それでも私は──   作:次作エヴァはきっと鬱エンド

24 / 42
前回のあらすじ
主人公がお漏らしした

更新が遅い分、文量ぱわーで殴るから許してください


これから

「人の心というのは、私達が思っている以上に脆いんですよ。大人だろうともね。今の世はストレス社会。誰だって愚痴の一つや二つ、三つや四つはあります。ようは発散したいのです。だから私達がそのネタとして発散先を用意する。そうすれば皆はそこにストレスを発散して気持ちよくなることができる。私たちもアクセス数が増えて気持ち良くなる。そしてネタを骨の髄までしゃぶり尽くしたら次です。Win-Winの関係じゃないですか。世論なんて結局のところ、人の醜い所を食い物にしている、さらに醜い人たちによって操作されるんですよ」

 

 矢作ユウジは饒舌にそう言い、優雅にアイスコーヒーを啜った。

 角砂糖はふたつ。

 矢矧の言う言葉に、同業者たちは深く頷いた。

 卓上に並べられた資料の山は矢矧が独自に調べたものだ。数週間にも渡って調査し、まとめられたものは『確信ができていない情報だからこそ、信憑性がある』。

 適当すぎることをでっち上げて記事にするとこちらに批判が向けられかねない。その点を考量した、必要な調査だった。

 

「私の予測では、この少女が怪しいと睨んでいます」

 

 そう言って矢矧はホワイトボードに貼られたある写真を指す。

 盗撮ではあるものの、ピンぼけなどのない見事な写真映りだ。

 駅の人混みにもみくちゃにされそうになって、四苦八苦している少女の姿。

 

「彼女の名前は碇カノン。ネルフ総司令である碇ゲンドウ氏の一人娘です。最近になってなぜかこの第三新東京市にやって来て、現在はゲンドウ氏の部下と同居していると推測されます。私がネルフ職員たちが通勤する際に利用すると思われる駅に張り付き、調査中に発見した次第です」

 

 ネルフには、この街にやってくる脅威に対抗するために巨大ロボットが存在する。

 そのロボットは有人であり、パイロットは子供でなくてはならない。

 超極秘情報はこのふたつだけで十分すぎる。

 あとはどこにいるかわからないガードマンの意識に留まらないように注意しながら、駅を頻繁に利用する子供をリストアップ。あとは継続して監視を続け、中でも頻度の高い子供が黒ということになる。

 それが碇カノンだった。

 ……が、それだけでは決め手にかける。

 まだ行動に移すには理由があと一歩足りない。

 

「ですがそれは、本当にただその駅をよく使うだけで、ネルフとは関係ない可能性があるのでは?」

 

 そんな冷静な指摘が矢矧に投げられた。

 矢矧は待ってましたと言わんばかりにすぅ、と目を猫のように細め、口の端を吊り上げた。

 

「ええ、仰るとおりです。なので決定打となりうる情報をいくつか。先日、松代で爆発事故があったのを覚えていますか? ネルフが少し前から何かの実験で封鎖していた区域です」

 

 矢矧たちは知らないが、あそこでエヴァ3号機の起動実験が行われていた件である。

 

「運の良いことに、あの時私は駅で張り込みをしていました。SNSで松代方面で爆発らしきものがあったことを知ってほんの数分後、なぜか(・・・)必死な顔で彼女が駅に姿を現したのですよ。普段通りの時間ではないにも関わらず。さらに。なぜか(・・・)その日から駅に姿を現すことはありませんでした。さらにさらに。しばらくしてなぜか(・・・)病院から車椅子の状態で退院したのを目撃しました」

 

 矢矧にとっては強運だが、彼女にとっては悪運だった。

 時には運をも味方にしなければならない時もあるが、それを司る女神はどうやら気まぐれなのか、男の方に微笑んだようだった。

 泥臭く、己の目的のために地道に努力する。そこに目をつけられたのかもしれない。

 情報というものは鮮度が大切だ。

 スーパーなどで刺し身で販売されている魚より、市場から直接仕入れた魚のほうが美味いに決まっているのと同じように。

 

「――――」

 

 同業者たちは静かに空気を吸った。

 互いに顔を見合わせ、次に退院の瞬間であろう盗撮写真を舐め回すように吟味する。

 そして。

 餌を見つけた肉食獣のように目をギラつかせたものへと変えた。

 この時、矢矧は勝利した。

 

「この子がパイロットであることは私達には断定できない。あくまで信憑性の高い噂話、でしたよね?」

 

 ひとりが最終確認ともいえる質問をしてきた。

 矢矧はコーヒーを飲み干し、あえて溶かさずにカップの底の方に積もらせていた砂糖を口に含んだ。

 ガリッ。

 ガリッ。

 奥歯で満遍なく噛む。

 極小の粒がすり潰される感覚。脳に響く快音。

 猫は満面の笑みを浮かべて答えた。

 

「はい。ですので皆さんに手伝って頂きたいことがあるのです。もちろんこの情報を世に出してもいいのですが、もう少し踏み込んでこそ面白いというもの」

 

 好奇心は猫を殺すという。

 猫を殺すのは、秘匿しようとする何者か、あるいは秘匿されている秘密そのものなのかはまったくの不明。

 だからといって猫とて何もしないわけではない。するりと危険を潜り抜け、死ぬ寸前まで突き進む。それは知性がまだ人に劣るせいか、はたまた好奇心が止められないからか。

 どちらにせよ、ここにいる猫たちは後者なのだろう。

 

「――本人に直撃インタビュー、したくないですか?」

 

 砂糖なんかよりも甘美で蕩ける、毒を孕んだ濃密な脳汁が、どくどくと分泌されるのを彼らは感じた。

 

 ◆

 

 新しい日常を始めるにあたって、いくつか劇的に変わるものがある。

 それは、家と学校だ。

 家は言わずもがな引っ越しのことで学校とは車椅子で学校生活と向かい合うことになる。

 ちなみにまだヒカリたちには歩けなくなったことを伝えていないため、どう穏便に伝えられるのかを悩み果てている。

 フランクに言ったら逆に怒られそうだし、重々しく言うと、私に遠慮がちになってしまいそう。

 

「やっばい……」

 

 今更ながら、スマホに届いていたメッセージの量に戦慄する。

 使徒との戦いから約二週間、なんの音沙汰が無ければ心配されるのは当然だった。

 クラスメイトから個人で私を心配する旨のメッセージが溜まりに溜まっている。中でもヒカリのものが尋常ではない。

 夜中以外、一時間に一件は必ず送信してきている。

 嬉しさ反面、恐怖に顔を引きつらせながらそっとヒカリとの個人チャットを開いた。

 そのほんの数秒後。

 

『あ!』

 

「『あ』?」

 

 私が既読にしたことを瞬時に認識したのか、鬼のようなスピードでメッセージが送信されてきた。

 

『大丈夫なのカノン! ずっといなくなってたから本当に心配したんだから!』

 

「ひぇっ」

 

 今の素早さで嬉しさより恐怖がごく僅かに上回ってしまった。

 ずっとチャットに張り付いていないと気づけないレベルのはずだ。

 やや控えめに指を動かして文字を打ち込んで送信した。

 

『どうも、お騒がせしました……』

 

 なるべく下から下からを意識して謙る。

 確かに心配させてしまったのはどう考えても私が悪いし、ここは大人しくすべてを受け入れようと広大な海になった気持ちで身構えた。

 しかし、てっきり怒涛のチャットラッシュが始まるかと思いきや、電話のコールが鳴った。

 ……まあ、そうなるよね。

 と考えながら電話に出た。

 

「……もしもし」

 

 辛うじて出せた第一声。

 

『…………』

 

「あの……ヒカリ?」

 

 電話の向こうは沈黙したままだった。

 

「その……ごめんね? 色々と」

 

『…………』

 

 まだ沈黙は続く。しかしかすかな息遣いは聞こえてくる。

 そして大きくため息にも似た声を漏らすと、ようやくヒカリの声が聞こえた。

 

『よかった……本当に、良かった』

 

 深みのある、暖かい声。

 その言葉で、真にヒカリがどれだけ私を心配してくれていたのかを認識した。

 私は心の底から謝った。

 

「…………うん。本当にごめんね」

 

『いいのよ……こうしてカノンと話せているんだから。カノンの声が聞けてよかった』

 

「私も、ヒカリの言葉が聞けて嬉しいよ」

 

『…………』

 

「…………」

 

 それきり、ぴたりと会話が止まってしまった。

 私はもちろん、ヒカリもきっとどう話を切り出せばいいのか悩んでいるのだろう。

 さすがにここでヒカリの言葉をただひたすら待つほど私の社交性は低くない……と思う。

「あー」とか「うー」と茶を濁しながら私は続きを促した。

 

「その……たぶん何があったのかとか聞きたいんだと思うんだけど……そうだね、うん。ちょっとこれは話しにくいというか、あ、えっと……」

 

 いくらネルフによる秘密保持という制約を背負っているとはいえ、これほど心配させてしまったのだ。八割くらいぼかしてなら教えてもいいのではないか、という考えが浮かんだ。

 スマホを持っていないもう片方の手は勝手に握り拳を作っていて、生温い汗を握りしめている。

 しかしこのスマホはネルフ支給のものだから、間違いなく内容は把握されてしまうだろう。

 もどかしさなどといったものはない。

 私はそういう世界(・・・・・・)の人間なのだ。

 口を閉ざし、舌の上で言葉を転がし、飲み込む。

 

「……ごめん」

 

 で、結局私の口からはこれしか吐き出せなかった。

 

『まあ……そうよね。話せないこともあるわよね。私からは深く聞かないでおく』

 

「ありがとう」

 

『それで、いつくらいから学校に来れるの? そろそろあの馬鹿ふたりを私だけで抑え込むのも疲れてきてたわ』

 

「なるほどね……ふふ」

 

 容易に誰のことを言っているのかがわかってしまうのがちょっと面白くて、つい私は口元を緩めた。

 

「もう数日だけ自宅療養をして、引っ越しもしないといけないから……来週の頭くらいかな」

 

『引っ越し⁉ カノンどこか行っちゃうの⁉』

 

 ヒカリの驚愕は、声からでもよく伝わった。

 確かにそれは初出しだったな、と思いながら少しだけ説明した。

 

「あーそんなことはないんだけどね? 転校するとかではないし、ただバリ……少しだけ便利な家に移るだけなの」

 

『そうなんだ。ということはアパートに住んでたわけだから一軒家とか? それだったらいいわね! ほらこの前言ってたじゃん? 式波さんの荷物で自分の部屋まで侵食されてるって。部屋も増えるだろうから解決ね!』

 

「――――うん。そう、だね」

 

 突如出てきたアスカの名前に、私は喉の気道を僅かに詰まらせながら返事した。

 アスカのことをどう説明すればいいのかわからない。大怪我を負ったから入院をしている、で誤魔化せるだろうか。その場しのぎの付け焼き刃にはなるが、薄々気づかれるかもしれない。

 大怪我なんて可愛いものではなかった、と。

 日常の生活との乖離がより大きく……溝が深まった気がする。

 不意に机の上にある目覚まし時計に目をやると、十一時を過ぎていた。そろそろ眠いし、明日はまだ平日とはいえ学校は休むし、引っ越しの用意を手伝わないといけない。

 ほとんどはミサトさんがやってくれるが、正直なところ、すごく心配だから見守り役に徹することになりそうだ。

 新しい生活が始まることにどんな感情を抱いているのかと自問するならば、良く言うと新鮮味がある。悪く言えば、やはり壊死だろう。

 

「ヒカリはさ、私のこと……どう思う?」

 

 少し雑念が混じっていたせいか、口にするつもりがなかった言葉をぽつりと口にしてしまった。

 これは失言?

 いや……妄言に近い。

 どちらにせよ酷い質問であるのを悟ったのは、自分で気道に力を入れて呼吸を止めていたことに気づいた時だ。

 口内に溜まった唾液がうまく飲み込めず、強引に嚥下するように喉を上下させる。

 私の沈黙の意味を汲み取ったのかどうかは不明だが、ヒカリは真剣な口調で答えた。

 

『人のことを想える、可愛らしい女の子』

 

 感情をフラットにした、滑らかな答えだった。

 

「――――」

 

『恥ずかしいこと言っちゃったわね。ちょっと緊張しちゃった』

 

「そんなことはないよ。ありがとう」

 

 あまりにふわっとしていて、かつ酷い質問だったにも関わらず真摯に答えてくれたことに私は感謝した。

 

「……あの、ね」

 

 だからもう、先に告白することにした。

 

「私とアスカ、大怪我をしたんだ。アスカはずっと意識不明。私は両手と両脚が麻痺。脚の方はもうダメみたい。だからこれからずっと車椅子生活。今のアパートじゃ住みにくくなったから引っ越しをすることになったの」

 

 さらさらと、右から左へ流すように結末を端的に述べた。

 いざ話してみると意外に呆気ないな、なんてあっさりした感想が湧き上がるのを感じながら言葉を続けた。

 

「その前にも私、お腹を貫かれて子供ができない身体になった」

 

『…………』

 

「たぶんだんだん、私は違う私になっていってるんだと思う。悪い意味で」

 

 私という人間を変えたい、という第三新東京市に来た目的は、負の方向に順調に達成されつつある。

 

『…………』

 

「それが嫌ってわけではないんだ。みんなを守ることこそが私の生きる理由になっているし。こんなことは昔なら絶対になかった。だから辞めたいとは思ってない……ただ」

 

『…………ただ?』

 

「……このままだと私、近いうちに学校にも行けなくなるんだろうなって……二度と日常には戻れないなっていう予感……確信がある。実際、アスカは……」

 

 目覚めないし。

 途中からではあったものの、必死に助けようと頑張ったのに。それこそ、私が死んででも。

 あの結末で本当にアスカを助けたのだと胸を張って言えるのだろうか……?

 私の考えていた『助ける』とは命を救うことで、これだけを見るなら確かに助けられた、と言える。

 しかし僅かに視点をずらせば、アスカを使徒の汚染からは救えていない。だから私は、アスカの命は救えたものの、アスカ自身を救うことはできなかった。

 悪いループに足を踏み入れかけていることは自覚している。でも、そうすることでなんとか私の気持ちを制御しているのだ。

 薄氷の上。自分の熱で氷が溶け、絶対零度の水に溺れそう。

 

「ごめん、なんか辛気臭い話をしちゃって。学校に戻ってきたらいっぱい迷惑かけてしまうかもしれないけど……どうか、私をよろしくお願いします」

 

 なるべく力強く、しかしながら細い声で頼んだ。

 

『敬語なんていいから、頭を上げて』

 

「……うん。ごめん、なんか」

 

『そんなに謝らないで』

 

「ご……うん」

 

『……それと、もう泣かないで』

 

「――――――」

 

 口内が赤く震えた。

 首から上が妙に熱いと思ったら、私は泣いていたようだった。

 知らず知らずのうちに嗚咽の混じった声になっていた。

 知らず知らずのうちに胸に溜まったヘドロを、汚いまま吐き出していた。

 どうりで目の前がこれほどまでに霞んでいたのか、と今更ながら納得した。

 私は今の私に対して憐憫の情を抱いている。

 哀れで可哀想な女の子。皆が気遣ってくれて、大切に想ってくれている。でも戦いは自分にしかできないから、懸命に身を捧げる健気な女の子。

 それが私だ。

 仮面を被っているのは認める。

 皆にちやほやされるのは心地よく、気持ちいい。しかしこれも紛れもない私だ。

 だが、ここ最近の心身の傷が仮面に亀裂を走らせている。だからつい本音をぽろりと吐露してしまったのかもしれない。

 喉の奥で激しく喘いだ私は、口を横一文字にきゅっと引き締めた。

 右耳に当てたスマホを左耳に当て、そっと濡れた目元を拭う。

 深く、深く、ひとつだけ深呼吸をする。

 

『カノンの本音、少しでも聞けて嬉しい』

 

「本当は私は……強くなんかない。皆のために頑張ってるだけ。本当はエヴァになんて乗らなくても、きっと私は変われる。それでもエヴァに乗り続けているのは――」

 

 誰かに、アスカを助けたときに死んでおくべきだったと告げられたことがある。

 生きていても辛いだけだから、と。

 全くもってその通りだ。

 間違いなく私はこれからも傷つき続ける。何かを捧げて皆を助ける。今度は果たして何を捧げるのか。

 人々に求められるままに、鍛え、戦う。

 その在り方はまさに聖人と言えるだろう。

 もちろん怪我のないように心掛けるつもりではあるが。それでも命の張りどころというのはどうしても存在する。

 そういった場面に遭遇した場合、大半の人は腰が引ける。しかし私はどうやら逆で、血気盛んになる。果たしてどちらが普通だろうか。

 私は決して聖人になろうとしているわけではない。望んでもいない。

 ただ、

 

「――なんでもない、子供っぽい正義感と承認欲求からなんだと思う」

 

 立派な大義名分を掲げるなんて大きなことはできない。せいぜい掲げられるとすれば、『皆を守ること』くらい。

 使徒に勝つと皆に褒めてもらえる。

 私は悦びを得る。

 それでいい。

 それだけでいいのだ。

 

『……カノンのこと助けてあげたいけど、きっと本当の意味で助けることはできない。悔しいけどね。でも、だからこそ、学校で精一杯カノンには日常を楽しんでもらいたい。少しでも傷を癒やしてあげたい』

 

 ……ああ、ずるい。

 そんな言い方されたら、私の覚悟が揺らいでしまう。

 時が来れば、日常を捨てるという覚悟。

 人を殺した軍人が日常生活に復帰できないのと同じように、非日常こそが自分の住む世界であると、自身の認識を上書きすると決めていた。

 私の現在の人生における優先度は、エヴァに乗って使徒と戦うことのほうが学校生活とは比べ物にならないほど高い。

 だってそうだろう。

 そもそも使徒に勝たなければ学校生活など送れるはずがないのだから。

 ヒカリの言葉は、まるで私はまだ日常へ戻ってこれるという信頼を孕んでいる。

 私だって戦いたいわけではない。戦うのは、この居場所で生きるために必要な対価である。戦わないのならここで生きる意味はなく、お父さんによって元の叔父さんたちへの家に送り返されてしまうだろう。

 厳格で、冷血で、私のことが嫌いなお父さんはエヴァに乗らない私を必要としないから。

 ……上半身に力が入る。

 少し、私はマイナス思考に陥りすぎていたようだ。

 片方の拳を開閉させたあと、冷静に一度だけ深呼吸をする。

 そして、私は自分の頬を張った。

 ぺちん、と土壇場で力を抜いた半端な一発は、ちょっぴりしか痛くなかった。でも今の私にはこれが一番効果的だ。

 

『ん? 何の音?』

 

「大丈夫。悪い虫を叩いただけだから」

 

 どんなことがあっても前を向き続けるのは違うと私は思う。

 時々後ろを振り返って過去の残滓に振り回されることにこそ、間違えずに『前』を見据えることのできる手がかりになるはずだから。

 ……と、時間も遅くなってきた。

 本当に眠気が強くなってきているし、それはヒカリも同じだろう。さらに明日は学校だ。

 私との会話に耽っていて、寝不足になってしまったなんてことになったら、私はどんな顔をすればいいのか。

 

「今日はありがとう、ヒカリ。そろそろ寝るから通話を切るね。学校に行けるようになったらまた仲良くしてね」

 

 別れの切り出しをすると、ヒカリの軽快な返事が返ってくる。

 

『うん! また学校で! 待ってるから!』

 

「ありがとう。じゃあ、ばいばい!」

 

 通話終了のボタンを押して、熱い息を吐いて車椅子の背もたれに背中を預ける。

 顔を真上にし、もう見慣れた天井を見つめる。

 この家ともあと少しでお別れだ。

 引っ越しの用意はほとんどミサトさんがやってくれているが、やはり自分の荷物は自分の手でまとめる必要がある。

 

「明日にやろう……うん、明日にやろう」

 

 正直言って、面倒だ。

 もう意識を維持しているので精一杯だし、気を抜いて目を閉じてしまうと、車椅子に座ったまま眠りに落ちてしまう。そうなると翌朝に身体を襲うであろう凝りは避けられないだろう。

 思考力の低下を察知した私は大人しく寝ることにした。

 歯磨きを済ませ、パジャマに着替える。

 そしてもう二度と同じことは起こさないと固く心に誓いながらトイレを済ませる。

 今度はギリギリというわけではなかったため、落ち着けば問題はない。

 とはいえ便座に座るまでがとても不便で、狭いトイレの部屋で車椅子を器用に回転させるのは困難だ。

 さらに補助として右側の壁に元からあった手すりのみしか使えないため、車椅子から便座までの移動は自分の腕の力にほぼ頼ることになる。加えて腕に麻痺があることを考慮すると、結構な苦労になる。たっぷり数分かけてようやく用を足す準備ができるのだ。

 トイレを終えて自室に戻ろうとした時、ミサトさんからひとりでできたかと訊かれた。

 

「大丈夫でしたけど、余裕があるときだけにします」

 

 と返事をして、おやすみを伝えてから自室のドアを閉めた。

 ダイビングジャンプする気持ちでベッドに飛び込み、手を下半身を下半身に伸ばす。

 膝裏を抱え、「よいしょ」といい感じのポジションに移動させる。

 やはり感覚がまるでないというのはどうしても慣れないもので、奇怪な異物という認識に型落ちしてしまう。

 軽くマッサージをしてみるが、血の通った暖かい人肌の感触が伝わってくるだけで脚自体には何も感じない。

 慣れないから、気持ち悪い。

 思考を放棄して枕に後頭部を埋める。

 寝返りをうつときも一苦労だ。

 無意識に動かした上半身に下半身がついてこないため、その度に手で位置調整をしなければならないのだ。

 病院に入院している時に医師からレクチャーはしてもらっている。

 なるべく寝るときは横向きになること。名前は忘れたが、なにか悪い症状を起こさないようにするためだという。

 右にごろんと身体を向け、腕に力を入れ、時間をかけて下半身を動かす。

 

「…………ふぅ」

 

 これから一生このような動きをしなければならない。

 慣れてしまえば、で話は片付くが、慣れるのにはまだしばらく時間がかかりそうだ。

 それに正直、自分の脚があまりにも感じなさ過ぎて気持ち悪い。意識を集中させるほどその気持ちが強くなり、吐きそうにもなる。

 腕と手はリハビリで改善されると聞いている。なら今のように疲労することはしだいになくなっていくだろう。

 現状をあるがままに受け入れて、咀嚼して、飲み込まなければならない。

 そうであるからこそ、私は私であれる。

 そう強く自身に言い聞かせながら、意識を闇へと落としていった。

 

 ◆

 

 目覚めは最悪で、悪い夢を――夢すら見なかったのに、身体に寒気が走るくらい気分が悪かった。

 そして、日課である朝食を用意するためにまずは起きるところから……とぼんやりした頭で考えたところで、ふと我に返った。

 そういえば、いつもの目覚ましアラームが鳴っていないことに気づいた。

 

「あ」

 

 冷水を顔面にぶちまけられたかのように一瞬で意識が覚醒する。

 頑張って腕を伸ばして充電していたスマホ画面に触れ、ロック画面で時刻を確認する。

 表示されていた時刻は08:52。

 まるで見たことのない数字だった。

 普段の私からはとても考えられないほどの大寝坊。

 飛び起きようと身体を跳ね上がらせたところで、恐るべき速度で焦りは引いた。

 

「そっか」

 

 動いたのは上半身だけ。

 寝る直前の状態から下半身は一切動じていない。

 それに――

 

「……どうやって朝ごはんを用意するのさ、私」

 

 と呟く。

 その言葉がスイッチになったのか、無気力に襲われる。

 朝はミサトさんがこれから用意してくれることになっているが、だからといってすべてを任せるわけにはいかない。

 食器を並べたりくらいなら私でも全然できる。

 掛け布団をめくり、脇に置いている車椅子を近づける。移動させやすい角度に調整も済ませる。

 もし車椅子に移るのが難しかったら、呼んでくれればいつでも手助けしてあげると言われている。が、さすがにこればかりは自分でやりきりたい。

 

「ふんっ!」

 

 鼻から強く空気を吐き出し、腕に力を込めて下半身を動かす。

 ベッドの縁から下ろすことに成功。次に車椅子の肘掛けを掴み、渾身の力で自分の身体をベッドから浮き上がらせる。そのまま車椅子へとシフト。

 地味に腕のリハビリにもなるからこれはとても良い運動だ。手のリハビリもしないといけないが、今は置いておく。

 将来的に腕だけやたらと筋肉がつきそうな予感がするのは……気のせいではないだろう。

 自室から出てリビングに出ると、そこには髪はボサボサ、開いているのかわからないほど目を閉じ、しかしエプロンはきちんと着ているミサトさんがキッチンに立っていた。

 引っ越しの用意の影響で、キッチンにはあまりものがない。棚にあった皿などはほとんど詰め終えてすっからかん。冷蔵庫の中身――全体の六割ほどあったビールの山はミサトさんの胃に無事収納されている。

 私の気配に気づいたミサトさんは、トースターからすでに焼けた食パンを皿に移し、テーブルに並べながら口を開いた。

 

「おはようカノンちゃん。食パンだけでごめんね。ほら、フライパンとかも使ったら後々面倒だし」

 

「はい、おはようございます。私がいなくてもミサトさんだけでご飯を用意できただなんて……成長を感じますよ」

 

「サンキューよ〜……ん? あれ? これって素直に喜んでいいのかしら?」

 

 褒め言葉を呑気に受け取ろうとしたところで我に返ったミサトさんに、私は苦笑した。

 

「いいですよ」

 

 ミサトさんが成長しているのは事実だし。

 私が障害を持ってしまったことによる唯一の良いことと言えば、ミサトさんの家事レベルが上がっ……いや、家事という概念を理解してくれたことだ。

 今思い出すだけでも悍しい、初めてこの家に来た時のインパクト。ゴミ屋敷直行ルートをアクセル全開で驀進しているような荒れっぷりには感服した。

 人間ってここまで家を汚くできるのかぁ、と。

 エヴァや使徒の存在の次に度肝を抜いた衝撃の事実だった。

 ところが今やそれはまるで悪い夢だったかのような生活水準だ。

 たぶんアスカが私より先にこの家に来ていたらエヴァパイロットであることとの天秤にかけ、ぎりぎりエヴァパイロットの方に傾くか。

 とにかく、ミサトさんのこれからの成長に期待だ。というより、もっと成長してもらわないと困る。

 このままだとミサトさんをもらってくれる人がいなくなる。

 だから加持さん、はやくもらってあげてください! 私はミサトさんの幸せを願ってますからッ!!

 つつがなく朝食を終え、皿の片付けは手伝う。

 キッチンへは車椅子では入りにくく、方向転換などができない。

 雑に食洗機に皿を並べようとするミサトさんに待ったをかけ、丁寧さを要求する。

 あと、粉末の洗剤の量も少し多かったのでそこも指摘。

 及第点にはまだちょっとだけ足りていないかな? と冷静な評価を脳内で下す。

 ミサトさんに手伝ってもらいながらキッチンから出て、今から何をしようかと自室に戻って思考を巡らせる。

 今日は平日だから学校があるが、私はしばらくお休みをもらっている状態だ。

 やることはふたつ。

 まずは引っ越しの手伝い。

 これは言わずもがなだが、私にできる範囲で荷物のまとめ作業をしなければならない。

 確かミサトさんは来週に引っ越しと言っていた。今日は金曜日だから、恐らくあと三日後か。

 そしてもうひとつは――。

 

「勉強、嫌いになっちゃいそう……」

 

 遅れた分の勉強である。

 ただでさえぎりぎりの状態を引きずっていたのに、もはや取り戻しが難しいレベルまでになっている。

 しばらくは勉強漬けの日々を過ごすことになりそうだ。

 とりあえずは着替えだ。

 ゆっくり時間をかけてパジャマからラフな部屋着に着替える。別に家の中で変に着飾る必要なんてないし、脱いだりもしやすいという理由だ。

 朝の最大の難敵は洗面台だ。

 まず手が歯ブラシのある戸棚に届かない。

 拭きタオルは洗面台の少し奥側に吊るされており、これは頑張ったら取れる。

 どちらにせよミサトさんによる介護は必須で、ここは素直にミサトさんに助けを求めることにする。

 

「ミサトさーん! すみません、ちょっと歯ブラシ取ってほしいですー!」

 

 ひょこ、と洗面所から顔を出した私は、ミサトさんの自室に向けて声をかけた。すると数秒後に「はいは〜い、オッケーオッケー。ほんのちょっちだけ待ってねー」と快い返事が返ってきた。

 少ししてからやって来たミサトさんの服装はいつもの赤ジャケットを着込んだ、勤務用のものだ。

 私は学校が休みでも、ミサトさんには仕事があるのだ。

 手の届く所に置くようにしないとね、と自分に言い聞かせるように呟いたミサトさんがすっ、と歯ブラシを私に渡す。

 

「私ネルフに行くけど、カノンちゃんひとりで問題ないかしら? なるべく不便のないように色々物の位置とかは変えてあるから、余程のことがない限り大丈夫だと思うけど」

 

 先日ミサトさんから、私がひとりだけでいる時の過ごし方について話してくれている。

 何かあれば、スマホで連絡を飛ばすと保安部の人が合鍵で家に来てくれるらしい。

 合鍵なんてあったんだと驚きつつも、まあ当然かとすんなり納得する。

 

「大丈夫ですよ。お昼ごはんも電子レンジくらいには手が届きますし、トイレも時間をかければですが慣れました。洗濯機は回せますけど……干すのだけはちょっと……うーん……部屋干しならなんとか?」

 

「いいのよそこまでしなくても。というか洗濯機はもう回してるし」

 

「えっ、できたんですか?」

 

 私の補助なしでできたの?

 本当に?

 懐疑的な目でミサトさんを見上げると、自信なさ気な顔になることもなく、

 

「大丈夫大丈夫。これくらいできないと私の女としてのレベルすら地に落ちるわよ」

 

 と笑いながら言った。

 

「そこまで言うなら信じますよ。ミサトさんも大人ですし」

 

 執拗に疑うのは逆に失礼だから、素直に信じることにした。

 

「そうそう、だからカノンちゃんは私に甘えて良いのよ〜ん」

 

 朝だからか、変なテンションでミサトさんは私の頭部を後ろから抱き締めてくる。

 

「ちょ、離れてくださいっ。歯磨きできないじゃないですか」

 

 ぺちぺちと腕を叩くけば、大人しくミサトさんが離れる。

 歯磨き粉をつけ、歯ブラシを口に突っ込んでシャコシャコと念入りに磨く。

 その間にミサトさんは櫛で私の髪を梳く。

 変に抵抗するのも面倒になった私は大人しく受け入れることにした。

 ちょっぴりくすぐったい感覚。

 思わず身体を僅かに震わせると、ミサトさんが小さく笑った。

 

「小動物の反応みたいで可愛いわね」

 

 今だけ言葉を話せない私は、喉を鳴らして抗議の意を示す。

 しかしながらミサトさんは想像より上手だった。

 つむじのあたりから変に髪が絡まないように梳いてくれている。おかげで不快感などは一切なく、寧ろ気持ちいい。自分でやるよりも。

 壊滅的だと思われていた女子力だが、これだけは違うのか……?

 歯磨きを終え、口に含んでいるものを洗面台に吐き出そうと身を自分にできる限界ギリギリまで乗り出す。

 ちょっと腹筋に力をいれないといけないが、ひとりでできないこともない。

 なんとかコップに水を入れ、口をゆすぐところまでできた私は一息をついた。

 

「ちょっと高さはキツイわね。でも向こうはちゃんとその辺も考えられてるから安心して」

 

 一幕を見ていたミサトさんが背後で呟く。

 

「それはありがたいです。毎日こうだと不便で仕方ないので」

 

「楽しみにしてなさいよ〜。なんせ私はもちろん、ネルフお墨付きの家なんだから!」

 

 ネルフがわざわざ私のバリアフリーのためにそこまでしてくれていたのか。

 ……というより当然なのかもしれない。私は貴重なパイロットだし、できる限り不便のない生活を送れるように便宜を図ってくれているのか。

 しかしこういうのは最終的な許可を出すのは司令官……お父さんのはずだ。

 お父さんは果たして何も思うところなく許可を出したのだろうか。

 

「……とと、そろそろ行かないと遅刻するわね。じゃあカノンちゃん、仕事行ってくるわ。ひとりでも大丈夫だと思うけど、もし何かあったらスマホで連絡をするように。それ用のアプリのインストール方法がたぶんメールか何かで届いてるはずだから、この後すぐに確認しておいてね」

 

 足早で洗面所から玄関へと向かう背中に「わかりました」と返事をしてから、

 

「いってらっしゃい!」

 

 と追加の言葉を投げかけた。

 するとミサトさんが少しだけこっちを振り向いて親指を立ててみせる。

 そして玄関へ今度こそ姿を消し、数秒ほどしてからドアの開く音と、鍵を閉める音が聞こえた。

 これで晩まで私は家に一人きりだ。

 ミサトさんはああ言ってくれたけど、それでもやっぱり私にできることは出来る限りやっておきたい。それがこれから介護をしてもらうミサトさんへの礼儀だ。

 ……とはいってもできることは本当にほとんどなく、せいぜい現在稼働中の食洗機が終わったら皿を取り出すくらいだ。

 引っ越し用の段ボールは、今の私に持ち運びができないため保留。

 ミサトさんの抜けのなさがよくわかる。普段はずぼらという言葉が擬人化したかのような人だが、いざとなるとやってみせる。

 私と出会った頃からそうであってほしかったと心の中で涙を流しながら自室に籠もる。

 色々と懸命に思考を巡らせていたのは、勉強から現実逃避がしたかっただけかもしれない。

 

「ああダメダメ。勉強しないとまたヒカリに怒られる」

 

 ある程度は勉強ができる方だと自負していたが、ヒカリの前では影ってしまう。しかも私の学力は停滞をキープしたままだ。

 机の上でノートPCを立ち上げるが、どうもやる気が起きない。

 そういえば、一昔前の教科書はデジタルではなくアナログだったという。そのせいで漢字の読み方などは問題ないが、実際にペンを握って書くとなるとできない子供が多いという社会問題がある。

 これだけを見れば大きなデメリットだが、教科書をデジタルにすることで、紙媒体が不要となり、その分の費用が浮くというメリットもある。

 おそらくアナログに戻ることはないだろうが、先生、もしくは科目によってはアナログでの手書きでのテストを実施することがあるため、まだ学校側も方針をどちらかに決めきれていないのだろう。

 でも私は書かないと覚えられない派の人間だから、どちらにも対応はできる。タイピングはまだまだだが。

 ……ほら、余計なコト考えてた。

 ごそごそと医師からもらったリハビリの練習メニューの紙を手に取る。

 そういえば、とミサトさんに指示されていたアプリもインストールしておかなければ。

 ポチポチとスマホを操作して専用のサイトからアプリをインストール。操作方法は……まあ、あとで確認しておこう。

 リハビリのメニューは別段難しいものなどではなく、比較的簡単だ。

 記載されている絵と同じように手や腕を動かせばいいだけ。

 これをゆっくり時間をかけて三セット。

 やっていて気づくが、これ以上動かせなかったり、感覚が希薄だったりと、自分の身体の反応が鈍いと感じる場面は確かにある。

 あれ? もしかしたらペンを握るのも難しいのでは? と実際に試してみるが、長時間でなければそこまで大きな問題はなかった。

 実際に文字を書いてみると、指に上手く力を入れられなかったりで、思うように書けない。

 文字は読めるレベルではあるものの、以前に比べると雲泥の差だ。

 

「なるほど、ね」

 

 ちょっとたらだらとしすぎてしまった。

 不意に時間を確認すると、もう昼前だった。

 少しずつ怠け癖がついてきてしまっているのではと己を厳しく律する。

 せめてお昼ごはんまでは勉強に集中すべく、ぺちんと両頬を軽く叩いて机に向かう。

 私が療養している時も無慈悲に時間は過ぎ、学校の皆との学習進度の差が広がってしまう。これは私がとても危惧している内のひとつである。

 結果的に学力が低下すると成績が悪くなるし、良い高校にだって行けなくなる。それだけは何としてでも避けたい。

 未来のことは正直なところあまり深く考えてはいないが、高ければ高い位置ほど見渡せる範囲が広くなる。今はまだ不明瞭でも、いつかは……。

 とりあえず一日分の遅れだけ脳に叩き込んだ私は、お昼を取ることにした。

 久しぶりに頭を使いすぎたのか、お腹の虫が鳴る。誰にも聞かれなくて良かった。

 適当な冷凍食品をレンジでチンして食べる。

 皿は付属のもので、そのまま捨てられる。お箸を食洗機に突っ込むだけだから非常に簡単だ。

 これからは冷凍食品によく助けられることになるのかぁなどと考えながらキッチンから離れ、すでに洗濯を終えたであろう洗濯機まで移動する。

 蓋を開けて、乾燥までされている衣服を洗濯かごに入れる。普段ならこのままベランダに干しに行くのだが、残念ながらこの脚ではできない。

 とはいえ何もできないのかというとそうでもなく、雨の時に使う、室内用の物干しがある。

 これなら腕を伸ばしたらなんとか手が届く。

 スピード感やテンポは普段通りで、ちゃちゃっとすべてを干し終える。

 私がいない間、ミサトさんはよくひとりで生活できていたものだと感心する。

 ……いや、今のはミサトさんに少し失礼だっただろうか? 私がこの家に来る前からここで生活していたし、人レベルの『生活』は一応できていたのだ。

 勝手に脳内で謝って自己解決したところで勉強に戻る。と、その前にトイレだけ済ませておく。

 先日のような失態は晒さないと固く誓っている手前、余裕を持った行動が大切だ。時間と腕の筋肉を使うが、ひとりでなんとかトイレができるまでにはなっている。しかし『なんとか』であって、助けはあったほうが嬉しい。これはできればミサトさんの手を借りたい。

 トイレを済ませ、いざ勉強するかとなったところで、どっと腕の疲れが押し寄せてきた。

 そういえば朝からリハビリをして、勉強をして、洗濯物を干したりトイレに行ったりでまだ慣れない腕を使いすぎた。

 明日筋肉痛になるのはほぼ確定とみていいだろう。

 だからといって勉強しないという選択肢はない。

 腕にきた疲労のせいで勉強効率は下がるが、何もしないよりは全然マシだ。

 時折自分で腕をマッサージして適度に休憩を挟みながら、若干の焦りを抱きつつ粛々と机に向かう。

 明日から土日だから、本格的に引っ越しの準備が始まる。超法規組織であるネルフに勤める身であるため、有事の際は問答無用で駆り出されることになるが、そうでない限りは引っ越しに集中できる。

 間違いなくこの机も動かす必要が発生するから、もう今日しか勉強に時間をたっぷり割ける日がないはずなのだ。

 週明け頃に登校する予定だから、授業についていけなければ話にならない。

 今日は夜遅くまでかかりそうか。

 ヒカリから事前に送ってもらっていた学習進度のメモがなければ間違いなく詰んでいた。当時出された宿題の内容なども教えてくれているため、取りこぼしはない。

 ふとパソコンの時刻を確認すると、すでに18時を超えていた。集中していたせいで時間の感覚が曖昧になっていたようだ。身体を目一杯伸ばし、腕を高く掲げる。

 そして大きなあくびを一つ。

 いつもならこの時間あたりから今日の夕食の用意に動き始めるのだが、今の私には必要ない……というのは少々語弊があるか。

 料理ができないから冷凍食品をチンすることくらいしかできない、が正しい。

 あーでも、であるなら買い物くらいには行っていいかもしれない。

 たぶんミサトさんのことだから買い物をし忘れて帰ってくる予感がする。高い確率で。もし買い物に行ったとしても、何を買えばいいのかよくわからず、結局ビールを買ってくる未来が見えた。

 心配し過ぎだろうか?

 ……ミサトさんはやる時はやる人であることは、十分知っている。事実、私のいない家を汚さず、寧ろ整理までしてみせた。基本的な家事はまだまだという評価になってしまうが、生活自体にそこまで大きな悪影響はない。

 今後の成長に期待、といったところ。

 

「いや、でも……やっぱり心配だな。ミサトさんだし」

 

 この気持ちはきっと、子離れできない親に似たようなジャンルのものだ。

 それに単純な心配要因として、仕事後にそのまま買い物に行く手前にある。

 はっきり言って、これは私にもできることだ。代行としてミサトさんにやってもらうだけであり、たとえ車椅子だからといってできないわけではない。

 

「うん、やっぱり行こう。できるだけミサトさんの負担は増やしたくないし。ミサトさんに任せたらたぶんビール買ってくるし」

 

 主にふたつの理由を口にし、自分を納得させる。

 ひとりで外に出る練習にもなる。

 部屋着から外出用の服に着替え、財布やらマイバッグやらをチェック。室内用の車椅子から外出用のものに乗り換え、最後にミサトさんに買い物に行く旨の連絡を送っておく。

 すぐに返事が帰ってこなかったから、まだ仕事中なのだろう。

 家を出たら、しっかり鍵をかけておく。

 ここから近所のスーパーまでは五百メートルもないほどだ。もしキロ単位だったら流石に諦めざるしかないが、これくらいの距離なら大丈夫だ。

 18時を超えると、外も夕焼けの赤みがゆっくりと薄くなり始める。私の住んでいるアパートは第三新東京市でも人の少ない地帯に位置し、この時間だと人通りは疎らだ。

 聞こえるセミの鳴き声も同様に疎らで、どこか空白というべきか、満たされない胸苦しさがある。

 時折すれ違う人からは、好奇の目で見られる。

 

「…………まあ、そうだよね」

 

 普通はこんな女の子、いないから。

 私だって、普通じゃない人を見かけたらついつい視線が固定されるだろうし。

 される側の身からすると、正直なところ愉快ではない。でもこういうのにも慣れていかないと。いい勉強になった。

 レバー操縦によって目的地に向かう。ヴィィィン、と低く小さく駆動音を鳴らして。

 車とすれ違う時は、少し怖い。

 私が今進んでいる道路には歩行者用にきちんとスペースが設けられているわけではなく、白線と道の端との間には人一人分しかない。

 車椅子は明らかに白線の中に入ってしまうため、できる限り端っこに寄り、動きを止め、すれ違う瞬間、きゅっ、と身を強張らせる。

 

「道、変えたほうが良かったかな……」

 

 私が今進んでいるのはどちらかというと小道に近い。

 遠回りをすれば人通りの多い道路がある。そこならきちんと縁石ブロックが設置されていて安全だし、歩行者スペースも広い幅を確保している。

 慣れているし、こっちの方が早く着くからという理由で選んだのだが、どうやら間違いだったようだ。

 いつもならもうとっくの昔にスーパーに着いているはずだが、まだ半分くらいしか進んでいない。

 ここは安全を取るべきと即決。

 急がば回れ。

 確かあと十数メートルほど進んだら大通りへと繋がる小道があったはずだ。そこで別ルートに切り替えよう。

 緊張で強張っているかどうかすらわからない脚を軽く叩き、小さく、鋭く呼吸を吐き出す。

 家に帰るのが少しだけ遅くなりそうだが、勉強代とでも思えばいい。

 淡い陽光はいよいよ弱くなり、地平線の果てに沈む。

 夜が巡り、細長い電柱たちの街灯がちらほら灯り始める。まだ完全に暗くはなっていないが、それも時間の問題だ。

 人通りはぐっと少なくなり、まるで私しかいない世界に飛ばされたよう。

 ミサトさんからの返事は……まだない。仕事が長引いているのかな?

 別ルートへの小道。その入り口に立つ。

 ここは灯りひとつない細い道。家の壁に左右を挟まれていて、足元は非常に暗く、強い閉塞感がある。

 車椅子が通る幅には問題ないが、誰かとすれ違うとなると、相手側が背中を壁に擦り付けるほど極限まで端によらないといけない。

 見知らぬ誰かに迷惑をかけないように、小道に少し入ってから、駆け足気分でレバーを前に倒そうとした、その時――。

 

「すみません」

 

 背後から声が聞こえた。

 あまりに突然過ぎて、肩が大きく跳ね上がった。

 男の人の声だ。少しだけ高いが、粘性のある声。

 

「私ですか……?」

 

 首だけ後ろに向けようとするが、「お気になさらず。私が動くので」と止められる。

 斜め左後ろからずりずり、と壁に背中を擦る音が聞こえ、私の真横からぬっ、と男の人が現れた。

 ――その人は、まるで猫のようだった。

 黒いスーツに見を包んでいるが、よくよく見るとブラッシングなどの手入れがちゃんとされていない。白シャツはシワが目立っている。

 そのクセして、女の人でも参考にしたいと思わせるほどスキンケアはしっかりしている。

 年齢は……おそらく三十代前半ほどか。猫背気味で、身長は百七十はありそうだ。しゃきっと背筋を伸ばしたら、きっと八十はあるだろう。

 男は私をまじまじと見つめると、ひとり納得したように大きく頷いた。

 

「私に何かご用ですか? 道案内とかでしたら大丈夫ですけど……」

 

 道は熟知している。

 いや、もしかしたら逆に道案内をしてほしいと言ってくるパターンだろうか。それくらいなら問題はないが、今の時代、スマホのナビさえあれば他人を必要とすることはまずないはずだ。よっぽどの方向音痴でない限りは。

 

「道案内? いえいえ、違います」

 

 予想とは違うことを言われ、小首を傾げる。

 

「んーと、あ、もしかして夜なのにひとりでいたからですか? でしたらすみません。今買い物に行こうとしていたところなんです」

 

「そうでしたか。お忙しい所申し訳ないです」

 

「そこまで忙しくはないので、長くならないのなら大丈夫です!」

 

 どうしてか、私の言葉を聞く途中から男は心底ご機嫌のように見えた。

 その顔に少なからず嫌悪感を抱いてしまう。

 男はすぅ、と猫のように目を細めた。

 そして薄く口角を上げて笑いながら……嗤いながら、こう言った。

 

「君はエヴァンゲリオンのパイロット、碇カノンさんですね?」

 

 ……私がその言葉の意味を理解するのに、数秒ほどの時を要した。

 二秒が経過した瞬間。

 私の中で、危険信号が大爆発するほどの勢いで真っ赤に輝いた。




ミサトさんに女子力が!?!? 未来は明るいですね加持さんっ!!
カノンチャンも新しい日常を懸命に生きようと頑張っているのDEATH!!

それではまた次回!
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。