それでも私は── 作:次作エヴァはきっと鬱エンド
霧島マナの庇護下に入りました
傷心のカノンを施設に迎えたからといって、マナがカノンにつきっきりで寄り添えるわけではない。あくまで本業である子供たちを預かる合間を縫って、できる範囲でメンタルケアを行っているに過ぎない。
朝早くにマナがごそごそと動き出したのをカノンは認識していた。寝たフリをし、部屋を出ていくまで待つ。子供たちの元気な声が聞こえ始めた頃になってようやくのろのろと布団から抜け出す。そこからはいつも通り部屋の隅にうずくまった。
何をせずまた眠ることもできたが、それをする気力もなかった。くぅ、と鳴るお腹をさすり、頭を両膝と胸の間にねじ込む。
こうしている間にも皆がそれぞれの生活をしていることをカノンは知らない。知ろうともしない。むしろ知りたくない。
そんな日々が餓死するまで続くはずだった。
「よう碇。来てやったぜ」
部屋に入り、そう気さくに言いながら唐突にやってきたのはケンスケだった。
彼とカノンはもう、大人と子どものような外見の違いがあった。それくらいの見た目の差がふたりにはあった。精神的な年齢も同様だ。
断りなくカノンの横に腰掛けたケンスケは、持ってきた袋から乾パンを差し出した。
「ほら、食えよ。霧島さんから聞いた。ここに来てまだ何も食べてないって。このままだと本当に死んでしまうぞ」
やや強引にカノンの頭を上げさせ、口元に乾パンを押し付けるが受け付けようとしない。かさかさに干からびた色の薄い唇から、極めて不健康な状態であるとケンスケでもわかる。
小さくため息を吐き、「ここに置いておくからな」と台の上に箱ごと置いた。きっとこうしてしまうと食べることはないのだろうとわかっていても、こうするしかない。
トウジに点滴でも打たせて最低限の栄養を強引に送り込むか? いや、そもそも受け付けようとしないし、やったところで目を離した隙に自分で外すかもしれない。
「碇」
「……」
「皆も頑張ってるんだからお前も頑張れ、なんてことは俺は言わない。でもここにいる皆は碇に元気になってほしいと思ってる。だから今はまだいい。元気になったら、せめて霧島さんのことだけでも手伝ってやってくれ」
ここに来たのは昨日のアスカがすこぶる不機嫌で帰ってきたからだった。何を訊いてもぷりぷりしていたから、きっとカノンとの接触で何か不愉快だったんだろうなと予測していたがその通りだった。
気になって仕事の合間に顔を出しに来て良かった。
こんな状態のカノンにズカズカと言葉を浴びせるアスカとの相性がいいわけがない。
ずっと自分の側に置かないという選択は少なくとも間違いではなさそうだった。とはいえアスカのような強引に奮い立たせようとする接触もダメではない。
もうそれを必要とするレベルになってきているから。
アスカはこの村では基本暇人だから、きっとケンスケが言っても言わなくてもなんだかんだカノンな様子を見に来るだろう。その結果がいい方に転ぶことを願うばかりだ。
「悪いな碇。仕事があるからはやいけどこの辺で出るよ。それじゃあな」
等身大のフィギュアに話しかけている気分だった。
ただ、そのフィギュアはいつの間にか涙を流していた。
ケンスケにはその理由がわからなかった。
◆
すべてをシャットアウトしていた。
何も見ないし何も聞かない。そうしようとしていた。でもそんなことは不可能で、どうしても情報というのは脳に送りつけられる。
離れた距離から聞こえる幼児たちの楽しそうな声。右耳から左耳へ流し。
ただ苦しみだけがあった。
ドシドシと足音が近づく。そしてバンッ! とノックもせず誰かが入ってきた。何も言わず入ってきた人物は膝を抱えるカノンの前で仁王立ちし、長い長いため息を吐く。
「いつまでそんなことしてるの。あんたのその可哀想な女アピール、クソムカつくんだけど」
アスカは続けた。
「本当は助けて欲しがってるくせに。そんなことしてたら誰かが助けてくれるなんて大間違い。皆今を生きるのに必死なのよ。あいつがあんたを預かったのは、他と違って頭のネジが飛んでるだけ。その足りない頭でもわかるでしょ? こんな世界じゃ働かない奴に生きる資格なんてない。あんたより小さい子ですらファーストもどきと一緒に農作業を手伝ってるのよ? わかる? この差が」
突然の事実陳列ではあるもののほぼ罵詈雑言に近い。
綾波のクローンはすでにこの村で働き始め、仕事仲間と打ち解け始めている。ものを知らなさ過ぎるがゆえにすっ飛んだことをしようとすることがあるが、それも愛嬌として受け入れられている。
すでに立派な村の一員。
だというのにカノンはこうして人様の屋根の下でこうして腐ったミカンのように蠢いているだけ。どちらが上なのかは明白だ。
「ケンケンもナルシストも甘すぎるのよ。こうやって不貞腐れてる時は、立ち上がるのを待ってやるんじゃなくて殴ってでも立ち上がらせるべきなのよ」
乱暴にカノンの胸ぐらを掴んで立ち上がらせる。
無理やりアスカと目を合わせられ、重力に従うようにカノンの顔は下に向き――アスカの頸部に装着されたDSSチョーカーが視界に飛び込んだ。
「――――、っ」
突然、小刻みに震えだす身体。
アスカはすぐに原因は理解したが、体勢を崩さなかった。不健康そうな顔が大きく歪み、くしゃくしゃになる。
掘り起こされたのは、第13号機内での記憶。カノンの半端な対応が招いてしまった渚カヲルの壮絶な最期。その一部始終。
首を爆発させて切断するという日常生活、いや、エヴァパイロットであっても目にすることはまずない残酷な死。まだ中学生で止まっている精神に取り返しのつかないトラウマを植え付けるには十分すぎた。
瞳が目まぐるしく揺れ、瞳孔が大きく開かれる。激しい嗚咽を含む呼吸になり、今にも嘔吐しだしそうだった。
さすがに手に吐かれるのは受け入れられないのでアスカは素早く手を離した。電池の切れたロボットのように受け身も取らずドサッと倒れ込むカノンをアスカは冷ややかな目で見下ろす。
果たして嘔吐することはなかったが、見るからに不調ではある。
「泣くなバカ」
声も出さずに泣いている。
使われて汚れだらけの雑巾が、まだ中途半端に残っている水分を絞り出しているかのよう。
みっともない。見るに耐えない。少なくとも年頃の女の子がしていい顔ではなかった。
舌打ち。
一方的に言い放つだけになってしまっているこの状況に。
来るんじゃなかったと後悔。現実を教えたものの実際は無駄に傷つけるだけになってしまった。
虫の居所が悪くなって、出て行こうと踵を返した時、放置されている菓子パンが視界に入った。
あれは確かケンスケが数時間前にカノンに差し入れると言っていたやつ。開けただけの状態ということは、食べていない。
怒りは頂点に達した。
菓子パンを鷲掴みにし、倒れたままの状態で動かないカノンの上に馬乗りになる。そして片手で顎を掴み、もう片方で菓子パンを無理やり口にねじ込んだ。
「弱虫! こうして飯を食わせてもらえるだけでもありがたく思え!」
一向に口を開けようとしないカノンの鼻を摘み、反射的に口が開かれた瞬間に投げつけるくらいの勢いで放り込む。
口の中が擦り切れようがそんなものは知ったことではない。苦しそうに喘ぎ両腕で弱々しく抵抗しようとしているが、体勢が不利な上にアスカに力比べで勝てるはずもなく、あっさりと両膝でそれぞれの肩を押さえつけられてしまう。
「まだあんたはリリンもどき、食べなきゃ生きていられない。だから食え! こちとらずっと水だけだ! 何も変わらない身体になる前に、飯のまずさを味わっておけ! そうやって何もしないのも、自分がまた傷つくのが嫌ってだけでしょ? あんたがそんなだったら、私はどうすればいいのよ! これまではなんだったのよ⁉」
酷い顔だ。
しかしアスカも同じくらい酷い顔だったかもしれない。何度か喉が嚥下したのを確認し、ヒートアップした感情を冷静にさせる。カノンの口の周りにはカスがこびりつき、床にも崩れた欠片がたくさん転がっている。
暴力に近い行動をされたカノンはアスカを恨めしい目で見たりすることなく、まだ泣いている。
「あんた、周りに流されすぎ。どうせ自分の意志で動いた結果が全部裏目に出て、何もかも放棄すれば楽になれるって思ってるんでしょ? あんたの本性がそんななら、あの時殺してくれたほうが良かったわ!」
今度こそ部屋を出ていく前に捨て台詞を吐き終えたアスカは、最後まで慰めの言葉一つかけなかった。
◆
マナがカノンの様子を見に来たのは仕事を終えた後のことで、夕方だった。
ケンスケとアスカが見舞いにやってきていたことは知っていたが、どうなったのかまでは知らなかった。
夕食を持ってカノンの部屋に入る。
「今日は全然様子見れなくてごめんね? 晩ごはん食べよっか」
量は少ないが、温かい味噌汁と野菜炒めとお米。少しだけ奮発した。カノンが少しでも食べてくれることを期待して。
だが本人は床に倒れて……意識ははっきりしているが倒れている。ジャージが明らかにもみくちゃにされていて、誰かに何かされたのは一目瞭然。涙の跡も残っている。菓子パンのカスがそこら中に散らばっているのを見る。アスカがやってきたのは知ってるから、なんとなく成り行きは理解できた。
塵取りでカスを集めてゴミ箱に捨てる。カノンの口元にまだついているカスも、マナの袖口で拭き取った。そして「皺になっちゃうよ」とジャージを正す。
……たぶん、今日もまた食べてはくれないのだろう。現場の様子から見て、アスカが強引に食べさせはしたと思われる。これでもうしばらくはもつか。
しかし明らかに体重が落ちているのは見てわかる。抵抗などではなく、今もなお続く意志のない絶食は、カノン自身の心が前を向かない限り改善されることはないのだろう。
そこをなんとかするのがマナだ。
カノンを安請け合いしたつもりは毛頭ないが、それでも事の重大さを改めて痛感させられた気分である。
「――、――――っ、」
言葉が詰まる。
かけるべき言葉が舌の上に上ってすらこない。このもどかしさ。
本当ならカノンはマナと同じ肉体年齢、精神年齢のはずだったのにそうではない。この差。決して取り戻すことのできない時間の生み出す残酷さ。
世界から14年も置いていかれた心境や如何に。マナには到底理解することができない。同じ立場ではないから。
……そっと、カノンの細い身体を自身に抱き寄せた。無抵抗で、ぽすりとマナの胸に収まる。
それは誤魔化すための行動だっかもしれない。そのために絞り出した行動がこれだったかもしれない。
「大丈夫、大丈夫だから。皆カノンちゃんの味方だから」
だからこそ、その一言が決定的なものであるとわからなかった。
突然腕に中でカノンが激しく暴れ出した。初めての抵抗はマナの意表を突くには十分だった。マナの運動能力ならば捕まえることは造作もなかったが、数秒ほど呆気にとられている間にあっさりと膝下から抜け出され、カノンは倒れそうによろけながらも部屋から飛び出す。
玄関に向かい、出しっぱなしになっていたスリッパを走りながら履いて外へ。
すぐに後を追ってマナも外へ出たが、その時にはすでに姿はどこにも見当たらなかった。第三村に来てからほとんどを室内で過ごしているカノンが迷子になるのは明白。誰かの家で保護されてくれればそれでいいのだが、あの感じだと人のいない所――居住区外に行こうとするだろう。
「皆になんて言えば……」
信頼して預けてくれたのにこの始末。心の中で深く深く頭を下げながらマナはケンスケの下へと急いだ。
◆
ここは毒でしかない。
極めてキレイで、うっかり喉に通してしまいそうなほどの甘美な毒だ。
私には第三村の存在が苦しくてたまらなかった。消えてほしいという意味ではなく、自分が一刻も早くこの場から消えてなくなりたいという意味である。
何もしたくない。死なせてほしい。殺してほしい。気持ちを切り替えるための思考のアポトーシスではなく、肉体的な死を切望する。
そんな願望を持つ私にこの場所は致命的なまでに相性が悪い。
走る。
スリッパのまま走るのはきつい。脚への負担が大きくなり、脛のあたりに熱がこもる。
遠く。どこか遠くへ。人のいないところ。誰もいないところ。私がひとり死んでも骨すら朽ちるまで誰にも見つからないような。朽ちた線路に沿って走り、終点が千切れるように途切れていたら、獣道すら存在しない林の中に飛び込む。方向なんて何もわからない。外に向かっているかもわからない。とにかく足が棒になるまで走り続けた。
口の中が乾燥しきり、酸っぱく感じ始めても腕を動かすことで強引に身体を前に動かした。ここに来てからほとんど全く食事をしていない身体はとうに限界を超えていた。
激しい息切れと同時についに立つことができなくなり、受け身も取れずにその場に倒れた。
目の前にはL結界を含む外界との隔たりとなる壁。サイバー感のある紫色が、エヴァの身長以上の高さで聳えている。中継をするように、赤い文様がびっちり記された黒い巨大な柱たちが一定間隔で地面に刺さっていて、それがこの壁を維持しているのだろう。
外は本当に赤かった。外を歩いていたからよくわかっているつもりでいたが、こうして安全圏から危険域を眺めると、人類滅亡の危機というSFな出来事が現実になろうとしていることが嫌でも理解させられる。
赤い地獄には見渡す限り数十体のエヴァのような真っ赤な首のない巨人がゾンビのように徘徊していて、この世の終わりをさらに演出している。
住宅街の一室から発生したようなエヴァに酷似した装甲をもつ巨人が瓦礫に潰されているのは見たことがあるが、これはそれとも違う。
一体が私の存在に気づく。
私は恐怖に駆られ、這いずるように後ろに下がり始める。巨人はのっそりと歩いてくるが、私の這いずりがその一歩を追い越すはずもなく。そして手を伸ばし、私に触れようとする。
距離にしてあと20メートルほど。その瞬間、壁に阻まれてATフィールドとの接触音とはやや異なる間延びした高音が響いた。
巨人はそれでも何度か突破しようと壁に触れるが通り抜けることは叶わず、さっさと諦めてどこかへ行ってしまった。
「――――、っ、は」
恐怖。
先鋭された意識が一瞬だけぼやけ、その後すぐにもとに戻る。浅い呼吸から深い呼吸に変わり、ようやく落ち着きを取り戻した。
あれは何? という疑問はもちろんだが、それよりも生き残ったことに密かに安堵した自分を自覚してしまった。
馬鹿らしくなって、立ち上がる。走る気も失せた。踵を返してとぼとぼと歩く。壁から遠ざかるように。とはいえ皆の所に戻る気もないから、なるべく人気のない場所を探した。
人による修復の手が入っていなさそうなところ。錆びついた重機たちの墓場。ずっと続く、砕けたアスファルトの道。苔が茂る工業地帯。
目的なんてなかった。でも、これ以上歩き続けられないほど衰弱していた。
「…………」
真昼でもないのに、太陽の光が眩しい。
そう感じてふと片手を目の上にやる。顔が上がる。その時。
湖のそばにやってきていたことに気づいた。ほとんど足元しか見ていなかったから気づかなかった。その足元もいつの間にか土色ではなく白に近くなっている。
よくよく見渡すと、巨大な湖の周囲には白骨化したかのように白い、崩壊したビル群で埋め尽くされていた。ここはもともと湖ではなく、戦闘の影響で大穴が空き、そこに地下水が湧き出たとかだろうか。
導かれるように湖に足が向かう。ここから見える位置にある建造物に何やら見覚えがあったからだ。
ボコボコに穴の空いたこのコンクリートの建造物に侵入するのは非常に容易かった。地面は一部が陥没し、無くなっている。すぐ下は水辺だ。そこにはペンペンに似たペンギンたちがいて、私の気配を感じると一斉に湖に飛び込んだ。
「…………」
湖を一望できる場所を定位置とし、腰を下ろし、膝を抱いた。
もうここから動くことは一生ないだろう。
……少しして、気付いた。この建造物は空っぽになったエヴァのケイジに似ていることに。
だがどうでもいい。そんなことはもう考えたくもない。ぼんやりと意志の灯らない目は鮮やかな湖を眺める。何の感情も湧かない。それでいい。それでいいのだ。
私に許される感情は、後悔と苦しみと苦痛など。自己を罰するためのすべてである。
村の皆は輝いている。でも私は輝かない。輝く意志がないし、もう輝けない。
皆は口を揃えてこう言う。なんだかんだ毎日が楽しいと。
違う。そうじゃない。そうじゃないだろう。もっと楽しい毎日が送れたのだ。私があの時エヴァで暴走しなければ。
だから、そう言ってくる皆の純粋な輝きが何よりも苦しくて仕方がない。耐えられない。壊れた心がなけなしの頑張りで「ごめんなさい」をしようとしてもそんな言葉だけで済むことは決してないから、私はその言葉を発することを許せない。
だから感情がコントロールできなくなって涙が溢れる。もう、皆の姿を見るだけで苦しい。言葉をかけてくるだけで苦しい。優しさを向けられたらすぐにでも心臓を抉り出して握り潰したくなる。
小さな子供たちを見るのもダメだ。私のせいでこんな世界に生まれてしまった。前はもっといい世界だった。そこでなら良い環境ですくすく育つことができたはずなのに。
皆が私に向けないといけないのは、非難と怨嗟の声だ。そうじゃないとおかしい。そうじゃないと私は自分の過去の行いに納得ができない。
私はいつだって皆に半殺しにされる覚悟がある。殺されても文句一つ言わない覚悟がある。なのにこの待遇はおかしい。
夜になった。
生理現象として眠気はどうしても避けられず、その場で横になって寝た。
朝、身体を叩く雨に起こされた。
すでに服も身体もびちょびちょだったから今さら雨宿りをする気になれず、ひたすら座り続けた。雨音にも負けないくらい、お腹が何度も鳴った。私はそれを無視した。
少し、身体の痙攣が出始めた。前から限界が近かったが、絶食が何日も続いたから明らかに不調が現れている。目眩がするし、頭に血が回っていないのが自覚できるほど倦怠感が強い。
雨は上がったが、服はまだ濡れたままだ。
何時間かすれば自然乾燥するはず。
「――あんた、そんなんじゃ風邪ひくわよ。これに着替えなさい」
夕方。
ふと気づくとアスカが隣で仁王立ちしていた。気づかなかった。
私がぼんやりアスカを見上げていると、
「こんなとこ誰も来ないわよ。さっさと脱げ」
と吐き捨ててやや乱暴に着ていたジャージ、下着と脱がし、すっぽんぽんにまでされる。
「……――――チッ」
逆再生かのように手際よく新しいジャージを私に着せた。
肌に張り付いていた気持ち悪さがなくなった。だからといってそれ以上何かが変わったりはしない。さっきと同じように膝を抱え、湖の向こうを無心で眺めるだけ。
自分が無心に慣れているのかは、正直わからない。
ペンギンの群れが水面から顔を出し、悠々と正面を横切って向こうへ泳いでいく。意味なくその様子を視界に入れる。
「これ、食いなさい。本当に死ぬわよあんた」
そう言ってアスカは私が残した菓子パンの残りとプラスαの食糧を雑に私の横に置いた。
アスカの目に私はどう映っているのだろう。私を見た色んな人には心配されたが、果たしていったい、今私はどんな顔をしているのだろう。
……どうでもいいことを気にしても意味なんてない。皆が私を心配する必要もない。
私はここで死ぬまで何もしないと決めた。
「あんたに死なれたら……、死なれたら困る奴がいるのよ」
それはそうかもしれない。私と関わりのあった人たちはきっと悲しむのかもしれない。
でも、私がまた起こすかもしれない何か取り返しのつかない出来事とは比較するまでもない。アスカの言っているのはただの願望だ。だから私はアスカの願望に従わない。
アスカは不機嫌そうにドシドシと足音を鳴らして帰っていった。それでいい。私はまたひとりになる。
しばらくして、誰かが来た。
「碇さん」
綾波さんだ。
この村に来たときから変わらない黒いプラグスーツを着たままだ。こちらに歩いてきて、レーションとあるものを私の横に置く。
手のひらサイズの、黒い長方形の形をした機械。S-DATだ。
どうして綾波さんが持っているなどといった、もはやどうでもいい疑問は浮かび上がらない。それを見た瞬間、やるせない憤りが沸々と湧き上がってきた。
お父さんと私は家族なんかじゃない。お父さんは私と家族ごっこをするためにこれを渡したに過ぎない。そんなもので家族の存在感を主張しようとするのはあまりに烏滸がましい。それが『繋がり』だと思っていた自分もあまりにも馬鹿すぎる。
S-DATを乱暴に鷲掴みし、目の前の湖に投げ捨ててやろうとして……やめた。単にそのような力が残っていないことと、あくまでこれはお父さんのもの。私の物ではない。壊すのは間違っているというまだ残っていた人間性からきた判断だった。
私はS-DATを横に遠ざけるように置き、拒絶を示した。
「また来る」
それを回収した綾波さんは、コツコツと歩いてきて帰って行った。
◇
意識の上から常に泥水を浴びせられているような感覚。泥の重みによって落ちてしまいそう。どうやら本格的に体調が危険なようだ。
もう何かを見ることすらしっかりできない。身体の感覚がほぼ全くない。呼吸ができていることだけは間違いなく認識できている。
おそらく、身体が痛みを感じている。それすらも他人事のようにうっすら感じ取ることしかできない。
死に近づいている。私は嬉しかった。
私にできる、唯一皆に表現できる謝罪の気持ち。これによって私は二度と活動することはなくなり、これ以上人類に壊滅的な大打撃を与えることはなくなる。
これをしたところで私が奪った何十億もの命と釣り合いは全くとれないが、やらない善よりやる偽善だ。
そしてついにぱたりと身体が横に倒れる。
死を身近に感じる。指先を動かすこともできない。浅い呼吸を維持するのでもう精一杯だった。
これでいい。このままゆっくりと迫る衰弱死を私は静かに待つ。
◇
微睡む私の心。
その内に眠る誰かに呼ばれたような気がして、私は重い瞼を上げた。
右腕には点滴。白いベッド。一度見たことのある天井。私はどうやら生き汚いようだ。力は入らないが、身体を問題なく動かすことができる。
静かな空間。廊下の明るさと色から察すると、きっと夕方だ。とりあえず早くここから抜け出す。
このままでいたらいろんな人が甲斐甲斐しく私を世話しようとするだろう。しかし私にはそんなものはいらない。今度こそどこかへ消えるのだ。
結界で守られた第三村の外。そこなら安易に人は来ないし、首のないエヴァもどきと遭遇もできるだろう。
右腕に刺された針を引き抜く。血の球がぷっくりと膨らむが、適当に袖で拭く。
ベッドの骨を掴み、ベッドから降りる。しかし万全とは程遠い状態では思ったように降りることができなかった。寝相の悪すぎてベッドから落ちるそれと全く同じように地面に落ちてしまった。
「ッ!」
痛みはあるが、問題ない。
だが問題なのは、衝突した点滴のスタンドを倒してしまったことだ。大きな音をたててしまい、私はしまったと思った。
人がいれば間違いなく気づく物音。誰もいないことを願うが、そんなことはなかった。
「なんや!?」
ドタドタと走る音が聞こえ、すぐに誰かが部屋に飛び込んできた。
そして私の様子を見たその人物は慌てた様子で口を開く。
「どうしたんやセンセ!? 寝相悪くて落ちてもうたんか!?」
鈴原くんは咄嗟に私の背中に手を回し、ひょいと持ち上げてベッドに戻す。
「人呼んでくるさかい、そこで大人しく待っとれ。な?」
慌ただしく去る彼を黙って見送る私。
もうここから人知れず去ることはできなさそうだ。そもそも自力で歩く体力もない。
そうしている内に、鈴原君は最も会いたくない人たちの中のひとりを連れて戻ってきた。廊下の彼女が見えた瞬間、私は咄嗟に寝返りをうつ。
「カノンちゃん!」
霧島マナ。
視界に収めていないのでどのような顔をしているかはわからない。しかし安堵の滲む声色から、相当心配させてしまっていたことは十分に察した。
「ごめんね」
私が全て悪いのに、どうしてそうやって自分が間違っていると勘違いして謝るのだろうか。
その言葉は、聞きたくない言葉の中でもとても嫌なものだ。
私は耳を塞ぐように掛け布団を頭までかけて小さくうずくまった。他人から寝床を与えられているというのに、こうして恥も外聞もなく人を拒絶するような態度をとってしまう。
でも、もう人と関わる勇気も権利もない。
「カノンちゃんのこと、ちゃんとわかってあげられなくてごめんね」
違う、と咄嗟に声が出せない。
身体が心に従ってくれない。生ゴミの詰まった排水溝のように、喉奥に言葉が詰まって吐き出すことができない。
苦しい。
大きく開口し、音を発したくても微かなえずきにしかならない。
思い通りにならない。何もかも思い通りにならない。
情けなさすぎる自分があまりにも憎たらしい。勝手にとはいえ、世話を焼いてくれた人だ。霧島さんに対して何もしてあげられないのは不義理だ。
私の態度をコミュニケーションを受け付けないと受け取ったのか、ふたりは小話をしてこの場は一度出直すことになったようだ。
「今日は色々疲れてると思うから、また明日話そうね」
「すまんな。ちょっとわしもついつい霧島を呼んでしまったわ。健康状態はあまり良くないから、入院しつつ、また色々話そうや」
そう言いながら鈴原君は私が抜いた点滴の針をもう一度刺し直した後、霧島さんと部屋から出ていった。
だが廊下に出ても、その場からすぐには動かず、何かを話しているようだ。内容は聞き取れないがすぐに終わったようで、今度こそどこかへ行った。
しばらく寝転がっていたせいか、眠気が襲ってくる。ここでまたベッドから抜け出して――というのはさすがにすぐに気づかれるだろうからやらない。
今後どうすればいいかなんて考えるつもりも一切ない。とりあえず今はこの眠気に任せてしまおうと考えた。
そして次に寝覚めた時、どうか地獄に落ちていますようにと。
◇
果たしてそんなことはなく、目を覚ますと変わらずベッドの上だった。都合のいい話なんてなかった。本当に地獄に落ちたいのなら、さっさと自殺すればいいだけのこと。
まだ外は暗い。しかしほんのりと明るくなり始めている。おそらく朝の5時くらいだろうか。
体調が最悪なのは変わりないが、やや楽にはなったと思う。ちゃんとした寝床で点滴をしてもらいながら寝ることができたのが大きいだろう。
しかしそれは私にはいらない。もういらない。そもそも本当は受け取ってはならない。
点滴の針を抜き、ベッドから降りる。今度は大丈夫だった。
スリッパを履き、誰もいない廊下を足音を押し殺しながら歩き、玄関に立つ。昭和時代のようなガラス張りの引き戸を、音を立てないように静かにスライドさせる。
それと同時に外の空気がふわりと私の身体に触れた。少しだけ涼しい風。顔を出し始める太陽の光。外の匂い。
「…………」
どうしようもない私の、自分自身をどうにか処理するための無計画な行動に大迷惑をかけてしまってふたりには申し訳なく思うが、もうこれきりだ。
今度こそ完全にいなくなって、今後誰も殺すことができないよう、私が死ぬ。それが人類のためになる。
外へ一歩踏み出す。
「――やっと出てきた」
「!!」
引き戸のすぐ隣で腕組みしながら壁にもたれかかっていた、赤いプラグスーツにくすんだ緑色のパーカーを羽織る人物――アスカは心底呆れたようにため息を吐く。
「こんなこったろうと思ったわ。これだからあいつらは甘すぎるって何度言えば……いや、もういい」
逃げる、なんて選択肢はなかった。
私がアスカから逃げられるはずがない。仮に体調が万全だったとしても、そもそもの総合的な力で負けているからこの時点で詰みである。
これからアスカに首根っこを掴まれて鈴原くんのもとに突き出されるだろう。
そう思っていたが。
アスカは私に背を向け、パーカーに両手を突っ込み、顎を振りながら言った。
「ちょっと面貸せ」
そこは善意の檻
咎人は胸を搔きむしる
それではまた次回!