それでも私は── 作:次作エヴァはきっと鬱エンド
メンタルブレイク
今回は6万字に迫る圧倒的文量なので2分割とさせていただきます。
色々と気合入ってますので。
そしていつか用意したいなーと思ってた設定画を置いておきます。
それぞれで脳内補完してくださいませ。
【挿絵表示】
目覚めは特に普通だった。
悪い夢などは見ていない。いっそ今が悪い夢であってほしいほどだ。
いつものアパートではない、ネルフに設けられている空き部屋で目覚めた私は、もう慣れた動作で腕を伸ばして下半身を動かして車椅子に移動する。
スマホは昨日、ミサトさん回収されてしまった。
私の手元にある私物は、あのS-DATのみ。
遅い夕食を運んできてくれたマヤさんが気力の失せた私に気づき、素早い連絡を聞きつけてミサトさんが飛んできた。
あの時ミサトさんに何を言われたのかは、ちょっとよく覚えていない。
ただただぼんやりと天井を眺めていた私の手を握って、許しを乞うように謝っていた……ような気がする。
それを私は横目でちらりと見て、なんて言ったのかを懸命に記憶を掘り起こそうとする。
「……嫌だ。やめよう」
思い出したくないことを思い出してしまうから、思考を強制的にカットしようと試みる。
しかしどうしてもかえしのついた棘が余計に深く刺さるだけだった。
ネットに触れてはいけないというミサトさんの判断は間違っていない。間違っていたのは私だ。
わざわざしなくていいことして自分で勝手に傷ついただけ。だから、ミサトさんがあそこまで痛切に頭を下げてまで私に謝る必要なんてないのだ。
知らないでいれば、悪意に犯されないで顔を上げられたかもしれなかった。
それらしい理由をその場ででっち上げ、間違いを犯し、自分を傷つけて周りに迷惑をかける。
「……何してるんだろ、私」
後悔と反省の念に押し潰されそうだ。
ふとテレビをつけようと電源を入れたが、なぜか無反応だった。
そしてすぐに気づく。
「ああ。そっか」
確かにこれも必要な処置だ。
無意識に強く握りしめていたリモコンを、元の位置に戻して壁にかけてある時間を確認する。
およそ8時。普段の私ならとても考えられないほど遅い時間。でもこれに次第に慣れていくのだろう。
朝食は申告制だ。内線で依頼を投げれば、しばらく待っていると職員が運んできてくれる。
食堂には行けない。
そう命じられているのではなく、私自身が食堂に行けない。車椅子だからという物理的な意味ではなく、人のいるところに顔を出すことが急に怖くなってしまったのだ。
皆は私のことをどう思っているのだろう。
視線に込められた心の声が気になって気になって仕方ない。知りたいけど知りたくない。その心が笑っていようと哀れんでいようと、極度に怯えてしまうことに変わりはない。
こういうのを、人間不信というのだろうか。
この部屋はある種の異界だ。
外界とのネットワークを完全に絶たれた孤島に監禁されているようなもの。私ははっきりと口にはしないが、きっと皆もそう思っている。
お父さんなんて、使徒が来たら私を呼んで戦わせ、終わったらこの部屋に押し込んでおけばいいとでも考えているはずだ。
お父さんは私を愛していない。だから世界を守る歯車としか見てくれていない。油をさすことすら他人に任せている。
パジャマから私服に着替えなければ。
用意されていた私服は私のものではない。きっと家には戻れないから別のものを用意したのだろう。新品独特の匂いは、少しだけ落ち込んでいた心を落ち着かせてくれた。
肩口にフリルのついた白いノースリーブシャツと、デニムのショートパンツ。
私の知らない領域だ。短いパンツ自体滅多に履かない私には些か挑戦的なチョイスである。
ミサトさんが選んだのだろうか。どちらにせよ着替える以外の選択肢はないから渋々と着替える。
備え付けのブザーが鳴る。
誰かが朝食を持って来てくれたらしい。
着替え終えた私はドアまで移動し、警戒しながら人を出迎えた。
「あ……おはようカノンちゃん。朝ごはん持ってきたよ」
「……マヤさん」
カートに朝食を乗せてやってきたマヤさんは私の警戒に気づいたのか、ニコリと微笑みを向けた。
いったいネルフの中で、さらにマヤさんに何を警戒していたのだ、私は。
すぐさま自然と滲ませていた警戒心を消し去り、マヤさんを部屋の中に招き入れる。
「……どうしてマヤさんが?」
てきぱきとカートからお盆ごと朝食をテーブルに移すマヤさんの背中を眺めながら問いかけた。
「カノンちゃんと同性で、なるべく年も近いのが私だからかな」
「…………」
「葛城一佐から頼まれたのもあるけどね。もし手が空いてたら、碇司令の制止があったとしても無視してここに来てたと思うわ」
朝食はいたって普通で軽めなものだった。
いい感じに焼けている目玉焼きに、ぷりぷりしたソーセージ。レタスも一緒。
そして味噌汁とご飯も欠かしていない。
どれも熱々で湯気が立っている。本当についさっき調理されたものを持ってきてくれたのだろう。
私の手の麻痺を配慮してかお箸はなく、スプーンとフォークのみある。
素直にその気持ちは嬉しい。
「カノンちゃんが普段どれくらい食べるかわからないから、もし多かったら言ってね」
車椅子のグリップを握り、私を机の前まで移動させる。
私の車椅子にプラスして大人の女性がいるから、この部屋はさらに少しだけ窮屈に感じられた。
私はマヤさんの気遣いに言葉を返した……だろうか? わからない。ただ適当に口をもごもごさせて返事をした気になっているかもしれない。
しかしソーセージを小さく齧って肉汁を口内に感じた時、「いただきます」すら言っていなかったことに気づいてこれだけは明確に言葉に出した。
「……いただきます」
「はい」
大きく笑顔で頷いたマヤさんを尻目に黙々と食べ始める。
私は一言も喋らない。代わりに盛り上げてくれるテレビやラジオはここでは許されないため、スプーンと皿が触れる音や私の咀嚼音しか存在しない。
とはいってもやはり他人に食べる姿をずっと見守られるというのはどうしても緊張するし、いい気持ちではない。
「ごめんなさい、あんまりじろじろ見られたくないよね? 私は横を向いておくから」
そう言ってベッドに腰掛けたマヤさんは、向こうの方に身体の向きを変えた。
「……なんでここにいるんですか? 食べ終わったらまた連絡するので、その時に来ていただいたほうがいいんじゃないですか? 私なんかに構ってる暇があったら、別のお仕事をしたほうがずっといいでしょうし」
返事は意外に素っ気ないものだった。
「いいえ。これも仕事だから。カノンちゃんがちゃんとご飯を食べて、健康であることを確認するのが私の役割よ」
ミサトさんの代役……ならば何一つ間違えていない。
今の私は実質幽閉されている身だ。ストレスに耐えかねて──なんて起こさないための可能性も考慮しての役割、ちょっとしたカウンセラーなのだろう。
当然の措置とは思えるが、病んでいると断定されているようで少しだけ癪だった。
病んでいないと強く否定することはできないが。
「……そうですか」
理解も納得もしている。だがこれを素直に受け入れるのは多少なりとも苦痛を伴う。
朝食は普通に食べられる。食欲はある。身体はいたって健康だ。
「ぅ、ぶ」
突然こみ上げてきた吐き気。
逆流する胃液。今食べていたものがまだ分解されておらず、固形物が喉の壁に触れて不快感が更に増す。
飲み込め、ない。
机下に置かれていたゴミ箱に急いで手を伸ばして膝上に置き、顔を下に向けて口を開く。
汚らしい音とともに私の口からどろどろになった食べ物がゴミ箱の底に貯まる。
「大丈夫!?」
マヤさんが血相を変えて私の背後に回って背中を擦ってくる。
呼吸をひとつすると、口内にこびりついた酸味と吐瀉物の臭いに我慢できずに、もう一度吐いてしまう。
激しく咳き込みながら、ゴミ箱に突っ伏すように顔を埋める。
苦しさから涙も溢れる。
喉が赤い棘で剃られたような痛みに静かに悶える。
鼻で呼吸しなければいいのだ。酸味のきいた空気を味わうことだけ気をつけながらゆっくり、大きく呼吸を繰り返す。
それでもやはり我慢できず、最後に残り滓を振り絞るよう、ありったけを吐き出す。
「ごぇ……ッ!」
喉を大きく震わせながらゆっくりと顔を上げる。
いつの間にか別室から濡れたタオルを持ってきていたマヤさんが、私の口元にそれをあてがう。
そのまま車椅子を押して部屋を出てトイレへと連れていき、洗面台の前に差し出す。
タオルを脇に置き、蛇口から水を出して両手に溜めて口に含む。
ゆっくりとではなく素早く濯ぐことを意識。不快を今すぐ消し去りたい。
数回水で満たした口内はあっという間にすっきりし、顎に伝う水をタオルの端で拭う。
正面のガラスに映った自分の顔を見て、小さく呟く。
「……酷い顔」
どれだけの間、私は自分の顔を見ていなかったのだろう。
生気を半端に残した目元。
肌の赤みは薄くなり、血が通っていないようにすら見える。
これでは死相だ。
頬に触れる。
生きているという熱はある。
しかしながら、ただただ無感動だった。
なぜ突然嘔吐なんてしてしまったのだろう。
別に熱っぽくて身体がだるいわけではなかったのに。食欲もそれなりにあったし、まだ食べられた。
スイッチが切り替わるかのように、急にすべてが逆流したのだ。
胃はむかむかするが、一通りスッキリした私は謝罪を口にした。
「すみませんマヤさん……私……、なんだか変みたいです」
マヤさんは答えずに何度も私の背中を擦る。
もう大丈夫なのに。熱くなるくらい、強く擦る。
鏡越しに見ると、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
私にはその理由がとうしてもわからなかった。
「どうしてそんな顔をするんですか……?」
「だって……だって……カノンちゃんは私達のせいでこんなことになったのよ? カノンちゃんは私達を恨まないの? 吐くくらいストレスを溜め込んじゃって」
スト、レス……?
そうか、私は耐えきれないほどのストレスを抱え込んでいたのか。自覚がまるでなかった。
私にあるのは皆に対する失望と、私の無意味さのみなのだから。
恨みなんて感情を持つことができなかった。
「そう、でしたか……。そんなことも気付けなかったんですね、私は」
気分は悪いが、動けないというほどではない。
「戻りましょう」と声をかけ、マヤさんが私の車椅子を押して一緒に部屋に戻ってくる。
鼻腔を撫でる吐瀉物の臭いに顔を顰める。
ゴミ箱のみでは受け止めきれず、床にもそれらが散らばっている。
「ああ、掃除しないとですね。私がやったことなので私が──」
流石にこれの掃除を人にさせるわけにはいかない。
これは他人任せにしていい後始末ではない。車椅子から降りての作業になり、時間はかかってしまうが掃除を完了させるのは問題ない。
しかし、言葉を遮ってマヤさんが有無を言わさぬ優しげの含んだ強い声で話した。
「いいの。いいのよ。私がやるから」
別室から持ってきた濡れ雑巾でたったの5分で散らばった吐瀉物が綺麗になる。ゴミ箱のそこに溜まったものもどこかへ持っていき、最後に置き型の消臭剤を机の上に設置して終わりだ。
確か……マヤさんは潔癖症だったと記憶している。なのにここまでしてくれるなんて感謝しかない。
だから「ありがとうございます」と口にする以上のことはできなかった。
「気にしないでいいわよ。それで、朝食はもうやめておく?」
私は静かに頷いた。
まだ食欲はあったが、また嘔吐してしまいそうで怖かった。
マヤさんは机の上に残った朝食を回収してお盆ごとカートに移す。そして私の横で中腰になって尋ねてきた。
「わかったわ。じゃあ私は一旦職務に戻るけど……何か欲しい物とかはある?」
「……ないです。適当に音楽でも聞いて過ごします」
今やS-DATが私の唯一の娯楽である。アスカみたいに片手サイズのレトロなゲームをする気にはなれない。
遅れている勉強を取り戻すこともできるが、なんだかやる気がなくなってしまった。これまでなら追いつかないと! という使命感から頑張っていたが、なんだかそれが無意味に思えてしまう。
だって、使徒と戦ったらまた入院して勉強が遅れるから。なんだか私が勉強する理由が皆に追いつくためだけになってきている気がしてならない。
そんなループが嫌になったのだと思う。
「……そっか。また何かあったら内線で連絡してね。私じゃない時もあるかもしれないけど、誰かは必ず対応してくれるから」
私に背を向け、カートを押して部屋から出て行こうとする。
私は微動だにしない。ぼんやりと目の前の壁の僅かなシミを見つめている。
だが、いつの間にかマヤさんを呼び止めていた。
「マヤさん」
「どうしたの?」
カートの車輪の回る音が止まる。
服の擦れる音が聞こえる。
きっとこちらを向いたのだろう。
そして私は訊いた。
「私はこれから……どうなるんですか?
私の家はここになって、これからもエヴァに乗り続けるんですか?」
最も大切な質問。
いつまでもだらだらとここにはいられないのはわかっている。私がここにいるのは、エヴァに乗る覚悟を決めていたからだ。
その覚悟が無くなった今、私の存在意義はなくなった。つまり、ネルフにいる理由はなくなった。
「────それ、は……わからないわ。今、上層部でカノンちゃんをどうするか話し合いが行われてるの。それ次第になると思う」
上層部……ということはお父さんが間違いなく関わっているはずだ。
でもどうせお父さんのことだ、冷たい結論を出すに違いない。
「わかりました。ありがとうございます。それと、今朝は色々と迷惑をかけてすみませんでした」
振り返り、きちんと向き直って深々と頭を下げる。
いくら落ち込んでいたとしても、冷静さのある今なら礼儀は欠かさず尽くせる。
これくらいしか私にはできない。
「迷惑だなんて思わないで。皆、カノンちゃんのことが大切で、好きだからやっているのよ」
好き、とは……、なんだろう。
ミサトさんに以前言われたときは、ただ漠然と嬉しかった。だが今では素直に受け入れられなかった。
脳が理解するのを拒絶するかのように、強いノイズがかかってしまう。
人の言葉を言葉通りに信じられなくなってしまったのかもしれない。卑屈な人間になりそうだ。
胸がとても苦しい。心臓を鷲掴みされているかのような辛さだ。
ぎゅうう、と服を握りしめる手の力を強め、頭を下げた姿勢のまま言葉を続けた。
「……ごめんなさい。私、マヤさんの言葉を信じたいのに……信じられないです。ごめんなさい……ッ」
「────。そっか……そうよね。あんなことがあった後だもんね」
言葉を失ったマヤさんは、言い繕うように寂しそうな笑みを浮かべているのだろう。
というのは私の勝手な予想で、本当はどんな顔をしているかは下を向く私にはもちろんわからない。
だからこそ、マヤさんの顔を見たくなかった。
実は馬鹿にしたり、哀れみの視線を向けていたらと思うと耐えられないから。
被害妄想が過ぎると自分でも自覚している。
でも怖い。どうしても怖い。
人の本当の気持ちを知ってしまうのがどうしょうもなく怖くて仕方ない。
すたすたと足音が向こうへ……ではなく、私の方に近寄って来た。
なぜ。どうして。
自然と全身が強張る。
「人って難しいよね。口では言いたいことを言いたいだけ言えるんだから。正確に真偽を見抜ける人なんていないし、それは私もカノンちゃんも同じ。だからこそ、寄り添って、知っていくの。たとえ傷つくことになってもね」
少しだけ落ち込んだトーンで、間近からマヤさんの声が私の頭に落ちてきた。
それに対して私は頭を振った。
「違う……違います。私からは寄り添ってません。皆が私のことを一方的に知って、一方的に言うんです。碇カノンは役立たずだって」
私は知らない人たちから傷つけられるだけ。その人たちがどんな顔をしていて、どんな人なのかなんて何も知らない。なのにこんなに傷つけられた。
握りしめた拳に指の爪が食い込む。もう少しで血が出そうなほどだが、私にはそんなこと、今はどうでもいい。
目の前でしゃがんだマヤさんは、じっと私を見上げる。
「そうね。この世界はまったくうまくいかないし、全然綺麗なんかじゃないわ。汚くて、乾燥してこびりついた血がいつまで経っても洗い流せない世界よ。皆が皆を善くわかり合うことは決してできないわ」
「…………」
「でもね、決してそれだけじゃないはず。それはカノンちゃんもよくわかっているはずでしょう? 胸に手を当てて、思い出してみて」
そう言うと、私の手をそっと掴んで胸に押し当てた。
静かに瞼を下ろし、過去を振り返る。
そこには悦びがあった。生の悦びがあった。
私を求める人がいる。そして私がそれを為せば、喜んでくれる。
でもそれだけではダメだと知った。愚直に為すのではなく、きちんと考えて行動する必要があることを鈴原くんからの一撃で学んだ。
これは世界を救う者としての責任である。
嬉しかった。楽しかった。
学校生活というものがあれほど面白いことだらけなのを初めて知った。
私の周りの人々は、私にあんなにも優しくしてくれた。
だからこの人たちを死なせたくないから、守りたいからエヴァに乗ること、そして傷を負う覚悟をした。
でも、現実は──。
「やっぱり、無理です。今までのことより、今に押し潰されてしまいました。……誰も信じられない。誰かのためになんて、もう頑張りたくないです」
私のことを悪く言う圧倒的多数の人々のために頑張る必要なんてどこにもない。
人を信じることで裏切られるのはもう嫌だ。だったら初めから何も信じなければいいのだ。そうすれば裏切られることもないのだから。
強引にマヤさんの手を離させる。
その時にはもう遅かった。私が拒絶したことで、マヤさんが少なくとも傷ついてしまったことに気づくのに。
「ぁ、……」
言葉を続けられない。
どう続きを言えばいいのか何もわからない。
時間にして数秒。しかし私には無限に引き伸ばされた空白のように思えた。
やや寂しそうに微笑んだマヤさんは「ごめんね」と謝りを入れてから、
「……うん、すぐには立ち直れないよね。本当にごめんね。やっぱり私、こういうカウンセラーみたいなのは上手くないみたい」
と残念そうに言ったのだ。
違う。そんなことはない。
私を癒そうとしてくれたのはよくわかっている。ただ私がマヤさんの言葉を受け入れなかっただけ。それだけだ。
むしゃくしゃする。
変に突っぱねて、その後の弁明に詰まる私自身にむしゃくしゃする。
ちゃんと人の気持ちを考えて発言しなさい。この世界は私一人だけのものではないことを自覚しなさい。
「たぶん今日か明日にもカノンちゃんのこれからについて結論が出ると思うから、その時は葛城一佐がここに来るはずよ。……時間は短いけど、ゆっくり休んでね」
そう言い残してマヤさんは部屋を後にした。
私は何も言わずに頷いただけだった。
ひとりになった部屋は、驚くほど物静かだった。
静寂を砕き、さらに静寂の底に沈んだような感覚。
聞こえるのは服の僅かな布擦れ音のみ。
耳を澄ましても、何も聞こえない。
あまりにも暇だからといって廊下に出てネルフ内を散歩する気には到底なれない。
人目に私の身体を晒したくない。誰にも私の存在を認識してほしくない。
そういった意味では、この部屋は最高なまでに私の需要を満たしている。
つまり。
ここは私を隠す檻。
そして、愛玩の空間。
S-DATから伸びるイヤホンを耳に押し込み、ベッドに倒れ込む。
適当にボタンを押して音楽を再生する。
流れるはベートーヴェンの第九。
ループ再生をオンにして意識を耳に集中させる。
滑らかな曲調に、絶妙なバランスで噛み合わさる男と女のコーラス。かと思えば一気に過激なテンポになって音圧を上げる。
ドイツ語だから何を言っているのかさっぱりわからないが、自然とその音が人間の発する音ではなく、曲の一部として同化し、聴き入るほど心地よい。
数百年前に作られたものが、長い時を経て現代を生きる私の耳の鼓膜を震わせる。
なんてロマンチックなのだろう。
私はどちらかというとプラグマチックな方の人間だが、なぜかそう、強く思えた。
……ループに入る。
終わりの尾は始まりの角に繋がり、輪廻する。
私は囚われの愚かな女。
巡って、巡って、巡って。
何度も何度も同じような自己問答を繰り返す。
そして結論はいつもぶれぶれ。
確固たる自分を貫けない。
だから今こうなっている。
きっとこれからもそうだ。
いつか、私はこの状態から立ち直るだろう。これは確信に近い。でもまた傷ついて、落ち込んで、塞ぎ込む。その度に私自身を納得させるその場凌ぎの『答え』を染み込ませるのだ。
でも。人ってそういうものでしょう?
結局、自我を強く貫ける人なんてほとんどいないのだ。この人はそうであると断定できるのはお父さんしかいない。
私はお父さんのように強くはない。それに嫌いだ。しかしながらその一切揺らぐことのない自我は、人として素直に尊敬するべきなのかもしれない。
お父さんは逆に、私のことを軟弱な娘だと今頃思っていることだろう。
「はは」
微かに嗤う。
音楽の再生を停止させる。結局3ループほどしか流していない。
ああ。
ああ。
おかしいな。
この曲に感動したことなんて一度もないのに。
どうしてか、枕が濡れている。
おかしいな。おかしいな。
なんでだろう。なんでだろう。
それに発作のように心臓が締め付けられて、苦しい。痛い。とても痛い。
胸を強く抑えながら、上半身を掛ふとんの中で極限まで小さく縮ませる。
眠れ。眠れ。
眠ってしまえばこの苦しみから解放される。
眠ってしまえばこの痛みから救われる。
眠ってしまえば──。
眠ってしまえば──。
辛いことをさっぱり忘れられる。
そうだといいな。そうだといいな。
……お願いだから、そうであってください。
縋るように。
声にならない声で祈りつつ。
瞼を閉じて、私は滲む視界をシャットアウトした。
◆
私は母親という揺りかごを知らない。
母親の愛というものを知らない。
愛というものが、わからない。
それは私がお母さんを何も知らないという理由だけではない。
私だって、小学校の時に道徳の授業や、あるいは本やテレビなどで愛を学ぶ機会があった。
愛とは、こうこうこうで、こういうものである。
それを教わって理解はできたが、だからといって認識することはできなかった。
なぜなら、愛を誰からも受けたことがないから。
知識としてしか愛を知らない。
その感情がわからない。
『好き』ならわかる。
ようは好きな食べ物や色などの認識でいい。その幅を広げてやればいいだけ。
だからこそ、愛の深みに陥る。
愛と好き、は異なるものなのか?
きっと私が愛を理解する日は来ないのだと思う。
私を好いてくれている人がいることを知っている。私もその人のことが好きだ。
もしかするといつかの未来、異性を好きと思う日が来るかもしれない。だがそれはただの好きであって、愛ではない。ゆえに愛は育めない。
それにどうせ私は子供の作れない身体だから意味もない。
……ほら。
まあ。今はそんなの求めなくてもいいだろう。まだ子供だし。
それに愛なんて、もう私には──。
「……ん、くぅ」
目が覚める。
ぼんやりと瞼を持ち上げようとすると、乾燥した目元のせいで、ほんの少しだけ痛みが伴った。
ごしごしと手で擦って目を慣らす。
「ごめんね、起こしちゃった?」
「…………ん?」
私ではない誰かの声が聞こえて、覚醒しきっていない頭を動かす。
ぼんやりした視界が、ゆっくりピントが合うように鮮明になっていく。
そして、椅子に座って私を見下ろしている人影を認識した。
「……ミサトさん」
思わぬ侵入者は調子に乗ったりするでなく、憂いの混じった微笑みを私に向けてそっと手を伸ばしてきた。
その細い指は私の頬を優しく撫で、顎までなぞる。
私はされるがままになりつつもミサトさんをじっと見つめる。
撫でるのに満足したのか、今度は顔を近づけてきた。それも直前で止めるのではなく、そのまま私の頬にキスを落とした。
どくん、と心臓が一度だけ強く脈打つ。
あまりに柔らかい感触。ふわりと大人の女性らしいいい匂いがした。だが私は顔を赤らめるなどといった反応なんてできず、ただただ無言で見つめ続ける。
いったい何を考えているのだろう。
一種の求愛行動?
弱った私につけ込んで襲おうとしている?
何を邪推しているのだ、私は。
……そんなことはない。ミサトさんはそういう人ではないことはわかっている。
だから悪い方向に捉えようとした私が悪い。
「そろそろ夕食の時間だったから声をかけようと思って。でも内線で反応がなかったから心配になって来たの。マスターキーを使ってね」
それは良くないことをしてしまった。
確かに、私が何も反応を示さなければ心配されるのは当然のことだ。
マスターキーの存在も納得できる。
私が本当に引き籠もった場合、あるいはストレスからの自殺を防止する強行手段なのだろう。
「すみませんミサトさん……私、寝ちゃってました」
「気にしないで。ちょっと私が心配しすぎたのもあるわ。でもそのおかげでカノンちゃんの可愛い寝顔を見れたし」
「……どれくらい前からいたんですか?」
「30分くらい前から」
私は小さくため息を吐いた。
「起こしてくれてよかったんですよ?」
「ダメよ。そんなことしたら可愛そうじゃない」
「いいですよ別に。ミサトさんの時間を使わせてしまってるんですから」
下半身を力業で動かしつつ上半身を起こす。
少しだけ喉が渇いている。
でもそんなことは後でいい。それよりも、今どうしても訊きたいことができたのだから。
「……マヤさんではなく、ミサトさんがここに来たということは、私のこれからが決まったってことですか?」
「…………」
ミサトさんの顔が沈みこむ。
部屋の淡い照明は微かに舞う埃を照らす。
「そうですよね?」
私がもう一度訊くと、ぎこちなく首肯した。
「……ええ。確定ではないけど、大まかには。話は私からではなく、碇司令から直接言い渡されるわ。だから今からカノンちゃんを連れて行かないといけないの」
「そうですか」
それなのにミサトさんは私の睡眠を優先して待ってくれていたのか。
きっとお父さんは私が司令室に来るのを待っている。
「今、準備します……あ、でもちょっと服は着替えたいです」
自分の格好を見下ろす。
お父さんの前とはいえ、きちんとした場だ。普通な私服で行くのはあまり良くない気がした。
では何に着替えるのかといえば、やはり制服しか選択肢はない。
ほんの数日ぶりだが懐かしく感じるそれを手に取り、もそもそと着替える。
……慣れたものだ。
そう思いながら数分で終えた私はミサトさんに「お待たせしました」と言葉を投げかける。
「ん。じゃ、行きましょうか」
前を歩くミサトさんの後ろに私が続く形で移動を開始する。
手元のレバーを押し倒して前進。通路を通り、ミサトさんが開いてくれたドアを抜けようとして──。
「あ、れ……?」
──動かない。
どういうわけか、車椅子が動かない。進まない。
厳密には、私の手がレバーを押すことを止めている。
まるで金縛りにあったかのようにぴくりとも指を動かせない。
おかしい。指や手に障害はあるものの、ここまで酷くはない。リハビリもしているし、ほとんど脳とラグがないほどに改善に向かっているはずなのに。
それだけではない。脳が急激に熱くなる。呼吸が恐ろしいほど細くなる。
身体中の血管が収縮して血の流れが滞るような感覚。
視線は次第に足元へと落ち、小刻みに肩を震わせる。
これは……恐怖だ。
私は今、外に出ることに強烈な恐怖を感じている。
「ご、ごめんなさい……」
辛うじて発せた謝罪の言葉は、ミサトさんに聞こえたのかわからないほど消え入りそうだった。
外──広い場所に出ることが何よりも怖い。たとえ人に会わなくても、誰かが私を見ているかもしれないという妄想からの恐怖がある。
今朝はそんなことを意識していなかったからやり過ごせたのだ。
だが今は違う。
「大丈夫? たぶんカノンちゃんは人が怖いのよね? 事前に司令室までの道に人はいないようにしたんだけど……それでついてこれる?」
私は下を向いたままふるふると首を横に振った。
「ごめんなさい……ごめんなさい……怖いです」
人がいたら絶対に無理。
いないとしても、もしかしたら誰かが、と想像してしまって無理。
嫌だ、出たくない。
私はこの狭い部屋で、ベッドで小さく包まっていたい。
小さな私の世界でじっとしていたい。
ああでもそれだとミサトさんに迷惑がかかってしまう。
「じゃあ、私が司令室までずっとカノンちゃんをおんぶしてあげる。片腕は使えないからちょっと不安定になるし、腕をしっかり首に回してもらう必要があるけど、どう?」
どうして? と返したくなるほど穏やかな語りかけだった。
そこまでしなくていいのに。まだ怪我も治りきってない。苛立ちを感じて、少しくらい私に当たってもいいのに。なのにどうしてそんなに私に優しいの?
誰も信じたくない。
でも、ミサトさんなら……信じてもいい。
「お願い、します」
「よしきた。カノンちゃんくらい軽い荷物、司令室までひとっ飛びよ!」
そう言うや否や、ミサトさんはこちらに背を向けてしゃがむ。私はまず腕を肩に伸ばして掴み、そして腕の力で身体を車椅子から離れさせた。
「おっとっと」
バランスの崩れかけた私をミサトさんにしっかりと支えられ、背中に密着することに成功した。
右腕が私のお尻の下にまわされ、しっかりホールドされる。私も落ちないようにしっかりとミサトさんの身体にしがみつく。
そして誰も見えないようにぎゅっと目を瞑りながら顔を肩に押し当てる。
穴があったら入りたいほど恥ずかしいことをされているわけだが、おもらし事件に比べれば可愛いものだ。
「よーし行くわよー」
私を抱きかかえているというのにしっかりとした足取りで移動を開始する。
固く口を閉ざし、早く司令室に到着することだけを祈る。
確か部屋から司令室までは少しばかり距離があったはずだ。それに階層も違うため、エレベーターを利用する必要がある。
「私は碇司令が何を話すつもりなのかを知ってる。でも敢えてカノンちゃんには教えないでおくわ。親子の会話を私は助けない。きちんとお父さんに向かって、目を見て話してきなさい」
ミサトさんの諭すような口調に、私はすぐには頷けなかった。
私の今の状態をよく知っていてなお突き放すような宣告は、少なからずショックを受けたからだ。
「少し酷なことを言ってるのはわかってる。好きじゃない父親とふたりきりで話すことほど辛いのなんてないから。でもカノンちゃんの唯一の肉親であることは変わらない。だから、親を大切にする心は持ってなさい」
ただ教えを与える大人の言葉とは思えない重みを感じ取った。
私がお父さんを嫌っていることは変わらない。でもせめて好きになるのが無理でも、『普通』に思えるようになりたいとはあの日、お母さんのお墓の前で告げた。
果たしてあれから動きがあったかというと、ない。
お父さんからのアプローチは当然ないとして、私からもなかった。
ゆえに、これはお父さんとの距離を詰める丁度いい機会かもしれない。
こくん、と私は小さく頷いた。
ふと気づくと、ミサトさんは司令室のドアをノックしていた。
「──入れ」
と、お父さんの厳かな返事が聞こえた。
「失礼します」
そう言いつつミサトさんがドアを開くと、ややひんやりした空気を肌に感じた。床も通常の金属質な廊下よりさらに硬質のようで、明らかにミサトさんの足音が硬くなった。
「……葛城一佐。なぜカノンを抱きかかえている」
当然の疑問だった。
「は。広い場所と人目に対しての恐怖が自力での移動に悪影響を及ぼしていたためです」
「そうか。だがそのままでは腕も辛いだろう。少し待て。椅子を持ってこさせる」
「承知しました」
ガチャリ、と受話器を取る音が聞こえた。
「冬月、適当な車椅子を持ってこさせろ。今すぐだ」
数分もかからないうちに知らない誰かの声が新たに現れ、車椅子を私達の直ぐ側に用意する音が聞こえる。
「カノンちゃん、一旦下ろすわよ」
私が軽いほうだといっても、長時間抱くのはかなりの重労働だったはずだ。ぴくぴくとミサトさんの腕が震えるのは少し前から感じていた。
ゆっくりと体勢を変えながら私の身体が下ろされる。そして車椅子へと着地する。
ここで私は初めて目を開けた。
長い時間目を瞑っていたためか、突然の光は非常に眩しかった。机と、いつものポーズをとるお父さんらしきシルエットは視認できた。
だんだんと光に目が慣れ、明暗のバランスが釣り合う。
司令室と言うにはあまりに広い部屋だった。大雑把な目算だと、学校の体育館より少し大きいくらい。
側面の壁は全面がガラス張りになっていて、ジオフロント内の自然が一望できる。
そして床と天井には見慣れない幾何学模様が緻密に刻まれている。
この部屋は、異様だ。
「ご苦労、葛城一佐。それでは退室したまえ」
「承知しました」
お父さんの指示に、ビシッと敬礼したミサトさんは踵を返して司令室をあとにした。
この空間にいるのは私とお父さんだけになった。
すぐに話を切り出すわけでもなく、サングラスの奥の瞳はじっと私を観察している。
もしかしてこれは私から何か話しかけなければいけないのか?
怖い。
何を言っても否定されそうな気がして、硬直するしかできない。
口内に溜まった唾を、ごくりと飲み込んだ。
直後、お父さんの口が開いた。
「初号機パイロット」
「は、はい」
「お前はこれからもエヴァに乗る意思があるか?」
ぐらり、と大きく脳が震える。
数メートル離れている私達の距離が、さらに遠くに離れているような錯覚がする。
いつの間にか汗ばんでいた手で、意味もなく車椅子の手すりを撫でる。
「どうなんだ」
「………………」
お父さんの考えていることはわかっている。
でも、お父さんが何を思っているのかがわからない。
しかしながら私の答えは思案するまでもなく決まりきっている。
この場では誰も私を助けてはくれない。きちんと自分の言葉で、お父さんに伝えるのだ。
「私はもう、エヴァに乗りたくありません」
「そうか。では出ていけ。お前の戸籍はこちらで消し、新しいものを用意してやろう。望むのなら整形もだ。住居もいくつか候補があるから自分で選べ。お前の家事能力は聞いているが、これももし望むなら家政婦もこちらが手配しよう」
「……うん」
「──話は終わりだ。部屋に戻って荷物をまとめておけ」
「え?」
あまりに短すぎる。
それだけ……?
ここまでの会話時間は一分もない。
私のこれからに関する大事な話のはずなのに、たった数度言葉を交わすだけで終わってしまっていいのか……?
いや、もちろんこれもそうだが、違うだろう。
それだけではないだろう。
お父さんの中ではもう、私のことは完了したタスクのような扱いになっている。すでに頭を切り替えて別の作業に手を付け始めてすらいる。
え、なに?
これはどういうこと?
ぽつんと残された私は完全な放心状態に陥る。
「なんだ。話は終わったはずだ。早く出ていけ」
その場から動かない私を訝しんだお父さんが、心底邪魔そうに突っぱねてくる。
「これ、だけ……? 私にもっと言う事とかって、ないの……?」
「ない。必要な会話と必要な決定はされた。これ以上の会話は余分であり、する理由もない」
それでも毅然とした態度のお父さんは応えない。
「いや……違うでしょ? おかしいでしょ? お父さん、私に話すことあるはずだよ?」
どうして。どうして私はこんなにも自分を惨めに感じながら言い繕うように促しているのか。
親として。
やるべきことがあるはずだろう。
ネルフ総司令としての立場、そして一連の発言はわかる。
でも足りない。
親として、私に話すべきことが明確にあるのだ。
「ない」
これだけヒントを与えているというのに、絶対零度の声色は私を拒絶する。
少し、怒りが溢れた。
「あるじゃん! お父さん、知らないはずないよね? 私がエヴァパイロットだってことが世間にバラされたこと!」
「無論知っている。だがお前に伝える必要のある情報がないから話さなかったまでだ」
「娘を心配したりはしないの!?」
「心配してどうする。私が心配することですべてがなかったことになるのか?」
「それは……」
「表面上のものに過ぎない行為に意味はない。さっさと出て行け。私に時間を浪費させるな」
「────」
何も言い返せず、結局は同じ結論。
事実の塊をぶつけられ、私は言葉を失う。
受け入れがたい問答。
何も得られず、寧ろ何かを失った数分間。
こんなにも私は求めたというのに、お父さんは壁のように動じない。
ただ、私を心配してほしかった。慰めてほしかっただけなのだ。
『今はゆっくり休め』とか、そんな簡素な言葉でもよかった。それだけで崩れきった私の心が癒えたのに。
嫌いな人の言葉に、ありがたみを感じることができたのに。
「……私が使徒にお腹をビームで貫かれて後遺症が残った時、お見舞いにミサトさんが来てくれたの。両手と両足が不自由になった時も、退院の時だけどミサトさんが来てくれた。痛いくらい強く抱きしめてくれたの。悲しかったけど、すごく嬉しかった」
「…………」
「ねえ、この役目って本当はお父さんなんじゃないの? お父さん、一回も私のお見舞いに来たことないよね? これってなんで? 私が死にそうになってたのに、それでも何もしないってどういうことなの? もし私が戦いで死んでも、葬式にすら来ないつもり?」
「…………」
「お父さんは私のこと、どう思ってるの?」
司令は私の縋るような問いを無視して作業をしている。私には理解できない難しそうな書類をテキパキと捌いている。
もう司令の意識に私はいない。
だから、一番訊きたいことを、ありったけの熱量を込めて言い放った。
「────私を愛してる?」
「────」
ぴたり、と作業の手が止まった。
そのまま数秒静止する。
私は無言でお父さんの反応を窺う。
ゆっくりと書類に向かい合っていた顔が持ち上がる。サングラス越しに目が合う。
きっとこの瞬間、お父さんの中で様々な気持ちが渦巻いている……と期待したい。そのための沈黙であると信じたい。
無限に引き伸ばされたかのような時間の果てに、ようやく口が開き、低く応えた。
「……
そして私は。
「
と拒絶した。
私は目を見開き、語気を荒らげる。
「それだけは信じられないよ、お父さん。本当にそうなら、さっきみたいなこと言わないでしょ、絶対に。嘘つかないで。どうせ私が死んでもなんとも思わないくせに。私が死んでもお父さんの大好きな綾波さんがいるもんね」
誰も信じられない。
ミサトさんだけは信じてもいい。
お父さんは今、信じようと努力したけど、最悪の形で裏切られた。
たぶんどう答えても私は信じなかったと思う。
きっと私は浅い傷で済ませたかっただけなのだ。
それが思いの外、深すぎた。
車椅子を動かし、お父さんの作業机に近づく。
私には理解できない書類の山を乱暴に手で払い、適当なボールペンを奪い、握りしめる。
そしてその鋭い先端を自分の首に突き立てる。
「これでもお父さんはどうせ止めないんでしょ!? 私、死んじゃうよ!? いいよねっ!?」
いったい何をしているのだろう、私は。こんな馬鹿みたいなこと。
でも勢いは私自身にも止められない。
情けない。情けない。
こうまでして私はお父さんに構ってほしいのか。
極限なく燃える感情とは別に、頬に熱いものが伝う。
お父さんは無言で、無表情だ。
止めてよ! 死にものぐるいで私を止めてよ!
そう叫んだのかも自分でもわからない。
ペン先が首に浅く刺さる。
つう、と一筋の血が首から胸にまで流れ、シャツに赤いシミを作る。
このまま力を込めて押し込んで、思い切り引き裂けば私は死ぬことができる。
そうだ、死だ!
父親の目の前で、娘が死ぬ!
それでもなお、お父さんは動かない。
「なんでッ!?」
「それはお前が本気ではないからだ」
「────」
どこまでも冷徹な一言が、あらゆる熱を一斉に薙ぎ払った。
私は割れそうになるほど奥歯を強く噛み合わせ……そして、力なくペンを床に落とした。
この場からいなくなってしまいたい恥辱に震え、子供っぽく泣き出してしまう。
嗚咽を含んだ泣き声は、あまりに情けなさ過ぎた。
勝手にひとりで燃え上がって奇行に走り、たった一言であっさり鎮められた。
また、人に迷惑をかけて自分を傷つけた。
何度同じことをすれば学ぶのだろうか。
「お前はまだまだ子供だ。そんな子供の駄々に付き合ってる暇はない。私と対等に話したければ、大人になれ」
そう言って黙々と私が床に落とした書類たちを拾い始める。
お父さんの言う通り、私はただその場の感情を発散するだけの考えなしの馬鹿な子供だ。それをたった今自覚した。
対してお父さんはどこまでも大人だった。
「ごめん……なさい」
子供の私にはそれしか言えなかった。
私はお父さんに背を向け、司令室をあとにした。
◆
それから、外で待っていたミサトさんにまず医務室に連れて行かれて治療を受け、首に包帯を巻かれた上で部屋に戻ってきた。
なにか色々決めないといけないことをした記憶はあるが、正直朧げだ。
荷物をまとめろとは言われたが、服とS-DATくらいしかない。
ふて寝をしていた私はとうに時間間隔を失い、気づけば深夜になりかけていた。
「痛」
首が痛い。
あんなこと、しなければよかった。
布団の中で悶絶する。
ここは私だけの世界。暗くて、小さくて、狭くて、誰にも侵されない絶対領域。
唯一心の底から安心できる場所。
このまま腐ったトマトのようになってしまってもいい。
もうすべてがどうでもよくなってきた。
不意に視線を天井、その端に向けると、以前はなかったはずの監視カメラがそこにはあった。
明日にはここを去るであろう私のためだけにここまでするのか。いや確かに必要か。
未遂だが司令室で自殺しようとしたのだ、当然の処置と言える。
制服姿のままだが、着替える気にもなれない。お腹も空いていない。
まとめる荷物もない。服はこのままでいい。
もう一度布団を深く被り直した私は、意識をゆっくりと沈み込ませようとして──。
コンコン。
誰かがドアをノックする音が聞こえた。
「ん?」
無視しようと思い、聞かなかったことにする。深夜だし。
しかしもう一度ノックされたので仕方なく出ることにした。
慣れたものの、毎回車椅子に乗り移るのが面倒なんだけどな、なんて内心思いながらベッドから移動し、ドアを開けた。
そこにいたのは、予想外の人物だった。
「綾波さん……?」
ぽつんと立ち、私を見下ろしている。
「こんばんは」
「あ、うん……こんばんは」
それきり綾波さんは無言になる。
何をしに来たのかさっぱりわからない。
どちらかというと義理堅い人でもないし、私に用があるのは間違いないのだろうが、思い当たる節はない。
「入る?」
「ええ」
スタスタと部屋に入ってきた綾波さんは、ベッドに座り、ぐるりと周囲を見渡した。
自分から何か行動を起こすのは非常に珍しいから無下にはできない。が、こんなに遅い時間なのは正直少しだけ迷惑に感じてしまう。寝ようとしていたところだったし。
「それで……どうしたの?」
控えめに話を切り出してみるが、特に反応はない。
私をじっと見つめるだけだ。
「…………」
「…………」
「ネルフを出て行くって、本当?」
「……うん。もうエヴァには乗らないからね。たぶん明日にでも」
「そう」
それきり会話は終了する。
呆気ないものだが、もとより綾波さんとの会話はこんな感じだった。
そして私はふと、あることを思い出した。
「あ、そうだ」
「なに?」
「食事会、招待してくれたのに行けなくてごめんね。あんなことがなかったら、アスカたちとも楽しめたのに」
3号機暴走からの使徒の発現。
アスカへの侵食と、私に残った障害。
タイミングとしてはあまりに最悪すぎた。
とても楽しみにしていたし、皆ともっと仲良くなれるいい機会だとわくわくもしていた。
だが、食事会のことを忘れてしまうほど色々なことがあって、今の今まで気づかなかった。
綾波さんがたくさん練習していたこと、指に貼られた絆創膏を見て知っていたのに。
「仕方のないことよ、問題ないわ」
「そう、なの?」
主催者が問題ないと言うのならそうなのだろうが、こうもあっさりと許してくれるとは。
「碇さんは碇司令が嫌いなのでしょう? なら、なくなってよかったかもしれない」
「ん? ちょ、ちょっと待って。もしかしてお父さんも誘ってたの?」
「ええ。サプライズとして誘っていたわ」
「お父さん、OKしたの?」
こくりと頷いた。
「…………ふ」
私は小さく鼻で笑った。
「ただの気まぐれだったかもね、それは。たまたま予定が空いていて、綾波さんに誘われたからOKしたんだよ、きっと。そうじゃないと絶対に来ないはずだもん」
「そう?」
「絶対そうだよ。だってお父さんは私なんてどうなってもいいって思ってるから」
きっと綾波さんは私とお父さんを繋ぐキューピッドのようなことをしたかったのだろう。しかしそれは無意味だと断言できる。
もし何事もなく食事会が行われたとしても、私とお父さんは表面的な会話しかしなかっただろう。
「それはぽかぽかとは違う?」
「……全然違うよ」
「そう……私はふたりにぽかぽかしてほしかった」
そう呟き、綾波さんは目を伏せる。
「…………」
できるはずがない。これまでも、これからも。
私は十分お父さんのことをわかろうとした。
でもお父さんは絶対に私に触れて、知ろうとしてこなかった。だからもうダメだ。無理だ。
お母さんのお墓の前でしたお父さんへの宣言は、捨てる。
怒りだ。
お父さんが何もしてくれないことへの怒りが急激に再燃してくる。
涼しい顔で私をあしらうあの人。
アプローチがやや間違っていたことは認めざるを得ない。でも、それも含めて受け止めるべきではなかったのだろうか。
拳を強く握りしめつつも、落ち着いた声で言う。
「お父さんとはもう二度と会わないと思う。でもこれでいいんだ。これで変にお父さんに迷惑をかけることはなくなるし、私が傷つくこともなくなるの。だからこれでいい」
わざわざ嫌なことに正面から向き合う必要はない。
お父さん然り、私に対する世間の声然り。
逃げてもいいのだ。逃げないと壊れてしまうことだってある。
向き合って、立ち向かって、乗り越える。
それは今の私には不要な行為だ。
第一、そんな精神状態でない。
「今の碇さんは、ぽかぽかしてる?」
何て変なことを訊くのだろう。
私はあまりに面白おかしくて、笑ってしまいそうだった。
「そんなわけないよ。もうボロボロ。綾波さんに指先で軽く突かれるだけで……いや、息を吹きかけられるだけで壊れるよ」
と答える。
すると綾波さんは明らかな反応を見せた。
これまで無表情だったそれを驚愕へと変え、真紅の瞳が揺れる。微かに眉を顰める、一度だけ何かを言いかける。
私はそれを聞き取れなかった。
「碇さん」
改めて言い直した綾波さんの顔は、いつも通りだった。
「な、なに?」
「ベッドで横になって」
「えぇ……?」
意図がよくわからないが、元より私に用があって来たのだ。ここは大人しく従っておくことにする。
「よいしょっと」と車椅子からベッドへと身体を移す。仰向けになり、次を待つ。
綾波さんは一度立ち上がろうとして──足元にゴミ箱につま先が当たる。
視線が自然とそちらに向く。そして中を覗き込むと、不思議そうに尋ねてきた。
「この黒いの、なに?」
「あー、それは音楽プレイヤーだよ。お父さんからもらったやつ。でももういらないから捨てるんだ」
「碇司令との繋がりを捨てるの?」
「繋がり? そうか、そうだね。確かにそうだね。ならなおさらだよ。お父さんと私はもうわかり合えないから。あ、別に欲しかったらあげるよ。たぶんお父さんもその方が嬉しいだろうし」
「そう」
わざわざゴミ箱から拾い上げて、S-DATを机の上に置く。
貰ってくれるのならそれでもいい。私の視界に入らないのならどんな形でもいい。
こちらを振り返った綾波さんが、のしっとベッドに手を置く。
ギシ……と、軋み音が再び静寂になった部屋に静かに響く。
そのままゆっくりベッドに乗り上がってきた綾波さんは私の真上で四つん這いになる。
本当に何がしたいのかわからないのだが。
なんだか変な気持ちになってしてしまう。
「あ、あの。綾波さ──」
そして、私の上に覆い被さってきた。
「え、えっ!?」
あまりに驚きすぎて、リアクションするのに精一杯だった。
その間にも綾波さんの細い腕が私の背中とベッドの隙間に潜り込み、がっちりと私の身体を抱きしめる。
「ちょっと……! や! やめっ!」
拘束から抜け出そうともがくが、それが叶うはずもなかった。
脚は動かないし、上半身は身動きできないレベルで腕ごとがっちりホールドされている。さらに上から全体重を乗せられている。これ以上ないハンデの前に、私はされるがままだ。
もしかして襲われてる?
パニックになって、より一層暴れるがやはり無駄な努力だった。無意味に体力を消費するだけで、ほんの一分ほどで限界が来て、完全に抵抗すらできなくなってしまった。
熱のこもった荒い呼吸を繰り返し、恐る恐る尋ねる。
「私を……どうしたいの……?」
私の胸に顔を埋めていた綾波さんがぴょこ、と顔を上げてあどけない顔をしながら言った。
「……碇さんと一緒にぽかぽかしたい」
「……ん?」
「?」
「ぽかぽかって、これ……え? 流石にこれは違うと思うけど……」
間違いなく誤解されるようなスキンシップ。
完全に私を襲おうとするそれだった。
だが綾波さんはそんなことをする人ではないことはわかっているとはいえ、突拍子過ぎた。
「これは違う……? 誰かとぽかぽかする方法は、ベッドでその人を抱くのが一番いいって、ネットにあったから」
そんなことを言って、小首を傾げた。
「あ──────────、なる、ほど、ね」
私はすべてを理解して思考を停止させ、再起動した。
どうやらドがつくほどの天然属性があったとは今初めて知った。
「とりあえず、腕、放してくれる?」
流石に私の真面目なお願いはすんなりと受け入れられ、拘束が解かれた。
身体を起こす気力が残ってない私は、上に跨る綾波さんに諭す。
「あのね、その抱くっていうのはそのままの意味ではなくて……その……言うの恥ずかしいんだけど……そういうことなの」
「そういうことって?」
「…………男の人と女の人が愛し合う行為のこと、です……」
いったい何をしているのだ、私は。
本日二回目の自罰的な感情になりながら教える。
「愛し合う行為って、なに?」
「だめ、だめ。それ以上は言えない。私が恥ずかしくて言えない。どうしても知りたかったら自分で調べて。あ、人には訊かないほうがいいから、本かネットでだよ」
「そう……わかったわ」
綾波さんが明らかにしゅんと落ち込んだ様子に、なんだか申し訳無さを感じてしまう。
「なら、私と碇さんはぽかぽかできないのね……」
「…………」
やり方は誤解を招きかねないし、とても不器用で、下手だった。
でも、やりたいことが一貫しているのは痛いほどよくわかった。
綾波さんなりに、私のことを慰めようとしてくれていたのではないだろうか。
でないと自発的に行動することはまずないし、人とコミュニーケーションを取るなんて以ての外だ。
成長した。
大きく、それも私なんかよりも大きく。
次第に人間味の増してくる綾波さんに対し、逆に私は透明になってきている。
少しだけ、自分が恥ずかしくなった。
私は両手で綾波さんの両手首を掴んでバランスを崩させ、前に倒れさせる。
「わ」
倒れ込んでくるその身体を私は受け止める。
改めての服越しの肉体的な接触。
生の熱は何にも代えがたい大切なエレメントだ。
今度は私から綾波さんの身体を抱きしめる。
ミサトさんが私にしてくれたように、優しくて溶けてしまいそうな、でも熱い抱擁を。
とくん。とくん。
互いの心臓の音を、耳ではなく押し当てている胸で感じ取る。
静かな時間。
熱い熱い、燃えるような生の時間。
悦びに震える呼吸。
私は、他人を受け入れている。
「……気持ちいい」
つい、そんな感想が口から溢れた。
この熱も、のしかかる重さも全てが気持ち良かった。
深い絶頂にも似た感覚。
なんだか泣きそうだ。
耳元で甘い吐息をすると、ぴくりと綾波さんの身体が震える。
ゆっくりと、全身に染み渡っても沈黙の抱擁を続ける。
綾波さんからは甘くて良い匂いだけではなく、ほんの少しだけ塩っぽい匂いもした。
「気持ちいい?」
そう、私は囁いた。
「……わからない。でも、すごく胸が熱い。身体が熱い。もっとこうしていたいと、思う」
再び綾波さんの腕が私の身体にまわされる。
今度は抵抗しなかった。自ら腰を上げて、腕を滑り込ませやすくする。
そうして互いに身体を絡ませ、より強く触れ合う。
「じゃあ、気持ちいいと思ってるんだよ。それにこれは、『ぽかぽか』する」
「これが……ぽかぽか」
「うん」
さらに求めようとしたのか、綾波さんがもぞもぞと動いて顎を私の肩に乗せる。そして甘える猫のように頬擦りしてきた。
ちょっと過激の域に突入しかけているが、快く許す。
私にぽかぽかしてほしいと願ってくれたように、私も綾波さんにぽかぽかしてほしいと願っているから。
「……ありがとう。私は綾波さんのこと、きっと好きなんだと思う」
「…………」
「でも私はネルフの人じゃなくなるから、もう会うことはないと思う。………………ごめんね」
心から謝る。
もはや誰も信じられないが、ミサトさんなら信じていい。そして綾波さんなら信じられる。
自然体で私は綾波さんと会話をし、不自由ない受け答えをしていた。それも、私自身も不思議に思わずにだ。
私達の間に妙な波長があって、それが歯車のように綺麗に合致しているのか。
どちらにせよ、私は綾波さんに対して明確な拒絶の意思は初めからどこにも無かった。
「碇さんはエヴァに乗るために生きているわけではないわ。だから、エヴァに乗らない生き方だってあるはず」
……そうだろうか。
私はエヴァに乗るためにここに来た。そしてこれを機に自分を変えようと奮起もしていた。
ああ。
ああ。
そうか。
私は、外的要因をダシに使って都合良く目標を掲げていたに過ぎなかったのだ。
生きているふりをしていた当時の私……でも仕方のないことだったと思う。
後ろ向きに生きていた私が、前を向けるはずなんてなかったのだから。
でも今は違う。
色んな人たちと触れ合って、人間的な変化は間違いなくある。結局は裏切られて人間不信になってしまったとしても、得たものは消えない。
この恐怖もいつ克服できるのかもわからない。
ひとりで生きていくことにはなるが、細々と私なりの幸せを見つけられたらいいな、と思った。
「そうだといいな……」
今日は色々なことがありすぎた。
どうやら随分と私は疲れていたようだった。
枕に顔を埋めていた綾波さんが頭を僅かに持ち上げる。私は少しだけ抱きしめる力を緩めた。
囁かれた言葉は、優しげに溢れた子守唄のようだった。
「──今までよく頑張ったわ」
抱き合ったまま、魔法をかけられたように私はゆっくりと重い瞼を下ろしていく。
綾波さんという掛け布団は、他の何よりも私を満たしてくれるものだった。
涙が、一筋だけ流れる。
今日はぐっすり眠れそうだ。
なぜなら、綾波さんから感じる温かさがこんなにも心地良いのだから。
鬼の書 破に続く
【カノンちゃんパラメーター】
▼身体
両腕:麻痺はほとんど改善。しかし指は繊細な動きに難あり
両脚:完全麻痺。治療不可
腎臓:機能低下(左側)
子宮:機能不全
▼心
・人間不信
└ミサトとレイは例外。レイは抵抗なくすべて受け入れられる
・対人恐怖症
└レイとのスキンシップで少しだけ改善
▼備考
抱き締められることが好きになった
└強く、激しく抱き締めてもらうほど気持ち良くなれる。すごく安心できる。ただしミサトとレイしか受け付けない