅のようなものが与えられるのか。でも私の身体のこともあるし、比較的対応のしやすい社宅といったところか。

 ヘルパーも割り当てられるかも。

 それだと確かにひとりではないものの、その人とは仕事としての関係のみだ。

 ネルフから学校に行き、帰り、訓練をして、身の回りの世話をしてもらい、使徒が来たら出撃する。

 ……私の心身の休息は万全とは言い難い。

 ただ学生の皮を被った、障害者でありエヴァのパイロットになってしまう。

 エヴァに乗って戦うためだけに消費される駒になりたくはない。

 あまり高望みができないことは薄々理解はしているが、なるべく普通に暮らしたい。

 それを叶えられるのは、ミサトさんという心の拠り所があってこそなのだ。

 悪い言い方をするならば、これは依存だ。

 でもそれでいい。私は子供だから、大人の善意には素直に頼らせてもらう。

 私の顔から答えを読み取ったミサトさんは、満足そうにひとつ大きく頷くと、

 

「よし! じゃあ今日は私が夕食を用意するわ! って言いたいところだけど……片腕折れてるからできないのよねぇ。だから今日は出前のピザで!!」

 

 さては私がいない間、好き放題食べたいものを食べまくっていたな。

 私の了承を得る前からすでに出前をとるべく非常に手慣れた動きでカタログを読み始めているさまは疑いようがない。

 この人は食に関しては全力で匙を投げるほど絶望的なので、間違いなく野菜なんてほとんど摂っていないだろう。

 栄養の偏った生活は良くない。

 

「ええ、はい。いつものと同じで! ああ、一応Sサイズで同じものを一つ追加でお願いしまーす!」

 

 うーん、清潔面では成長したが、食生活はグレードダウンしたと言わざるを得ない。

 そんなことを考えながら私は、注文を終え、上機嫌にこちらを振り向いたミサトを達観した目で見つめるのだった。

 

 ◆

 

 ――不意に、ある衝動に駆られた。

 しばらく放置されていた自分の部屋をあらかた整理し終え、一息つこうとした時だった。

 下半身――膀胱に強く感じる尿意に、私は口を横一文字に閉ざして顔を強張らせた。

 

「……、ぅ」

 

 結構溜まっている。

 しまった。

 片付けに集中しすぎたせいか、今になって気づいたとは。

 股のあたりをもじもじさせることができず、両手をぎゅうう、とあてて少しでも楽になろうと試みる。ちょっぴりだけ楽になってから、手を離す。

 やや前傾姿勢になりながら自室を出た私は一直線にトイレへと車椅子を向かわせる。

 リビングでは、ビールを飲んだミサトさんがテレビをつけっぱなしでソファーに寝腐っている。

 起こさないように慎重に、しかしながら迅速に車輪を回す。

 両腕に力を込めると下半身への力が緩み、尿意が一気に波のように押し寄せてくる。

 

「くぅ、っ」

 

 懸命に身を捩らせながら辛抱を強要し、額に脂汗を滲ませながら前進する。

 残り五メートル。

 たったそれだけなのに、途方もなく遠い。

 トイレまでの道のりは、これほどまでに遠く、険しいものだったのか。

 ただでさえ腕にうまく力を入れられないのに、それにプラスして尿意のダブルパンチ。

 顔に皺を寄せ。

 身を捩らせ。

 我慢に我慢を自分の身体に強いながら必死の意思力を振り絞って前進する。

 四メートル。

 三メートル。

 二メートル。

 一メートル。

 あとほんの少し、と安堵してしまったせいか、身体の緊張のほとんどが解けてしまう。

 

「んんっ」

 

 決壊寸前のダムを巨大ハンマーで叩かれるような感じ。

 あと十数秒も持たずに決壊するだろう。

 だがドアは目の前で、ドアノブに手もかけている。

 それこそ使徒との戦闘状態にある心持ちで、私はドアを開いた。奥へ進み、便器の蓋を開ける。

 そして私はようやく気づいた。

 

「――――ぁ」

 

 どうやって便器に移ればいいの……?

 今さらすぎた。

 病院では看護師がトイレの度に私に追いてきて、車椅子から移動させてくれていた。

 ずっとトイレに行くことしか考えていなかったせいで、そんな基本的なことをど忘れしていたのだ。

 というよりそもそも、ここのトイレは狭いから、車椅子から便器に移るのも一苦労だ。

 

「ミサ――」

 

 咄嗟にミサトさんの助けを借りるために呼ぼうとしたが、すでに遅かった。

 我慢の限界を超え、決壊が始まる。

 静かに股が湿り気と生暖かい液体で濡れ始め、車椅子の骨を伝って床にぽたぽたと滴る。

 解放感と不快感という矛盾する感覚を味わいながら、私は必死に股を抑えた。

 

「ぁぁ……! ああぁ……っ!!」

 

 止まらない尿を、止められないことなんてわかっているのに止めようとする。

 しかし当然止まらない。

 呆れかえるほどのそれはすっかり車椅子とスカートをびちゃびちゃに濡らした。

 

「ん〜? どうしたのよ……って……」

 

 寝ぼけ顔のミサトさんが眠そうに目を擦りながらやって来る。

 そして、私と私の足元を見て、すべてを察したミサトさんは目を見開いた。

『そう』見られた瞬間、私のあまりの情けなさを自覚してしまった。

 じわりと視界が滲み、歪む。

 それが羞恥、そして自身への嫌悪からきたものと理解するのにそうかからなかった。

 立ち尽くすミサトさんと目が合う。

 ぽろぽろと涙が止まらない。

 

「嫌っ……見ないでぇ……!」

 

 弱々しい声で拒絶しながら、この世からいなくなりたい一心で顔を俯かせた。

 まさかこの年にもなっておもらしなんてあり得なかった。

 しかもその醜態を見られるだなんて一生の恥。

 色んな感情がぐちゃぐちゃになって、その出口として口から短い嗚咽が垂れ流される。

 この状況を一刻も早く何とかしなけれらならないのはわかっているが、身体は鉛のように動かず、泣き続けることしかできない。

 床に黄色い水たまりをつくった私は蹲ることしかしなかった。

 完全な思考の放棄だった。

 

「大丈夫……大丈夫だから、ね? いったん身体を拭きましょう」

 

 ミサトさんはそう言い、ゆっくりと私の服に手を伸ばした。

 私は抵抗せずそれを受け入れる。裾を上げられ、素直に両腕を動かして袖口から抜けるようにする。

 そのままスムーズに上の服は脱がされ、スカートも脱がされる。汚く濡れたそれらを、ミサトさんは摘み持つみたいなことはせずに両腕で床に垂れないように気にしながら洗面所へと運んでいった。

 下着姿になった私はしくしくと泣き続ける。

 

「もう少し後でいいかと思ってたけど、お風呂も焚けてるようだしもう入っちゃうわ! 温かいお湯で綺麗にするわよ〜」

 

「……はい」

 

 ミサトさんの右腕が背中に。左腕が太腿の下へと回され、ひょいと私の身体を抱き上げた。

 これは私が軽いのではなく、単にミサトさんが軍人で、力持ちだからだろう。

 いわゆるお姫様抱っこをされて運ばれるのはなんとも言えない心境になる。

 洗面所の脇にはまた別の車椅子――シャワーキャリーが折り畳まれている。

 一度私を床に下ろし、シャワーキャリーを組み、私をもう一度抱きかかえてそれに座らせる。

 

「うーん、やっぱ引っ越ししないとだめね。お風呂もトイレも狭すぎるわ」

 

「…………」

 

「後から私も手伝うから、先にシャワーだけでも自分でできる?」

 

「はい、大丈夫……です」

 

「ん、よろしい。そんじゃ、ちょっち待っててね〜」

 

 さすがに下着は自分で脱ぎ、選択籠に入れる。

 シャワーに手を伸ばし、触れる。

 ひんやりとしたステンレス素材の感触。さすがにこれすら掴めないほど腕と手が死んでいるわけではない。繊細な指使いは要求されないから問題はない。

 レバーを捻り、水を出す。

 初めは冷水で、数十秒ほどで温水になった。

 貪るように頭からそれを浴びる。

 じんわりと頭頂から温かさが浸透し、つい無意識に身震いする。

 不快だった股の部分も、すでに流されて今では温かくて気持ちいい。

 そして不意に、いつの日かミサトさんが言っていたことを思い出す。

 

『風呂は命の洗濯よ』

 

 懐かしむほど昔のことではないが、確かにそのとおりだと思った。

 今日一日で溜まったヘドロをさっぱり綺麗にしてくれたような気がした。私はいつも以上に長い時間を使ってシャワーを浴び続ける。

 

「ぁ、は――――、ぁ」

 

 あまりの気持ちよさ、快楽に口から矯声に似たものが溢れる。

 頭、うなじ、胸、腹――両脚、はやはりと言うとべきか、何も感じられなかった。まるで死んだ肉塊のようだった。

 そうこうしているうちに、ドアを開いてミサトさんが戻ってきた。

 ギプス状態の片腕の上に専用の防水カバーを装着して準備万端といった様子だ。

 

「おっ待たせー! 身体は流せたかしら? さあさあ、狭〜い浴室でぇ、濃密なスキンシップをしましょうね〜!」

 

 やや猫なで声のミサトさんを少し気持ち悪いと思ったのはこれが初めてのことだった。

 理解度ゲージがほんのちょっぴり下がったのを感じながら私は口を開いた。

 

「……スキンシップってなんですか」

 

「わかってるくせにー。カノンちゃんって初心と見せかけて実はむっつりだったり?」

 

「そ――」

 

 んなことはないです、と言おうとしたが、その猶予は言えられなかった。

 

「ま、とりあえず身体洗うからちょっち背中倒すわよー」

 

 と唐突にそんなことを言って、本当にシャワーキャリーの背もたれをスライド式で下に下ろした。

 

「わっ⁉」

 

 事前通告があったからとりあえず後ろに倒れずにすんだが、脚が使えないため、お尻に力を入れて体勢を維持しないといけない。

 背もたれも腰のギリギリくらいの高さは維持してくれていて、一応の体勢は辛くない。

 手際よくスポンジに泡を染み込ませたミサトさんは「失礼するわよー」なんて意味のこもってない呑気で、もはや事前承諾ですらないレベルで物言いで私に告げた。

 まずは背中をゴシゴシと擦られる。

 少しだけ荒っぽい。

 が、それはそれで気持ちいい。

 誰かに背中を洗ってもらうというのはとても新鮮な体験だ。

 力強く。でも丁寧にミサトさんは手を動かす。

 

「どう?」

 

 と訊かれ、

 

「いい感じ、ですぅ……」

 

 と甘い熱の孕んだ返事を返す。

 

「はーい、次は前ねー」

 

「え」

 

 思わぬ申し出に、私の昂ぶっていた気持ちは急速に平常に戻された。

 

「前くらいは自分でやりますしできます。それに、は、恥ずかしいですよ」

 

「ぬぁに言ってンのよ。ここまできたら全部私に任せなさい!」

 

 ノリと勢いだけで全力で意見を張られてしまうとどうも負けてしまう。押しに弱いと言うべきか。

 ここで変に意地を張ったらさらに面倒なことになると悟った私は、素直に頷いておいた。

 別に変に意地悪をしてきたりすることはなく、つつがなくシャワーで流してもらうまでした。そのまま頭まで洗ってもらった。

 

「さすがにそれごと浴槽には浸かれないわね。ちょっと失礼するわ」

 

 その後自分の身体を洗い終えたミサトさんは、胸に向けられた私の視線に気づいた。そこには痛々しい大きな傷跡がある。「あー、これはセカンドインパクトの時にね」と濁すように言った。

 私はそれ以上首は突っ込まなかった。

 両腕を伸ばして私の身体をシャワーキャリーに乗せたときと同じように抱きかかえ、ゆっくりと浴槽に足を踏み入れる。

 お姫様抱っこ体勢の私はお尻から浸かることになり、じんわりと熱がそこから広がっていくのを感じた。

 脚が動かせないから、浴槽でバランスを崩して溺れてしまわないようにミサトさんの股の前に座らされ、腕がお腹の前に回される。

 確かにこれなら安心してゆっくりできそうだ。

 

「…………」

 

「…………」

 

 ここまではミサトさんに流されて来ていた。

 そもそもこうして突発的にお風呂になってしまったのは私があれをしたからであって、ミサトさんからの言及はまだない。あるいはするつもりすらないのかもしれない。

 この人は優しいから、見なかったこと……いや、仕方のないこととして受け止めているのだろう。

 でもそれに甘えてスルーしてしまうのは違う気がして、私の口はしっかりと謝罪の言葉を口にした。

 

「…………ごめんなさい、ミサトさん」

 

 すぐに反応は返ってこなかった。

 しかし幾ばくかの間を開け、ミサトさんは言った。

 

「いいのよ、気にしないで。私が気づいてやれなかったのもあるし、そもそもこの家はバリアフリーじゃないんだから」

 

 そうじゃない。

 

「もっと上手くできていたら、絶対にあんなことにはならなかったはずなんです……」

 

「何言ってんのよ。ここには私がいるんだから、ちゃんと私を頼りなさい」

 

「…………」

 

 頼るといっても、そうなるとミサトさんにかかる迷惑はとてつもないことになる。

 今のお風呂を始めとして、料理は座高とキッチンが合わなくて駄目、洗濯物を干したるするのも駄目、トイレだって補助してもらわないと駄目。

 私にできないことを助けてもらうにしてもミサトさんがオーバーワークになってしまう。ネルフの作戦部長にこれ以上――。

 

「今、もう迷惑はかけられない、なんて考えてたでしょ」

 

「――――」

 

「その顔を見ればビンゴね」

 

 私は沈黙で肯定した。

 少し姿勢のずれてきた私の身体を抱きかかえ直し、ミサトさんは穏やかな口調で言った。

 

「変に気を使わないでいいから、たくさん頼ってほしい。私もたくさん頼りになりたいって思ってるから」

 

「……本当に色々迷惑かけてしまいますよ?」

 

 ついさっきだって、私が汚してしまった床を拭いてくれていたのだろう。それだけではない。

 車椅子も濡れてしまったから、カバーを洗わないといけない。

 だからそれが乾くまで私はミサトさんの助けなしに移動すらできない。

 

「どんと来いよ。引っ越しの手続きも終わってるし、来週くらいには業者を呼んで荷物を運んでもらうから」

 

 お金は大丈夫だったんですか? と不意に訊こうとしたが、ミサトさんは超法規組織の作戦部長だからまあまあ弾むはずだし、ネルフ側からも何らかの補助は出しているだろうと思い口を閉ざす。

 ミサトさんと肌を密着させているせいで、浴槽の熱湯から感じるものとは違う熱さを感じている。

 絹のような……陶器にも少し似た滑らかな肌の感触が背中からまじまじと伝わってくる。女同士だというのについ顔を強張らせてしまう。

 変に身じろぎできるはずもなく、悶々とした時間が流れる。

 もしアスカがいたら、こんなになってしまった私のことを助けてくれるのだろうか。

 ふと、そんなことを考えてしまった。

 きっと積極的には助けてくれない気はするが、本当に助けてほしい時は必ず振り向いてくれると思う。

 ……でかでかとため息を吐きながら。

 私はくすりと小さく笑った。

 

「どうしたの?」

 

 母性の滲む穏やかな声がかけられる。

 

「いえ……こうして四六時中ミサトさんと一緒に過ごすのは、少し緊張するけど楽しいなって……私みたいな子でも大切にされてるんだなって思っただけです」

 

 アスカはもうこの家にいない。

 私とミサトさんだけ。

 私は身体と心をボロボロにしながら未知の敵と戦う。

 ミサトさんはそんな私を介護する。

 

「ぬぁに言ってんのよ。大切に決まってるじゃない。あなたはこんなに可愛くて、健気で、優しい子なんだから。私が言えた立場じゃないけど……カノンちゃんを守りたい。こんなにたくさん辛い目にあったんだから、それ以上に幸せになってほしいって、本気で願ってる」

 

 ぎゅっと強く抱き締められる。

 私は両手をミサトさんの腕に触れる。

 ――ああ。

 ――――ああ。

 これほどまでに私を大切に想ってくれているのか、この人は。

 嬉しい。

 頬が急激に熱くなるのを感じた。

 この人がもし私のお母さんだったら、どれほど恵まれた生活を送れたのだろうか。

 私は腕を絡ませ、

 静かに瞼を下ろし、

 優しく頬擦りしながら言った。

 

「……ありがとうございます、ミサトさん」

 

 自分でも驚くほど落ち着きのある、でもどこか虚しさや弱々しさが混じった声だった。

 ……そんな中で。

 私も――

 私の周りも――

 これからもずっと、

 ゆっくりと暗闇に蝕まれるかのように。

 壊死していくんだな、

 と……思った。




新しい日常が始まrma

それではまた次回!
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