それでも私は── 作:次作エヴァはきっと鬱エンド
「その……今まですみませんでした……」
掠れた声が病室に溶けていく。
つい先ほどまで、綾波さんの黒いプラグスーツを鼻水と涙でぐしょぐしょに汚し、情けなく泣き喚いていた余韻がまだ喉の奥にへばりついて熱い痛みを残している。
目蓋は泣き腫らしてまともに開かない。乾ききった、やつれた頬を病室の空気が撫でるたびにひどく冷たく感じた。
乱れた髪を指で梳き、どうにかして体裁を整え、私はこの二人の前に向き直らなければならなかった。
「なんやセンセ、顔上げぇな。とりあえず立ち直ってよかったわ。ホンマ心配しとったんやからな、皆。特に霧島には深〜く感謝するんやで〜!」
視線を持ち上げるとそこにいるのは、鈴原君。
けれど、その茶目っ気のある笑い方だけはかつての教室で冗談を飛ばしていた頃の思い出がよぎる。
彼の声のひょうきんさは変わらない。
「うん、私も本当にそう思う。後で謝りに行くつもり」
「アスカには俺の方から言っておくよ。たぶん小言を言いに来ると思うけど。まあ、それは大人しく受け取ってやってくれ」
相田君が苦笑混じりに眼鏡のブリッジを押し上げる。彼の瞳は私の内側にある臆病な沈黙を見透かしているようだった。
図星を突かれ、うっ、と言葉に詰まる。
「……」
「そんな顔するなよ。アスカの前でもそれしたらもっと怒るぜ」
無意識に掴んでいたジャージの裾に力がこもる。
夕暮れ時。
窓の外では世界がセピアに染まり、家路を急ぐ鳥の羽音が遠くで聞こえた。かつての私なら、この夕闇に溶けて消えてしまいたいと願っただろう。
けれど、今は違う。もう少し、ちゃんと生きてみたい。
じゃあそろそろ、と私は病室を出ようと足を向けた時。
「──誰が怒るですって?」
足音を響かせ、そして扉が開け放たれる。そして不機嫌を凝縮したような状態のアスカが室内に入り込んだ。
「げ」
と無意識に反応した相田君に、
「げって何よ、げって」
と鼻を鳴らす。
アスカは鋭い視線をこちらに寄越す。
私の瞳に宿った微かな光を認めると、一瞬だけ弾かれたように睫毛を震わせた。だが、すぐにいつもの冷徹な仮面を被り直し、もう一度鼻を鳴らす。
「……何してんのよ、あんた」
深い溜息と一緒に、その言葉が落ちてきた。
「え?」
「はぁ……ホンッとに、つける薬のないバカね。やるべきことがあるでしょ」
アスカはそれ以上、私に甘えを許すような言葉は一つもかけなかった。
踵を返し、風を切るような足早で出口へと向かう。去り際、彼女は振り返ることもなく、ただ背中越しに指先だけを鋭くこちらに突きつけて言い放った。
「動けるようになったんなら、誰かの役に立て。──働かざる者、食うべからず、よ」
バタン、と容赦のない音を立てて扉が閉まる。
残された静寂の中で、私は突きつけられたその言葉を、指先でそっとなぞるように反芻した。
◆
「その……ただいま、です。霧島さん」
公民館の玄関を開けると、使い込まれた木の匂いが私を包み込んだ。出迎えてくれた霧島さんの顔は、驚きに目を見開き、やがて喜びとなる。
「カノンちゃん……!」
彼女の手が、恐る恐る私の頬に触れた。ひび割れた陶器を扱うような慎重な手つきで、ゆっくりと、愛おしむように撫でる。
その手の平の熱に触れた瞬間、不意に視界が歪んだ。霧島さんは何も言わず、私の頭をそっと自分の胸元へと引き寄せる。
「わ」
柔らかな服の質感と、天日干しした布団のような心地よい香りが鼻腔をくすぐる。
抱きしめられた体温が、ずっと強張っていた背中にじかに沁みてくる。息が詰まるほどの力だった。
けれど私は目を閉じてじっとその温もりに身を委ねた。
「おかえりなさい、カノンちゃん。身体は大丈夫なの?」
「身体は……そうですね。あんまりかなと。だから、これからちゃんと食べて少しずつ戻していきたいです」
「うん。うん。それが良いね。じゃあ今日はたくさんおいしいご飯作るからね!」
「程々にお願いしますね……」
とは言ったものの、張り切りすぎた霧島さんがたくさん用意してくれたご飯。それを目の前にして私は苦笑いをしながら、これでもアスカの強行食事に比べればずっとマシだと言い聞かせ、頑張ってお腹に詰め込むのだった。
パンパンに膨れ上がったお腹を見て「妊婦みたい」と笑ってきた霧島さんには流石に頬を膨らませた。
◆
「私、ここで働かせてください」
布団に潜り込んだ私は霧島さんに打ち明けた。
すぐ隣に布団を並べていた霧島さんは目をパチクリとさせた。
アスカの言った通り、私はまだこの村に何も貢献できていない。もらってばかりだ。だからこそ、何でもいいから手伝いをしなければならないと思った。
「いいけど……いいの?」
その言葉に、私は布団の中でこくりと頷いた。
もらうだけの日々が、じりじりと居心地を悪くしていた。ここにいてもいい理由が、一つだけでいいから無性に欲しかったのだと思う。
「ありがとう、カノンちゃん」
霧島さんは少しだけ嬉しそうに微笑むと、私の頭を手で優しく撫でた。
その温もりが心地よくて、私は静かに目を閉じ、かすかな寝息に溶けるように眠りに落ちた。
◆
翌朝。
私は霧島さんに連れられて、公民館の裏手に回った。そこはちょっとした広場になっていて、共同の洗い場として使われているらしい。
日差しはまだ柔らかいが、ひやりとした空気にはピリッとした遠慮のない冷たさが混じっていて、思わず身震いをした。
「カノンちゃんには、これを手伝ってもらおうかな」
霧島さんに手渡されたのは、ずっしりと重い木桶と、山のように積まれた洗い物だった。白いシーツや誰かの毛布、それに泥だらけになった子供たちの服が積まれている。
「これを、洗うんですね……?」
「うん。井戸から水を汲んで、ゴシゴシって。無理は禁物だよ?」
心配そうな霧島さんに「大丈夫です」と返し、私は井戸のポンプに向き合った。
レバーを押し下げると、ガシャンという手応えと共に水が溢れ出す。桶に溜まった水に、泥で汚れたズボンを放り込んだ。
たっぷりと水を吸った布地は、想像以上の重量感で私の腕にのしかかってくる。
「……っ、重い」
力を込めて持ち上げようとした瞬間、腕の筋肉がピリッと悲鳴を上げた。
今の身体にはなかなかの重労働だ。関節の一つ一つが、錆びついた機械みたいに軋んでギシギシと音を立てるのが分かる。
石鹸をつけて、布を力いっぱい揉み洗いする。たったそれだけの、ひどく原始的で単純な反復作業。なのに、みるみるうちに体力がむしり取られていく。
指の関節がじんじんと痛む。冷たい水を吸った分厚い布を絞るたびに、指の付け根の薄い皮膚にゴリッとした鋭い痛みが走る。絞る、すすぐ。その繰り返しが、私の体力を奪っていった。
「はぁ、ふぅ……」
気づけば呼吸が少し速くなり、額にはじんわりと汗が浮いている。背中にも汗が流れて、ジャージの布地が肌に張り付く。
「カノンちゃん、一回休憩にする?」
横で手際よく作業を進めていた霧島さんが顔を覗き込んできた。私は少しだけ肩で息をしながら、首を横に振る。
「いえ、大丈夫です。やらせてください」
腕がだるい。腰のあたりにも、じわじわと鈍い疲れが溜まってきている。
これまではリハビリと言っても歩くのが精一杯だったけれど、今はこうして泥臭い労働をしている。
筋肉の張りも、上がった体温も、悪くなかった。久しぶりに口角が少し上がった。
それでも腕は限界に近い。背中から二の腕にかけて突っ張って、食いしばった歯の間から細く息を吐きながら、次に手を伸ばす。
太陽がじりじりと真上へと移動し、空気を温め始めた頃。
ようやく山積みにされていた洗い物の半分ほどが、洗濯紐に揺れるようになった。白いシーツが風にはためく。その向こうに見える空が、不思議なほど青かった。
「ふぅー……」
無意識のうちに、大きな溜息がこぼれる。
伸びをすると、腰からパキパキと音が鳴った。
痛む腰を庇いながら、額にこびりついた汗を泥だらけの手の甲で拭う。
身体は悲鳴を上げているが、不思議と気分は悪くなかった。むしろ、頭の中がいくらか軽くなった気がした。
「なんだ。一応それなりに動けるじゃないの」
不意に、背後から遠慮のない声が降ってきた。
その声に弾かれたように振り返ると、そこには腕を組んだアスカが立っていた。その後ろには、苦笑いを浮かべた相田君の姿がある。
いつの間にそこにいたのか。もしかして、私がいちいち悲鳴を上げながら不格好に洗濯板に布を擦り付けているのを、ずっと後ろから腕組みして見られていたのだろうか。
アスカの鋭い視線が、汗で濡れた髪を顔にへばりつかせる私を、上から下まで念入りに値踏みするように舐め回す。
私は思わず、濡れた手でジャージの裾をぎゅっと握りしめて、小さく身を縮こまらせた。
「……アスカが言ったんじゃん。少しずつ、頑張ろうと思う」
強がるように、少しだけ顎を上げて言い返す。
声が裏返らなかったことに、内心で少しだけ安堵した。
「ふん。まあ、そのくらい出来てもらわないと困るわね」
アスカは鼻を鳴らす。
「精々頑張りなさいな。初期ロットの方はあんたなんかよりもっと頑張ってるけどね」
それだけ言い捨てて、アスカは踵を返した。
相変わらず、褒めるでもなく、貶すでもない。ただの事実確認のような冷たい言葉。
けれど、以前のような私を完全に拒絶するような刺々しさは、少しだけ薄れていたように感じたのは気のせいだろうか。
去っていく彼女の背中を見送りながら、私は小さく息を吐いた。フードの下から浮き出るインターフェイスの突起が猫耳のように見える。
「気にするなよ、碇」
残された相田君が、私の横に並び立ち、ポンと軽く肩を叩いた。
「あれは恥ずかしがってるだけさ」
「アスカが、恥ずかしがってる?」
その言葉の響きがどうにも結びつかず、私は目を瞬かせた。
アスカが恥ずかしがる? そんなこと、槍が降ってもあり得ない。
相田君は苦笑混じりに眼鏡のブリッジを押し上げる。
「お前が立ち上がって、こうしてまた歩き出してくれたことが嬉しいんだよ。でも、どう接していいかまだわかってないんだ。不器用なやつだからな」
「そっか」
相田君の言葉を反芻する。
アスカが喜んでくれている。そう思っただけで、胸の底で緊張がほどけた。
喧嘩別れして、その後使徒に侵食された参号機とで殺し合いをしてしまった私たち。
結局あの時のことをお互い謝ることもできていないままズルズル続いてしまっているこの曖昧な関係性に、いつかケリがつくのだろうか。
「邪魔したな。無理しない程度に頑張れよ」
相田君はヒラヒラと手を振って、アスカの後を追って歩き出した。
二人の背中が見えなくなるまで見送ってから、私は視線を自分の手のひらへと落とす。
擦り切れた皮膚。指の腹には洗濯板に擦れた縦線の痕が残って、爪の間に石鹸の白いカスがこびり付いている。指先には、湿った布の冷たさと、濡れた石鹸のぬめりとした感触がまだ残っている。
痛い。けど、嫌じゃなかった。
この手で何かを洗うことができた。誰かの汚れを落とすことができた。たったそれだけのことが、今の私にはひどく尊い。
私は、この手で世界を壊した。
エヴァの操縦桿を握り、意図せず槍を受け取り、取り返しのつかないことをした手だ。
けれど今、その同じ手でシーツを洗っている。子供たちの服を絞り、井戸から水を汲んでいる。
それが贖罪になるのかどうかは、分からない。たぶんならない。でも、他にできることを知らない。
私はもう一度、深く、肺の底まで空気を吸い込んでから、次の桶へと手を伸ばした。
◆
それからの日々は、洗濯だけではなかった。
畑仕事の手伝い、子供たちの食器洗い、井戸水の運搬。霧島さんが「これならできそう?」と声をかけてくれるたびに、私は頷いて、慣れない手つきで取りかかった。
三日目には腕が上がらなくなった。肩から二の腕にかけてひどい筋肉痛になり、寝返りを打つだけで歯を食いしばるはめになった。
五日目には腰が曲がったまま戻らなくなった。布団から起き上がる動作がまるで拷問で、霧島さんに「大丈夫?」と割と本気で心配される日が続いた。
筋肉痛というより、全身の骨格が組み直されているような鈍い痛みが身体の芯を這い回る。
朝、布団から起き上がるたびに、あちこちの関節が抗議の悲鳴を上げた。膝を曲げれば膝が怒り、腕を伸ばせば肘が泣く。洗い物の残り水で顔を拭きながら、今日も一日動けるのかと不安になる。
それでも、日が経つにつれて変化は確かにあった。
井戸のポンプを漕ぐ力がつき、桶を運ぶ足取りがほんの少しだけ軽くなった。
霧島さんは毎晩、私の手にヒビ割れ用の軟膏を塗ってくれた。がさがさに荒れた指先を包むように握り、丁寧に、一本ずつ。その手のひらの温度がじんわりと沁みて、その日の疲れがすっと糸のように抜けていく夜が増えた。
◆
「カノンちゃん、お風呂の時間だよ。今日は共同浴場の日!」
一週間ほど経ったある夕暮れ、霧島さんに誘われた。
第三村には、週に数回だけ沸かされる共同浴場がある。燃料の節約もあって毎日は入れないが、その分、湯が沸く日は村の人たちにとってちょっとした祝日のようなものらしい。
脱衣所に足を踏み入れると、すでに奥から女性たちの賑やかな声が跳ね返ってきていた。湯気の向こうに揺れる人影。知らない顔がほとんどだったが、誰もが裸であることが、不思議と場の空気を柔らかくしていた。
「あぁ〜……」
肩まで熱い湯に浸かった瞬間、思わず情けない声が漏れた。
でも我慢できなかった。労働で限界まで酷使され、カチコチに張り詰めていた筋肉が熱い水の中でじゅわっと溶けていく。まるで身体の芯にこびりついていた泥が剥がれ落ちるみたいだった。
肩から首にかけて固まっていた結び目が、お湯の圧力で解ける感覚。痛みとも心地よさともつかない、電流みたいな曖昧な痺れが背骨を伝って、頭のてっぺんまで抜けていく。
熱い。けど、この熱さが今の私にはたまらなく気持ちよかった。
「ふふ、いい声出すねぇ、カノンちゃん」
隣で霧島さんが笑う。
彼女の視線が、私の身体を上から下へゆっくりと辿っていった。肩から腕、鎖骨を通って胸元まで。まるで数を数えるように丁寧な眼差しだった。
「ちゃんと肉付きが良くなってきたね。よかった……本当に、よかった」
その声が、ほんの少しだけ震えているのが聞こえた。
たぶん、彼女はこれまでの私の身体を思い出している。骨と皮だけだった腕。鎖骨が大きく浮き出ていた肩。皮膚の下に肋骨の凹凸がそのまま数えられるほど痩せこけた胸。あの頃の私は、人間というよりも、乾いた枝を束ねたような何かだった。
私は湯の中で自分の身体を見下ろした。
水面の揺らぎの向こうに、自分の輪郭がぼんやりと映っている。
二の腕はまだ細い。けれど以前のように骨のかたちを皮膚が直接なぞっているような痛々しさは、少しだけ薄れていた。
鎖骨の窪みも、以前ほど深くない。その下に続く胸元に目をやると、湯に浮く白い肌の上に、膨らみが輪郭を取り戻しかけていた。以前は完全に削げ落ちていたそこに、脂肪の層が戻り始めている。
腰回りも丸みを帯びてきた。太腿に触れると、かつての棒きれのような感触ではなく、ほんの僅かな弾力が指に返ってくる。
生きた身体の感触。
食べて、動いて、眠って。その繰り返しが、枯れかけていた身体にゆっくりと水を注いでいるのだと思った。
肌の色も変わった気がする。以前は蝋のように血の気がなかったのが、今は湯の熱でうっすらと桃色に上気して、そこにちゃんと血が巡っていることを主張していた。
霧島さんの手が伸びてきて、私の肩にそっと触れてくる。その感触を慈しむように、鎖骨から肩の丸みにかけて、指先をゆっくりと、本当にゆっくりと滑らせた。
私の肌の上を、彼女の掌の熱が移動していく。その温もりは、湯気の熱さとはまた違う、心臓の鼓動を感じさせる生きた温度だった。
「ここ、前は触るのが怖いくらいだったもん。今はちゃんとお肉がついてる。……ん、いい感じだよ、カノンちゃん」
霧島さんは私の肩を軽く包み込むように握り、それから指先を滑らせて、そっと胸元に近いところまで触れた。
不意の感触に、身体がぴくりと震えた。
湯気のせいで火照っているのか、それとも彼女に触れられているせいなのか。顔が急激に熱くなるのが分かった。
胸の膨らみが、以前よりも確かな質量を持って彼女の手に触れている。それはひどく無防備で、くすぐったい。
私は思わず、息を呑んで肩をすくめた。
「霧島さん、くすぐったいです。それに、その……」
「あ、ごめんごめん。つい嬉しくて。ほら、ここも。ちゃんと女の子らしいラインが出てきたよ」
霧島さんは悪びれる様子もなく笑いながら、今度は私の腰のあたりに手を添えた。
湯の中で、彼女の手が私の脇腹から腰のくびれにかけて、滑らかな線を辿る。
かつては肋骨が浮き上がり、痩せ細っていた場所だ。今はそこに、適度な柔らかさと弾力が戻りつつある。
指が沈み込むたびに、肌の奥で眠っていた感覚が跳ね上がる。
羞恥心と、言葉にできない不思議な高揚感が混ざり合い、私の思考を湯気のように真っ白に染め上げていく。
私はたまらず、両腕で自分の身体を隠すように抱え込んだ。
「……もう、霧島さんのエッチ」
「あはは、ごめんってば。でも本当に、カノンちゃんは綺麗になってるよ。自信を持っていいんだからね」
霧島さんの目尻に湿り気が浮かんでいた。彼女はそれを拭おうともせず、満足そうに目を細めて笑っている。
私はその笑顔をまともに見ることができず、逃げるように少しだけ深く湯に沈んだ。
鎖骨の下まで湯に浸かると、自分の心臓の音がやけにはっきり聞こえた。ドクン、ドクンと、肋骨を内側から叩くような、力強い鼓動。
「──こんばんは」
静かな声がした。
湯気の向こうから、白い肌と水色の髪が現れる。
綾波さんだった。その後ろには、村のおばちゃんたちが数人。
「あら、カノンちゃん。最近よく働いてるんだってね〜。偉い偉い」
ふくよかな体型のおばちゃんが、気安く声をかけてくる。
私は曖昧に頭を下げた。
綾波さんは私の隣に、静かに湯へ身を沈めた。
水面がゆるやかに揺れて、彼女の白い肩に湯気が纏わりつく。白磁をそのまま人の形にしたような肌は、蒸気の中で一層透き通って見えた。
髪から滴った雫が湯面に小さな波紋を落とす。彼女はそれを目で追うこともせず、ただぼんやりと正面の壁あたりに視線を据えていた。
「綾波さん、最近どう? 鈴原君のところでの暮らしは」
何気なく聞いた。特に深い意図があったわけではない。沈黙が長くなりそうだったから、それを埋めたかっただけだ。
綾波さんは少しだけ顎を引いた。
「……あの家は、温かい」
ヒカリの食卓の温度、ツバメちゃんのむずかる泣き声、鈴原君の大きな背中。そういうものが、きっと彼女の中に降り積もっているのだろう。砂時計の砂のように、ゆっくりと、確かに。
綾波さんは湯の水面をじっと見つめていた。指先を水に浸し、ゆっくりと波紋を作っている。一つ広がっては消え、また一つ。まるで、自分の中にある何かの輪郭を確かめるように、同じ動作を繰り返していた。
「碇さん」
「うん?」
「私、ここで生きていきたいかもしれない」
湯気の中で、その言葉が静かに響いた。浴場の喧騒が遠のいたような気がした。
私はお湯の中で身体ごと彼女の方に向き直った。綾波さんの横顔。いつもの凪いだ表情だった。けれど瞳の奥に、前はなかった何かが灯っている。微かだけれど、確かに。
「いいんじゃないかな?」
自然に出た言葉だった。考えるより先に、口が動いていた。
ここは泥臭い場所だ。電気も水も十分じゃないし、毎日の暮らしは重労働と隣り合わせ。けれど、人が息をして、食事をして、笑ったり怒ったりしながら生きている場所だ。
そういう場所に「居たい」と、自分の言葉で言ったのだ。それはもう、それだけで正しいと思った。
「……でも」
綾波さんは言葉を続けた。
波紋を作っていた指が、ぴたりと止まる。水面に浮いたままの白い指先が、微かに震えているのが見えた。
「綾波レイじゃなくて」
湯の水面が、彼女の息遣いで微かに揺れた。
私の心臓が、一拍だけ強く跳ねた。
「別の誰かになりたい」
その声は、湯気に溶けて消えてしまいそうなほど小さく、脆かった。
綾波レイとして生きたくない。誰かの写し身としてではなく、あらかじめ用意された器としてでもなく。自分自身の名前で呼ばれたい。自分だけの、たった一つの確かな輪郭が欲しい。
浴場のざわめきが、おばちゃんたちの笑い声が、急に遠くの出来事のように退いた。湯の熱さも、肌を撫でる湿った空気さえも、一瞬だけ世界から消え去ったようだった。
碇カノン。あるいは碇レイだったかもしれない誰か。自分の名前すら、本当に自分自身のものなのか分からないまま、私はただ流されるようにここまで来てしまった。冬月副指令のあの声が、脳裏をえぐるように蘇る。
『君の正体は、自分を碇レイだと思い込んでいる誰かだ』
あの日、容赦なく突きつけられた言葉の切っ先は、今でも不意に思い出される。その度に自己嫌悪に陥った。
だからこそ、他人事じゃない。鏡の向こう側の自分が囁いているように、私の中の何かがびりびりと痛いほどに共振していた。
しばらく、私は息をするのも忘れて何も言えなかった。
湯気が天井の軋む梁に昇り、冷えて水滴となって伝い落ちてくる。ぽたん、ぽたん。少しだけ冷たいその音が、ふたりの間の静寂にポツリと挟まる。
「……じゃあ」
私は湯の中で膝を抱え直した。足の指を丸め、ぐっと力を込めた。ちゃんとした言葉を選ばなきゃ。そう思いながら、口を開く。
「最初の一歩として、名前、変えてみたら?」
綾波さんがゆっくりとこちらを向いた。赤い瞳に映る私の顔は、湯気のせいで輪郭が滲んでいたはずだ。
「名前?」
「うん。新しい名前。綾波さんだけの」
そう言いながら、胸の奥がちくりと痛んだ。
碇カノンという名前。この名前は果たして「私のもの」なのだろうか。誰かに与えられた記号ではなく、私自身を指し示す名前なのだろうか。
その問いが一瞬だけ脳裏を掠めた。けれど、今はそれを突き詰める時ではない。目の前にいる彼女が、ようやく自分の望みを口にしたのだ。私のことは後でいい。
綾波さんの瞳が、僅かに揺れた。まるで水面に小石を投げ込まれたように。
「……考えてほしい」
「え?」
「碇さんに。私の名前を考えてほしい」
予想していなかった返事だった。
私に名前を?
思わず唇が閉じた。それはできない、と直感が告げていた。
名前は、外側から貼り付けるラベルじゃない。その人の中から滲み出てくるもの、その人が「これでいい」と頷いて初めて意味を持つものだ。少なくとも、私にとってそうでありたいと思っている。だから。
私は首を横に振った。
「それは私が決めちゃダメだよ。そんなに大切なもの、人に任せたらダメ」
産まれたばかりの赤ちゃんならいざ知らず。
綾波さんが小首を傾げた。赤い瞳に浮かぶのは純粋な疑問。理解できない、という顔。ネルフでの彼女なら、そこで「そう」と言って黙っただろう。けれど今の彼女は、じっと私の顔を見つめて返事を待っていた。
「自分で決めてからこそ意味があると思うよ」
湯煙の向こうで、おばちゃんたちの笑い声が遠く響いている。日常の音。生きている人たちの声。
「──でも一人で決めなくていい。一緒に考えよう」
その言葉を口にした瞬間、自分の喉の奥が少し熱くなった。
綾波さんはしばらく黙っていた。湯気の向こうで、彼女の呼吸がほんの少しだけ深くなるのが聞こえた。
「……うん」
湯が、少しだけ温くなった気がした。長湯のしすぎだ。指先がふやけて、皺だらけになっている。
けれど、もう少しだけ。もう少しだけこのままで。
二人とも、無言のまま並んで湯に浸かっていた。天井から落ちてくる水滴の音だけが、静かに時間を刻んでいた。
◆
翌日。
朝の洗い物を終えた頃、公民館の入口に相田君が顔を出した。
「碇。ちょっといいか? 紹介したい奴がいるんだけど」
「紹介?」
「まあ、百聞は一見にしかず。霧島さんには許可とってるから」
霧島さんがエプロンで手を拭きながら「行っておいで」と微笑んだ。
外に出ると、アスカもいた。腕を組んで退屈そうに空を仰いでいる。
「アスカもいるんだね」と声をかけると、鋭い視線が飛んできた。
「別にあんたに用はないわよ。ケンケンに付き合わされてるだけ」
「ケンケン」
呼び名のおかげで一瞬だけ空気が緩んだが、アスカの表情が硬いままだった。
しばらく歩き、連れられたのは相田君の所有する倉庫だった。
中に入ると、壁にいくつかぶら下がっているのは全身防護服。
かつてのプラグスーツが戦闘のための正装だったとすれば、これは死の世界を歩くための鎧のようだった。
「すまないな。少し暑苦しいけど、しばらく着装しててくれ。うちはなんでも屋でさ、クレーディトとの連絡係もやってるんだよ」
相田君はそう言って慣れた手つきで防護服に脚を通し始めた。関節の接合部が金属質の音を立てる。アスカはもう半分着終わっていて、最後にヘルメットをセットした。
私は戸惑いながらも手渡された一着に袖を通した。ずっしりと重い。
密閉されたヘルメットの内側に、自分の呼吸がこもる。視界が丸い覗き窓に制限され、外部の音が遮断されて、途端に世界が自分ひとりの箱庭になった。
防護服の循環システムがブーンという微かなノイズを立て始める。それは身体を保護する安心の音であると同時に、自分が生命の拒絶された領域に踏み込もうとしていることの警告のようにも聞こえた。
車に乗り込み、村の境界を越えた。
景色が一変する。
結界を隔てる目に見えない膜を潜り抜けた瞬間、世界の色彩が塗り潰された。
コア化して赤黒く染まった大地が、見渡す限り続いていた。
剥き出しの地表から、無数のヒトの手や腕が突き出している。石化したわけではなさそうだ。おそらく、家出したときに見た巨大な首無しエヴァのなり損ないの一部だろう。禍々しいコアの結晶として凝固したように見える。
足元の赤い土が、厚い靴底を通して嫌な熱を伝えてくる。地面自体が静かに発熱しているような、不気味な感触。
雲ひとつない空は青というより、毒々しい翡翠色だった。
防護服の中が、すぐに息が詰まるような蒸し風呂の暑さに満たされる。額からどっと吹き出した大粒の汗がヘルメットの内側を不規則に伝い、顎先で溜まっては滴り落ちる。背中にも汗が流れて、アンダーウェアがべとべとと肌に張り付く。
「……火星を歩いているみたい」
思わず漏らした声が、通信機を通して自分自身の耳に虚しく反響した。
そうとしか形容できなかった。村のセーフゾーンの、すぐ外側がこれだ。アスカに監視塔から見せられた時と同じ、いや、それ以上に凄惨な光景が、今は足元で現実の質量を持って広がっている。
ヘルメット越しの狭い世界は、ひどく密閉されていて何の音もしなかった。自分の荒い呼吸音と、ドクン、ドクンと嫌に早い鼓動の音。それだけが、この死に絶えた惑星に残された唯一の、そしてひどく場違いな生命活動であるかのように。
アスカは平然と前を歩いている。赤い土を蹴り上げる、迷いのない力強い足取り。この14年間の間、私が眠りこけている間にこの地獄のような光景は彼女にとってすっかり見慣れた、あるいはもう見飽きて何も感じない背景へと成り下がってしまったのだろうか。結界のすぐ外にあんな『日常』を作り上げて、そしてすぐにまたこの死の世界を歩ける彼女の背中が、とても遠くのものに見えた。
相田君もまた、時折足元に気を配りながら、確かなリズムでズンズンと進んでいく。
私だけが、一歩足を踏み出すたびにまるで見えない泥沼に足を取られそうになっていた。
物理的な障害物じゃない。心臓に硬く絡みつく、目に見えない無数の蔦のような粘り気のある重圧が、私の足を重くして、動きを鈍らせている。
この赤い大地を。この血だまりのような世界を。私が作った。
ニアサードインパクト。初号機の覚醒。私はただ綾波さんを救おうとしただけだった。助けたかっただけなのに。
でもその代償として──エヴァという神の手を借りた結果として、私は世界を奪い、命を奪い、こんな風に真っ赤にしてしまったのだ。
その冷厳で巨大な事実が、防護服の分厚いヘルメット越しに、じわりじわりと真綿で私の細い首を絞め上げてくる。息ができない。
けれど、足だけは止めなかった。ここで立ち止まったら、重圧に押し潰されて二度と動けなくなりそうだったから。
一歩、また一歩。この赤い土を踏みしめるたびに、自分の犯した罪の感触を骨の髄まで噛みしめるようにして、私は必死に前の二人の背中を追いかけた。
「ここは比較的L結界が薄い地域の復元実験を進めている、クレーディトの野外ラボだ」
相田君が通信越しに説明する。声がヘルメットの中で少しくぐもって聞こえた。
「実はスタッフの中に紹介したいヤツがいるんだよ」
足を止めた。
その先に、穴が口を開けていた。
クレータ──―いや、違う。
不自然なまでに直角な縦穴だった。赤い断崖絶壁が十メートルほどの深さで垂直に切り落とされ、その底には──信じられないことに、豊かな草原が広がっている。
穴の直径は七十メートルはあるだろうか。緑のフィールドの中に、澄んだ水が水田のように張られている。そこに見覚えのある黒い円柱が十本、大地に突き立てられていた。円柱の先端はそれぞれ太いケーブルで繋がれ、ネットワークを構成しているように見える。
赤い死の大地の真ん中に、人工的に切り出された緑の楽園。その対比が、目に痛かった。
「相田先生ー!」
絶壁の縁に立つ私たちに向かって、穴の底で作業していた白い防護服姿のスタッフの一人が、両腕を大きく振り上げて合図を寄越した。
下りる道は、崖の内側に建てつけられた階段だった。これもコア化している。
一段ごとに、自分自身の重心を確かめるようにして降りていく。
高度が下がるにつれて、空気が変わるのが肌で分かった。赤い大地の、身体を刺すような感覚がすっと遠のき、代わりに湿った、瑞々しい草の匂いが立ち昇ってくる。
防護服の循環フィルター越しでも、はっきりと嗅ぎ取れるほど濃い生命の息吹。
見上げると、垂直に切り立った赤い断崖がぐるりと頭上を囲んでいた。まるで巨大な井戸の底、あるいは隔離された聖域に向かって下りていくような感覚。
毒々しい緑色の空が、高く、遠く、丸い枠の中に切り取られて、そこだけが狂った外の世界との唯一の繋がりとなっていた。
穴の底に降り立つと、足裏に不意に柔らかい感触が伝わった。
草だ。
赤く乾いた土ではなく、本物の、青々と生い茂った植物が地面を覆っている。
相田君は頭の防護装置を外し、大きく息を吸い込んだ。
「ここまで来れば脱いでも問題ない。ここは一種の隔離領域だからな」
アスカはとっくにヘルメットを脱いでいた。彼女の赤い髪が、穴の底を吹き抜ける涼やかな風に小さく揺れている。彼女の瞳には、ほんの一瞬だけ、穏やかな光が宿ったように見えた。
私もおそるおそるヘルメットのロックを外した。
パシュッという排気音と共に、蒸れた髪が一気に解放され、冷気を含んだ風に煽られた。思わず目を閉じて、その感触を味わう。
防護服の中に溜まっていた熱と汗の匂いが、首元から一気に逃げていく。
深く肺の奥まで息を吸い込むと、咽せるほどの草の匂いが満ちた。
ここだけ時間が止まっているのか、あるいは進んでいるのか。奇跡のように生きた空間がぽっかりと穿たれている。
辺りを見回すと、その異常な光景がより鮮明になった。
間近で見る黒い円柱は、想像していたよりもずっと巨大だった。その漆黒の表面には、蠢く血管のような赤い幾何学的な紋様がぼんやりと光を放ちながら刻まれている。
水路には澄んだ水が穏やかに流れ、その水面に丸く切り取られた空の色が映り込んでいる。
「お久しぶりです! そいつが新しい先生の助手ですか?」
白い防護服を着たスタッフが、防塵マスクを外しながら弾んだ足取りでこちらへ歩み寄ってきた。
その声には、若々しい張りと隠しきれないほどの活気があふれている。
私はその眩しい顔が見えた瞬間言葉を失って立ち尽くした。
自分と同じ年頃の健康的な好青年だった。
少し日に焼けた健康そうな頬に、屈託のない、人懐っこい笑みが浮かんでいる。その顔には一点の曇りもなかった。
底抜けに明るい顔だった。
知らない顔だ。絶対に、これまで会ったことはないはずだ。
けれど、その鼻の形、眉のライン、そして何よりもその瞳の奥にある真っ直ぐな光に、私はどうしようもない既視感を覚えていた。
その違和感の正体に、思考が辿り着く前に。
「ま、そんなところだ」
相田君がそう軽く返すと、青年は右手をスッと差し出した。
太陽の下での作業で荒れ、節くれ立った手だった。
「知らない人って初めてだよ。僕は加持、加持リョウジ。君の名前は?」
差し出された手を、私はすぐに取ることができなかった。
指先が、防護服の手袋の中で氷のように固まって動かない。頭の中で警告音みたいな耳鳴りがガンガンと鳴り響いている。
加持。
加持──リョウジ。
数秒、あるいはもっと長い間の、意識の完全な空白。
目の前の青年と、記憶の中の『あの人』の姿が、バチバチとノイズを立ててスライドしていく。
おそらく、いや間違いなく。ミサトさんと、あの加持さんの──。
ネルフの廊下で飄々と笑っていたあの顔、ミサトさんと軽口を叩き合っていたあの横顔。
口の中が急に、熱い砂を頬張ったように干上がった。舌が硬直し、肺の奥から震える空気を絞り出そうとしても、ヒュッと甲高い摩擦音が鳴るだけだ。
あの人は、子供を産んでいたんだ。
ミサトさんは、母親になっていた。私があんなことを起こしてしまった世界で、腹を痛めてこの命を繋いでいたのだ。
目の前の青年の、屈託のない健康的な笑顔。その瞳の奥に、記憶の底にこびりついていた加持さんの笑い方が、残酷なほど鮮やかに二重写しになる。
差し出されたままの彼の陽に焼けた手が、ずっとそこにあった。
草を渡る風が不意に強くなり、私たちの間を冷たく吹き抜けていった。
私はすぐには自分の名前を告げることができず、ただ張り裂けそうな胸を抱えながら、その擦り傷だらけの大きな手を呆然と見つめ続けることしかできなかった。
◆
その夜。
鈴原宅。
鈴原家の居間には、夕飯の後の穏やかな空気が溜まっていた。
台所でヒカリが洗い物をしている水音。トウジは壁付きの小さな机に向かい、診療記録をつけている。ペンの走るカリカリとした音だけが、かすかに聞こえる。
レイは居間の端の畳に静かに正座し、寝かしつけたばかりのツバメの顔を瞬きもせずに覗き込んでいた。
柔らかい寝息。小さな、本当に小さな握り拳。ツバメの頬は産毛に覆われて桃のように丸く、熱を持って赤い。ただ生きていること、生命がそこで燃えていることそのものを体現するかのように、力強く紅潮している。
時おりツバメが、すうすうという寝息に混じって、かにのように小さな泡を吹いた。ちいさな唇がぴくぴくと微かな痙攣のように動いて、夢の中でもお乳を吸うような愛らしい仕草をする。レイはそれを、ガラス細工を見守るような眼差しで、ただじっと見つめていた。
この小さな、温かい生き物は、毎日毎日少しずつ大きくなっていく。
昔よりもぐんと手足が伸びて、昨日よりも泣き声が大きくなって、やがてはっきりとした言葉を話し、その小さな足で大地を踏みしめて歩き出すのだろう。
──私はどうなのだろう。
レイは、ぽつりと心の内で思った。私は、大きくなるのだろうか。変われるのだろうか。
レイは自分の右手を、古い機械を動かすようにゆっくりと持ち上げた。
そっと、ツバメの熱い額に触れようと指先を伸ばし──すんでのところで、ピタリと止めた。
手のひらの中心に、赤い滲みが走っていた。
血ではない。青白い皮膚のずっと下を透かして見えるような、不規則で円形の、禍々しい赤い痣。それは自分が作られた存在であり、この温かい世界には留まれないという、刻印のようなものだった。
レイは、空中で行き場を失ったその手を、静かに、まるで諦めるようにして自分の膝の上に戻した。
ツバメの柔らかな寝顔を見つめたまま、彼女の表情は氷のように微動だにしない。相変わらずの、感情を読み取らせない完璧な凪いだ顔。
けれど、膝の上でぎゅっと固く重ねられた両手が、ほんの僅かに、誰にも気づかれないほど微かに震えていた。
ポツリ、と。
そしてそのきつく結ばれた手に、熱い熱い雫が、数滴ほど落ちた。
それが自分の目から零れ落ちたものだと気づくまで、レイは瞬きすら忘れて、畳の上に転がったその透明な染みを見つめる。
「泣いてるのは、私? これが……『寂しい』?」
罪なき罪と向き合い、ここで生きる。
それはきっと、楽な道ではないと思うけれど。
それではまた次回!