それでも私は── 作:次作エヴァはきっと鬱エンド
バイバイ、第三村→アスカによる即確保
アスカの背中を追う。足音を殺し、影のように。
まだ夜の残滓が色濃い早朝。地平線は薄らと白み始めているが、周囲は深い藍色に沈んでいた。私はアスカが一体どこへ向かうのか皆目見当がつかない。しかし、彼女の足取りは明確な目的地を指し示しているかのように淀みない。
村はまだ深い眠りの底だ。人の気配は希薄で、ぽつりぽつりと灯る窓明かりや、農作業を始めたらしい人影が点景のように散らばるだけ。世界のほとんどは、重たい静寂に支配されていた。
淡々と、機械的な歩調で進むアスカ。それに必死で食らいつく私は、とうに息が上がっていた。そして何より、彼女が無言を貫いていることが、鉛のように私の心を沈ませる。
淡々とした歩調で先行するアスカに追随するので、私は既に息が上がりかけていた。そして、何よりも彼女が無言を貫いていることが、私を強く不安にさせた。
何も話さない方が、余計な摩擦を生まずに済む、と頭では理解している。しかし、その絶対的な沈黙は、ある種の恐怖となって私の心臓を締め付けた。
いっそこのまま踵を返して逃げ出してしまおうか。そんな愚かしい考えが脳裏をよぎるが、すぐに現実がそれを打ち消す。この距離と速度では、きっとすぐに気づかれてあっという間に捕らえられるだろう。
やがて人気のない、土の地面がむき出しになった林道へと足を踏み入れた。落ち葉や小枝を踏みしめる度に、微かな音を立てる。その先に唐突に姿を現したのは、高さ約三メートルほどの無骨な監視塔だった。全身を赤茶けた錆に覆われた鉄骨が、しかし確固たる意志で組み上げられたかのように、その構造は頑強に見えた。
アスカは、結局一度も私を振り返ることはなかった。まるでその存在を最初から認識していないかのように、監視塔の側面に取り付けられた鉄梯子へと手をかけ、迷いなく登り始める。鍛え上げられたかのようなしなやかな動作で、まるで呼吸をするかのように軽々と、彼女は瞬く間に塔の頂へと到達していく。
私はただ、その背中を茫然と見上げることしかできなかった。
「何してんのよ。あんたも来い」
舌打ち混じりの声が、頭上から降ってきた。
従う他ないため、渋々はしごの骨を掴んだ。錆びてはいるものの、妙なぐらぐらがあったりは特になく、途中で崩落するようなことはなさそうだ。
やや高さはあるが、登れないほどではない。アスカの何倍もゆっくりとした速度で登り始める。ヴィレのヴンダー内で目覚めてからはカヲル君とのリハビリしか行っておらず、肉体的に不安な部分はあるが、だからといって諦めるわけにもいかなかった。
上に登ることで、おそらくアスカのしたいことを教えてもらえると思ったから。
……さっさと諦めてもいいはずなのに。無駄に頑張る必要なんてない。
錆びが逆に程よい滑り止めになって、ついにアスカの隣に立つ。アスカは何も言わなかった。
まだ何も語りかけてくれない。目もこちらに向けてくれない。ここまでして何も目的を話してくれないのはあまりに不親切だ。
やっぱり私がバカだった。降りて、そのまま当初の予定通りこの第三村から消えようと考えたその時、私の視界は突如、眩いほどの光に満たされた。
「っ」
地平線の切れ目からだ。
黄金色の光が漏れ出る。一瞬で大地は照らされ、もちろん私のいる場所も呑み込んだ。思わず私は片手を顔の前に突き出して目を覆った。
徐々に目が慣れていき、洞穴から恐る恐る顔を出す夜行動物のように目を開ける。
ここは、隔絶された唯一のセーフゾーン。美しい世界が広がっている……わけではなかった。いくつもの超巨大な十字の柱によって汚染された世界から逃れた、ささやかな安息の地。
向こう側は文字通り真っ赤に染まった、終わった世界。
「────」
私がそのようにした。
アスカは何がしたいのか。私が生み出した地獄を見せつけて、何がしたいのか。
お前がこんな世界にしたんだ、といつも以上の罵声を浴びせ、14年間溜め込んだ私への鬱憤を晴らしたいのだろうか。
だがそれでもいい。
それだけのことをした自覚があるし、自殺する勇気すらない私には、殺してくれることが楽でもあった。そうしてほしい。
ふと、アスカを見た。
アスカの顔を──いや、人の顔をしっかりと見たのはいつ以来だろうか。こちらに気づいた素振りを見せるが、無視してじっと前方を眺めている。その顔には怒りは張り付いていなかった。
どうすればいいかわからず、癖で俯こうと下に視線を移す中、アスカに装着されている忌々しいDSSチョーカーが目に入る。
途端、あの光景のフラッシュバック。カヲル君の死。彼の首。死相。それと現実に見えているものとが混ざり合う。足元がふらつき、手すりに寄りかかる。
アスカは何も動かない。
喘息のように苦しい呼吸を整えていると、ついにアスカが口を開いた。
「別に私はこの世界の有り様に文句は言わない。同情はしてやらないけど、あんたなりに頑張ったのは理解してるつもりだから」
夜明けの風が吹き抜ける。私たちの長い髪が、同じ方向へなびいた。
アスカは淡々としていた。そしてそれが罵倒以外の意味であると理解したのは、耳にしてから数秒後だった。
思わずもう一度アスカを見る。それでも彼女は、決してこちらを見ようとしなかった。
14年も人生の先輩になってしまった彼女の感情が……わからない。
「帰るわよ」
ぶっきらぼうに言い残すと、はしごを掴み、そそくさと監視塔から降りていった。
結局何がしたかったのかがよくわからなかった。あの言葉を言いたかっただけのように感じられる。あまりしっくり来ない気持ちのまま私もゆっくりとはしごを降りる。
そして帰ったあと、私たち(主にアスカ)は鈴原くんと霧島さんにこっぴどく叱られた。
◆
結局カノンはマナの家に連れ戻されることになった。
自発的に行動するようになったのは良い傾向だが、その行動目的は褒められるものではなかった。
アスカによる連れ出しという形になったが、アスカがいなければそのままカノンは第三村から出ていってしまっていたのだから。
マナはカノンの精神状態を楽観視しすぎていたのかもしれないと自責の念に駆られた。決して楽観視しているつもりではなかった。ニアサー以降、精神を病んだ人間を多く見たから、彼女も問題なく看病できると思っていた。
カノンの心に抱く傷の大きさも理解しているつもりだった。だが、何を考えているのかまできちんと寄り添ってあげられていたかというと、急に自信が持てなくなる。
一方的な決めつけで、ありきたりな慰めの言葉をかけていただけだった。
「はあ……何やってるんだろ、私」
眠っているはずなのに、時折苦しげに呻くカノンの頭を撫でながら、マナは呟いた。
安い慰めの言葉は返って逆効果。かといってカノンの望みであろうものを本当に叶えてあげるのは論外。少しお手上げなところは否めない。できることと言えば、カノンが自然に言葉を返してくれるようになるのを待つことか。
長い長い看病になるだろうが、それについては何も問題ない。身も心もボロボロにして戦い抜いた少女には、十分な休息が与えられるべきなのだから。
「どう?」
とカノンの検査を終えたトウジにそう尋ねた。
「極度の衰弱状態としか。まあ十分復活できる範疇や。わしから言えることは、とにかく安静に。んでちゃんと栄養を摂ること。やな」
「そっか。ありがとうね」
「おう。はやく昔にみたいに元気になってほしいわ……いや、こいつにとっては昔やなくて、ちょっと前くらいの感覚なんか」
遠い目をするトウジを一瞥し、「じゃあ仕事に戻るね」とマナは部屋を出た。
預かっている子どもたちの面倒を見なければならないマナにはカノンをずっと見ていられない。専属にはなれない。
そのままあっという間に夕方になり、迎えに来た親たちに子どもたちを帰して部屋に戻ると、すでに起きていたカノンがぼんやりと天井を見つめていた。
いつものように。死んだ魚のような目をして。
生気はない。頬は明らかに痩せこけ、腕も小枝のように細い。
このままでは本当にいけないと、マナは強く思った。だから、まずは無理にでも食べさせないといけないと判断した。
そうと決まれば、と勢いよく立ち上がる。カノンは僅かにビクリと震えたが、それに気づきもしないままキッチンへと向かう。
貴重な米を使ってお粥をつくり、盆に乗せて戻る。
「ほら、カノンちゃん。お粥作ったんだけど食べれる?」
返事はない。
湯気の立つお粥をスプーンにひとさじ。ふー、ふー、と息を吹きかける。マナはそれを、祈るような気持ちでカノンの唇へと運んだ。
群青の瞳は、どこか虚ろに揺れている。それでも、その視線は確かにマナの手元のスプーンを捉えていた。
拒絶されてもいい。罵声を浴びせられた方が、いっそ楽かもしれない。それでも──今は、ただ生きてほしい。マナが唇をきつく結び、覚悟を固めた、その瞬間。
ぴくり、と長い睫毛がか細く震える。
虚ろだった瞳がほんの少しだけマナを見上げたかと思うと、小さな唇が、ためらうように、わずかに開かれた。
マナは息を呑む。震える手で、ゆっくりとスプーンを滑り込ませた。
とろりとしたお粥が、小さな舌に受け止められる。こくり、と喉が鳴った。
それだけなのに、凍てついていたマナの心に、じんわりと熱が広がっていく。
これは、大きな、大きな一歩だ。
アスカに無理やり食べさせられた時とは違う。カノンが自らの意思で食事を受け入れたのは、これが初めてだったから。
もうひとくち。もうひとくち。壊れ物を扱うように、マナはお粥を運び続ける。
しかし、四度目を差し出したところで、カノンはぷいっと顔を背けた。ちいさな抵抗を示すかのように、ごそごそとマナに背中を向けた。
それでもいい。
焦らない。急がない。いつか、この閉ざされた心の扉が開き、カノンが本当の笑顔を取り戻すその日まで、何度でも、こうして傍にいよう。
そっとカノンの柔らかな髪を撫で、愛おしむように優しく囁きかけた。
「食べられて偉いね。また晩に持ってくるからゆっくりしてね」
カノンの肩が微かに震えた。
◆
ゆらり、と暗闇に揺れる影。そのかすかな気配が、カノンの眠りを呼び覚ました。
重い瞼を押し開くと、ベッドサイドにレイが立っていた。無言で、じっとこちらを見下ろしている。
カノンの訝しげな視線を感じ取ったのか、レイはきょとんと目を瞬かせると、ゆっくりと口を開いた。
「ごめんなさい。起こしていいかわからなかった」
返事はない。
そういった沈黙の雰囲気は一切気にせず、続きを話す。
「いなくなったあなたを弐号機パイロットが捕まえたって聞いて、気になった。それに、これはやっぱり私が持っておくべきではないと思った」
そう言ってサイドテーブルにことりと丁寧に置かれたのは、カノンが一度は湖に投げ捨てようとしたS-DATだった。
それを目にした途端、あからさまにカノンからの視線がさらに険しいものになった。しかしレイはまるで気づかない。
カノンはゆっくりと身を起こした。シーツが擦れる音だけが、静寂を切り裂く。
レイの言葉には、嘘も計算も感じられない。ただ、純粋な親切心。それがかえってカノンの心を掻き乱した。理解できない。
この人形みたいな少女が何を考えているのか。全く。
視線の先、サイドテーブルの上には、S-DATがぽつんと置かれている。その無機質なボディが鈍く光っていた。
レイはスイッチを入れた。カチッと音が鳴るも、イヤホンが耳にないので音楽は聞こえない。
トラックナンバーは、27。
「どうして、あなたは何もしないの? あなたもこの村を守る人なの?」
張り詰めた沈黙をレイの声が静かに、研ぎ澄まされた氷の刃のように切り裂いた。それが意識しない言葉であっても。
その一言が部屋の空気を一瞬にして凍てつかせる。カノンの華奢な肩が、冷たい雫が落ちたかのように小さく震えた。レイの瞳は、深海の底から獲物を見上げるようにカノンをその視線で縫い止めていた。
秒針の音すら死んだかのように、時間はただ重く、濁った水のようにその場に澱んでいた。部屋はすべての感情と体温を吸い取られたかのように、無機質な寒さだけを湛えている。
カノンの指先が、意思とは無関係に、ぎゅっと握りしめられる。爪が掌に食い込む痛みさえ、今のカノンには感じられない。
肩の震えは全身へと伝播した。
俯いていた視線が、ゆっくりと、しかし確固たる意志を持って持ち上げられた。その先に捉えたのは、何の感情も読めないレイの顔。
カノンの喉元で、乾いた音が鳴る。それは嗚咽のようでもあり、唸り声のようでもあった。呼吸が浅く、速くなる。ヒュッ、ヒュッと、荒い息が喉を掻きむしる。胸が内部から何かを押し出すかのように激しく上下した。
全身の毛穴から、怒りの熱気が噴き出すような錯覚。華奢な体が、今にも弾け飛びそうなほどにわなわなと細かく震え始めた。もう、理性では止められない。その双眸は、鋭くレイを射抜く。怒りが今、堰を切って噴き出そうとしていた。
「私は……違う! 守ってなんか、ない! 全部、全部ッ! 私のせいなんだから!」
怒りがカノンの全身を灼き尽くす。喉の奥からは熱い塊がせり上がり、言葉となってレイに叩きつけられた。激しい自責の念に駆られながらも、激情の波は止められない。その醜い感情が、目の前の相手を傷つけている。痛いほど分かっていた。
自分自身へのどうしようもない情けなさが胸に突き刺さる。
「何をしても最悪なことになる! あんなに頑張ったのに! 頑張ったのにむしろ私が悪くしちゃう! だからもう何もしたくない! 話したくない、話しかけないでほしい。それか、誰か私を──」
カノンがその続きを口にすることはなかった。
そっと、相変わらず無表情のレイと目を合わせる。
なぜか……何かを伝えようとしているようにも見える。だが最適な言葉がわからず、考えているような。
我に返り、気づく。ここまで駄々をこねて、人に恥を晒して、さらにまた上塗りしようとしていることに。
頭の中は真っ白。ぐちゃぐちゃだった感情の渦が、一瞬で鎮まる。カノンの暴走しかけた意識を無理やり現実に引き戻す。
無表情の瞳がじっとカノンを見つめ返す。まるで、心の奥底まで見透かすかのように。
目の奥が、熱い。
「どうして皆、こんなに優しいの……っ!」
声は喉の奥で震えた。
アスカだけカノンの無気力な態度を詰問はしたが、その他の誰もが責めようとはしなかった。それどころか、マナをはじめとして献身的な温かさで寄り添ってくれる。
その理由がどうしてもわからなかった。なぜ、碇カノンという世界の敵に彼らは手を差し伸べるのか。
鼻をすすりながら懸命に考えるが、わからない。カノンを介護し生かすことでメリットを得られる人間が存在するのかわからない。
もうエヴァと使徒との戦いはそっちのけで人間とネルフの戦いになっているというのに。それにカノンは初号機は搭乗できる状態にない。
「教えてよ!」
震える声で叫び、目の前の相手を睨みつけた。
しかし、そんなことなど物ともしないまっすぐな声が届けられる。
「碇さんのことが好きだから」
「えっ──、は……?」
あっさりと告げられたその一言に、カノンは思わず息を呑んだ。
耳に届いたはずのその二文字をようやく咀嚼し、脳内でリフレインし始める。
すき……スキ……好き……?
長らく、そんな言葉がこの世界に存在していることを忘れていた。
好意。カヲルがカノンに対して明確に抱いていたものと同じだ。
でも……そんな。そんなことのために、ここの人たちに庇護されているというのか。
スッと右手が差し伸べられる。
何を意味しているのか、全然わからない。レイを見上げるカノンの泣き腫らした目。
その奥には、彼女のきらめきが確かに存在していた。
「仲良くなるためのおまじない」
──握手すらも忘れていたのか。
人間として当たり前の、他人と関わるための第一歩すら今のカノンは忘れていた。
エヴァとか戦いとか、そんなことに長い間囚われていたせいで、基本的な人間の思考、振る舞い、機微というのを失っていた。
そのことに、今気づいた。
こんなの、レイのほうがよっぽど『人間臭い』ではないか。
クローン同士なのに、この差はいったい。
手を出すだけでそうやってうじうじしていると、レイの方からカノンの手を取った。
「!」
絡め取ってくる細い指。しっかりとした体温が伝わってくる。
「私も、碇さんのことが好きだから」
なんて、なんて純粋な人間性。
「っ! ──、ッ!」
拙いながらもこんなにも懸命に慰めてくれているのに、どうしてこれ以上駄々をこねていられるだろうか。
高熱を出したように熱い自身の腹の上で片手を強く握り締めながら、レイと握手をしているもう片方の手にゆっくりと力を込めた。
するとレイは、安心したようにほんの……ほんのちょっぴりだけ微笑んだ、ように見えた。
ちゃんと生きて、それから死んで。
それではまた次回!