それでも私は──   作:次作エヴァはきっと鬱エンド

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前回のあらすじ

接触


……もう、いいや

 この世界は人の本性に満ち満ちている。

 本性とは、悪である。

 矢矧ユウジがそれを知ったのは、14の時である。

 セカンドインパクト。

 世界の終わり。あるいは創生。

 どちらにせよ、人類に劇的な死をもたらしたのは間違いなかった。

 まず、死という概念への理解度……死の認知ラインが大幅に低くなった。人はあまりに簡単に死ぬことを知った。

 物で何度か身体を殴りつけられるだけで。

 指で摘めるほどの小さな鉄の塊に撃ち抜かれるだけで。

 数日食事をしないだけで。

 心の安寧が破壊されるだけで。

 セカンドインパクト以前は、死というものをよく知らなかった。

 せいぜい交通事故だったり、病気だったり、老衰で死ぬものとばかり思っていた。

 人間は食物ピラミッドにおける頂点であり、超越者だ。だから、死は身近に存在しないとばかり思っていた。

 地球の地軸が傾き、大津波が起きた。

 世界は大混乱に襲われ、それは日本も例外ではなかった。

 津波で父を失った。

 母と命からがら生き延びたが、財産もすべて失ったふたりに明日を生きる希望を見いだせなかった。水没しかけていたコンビニから食べられそうな食料をたくさん見つけた時は、喜びではなく失意のどん底に落ちた気分だった。

 自衛隊による救援活動なんて来るはずがなかった。助けを求めているのは日本中の国民たち全員だ。圧倒的に人員と物資が足りない。

 矢矧と母は食料というアドバンテージを利用して、廃屋に引きこもりながら数週間ほど生活していた。

 矢矧は母に訊いた。

 

「これからどうなるの母さん?」

 

 母は言った。

 

「……何もわからない。でも、内陸の方はきっと津波の影響を受けてないだろうから、そっちに行ったら何かあるかも」

 

 母の携帯は水没し、使い物にならなくなっていた。

 公衆電話は当然水没。なんとか使えるらしいものには人々が長蛇の列を為していて、一日待っても順番は回ってこなかっただろう。

 人は心の余裕が無くなると、荒んだ行動に出ることを矢矧は学んだ。

 復興の兆しはなく、そもそも救援すら誰一人としてこない。瓦礫の撤去すらほぼ手がつけられておらず、時々流されていた死体を見つけた。

 死後、時間が立ちすぎていたせいかぶくぶくと身体が膨らんでいた。やや紫に近い白色になっていて、腐臭が漂う。

 矢矧は鼻を押さえ、無視し、その場から走り去った。

 人々は一向に来ない救援と、底をつきかけてきた食料。それとすり減る心のせいで、一触即発の二、三歩手前まできていた。

 明らかに皆が飢え始めているのは目に見えてわかる。内陸へと移動していった人数を鑑みても、とてもこの一帯にいる人々の腹は満たせない。

 結論は、暴力だった。

 略奪である。

 殴り、奪う。

 己の生存をかけた、理性をぎりぎりで維持した本能的行動だ。明らかに災害による死体ではないものがたまに転がっているのを見るようになった。

 時には巧妙に口先で騙す者もいた。

 まだ聡くない矢矧には、人を騙すような話術はなかった。

 人の醜さを知ったのはその次の日のことだった。

 どこからか、噂が飛んできた。

 

『疫病が流行っている』

 

 そんな荒唐無稽なデマをすんなり信じ込んでしまうほど、人々の心に余裕はなくなっていた。

 いつも通り、食料調達から帰ってきた矢矧は不安げに言った。

 ちなみに成果は中身の残っている缶詰ふたつだ。

 

「お母さん、どうしよう。なんかここの皆、変」

 

 返事はなかった。

 そこにあったのは、少し前までは生きていたであろう肉塊だった。

 顔は三倍ほどにまで膨れ上がり、手足はあらぬ方向に曲がっている。辺りには血に濡れた鉄棒などが散乱していた。

 残り僅かだった食料はすべて奪われている。

 ……ああ、そうか。

 シンプルに。落ち着いて、すべてを理解する。

 ただの、略奪の末の撲殺である。

 矢矧は子供だった。だから状況を理解して、冷たくなった肉塊を抱きかかえた時に、感情が決壊した。

 その時から矢矧の生死観は一変した。

 生きるためには、誰かを殺す必要が生じる場合がある、と。

 死とはあっけないもので、実は身近にある。

 人間がこれまで積み上げてきた文明と理性の在り方に亀裂が走れば、その向こう側で死はこちらを見つめている。

 母を小さな丘に埋めた。墓石はない。

 これまでのたくさんの感謝と、これまでの自分を一緒に埋めた。

 ──生きる。

 それだけが、矢矧の全てとなった。

 セカンドインパクトによる混乱は日本だけでなく、世界にも広がっていることをラジオで知った。混乱によって紛争が起こっていることも知った。

 セカンドインパクトから約一週間後にその紛争に巻き込まれて東京に新型爆弾が落とされ、およそ50万人が死亡したとか。

 東京はの復興は事実上の断念。長野県松本市に首都を移す計画が進められている。

 半年が経ち、矢矧はある程度利口になった。

 2、3年で遷都が完了するとされている長野県に移動するかどうか悩んだが、矢矧にはそこまで長距離を移動する手段がなかった。

 長野県に行けば、もしかすると食い扶持を見つけられるかもしれないと見積もっていたが、そう考える人たちが大勢いるはずだ。

 そうなると雇用は溢れ、長野県松本市周辺はスラム街に似たようなものになるのではないかと推測を立てた。

 きっとそこは人間というヘドロの溜まったゴミ箱になるだろう。

 そこで生き抜く自信はまだ矢矧にはまだなかった。

 だが遷都が完了した際には、確固たる地盤を築くために移動するべきであることは頭の片隅にある。

 子供たちには、この厳しい時代を生きるのにあまりに非力だった。これまでぬくぬくと温室で育ってきた子供が、あっさり人間が死ぬようになった世界で生き抜くのは非常に困難を極める。

 だが、救いの手はあった。

 ようやく国から救助がやってきたのだ。

 とはいっても実際は身寄りのない子供の保護活動を主とし、それ以外の活動としては、復興などはせず、本当に最低限の食料提供のみだった。

 もちろん矢矧は舞い上がるような気分で保護されに行った。

 母にはきちんと別れを告げた。

 この日まで矢矧が何をして生存していたのかというと、人を騙し抜くことで食料や情報を得ていた。

 冷静さを欠いた者から死んでいくのが今の世の中。

 母の死という極限状態を経て、矢矧は自分の心というものを完全にではないが、そのほとんどを掌握した。

 心とはようは固体、液体、気体のようにそれぞれの形を取る物質である。

 感情の揺れ幅によって熱を帯び、形状を変化させる。人の心は基本は液体の状態だ。冷やすことができるし、熱することもできる。

 冷やせば鋼のような不動となり、熱すればどこまでも発散して収まりが効かなくなる。

 そう、矢矧は心を定義した。

 ゆえに、人間性を失った獣たちの心はすでに発散しているのだ。液体に戻るのには、その感情の熱をどうにかして冷やさなければならない。普通は冷やせるが、彼らの置かれている状況では簡単ではない。

 つまり、矢矧の心は母が殺された時点で気体だったが、心を掌握することでほとんど固体になることができた。

 矢矧を含め、保護された子どもたちは施設に預けられた。誰かが引き取ってくれるまではここで過ごすことになるという。

 しかし現実はそう甘くなかった。

 まず、食料がない。冷静に考えれば当然で、毎日配給されるのはひもじさに震えるような量ばかりだった。

 肉なんてあるはずもなく、時々昼食すらないことがあった。子供たちは無償で施設から食料を恵んでもらっているのではなく、それなりに──施設の清掃や、地域の復興支援の手伝いなど──労働をすることで、その対価として恵んでもらっている。

 それでも育ち盛りの子供たちにはあまりにも少なく、日に日に痩せ細っていく子が目に見えて増えていった。

 人が集まると自然とコミュニティが形成され、そのから社会が生み出される。とはいえごっこ遊びに過ぎないが、『社会』であることは間違いない。

 おおよその年代によって層がわかれ、その層ごとにヒエラルキーが自然発生する。

 このヒエラルキーによる恩恵は何かというと、『配給物の再配給』にある。強い者はより多くの配給をコミュニティ内で再配給され、弱い者は理不尽に搾取される。

 矢矧はどちらでもない、『ただそこにいる無関心者』としての地位を確立している。

 この事態を大人たちは認知していない。というより認知できるほど大人たちは矢矧たちを見ていない。これもまた誤りで、そもそも人材が絶望的に足りていない。

 施設にいる子供は約50人ほど。それに対して大人は知る限りでは3人しかいない。

 どう考えてもキャパシティーオーバーなのだ。

 彼らの子どもたちへの態度は不快ではないし、優しく接してくれているのはわかる。だがそんなものでは満たされない。

 優しさだけで世界が救えるのならとっくの昔に救われている。

 人間のエゴや本性、醜さといった様々な要素が複雑に絡み合うことで世界は運営されているのだ。

 だから、大人たちは『優しい』だけの、何もできない人だった。

 いつの日か、戦場カメラマンが貧しい地域で、今にも餓死しそうな少女をハゲワシがまだかまだかと近くで待ちわびている写真を見たことがある。

 あそこまで酷いとまでは流石にいかないが、あれの三歩ほど手前の状態になっている子がちらほら散見するようになった。

 加減のわからないコミュニティの強者たちは、依然としてこれまでの体制を維持し続ける。

 学級崩壊に近い状態。近いうちに限界が来ているのは目に見えていた。

 ある日の真夜中、妙な声が微かに聞こえて目が覚めた。

 与えられている三人部屋はやや狭く、寝るスペースも狭い。これでどうやって冬を越すのだと愚痴りながら部屋を抜け出し、声のする方へと落ちそうな瞼を擦りながらゆっくりと歩く。

 そこはある女子部屋だった。ドアは少しだけ開いていて、そこから光が漏れている。

 声といってもただの談笑などではなかった。

 悲鳴に似た嬌声。

 矢矧は忍び足でドアに接近し、隙間から中を覗いた。

 部屋の中にいたのは、三人の女子。裸にされ、後ろ手に縛られ、布を口に噛ませられている。

 そして、三人の男子。

 確かあの男子たちはヒエラルキーの上位者。その中でも身体の大きめな横暴な奴らだったはず。

 男子たちは女子たちに多い被さり、己の肉欲を欲望のままにぶちまける。

 荒い呼吸。くぐもった悲鳴。しだいに溶けていく嬌声。こちらにまで感じられる、甘ったるい臭いのする、生暖かい空気。

 ──助けよう。

 という気にはならなかった。

 もし今飛び込んだところで彼らに力で敵うことはない。たとえなんとかできたとしても、それに対する対価はないといっていい。

 正義の味方を気取りたいわけではないからこうして矢矧は自身も性的興奮を覚えながら盗み見ている。

 リズミカルに聞こえる、肉と肉が接触する音。快楽に震える、獣のような声。女の喘ぎ。

 ぶるりと大きく身体を震わせ、雌の中で白い爆発をさせる雄の姿を、矢矧は目に焼き付けた。

 くたり、と細い雌の身体の力が抜ける。

 夜はまだ長い。

 理性で本能を黙らせた矢矧は、誰にも悟られずにその場を去る。

 

「ドアに鍵をつけるよう、提案くらいはしておくか」

 

 それがせいぜい矢矧にしてやれることだった。

 とはいえこの施設の秩序の崩壊は想像以上に進んでいる。

 何らかの手を打たなければ自分の生死に影響が及ぶと判断したところで、動くことを決意した。

 大人たちに対して待遇を良くするよう訴えても、間違いなく改善はされない。

 だからこそ、こちら側で決定的な変化を起こせばいい。

 矢矧が目をつけたのは、ひとりの少年だ。

 ケロッとしている好少年。臨機応変な対処は及第点に到達していないが、それでも子供たちの中では非常に高い方だ。

 不安を煽るように、静かに耳打ちした。

 

「ここはもう駄目だ。近いうちに誰かが死ぬ。こんな場所にはいたくないだろう。ずっとここにいてどうする? いつまでここにいる? 本当に俺たちを預かってくれる大人なんて現れるのか? そもそも俺達はそれまで生きていられるか? ……大人にばかり頼っていてはダメだ。自分たちだけの力で生き抜くことこそが今必要なことで、将来の道も広がるはず」

 

 少年は真面目な顔をして数十秒ほど考えてから口を開いた。

 

「ぶっちゃけ俺もここを抜けるべきだと思ってる。でもその先どうしたらいいのさ。俺たちは子供で、ただでさえ荒れた世の中を大人の加護なしに生き抜けるとは思えないよ」

 

「住処を得て、食料調達さえ安定すればそれは解決するよな?」

 

「それはそうだけど……たぶん住処の方は何とかなる」

 

 とはいえ住処は早急に探さなければならない。

 すでに秋を迎え、冬が近づいてきている。

 春とかならばまだ良かった。その場しのぎの野宿でもやり過ごせる。だが冬はダメだ。明らかに夜を乗り越えられない。

 暖を取れる場所をきちんと設けないと、凍死の危険性がある。

 しかし矢矧が提案するより前からすでに計画していたのか、少年は目星はつけているという。

 矢矧の目に狂いはなかった。

 きっとこの少年は、将来はできる男になるだろう。

 

「でも食料だけは難しい。このご時世、スーパーとかで売ってなんていないだろうからどこかから盗むしかない……」

 

 一番の問題はそれだ。

 盗むといっても、これは紛うことなき犯罪。今の日本で法律がしっかり機能しているかは怪しいが、それでもこれまで生きてきた上での常識は備わっている。

 だからこそ、受け入れることが難しい。

 その踏み出せない一歩を、矢矧が背中を押すことで進めさせるのだ。

 

「君、弟がいるんだろう? 君の弟はどちらかというとヒエラルキーの下だ。今後もこのままの生活で生き延びられるかははっきり言うと難しい。知ってるか? 俺たちがいつも復興支援している時に、時々見るようになった軍人たちがいるだろう。どうやら近くに基地があるらしいぜ。ということは……そういうことだ」

 

 何を言っているのか理解したのだろう、少年は目に見えて表情を歪めた。

 

「ダメだ。ダメだ。それはダメだ。そんなところに盗みになんて入れるわけがない。入ったことがバレてみろ、その場で銃殺されてもおかしくない」

 

「じゃあここで惨めに死ぬか? ひもじい思いをしながら強い奴らの言いなりになって、腹を空かせて餓死するんだ。……ああ、でも先に死ぬのは君ではなく弟のほうだろうけどね」

 

「────」

 

 少年は憤怒の視線を向けてくる。

 だが手は出さない。現状がどれだけ悪いのかはよく理解できているからだ。

 グッと握られた拳の力は徐々になくなり、やがてすとんと腕を下ろす。

 矢矧はその様子の一部始終を見つめた後に再度、念を押すように強く言った。

 

「これは命に関わる話だよ。どうする? 外で盗みをするようになれば、いつか殺されるときが来るかもしれない。でもそれを考慮したとしても未来への道が開ける可能性は段違いだ」

 

「言いたいことはわかった。……納得も理解もしたけど、賛同はできない」

 

「それはどうして?」

 

「……あんたはどうするんだよ。まるでここに残るような口ぶりじゃないか」

 

「そうだよ。ここに残って無気力にだらだら生き抜くんだ。上の奴らに搾取されつつも、慎ましく平和にね」

 

 少年には仲間がある程度いる。

 もし施設を抜けるならその子達と一緒になるとみた。ならばその分の人数が浮く。すぐさま大人からの配給量は人数に合わせて減るだろうが、それまではヒエラルキー上位層に総取りされる。だからといってこちら側にまったく回ってこないことはないだろう。

 一時的な満足感を得るために、口実を与えて施設から追い出そうとしている。

 そう、少年は矢矧に対して思ったはずだ。

 ふたりの仲は良くも悪くもない。互いに『なんとも思っていない』。だからこそ深入りする必要はない。するのもされるのも、不快なだけだから。

 たっぷり三分ほど考え込んだ後、少年は長い長いため息を吐きながら答えた。

 

「はあああああ…………。わかったよ。君の言葉に乗っかってやるよ」

 

 間違いなく人生のターニングポイントになるだろう決断。

 それに、人の感情を刺激することで操作する。

 この快感を少なからず矢矧は感じていた。

 とにかく第一段階は突破した。

 結論を出した少年の行動は想像以上に早く、三日後の深夜にこっそり施設を抜け出していくのを見た。

 特に通報はしなかった。

 翌朝これをいち早く察知し、癇癪を起こしたのは上の奴らだった。

 下に見ているとはいえ大切な搾取対象だ。約十人程が消えたとなると、察するにあまりある。

 奴らは頭が悪いだけでなく、弱い。

 思考レベルが小学生低学年のそれだ。思い通りにならなければ怒りを露わにし、その瞬間の感情で動きがちである。

 だから、行動を誘導するのはとても容易だった。

 ただ奴らに教えてやったのだ。

 

『──ここが嫌だから逃げたそうですよ。食料は軍倉庫から盗むことを視野に入れているっぽいので、あまり遠くに構えてはいないと思います。もし連れ戻すならなるべく早いほうがいいです』

 

 矢矧の言葉を鵜呑みにし、次の日には奴らは皆消えた。こき使うための彼らを逃してしたくないといった程度の小さい思惑からだ。

 単純な労働力としての彼らは貴重だ。復興作業のしわ寄せと、捜索に行く面倒を天秤にかけて前者に傾いたのだろう。

 第二段階完了。

 すべて計画通りだ。

 人は激情に駆られた時、目の前にレールを敷いてやるとその通りに疑いなく進もうとする習性がある。

 矢矧はこの施設で過ごした日々でたくさんのことを学んだ。

 人の心は思ったよりつけ入りやすい。バカは特にやりやすい。繊細な奴はつけ入るのに少々手間がかかるが、堕ちれば依存に似た状態にすることもできる。

 日本人は比較的奥手な人間ばかりだ。だからこそ、矢矧の方から話を振って場を制する練習にはあまりに最適すぎた。

 矢矧の口車に乗って施設を出ていった奴らはどれだけ経っても戻ってこない。戻ってこないということは、死んだか、新たな生き方を見つけたかのどちらかだ。

 だがそんなことはどうでもいい。

 時代は加速度的に進み、もう治らないものはあるものの、抉られた地球の傷が癒えてきた。それによって人々の本性は落ち着きを取り戻し、人間性のある社会を取り戻しつつある。

 矢矧も上京し、大人になり、今に至る。

 ──なぜメディア業界への就職を希望したのか。

 知っている。ネットでメディア業界が好き勝手に叩かれていることを知っている。

 世間の注目を寄せるためにあることないことを記事にし、混乱を巻き起こしていることを。

 だがこれも競争のひとつだ。『つまらない』『普通』の記事では人々の目に止まらない。一発で理解し、かつ面白そうなタイトルでなければそもそもスルーされるご時世だ。

 多少色を付けてでも閲覧数を稼ぎたい──。そう考えているのだろう。

 だから尾ひれをつけるのだ。大きく水をかくことのできる尾ひれを。なんなら魚の見た目すら捏造する。

 そんなことをするから、マスゴミなどとよく揶揄されるのだ。

 矢矧はそんな陰湿で小癪なマスコミたちとは違う。

 正しい事実を広め、正しく人々の『正義』を煽る。

 ゆえにこそ矢矧が糾弾されることはない。

 人の『悪』を見るために、『正義』の対象となる悪を舞台に引っ張り出す。

 言わば劇場。

 いつしか矢矧は、劇場で繰り広げられる醜い惨劇が観たいだけの異常者になってしまっていたのかもしれない。

 自覚はある。しかし突き進む。

 それもまた、矢矧ユウジという人間の本性なのだから。

 

 ◆

 

 ──当たりだ。

 矢矧は溢れ出る貪欲な笑みを抑えるのに精一杯だった。

 目の前の少女は焦点の合わない目で激しく狼狽をし始め、手で胸を押さえ、掠れるような……苦しそうな呼吸へと推移する。

「ぁ……ぁ……」と弱々しく漏れる声は恐怖からか。

 なるほど、嘘はあまりつけない性格のようだ。

 気の毒に。

 車椅子の速度で矢矧からは逃げられない。

 叫ぶという手もあるだろう。しかしここでは効果はない。なぜならこの狭い両壁の向こう側に視認できる家は空き家であることは事前に調査済みだからだ。

 しかし少女は叫んで助けを呼ぶという思考にすらたどり着けていない。それほど極度の緊張状態に陥っている。

 震える指で胸元のポケットからスマホを取り出そうとする。きっとスマホを使った何らかの手段で助けを呼ぶという考えには至れたようだ。だが残念ながら手を滑らせて地面に落としてしまう。

 矢矧はそれを丁寧に拾って少女に返した。

 

「自分のものは大切にしましょうね」

 

「……っ、……」

 

「助けを呼ぼうと考えているのでしょうけど、無駄ですよ。すぐに護衛が来ることはありませんから」

 

「────、ぇ?」

 

 ここでようやく少女……碇カノンが顔を上げる。

 目と目が交差する。

 優しげでつぶらな瞳はまるで煌めくサファイアのよう。ちょこん、と丸みのあるあどけない容姿は、世間一般では美少女と呼べるものだろう。

 普通の男ならば情欲の1つや2つは抱くことは避けられない。

 このような娘が決戦兵器に乗って世界を救うために戦っている……? どこかの漫画かアニメの話か?

 信じられない。が、これが真実であり、残酷な現実だ。

 そして矢矧も残酷な現実を突きつける人間の一人となるのだ。

 少女に常に張り付いている護衛は三人である。業界人の目を舐めてもらっては困る。さり気ない仕草に見え隠れするプロの所作。それに気づけないようでは話にならない。

 結局のところ、少女に護衛がいるという事実こそが黒である何よりの証拠。そして本人も嘘をつけないのであれば、もうこれは確定だ。

 確かにネルフの保安部の教育は徹底されているだろう。

 だがエヴァパイロットに対する秘密保護の教育を怠っているのが見え見えだ。

 三人はすでに矢矧の仲間たちによってロックオンしている。

 つまり、護衛が来ないと言ったのは嘘。もし護衛を少女が呼んだ瞬間、仲間たちが彼らをあらゆる手段で足止めしてくれる。とはいっても相手はプロだ。せいぜい頑張って二、三分ほどだろう。

 それだけの時間があればこの場から即離脱することは容易だ。

 少女は矢矧の嘘にまんまと騙されている。どうやら嘘をつきにくいだけでなく、人を疑わなさすぎるようだ。

 なんと、なんと気の毒なのだろうか。

 

「碇さんはいつからエヴァに乗り始めたのですか? やっぱり初めての敵がやって来てからですか? それともずっと前からエヴァに乗るために、どこかで訓練などをしていましたか?」

 

 初めから少し飛ばしすぎてしまった。

 だが貴重な直撃インタビューだ、一秒とて惜しい。可能な限り情報を引き出さなければならない。

 少女はぎゅっと口を結び、沈黙を選ぶ。流石に容易には情報を開示しないようだ。

 だが心情はおおよそ量れた。あとはそれに対応した手段で切り崩すだけだ。

 この手の場合、脅せば一発。

 優しい心につけ込んだ悪意をぶつければ容易く壊れてくれる。

 見える。

 見える。

 少女の心は消えそうなほど小さい。熱され、矢矧が手を加えるまでもなくいつか勝手に自滅する。

 ここ最近で心を悪い方向に強く突き動かされるようなことがあったのだろう。

 今度こそ、矢矧はほくそ笑んだ。

 

「少し顔色が……心の形が良くないようですね。もしかしてここ最近で嫌なことでもありましたか?」

 

「ない、です……! そんなのはない……です」

 

 初めて反応してくれた質問への回答は、反抗的な態度だった。

 だがその口ぶりとは裏腹に、表情が目に見えて陰るのを矢矧は見逃さなかった。

 

「それは車椅子生活になったことですか?」

 

「……違います」

 

「それは嘘ですよね? おそらく碇さんは先日松代での爆発事故の対応にあたったはずです。その結果がその脚なのでは?」

 

 反射的に何かを返そうと口を開きかけるが、わなわなと唇を震わせるだけで音は発せられなかった。

 てっきり車椅子生活になってしまったことが原因だと踏んでいたが、どうやら違うと見るべきか。

 少し違う質問に切り替えたほうがいいと判断。

 

「そもそもエヴァンゲリオンとはなんですか? 戦闘が日本のこの都市でのみ必ず発生する理由なども、もしご存知でしたら教えていただきたいです」

 

 核心に触れる質問。

 ネルフが絶対に公開しない機密の機密。

 実際に戦いに身を投じるパイロットだからこそ知る情報がないかという探り。

 

「…………」

 

 沈黙を貫かれる。

 まあそうなるだろうと矢矧は知っていた。

 緊張。恐怖。不安。

 まだ子供だ。

 こんな狭い場所で、大人から高圧的に質問されたら黙りこくってしまうのも仕方ないのかもしれない。

 だからといってそれを良しとする気は毛頭ない。なぜならこの目の前のいたいけな少女は、情報の宝物庫なのだから。

 喉から手が出るほど有益な情報をこれでもかと知っているに違いない。

 なんとしてでも引き出さなければならないのだ。

 とはいえ長時間インタビューをすることはできない。護衛たちも付近にいるだけで、まったく目視で確認しに来ないなんてことはないのだから。いつ仲間からアラートが飛んでくるかわからない。

 所詮は同じ人間だ、驕ってしまっている部分があるのだろう。

 執念を燃やすほどの執着でエヴァパイロットを特定し、突撃してくるような奴なんていないだろう、と。

 だからこうして矢矧は少女に接触できたのだ。

 ガチン、と意識を切り替える。

 少し怖そうな人から、論理的に、かつ現実を突きつける正義の味方となる。

 ……さっさと鍵を壊して、心を灼いて、宝を頂こう。

 矢矧は大きくため息を吐いた。

 予想外の出方だったのか、少女はびくびくと怯えを見せた。

 

「……碇さんは私の質問に答える義務があると思ってるんですよ。そうやっていつまで経っても黙っていられたら、私も少しはイラッとします」

 

「義、務……?」

 

「はい、義務です。この街に住む人々は確かにネルフの庇護下にあると言っていいでしょう。そして街を……世界を守るのがネルフの使命。なら、どんな脅威を、どのような手段で迎撃しているかを公表するべきなのです。でないと市民は安心できません。本当は戦闘なんて起こっていなくて、市民を全員地下シェルターに追いやってから地上で実験を行っているのではという疑惑も少なくともあります」

 

 特務機関ネルフは超法規組織。

 絶対的な権限を数多く有しているとはいえ、都市に強く根付いた組織である。ゆえに、そこに住む市民たちの理解を得る必要性が少なからず発生する。

 

「そんな……っ! 戦ってます! 私たちは命懸けで戦ってます! だからそんな風に言わないでください!!」

 

 そうだろう。怒りは最もだ。

 そんな身体になってまで戦っているのに、まったくの部外者からそのような疑惑を持たれていることに怒りを覚えないはずがない。

 

「だから教えて下さいよ。本当に命がけの戦闘が繰り広げられているのなら、その証拠を」

 

「────っ」

 

 いい。いい。

 感情はいい感じに刺激できている。

 このまま激昂させ、ぽろりと情報を零せ。

 

「──碇さんはきっと、世界を救うため、もしくはみんなの命を守るためなどといった崇高な理由で戦っているかもしれませんが、本当に『それだけ』なのですよ。今の碇さんの態度から思うのは」

 

「『それだけ』って……どういうことですか」

 

「もしかして気づいていらっしゃらない? 確かに碇さんが戦ってくださっているおかげで私たちは生き残れているのでしょう。ですがそれだけ。戦闘による住宅や施設の破壊などによってみんなの帰る場所、あるいは職を失う人は後を絶ちません。そのあたりも配慮されていますか?」

 

「────────、ぁ」

 

 クリティカルを確認。

 ヒーローものの創作はいつもそうだ。

 人々を魅了して止まないヒーローが、絶対的な悪を倒してハッピーエンド。戦いによって破壊され尽くした土地に対するアフターフォローはなし。そこで生きていた人々には知らんぷり。

 これが現実だ。物語に登場することすら許されない一般人たちのことは有象無象に過ぎない。

 

「街の修繕費はどこから出ますか? 家や職を失った人々への支援金、あるいは保険金は? すべて日本政府? ネルフ? それとも別の組織から? どちらにせよ碇さんは皆さんの未来を潰しているんです。その自覚はありますか?」

 

「それ、は──」

 

「なかった、なんて言わせませんよ。……きっと多くの人は碇さんに感謝しています。世界を守ってくれてありがとうと。でもそれは自分の居場所を壊されなかった人たちしか言いません。憎しみというのは人の本性に区分される内のひとつです。その感情は人を豹変させます。現実は善意に溢れているかもしれませんが、ほんの少しの超高密度な悪意も混じっています」

 

「私は戦うのに必死で……だからっ、そこまで考えられなかった……です」

 

 消え入りそうな小さな声。

 心の臓に拳は突き入れられた。あとは指先でそっと熱く脈打つそれを撫で、その後に爪を立て、低く、低く、ゆっくりと呟く。

 

「皆には知る権利があります。私は代弁者。ネルフは一体何をしているのか。少しでもいいから知りたいのです」

 

 すでに少女の目は真っ赤に腫れ上がり、大粒の涙をぽろぽろと流している。

 十分に心を痛めつけた。あとは少しだけ癒やしてやるのだ。

 ……矢矧が望む心の形へと。そうすれば、それを土台として勝手に自己修復してくれる。

 ズボンのポケットからハンカチを差し出し、少女の目元をそっと拭ってやる。

 

「世界を背負って戦うなんて辛いでしょう? そんな脚になってまで戦うなんて、どうして中学生の、それも君のような可愛くて優しそうな女の子が」

 

「私なんて……」

 

 憂うように心の傷にそっと潜り込む。

 

「自分を卑下なんてしなくていいですよ。さあ、辛いことは全部吐き出してしまいましょう。そうでないと壊れてしまいますから」

 

 ほろ苦くて、優しい劇毒を流し込む。

 ようはアメとムチだ。アメは毒だが。

 さあ吐け。吐け。吐け!

 知ってることを洗いざらい吐け!

 その情報こそが、矢矧の知りたいもの。流布すれば、皆の『正義』の処罰対象になるのだ。

 人の本性は悪である。

 民意という歪んだ絶対的な善によってすべては決められ、運営されていく。

 ゆえに間違い(・・・)はひとつもない。

 何もかもが正しい(・・・)世界。

 素晴らしい。面白い。

 ()は排斥され、より正しさの純度の高い世界が築き上げられるのだ。

 

「…………辛い、です。皆も私も傷ついていくのが。でもどうしても……それは、避けられなく、て。だからっ、余計に……辛い……です」

 

 顔をぐずぐずにしながら心情を吐露する姿は、多少なりとも矢矧の心に響いた。

 弱々しい声は、どれだけ苦しい目にあってきたかを痛切に語っていた。

 どのような想いを抱いてエヴァに乗っているかなんて、矢矧にとってはもはやどうでもいい。脳みその足りない弱者たちの一時的な娯楽になれば、それだけでいいのだ。

 とはいえ美少女が苦しんでいるという構図は世間的にも美味しい。

 嗚咽を含んだ憐れな美少女は細切れに言の葉を紡ぐ。

 

「でも、私が皆の未来を奪ってるのなら……でも、どうしたら許してもらえるかわからない……っ。私、そんなにお金なんて持ってないから、全然足りない……」

 

 愚直な償い方を口にする。

 そんなもので償えるはずもないが、子供らしいと言えば子供らしい。

 しかしながら返事はすべて矢矧のほしいものではない。内心で舌打ちをしてさり気なく話題をすり替える。

 

「敵はどんな攻撃をしてくるのですか? 他に形や大きさなどは」

 

「それは……だ、だめです。守秘義務って言われてるので」

 

 詰めが少し早かったか。

 もっと言葉で責めて責め抜いて、心を還付なきまでに砕いてから訊いたほうがよかった。

 しかしそんなに時間はかけられない。人のいない狭い道であるとはいえ、護衛の目がある。

 誘拐……は明確な犯罪になるからできないが、もし護衛を完全に欺けられるのなら誘拐も視野にあった。

 車椅子を蹴り飛ばして立ち上がれずに地面に蹲っているところを、口を塞ぎつつ腕を掴んで強引に車内に引きずり込んでやればいい。

 障害のある身体では満足に抵抗すらできないはずだから楽勝だ。

 拷問の技術や道具は流石にないからしないが、それでも責めの方法はいくらでもある。

 ネルフのトップである碇ゲンドウの娘だ、そこらへんのネルフ職員程度では知り得ない貴重な情報を持っているはず。

 ……やはり惜しい。

 日を改めて本格的に誘拐の準備をするか? 否、この出来事は少女から直接ネルフに伝えられ、警備は現状になる。そうなってしまうと、誘拐なんて夢のまた夢。

 ──今、やってしまうか?

 そんな運命の決断をしようかと思考を始めたその瞬間、スマホのバイブレーションが急速にその熱を冷ました。

 これは事前に仲間内で取り決めている合図だ。

 何らかの理由で護衛がここに接近してきているという合図。

 ここで勿体ぶってインタビューを続けるわけにはいかない。

 あと少し。もう少しで心を完全に砕き、氷に閉じられた甘い甘い蜜を浴びるように啜れたというのに。

 えづきながら激しく泣きじゃくる少女に背を向け、矢矧は早急にその場を離脱する。

 メインの収穫である、『碇カノンがエヴァパイロットである』という確証は得られた。それとどのような精神状態であるかも凡そ知ることができた。

 まあ、メディアとしての娯楽になるだろう。

 切り忘れていたボイスレコーダーの録音を切る。早歩きで人通りの少ない道から抜け、人ごみに溶けるように紛れる。まるで何事もなかったかのような軽快な足取りは、ついさっきまで少女に強く言葉責めをしていたとはとても思えない。

 しかし矢矧はつい、今更ながらあることに気づいた。

 ……エヴァパイロットの心を傷つけたら、それが原因で世界が終わるかもしれないな、と。

 

 ◆

 

 あれからのことはよく覚えていない。

 知らない人が歩み寄ってきて、私の顔を見た途端血相を変えて誰かに連絡を取っていたと思う。

 それから間もなく大勢の大人の人に囲まれて、厳重に護衛されながらネルフへと連れて行かれた。

 そして専用の個室に割り当てられた。

 何も考えられなくなって頭が真っ白になった私は、言われるがままに進んだり、話したりした。

 この状態の私なら、誰でも簡単に騙して危害を加えられそうだったと後からミサトさんに言われた。

 振り返れば、満足に人の顔すら見ず、頭上から降り注がれる言葉をすべて忠実に受け取っていた。

 非常に危険な精神状態だったと認めざるを得ない。頭がぐちゃぐちゃになって、これまで頑張ってきた私が、指で触れるだけで崩れ落ちてしまうそうな感覚になっている。

 ……私がしてきたことは何だったのか。

 吐き気を催す虚無感。

 気怠げにだらりと身体の力を抜く。

 眩いLEDライトの照明は個室を余すことなく光を届けているが、私の心にまでは届かない。

 結局夕食も食べられていないからお腹も空いた。でもそんな気力がないから少しもお腹が空いていない。まるで心の傷を自分で食い荒らしているような気分だ。

 両手を目の上にあて、意味なくぎゅうう、と瞼を強く閉じる。鼻から深い呼吸を三回ほど繰り返し、内部電話で夕食の話をすることに決めて受話器に手を伸ばす。

 しばらくの間、この個室で待機するようミサトさんに命令された。お願いではなく命令だ。

 部屋はもともと使われていなかった空き部屋で、私用に急ぎで用意したのがわかる。

 非常に簡素な部屋で広さは4畳ほど。ベッド、テレビとあり、洗面台などはない。さらに車椅子を置くスペースも必要なため、動きにくい。

 とはいってもアパートの自分の部屋と比べると、体感でほんの少しは広い気がする。

 上官にあたるミサトさんの言葉となると首を横に振るわけにもいかず、渋々ながら待機命令を了承するしかなかった。

 ミサトさんもそこはわかっていたはずだ。もう少しで家の引っ越し、そして私がようやく中学に登校できるようになるまさにその時だったのだ。

 しかし今回の事件は、私がエヴァパイロットであるということが特定された極めて重大なもの。

 もちろん護衛たちの職務怠慢は大きな要因になる。降格、もうしくはクビにさせられるのかどうかは私にはわからない。そのあたりはきっとお父さんが判断するのだろう。

 わざわざ起き上がって車椅子に移るのが面倒だから、シンプルな見た目のベッドに寝転がってうだうだ思考を巡らせていた数時間。これに終止符を打つ。

 内部電話で食事をお願いして、もそもそと車椅子への乗り換えを完了させる。

 トイレを済ませ、もう一度ベッドに寝転がる。

 テレビを観れるほど私の心は落ち着いてなどいられなかった。

 あの男の人の言葉が、何度も何度も頭の中で反芻する。

 私が人の未来を奪っている?

 ……確かに。言われるまで気づかなかった。見向きもしなかった。あれだけ街を荒らしまわったくせに、知らんぷりで私だけ日常を謳歌していただなんて。なんて罰当たりな女だ。

 アスカと綾波さんとはそういった話題は一度もなかった。恐らく私と同じように気づいていないのか、あるいは割り切っているかのどちらかだろう。

 少なくとも私にはこの事実を受け止めきれない。

 ふたりのように、私は強くあることができない。

 間違いなく私は皆の居場所を壊している。だからといって、今度からはなるべく街を破壊しないようにしながら使徒と戦うことはできない。

 使徒の攻撃パターンすら戦闘開始時では把握できないのに、どうやって。そんな余裕なんてどこにもないのに。

 私たちネルフが負ければそれは世界の終わりを意味する。

 命は間違いなく救っている。

 でもこれ以上はどう頑張っても対応しきれない。

 

「……無理だよ」

 

 そんな小さな呟きは、外ではなく内に向けられたものでしかない。私自身の正当性を高めることしかできない。

 今後、どうエヴァパイロットとして前に進めばいいのかわからなくなってしまった。

 ミサトさんに相談したい。相談して、どう考えて向き合えばいいのかアドバイスが欲しい。

 お父さんは……ありかもしれないが、「使徒殲滅が最優先だ」とか言ってそれ以上話してくれなさそうだからパスだ。

 やはりミサトさんだ。私に真摯に寄り添ってくれる、大好きな人。

 だが今はまだ声をかけるタイミングではないだろう。指令所ではSNSや動画投稿サイトを主にMAGIでネットの監視に集中させている。

 ネルフの機密情報を暴露するには相当の覚悟がなければできない。そして、暴露する手段もネルフより一枚上手でなければならない。

 ネットは監視されているものという前提を置くならば、それ以外で最も効率よく情報を拡散させやすいテレビや雑誌が挙げられる。タレコミを防ぐにはメディアも目を光らせて掌握しておかなければならない。さらにはチラシなどといったアナログな方法も網羅しなければならない。

 情報漏洩を防ぐべく徹底した体制を敷いている。これならば世間に知られることはないだろうとミサトさんは諭すように私に言ってくれた。

 でも。

 それは嘘だと思ってしまう自分がいる。

 その事実を知る人間がいる以上、誰かが私がエヴァパイロットであることを知っているわけである。それで言うとクラスメイトたちも当てはまるが、ネルフという強力な背景のある私の秘密を外に明かす人はいないはずだ。

 だからこそ、あの男の人は危険すぎる。

 表に出ていないだけで、あの人の人脈を伝って情報が知れ渡っているとみていいかもしれない。

 情報戦に疎い私でもそれくらいのことはわかる。ネットにアップした情報が二度と消えないのと同じように、私の秘密も二度と消えない。むしろ密かに拡散していく。

 ……テレビ台の脇に置いていたスマホの通知音が鳴った。

 誰かからメッセージでも飛んできたのだろうか。

 下半身を支えながら寝返りを打つ要領で身体の向きを変え、懸命に手を伸ばしてスマホを手に取る。

 通知欄にはヒカリからのメッセージが表示されていた。

 その簡素な一文を見て、私の時間は止まった。

 

『今はあまりネットを見ないほうがいいと思うよ』

 

「────────」

 

 呼吸が停止する。

 全身の肌がきゅうう、と固くなって締まり、目の奥が急速に熱くなる。熱は一瞬にして全身にまで広がり、大量の汗が吹き出るような錯覚がした。

 目を見開き、静止する。

 指先が震え、喉奥に溜め込んだ空気につっかえる。

 既読にしたが、返事は返さなかった。返せなかった。

 ようやく再開した呼吸はあまりにぎこちなく、やり方を忘れ、貪るように口を開閉させて取り込む。

 喉が乾燥し、激しく咳き込む。咳き込みすぎて、胃液がこみ上げてくる。

 

「う、ぶ」

 

 身体を丸めながら自分の胸を強く叩き、酸味のある液体を強引に飲み込む。

 荒々しい呼吸には、気持ち悪い味があった。

 ──どうしようか。

 私はスマホをもう一度手に取り、ヒカリの忠告を無視するかどうかを思案する。

 普通なら素直に従うべきだ。無視してもいいことなんて何もない。

 嫌なものには蓋をして、前だけを見ればいい。後ろじゃなくて、前を見る。今後どうすればいいのかはミサトさんたちが考えてくれる。

 ほとぼりが冷めるまで、私はこうして静かにしていればいい。

 それで、いいのだ。

 

「…………本当に?」

 

 私の判断は絶対に間違っていない。

 蓋を開けたところで私が傷つくだけだ。自分から傷つきに行くのは馬鹿のすることだ。私はそこまで馬鹿ではない。

 だから何もしない。何も見ない。

 そこにあるのに、何も。

 苦しみや悲しみをこれ以上知りたくない。

 アスカはいなくなったし、私はこんな身体だし、主戦力は綾波さんしかいない。

 この状態で果たして次の使徒を迎え撃てるのだろうか。できたとしても、綾波さんのダメージが私のように決して無視できないものになる可能性は十分にある。

 傷つき、崩れ、壊れ、無くなる。

 そういう世界に私は足を踏み入れている。

 私は皆を守るために戦っている。

 私がエヴァパイロットであることを知り、どう考え、どう思っているのかを知ることも私の役割の一つではないのだろうか。

 これは間違った選択かもしれない。いや、間違った選択なのだろう。

 それでもそうせずにはいられない。

 ほんの少しの興味と、悪い意味での義務感と正義感に駆られ、私は適当なニュースサイトを開いた。

 上の方にやはり、それらしきニュースが上がっていた。

 タップして詳細を見る。

 どうやら飛び降り自殺未遂のホームレスが、私がエヴァパイロットであるというチラシを施設の屋上からばら撒いていたらしい。

 チラシ画像付きのコメントを見ると、車椅子に乗った私の顔写真がはっきりと写っている。目元を黒い横線で隠してはいるものの、線が細いし、隠しきれていない。

 そして人々の関心を煽るようなタイトル文。

 

『ロボットが本当に世界を救うのか!? パイロットの少女に直撃インタビュー!』

 

 ホームレスはお金で釣ったのだろう、やり口が汚い。しかしとても効果的だ。

 まず何らかの方法で人々の注意を引き、その後チラシをばら撒く。駅前のビラ配りのようなやり方では決して誰も見向きをしてくれない欠点を回避している。

 それに注意を引く手段が最もずる賢い。

 自殺という非日常を行おうとすることに関する興味でスマホを向けてしまう現代人の性。不謹慎であると頭の中でわかっていても、止めることができない。拡散されたそれをまた別の人が不謹慎と思いつつも、興味は寄せられてしまう。

 散々注意を引いた後、メインである機密情報の暴露。屋上からばら撒かれる大量のチラシは、聴衆たちへと降り注がれる。

 ネルフでもこれは防げない。

 今やすべてがデジタルな時代。誰でも情報を拡散することができる。私のような中学生でも。

 手元のスマホでその様子を撮影して、SNSにでも流せばいい。それを面白く感じた誰かが拡散を加速する。

 こうなってはもう歯止めが聞かない。

 情報発信者が大人数になってしまった今、ネルフはどう動いても悪い方向に転んでしまう。

 誰かが拡散した瞬間にMAGIによって強制的に削除された場合、『そういうことである』と自ら認めてしまうことになるからだ。

 これがまだメディアによる工作ならばまだカバーできた。質もしくは量で攻めてきても問題なく対処できた。しかし今となっては量の母数が段違いだ。

 知っているだけで情報発信しない者には手出しができない。

 だからもう、過去に逆行でもしない限りやり直せない。

 そしてニュースコメントや匿名掲示板を覗き──。

 

「………、え?」

 

 よく、わからない……文字の羅列を見た。

 

『こいつが俺たちの家をぶっ壊しまくってるってマ?』

『こないだの松代の爆発事故とかも関わってるんじゃね』

『でも車椅子ってことは大怪我をしたんじゃないの? 少しかわいそう』

『そりゃしゃーない。世界を救ってるんだから怪我のひとつやふたつくらい』

『ネルフが勝手に言ってるだけで、本当は第三新東京市でロボットの実験してるに一票』

『わいも一票』

『あーあ、この子は毎日温かい食事が食べられて、気持ちいい寝床で寝てるんだろうな。んで、お金もがっぽがっぽ』

『その金俺にくれメンス』

『いや復興に全部寄付しろよ』

『ネルフは真実を隠蔽している!』

『まあ元から胡散臭い組織だってのはずっと前から言われてた』

『碇カノンだっけ? ネルフトップである碇ゲンドウの娘じゃん。絶対なんかあるって』

『わい、家なくなって疎開民。絶対こいつ許さないマン』

『碇カノンをテレビとかに引きずり出せばなんか情報吐くんじゃね?』

『家特定。案の定それらしき警備員がめっちゃいる。やっぱ組織ってのはこういう手回しだけはエグいほど早いよな』

『ちょwおまwww仕事早杉www』

『晒すなよ? 絶対ここで晒すなよ? 晒したら多分消されるぞ?』

『フリかな?』

『まあ碇カノンがこの街めちゃめちゃにしてるのは間違いなさそうだから、本当に戦闘があったにせよ、使えねぇわな』

『確かに。もっとしっかりした奴にしろよ。こんな弱そうなひょろガキじゃなくて』

『でもなんかパイロットってのはどちゃシコな格好して乗るらしいし、一目見てみたいなぁ』

『マジか。この子がそんなやべー格好するんか? ……ネルフに転職するわ』

『誰かが流してくれることを期待』

『まあそういうお前ら向けの需要は結構ありそうだから、碇カノンが堕ちたらそういう√になりそうだな。おかず的な意味で』

 

 なんだ、これは……?

 私は突きつけられた現実を受け入れられなかった。

 唐突に目が悪くなったのではと強い願望を抱きながら目を擦ってみるも、ディスプレイに表示される心無いコメントは消えなかった。

 もちろん、全員から認められるなんて都合のいいことは考えていなかった。ある程度の批判も想定していた。

 だがこれはなんだ。

 これは、なんだ。

 私を批判……いや、馬鹿にして……いや、いや、それも違う。ただ『つまらない日常を盛り上げる、面白くなりそうなネタ』のように扱っている。

 まるで私を人間扱いしていないような、おぞましいコメントだった。どこか遠い世界の人間。自分とは関わりのない、だからこそ一方的に感情を投げつけられるネタ。

 ……人の本性を垣間見た気がした。

 こんなに。

 こんなに頑張ってきたというのに。

 皆を守るために。

 命を懸けて。

 二度と治らない障害を背負って。

 ゆっくり向き合うことすらできずに次の戦いに私自身を捧げて。

 爛れた心身に鞭を打つ。

 そうして今まで頑張ってきたのに。

 スマホを床に叩きつける。

 

「ぅ、あ、ああああああぁ……!」

 

 枕に顔を窒息しそうになるほど強く押し付け、喉が張り裂けんばかりの怒りと悲しみに叫んだ。

 こんな人たちのために、私は戦っていたのか。

 決して私はそういう目で見られたいからエヴァに乗ったのではない。

 皆を救いたいという、漠然だが明確な意思を持って戦っていたのだ。

 この人たちはきっと、アスカや綾波さんにも同じようなことを言うのだろう。

 それだけは絶対に許せない。ふたりは私なんかよりも前からエヴァに乗るために人生を費やしてきた、真の努力家である。

 その実績と成果に後ろ指を指すのは我慢できない。

 

「悔、しぃ……ッ」

 

 長い時間枕に顔を埋めているせいで、本当に窒息しかける。濡れた袖をさらに濡らし、私は叫びと嗚咽の混じった汚い声をあげ続ける。

 喉が灼けそうなほど熱い。

 この世界は優しい人たちに満ち満ちているとずっと思っていた。意地悪な伯父さん伯母さんや、以前の小中学校のクラスメイトたち。

 あのコミュニティから抜け出せば、暖かくて居心地のいい所に行けると信じていた。

 目の奥が溶けそうなほど熱い。

 でも実際は違って、より大きな、より悪質なコミュニティが大口を開けて私を待ち構えていた。

 私は知らなかっただけ。

 まだ真の悪意──『本性』に触れたことがなかっただけ。

 恐怖と、絶望と、悲哀に私の心が耐えられない。

 見えない何かに心臓が握りつぶされるような強烈な圧迫に伴う痛み。

 ぷつん、と切れてはいけない最後の一本が切れる。鋭い音が脳に響いた。

 脳の血管が潰れたような小爆発。どろりと広がる赤い痛みは私の割れた心を赤く彩る。

 

「ぁぁ……」

 

 身体に深く染みる、甘い甘い毒の蜜。

 純血は汚され、二度と戻らない。

 人の本性を知ってしまった、綺麗だったかもしれない哀れな私。

 儚い承認欲求すら全否定されたような気がして、より深みに堕ちる。

 皆のために命を懸ける理由がわからなくなる。

 私はいったい今まで、何をしていたのだろう。

 あんなに一生懸命に生きて、バカみたいだ。頑張ったら頑張った分だけ皆に認められるなんて甘すぎる希望なんて胸に抱いて。

 希望は悪意に無惨に貪り食われる。

 骨まで噛み砕くくせに、肉や皮は半端に残している。

 汚い。

 皆、汚い。

 そして私も、汚くなった。

 何もかも、わからなくなった。

 私の存在意義もわからなくなった。

 そうして私は色褪せた目で天井を見上げながら、微かに震える声で囁いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……もう、いいや」

 

 蒸発して、静かに舞い上がる心の塵を幻視した。




悪意に底はなく。
溺れた少女は這い上がれず。
罪なき人々は。
それを娯楽と言う。

それではまた次回!
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