それでも私は── 作:次作エヴァはきっと鬱エンド
エヴァに乗る
──やはり、脚の筋肉は衰えたとしか言いようがない。
渚君や綾波さんより少し身長が低いといっても脚の太さが明らかに私の方が細い。
筋肉をつけねば、と思った。
しかしネルフの食事はよくわからない色をしたペレット状のやつだけだ。良い栄養を摂取できているとはあまり思えない。
だから単純に私自身が脚を鍛えなければならないと考えた。あとシンプルに足腰が弱まっている。おばあちゃん並みと指摘されてもぐうの音も出ない。
ぎこちなさはあるがもう誰の力も借りずにそこまで問題なく歩けるようになったから、歩く感覚を取り戻すと同時に筋肉をつける。
エヴァの操縦に脚の自由不自由が関係ないことはわかったが、だからといって何もしないでいいというわけではない。これは私が普通の生活を送れるようになるために必要な運動である。
移動はもうなるべく車椅子は使わないようにした。その代わり必ず渚君か綾波さんに付き添ってもらうことになった。迷惑をかけてしまうが、ふたりとも否定する要素はないと頷いてくれた。
「綾波さん……その……ありがとう、ね」
長い長い沈黙に耐えかね、私はアキレス腱を伸ばすストレッチをしながら口を開いた。
深い理由はない。場を紛らわそうとして、「今日はいい天気ですね」みたいな差し障りのない会話を開始してしまったのだ。
リハビリルームのベンチに座り、じっと私を観察していた綾波さんはきょとんとした。
「何が?」
「その、ほら、渚君もだけど、今まで私をここまでよくしてくれたから」
「命令だからそうしただけ」
「それでもだよ」
同年代の人がいつも近くにいてくれるのはとても心強かった。 変な気遣いとかを考えなくていいから。物事に対する捉え方というか、人間性というか、そういった部分ではすれ違うことはあったが、それでもふたりとの日々は満喫できたと思う。
十分ストレッチをして身体をほぐし終えた私はいざと歩行を始める。さすがに制服姿で本格的に運動をすることはできないから、血眼になってネルフ中を探して一着だけ見つけたボロボロのスポーツウェアを洗濯して着込んでいる。
渚君に不思議な顔で「プラグスーツでいいのでは」と指摘されたが、断じてNOを突きつけた。あれはエヴァに乗るときしか着たくない。ふたりの達観した姿勢は、きっと羞恥心を捨てたことで得られたものだろう。つまり私は永遠に同じ領域に達することはできない。
ストップウォッチを片手に握りしめ、「ふっふっふっ」とリズミカルに呼吸を繰り返しながら弧を描くように歩く。そんな様子を綾波さんは真顔で眺めている。
「今の私ってだいぶ筋肉とか脂肪とか落ちてると思うからつけたいんだよね。食事とかってお父さんとかに言ったらちゃんとしたやつに変えてくれたり……するかな?」
これは推測だが、ネルフは資源問題に直面していると考えている。
スタッフがいないし、エヴァに関することのみに心血注いでいる印象。逆に施設内のインフラや私達への待遇はなるべくコストカットしているように感じられる。
それはもちろん食事にも直結するわけで。
「わからない。でもダメだと思う」
「だよね……。あ、というか、普通に外に買い出しに行けばいいじゃん! なんでこんな当たり前のこと思いつけなかったんだろ。あとで一緒にスーパーとかコンビニでもいいから一緒に買い出し行かない?」
新しい環境ということだけに視界が狭まっていたせいで、すっかり外の世界のことを忘れていた。
色んなことが一気にどっと起こったから、そんなことを気にする余裕がなかったのだと思う。
「ダメ」
しかし帰ってきたのは否定。
「ええ」と言われると思っていた私は歩くスピードを落とした。
「ダメ? どうして?」
「外には何もないから」
「何もって、そんなことないはずだよ」
「本当よ。何もないわ」
綾波さんは時々よくわからないことを言うから、失礼なのはわかっているけど、あまり真に受けないほうがよさそうだ。
きっとものの言いようだろう。渚君に訊けばちゃんと答えてくれるはずだ。この後の予定は決まったね、なんて考えつつリハビリを続ける。
変に足を引きずるような歩き方になってしまわなくて良かった。そうなってしまうのではという恐怖が密かにあったが、どうやら杞憂に終わるようだ。
足に熱がたまり、疲れが蓄積されてきたことを認識したところで歩くのをやめた。綾波さんの隣に座り、水分補給をし、保冷剤をふくらはぎなどに当てる。
「ふぅ……」
「今日はこれで終わり?」
「うん。汗かいたからシャワーしてくる。その後は渚君のところに行ってくるね」
そう言って私は車椅子に乗り移った。
「わかったわ」
綾波さんが立ち上がり、私の背後にまわって車椅子を押し始める。
向かう先はシャワールーム。そこでひと通り汗を流し、いつもの制服に着替えた。
「あなた──」
胸元のリボンを結び終えたとき、珍しく綾波さんから声をかけてきた。珍しい、などというレベルではなく、おそらく初めてだ。
きゅっ、とリボンの位置を微調整し、鏡から綾波さんの方へと向き直った。
「どうしたの?」
「……いえ、なんでもないわ」
「そう?」
まあ……自分から話しかけたこと自体を前進と見ておく。そしてシャワールームを出て、綾波さんとはそこで別れた。
このまま渚君に会いに行こうかと思ったが、運動直後というのもあって、少し疲れた。
仮眠を取ってからにしよう、と予定を変更し、回れ右をしてすでにどこかへ行った綾波さんと同じ道を辿って自室へ戻る。
だが予想外だったのは、ドアの前に渚君が立っていたことだった。
私の接近に気づいた渚君は壁に背中を預けたまま気前よく片手を自身の肩の高さまで上げた。
「やあ碇くん。ちょっと話したいがあってね。ここで待ってたんだ」
「そうなんだ。ここで話すのもあれだから私の部屋に入ろうよ」
ドアを開けて快く中へ招き入れる。
年頃の男子を、借り物とはいえ自分の部屋に入れるのはいかがなものかと思ったりするが、渚君ならまあ大丈夫だろうと漠然とした信頼をもとにスルーしていたりする。
それに部屋にはベッドやテーブル以外何もないから変に片付けたりする必要がない。私色に染まっていない部屋だから、自分のものでないという意識がある。
「ごめんね。ベッドしか座れるとこなくて」
そう言いながらホテルスタッフとまではいかないが、それっぽく素早くベッドメイキングをする。
「ありがとう。僕は別に立ったままでもいいんだけど」
「それはだめだよ。ほら、客人はもてなさないとね」
「そうかい? ならお言葉に甘えるよ」
渚君がベッドに腰掛け、私は車椅子のまま正面を向き合うような位置取り。
「話っていうのは……?」
そう話を切り出すと、渚君はしばし考え込むような素振りを見せてから口を開いた。
「……もう間もなく第13号機が完成する。そうなると当初の予定通り、僕と君は第13号機に乗ることになるだろう」
「う、うん。そのためにヴィレから私を連れ出したんだもんね」
「君の身体はエヴァの操縦を覚えている。それはここ数日の訓練で明らかだ。でも記憶がまだ戻らないのは正直なところ、僕にとっては不安要素なんだ」
「……」
「どうか落ち込まないでほしい。君が悪いわけじゃないからね。だからといってこのままエヴァに乗せるわけにもいかない。君は今の世界のことや、僕たちが何をしようとしているかを理解しなければならないと思っている」
渚君は真剣な面持ちで言い終えた。
軽い気持ちで部屋に招き入れ、適当な雑談が始まると思っていた私は、いつの間にか背筋をピンと伸ばして聞き入っていた。私からちょっとした話をしようと考えていたが、どうやらそのような雰囲気ではない。
ネルフとヴィレの対立。使徒と戦うためのはずのエヴァが互いに潰そうとする状況。外界との関わりが一切存在しないネルフ。
これまで箱の中の出来事でしか世界を認知できていなかった。どういう経緯と理由があって、今、何がどうなっているのか。周囲からひた隠しにされていた真実がついに明かされると聞くと、「やっとだ」という気持ちになる。
私だけがまわりの人間と明らかに違っていた温度感を払拭することができる。
「知りたい。本当はずっともやもやしてたから。誰も教えてくれなかったもん」
「そうだね。でもそれは時に優しさだったりすることもある。ほら、『知らないほうが幸せなこともある』ってやつだ。君は今それに触れようとしている。いいんだね?」
いつも通りの口調だが、確かに意志が強く込められているのを感じた。しかしながら辞退するつもりは端からない。
私は真剣に頷いた。
「……わかった。じゃあ今から世界の真実を教えよう。だいぶ足場が悪いところを歩くことになるけど、大丈夫?」
「え、うん。毎日リハビリしてるんだから、それくらいきっと大丈夫だよ」
先程まで運動をしていたのだから問題ない。
己の状態を確認する。
筋肉に疲労は間違いなく溜まっているが、今すぐ悪影響が出るというわけではない。ちゃんとマッサージなどもした。
一緒に部屋を出て、前を歩く渚君の後ろを追うように車椅子を進める。途中、私がこれまで安全のために近寄らなかった、天井から千切れたケーブルやらがぶら下がる通路を進む。
しだいに純白だった壁の色に若干錆色が混ざり始める。不思議には感じたが、実際にそれに触れようなどとはしなかった。指に錆がついたら嫌だし。
突き当りの自動ドアが開くと、多目的トイレくらいのごく小さな小部屋の中に入る。壁際には防護服のようなものが吊るされていて、そのすぐ横にはステッカーが貼られている。風化したのかわからないが、ほとんど掠れていて読むことができない。しかしながらフィーリングで読むと何かの警告のように見える。
来た方と反対側の壁にはまたドアがあった。
「碇くん、このドアの向こうが外だから、行く前にこの防護服を着ておいて」
「どうして?」
「L結界が今の君にどのような影響を与えるのかわからないからね」
「?」
聞き覚えのない専門用語だ。
結界? A.Tフィールドのような何かだろうか。よくわからないが、ここで変に追及するつもりはないので大人しく防護服を今着ている制服の上から着込んだ。渚君とふたりで不備がないことを確認してから、ついに外と繋がるドアを開いた。
「あー、なる、ほど?」
よくある鉄の足場が目の前にある。ただし赤く錆びきっている。
そして地面と思われる存在は確認できず、遥か下は霧で見えなくなっている。ボロボロのコンクリートの壁から生えているような足場(これも錆びている)はずっと下に続いていて、壁には申し訳程度に手すり代わりに鎖が繋がれていた。
音や感覚でわかるのだが、ここは結構地面から高い位置だと思う。
渚君が言っていた『足場が悪い』というのは、物が散乱していて歩きにくいという意味だと思っていたが、まったく違った。想像の100倍くらい足場が悪いではないか。前もってちゃんと聞いておけばよかった、などと後悔しつつ、ここまで来たのなら最後までいってしまおうという思いきりで、ズボンのポケットに両手を突っ込んだ状態でスタスタと降りていく渚君の後を追う。
渚君は防護服を着なくても大丈夫なのか、なんて疑問が浮かぶ。しかし壁に肩を擦り付けながら鎖を両手で握り、両足でしっかり一段を踏んでから次の一段へ進む私の慎重さの前に消える。
時々、ギィ、という明らかに嫌な音が鳴る段差を踏もうものなら「ひっ!」とその場に蹲ってしまう。
私がそうしてもたもたしている間にも、まるで日常と変わらない感じで下へ降りる渚君の姿が見えなくなってしまう。
「待って渚君っ! 怖いよ! うわ……っ!」
不意にやってきた強風が霧を運んで来て、私達の間を分断するように雪崩込んでくる。
視界に彼が映っていたから頑張ってここまで来たのに、見失ってしまったらもう進めなくなってしまいそうだった。
身を固めて雲が通り過ぎるのを待った後、恐る恐る顔を持ち上げると──
「ごめん、初めからこうしていれば良かったね。あともうすぐだから頑張ろう」
そう言って、こちらに手を差し伸べる渚君が立っていた。
助けが来た、なんて勘違いを起こしそうなほど救われた気がして、
「……うん、頑張る」
少し泣きそうな顔のまま頷いてその手を取った。
高所にいるのに、平然とした様子で私がバランスを崩さないように見守りながら二人三脚で続きを降る。
終わりが見えたのはその後本当にすぐだった。階段が終わって平面の床が現れたことで、心なしか不安が一気に晴れた。
最後の一段を降るやいなや、冷や汗かただの汗か、それとも涙かわからない液体に濡れた顔をタオルで拭きたいという衝動に駆られながらぺたりとその場に座った。
床の先を見てみるとまだ階段が続いているようだったが、私が絶望する前に「ここで到着だよ」と何よりも安心させる言葉をかけてくれた。
依然として景色は雲で覆われていて全く見えない。
……と、まるで私達が到着したことがトリガーかと思うように。
「真実が見えるよ」
ふわりと周囲一帯の雲が、波が引くように晴れていった。
──それは地球ではなかった。
大地は血のように赤く染まり、さらに何百kmにも渡る亀裂があり。数え切れないほどの巨大な赤い十字架が雲を貫くほど屹立し。そして、生命の存在感を一切感じ取ることができなかった。
それに一番驚くべきは、地上にもうひとつ天体が存在していたことだ。その天体は球体で、地球の縮小モデルのようだった。目の粗い網目状の赤い模様が上書きされていて、さらに自転している。その場から移動するような様子はない。
いつの間にか地球は異星になっていたのか。
「これ、は────」
この星は死んでいる。死星だ。
視覚を司る器官以外の活動がすべて停止しているような錯覚。
この光景から目を離すことができなかった。
「これが、君が初号機と同化している間に起こったサードインパクトの結果だよ」
「サード……インパクト?」
知らない間に世界が変わるような天災が起こっていたのか。
しかし私が起こしたとされるのはニアサードインパクト。その後、ということになるのか。
だがどちらにせよ。
「これじゃあ他の皆は……」
「この星での大量絶滅は珍しいことじゃない。むしろ進化を促す面もある」
赤い世界。
赤いソラ。
蒼い初号機。
鬼に堕ちる。
背骨を砕いた刺創。
目覚めて。
薄っぺらい覚悟を決めて。
綾波さんを救って。
「生命とは本来、世界に合わせて自らを変えていく存在だからね。しかし、リリンは自らではなく、世界の方を変えていく。だから、自らを人工的に進化させるための儀式を起こした。古の生命体を贄とし、生命の実を与えた新たな生命体を作り出すためにね。全てが太古よりプログラムされていた絶滅行動だ。ネルフでは人類補完計画と呼んでいたよ」
「ネルフがこれを……。お父さんはいったい何をやってるの……?」
赤い初号機の∞。
染まる大地。
終わる世界。
人類の廃絶。
棺桶に封印されて。
ソラへ打ち上げられて。
蒼い壱号機。
「ぁ、う……、頭が」
これまで固く閉ざされていた回路が急に開かれ、記憶の濁流が一気に押し寄せてきている。それを受け止められず脳のシナプスが花火のようにパチパチと激しく弾ける。
「混乱するのも無理はない。ゆっくり、落ち着くんだ」
違う。違うの。
現実が受け止められないだとかそれ以前の問題。
今までの記憶。日常。戦い。私がやったこと。私が受けたもの。すべて。悉く。遍くが思い出されているのだ。
「碇カノン君。一度覚醒し、ガフの扉を開いたエヴァ初号機はサードインパクトのトリガーとなってしまった。リリンの言うニアサードインパクト。全てのきっかけは、君なんだよ」
頭を抱えて視界を真下に向ける。
「そんな……違う。私はただ綾波さんを助けたくて、必死になって……本当にただそれだけだったの。でもこんなことになる、なん……て……」
遠い目で大地を見下ろしていた渚君がちらりとこちらを向いた。
「……思い出したのかい?」
「……たぶん。私がアスカとミサトさんと暮らしていたこと。学校の友達。男の人に私の正体をバラされたこと……全部」
「それは良かった。いい思い出ばかりではないだろうけど、君には必ず必要な記憶だ。君の行動の結果が今の世界だということも、忘れてはいけない記憶だよ」
「こんなこと急に言われてもどうしょうもないよ……私が世界を滅ぼしたってこと? 私が皆をこ……ころ…………」
「直接ではないけど、間接的に君が人類を滅ぼしたのは事実だ。例外としてヴィレのように本当にごく一部の生存者はいるけどね」
これ以上は渚君と会話をしたくなかった。
ようやく戻った記憶を、圧倒的不変の事実で押しつぶされるような感覚に陥ってしまうからだ。
言葉の意味はわかるが、絶対に理解したくなかった。理解してしまえば、『私が世界を終わらせた』という認識が根付いてしまう。
全身の毛穴が開き、汗がふく。恐怖に目の焦点が合わない。
たちの悪い嘘をつかれているのだと信じたいが、あの時の私の覚醒は、言い逃れできないものだった。
「そう、どうしようもない君の過去。君が知りたかった真実だ。結果として、リリンは君に罪の代償を与えた。それが、その首のものじゃないのかい?」
不意に首につけられたチョーカーに触れようとするが、防護服に阻まれる。
ミサトさんはやむを得ない場合はこれを使って私を殺すと言った。あれほど親密だったはずなのに、そう言わせるほどのことを私はしてしまったのだ。
殺す? 殺す……。ヴィレのスタッフたちから向けられた視線の正体は敵意などという優しいものではなく、殺意だったのか。
「罪だなんて……私は誰にもそんなことしてないよッ!」
「君になくても他人からはあるのさ。とはいえ、この罪は本来、君ではない誰かが背負うもののはずだった」
「ならどうしてこんなことになってるの……⁉」
「どこからか、仕組まれた運命が少し狂ってしまったんだ。そしてそれがどんどん波及した。運命力は誰かから君に託された。その人のために、どうか向き合ってあげてほしい。それがきっと、互いにとって救いにもなるはずだから」
いっそう力強く自分の頭を抱え込む。
そんな私を、渚君は依然として冷静な目で見下ろしていた。
◆
掛け布団を全身を覆うように被さり、真っ暗な世界の中でS-DATを流す。逃げ込むように、何度も何度もリピートさせる。
思い出した記憶の整理はついたが、現実との折り合いがつけられない。世界が想像を絶するほどの変貌の遂げていただなんて到底信じられるわけがなかった。だが事実としてあの光景を見てしまったし、渚君の言うことに思い当たる節がないわけでもない。
綾波さんを助けたあの時、私は間違いなくヒトではない力を行使していた。3号機との戦闘で、私が心肺停止している間に発揮したらしいパフォーマンスの次元の桁数が違っていた。あれは……なんだろう……全能感に近かった気がする。まるですべてを意のままにできると錯覚した。
それこそが皆の言う『覚醒』なのだろうか。
どちらにせよ、私にすべての原因があるということに一部たりでも理解を示してしまっているのが問題だ。
とうに昼など過ぎている。あのよくわからない昼食がついに喉を通らなくなり、初めて吐いてしまった。
もう今日は何もしたくない気分になったが、なんとかして気を紛らわせたいと思った。こうしてS-DATで無意味に音楽を流しているが、それだけでは足りない。
綾波さんに会いたいと強く願った。
私が助けた綾波さん。私の話を聞いてくれる同じ年の同性が欲しかった。あまり会話のキャッチボールは期待できないが、それでもこのどうしようもない気持ちを言葉にして少しでも気分を落ち着かせたかった。
乱暴に掛け布団を床に投げ捨て、ベッドから降りた。そしてふらふらと自室から出た。向かったのは綾波さんの私室。何度か立ち寄ったことがあるから場所は知っていた。ほぼ高確率で主はいなかったが。
地下深くまでくり抜かれた巨大な支柱が目立つ空間にの脇に、ぽつりと存在するプレハブ。これがそうだ。
「綾波さん、いる?」
返事がなかった。
「……いない?」
再度ノックして本当にいないと確信してから恐る恐る中を覗き込む。初めてここに来た時は綾波さんが裸だったから、特に気をつけた。
改めていないのを確認したところで、大人しく部屋に戻ることにした。いつ帰ってくるのかわからないのに、のんびり待てるほど心の余裕がない。
無駄足だったな、と思いつつ帰路につく。
もうすぐ第13号機が完成するというのに、こんなテンションでは操縦できる自信がない。
もう、寝て気を紛らわせるしかない。
「第3の少女」
「!」
ぼんやりしすぎていた。
突然誰かに声をかけられ、驚きのあまり私はびくりと跳ね上がる。
「あ……こんにちは」
声のした方向を見ると、ベンチに腰掛けた高齢の男性がこちらを見ていた。14年も経ったのだからさらに老けてはいるが、誰かはわかる。確かこの人は……。
「冬月副司令……ですよね。私に何か用ですか?」
ほっそりとした体型だったのがさらに痩せこけていて、もう骸骨のようだった。
この人と私はまったく面識がない。組織図的に知っているだけで、昔はネルフ内でたまにすれ違いざまに簡単な挨拶をする程度の間柄だ。
綾波さん以外と話したい気分ではなかったが、かといって適当にやり過ごすことはできずに足を止めた。
「将棋は打てるかね」
「将棋、ですか? まあはい、ちょっとだけなら……」
「結構だ。付き合いたまえ。飛車角金は落としてやる」
そう言うと副司令はベンチから立ち上がり、ついて来いと言わんばかりに歩き出した。一方的に決められた気がしてならないが、素直について行くことにした。
連れられたのは、非常に暗い部屋だ。広さすらわからない。一般的なものと変わって、階段を上がって中に入る。
中央に将棋盤が置かれており、そこに薄暗いスポットライトが降りている。
「座れるかね」と尋ねられ、「大丈夫です」と畳の上に膝を落とした。これくらいなら問題ない……と思ったがシンプルに正座が辛かったので数秒後には両脚をハの字にした。
「先手は譲ってやる」
それぞれの駒がどう動くかを思い出しながら、副司令と順番に駒を進めていく。
深い知見などないため、とにかく取られそうな駒などに注視して、かつ攻められそうなときは勢い良く攻める。だが主力の駒を抜いているというのにのらりくらりと躱され、いつの間にか私の持っていた飛車角はこちらを向いていた。
「心を静かに落ち着かせる。戦いに勝つために必要なことだ」
負けの可能性が濃厚になり、ここからどう巻き返せばいいのかわからなくなって頭の中で静かに混乱していると、そう指摘された。
「────」
焦りは思考のみと思っていたが、落ち着いてみると、両の拳が膝の上で力強く握りしめられていた。中は汗を書いている感覚すらする。顔はもっと酷いことになっているだろう。
「三手先で、君の詰みだ」
「…………」
今や王手と宣言されて、その度に付け焼き刃的に王を逃したり手持ちの駒を挟むので精一杯になっている。
逆転の目はない。
圧倒的な実力差に、どちらも楽しめているとは言い難い。
「うむ……これなら楽しめるか?」
盤上の駒をかき集め、箱に入れ、それを逆さにして将棋崩しの山をつくった。
「老人の趣味に付き合ってくれて礼を言う」
「いえ……たまにはこういう気晴らしも嬉しいです」
私は山を崩さないように慎重に駒を指で引き抜く。これならば難しいことを考える必要はなく、山のバランスのみ集中すればいい。
「私も臆病でね。口実でもなければこうして君と話す機会を持てなかった。君はお母さんを覚えているかね?」
粛々と順番に駒を引き抜いていると、ふとそんなことを訊かれた。あまりに唐突な内容で、一種の心理戦でも仕掛けてきたのかと思った。
「いえ、まだ小さかったので。それにお母さんのものはすべてお父さんが捨ててしまったから……」
お母さんがいなくなってしまってから私の人生が大きく変わった。もしずっと一緒にいれば、もっとずっといい方向に……お父さんが私を忌み子のように扱うことはなかっただろう。
副司令は自身の懐を漁ると、一枚の写真を私に見せた。大人が数人と、女性が赤ちゃんを抱いている写真だ。
そして、私はその女性に見覚えがあった。
「この人は……綾波さん?」
非常に大人びている、というより紛れもない大人だ。今の綾波さんは外見だけは私と同じ14才。だからこれはおかしい。しかし他人の空似とは思えないほど似すぎている。強いて異なる点をあげるとすれば、髪色がグレーがかった栗色であることくらいだ。
「碇レイの母親だ。旧姓は綾波ユイ。大学では私の教え子だった」
「──え? この人が私のお母、さん? どう見たって綾波さんじゃ……」
「今は初号機の制御システムになっている」
「──え? どう、いう」
何を言っているのかがわからなかった。
初号機の制御システムになっている。制御システムになるというのはいったいどういう意味だ? パイロットのような操縦者ではなく、別のナニカ。
生きている人間をシステム化するというのが具体的にどういうことなのかがわからない。
なおも落ち着いた様子で駒を抜き取る彼の皺の目立つ指への焦点がなかなか定まらない。
衝撃などというレベルを超えた鈍痛が近かった。
「うむ。ようやく電源が復旧したか」
パッ、と赤い障害灯が光り、部屋の全容がようやく明かされる。同時に私たちの側面側の向こうに倒れていた何かがいくつものワイヤーで吊り上げられる。
それは巨大な十字架だった。誰かが磔にされているなんてことはなかったが、表面に印のように巨人のシルエットがつけられている。
ここは何かの実験場だった。それも真っ当なものではない、おぞましいものと直感した。
「エヴァのごく初期型制御システムだ。ここでユイ君が発案したコアへのダイレクトエントリーを、自らが被験者となり試みた。君はそれを見ていなかったがね。結果、ユイ君はここで消え、彼女の情報だけが綾波シリーズに残された」
副司令のすぐ後ろにも明かりがつく。
ハニカム構造の壁だ。しかしそのひとつひとつの穴には人の首がそれぞれ無造作に置かれている。
──綾波さんの首が、こんなにもある。
「ひっ」
悲鳴を上げたのはあまりに非現実的な場面に遭遇したからというだけではない。首の一部が目をギョロギョロと動かして私を見たような気がしたからだ。
今すぐにでも逃げ出したくなったが、腰が抜けて立ち上がることができない。
だからもう何も見ないでいいように、乱暴に両手で目を塞いだ。
「君の知っている綾波レイは、ユイ君の複製体の一つだ。その娘もユイ君同様、初号機の中に保存されている。すべては碇の計画だよ」
「わからない……わからないです……! 怖い! じゃあ綾波さんは私のお母さんのクローンってことですか⁉ お父さんは何をしてるの⁉」
頭がぐちゃぐちゃになっておかしくなりそうだ。将棋崩しなんてくだらない遊びになんて戻れるはずがなかった。今すぐにでも理解できない恐怖を誤魔化すために、駒の山をぶっ壊してやりたい。
「おっと。駒はそんな乱暴に扱ってはいかんよ。そうやって世界を崩すことは造作もない。だが、作り直すとなるとそうもいかん。時と同じく、世界に可逆性はないからな。人の心にも。だから今、碇は妻と
どくん、と心臓が跳ねた。
少し今、聞き捨てならない言葉が聞こえた気がした。
恐ろしいほどの静寂が自分の中に訪れ、これまでの自我の揺れの一切が鈍くなった。
「……待ってください。妻と娘って……娘はここにいるじゃないですか」
「いやいない。碇ユイと碇レイはもうこの世にはいない」
「それは私が改名したから、『碇レイ』という名前がなくなったという意味ですか?」
「それも違う。碇レイはユイ君と同様、壱号機の制御システムになっている」
「──────────は?」
時間が停止した。
きっと一日くらいだと思う。
その間私は呼吸をしていなかった。
将棋盤から駒がなくなっていることに気づいたことでようやく失っていた正気を取り戻した。
「私が壱号機の制御システム……? そんなはずないです。だって私ここにいるもん! だから間違ってます!」
「君の記憶は小学生低学年頃──交通事故に遭ったときから開始している。それ以前のことは何も覚えていない。なぜなら記憶が存在しないからだ」
「…………」
必死になって昔の記憶を思い出す。
だがこれといって明確に思い出せるものがない。しかしそれこそ幼少期の記憶だ。脳をこんなに熱くしてまで覚えていなかったのなら仕方ない。
「誤魔化してはいけない。どんな人間でも朧げながらでも昔のことは思い出せるものだ。君にはそれが一つもないだろう?」
しかしそれを逃してはくれなかった。
「そんな、こと……!」
「なら質問を変えよう。いったいいつから『碇カノン』だった? そもそもなぜ『カノン』なのかね? 本当に君が考えた新しい名前か?」
「ぁ、えっと……それは……」
──答えられない。
自分が改名したいと言い、それをお父さんがOKしたからという認識でいる。
改めて振り返れば、小中学生の私が親から授かった大切な名前を自分から変えたいなどと果たして本当に思ったのだろうか。そのような覚えはあまりない。
自身を明確に自覚したときから私は碇カノンである。レイ。レイ。綾波レイではなく、碇レイ。そうしようと話し合っていた両親の姿が──。
このままだと思考の坩堝に囚われそう。何か重大な思い違いをしているのではと考えてしまう。
カノンとは、いったい何だ──?
「君の正体を教えよう」
動揺して目の前で起こっていることすらわからなくなってしまっている間に、既に駒は床から拾われ、副司令の陣には駒が初期位置に綺麗に並べられていた。
「ま、待って、聞きたくない! やめてください!!」
情けなく懇願する。そんなことをしても何も変わりはしないのに。
人生を決定づける重大なモノが飛び出る。そう確信していた。それも悪い方向に。
怖くて怖くてどうしようもなかった。鼓膜を破り、耳を引き千切りたい。しかし氷漬けにされたように硬直した身体では何もできなかった。
そうして、高齢とは思えないほどしっかりして、ずっしりと重みのある言葉が告げられた。
「──君の正体は、自分を碇レイだと思い込んでいる
すべては偽りだった。
運命など初めから仕組まれておらず、盤上で踊り続けるだけの、ただの代理者だった。
それではまた次回!