それでも私は── 作:次作エヴァはきっと鬱エンド
ネルフでの日常開始
渚君と他愛のない話をしている間に、目的地にあっという間に到着した。思っていたより遠い距離を移動することになったが、実はちゃんとした医療施設があるらしい。そこの大部屋に私達はやってきた。
電気は通ってないのではと心配になるほど部屋は暗かったが、スイッチを押せば問題なく明るくなった。
配置されているのはリハビリをメインとしたトレーニングマシンが多く、これなら私も励めそうだ。
ただ予想通りではあるが、あまり部屋が掃除されていないことを除いて。
「ところで脚はどうだい?」
「まだ動かすことはできないけど、触られたらわかるくらいには」
そう言いながら自身の脚に触れる。
正常な感覚がいったいどれほどの感度なのかは不明だが、問題なく触れられていると認知できるようにはなっている。
放置していても次第に脚の感覚を思い出していっている気がする。
「なるほど、なら今日は立つまではせずに脚を動かすことだけに集中しよう。僕はリハビリの方法とかあまりよくわからないんだけど、こんな感じでいいのかい?」
「うーん、いいんじゃないかな? 私だってよくわかってないもん」
「わかった。確か図書室があるはずだから、今度参考になりそうな本を持ってくるよ」
「いいの? ありがとう!」
渚君がベンチに腰掛け、面と向かい合うように私はその前に移動する。
そのまま何も次の動きがないまま数秒、若干苦笑いを浮かべながら渚君が口を開いた。
「……ここで訊くのは僕もどうかと思うのだけど、何をすればいいのかな?」
「とりあえずマッサージ……とか? ヴィレでは付き添いの人がやってくれてたから」
「そうなのかい? ならひとまずそれをしてみようか」
そう言うと、何気なく腕を伸ばして私の脚に触れようとした。
「ちょ、ちょっと待って!」
制止させたことに不思議に思っているのか、きょとんとした顔で私を見てくる。
咄嗟に口に出てしまったのだが、男子が女子の足に触れ、さらにマッサージまでするという構図は……あまりに……あれではないだろうか。
もしかして私が過剰反応しているだけか? いやそんなことはない。常識とまでは言わないが、普通は憚るような行為のはずだ。これは記憶喪失などとは無関係で私にもわかる。
しかし渚君は何食わぬ顔で躊躇いなく始めようとした。私は彼の第一印象を完全性と評していたが、だからこその行動かもしれない……?
とはいえこれはあくまでリハビリ。そういった下心に従った行動ではない。何より善意で私を手伝ってくれているのだ。これは邪推した私に非がある。
「ご、ごめん。何でもないよ。それじゃあ……お願いします」
「うん。頑張るよ」
男の人とは思えない、白く細い指が私の太ももに触れる。少しひんやりしているが、熱はちゃんと伝わってくる。
すべての指と掌を使い、満遍なくマッサージが始まる。
「ところで碇君はピアノは好きかい?」
ふと雑談を振られ、昨日見たことを思い出しながら答える。
「うーん、ちょっとわからないかな。でも少なくとも嫌いではないよ」
「良かった。いつでもいいんだけど、僕と一緒にピアノをしてはくれないだろうか。実はいつも僕一人で弾いて、誰も聴いてくれないんだ」
ピアノ素人の私があれほどの演奏をしていた渚君と一緒に弾けるとは到底思えないが、リハビリを手伝ってくれている。だからできる範囲で恩返しはしてあげたい。それに結局ネルフでも基本的に暇を持て余すことになる気がしたから、私にとっても嬉しいお誘いだ。
ふたつ返事でOKをすると渚君はよほど嬉しかったのか、にこにこしながらマッサージを続ける。
先日のサクラさんにしてもらったときとは大きく違って、明確に感覚は取り戻してきている。
私の拙い知識ではリハビリは長い時間をかけてようやくといったはずなのだが、サルベージという聞き慣れない特殊な治療方法(?)だからなのか、想像以上にはやく日常生活に復帰できそうだ。
「これくらいでいいかい? それとももう少し?」
「ううん、十分だよ。ありがとう。ちょっと脚が動くか試してみるね」
いったん渚君の手が離れる。
「──ふんっ!」
上半身を強張らせ、一瞬だけ呼吸を止める。そして勢いを下半身……特に足を意識して伝達させた。だが、残念ながらそう上手くいくことはなく、ピクリともしなかった。微かに震えるくらいのことは期待していたが、それすらなかった。
楽観視しすぎていたため、その反動は少しばかり辛かった。
「うーん……どうやらまだ難しそうだね。僕が持って動かすから、脚に動くことを思い出させるっていうのはどうかな?」
「うん……」
私の差し出した脚の膝裏と踵を支えてゆっくりと持ち上げる。そして関節を曲げて動かし始める。非常にゆっくりとした動きで五回行うと、次は反対の足で同じことをする。それを三セット繰り返した。
動いている、という感覚はなんとなくわかるのだが、それをものにすることができない。私が自分の力で試そうとするのをいきんだ顔で察知した渚君は時々手を止めてくれる。しかしそれでも自発的に動かすことは叶わなかった。
この一連の流れを何度も何度も繰り返すこと一時間ほど、ようやく今日はこのあたりで終わることにした。
本当はもっともっとやりたいのだが、脚に変に無理をさせるわけにはいかないし、渚君をこれ以上拘束するのも申し訳ない。
私の方から声掛けをして、今日のリハビリはここで終わらせることにする。
「本当にありがとう、渚君。すごく助かったよ」
進展はなかったが、実に良いリハビリができたと思う。
まだ完治まで先行きは長いだろうが、必ず自分の足でしっかりと歩けるようになると信じている。
「それならよかった」
長い時間付き合ってもらったことだし、このまま解散というのも忍びない。
間を置かせずに私は提案する。
「今度は私が渚君のお手伝いをするね。ピアノだっけ。今からでも大丈夫?」
「もちろんだとも」
部屋を出て、来た道を戻っていく。渚君がいなくても、一人でもここに来られるように道を頭に叩き込みながら。
そのせいか、戻り道は会話ひとつなかった。振り返れば、少し空気を読んでそちらを意識しておくべきだったと内省する。
続いてやってきたのは、ネルフに来たときはずっと上の位置から見下ろしたが、今回はその見下ろしていた地面にいる。目の前には大きなグランドピアノ。横への吹き抜けから陽光が差し、この場所の存在感をいいかんじに引き立たせている。
鍵盤に向かい合うように移動した私達はそれぞれ顔を見合わせた。
「これ……私は何をすればいいの? 本当に初心者なんだけど」
たぶん私がピアノを触ったことがあるのは、学校の音楽室に設置されているピアノで興味本位で遊んだときくらいだろう。だろう、としたのはそれらの記憶……学校生活の記憶が思い出せないからそう表現した。
「大丈夫。誰だってそうさ。無理だと思うかもしれないけど、なにか新しいことを始める変化はいいことだよ。生きるためにもね」
「そうなの? 新しいことか…………。間違えても笑わないでね?」
控えめな姿勢で保険をかけておく。
もし想像以上に下手だったら恥ずかしいという感情以外消え失せてしまうだろう。
「笑わないさ。ピアノの連弾も音階の会話。初めはズレるかもしれないけど、しだいに合うようになる」
渚君が椅子を引いたのを見て、私も車椅子を少し前に出す。華奢な両指を鍵盤の上に乗せるのを見て、同じような動作をした。
再度私達の目が合う……瞬間。
勢いよく息を吸い込んだ渚君が両肩を上げ、そしてアグレッシブに演奏を始めた。穏やかな印象だった彼が力強く演奏するのを真横で見るのは新鮮なものだ。
いけない。連弾をしているのだから私もどこかでピアノを引かないといけない。スピーディーに進行するメロディーのどこに首を突っ込めばいいかわからず、間と思われる小休止に、右の人差し指で低い音の出る鍵盤を短めに叩いた。
音程は合っていないが、それでもメロディーが止まることはない。98%が渚君、残りが私といっところ。差し込む隙を見つけ、合いそうな音を挿入するので精一杯だ。
一音だけでは足らず、両手の人差し指を使ったり、さらには他の指も使って複数音を同時に鳴らしたりもする。残念ながら、やはり初心者の私には渚君とぴったり息を合わせることはできなかった。
一通り演奏を終えた後、私は緊張が解けたからか長い長い息を吐いた。
「初めての連弾はどうだったかな?」
申し訳なさげに返す。
「ちょっと……難しかったかな。でも私が入るタイミングはなんとなくわかった気がするから、あとはそれに指が間に合うかだと思う。あと音程とか」
「初めてにしては上出来だと思うよ。確かに少しズレたりした部分は多々あったけど、なに、これから反復練習をすればいいだけさ。きっと僕たちはいいパートナーになれる」
屈託のない自信のある笑みを向けられるとなんとなくそんな気がしてしまう。いいようにおだてられているのはわかっているものの。
「さて。今日はこんなところにしておこうか。リハビリもピアノも僕たちはまだまだこれからって感じではあるけど、時間はある。頑張ればきっと上手くいくよ」
その日はひとまずこれで解散となった。
司令官との面会はできなかったが、今日のところは良しとしておく。このままなあなあにするつもりはないから、近いうちに必ず面会はしたい。どんなことを言われるかわからないしちょっぴり怖いけど。
そんな気持ちを抱きながら数日を過ごしていると、予想外の出来事が起きた。
司令官から呼び出しを受けたのだ。
◆
初対面はかなり一方的な対話と別れだったから、基本的に司令官は私になど用はないと思っていたが、どうやらそんなことはないらしい。
冷静に考えるならば、用があるから呼んだ。ない時は話す必要もない、となってしまうのか。
司令官と会おうと思ったことは幾度となくあったし、実際に会いに行ったこともあったのだがそれが叶うことは一度たりともなかった。理由はわからない。
ここ数日のリハビリは結構順調で、特に脚に関してはついに自分の意志で動かすことができるようになった。だがまだ立って歩くとまではいかないため、渚君の献身的な支えはしばらく必要そうだ。
そしてピアノはというと、こちらもめきめきと力をつけている。渚君の演奏にある程度追いつけるようになったし、音程ミスもかなり減った。というのも本来私が弾くべき箇所を短縮しているからである。残念ながらまだすべてを弾き切るほどの実力はない。しかし、ここ最近は一緒にピアノを弾くことを心から楽しめるようになっている。
初めは私のお願いを聞いてくれたからそのお返しという義務感からだったが、今では待ち遠しい。
「何か良いことでもあったのかい?」
愉しそうな私の様子を感じ取ったのか、渚君が声をかけてきた。
もうすぐで司令室。車椅子を渚君に押してもらい、その脇に綾波さんも控えている。本当は私だけが呼ばれているのだが、三人一緒に行くつもりだ。三人になった理由はよく覚えていない。たぶん成り行き。渚君はともかくとして、綾波さんは偶然遭遇したからついでに、というなんともばったりな感じ。
「これから司令官……お父さんに会えるっていうのが大きいね」
「……君の願うようなことは起こらないと思ったほうがいい」
「え?」
珍しく否定的なことを言われ、つい聞き返してしまう。背後を振り返り渚君を見る。彼はなんとも言えぬ顔で、気難しそうに続ける。
「気を悪くしてもらいたいのだけど、君の御父上はあまりに君に関心を持っていない。きっと今回は、何か命令が下されるだけだろう」
「そう……なの?」
「うん。予め伝えていたほうが、現実との落差で受けるショックを少しでも抑えられる」
ここで嘘をつくとは思えないし、そんな人間ではないし、事実なのだろう。
上機嫌だった私にあえて伝える。
あまり好ましくない行為だが、私を思ってのことなのはよくよく理解できる。だからどちらかというと感謝しなければならない。
……そもそも今日の私は、少しばかり調子に乗っていたのかもしれない。
それに釘をさしてもらった、といった感じか。
「うん、わかったよ。ありがとう」
「感謝されるようなことではないさ」
「……着いたわね」
綾波さんの言葉で私の視線は正面に戻った。
それは扉とは言えないほど、とてもボロボロだった。激しい爆発に巻き込まれたのか、下半分がひしゃげて無くなっている。それに地面も小さな瓦礫などが目立ち、車椅子で踏んでしまいそうだ。
「……ここが司令室なんだよね?」
という問いに。
「ええ」
と綾波さんは返す。
そして重そうなドアを開け、私達は司令室に入室した。
中はさらに驚くことになっていて、部屋の約半分ほどが消失していた。消失、というより破壊、という表現が正しい。
地面だけでなく、天井も破壊されているのだ。開いた空洞からは外の光景が見えてしまっている。部屋の色味も、錆びか何なのか全体的に少し赤いし、不気味な雰囲気を醸し出している。
そして部屋の奥、ぽつんとデスクがひとつ置かれていた。そこにひとりが椅子に座り、その隣にほっそりとした老爺がが直立している。
渚君が車椅子を押し、そのふたりに接近する。
「なぜお前たちがいる」
そう、司令官は低い声で言った。
バイザーを身に着けているから分からないが、おそらく渚君と綾波さんを見て言ったものだろう。
「成り行きです。途中で碇君と会ったので、案内を兼ねて付き添っていました」
「そうか」
「僕たちは席を外したほうがいいですか?」
「いや、いい」
司令官は話を区切り、じっと(おそらく)私を見た。
「カノン、お前のことは聞かせてもらった。本当に何も覚えていないのか。エヴァのことや、それ以前のことを」
「はい……でも、ちょっとだけ思い出せたことがあるんです。音楽プレーヤーがすごく大事なものだったり、綾波さんを助けたことがあったりとか……」
「そうか。ではエヴァに乗った時の記憶はどうだ。今エヴァに乗って、問題なく操縦できるか」
なんだか……非常に事務的な会話が繰り広げられている。私の状態を確認するだけの会話。
「それは……できないと思います。だって操縦方法がわからないので……」
「わかった。ならば第13号機が完成するまでに訓練を受けろ。指導はそこのふたりにしてもらえ」
「あ、はい……」
あくまで今は上司と部下だからこのようなやりとりに徹しているのだろうか。
いや、司令官が私に……娘に興味を持っていないという渚君の言葉が事実ならば、本当にこのまま会話が終わってしまいそうだ。
それに訓練といっても脚はまだ完治したわけではないから、万全な状態で取り組めそうにもない。
「訓練の際は壱号機の機体データを使え」
「……壱号機をですか? 第13号機ではなく?」
ピクリと眉を動かした渚君が食い下がる。
「お前が知る必要はない。話は終わりだ。時が来るまで、それぞれのできることに専念しろ」
ぴしゃりと締め切るような言い括りをする司令官は、まるで私たちなど眼中にないかのように手元の別作業に取りかかり始める。
「あの……」
という控えめな言葉は、特に深いことを考えもしないで喉元からせり上がったものだった。
司令官の視線が再び持ち上がる。そのバイザーは黒よりも黒く、その奥の瞳は全く見えないが、やや面倒そうな気配を纏っている。
「なんだ。私は忙しい」
「その、前の私って、司令官のことをなんて呼んでましたか? 私はお父さんって呼んでもいいんですか……?」
「────……」
司令官の手が止まる。
不愉快そうな顔はしていなかった。ただ、刹那の間だけ硬直した、と思う。
ひとつ、大きな呼吸をして返事が来る。
「そんなことを訊いてどうする。くだらない話に付き合っている暇はない」
「忙しいかもしれないけど、これは家族のことですよね? そんなにくだらないんですか?」
「そうだ。今のお前との会話は無意味だ」
ヴィレの艦長も大概だが、この人はもっとだった。
渚君の事前情報がなければ私はきっと怒りを露わにしていた。司令官は私にほとほと興味がないらしい。それもこの人が本当に私のお父さんなのかすら疑いを持ってしまうほど。
くだらない。無意味。私への冷笑的な態度はいったいどこから来ているのか。もしそんな疑問をぶつけても神経を逆撫でするだけだろう。
おそらく現時点で対話を試みるのは得策ではない。指摘された通り、ほぼ無意味だ。なぜなら私は司令官のことを憶えていないし、司令官は私に歩み寄ってくれない。
ゆえに、今回は軽いアプローチだけで済ませることにした。
司令官はきっと、怖いのではない。他人に対してあまりにも興味や思いやりがないせいで極端な反応をし、その結果怖がられるのだ。と思う。
「じゃあわかった。最後にひとつだけ訊いていい?」
「……なんだ」
しかし。これだけは訊いておかなければならない。
三人も他の人がここにいるし、聞かれてしまうことになるのは恥ずかしいが……それでも。
僅かに声が震えるも、言い切る。
「お父さんは私のことを愛してる?」
私はお父さんをまだ愛することができない。お父さんのことをすべて忘れてしまっているから。関係性も知らない。
だから、愛を伝えてほしい。愛されていることを実感したい一心からきたものだった。
だがお父さんは目に見えてつまらなさそうに答えた。
「……一番無意味な質問だ。さっさと出て行け」
◆
「……で、憂さ晴らしにピアノを弾きに来たんだね。動機は不純だけど、一緒に弾いてくれるのは嬉しいよ」
そういつも通りの爽やかスマイルを向ける渚君。
真横でピアノに向き直る私は喉を鳴らして力強く頷く。お父さんとのきちんとしたファーストコミュニケーションは、残念ながら失敗と言っていい。振り返っても、あの時の言動で私に悪い点はなかったはず。なるべく低姿勢で臨んでいた。
なのにあれだ。いったいどうしてあんな堅物が結婚して私が生まれたのだろう。
並々ならぬやる気を感じ取った渚君が、それではと演奏を始めようとして──。
「あ、ごめんね渚君。ちょっと待って」
すんでのところで制止させ、私はある行動を始めた。
腕の力で車椅子からお尻を浮かし、脚は支えるだけのものとして、右手は車椅子、左手はピアノの縁を掴む。そして素早く両手でピアノの縁を掴み、ササ、と意図を察して空けてくれた渚君の隣に座った。
ネルフに来たばかりの頃はできなかったが、今では脚の麻痺もだいぶ改善できている。まだ支えがないと立ったり歩けないが、それも時間の問題だろう。
「とても上手になってきたね。君と一緒に歩くのが楽しみだよ」
……数日間交流してわかったのだが、渚君は間違いなく女たらしの部類だと思う。失礼に当たるから直接伝えはしないが。
天然でこうも胸がムズムズするセリフを言ってくる。まるで人の形をした二次元のイケメンキャラと話しているような気分になる。学校に通っていたときは、さぞかしモテモテだったに違いない。そして当の本人はその自覚がないとみた。
渚君が演奏を始めたことで瞬時に意識を切り替える。
まったく同じ曲。すでに耳にタコができるくらい聴いた。夜寝るときにいつの間にか脳内でこれが何度もリピートされるくらい。
合間のアクセントとして瞬間的に私が弾く部分はほぼマスターしたと胸を張れる。これは曲としての強さを魅せるパート。半端な力で鍵盤を叩くのではなく、力強く叩くのだ。
ノッてきた渚君が「いいよ、いいよ!」なんて言いながらヒートアップしていく。なんだかその様子が面白くて、私ももっと頑張ってみたくなる。
まだ私が音程のズレなどをしてしまうため、時間を忘れるような美しいハーモニー……とは残念ながらならないが、それでも非常に有意義な演奏だと胸を張って言える。
私達の指がリンクし、リズミカルに鍵盤を叩く。吹き込んでくる風はまるで春の訪れのよう。ぽかぽかして、温かい。心も身体も喜んでいる。
たのしく過ごす時間はあっという間で、体感でほんの数分のように感じられた演奏が終わった。
「ふぅ〜〜っ!」と収まらぬ興奮を吐いて渚君の顔を窺う。彼はとても満足そうに頷きながらこちらを見た。私はなかなか疲れてしまったが、渚君はまだ余裕のありそうな顔だ。
「すごく良かったよ、碇君。こんなにも没頭できたのは初めてだよ」
「本当? よかったぁ……。でも、やっぱりまだ音程とかはミスしちゃったよ……ごめんね」
「何も問題ないさ。別にこれが点数として数値化されるわけじゃない。大切なのは、僕たちがどれだけシンクロできたか。その点で言うと今までで一番だ」
最高評価らしいようでなによりだ。
私は車椅子に移り、少し疲れた手をぷらぷらと振る。そして一気に脱力して背もたれに身体を預ける。
「……本当に今までで一番だ」
そう、渚君がぽつりと呟いた。
「え?」
と私は頭の向きを変えた。
「いや、なんでもないよ。それより今日はこの辺りでお開きにするかい?」
「うーん、そうだね。このあと綾波さんと用事があるし……あ」
そういえばしばらく忘れていたことがある。ふとスカートのポケットにある異物に気づいて思い出した。徐ろにポケットに手を入れて、目当てのものを取り出す。
それは音楽プレーヤーだった。
ヴィレで返却された唯一の私物。しかしちゃんと再生されない。自室で暇をしているときに時間を潰すのにもってこいのアイテムだが、壊れていてはどうしようもない。だから、いつか近いうちにダメ元で訊いておきたかったのだ。
「ねえ、渚君ってこれ直せたりする?」
手に乗せた音楽プレーヤーを渚君に差し出す。
明らかに物理的に壊れているわけではなさそうだから、どこかの接触に異常が生じているだけだと思う。しかしそれを分解して修理となると、できる自信がない。
受け取った渚君は手で表裏にしたり片目で凝視したりをして言った。
「うん、これならきっと直せると思うよ」
「ほ、ほんと⁉ その……修理お願いしても……いい、かな?」
「もちろんさ」
この音楽プレーヤーは私にとって大切なものである……はずだ。これがちゃんと動くようになって、曲を聴くことでなにか思い出せるかもしれない。
記憶を取り戻す、大きな前進だ。
「ありがとう! とりあえず今日はこの辺りで帰るね」
「うん、わかったよ。じゃあまた明日」
車椅子を動かし、自室に戻る。
普段ならもう一曲くらいやっているのだが、今日は別の予定が入っている。というのも、綾波さんとお風呂に入るのだ。
ネルフに来てから、毎日ではないが二日に一回ほどの頻度で入浴している。初めは三日ほどしていなかったから、流石に身体の汚れが気になってそれとなく綾波さんに尋ねたところ、浴場があるとのことだったので即決即断だった。
シャワールームもあるらしいのだが、ちゃんとお風呂のある方がいいに決まっている。しかしネルフ施設は半壊状態だ。浴場も実は露天風呂になっていたりしないか懸念だったが、そんなことはなかった。きちんと清掃が行き届いている。
曰く、渚君しか使っていないようで、彼が一人でキレイにしたらしい。まあまあの広さのあるここを。
使わせてもらうことに感謝しつつ、脚が治ったら清掃のお手伝いをしようと心に決める。
着替え(替えの同じ制服と下着)を持って綾波さんと合流する。綾波さんはいつも通り手ぶらだ。初回ではそれを指摘したのだが、どうやらプラグスーツなるいつも着用している黒いぴっちりスーツは、私の理解が及ばないほど高性能らしく、結論から言うと問題ないらしい。やや納得はできなかったが、本人が済まし顔で「問題ないわ」と言うからもう私が折れた。
ネルフの浴場は一般的な銭湯と同じで、それなりの広さのある脱衣室がある。多くあるロッカーのうちひとつを綾波さんが選び、私はその隣を選ぶ。
脚が動くようになったとはいえ、車椅子から立ってた脱衣はまだできない。適当に脱いでくしゃくしゃのプラグスーツをロッカーに放り込む綾波さんを尻目に、ちょっと時間がかかってしまったが私も裸になる。
そして車椅子を風呂用のものに変える。これで浴場に車椅子のまま入ることができる。
引き戸を引くと、すでに湯船いっぱいになっているお湯の湯気が浴場に満たされていた。
ふたりだけで入るには広すぎる空間だが、まあ、こういうのもいいだろう。
「なんだか貸し切りみたいだね」
「貸し切りだもの」
やや興奮している自分の子供っぽさを自覚しつつ、洗い場に移動する。
綾波さんは、こちらから話しかけない限り基本的に無口な人だ。自分から話しかけることはほとんどない。
そういえば、初めて一緒にここに来たときは、身体を洗いもせず湯船に直行したことを思い出した。私に止められて「?」と言う顔をされたのはよく覚えている。
綾波さんもここに来るのは初めてだそうで、ではこれまでは別の手段で済ませていたらしい。
ゴシゴシと持ち込んだタオルで身体を洗い、頭を洗う。車椅子に座っているからといって速度が格段に落ちることはない。
「綾波さんって渚君と話したことあるの?」
ふと、こんなことを尋ねてみる。
私の知る限りでは、私がネルフに来てから二人が会話した場面を一度も見たことがない。
無口だが受け答えはちゃんとしてくれるし、渚君は見ての通り好青年。犬猿の仲というわけでもあるまい。
「ないわ」
「え? ないの?」
「ええ」
「なんで?」
「必要ないもの」
ばっさりと切り捨てるその言い方は、少し悲しく感じた。
「渚君に興味がないから話さないって感じ?」
「ええ」
「じゃあお父さんに渚君と話せって言われたら話すの?」
「ええ」
「私のお父さんは大切?」
「ええ」
なんだか適当に答えられているような気がする。自分の身体を洗い終えた綾波さんがそそくさと洗い場から湯船へと移動しようとするから、待ったをかけつつ私も急いで身体を洗い終える。
まだ私は綾波さんの介護なしで湯船に浸かることができない。車椅子ごとならば可能だが、前回から車椅子をなしにしたのだ。その場合は足を滑らせて溺れてしまわないように常に支えてもらう必要がある。
追いかけて湯船の縁まで移動した私は、綾波さんの肩を借りながら立ち上がる。歩くのはたった数歩だ。ぎこちない動きながら前に進み、ゆっくり、ゆっくりと段差を降りて太もも辺りまでお湯に浸からせた。
「あ、あああぁぁぁ〜〜……」
至福。
じんわりと脚から頭にかけて熱が伝播する。
滑ったりしないように、手を握りながらゆっくりと底にお尻を下ろす。
体勢をキープするために綾波さんは私のすぐ後ろに座り、両腕を私のお腹の前に回してホールドする。
「はあああああぁぁ〜〜……」
たまらず風船から空気が抜けるような二度目の声が漏れる。同時にリラックスしきった身体の力が抜けたのを察知して綾波さんがぎゅっと私の身体を自身の身に寄せた。
「ごめんね、ありがとう」
「問題ないわ」
目を瞑り、だらしなく口を開けてこの熱が広がるのを静かに感じ続ける。
「私って前はどんなキャラだった?」
たぶん素は根暗だと思う。それが致命的なレベルなのか、世間話程度は問題なくできる自称なのか。深い根拠はないがおそらく後者より。しかしさっきの綾波さんへのイジりは私のキャラではないだろう。
特に考える素振りすら見せずに返事がくる。
「知らない」
「本当に?」
「ええ」
「もしかして私たちって……友達じゃなくてただの知り合いとかだったの?」
「知らない」
「ええ……」
あまり嘘はつかない人だから、そう嘘を繰り返すことはないと思う。だが少なくとも、当時の綾波さんは私との距離感を把握していなかった。
私に触れる腕の力は変わっていない。ほぼ常にその心は静かである。
それきり会話は途切れる。私達は完全に沈黙して、気配すら消すかのように温かいお湯に身を委ねる。
こうすることで、記憶喪失のことや、大人たちのこと、そしてネルフとヴィレの戦争のことを忘れられる。ただ無心になって、離人感に到達するのだ。
その内に少し眠たくなって、無意識に綾波さんの腕をぎゅっと掴んでしまう。
「あわ、わっ!」
と慌てて離すも、当の本人は無反応だ。しかしやや瞼を閉じかけている。寝落ちして結果私が溺れるなんてことはあってならないから、この辺りで上がるよう提案する。
脇の下から持ち上げられて、胴が長く見える猫のような気分になりながら湯船から出て車椅子に移った。そして床タイルに滑らないように気をつけながら引き戸を開けて脱衣所に戻った。
とりあえず、といった感じで適当にバスタオルで身体を拭いてさっさと綾波さんが同じプラグスーツを着るまでの時間はわずか数分。私は洗面台のドライヤーを使い、時間をかけて髪を乾かしたりした。
服のパターンは残念ながら制服しか支給されない。綾波さんはあれだし、渚君もそういえば制服だったし、あまりそういったものに興味がなさそうだ。ネルフにはまだ行ったことのない区画がたくさんあるから、そのどこかにもしかすると使えそうなものがあったりするかもしれない。
少なくとも、パジャマがほしい。制服で寝るのは些か面倒である。だってスカートだし。
マネキンのようにじっと私を見ていた綾波さんに声をかけて浴場を出る。
廊下は最低限の明かりしかついていなくて、どこか不気味だった。すでに慣れてはいるが、それでも。天然の心霊スポットだ。意に介さずスタスタと進む綾波さんの心はおそらく鉄製だろう。私はガラス。
そんな思念を振り払って口を開いた。
「ねえ、綾波さん。エヴァってどんなの? 怖かったりする?」
近いうちに乗ることになるエヴァについて知っておきたかった。
「怖くないわ」
「他には?」
「他……わからない。でも、エヴァに乗るあなたはとても強かったらしいわ」
「そうなの?」
自分の手のひらを見つめながら聞き返す。
こんなほとんど力のないひょろひょろの腕でどうやって戦っていたのだろう。もしかすると、エヴァに乗ると人が変わったりしていたのだろうか。
お願いだから今すぐに過去の私が戻ってきて欲しい。私の代わりに使徒を倒してほしい。
「戦うのは怖かったりしないの?」
戦うとはどういうことか私にはわからない。
ネルフはヴィレと戦争の最中だから、前回のようにヴィレのエヴァとの戦いも発生するのか。その時私は戦えるのか。怪我をさせる……いいや、最悪人を殺す覚悟があるのか。
きっと私にはない。それは過去の私も同じであると信じたい。
「怖くはないわ」
「私もヴィレと戦うことになる可能性があるんだよね? 人を傷つけるようなことは嫌だよ」
「敵は勝手に邪魔をしてくるだけよ。私たちは私たちの使命を果たす。必要ならば敵を殺すわ」
「────」
少し、頭が痛い。
本人にそのつもりはないだろうが、親身になって私を介護してくれている。そのことに感謝をしている。だから歩み寄れると思っていた。
だが、私と彼女では住む世界や価値観が全く異なっているとひどく痛感させられた。これはおそらく、私の認知が緩すぎただけだと思う。
これは戦争だ。互いに何を正義として戦っているのかは知らないが、命の削り合い──殺しが起こるもの。
ヴィレでのスタッフたちのピリついた空気。ネルフでのお父さんの態度。綾波さんの冷酷な宣言。
ドス、と現実という刃物に深々と刺された気がした。
私はきっと……いや、間違いなく、最悪のタイミングで、最悪な状態で目覚めてしまったのだ。そのことに、今ようやく気づいた。
力が抜け、頭をだらりと下げる。そして足元を見下ろしながら小さく呟いた。
「そう……なんだね。どうして皆、平和に生きることができないんだろうね」
「人間だからよ」
その短い言葉には多くの理由が統合されたもののように聞こえた。そして底知れぬ私たちの間にある深い溝が垣間見えた気がした。それは私との認知の歪み。おそらく、戦時中である今ならば綾波さんの認知のほうが正しいのだろう。戦いに消極的な人間はきっと死ぬから。
カラカラカラ。
こつ、こつ、こつ。
カラカラカラ。
こつ、こつ、こつ。
それきり、自室に着くまで綾波さんの足音と綾波さんに押される車椅子の車輪の音だけが、誰もいない通路に静かに響いた。
下を見よ。上を見よ。
前を見よ。後ろを見よ。
右を見よ。左を見よ。
あなたの知る日常はどこにもない。
またしても何も知らない碇カノンちゃんの認知
ネルフ:使徒と戦う組織
ヴィレ:なぜかわからないけどネルフと敵対している
アヤナミレイ:よくわからない人だけど感謝はしている
渚カヲル:一緒にいると楽しい。すごく助けてもらっている
お父さん:本当にお父さん?
┗破ではちゃんと「愛している」と言いましたがカノンちゃんに信じてもらえませんでした
それではまた次回!