それでも私は──   作:次作エヴァはきっと鬱エンド

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2話同時投稿なので、鬼の書 序からどうぞ

これは鬼の書 破

それでもと立ち上がる私のお話


鬼の書 破

 これまでにないほど良い目覚めだった。

 ベッドには綾波さんの姿はない。代わりに掛け布団をかけられている。

 きっと私が完全に寝てから部屋を去ったのだろう。

 時刻はすでに昼前。

 数日前の私だったら顔を真っ青にしていただろう。こんなにも遅くなってしまったことと、朝食を抜きにしてしまったことに。

 しかし私はなんとも思わなかった。たまには自堕落な朝を過ごすのもいいな、なんて考えてしまう。

 これほど明るい気持ちでいられるのは綾波さんのおかげだろう。

 昨晩の出来事がなければ、私はこのネルフに対して辛い思い出を最後に残してしまうところだった。

 ベッドから起きて身支度を済ませ、内線で朝食兼昼食のお願いをする。内線に出たのはマヤさんだった。

 それから十分ほど経った頃にドアのノック音が聞こえた。ドアに移動して鍵を開ける。

 そして目の前に立っていたのはミサトさんと、その背後にふたりの黒服だった。

 黒服たちがいるため、物々しい雰囲気に怯えると、ミサトさんが無言で下がるよう指示した。

 

「おはよう、カノンちゃん。今日は私が届けに来たわ」

 

「あ、はい。おはようございます」

 

「中入らせてもらうけどいいかしら。もちろん黒服たちは入れないわ。部屋の前で待機してもらうから」

 

「それなら……はい、大丈夫です」

 

「ありがと」

 

 カートをガラガラと片手で押しながら部屋に入ってくるミサトさん。

 そのまま奥へと進み、さささっとカートに乗せていた朝食を机に並べ始める。

 

「…………」

 

 よく見ると、机からS-DATが消えていた。

 結局綾波さんはもらったのか。まあ捨てられるよりはいいだろう、などと耽っている間にも用意は終わっていた。

 

「昨日のことは聞いてるわ。だいぶ量減らしてるし食べやすいのにしたけど、これでいける?」

 

 手のひらサイズのカップのヨーグルト。

 拳大くらいのくるみパン。

 あとは牛乳。

 くるみパンは焼き上がりのようないい匂いがする。

 

「たぶん大丈夫だと思います」

 

 今日はなんだか不思議といけそうな気がした。

 パンを千切って口に運ぶ。

 ゆっくり咀嚼して呑み込む。

 少し喉が乾燥していたから、牛乳で潤す。

 ひらすらそれの繰り返し。

 昨日のような唐突な異変は起こらなかった。くるみパンの次はヨーグルトをぺろっと平らげておしまいだ。

 

「ちゃんと食べてくれてよかったわ。ところで朝はアパートのときは和食派だったけど、カノンちゃんはパンでもいけるのね」

 

「私は別にどっちでも全然いいですよ。和食のほうが朝すっきりできるからってだけの理由です」

 

「あら、そうなの」

 

「そうです」

 

 他愛のない話題が終わると、穏やかだったミサトさんの顔が引き締まる。

 ベッドに座り、顔の高さを合わせる。

 

「……さて」

 

 そうだろうなと思いつつ身構える。

 

「食べ終わったことだし、そろそろ本題に入っていいかしら」

 

「……はい。どうぞ」

 

 するとミサトさんはカートの下の段に収納されていた肩掛けバッグを取り出し、その中から大量の書類を抜き取って一部を私に手渡した。

 

「大事な部分を抜粋して説明するわ。『碇カノン』の戸籍はあと二日で消される予定よ。それで新しい名前と戸籍情報はそこに載ってる。家の住所。カノンちゃんの所持金。これはこれまでの使徒撃破報酬やその他の福利厚生などを盛り込まれた総額よ。よほど豪遊でもしない限り、生きるのに困ることはないわ」

 

 書類の該当項目を見て、私は目を丸くさせる。

 桁が想像より二、三桁ほど多い。

 

「他の書類の方に書いてるけど、ネルフを去ったとしてもカノンちゃんはたくさんの極秘情報を知っている。だから行動に監視はつくし、かなり制限がつく。それにもしもそういった行動を取った場合、ネルフはカノンちゃんを消さなくてはいけなくなる。これは絶対に守ってね」

 

「……はい」

 

「ん。だいたいそんな感じよ。何か質問はあるかしら」

 

「ありません」

 

「預かっていたスマホも返すわ。クラスメイトからたくさん連絡が届いてたわよ」

 

「いりません。どっちも辛くなるだけですから」

 

「……わかったわ。じゃあ……じゃ、ぁ……」

 

 これまで事務的だったミサトさんの言葉がか細くなる。

 顔をくしゃりと大きく歪め、僅かに俯く。

 

「……ねえ、本当にここを出て行くつもり? 私たちのアパートに帰ってきてくれてもいいのよ? エヴァに乗らないからって、私はカノンちゃんを捨てたりなんか絶対にしない。家事だってもっとできるようになって、ずっと支えてあげたいって本気で思ってる」

 

 静かな水面に微かな波紋を広げるような声は、嘘偽りのない懇願のように聞こえた。

 

「…………」

 

「ホントは私、死んだ父に少しでも近づきたくてネルフに志願したの。カノンちゃんがお父さんから必要とされたくてエヴァに乗ったのと同じように。私はカノンちゃんに私の思いを重ねてしまっていたかもしれない。それを重荷に感じていたのも知ってる。今エヴァに乗る理由に失望したことも知ってる。だからこそ、エヴァという枷が外れたのなら……! 今度こそ家族として本当に生きていきたいの……!」

 

「…………」

 

 私は……これほどまでにミサトさんの必死な顔を見たことがあっただろうか。

 ミサトさんとの生活は、以前の伯父さん伯母さんたちとのものより遥かに楽しかった。

 ミサトさんと一緒にいたいという願いなどないと言うとそれは嘘になる。

 私もできることならミサトさんの元から去りたくないと思っているから。

 唇が震える。

 感覚がないはずの両脚に、冷たい幻痛を覚える。

 物理的な距離はこんなにも近いのに、心の距離は私の方から駆け足で離れていっている気がする。

 ミサトさんの顔から目を逸らして視線を落とせば、またまギプスをはめた左腕が視界に入る。

 

「────っ」

 

 もちろんわかっている。

 これは私のせいではない。3号機が使徒に侵食され、爆発を起こした際に負った怪我だ。

 完全に治るのだって少なくとも数週間はかかるはずだ。その間、本当に私の介護をするというのだろうか?

 使徒殲滅の使命を背負ってネルフに勤務し、そして疲れ切った身体で帰宅した後は私の介護をする。

 何もしない、エヴァに乗れることから逃げた奴の世話をするのだ。しかも自分のお金で。

 さらに『碇カノン』に対する風評被害にも巻き込まれる。

 もしかしたら私はミサトさんのことを信じきれていないのだろう。たぶん、ミサトさんはそういったのも込みで言ってくれている。

 それでも『迷惑をかけてしまったら』『実は面倒に思っているのでは』なんて勝手な詮索をしてしまい、どうしても信じ切ることができない。

 信じたいけど、私がそれを許せない……!

 唇を噛む。

 じわりと血の味が広がる。

 

「……ごめんなさい、ミサトさん」

 

 私は深く、深く頭を下げた。

 

「私は人が怖いです。だからもう、人の少ない静かなところで生きていきたいです。……ごめん、なさい」

 

「…………そう。なら最後にこれだけはさせて」

 

 ミサトさんはベッドから立ち上がり、私の真正面に立った。そして中腰の姿勢になり、そのまま私を抱擁した。

 綾波さんとはまた違う熱を感じる。

 悲哀に似た寂しい熱。

 

「ごめんなさい。呼ばれたからここに来て頑張ってたのに、こんな結末になってしまって。本当は私……全ての使徒殲滅が完了したら、アスカとカノンちゃんと一緒に生きていこうって本気で考えてた。でももうぐちゃぐちゃになっちゃったわね」

 

「……それは残念です」

 

「いつの日か人への恐怖を克服したら、その時は私に連絡して。そしたら私の家に招待してあげるから。その時はとびきり美味しい出前でも頼んで盛大にパーティーでもしましょう。もちろんアスカも一緒にね」

 

「……はい」

 

「だから……その時までのお別れよ」

 

「…………はい」

 

 ゆっくりとミサトさんの身体が離れる。

 同時に繋がりも離れてしまったような気がした。

 途端に、石でできた太い柱に心臓を突かれたような強い衝撃がどん、と襲いかかった。

 これは本当の痛みではないはずなのに。泣いてしまいたくなるほど痛かった。

 それからは最後まで私たちがフレンドリーな言葉を交わすことはなかった。

 身支度を済ませ、ネルフの出入りゲートまでを職員の人払いが済まされている通路を進む。

 今度はミサトさんにおんぶされてではなく、自分自身でだ。黒服が一緒なのは精神力で我慢する。

 ……思えば。

 ここに初めて来て、近未来的な施設を見た。

 私の知らない世界を見た。

 そこで私は学び、傷つき、得て、失った。

 そして振り出しに戻る。

 すべてを一新して、人知れずひっそりと生きるのだ。

 これでいい。

 ゲートを抜けて外に出ると、すぐ横に黒塗りの車が待ち構えていた。車椅子ごと乗せられる福祉車両だ。

 

「こちらへ」

 

 黒服に促されるがままに車の後ろへと移動する。

 バックドアが開き、スロープがゆっくりと引き出される。私がその上に乗ると、車内から伸ばされたベルトが車椅子の骨に固定され、電動ウインチで引き寄せられるようにスロープを登り、車両に乗り込んだ。

 ふと顔を上げると、ミサトさんと目が合った。

 恐らくこれが最後になるかもしれないと思うと、勝手に口が言葉を話していた。

 

「──今まで、ありがとうございました」

 

 外の音にかき消されないくらい、はっきりと伝えた。

 そうだ。私はこの人への感謝を忘れてはいけない。そのことを知ってもらうと同時に、私自身に刻みつけるのだ。

 ミサトさんが肩を震わせながら返事する。

 その言葉をきちんと聞き届けた私は、大きく頷いた。

 バックドアが閉じられ、私とミサトさんは隔てられる。

 車が発進する。

 私は適当な曲がり角を曲がってミサトさんの姿が完全に見えなくなるまで、後ろを向き続けた。

 出会いと別れ。

 今日はたくさんのものと一度に別れた。

 ぽっかりと空いた虚ろな穴は、そう簡単に埋まることはないだろう。

 人生とは出会いと別れの繰り返しとどこかで聞いたことがある。確かにそれは間違いない。この数ヶ月は私の人生で激動のそれだった。

 そしてもう、私に出会いはないだろう。

 さようなら、皆。

 私が守ろうとした皆、さようなら。

 私は逃げる。皆を捨てる。

 皆が死ぬ時は、私も一緒に死ぬからね。

 前座席の黒服ふたりはまるでロボットのように無言だ。

 目的地はネルフ本部から少し離れた駅。

 そこからしか私が希望した住居には行けない。

 挙げられた候補の中で、最も田舎なところ。小さな家。バリアフリーだけは条件としていた。

 家政婦はいらない。誰の介護もいらない。

 学校にも行かない。通信制でいい。

 保護者は伯父さん伯母さんの名前だけ借りる。

 お金はある。

 義務教育さえ終われば、あとは何をしても自由だ。

 通販で綺麗な花を買ってのんびり育てる人生なんて楽しそう。

 ……夢が膨らむ。

 でも外出する時は気をつけよう。

 世間に顔バレしているからマスクは必需品だ。いつか私の顔が忘れられるまで。

 整形をしなかったのは、目に見えるお母さんからの遺伝を消したくなかったから。

 ミサトさんと別れて約30分で駅に到着した。

 ここから先、黒服たちはついてこない。

 私一人で生きるのだ。

 人目に晒されることに耐えること。これはなんとしてでも克服しなければならない重要事項だ。

 車から降ろされ、黒服たちと一緒に最後の荷物チェックをする。

 どこに行けばいいかのメモはあるし、頭にも入っているから大丈夫。

 

「ではこれにて。あなたのこれからの人生が良いものでありますように」

 

 表面上のお別れの言葉を私に差し出して、黒服たちは車に乗ってどこかに行ってしまった。

 そして私は碇カノンではなくなる。そして明日から新しい名前で生きていく。

 きちんとマスクはしておく。少し離れた場所だが、都会であることに変わりない。だからもちろん他人はいる。

 深く呼吸を繰り返し、他人への恐怖を落ち着かせる。

 今だけだ。今だけ耐えればいい。

 遠くへ行ってしまえばこんな苦しいことは二度と経験しなくていいのだ。

 だから吐かないで。耐えて、私。

 なるべく下を向きながら改札を通り、ホームに移動する。

 ちょうどタイミングよく到着した電車に乗り込む。

 しゅうう、とドアが閉まり、電車は静かに発進した。

 思っていたより私以外の乗客が疎らでよかった。

 ぼんやりとしつつ、時々揺れる吊り革を見上げたりする。停車する度に誰かが乗ってくるのが怖かった。でもそれ以上に、誰かが私の前を通り過ぎるのが怖かった。

 碇カノンであることがバレるのではという恐れ。

 誰かと同じ空間にいるという圧迫感。

 さっきの黒服たちとはまた違う、じわじわくるタイプのもの。

 心を無にし、あらゆる五感を遠のかせる。今ここに在るものを私の知覚器官を通して認知する、ひとつ後ろの感覚になる。

 これは私の処世術のひとつ。私自身を客観的存在に置き換えることで、自分を他人事と捉える。

 

 

 それがなんの前触れもなく切り替わった車両の赤灯と無縁であることは間違いなかった。

 

 

 あまりに突然の出来事に、私の意識が引き戻される。

 他の乗客たちも明らかな動揺を見せる。

 続いて流れる女性の滑らかなアナウンスは、日本政府からの非常事態宣言を告げるものだった。この電車は最寄りの駅に停車し、指定ホールの退避用インクラインへの乗車を案内している。

 これが何を指しているのかは瞬時に理解した。

 たが私にはもう関係のないことだ。私はその世界から逃げる。

 でも、どうしてか──。

 

「……使徒だ」

 

 と口にしてしまう。

 果たして、あの日常がすっかり染み付いてしまったが故の無意識の発言なのだろうか。

 

 ◆

 

 その使徒はまるで、不穏という概念が肉体を得たかのようだった。

 手足といったものはなく、首のない胴体のみ。顔と思われる部位には白い仮面が。

 全身は黒い帯によって拘束されているかのようで、胸部には帯の隙間から赤々としたコアが僅かに覗いている。

 空中を浮遊し、戦闘ヘリの攻撃を一切無視して旧小田原防衛戦を突破する様はあらゆるものを拒絶する絶対的主張。

 だが、セントラルドグマのリリスに辿り着くためには要塞都市による弾丸と爆弾の嵐を抜け、さらにエヴンゲリオンの迎撃をも乗り越えなければならない。

 これまでの使徒は様々なアプローチで侵攻してきたが、どの使徒も最後にはエヴァの前にして破れた。

 悠々としている間に兵装ブロックはすでに配置、装填まで完了しており、一斉に射撃を開始する。四桁に迫る砲口やミサイル発射口が正確に使徒を捉え、衝撃音を第3新東京市に轟かせる。

 これまでにない総攻撃は間違いなく使徒に命中しているが、異次元なほどに堅牢なA.Tフィールドを突破したのは一発もなかった。

 そしてついに使徒が人類の攻撃に反応する。

 一瞬、使徒の目が眩い光を放つ。

 

 ──直後、数秒前までの音を遥かに凌ぐ轟音が地表を舐め。

 要塞都市、その七割を薙ぎ払い、蒸発させた。

 

 昼過ぎの青々とした空に、世界の終わりを想起させるような紫の帳が下りる。

 そして次元の桁が違う圧倒的破壊力の前に敗北した兵装ブロックが、『ジオフロントに次々と落下する』。

 カノンを見送ってネルフに戻ってきていたミサトは、第一発令所へ向かうゴンドラに乗っていながら車両が大きく揺さぶられるほどの地響きを感じていた。

 

「……ここで衝撃波が届くなんて、ただ事じゃないわね」

 

 たった一発で地下深くまではっきりと伝わる衝撃。

 さきの第六使徒の加粒子砲を遥かに凌駕する瞬間破壊力。

 間違いなくこれまでの使徒とは別格。

 だがこれを迎え撃つのはレイと、ダミーシステムを組み込んだ初号機しかいない。

 零号機は前回の使徒戦で左腕を激しく負傷し、修復も完了していない。ダミーシステムは一度しか実戦投入されておらず、どう行動するかはこちらでも完全な予測ができない。

 不安要素があまりに強い。

 ……あの子がいれば。

 もうどこにもいない、傷だらけの少女のことを想い、即座に首を振って否定する。

 頼ってはいけない。

 あれほど苦しんで去ったというのに、また乗って欲しいと少しでも願ってしまった。

 自戒しながらゴンドラに設置されている内線で発令所にいるメンバーに鋭く指示を飛ばす。

 

「総力戦よ! 要塞都市すべての迎撃設備を突貫運用! 僅かでもいい、食い止めて」

 

 設備の破壊や復興資金に足を引っ張られて出し惜しみをする余裕なんてどこにもない。

 全力の全力で使徒を足止めする。突破されるのは目に見えている。だが、エヴァと会敵するまでに少しでも力を削ることができれば十分だ。

 焦りにじわじわと襲われ始めたミサトの対向車線を通り過ぎたのは、赤の巨人を乗せた貨物車だった。

 一瞬の出来事だったが、ミサトはそれを見逃さなかった。

 

「弐号機!? 誰が乗っているの!?」

 

『不明です。こちらからの出撃命令は出ていません!』

 

 マコトの声を聞き、アスカではないことを確信する。

 アスカは現在使徒封印柱に囲まれた棺桶に保管されている。何か異変があれば即座に警報が鳴り響いているはず。

 つまり弐号機に乗ろうとしているパイロットは、誰も知らない赤の他人。

 セキュリティは何をやっているの!

 と責める暇などなかった。少なくともこちら側の味方をして戦ってくれると考えていいだろう。

 ようやく到着したゴンドラから、飛び出すようにミサトは駆け出し、発令所へのドアを開いてついに合流する。

 

「状況は!」

 

 刺すような質問に、マコトは素早く答えた。

 

「N2誘導弾を許可した第二波攻撃まで行いましたが、目標は健在。先程の一撃で地表全装甲システムが融解し、特殊装甲は24層まで到達、貫通しています」

 

「なんて火力……チッ! エヴァによる地上迎撃では間に合わないわ! ユーロに協力を要請! 弐号機をジオフロント内に配備して! 零号機は?」

 

「左腕を応急処置中! 辛うじて出せます!」

 

 モニターに表示された零号機の修復状況を確認したマヤが伝える。

 

「完了次第、弐号機の援護に回して! 単独行動は危険すぎる! リツコ、初号機は?」

 

「現在、ダミーシステムで起動準備中」

 

 普段は冷静なリツコも今回ばかりは額に脂汗を流している。

 

「作業、急いで!」

 

 その間にも主モニターに地上に残存していたカメラが使徒の姿を捉える。

 残っていた兵装もほとんどが壊滅させられ、地表には赤く輝く十字の山が屹立している。

 使徒に巻き付く帯はするすると解け、それらは生きているかのように波打ち、より一層不穏さを増す。

 攻撃によって開けられた大穴を下り、リリスを目指す。阻む障害は、ない。

 けたましいサイレン音が発令所では鳴り響き、スタッフたちはかつてない危機に、死も予感しながらも自分の為すべきことを為す。

 

「目標、ジオフロント内に侵入ッ! 弐号機と会敵します!!」

 

 初手でミスを犯すわけにはいかない。

 偶然にも得た戦力をみすみす失うわけにはいかない。

 誰かも知らない子供だろうが、誰にも捕縛されずに弐号機の封印を解き、さらに射出まで済ませている。

 間違いなく『仕込み』のされている子供だ。

 だから接し方としては、前置きや表抜きの言葉は不要。エヴァを操縦した経験を尋ねたりすることもない。操縦できるものとして接する。

 シゲルからの報告を聞いたミサトは名無しのパイロットとの通信をマヤに確認する。

 

「弐号機との通信は?」

 

「相互リンクがカットされています。こちらからは……」

 

 すでに使徒はジオフロント内に侵入している。空に開いた大穴から顔を覗かせるまで一分もない。

 そんな状況での、通信の拒絶。

 つまり。

 

「そう……ひとりでやりたいのね」

 

 ◇

 

 弐号機とのシンクロは良好。

 思考と動きのリンクにラグはほぼない。

 両の拳を開閉させるテストが完了。

 戦闘可能と結論づける。

 メガネは……かけたままでいい。

 新しい桃色のプラグスーツに身を包む真希波・マリ・イラストリアスは満足げに頷いた。

 ベタニアベースの第三使徒戦。仮設伍号機の乗り心地はどちらかというと良くなかった。

 脚が重く、細かな旋回や急停止などに難があった。仮設とだけあって、実際に日本での殲滅戦ではあまり活躍できないだろう。

 専用プラグスーツも両腕に管を繋ぐ仕様はダサかった。四本脚にするための補助なのはわかるが。

 そしてこのプラグスーツは素晴らしい。新品だからいい匂いがするのはもちろん、スーツの質感や肌に密着する感覚に大いに満足している。それに新型だから、胸もぴったりで気持ちいい。

 

「いい匂い。他人の匂いのするエヴァも悪くない。第五次防衛戦を早くも突破。速攻で片付けないと本部がパーじゃん!」

 

 足元に散らばっているマシンガン二丁を両手に持ち、天井からついに顔を見せた使徒に一斉射撃を開始する。

 しかし使徒はA.Tフィールドを展開して無効化。それだけでなく、何十枚にも重ねて展開することで銃弾を一定距離から一発も寄せ付けない。

 ゆったりと左右に帯を靡かせながらこちらに降下してくる使徒にマリは唸る。

 

「なにこれ、A.Tフィールドが強すぎる! こっからじゃ埒が明かないじゃん!」

 

 これ以上は銃弾の無駄遣いと判断してマシンガンを放り投げる。

 そして足元に用意されていた武器コンテナをセンサーで開き、足でボタンを踏みつけることでバネに弾かれるように宙に浮いたダガー武器を取る。

 

「ほっ! これで行くか〜にゃッ!」

 

 地表に到達した瞬間を狙う!

 疾走して使徒との距離を取りつつ大ジャンプ。頭上から落下エネルギーをプラスした渾身の一突きが、使徒を正確に捉えた。

 そして、A.Tフィールドに激しく接触する音の爆発。

 遅れて衝撃がジオフロント全体を揺るがす。

 切っ先がA.Tフィールドに食い込み、武器を軸に身体を逆立ちの状態になる。

 ……なんてでかいバリア。

 瞬間の目視で、実際はもっとだろうが少なくとも使徒自身の大きさの20倍はある。

 もしかしなくても、使徒はこの攻撃をわざわざ避けるまでもないと判断したからこそ回避行動すら取らなかったのか。

 だがマリは獰猛に嗤う。

 銃はシンプルに距離が遠すぎて銃弾の威力が落ちていた。落下攻撃はシンプルなA.Tフィールドの耐久テスト。

 そして。

 

「ゼロ距離ならばっ!」

 

 素早く肩のウェポンボックスを開き、ありったけのニードルガンを連射する。

 狙いは顔面。まずは明確にダメージを与える。

 しかしそれすらも、顔前にA.Tフィールドを多重展開して阻止された。

 こいつ、早い……!

 ニードルガンはこの弐号機で初めて行った攻撃──いや、エヴァが使徒に見せる初見の攻撃。

 ボックスが開いて発射までのラグはコンマ5秒もない。

 反応速度……本能による防御体制への移行が抜群に高い。

 1秒に満たない攻防。

 終わりは、圧縮されたA.Tフィールドの爆発だった。

 

「ぐっ!」

 

 壁に強制的に押し出されるような感覚。

 無様に地面を転がされながら一気に使徒との距離を開かされる。

 崩壊したビルに激突してようやく停止した弐号機は素早く使徒の姿を視界に収めようとする。

 

「いっててて……て、ヤバッ!」

 

 A.Tフィールドの暴力。

 幾枚も重なった状態で弐号機の頭上に展開されているそれを認知して、本能的危機を察知。その場からバク宙して離脱することで、直後の圧縮攻撃から逃れることができた。

 さっきまでいた場所の空間が激しく押し潰されているのを見たマリは、お遊びで勝てる相手ではないと認識を書き換える。

 A.Tフィールドを自在に操り、完全に掌握しつくしている。だからあのような変則的な応用ができたのだろう。

 

「にゃろう……なんて奴」

 

 使徒は安易に移動したりすることはなかった。

 攻撃を仕掛けてくることもなく、堂々とした様子で佇んでいる。

 地下深くに眠るリリスに接触しに行けばいいのに、しない。

 弐号機の次の動きを待っている。

 

「……なるほどね。キミは障害を全部排除しないと満足できないんだにゃ」

 

 徹底的に敵を叩きのめさないと納得できないご様子だ。

 マリの戦意は維持されている。むしろ昂りを見せる一方。体力もまだまだ余力を残している。

 今はなんとか土俵には立てているが、一定のラインに踏み込まれると秒殺は目に見えている。

 結論、不利。

 敗北は避けられない。

 このままでは(・・・・・・)

 マリはシートの上に立つ。

 なればこそ、短期決戦を臨む。

 現在の機体の膂力では倒せない。だから、全力の全力を出し尽くせるよう、一時的な強化が必要だ。

 ただの強化ではない、身を引き千切られるような順応を乗り越えてでも。

 マリは陽気に操縦席の上に立つ。

 

「どっこいしょ。このままじゃ勝てないな。……よし、試してみっか!」

 

 拳を叩き、スイッチを切り替える。

 ここからはほぼ本気モード。先程までの猫のじゃれ合いのようなふざけた戦闘は一切やめ。

 眼鏡の縁を持ち上げつつ、これまでとは違う低い声で、弐号機に言い聞かせる。

 

「……人を捨てたエヴァの力、見せてもらうわ」

 

 そして、誰も知らない音声コマンドを滑らかに入力した。

 

「モード反転。裏コード……ザ・ビースト」

 

 刹那。

 エントリープラグ内の雰囲気がガラリと切り替わる。モニター表示が落ち、赤黒く染まる。

 肩の拘束具が激しく飛び散り、内部から筒状の突起物が骨格を抉りながら出現する。

 マリのプラグスーツが弐号機の変化──肉体の変質に呼応して高周波の音を発しながら身体を強制的に順応させる。

 

「くっ、う……!」

 

 小刻みに身動ぎしながら無言で悶える弐号機にマリは鞭を叩く。

 

「我慢してよ、エヴァ弐号機……私も、我慢するから……!」

 

 耐える。

 身体中の細胞が暴れまわる。この変質は地獄の熱。

 完了するまでに灼き尽くされかねない。

 奥歯を強く噛み、この熱を耐える。

 シンクロは濁り、だが荒々しさを増して結合する。

 純粋な本能としての同調。理性を捨て、獣に堕ちる。

 前屈みになると、背中からさらに十はくだらない数の突起物が新たに勢いよく出現する。

 そして、本能を爆発させた弐号機の四ツ目が輝いた。

 全リミッター解除。

 すべて規格外。

 E計画に携わった技術者たちですら知らない仕様。

 汚染区域突入も厭わぬ、プラグ深度マイナス値。

 危険など百も承知。

 この使徒は、無茶や無理をしなければ勝てないのだから。

 息が苦しい。

 内蔵が破裂しそうだ。

 それを強引に抑え込んで、大きく口を開いて息を吐き出す。

 L.C.Lに溶けていっているような感覚に襲われながらも、マリはありったけの意志力で自我を維持する。

 グッと身体に力を込めて大きく目を見開き、5秒後の驀進に備える。

 

「身を、捨ててこそ……浮かぶ瀬も……あれッ!!」

 

 弐号機が限界まで口を開いて獣の咆哮を発したと同時。

 電源ソケットをパージし、エヴァとは思えない獣性の解き放たれた動きで大きく跳躍する。

 プラグ内は血よりも赤く染め上げられ、活動限界のリミット表示も激しくノイズが走っている。

 高く宙を舞う獣が、恐ろしい勢いで使徒に肉迫せんと落下する。

 しかし。

 使徒のA.Tフィールドとの激しい衝突によって阻止される。

 素早く離脱して別方向からの強襲。だがこれも防がれる。

 こなくそ……!!

 A.Tフィールドを使いこなす使徒にレベルの低いフェイントは無意味。

 ならば顔前のこれをただ破壊し尽くすまで。

 腕を高く掲げ。振り下ろす。

 

「らあッ!!」

 

 鋭い破砕音とともにA.Tフィールドが砕け散る。

 ──いける。

 活動限界まで時間もある。

 この壁さえ突破できれば勝機はある。

 

「あああああああ──ッ!!」

 

 がむしゃらに殴りつける。

 速く。もっと速く。

 破壊のペースは上がり、使徒に到達できるとマリが確信した、その時。

 使徒の両腕の帯がそれぞれ集約し、分厚い筒状の物質と化していることに気づいた。

 

「────!!」

 

 回避行動を取るには、あまりに遅かった。

 冷静さを欠いて、目の前のA.Tフィールドにばかり意識を集中させすぎたマリの落ち度だった。

 マリが息を呑むのと使徒が不意打ちをしたのは全くの同タイミングだった。

 弾丸の如く伸びてきたそれが、無防備に胴を晒していた弐号機を貫通する。

 そのまま帯を波打たせ、左腕を肩口ごと切断し、右の脇腹を大きく抉りとった。

 激しい血飛沫と一緒に地面に激しく落下した弐号機はすぐに起き上がるも、すでに満身創痍だった。

 止まらない血は瞬く間に地面を赤黒く染め、腹部からはエヴァの内蔵が生々しく零れ落ちる。

 

「うぐァっ! あ……グ……ッ!」

 

 強烈すぎるフィードバック。

 全身を燃やされながら、なお患部から夥しい量の血が噴き出す錯覚に襲われる。

 たが。まだ、戦える。

 お前は知っているか。

 獣っていうのは、追い詰められた時が一番凶暴になるってこと。

 咆える。咆えろ。

 弐号機とマリの雄叫びが重なる。

 今、両者の脳のすべてを支配しているのは、敵を屠ることのみ。

 だからこそ、未だ闘志の衰える兆しなし!

 さらに俊敏性の上がった足で地面を高く蹴り上げる。

 約500メートルの距離を、瞬きの間に詰めんと駆ける。

 肉体の限界を超越した機動力。

 だがその速度すら使徒は正確に捉える。

 再び打ち出された帯が、弐号機の頭部を直撃した。後方へと吹き飛ばされた弐号機は今度こそ動かなくなり、車に轢かれた猫のように痙攣している。

 跡形もなく砕けた右側頭部からは、どくどくと脳汁が垂れ流しになっている。

 人を捨てることを覚悟した特攻でも使徒には傷一つ与えられなかった。

 絶望と諦めの空気が発令所を包み込む。

 その時、リフトに乗ってジオフロントに上がってきたのはレイの乗る零号機だった。

 痛々しいその腕にはライフルではなく、N2誘導弾が抱えられていた。

 意図を瞬時に悟ったミサトは悲痛の叫びを放った。

 

『レイ! 止めなさい! レイッ!!』

 

 しかしそれを無視してレイは使徒へと突撃した。

 そして弐号機と同じように、振り向きざまに展開された強力なA.Tフィールドに阻まれる。

 誘導弾の弾頭と激しい接触し、風圧が辺りの木々を薙ぎ払う。

 使徒と超至近距離に潜り込むことには成功したが、そこからはどうしても詰められない。

 誘導弾後部のジェット噴射も起動させ、突破力を上乗せする。

 

「A.Tフィールド、全開……!」

 

 さらに追加で零号機からの侵食。

 なんとしてでも命中させようと、死に物狂いで腕に力を込め、下半身は一切動じずに地面に縫いつける。

 徐々に侵食の効果が現れ始め、少しずつ、少しずつ弾頭の先端がA.Tフィールドに食い込みつつある。

 

「碇さんが、もうエヴァに乗らなくても、いいようにするっ! だからっ!!」

 

 ……レイならきっと、カノンがネルフを去ることを止められたかもしれない。

 簡単なことだ。

 カノンに「行かないでほしい。助けてほしい」とお願いするだけだ。そうすればきっと、レイのために苦しみながらも決意をひっくり返していたかもしれない。

 でもレイはそうしなかった。

 なぜならそれは、とてもずるいことだとわかっていたから。信用されていることにつけ込んで、いいように使おうとするのと同じだから。

 それにレイは心の底から願っている。

 昨日の夜。

 自分よりも小さくて細い彼女の身体を強く抱きしめながら言った言葉。

 

『碇さんはエヴァに乗るために生きているわけではないわ。だから、エヴァに乗らない生き方だってあるはず』

 

 内向的で暗い自分を変える目的でここに来たと言っていた。

 でもその方法は必ずしもエヴァに乗らないといけないわけではない。

 成り行きでエヴァに乗っているだけで、本当はただの一般人。戦いなんてどう考えても向いてない、どこにでもいる女の子だ。普通の人間だ。

 エヴァに乗るためだけに生きているレイや、エヴァに乗るために長年訓練を積んできた弐号機パイロットとは違う。

 ……平和に生きてほしい。

 確かに重い障害をたくさん抱えることになってしまった。人間不信になるほどのトラウマを抱え込んでしまった。

 二度と克服できないかもしれない。レイを含め、ネルフの関係者を憎むようになるかもしれない。

 それでもレイは願うのだ。

 これからのカノンの人生が幸せでありますように、と。

 眠りに落ちる間際に見せたカノンの小さな涙が、レイの心に初めて『苦しさ』を感じさせたから。

 

 もしいつの日かまた会える日が来たら、あの部屋から持ち出したこれを返してあげよう──。

 

 べコン、と弾頭の先端が潰れる異音が聞こえた。

 レイによる侵食を上回り始めた使徒のA.Tフィールドが誘導弾を押し返し始めているのだ。

 ジェット噴射の燃料はまだもう少しならもつ。だが、零号機自身の身体が持ちこたえられるかが怪しくなってきている。

 完治していない両腕から血が滲み始め、レイは顔を顰める。ここで強引に爆発させても意味がない。

 この絶壁とも言うべきバリアを突破しない限り、この特攻が無意味になってしまう。

 カノンをエヴァに乗せないためには、自分が使徒を倒さなければならないのだ。

 踵を深く地面に沈み込ませて一歩も引かない姿勢をとる。

 もっと集中して。

 侵食の手を緩めないで。今ここで引けば、自分の願いに反してしまう。

 二度と腕が使い物にならなくなってもいい。カノンは四肢を犠牲にしてまで弐号機パイロットの命を救った。

 ならレイだってそれくらいの覚悟はできる。

 迸る熱のまま、限界の限界まで零号機を駆ろうとした、その時。

 足元を這う赤の獣を見た。

 獣はただの肉塊だった。

 死に際の足掻き。

 身体を地面にこすりつける這い方をしながら使徒と零号機の間に割って入り、両者を隔てるA.Tフィールドに食らいつく。

 弐号機に食いつかれたA.Tフィールドは、粘膜のように伸びてやがて伸縮の限界を迎えて破られる。

 残り二枚。

 

「弐号機……最後の仕事よ……!!」

 

 思考力は残っている。

 プラグ深度反転による重度のフィードバックにもまだもう少しなら耐えられる。まだ神経接続は切れない。

 二枚目に食らいつき、破り捨てた。

 あと──。

 

「一枚いいいぃぃッ!!」

 

 最後の残り滓をも燃やし尽くし、顎を割らんばかりの力で弐号機が最後のA.Tフィールドを破った。

 途端、障壁の失った誘導弾が使徒のコアに到達──することは叶わなかった。

 これ以上A.Tフィールドを展開することができない使徒の最終防衛手段は、コアを胸部の外皮で覆うことだった。

 

「!!」

 

 硬い外皮に先端の潰れた誘導弾が直撃する。

 もう後戻りはできない。そして使徒の爆殺はできない。さらに侵食のためだけに展開していたため、この超至近距離と一瞬の間に防御用に切り替える余裕がなかった。

 でも、せめて──。

 力を使い果たした弐号機の首根っこを掴み、一拍後の爆風から少しでも遠ざけるために力の限り後ろへ放り投げる。

 弐号機に乗っているのが誰なのかはわからない。でも、レイと同じ、もしくはそれ以上の死力を尽くして使徒と戦ってくれた。

 だからこそ、敬意と感謝を通信音声に乗せた。

 

「逃げて、弐号機の人! ……ありがとう」

 

『──ッ!』

 

 ……ああ。

 そういえば。

 一番言いたかった人には、まだ一度も言ったことがなかった。

 そんなことをちょっぴり後悔しながら、レイは大爆発に呑み込まれた。

 

 ◆

 

 個人用のシェルターがあるはずもなかった。

 しかしネルフ本部に近いシェルターの構造ならとても大雑把だが覚えている。

 エヴァでの仮想シミュレーションによる戦闘訓練で、兵装ビルや電力供給ビルの位置を覚える時に一緒に覚えた。流石に優先度は低かったから曖昧な部分が多いのだが。

 よほど使徒の攻撃が圧倒的なのか、シェルターに逃げ込んできた人々の顔は不安や恐怖に支配されきっている。

 

「……一緒にいないほうが良さそう」

 

 こんな状況で、もし私が誰かバレてしまったらどうなるかは想像がつく。そうはなってほしくないから、記憶を呼び起こしながら、見つからないように人の流れから抜け出して私だけ別のシェルターに移動する。

 シェルター同士の間には数百メートルほどの間隔があるが、別に苦ではない。電動車椅子だからレバーを倒せばいいだけだ。

 一番近くにあったシェルターには人がいたようだからそこを飛ばしてさらにもうひとつ向こうのは人がいなさそうだった。

 総床面積は2000平方メートル、最大収容人数は250人ほど。

 何もなく、だだっ広いだけの空間。

 非常用の電灯しか灯りはなく、そのせいで薄暗い。

 私はシェルターの端っこに移動し、物言わぬ石像のようにその場でじっとする。

 そうだ、私にすることは何もない。事が終わるまでここでただ待ち続けていればいいのだ。

 きっと今頃ミサトさんや綾波さんたちが頑張ってくれているだろう。聞いたところによると、初号機もダミーシステムというのを使えば戦えるという。それが前回の使徒を倒したらしいし。

 アスカの分の戦力が抜けているのは確かに痛いが、ダミーシステムはきっと私以上の戦力を発揮してくれるだろう。

 だから私の出る幕はない。

 私は学んだ。

 私は変に出しゃばって間違いをする。それで自分を……時には誰かも傷つけてしまう人間だ。

 だから何もしないほうがいい。

 私がこうして大人しく静かにしていることこそが、皆のためになるのだ。

 この戦いさえ終われば今度こそ私はここを去る。どこか遠いところに逃げて、人知れず生きる。

 すると突然、ドアが慌ただしくノックされる音が聞こえた。

 誘導員ならこのドアはロックはかけられないことを知っているはずだ。

 あるいは気が動転してしまい、ドアが開いていることに気づいていないのだろうか。

 

「……これは……仕方ない」

 

 本当はずっと一人でいたかったけど、ずっとこの広い空間を占有するわけにはいかない。逃げ込んできた人がいるのなら、受け入れるのは当然のことだ。

 怖いけど、今は緊急事態だから仕方ない。

 恐る恐るドアに接近し、私はゆっくりと取っ手を握って開いた。

 

「助かった! 皆! ここ開いてるさかい、はよ入れっ!!」

 

 勢いよく中に入ってきたのは、私の見慣れた人たちだった。

 

「鈴原、くん……?」

 

 私の声に気づいた鈴原くんがこちらを見下ろした。

 

「もしかしてセンセか!?」

 

 と、勢いはそこで完全に停止した。

 私の姿を見て言葉を失い、立ち尽くす。

 

「ぇ……セン、セ……?」

 

「…………ぁ」

 

 私がこの状態に慣れつつあるだけで、クラスメイトの前に姿を現すのはこれが初めてだった。

 本当なら嬉しい再会のはずだが、そんなことは全くなく、寧ろ最悪のそれだった。

 私たちが沈黙している間にも、空いたドアから次々と他のクラスメイトたちがシェルターに駆け込んでくる。それだけではなく、大人や小さな子供までも含め、百人はいる。

 皆が皆、土埃などで汚れきっていた。血を流している人も少なからずいた。鈴原くんも、額に血が滲んでいる。

 どう話を切り出せばいいのかわからない。

 喉に棘の塊を詰まらせたかのような苦しさを感じる。これは私の言語能力の問題ではなく、感情的な問題だった。

 

「ま、まあ……そのなんや……久しぶりやな」

 

「あ……うん」

 

 歯切れの悪い返事をした私は、さっと視線を反らしてしまう。

 

「ヒカ……委員長から……話は聞いとる。ネットはよう使わんわしでも……碇のことは耳に入った」

 

「……そっか」

 

「わしらもさっきまで大変やったけど、碇のほうがもっと大変なんやったんやろうな」

 

「いや、そんなことは……」

 

 私は何もしていない。

 ただ部屋に隔離されて不貞寝していただけだ。そしてエヴァを降りると宣言して逃げようとしていた。

 

「ほら、委員長! ケンスケ! ちょっとこっち来いや!」

 

 鈴腹くんが後ろを向いて手招きをすると、懐かしい友達がこちらに近寄ってきた。

 

「なによ鈴原! あなたもさっさと怪我人の手当を……って、カノン……?」

 

「……マジか。まさかこんなところで再会できるとは思わなかったよ」

 

 私はこの場から消えてしまいたくなった。

 複数人に囲まれているという状態だけで人間不信による過剰反応が出てきてしまう。

 絶対に言われるであろう、「どうしてここにいるの?」が怖くて怖くて仕方ない。

 エヴァに乗りたくなくなって、だからネルフを去って、クラスメイトたちに一切何も言わずにどこかに逃げようとしていただなんて口が裂けても言えない。言ってしまったらどう思われるかを想像したくない。

 

「カノンと会えて本当に良かったわ! 今回の避難警報はただごとではないし、私たちがさっきいたシェルターは壊れちゃって……だからここに来たの」

 

「壊れたって……皆は無事だったの?」

 

「それは……」

 

「……18人、瓦礫に巻き込まれて亡くなったよ。その内の4人はクラスメイトだった」

 

「────────」

 

 相田くんのログのような返答は、私の脳を凍りつかせた。

 

「今回ばかりは本当にヤバいとオレは思ってるんだけど……なあ、碇は何か知らないのか? ネルフの人間なら使徒がどれくらい強いとかわかるはずだろ? 地上にいる時に使徒を見たんだけどさ、複数のN2誘導弾の直撃を食らっても無傷だったんだ」

 

 私は今回の使徒がどれくらいの強さなのかは何も知らなかったが、相田くんの話を聞いてだいたい推定することはできる。

 N2を複数命中させられても無傷というのは、規格外レベルの防御力を誇っているのは間違いなさそうだ。私が初めて倒した使徒は、N2地雷ひとつで体表をある程度焼くくらいのダメージだった。

 そしてシェルターが破壊されたということは、使徒はジオフロントまで侵入してしまっていることを意味する。

 強敵であることは疑いようがない。

 でも私は何もしない。

 

「あれは相当苦戦するぞ。そういえば碇はエヴァには乗ら──」

 

「──ケンスケ。碇がここにおるんやぞ。察しろ」

 

「ぁ……そうだね。ごめん、碇」

 

 平謝りする相田くんに「いいよ」と本当は許す資格なんてないのに許す。

 私は三人との話は終わったと判断してじりじりと距離を取って隅っこの場所へと移動を開始する。

 

「ちょ、ちょっとカノン。どこに行くつもりなのよ」

 

 ヒカリが伸ばした手が、向きを変えようとしていた私の手首を掴んだ。

 

「ひっ」

 

 ぱしっ、と私は無意識に手を払い退けてしまう。

 その音が、嫌にシェルター内に響いた。

 三人だけでなく、シェルターにいる人のほとんどの意識が、視線が、私に向く。

 一瞬にして私の恐怖心は爆発寸前にまで追いやられる。

 

「ぁ、いや……ご……ごめん」

 

 自分の認識の外からの刺激を受けてしまった私は、つい反射的な行動をしてしまっていた。

 悪意がないのはわかりきっていたのに。手に残る熱い感覚をひしひしと感じながら三人を見やる。

 

「つい……その……」

 

 喉が焼けるように渇き、言葉が途切れる。

 もどかしい。

 どうしてこんなことをしてしまったのかを説明したいが、怖い。そもそも目を合わせることすら難しい。

 綾波さんやミサトさんならほとんど抵抗はなかったのに、どうしてか、私はヒカリたちのことをノーガードで受け入れることができない。

 

「わ、私のことは大丈夫だからさ、ほら、三人は怪我人の手当てとかしてあげてよ」

 

「カノンは手伝ってくれないの?」

 

「無理だよ……手伝えないよ……だって私こんなんだし、器用に指動かせないからちゃんとできないよ。それに…………人と話すのが怖、い」

 

 私は何に向かって会話をしているのだろうか。これでは硬いコンクリート床と会話しているみたいだ。

 リハビリで手の指もだいぶ思い通りに動かせるようになった。でも指の一本一本を意識して力を込めるのはあまりに困難だ。大きなものなら指すべてを使えるから誤魔化しながら掴める。でも細かったり小さいものは無理だ。精度はがくんと落ちるし、数分間ほどしか集中できない。休憩を挟まなければほとんど機能しない。

 もうこれ以上改善はできなさそうであることはなんとなく感じている。

 初めは車椅子の車輪すら上手く握れなかったのだ。ここまで改善できたのならば素直に喜ぶべきなのだろう。

 

「……そうか。じゃあセンセはわしらとは話したくないってことか」

 

 そんなフラットな言い草に、私は取り繕うように口を開く。

 

「そんなつもりじゃ……!」

 

「でもせやろ? 最初にわしと目があったきり、一回もこっち見てくれへんやないか」

 

「────っ」

 

 反論できない。

 そして自罰。

 ふたりとは問題なく会話ができていたというのに、どうして今の私は一方的に拒絶するような態度を取ってしまっているのか。今はたくさん人がいる状況だからだと言えるが、これはただの言い訳に過ぎない。

 

「ちょっと鈴原、言いすぎよ。カノンに何があったのかわかってるでしょ? 人間不信みたいなのになっても仕方ないわよ。今はそっとしておいたほうがいい」

 

「そうか? 委員長は本当にそう思ってるんか? わしは違うぞ。委員長、わしらは知ってるはずや。ケンスケ、お前はわかるよな? わしらがセンセに助けられた日、こいつが傷ついてるのを間近で見たお前なら」

 

 鈴原くんの呼びかけに、親友は静かに頷く。

 そしてふたりは一緒に私に向かって歩いてくる。

 近づいてくる。

 逃げたい、なんて思っている間にも元々数メートルしかなかった私達との距離はほぼゼロになっていた。

 

「碇」

 

 相田くんに呼ばれ、私は恐る恐る顔を上げた。

 ふたりは床に片膝をついて私を見上げていた。

 その瞳はふざけたり非難したりするようなものではなく、真剣さの滲んだ、真っ直ぐな眼差しだった。

 

「傷ついている時こそ、誰かが近くにいてやらないといけないんだ。そうじゃないと辛いだろ? ひとりで抱え込んでしまったら潰れてしまう。誰かいなかったか? 碇のことを大切に想って、側に寄り添おうとした人が」

 

「──────」

 

 いた。

 ふたりも。

 でもそれらをすべて振り払って逃げようとしていた。

 

「すまんなセンセ。一番大事な時に側にいてやれないで。本当は委員長とわしら、何度もネルフに行ったんやで。たぶん今の状態のセンセと会わせたくなかったんやろな。配慮ってやつか。全部門前払いされたわ」

 

 違う。

 違うの。

 謝られる資格なんてこれっぽっちもないのに。

 

「……私、逃げようとしてたの。エヴァに乗りたくなくなったからネルフをやめて、ここから遠く離れたところに逃げようとしてた。それもクラスメイトの誰にも言わないで。だからむしろ怒ってくれていいよ。なんでそんな大事なこと教えてくれなかったんだって」

 

「そうやな。確かにそれは誰でも怒るわな。ずっと心配してた奴が突然どっかいなくなるんやから」

 

「うん……ごめん」

 

「というわけで、この避難が終わったらちゃんと話そうぜ。オレたちはエヴァ関係なしに碇のことを大切な友達だと思ってるんだ。家がないのなら委員長の家に転がり込めばいいんだしさ」

 

「うんうん……って、ええっ!?」

 

 強く賛同する素振りを見せるヒカリだったが、後半部分に素っ頓狂な声を出した。

 しかしながらやや上を見上げながら指で数を数える。

 

「……私達姉妹が三人プラスカノンで、使えそうな部屋は……うん、あるね。大丈夫! お金もまあ、なんとかなるでしょ!」

 

「てなわけで、碇のリスタートは使徒が倒されてからだね」

 

 ここにいて居続けていいのだろうか。

 ヒカリたちはこう言っているものの、やはりこの地域は人口密集地帯だ。ということはつまり私を知っている人は多いし、その分だけ私は窮屈な生活を送ることになってしまう。

 今更整形を申し出る?

 嫌だ。この顔だけは死ぬまで変えたくないという変な意地がある。名前を捨てたのは、碇という名前に執着する理由はないし、カノンは私自身が決めて改名したものだから私の自由だ。

 所詮は子供の浅知恵。

 そんな風にお父さんは思うかもしれない。

 結局世の中が回るのは大人の深い考えのもとにあるわけだし、私達は大人に庇護してもらうことで生きている。

 大人になれ、とお父さんに言われた。

 私にはまだなれない。なりかたもわからない。

 それでも、私が素直に人に悩みを打ち明けて相談するという行為が、微々たるものかもしれないが大人への一歩だったらいいな。

 この三人とは他人とは違って絆があるし、ある程度の信頼はできているから。

 

「うん……ありが──」

 

 胸に熱いものを感じながら友達に感謝の言葉を伝えようとした瞬間。

 強烈な破壊音とともに分厚い壁を粉砕して何かが一部だけシェルターに侵入してきた。

 私を含め、全員があまりの出来事に反応できなかった。木っ端微塵に破壊された、大小問わずコンクリート片が広い床に散らばり、外からの土煙が流れ込んでくる。

 反射で顔を覆っていた私は、使徒の攻撃で流れ弾を受けてしまったのかと想像しながら煙が晴れるのを待ち、シェルターに侵入してきた何かを見ようとした。

 恐らくジオフロントにある……ピラミッド型建造物の欠片か、それとも自然公園に生えている木々の一部だと予想して。

 だが私の視界に飛び込んできたのは、赤い巨人の、グロテスクに破壊された頭部だった。

 

「…………弐号機?」

 

 さらによくよく見ると、私の知る弐号機とは明らかに外見が変化している。使徒による攻撃によって変形したとかそういうのではなく、まるで獣のような……悍ましい歯をびっしりと生やした口腔がある。

 そしてこれは間違いなく使徒によるものだろうが、右の頭部を大きく抉られ、中の脳がまる見えになっている。口からは止めどなく血が流れ、それはあっという間にシェルターの床を満たした。

 一般の人々が悲鳴を上げる。

 エヴァの存在すら知らない人からすると、弐号機こそが化け物に見えるのかもしれない。

 幸い、壁の破壊に巻き込まれた人はいないようだった。

 そのこたに安堵しつつも私は大きな疑問を抱かずにはいられなかった。

 今、弐号機に乗っているのは誰だ?

 私の心の中の疑問に応えるかのように、弐号機の頭部が微かに動いた。

 

『いってってって……死んじゃうとこだったにゃー』

 

 アスカではない。

 アスカはもっと引き締まった声で話す。

 そして三つの眼光が私を捉えた……ような気がした。

 

『あれ? 何でこんなところにいんの、君? 一機足りないと思ったら、そういうことか……』

 

 明らかに私のことを指して言っている。

 どこかで聞いたことのあるような声だったが、そんなことは今はどうでも良かった。

 

「……私はもう、エヴァに乗らないって決めたの」

 

 皆がいる前でこんなことを言いたくはなかったが、このパイロットの呼びかけを無視するわけにもいかなかった。

 せっかくバレないようにマスクをしていたのに、これでは全くの無意味だ。

「え……君があの碇カノンなのか!?」などという言葉が飛んでくるが、私はなるべく無視した。

 

『エヴァに乗るかどうかなんて、そんなことで悩むやつもいるんだ。でもこのままだと君も皆も死んじゃうよ……? だって初号機はダミーシステム起動しないっぽいし、零号機は特攻したけど使徒無傷だったし』

 

「特攻って……! 綾波さんが!? 綾波さんは大丈夫なの!?」

 

『わからないにゃ。もう、使徒を止められるのは誰もいない。希望は初号機しかいないけど、起動しないから駄目かも。逃げたほうがいいよ。ほら、手伝うからさ』

 

 そう言ってパイロットは弐号機を動かして壁穴の隙間から私をすくい上げようと手を伸ばしてきて──。

 

『ん? 何してるの、君たち?』

 

 その動きを止めた。

 私の前には、三つの影。

 遮るようにして三人が立っている。

 両手を大きく広げてさらに一歩、大きく前に出た。

 

「カノンは連れて行かせないわ」

 

 委員長は凛とした声できっぱりとパイロットを拒絶した。

 

『んー、いやいやいや。逃がすだけだから別に変な意味はないんだけどにゃー……君たち、今の状況わかってる? エヴァに乗るにしても逃げるにしても、一刻の猶予もないんだよ?』

 

「カノンはエヴァに乗ることでいつも傷ついてる。こんなことになってしまったのに、それでも戦わされるの?」

 

『んん? 話が噛み合ってない感じだね。そりゃあこっちとしては子猫ちゃんに戦ってほしいけど、それは子猫ちゃん次第なんだにゃ。その判断をするために、まずはこの場所から連れ出さないと』

 

「センセはもうエヴァに乗りとうない言うてるんや。だからお願いやからそっとしておいてやってほしい」

 

 もちろんヒカリたちに弐号機を止める術はない。

 指で弾くだけで致命傷を負わされることは間違いない。

 だというのに、立ち続ける。

 私に見せるその背中は、子供だというのにとても頼もしく、大きく見えた。

 ヒカリたちは殺されるかもしれないという恐怖心があるはずなのに、なお私への純粋な気持ちが勝るというのか。

 なぜ、そこまで。

 なぜ、なぜ、なぜ!

 私は皆を捨てたのだ。

 もう守らない。

 そんな私の一時の自己中心的な気持ちで捨てた。私がエヴァに乗れば守れるはずの、将来的に死ぬかもしれない人を見殺しにした。

 だから責めていい。むしろ責めるべきだ。

 私はもちろん大きく傷つくが、正当性のある非難だから言い返さない。言い返せない。

 それを受け止める覚悟もしていない。逃げようとすらしていた。誰もいないシェルターに行こうとしたのがその証拠。

 どこまでも自分勝手で、救えない愚か者。

 それが私だ。

 だからこんな私を大切に想ったりすることなんかよりも、自分の命を何よりも優先するのが普通だ。

 わからなかった。

 何か裏があって、そのために私を守ろうとしているのだと邪推してしまうほどに。

 そして私の戸惑いは増す。

 ヒカリたちだけでなく、ぞろぞろとクラスメイトを含めて一般人たちも集まり、同じように両手を大きく広げて立ち塞がる。

 弐号機が低く唸る。

 

「な、なんで……!」

 

 ついに私は疑問を口にした。

 見ず知らずの人たちに、慟哭にも似た叫びで問う。

 中年の男性が振り返る。

 皺の寄った目元を緩やかに綻ばせ、答える。

 

「それは、君を助けたいと思っているからだよ」

 

「────」

 

 脳天を貫かれるほどの衝撃。

 たったそれだけ。それ以上なんてない。裏も深さもない、浅い理由。

 

「私達の命は碇カノンに救われたもの」

「彼女の我儘くらい叶えてやってはくれないか」

「傷だらけの女の子に守られる世界は本当に幸せなのか」

「碇カノンを責める人の何万倍も、碇カノンを褒める人がいる。少なくともここにいる僕達は皆褒める人だ」

「どうか休ませてやってほしい」

「その結果俺たちが死ぬのなら、それは仕方のないことだ」

「普通の生活、普通の人生を送って欲しいと私達は願ってる」

 

 なんだ、これは。

 なんだ、この感情は。

 ……苦しい。今まで負った、どんな傷よりも苦しい。胸の奥まで掻き毟りたいほど熱い!

 熱くて熱くて仕方がない!

 しかし私はこの感情の奔流を発散させる方法がわからなかった。

 堪えて、堪えて、堪えて。

 両手を胸の前に持ってきて、ぎゅっと押し付ける。

 それでもどうしょうもなくなって、熱は上へ上へと駆け登る。私はそれを止められない。

 喉を伝い。

 顔に広がり。

 そして、透明な雫となって私の目元から溢れた。

 止まらない。全然止まらない。

 拭えども拭えども、熱はまったく収まらない。

 彼ら彼女らの言葉が、私の霧散した心の形を再構成していく様を感じ取った。

 久しく忘れていた、深い感動から来る涙を私は流していることに気づいた。

 目の前がぐしゃぐしゃになる。

 一体私は、この世界の……人々の何を見ていたのだろう。

 こんなにも眩しくて暖かくて、嬉しいものが目の前でキラキラと存在感を強く放っているというのに。

 

「………………ああ」

 

 私はこの人たちを守らない。

 見殺しにする。

 そういう決断をした。

 でも。

 でも。

 守りたいという気持ちは、やはり私の中にある。

 ああでも、裏切られるのが怖い。

 そんないつまでも決着のつかないせめぎあい。

 全員は守れない。

 私は聖女ではない。正義の味方でもない。

 私が命を懸けて戦い、皆の命を守ったとしても日常を壊してしまうのは避けられない。

 日常を奪われた人たちの怨嗟の声に耳を傾けていたらまた私は壊れる。

 やっぱり後悔して、決断を激しく後悔する。

 ならどうすればいいか。

 

 皆を守ろうと努力しなければいい。

 

 皆を守ろうと強く意識するからこそ、私は脆くなるのだ。

 良い子であろうと私は努めていた。

 だから駄目だったのだ。

 そう。私は私が本当に守りたいと思った人たちのためだけに戦う。

 そうすれば、余計なノイズを気にしないで済む。『ついで』で皆を守ることができたのならそれでいい。

 しかしその道は嫌悪されるべき道。

 人の命の価値を相対的に下げる、悪魔の業。

 私は良い子ではなくなり、悪い子になる。

 でもそれでもいい。

 なぜなら、そうしてでもこの人たちを──三人の親友を守りたいと思ったのだから。

 マスクを外す。

 私の顔を見た人々は静かに固唾を呑んだ。

 ゆっくりと手元のレバーを倒し、前に進む。

 海が割れるように私の進む道を皆が開ける。

 弐号機の目の前で私は進行を止めた。

 弐号機を通して、パイロットと目が合ったと確信した。

 

「私は行くよ」

 

 背後でどよめきが起こる。

 私を守ろうとしていたのに、当の本人が戦場へ──地獄へ戻ることを望んでいるのだからそのどよめきは当然のものだ。

 

「カノン」

 

 ヒカリの声が背中に触れる。

 私は頭だけゆっくりと振り返らせた。

 ……ヒカリは泣いていた。しゃくりあげることはせず、目を真っ赤に泣き腫らしながら私を見ていた。

 しばらくの沈黙。

 

「……ごめん、ヒカリ。私は行くよ。世界が終わるのを望んでるわけではないし。私は別に死にたいって思ってるわけでもないし」

 

 これは気が狂った末の行動ではない。

 きちんと私なりに考え、結論づけたものだ。

 もちろん、これが間違えた結論なのかもしれない。いつかきっと、これもまた後悔するかもしれない。

 だとしても。今この瞬間の私は絶対に間違っていないと胸を張れる。

 

「──生きたい。そのために地獄に行くの」

 

 私はヒカリだけでなく、鈴原くんと相田くんがしっかりと頷くのを見てから正面に向き直った。

 そして地獄への片道切符を切るべく、獣に語りかけた。

 

「お願い。連れて行って」

 

『……君の勇気に敬意を』

 

「──行ってくるね」

 

 上から覆いかぶさった弐号機の手が車椅子ごと私を掴み取る。

 浮遊感とともにシェルターから連れ出される。歩いているというより、這っているようなリズムで手の中の私に振動が伝わる。

 やがて振動は止まり、ゆっくりと掌が開かれた。

 目の前に広がったのは、私の知らないジオフロントだった。

 あれほど緑に溢れていた健康的な自然は一切消し飛ばされ、木々は枯れ、灰色の天蓋が仮初の空を覆っている。

 生命の存在を感じさせない、死んだ大地が広がっていた。

 

「────」

 

 どれほど壮絶な戦闘を繰り広げていたかは想像に難くない。

 使徒はどこ。

 なかなか収まらない煙の中から懸命に使徒の姿を探す。

 そして、いた。

 黒い、奇怪な形をした存在。

 何本もの帯をゆらゆらと揺らしながら、正面の巨人を見下ろす。

 

「零号機……っ!?」

 

 零号機には逃げる素振りすら見せない。

 両腕も失い、完全に行動不能になっている。

 使徒がゆっくりと前屈みになる。それに連動するように仮面の裏で何かが激しく蠢き、長く巨大な器官が仮面を押し上げながら伸びる。

 それは迷いなく零号機へと迫り、その胴体をたった一口で丸呑みした。

 

「綾波さん!!」

 

 残された零号機の膝から上は勢いよく血が噴き出し、バランスを失って倒れる。

 生々しい咀嚼音がジオフロント全体に響く。

 これは、綾波さんを食べている音だ。

 我が人生で、これほど怒りが込み上げたことはなかった。

 怒り狂いそうだった。

 やがて咀嚼を終えた使徒は零号機の頭部カバーだけを汚らしく吐き出し、ゴクリ、と嚥下した。

 喉に当たる部分の膨らみが胴に落ちていくのを見た。

 すると使徒の身体に変化が訪れる。

 悍ましい不気味な、低い産声を上げながら帯の下で丸みのある新たな肉体を生成する。

 白い肌。二本の腕。二本の脚。そして胸部には二つの膨らみ。さらにその中心にはコアを覆う胸骨。

 それは、女性そっくりの身体。

 綾波さんを取り込んだことで、使徒が新たなステージへと進んだのだ。

 

『零号機と……融合してる。パイロットごと吸収してしまったんだ。もう誰も勝てないかもしれない。それでも君は戦うの……?』

 

 私はその問いを無視した。

 答えるまでもなかったからだ。

 私の無言を答えとして受け取ったパイロットは私を優しく下におろす。

 指の隙間から、勢い余って車椅子が倒れないように気をつけながら地面に降り立つ。

 そして、レバーではなく、自分の手で車輪を掴んで前に進みだした。

 くそ……くそっ!

 私の脚が麻痺していなければ、走ってケイジまで行けるのに!

 車椅子のスピードではどうしても駆け足に劣る。

 でもだからといって止まるわけにはいかない。

 もどかしい。指が緊張と恐怖と麻痺で思い通りに動かせない。

 だが進む。確実に近づいている。

 ネルフに別れを告げたはずなのに、一日足らずで戻ってきてしまった。それも、エヴァに乗るために。

 何をしているのだろう、私は。

 何度も何度も掌を返して。

 恥ずかしい。

 でもそれでもいい。だって私は子供だし、子供だから我儘を言うのだ。

 背を見せていた使徒が何の前触れもなく振り返り、光線を放つ。狙われたのは本部直上の地上施設で、巨大な爆発とともに蒸発した。

 爆風が離れていた私にも襲いかかり、僅かに浮遊感を感じたと思えば、私の身体は宙へ飛ばされていた。

 

「あぐ……ッ!」

 

 背中から激しく落下する。

 一瞬だけ、意識が白黒した。

 鋭い呼吸を繰り返し、急いで車椅子を探す。

 幸い車椅子は四メートルほど離れた位置に倒れていた。見たところ、骨がひしゃげたりといった外傷もない。

 速く、速く。

 スカートに土を擦り付けるようにして地面を這う。両腕を必死に前に伸ばし、車椅子へと向かう。

 悔しい……。

 こんなんじゃいつまで経っても辿り着けない。こんなことをしている間にもいつ使徒がリリスに向かい始めるかわからない。

 声にならない声を上げてから私は歯を食いしばる。

 

「──ん? カノンちゃんじゃないか」

 

 弾かれるように私は顔を持ち上げた。

 そこには土に塗れた加持さんが、いつも通りの飄々とした顔で私を見下ろしていた。

 

「加持、さん……? こんなところで何をしてるんですか……?」

 

「俺かい? 見ての通り、俺はすいか畑の世話をしてるのさ。さっきの爆発で全滅したけど、もしかしたら無事なやつがいるかもしれない。それを探しているんだよ」

 

「そんなことしてる──」

 

「君こそ、こんなところで何をしているんだい?」

 

「…………」

 

 加持さんの瞳は、飄々としていながらも私に『尋ねていた』。

 そういえばここはすいか畑だった。

 もう跡形もなく荒れ果てている。美味しそうだったすいかたちはざっと見る限りすべて割れて中身を地面に撒き散らしている。

 

「俺はここですいか畑の世話をすることしかできない。俺にあの使徒は倒せないからな」

 

「…………」

 

「…………君はまた戦うのかい? 一度はさよならをしたのに、また戻ってきて」

 

「…………」

 

 加持さんは私に訊いている。

 覚悟を、訊いている。

 

「あれだけ傷ついたのに。もう誰も信じられないのに。それでもエヴァに乗りたいと」

 

 私なんかよりずっと立派な大人。

 いつも有耶無耶で、翻弄されて、半端な私とは違う。

 ついさっき抱いた覚悟。

 それを加持さんは『本当にそれでいいのか』と最終確認をしているのだ。

 

「乗ります」

 

 私は加持さんを見上げ、ありったけの意志力を込めて答えた。

 

「ほう。それはどうして?」

 

「守りたい人がいるからです」

 

「でもそれはこれまでと同じだよね?」

 

「違います。私はもう皆を守りません。私は私のためだけに、私が守りたいと思った人だけのためにエヴァに乗るんです」

 

 加持さんは僅かに肩の力を抜いた……ように見えた。

 

「その覚悟を後悔しないと断言できる?」

 

「できません。いつかきっと、どうしてあんなことをしてしまったんだろうって後悔します。それを受け止める覚悟もしてません」

 

「じゃああまり意味が──」

 

「それでも」

 

「…………」

 

 付け焼き刃でもいい。

 いっそのこと、今この瞬間だけの覚悟でもいい。

 曖昧で、ふわふわしてて。いつまで経っても自分の芯というものを自覚しない半端者でも。

 

「それでも私は──今、立ち上がらないといけないから」

 

 この想いは決して止めてはいけないから。

 

「……そうか。そうか。まあ結局の所、人ってのは理屈とかじゃなくてその時の感情で生きているところもあるもんな」

 

 寂しい笑みを浮かべながら、加持さんはゆっくりと頷いた。

 

「だから加持さん。私を助けてください。私を……あの場所に連れて行ってください」

 

「喜んで。傷だらけの少女を地獄へ運ぶ死神の役、確かに任されたよ」

 

 加持さんは私に近づき、ひょい、とお姫様抱っこをした。

 

「え!? ちょ、ちょっと! せめておんぶとかで……!」

 

 流石に男の人にそんなことされるのはあまりに恥ずかしい。

 

「急いでるんだろう? 早く行こうぜ」

 

 わざとだ! この人絶対わざとだ!

 いたずら小僧のような笑みを口の端に浮かべた加持さんは私の言葉を無視して走り出す。

 使徒はまだジオフロントを練り歩いているだけで、セントラルドグマへの道は見出していないようだ。

 しかしながらいつバレるかは時間の問題。

 

「……君は幸せにならないといけない」

 

「え?」

 

 突然言われた言葉に、私は聞き返してしまう。

 

「俺には弟がいてね。セカンドインパクト後にある施設にいたんだ。でもそこでの生活から仲間と一緒に弟を連れ出して逃げたんだ」

 

 思い出話をする場合ではないのでは思いつつも、黙って耳を傾ける。

 

「食料の調達が難しくてね。だから俺たちは拠点の近くにあった軍の基地から非常食を盗んで生きるような生活を送ってた」

 

 まだ本部までは距離がある。

 

「ある日、俺が忍び込む当番でね。しくじって捕まえられた。で、銃を突きつけられて怖くなって……拠点の場所を教えてしまったんだ」

 

「それで……どうなったんですか?」

 

「なんとか命からがらそこから逃げ出した俺は一目散に拠点に戻ったよ。でも拠点にはもう誰もいなくて、死体の山しかなかった」

 

「…………それは」

 

 加持さんはさっきと同じ、寂しそうな笑みを浮かべた。

 

「ああ。俺のせいだ。俺が仲間を……弟を売ったんだ。後になって激しく後悔したさ。きっとそれは葛城も同じだ。あいつはセカンドインパクトを間近で見たただひとりの人間で、父親の命と引き換えに生き延びた」

 

「あの……どうしてそんな話を……?」

 

「知っておいてほしかったからさ。誰かを犠牲にして生き残ってしまった、幸せになる資格のない俺たちのことを。その点、君は違う」

 

「どこがですか?」

 

「アスカを助けたじゃないか」

 

「……私はアスカを助けてなんていませんよ。私がもっと早く決断していれば、あんなことにはならなかったはずです」

 

「……でもアスカは死ななかった。もし君が本当に何もしていなければ、きっとダミーシステムが使徒ごとアスカを殺していた。君は誰も犠牲にしなかったんだ。そこが決定的に違うところ。俺たちではもう進めない道を君は進んでいる。だから俺たちは、人間として君のことをこの世の誰よりも尊敬している」

 

「駄目ですよ加持さん。こんなときに言わないでくださいよ。ずるい。ずるすぎます……」

 

「前も言っただろう? 大人はずるいくらいがちょうどいいのさ。……ん、そろそろだな」

 

 いつの間にか本部はすぐそこだった。

 顔を引き締めた加持さんは勢いよく本部に侵入し、目的地に向けて一直線に駆け出した。

 

 ◆

 

 ゲンドウは困惑を隠しきれなかった。

 初号機ケイジ上部にあるモニタールーム。その操作盤を前にして、目下に鎮座する初号機を見下ろす。

 リツコの報告によると、使徒が零号機を取り込み、それによって使徒の判別パターンが零号機へと切り替わっているという。

 セントラルドグマに判別パターンが使徒であるものが侵入した際、ネルフはもちろん、ここら一帯の地域を巻き込むほどの自爆装置が作動する。

 しかし零号機へと変化したのなら、それを回避されてしまう。つまり、苦もなくリリスにたどり着かれてしまう。

 そして最後の砦となる初号機は、ダミープラグを受け入れないでいた。

 試運転をし、問題なく起動した。使徒を倒す実力も見せている。だから今回も起動するはずだ。

 前回から手を加えたとこで不具合を起こしているということも絶対にない。

 それなのに、なぜ。

 失敗を告げる人工アナウンスとともに、初号機の項に埋め込まれていたダミープラグが排出される。

 

「なぜだ……なぜ私を拒絶する、ユイ……!」

 

 この緊急事態時に、何を考えているのか。

 その瞬間、大量のモニターたちにあるものが映される。ゲンドウは何も操作していない。これは初号機からの単方向な操作だ。

 そしてゲンドウは、自身を囲むように表示されたそれを見て、目を見開いた。

 こちらを見る、カノンの顔。

 ゲンドウは低く吼えた。

 

「これが……これがお前の答えだというのか……! しかしあいつは私たちの──」

 

『──お父さん!!』

 

 どくん、と心臓が高く跳ね上がるのを感じた。

 ガラス張りされたモニタールームの前面からケイジを見下ろす。

 そこにはふたりの人間がいた。

 ひとりは加持リョウジ。

 そして、彼に抱えられた碇カノン。

 

『私を……私を、この初号機に乗せてください!!』

 

 カノンと視線が交差する。

 ほんの数日前、ヒステリックを起こして自殺しようとしていた少女が、今度は揺るぎない自我を抱いて戻ってきた。

 ダミーでいい。

 カノンが乗る必要はない。ダミーの有用性が証明された今、カノンは不必要だ。ゲンドウの中では、元よりレイの代わりとして呼び戻しただけの予備パイロットだった。

 しかしどうしても問わなければならなかった。

 事実、初号機は起動しない。起動するにはカノンしか受け入れないとまで。

 そこへまるで、仕組まれたように本人が乱入してきた。

 その真意は……奈辺にありや。

 

「なぜここにいる」

 

 一瞬、躊躇うようにカノンは俯いた。

 しかし、拳を握りしめてゆっくりと顔を持ち上げると、見たことのないような凛々しい顔で言い放った。

 

『私がッ! エヴァンゲリオン初号機パイロットだからです!!』

 

 思い出す。

 初めて初号機を見せ、乗るように迫った時の反抗的の言葉とは違い。

 紛れもない自分の意志でこの鬼に乗るのだな、と。

 

 ◆

 

 オペレーターたちが使徒の攻撃による被害を次々と報告する。

 その中に、ついに最悪の報告が飛び込んできた。

 

「最終装甲板、融解!!」

 

「マズい! メインシャフトが丸見えだわ!」

 

 ミサトは事態が加速度的に悪化していく中で、敗北を悟る。

 初号機は動かない。零号機は取り込まれ、弐号機は戦闘不能。そして自爆装置も作動させられない。

 メインシャフトを降りさえすれば、一直線にセントラルドグマまで到達されてしまう。

 しかしそれよりも前に、直通しているこの発令所への接触は避けられない。

 

「目標、ターミナルドグマ第七層を降下中!」

 

「ここに来るわ! 非戦闘員退避!!」

 

 素早いミサトの指示の下、速やかに退避が開始される。

 しかし主モニターの電源を落とすと同時に、画面を突き破って使徒が発令所まで侵入してきた。

 あれほど猛威を振るっていた絶対的存在の使徒が、目の前に。

 まだひ弱な人類がこんなところにたくさんいたのか。

 ぬうっと顔を突き出し、ミサトたちの立つ位置に急接近した。

 ほんの数メートルの距離。

 その仮面の表面質感すらはっきり見えるほどの超至近距離。

 虚ろな眼孔の奥から、チカチカと死の光が迸り始める。

 ミサトは死を悟った。

 歯を食いしばり、胸元のペンダントを握りしめ、直後の極光を待つ。しかし目は絶対に閉じない。

 たとえ無念の死を遂げるとしても、敵を最後まで睨み、抵抗の意志は途絶えさせない。

 そして。

 右側の壁を使徒以上の勢いで破壊して飛び込んできた紫の鬼が、無防備を晒していた使徒の顔面を殴り飛ばした。

 

「エヴァ初号機……!?」

 

 ミサトは初号機の横顔を見る。

 ダミーシステムの起動中は、目が赤く発光するという仕様になっている。そして今目の前の初号機の目は、白い。

 つまり人が乗っている。

 人が乗っているということは──。

 

「カノンちゃん!!」

 

 強襲は成功。

 体幹を崩した使徒の両肩を掴み、カノンは発令所の外へと押し出す。

 

「おおおおおっ!!」

 

 奥の壁をも突き破り、地面に倒れ込んだ使徒の上に馬乗りになって拳を振り下ろそうとする。

 しかし、既のところで反応した使徒が光線を放ち、振りかざしていた左腕を肩口から先を吹き飛ばす。

 デッキに移動していたゲンドウは、初号機の大量の血を浴び、左腕が自分に接触すれすれで飛んできても一切動じない。

 

「あぁああぁあああああ──!!」

 

 カノンは久しく忘れていたフィードバックを誤魔化すように雄叫びを上げながら腹に蹴りを入れ、体当たりをし、射出リフトまで強引に押し出す。

 リフトに誘導したカノンは素早く叫んだ。

 

「ミサトさん!!」

 

『固定ロック、全部外して!!』

 

 ロックが解除されたのを見るまでもなく、射出ボタンを蹴り押した。

 上昇のGを感じながらも使徒の仮面を掴み、壁に押し付ける。激しい火花を散らしながらジオフロントまで浮上し、身体をリフトに固定されていなかったため、二体とも宙へ勢いのまま投げ出される。

 目まぐるしく変化する状況に追いつかない使徒の胸骨を掴み、こちらが上になって落下エネルギーと一緒に地面に叩きつけた。

 

「はああああああッ!!」

 

 コアの位置はおおよそ把握できている。

 胸部の中心。帯に巻かれた最奥。

 数回ほど拳撃を繰り出すが、やはり硬い。私の知るコアの硬さと一致する。

 咄嗟に使徒がA.Tフィールドを展開しようとするが、先回りをしてこちらから展開。侵食して一方的な戦況を確保。

 帯を乱暴に捲ると、その奥に赤いコアの存在を確認できた。だが帯は生き物のように暴れ、コアに巻き付こうとする。

 それを引き剥がすべく、左足で使徒の顎を押さえ、渾身の力で帯を引っ張る。

 

「ぐうっ! うううううう!!」

 

 ゴムのように弾力があるが、繊維が伸縮の限界を迎えて徐々に千切れ始めている。

 もう少し……あともう少しで……!

 途端、初号機はそのままの姿勢で項垂れてしまった。

 

「な、なに!?」

 

 プラグ内の点灯は赤に切り替わり、内部電源がゼロになったことを示すディスプレイが表示されている。

 

「こんなっ、時に……!」

 

 なんとかして動かそうとしても初号機はびくともしない。

 その間にも、拘束から解かれた使徒は好機と言わんばかりに両腕を帯へと変化させ、初号機の胴体を深々と貫いた。

 

「────ぐ、ガ」

 

 ……しまった。

 カノンがそれを悟るには遅すぎた。

 シンクロ率がかつてないほど高すぎたせいで、かつてないほどのフィードバックが返ってきている。

 これはおよそ人が受け付けていい痛みではない。

 人ひとりを殺すのに必要な痛みを遥かに超えている。許容できなかった脳が瞬く間に瓦解する。

 一瞬にして死へ連れて行かれる。

 高く持ち上げられた初号機が、地面へと激しく叩きつけた。そして帯を引き抜いた途端、激しく血が噴き出した。

 カノンもそのフィードバックに耐えられず、もう二度と後戻りできない、致命的な内臓破壊が肉体を蹂躙する。

 終わる。

 終わる。

 今度こそ終わる。

 カノンは、また死ぬ。

 

 ◇

 

 私の身体が沈んでいく。

 どこへかはわからない。

 その先に、私が何になるのかもわからない。

 私の心臓が再び動き出すことを祈り、その間だけ……少しだけ……眠るのも悪くないかもしれない。

 一瞬だけ、重くなってきた瞼を下ろしてあげるだけだ。それくらいなら許してくれるだろう。

 

 いいえ、許さない。ここで死ぬのは私が許さない。

 

 何者かに胸を踏み躙られる。

 何度も。何度も。何度も。

 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。

 だが私の心臓は動かない。

 なぜなら私の魂はもう、その肉体には宿っていないから。

 ああ、わかっている。

 戻らなければ。私はあの戦場に死体を晒したままだ。

 戻らないと。

 ゆっくりと、これまで動かなかった両脚を動かして進む。

 やって来たのは穏やかな草原。

 否、バラに満ち満ちた平原だ。

 生まれたままの姿の私は、足の裏に土の感触を感じながら目的もなく進む。

 バラは見たことのないような色をしていた。よく知る赤ではなく、桜色。花の一つに顔を近づけて匂いをかぐと、甘くて良い匂いがした。不思議と穏やかな笑みが溢れる。

 暖かい春風を背中に受け、導かれるように私は進んだ。

 ずっとずっと進んだ。

 何年も歩いていたような気すらする。

 そしてついにゴールに着いた。

 そこにあったのは、小さな墓石だった。大きさで言うと、プールで使うビート板くらい。

 そしてその足元には桜色のバラに満たされた棺桶と、中にひとりの少女が私と同じく裸体で安置されていた。

 私はそっと中を覗き込んだ。

 

「ん〜~?」

 

 私と瓜二つ……ではなかった。

 大部分が私と似ているが、どこか違うような気がする。

 身体つきもそっくりなのに。

 どちらにせよ、私はこの少女にただならぬ興味を抱いた。理由は説明できない。

 そもそもこの少女は死んでいるのか?

 肌は生を感じる赤みがかっているし、今にも動き出しそうだ。

 好奇心に負けた私は、割れ物に触れるかのようにゆっくりと少女の頬に触れた。

 

 少女は死んでいた。

 

 氷のように冷たかった。

 それだけではない。私が触れた瞬間、みるみるうちに死体は干からびて骨と皮だけになってしまった。

 

「ひいッ!」

 

 恐ろしくなって、尻餅をついてしまう。立ち上がり、その場から離れようと後ろを振り向いた途端。

 今干からびたはずの少女が、何事もなかったかのように私の目の前に立っていた。

 白いワンピースに見を包み、バラでつくったであろう花冠を被っている。

 

 生きて。

 

 場面は変わる。

 どこか暗い手術室。

 私は中央に配置されている寝台と、そこに寝かされている人物を見た。

 その人物とは今さっき見た少女だった。

 しかし、何が起こったのかわからないが、腕や脚が欠損している。どう見ても意図して切除されたものではなく、何かに巻き込まれて大怪我を負った……と見ていいだろう。

 少女はまだ息をしていた。

 だが本当に虫の息で、あと数分ほどで絶命するのが目に見えていた。

 欠損部からは血が流れ続け、床にまで溢れて血の池を作る。

 ひんやりと素足に血が触れるのを感じながら私は少女を眺め続ける。

 少女の目はすでに何も映していなかった。

 光は失われ、頭部から流れる血が目に入っても何も感じていない様子。

 ……微かにだが、潰れた唇が震えている気がする。

 懸命に耳を済ませるが、私にはよく聞き取れなかった。

 

 死にたく、ない……!

 

 また場面が変わる。

 私は砂浜に仰向けで倒れているようだった。

 暑さも寒さも、まるで感じない。

 プラグスーツの姿の私はゆっくりと起き上がる。

 そこは夜の海。

 像と化した巨人たち眠る赤い海。満天の星空広がる虚空。

 遥か水平線には、巨大な人の首。

 赤より赤い瞳は私を見て、嗤っている。

 この世の終わりを想起した。

 暗く、暗く。どこまでも暗く。

 それだというのに、地表は太陽の光を受けていないはずなのにやけに明るい。

 ぼんやりとした意識のまま、停止していた呼吸を再開させる。

 鼻腔いっぱいに吸い込んだ空気は、無臭。

 ずっと昔に、誰かに教えてもらったことがあった気がする。生きている海には匂いがあって、どちらかという腐臭だが、それこそが命の循環をしている証なのだと。

 その人を思い出そうとしても、何重にもモヤがかかったように思い出せない。

 そう、この星は終わっている。生命の香りがどこにもない。

 私もそして、終わっている。

 ……ふと、私の左隣にひとりの少女が私と同じように倒れているのに気づいた。

 私とは色の違う、赤いプラグスーツ。

 身体中に包帯が巻かれていて、とても痛々しい。

 生きているのか死んでいるのかわからない。

 じりじりと接近して、手を伸ばす。

 優しく顔に触れ、顎までなぞるようにした。

 しかし反応はまるでなかった。ぴくりと頬が震えただけで、それ以上はなかった。

 瞬きはせず、じっと私を見上げている。

 

「ねえ、君はどうしてここにいるの?」

 

「それはあんたを殺してやりたいと思ったからよ」

 

 返事は即座に返ってきた。

 ならばと私は返す。

 

「じゃあなんで私を殺さないの?」

 

「それはあんたを殺すことすらバカバカしいからよ」

 

「そうなんだ」

 

「ええ。だから私はもう何もしないわ。あんたが私に何をしても抵抗しない。このスーツを剥ぐもいいし、傷つけてもいいし、なんなら殺してもいい。すべてあんたの自由よ」

 

「わかった」

 

 私はそっと右手を少女の首に伸ばす。

 瞳は変わらず、私を見ている。

 そのまま首の裏に手を潜らせ、頭を持ち上げる。

 ささっと私は正座をして、その膝上に頭を置いた。

 

「は?」

 

 少女は本心から、は? と思っただろう。

 

「何してんのよ、あんた」

 

「え? いや……何したらいいかわからなかったから……」

 

「そうはならないでしょ。膝枕? あんたを殺したいと思ってる奴に、膝枕? ふざけるのもいい加減にしなさいよ。それにスーツのゴムっぽい質感が気持ち悪いわ」

 

「ほんと? ごめんね、じゃあ……」

 

 そう言って私は一度膝枕をやめて、少女の頭を一旦砂浜に預ける。

 私は手首のボタンを押してスーツの吸着を停止させ、スーツを脱いだ。

 そして再び膝枕を再開する。

 

「なんで裸になるのよ。きも。理解できないわ」

 

 嫌悪感を剥き出しにして少女は私を責め立てた。

 

「別にいいでしょ。女同士だし。ここには君しかいないし。それに、この世界には私達しかいないし」

 

「まあ……それもそうね」

 

「ね? で、どう? 良くなった?」

 

「ふん」

 

 どうやらマシにはなったようだ。

 恐らくこの少女の性格は所謂ツンツンというものなのだろう。

 これから永遠に、私はこの人とふたりで生きていく。私たちが人間かどうかは知らないが、ずっと、生命の失せた地球でふたりのイヴとして。

 私は子守唄を歌うことにした。

 幼き日、すでに顔も覚えていない母が私を寝かしつけるのに歌っていた子守唄。

 もちろん歌詞なんて覚えていない。うろ覚えだ。

 でもリズムや音程などはだいたい覚えている。

 

「なにそれ、子守唄のつもり? 私を子供扱いしないで」

 

 無視無視。

 綺麗なブロンズの髪を撫でながら私は歌う。

 歌の魔法にでもかかったのか、少しずつ少女の瞼が重くなっていく。

 

「どう?」

 

 私は再び訊いた。

 

「……ふん」

 

 少しだけ照れている。

 それに気づかれたのが余計に恥ずかしかったのか、「見るな!」と顔を背けてしまう。もぞもぞと動くせいで膝がむず痒い。しかししばらく待っていると、穏やかな吐息が聞こえてくる。

 

「気持ち悪くは……ない、わ……」

 

 私はこの少女の頭にバラの冠を被せた。

 もう少女は動かない。生きながらにして、永遠の眠りについた。

 私は慈しむように、少女の頬にキスを落とした。

 

 ◇

 

 私はあなたではない。あなたは私の罪。

 

 深いまどろみから這い上がる。

 淡い陽光は、電車の中をじんわりと暖かくする。

 誰かが私の上に覆いかぶさっている。

 必死に何かを叫んでいる。

 叫びながら、私の胸を叩いている。

 

 生きなさい! あなたの死に場所はここじゃない!!

 

 ああ……でも眠いの。すごく。

 意識も朦朧としているし、それに身体の感覚がない。指一本すら動かせる気配がない。

 身体が段々冷たくなっていく。

 心地いい。

 このまま眠ってしまえば、どれほどの快眠になるのだろう。

 

 許さないよ!! ここで死ぬなんて、私が絶対に許さないからッ!!

 

 私に覆いかぶさる誰かは泣いていた。

 大粒の涙が止めどなく私の顔に落ちる。

 落ちた涙はマグマのように熱く、じんわりと生の悦びが伝播する。

 でもこれだけでは足りない。

 私の眠気を吹き飛ばすほどではない。

 眠って、起きたら皆の朝食とお弁当の用意をするのだ。

 確か冷蔵庫に冷凍の唐揚げがあるはずだから、それを入れておかないとアスカに怒られる。

「あんたの唐揚げのほうが嬉しいんだけど」なんて言われても、さすがに毎回作るのは許してほしいな。

 ああミサトさん、朝っぱらからビールなんて……これから仕事でしょう?

 その後は学校に行って、ヒカリたちクラスメイトと楽しい学校生活を送るのだ。そういえば、この前鈴原くんたちとゲームセンターに行けなかったから、今度また連れて行ってやると約束してくれた。

 あれ、いつになったら行けるかな。

 そうそう。だから英気を養うために、眠るのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 綾波レイを、助けなさい!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──覚醒する。

 命を思い出した私の魂が、生を渇望せんと暴れる。

 まだ足りない。死んでいた呼吸を再開しようとする唇がわななく。

 途端、何かに唇を塞がれる。

 注がれるは、熱い魂の残滓。

 

「ッは! はぁッ! ……はっ!!」

 

 息を吹き返した私は貪るように呼吸をした。

 目を極限まで開き、鼻と鼻が触れ合うほどの距離にいる人物を見る。

 あの棺桶にいた少女そのものだった。

 ぼろぼろと泣いていたのがよくわかるほど、涙の跡が頬に残っている。

 

 よかった。

 

 優しく微笑んだ少女は私から離れると、向こう側の座席に座った。

 電車は相変わらずどこへ向かっているのかわからない。無限にループする景色は、まるで円環の世界をぐるぐる廻っているようだ。

 

 さあ、立ち上がって。今度ばかりは私も力を貸すよ。

 

 どうして力を貸してくれるの?

 私は問うと、少女は当たり前だと言わんばかりに目元を緩めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんなの決まってるじゃない。私たちが、あの子を愛しているからだよ。

 

 ◇

 

 動け。動け。動け。

 我が心臓よ、動け。

 今動かないと、私は一生後悔する。私の生死問わず、一生後悔する。

 目の前にいるのだ。目の前に綾波さんの気配を強く感じているのだ。

 暴走でもなんでも……なんでもいい!!

 本当になんでもいいから、今、動け!!

 私にはわかっている。

 綾波さんは、わざと私を引き止めなかったのだ。

 もし綾波さんが私に残っていてほしいとお願いしていれば、私は間違いなくネルフを去るという決断はしなかった。

 でもそれはエヴァに乗り続けるということになり、あの夜の願いに反してしまう。

 だから何も言わなかったのだ。

 それは私のことを大切に想ってくれていた何よりの証拠。

 誰よりも純粋に人を想うことのできる女の子。

 私はあの夜に心を救われたのだ。

 嬉しかった。すごく嬉しかった。

 だから今度は、私が救う番だ。

 何のために命を吹き返した。

 何のためにここにいる。

 

「ご、ォ……っ……、ふっ……!」

 

 ……動け。

 ここまで醜くあがきながら生きて、エヴァに乗って戦ってきた。

 人の悪意を知った。

 でも、人の尊き善意もたくさん知った。

 今私を動かしている原動力は、燃えカスをもさらに燃やし尽くす命の炉によって供給されている。

 

「ああ──ぁ、あ」

 

 動け。

 目的はただひとつ。

 私が守りたいと思った人を守るためだけに。

 

「ああ、ああ……あああ────」

 

 動け!

 綾波さんを救うために!!

 だってこんなお別れなんてあまりにも悲しいじゃないか。

 私はまだ一度も、綾波さんの笑顔を見たことがないのに。

 きっとその笑顔は、今まで私が見たどんなものよりも美しくて、可愛くて、綺麗だと思うから──。

 

「あ──あああ……っ、お」

 

 それを目に焼き付けるためならば。

 私は私のすべてを捧げてもいい。

 

「ぁぁあああッ! あああぁぁぁ────……!!」

 

 だから!!

 だからこそ────!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 綾  波  を  返  せ

 

【挿絵表示】

 




負けない。絶対負けない。

たとえ鬼に堕ちようとも。


それではまた次回!
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