アリシゼーションの取っ掛かりをどうしようかに未だに悩んでるけれども。
東京で初めて迎える年越しは、愛しい人と共に迎えてそのまま眠りにつき、朝が来れば二人で並び立って実家の門を叩く。出迎えたのは、慣れない振袖に四苦八苦しながらも駆けてきた藍子と木綿季だ。
「兄さん、義姉さん、明けましておめでとうございます」
「明けましておめでとう! お兄ちゃん、お義姉ちゃん!」
「あぁ、明けましておめでとう二人共。振袖似合ってるぞ」
「明けましておめでとう。へぇ、可愛いわね」
「でしょでしょー」
くるり、と木綿季がその場で振袖を見せる為に一回転する。二人に共通しているのはその色だ。名字の紺野に肖った紺色の振袖は、藍子と木綿季でその柄を変えている。病気を乗り越えた二人に共通させて雪輪文様をあしらったそれに、藍子は桔梗とカスミソウの花が。木綿季はタイムとポプラの花がそれぞれ柄として取り入れられていた。それにロングヘアの藍子は髪を上げてポニーテールにして、ボブカットの木綿季は少し髪形を変えて和風の髪飾りを付けていた。
「あぁ……『愛』と『勇気』ね」
「そうです。おば様も自信満々に言ってました」
詩乃が柄の意味に気付いて、藍子がそれを肯定する。桔梗とカスミソウの花言葉には『愛』が、タイムとポプラの花言葉には『勇気』がそれぞれ含まれている。『アイ』コと『ユウキ』にそれぞれ掛けているのだろうと理解できた。
「桔梗とカスミソウはわかるけど、タイムとポプラを振袖の柄にするって勇気が必要な……」
義母の冒険心に思わず詩乃は苦笑する。ただ、それで違和感なく仕上がってしまうのは発注した店の腕がいいのだろう。それぞれが二人の雰囲気に合っていて、絶妙な物になっていた。
「お義姉ちゃんのもあるって。お義姉ちゃんのお母さんから、去年着た奴だけどって」
「母さん持って来てたの? 嵩張るのに……」
「こっちで着替えましょうって、さっきからおば様がスタンバイしてますよ」
「ふぇっ? ちょ、ま」
姉妹に引っ張られて、バタバタと詩乃が奥の部屋に消えていく。それを苦笑しながら見送って、涼はリビングで待つ父親の対面に座った。両親の家のリビングはフローリングと畳が半々である。今回は畳敷きの方にテーブルが用意され、そこにはお節料理の他にも様々な手料理が並んでいた。
「明けましておめでとう」
「明けましておめでとう。藍子と木綿季はこっちでどんな感じ?」
「良い子だな。良い子過ぎて、少し張り合いがないとも言える」
「贅沢な悩みだな、それ」
父の言葉に涼は苦笑する。色々あった二人だからか、同い年の子供よりは遥かに聞き分けもよく、そして聡明だ。涼や詩乃に対しては相応に我儘も言ってくれるが、それも頻繁ではない。まぁ四人でGGOをする切欠になった出来事がそのまま、涼と詩乃に『甘える』という行為を姉妹に許した出来事と言えなくはない。四人には共通するツールとしてフルダイブゲームがあり、年齢も近かった為に起こった出来事なので、それをそのまま涼の両親に当てはめるのは難しいが。
「の割に、母さんとは友達みたいな関係になってるよな」
「母さんは昔から人との付き合いが上手い。まぁ望んでいた母親という感じでは無いみたいだが、良好な関係ではあるだろう」
「そうなると父さんはどんな感じなのやら……恩人ではあるのか」
「私だけ距離感があるような気がしてならないよ……」
そう語る父親の顔には哀愁が漂っている。とても昨日、大晦日だというのに庭先で息子を扱き倒した人間と同一人物とは思えない。完全に娘との関係に悩んでいる父親の姿であった。
ちなみに藍子や木綿季も同じように、涼の父親との関係に悩んでいる様子であるのは言わない方が良いだろう。こういう事に第三者が介入するのは決定的に拗れる直前の方が良い。
「お兄ちゃん、お義姉ちゃんの着付け出来たよー」
「お、待ってました」
木綿季がリビングにやってきて、開けたドアの向こうに居るであろう詩乃らに手招きをしている。涼と父親がそちらに視線を向ければ、まず藍子が入ってきて、次に母親が詩乃の手を引きながら入って来た。
「おぉ……」
「いや、去年も見たでしょ涼……」
「関係が変わってから見るのは初めてだから、見え方も違うさ」
そう言って優し気に微笑む彼を見て、詩乃は顔を赤くする。二人の相も変わらない仲睦まじい様子に両親は穏やかに笑い、姉妹はやっぱりと苦笑する。
詩乃の今の装いは確かに去年と変わらない。水色の振袖にあしらわれた柄は、様々な花を配置した草花文様と鶴。そして髪には普段付けている髪留めと対になる様に、もう一つの飾りが付いた髪留め。そう言えば、ALOでもGGOでも、彼女は水色の髪を引き当てていたなと、涼は思い出した。彼女のパーソナルカラーが水色だとすれば、確かにしっくり来るものを去年の正月も感じていた事を連鎖的に思い出す。
「うん、似合ってる。改めて、そう思った」
「あ、ありがとう……」
「さて、これで揃ったしお父さん。挨拶挨拶」
「あぁ。それじゃあ涼も詩乃ちゃんも、藍子も木綿季も飲み物を注いで」
和やかに、新年を祝う朝が始まった。
◇
元日の翌日、早ければ初売りが始まるだろう三が日の中日。《死銃》事件の際に詩乃、藍子、木綿季の三人と交わした『出来る範囲で何でも言う事を聞く』と言う約束の履行を、藍子と木綿季が求めてきた。二人で二日使わせてほしいと言われた時は流石に涼は苦笑したが、元より心配を掛けたお詫びなので提案を受け入れる事にした。その話を聞いた詩乃が『その手があったか……!』と悔しがっていたのは、完全な余談である。
「それで、何をすればいいんだ?」
「そのですね、一緒に来てほしい所があるんです」
家を出る前に尋ねれば、藍子がそれだけを答えてくれた。そして涼と藍子と木綿季の三人で電車を乗り継いで、降り立ったのは神奈川県横浜市にある星川駅。ここから歩いて向かうのは、保土ヶ谷区月見台と言う地区だ。
「懐かしいなぁ……」
駅前で思わず零れた木綿季の呟きで、涼は大体の理由を察した。ここはかつて、二人が家族と住んでいた場所なのだろう。二人に手を引かれて歩いていけば、二人は懐かしさのままに言葉を交わしていく。
「あのパン屋さん、変わらないね」
「チョココロネが美味しくってさ。また食べたくなってきた……」
「流石に今日は閉まってるけど、また今度買いに来るか」
「魚屋さんも、郵便局も、学校も……」
「新しくなってる所もあるけど、記憶のままだね」
「あの神社は、入院する前に皆でお参りしたね」
「うん、皆元気になりますようにって……」
二人が握ってくる手の力が強くなる。この町には、二人にとって輝かしい家族たちとの思い出ばかりがあるのだ。二人の呟きを聞きながら、涼も町の風景を目に焼き付けていく。時間にして二十分くらい歩いただろうか、木綿季の振袖の柄でもあるポプラが並ぶ公園に沿って右に曲がると、左側にひっそりと建つ白いタイル張りの壁を持つ家が目に入った。
「……あった、ね」
「うん……あった」
「二人が住んでいたのは、あの家か?」
涼が尋ねるも、二人からの返事はない。しかし、その理由を涼はすぐに理解した。二人の目から静かに、大粒の涙が溢れていたから。二人の手を放し、涼はそれぞれの頭に手を乗せる。二人が今流している涙を止める言葉など、涼は持っていない。そして、その涙を止める事が無粋である事も理解している。
「にぃ、さぁん……」
「おにぃちゃぁん……」
涙声で涼へと振り返った二人は、そのまま彼にしがみ付いて涙を流す。二人が落ち着くまでの間、涼は家へと視線を移した。白い壁に緑色の屋根を持つ家は、周りの一軒家と比べると少し小さい。しかしその分庭が広く、そこには芝生が敷き詰められ、白木のベンチ付きのテーブルがあり、赤いレンガで囲まれた大きな花壇が設けられている。家の窓にある雨戸は全部閉められているが、庭を見る限り最低限の手入れがされているようには感じた。何も植えられてはいないが、雑草も無い花壇。テーブルとベンチはまだその木の色を保っており、芝生も伸び放題と言うわけでもない。
「……おじ様とおば様が、定期的に見てくれているそうです」
ようやく落ち着いたのか、涼の疑問に藍子が答えてくれた。
「パパとママが死んで、ボク達に遺されたのがこの家だったんだ。今はおじ様がこの家を守ってくれてる……おば様が軽く掃除に行ってるって言ってたけど」
「まぁ父さんと母さんにとっては『軽く』だな」
続いて話してくれた木綿季に、涼は苦笑を返す。まぁあの両親なら、家を守るくらいはやるだろう。こうして二人を引き取ったからには、二人に付随するものは全て守り抜くだけの算段はつけたはずだ。
「いつか、わたし達がこの家をどうするか決める時まで、大切に守ると仰ってました」
「なるほど……あの二人らしい」
「実を言うと、さ……ここに来るの、最初は怖かったんだ」
そう言って語り出す木綿季の声は、その体は、寒さ以外の要因で震えていた。同じように藍子の体も震えてはいたが、それでも彼女は気丈に微笑んでいる。
両親が亡くなった後、二人が目の当たりにしたのは親戚たちの……いや、大人の汚い部分だった。両親が自分達に遺した物である、この家と僅かな金銭に群がる大人達。二人にそれを守る力はなくて、どうせもうすぐ居なくなると思われていた事に、恐らく違いは無いだろう。それだけではないにしても、二人に見えたのはそういう部分だった。
それに変化を齎したのが、涼の父親。自分達と縁も所縁も何もないけど、それでも味方に立ってくれた大人。信用はしていたけど、何処まで信じていいかわからなかった。
「だから、お兄ちゃんと来たかった。ボク達の家族になってくれたお兄ちゃんと一緒なら、もしなくなってても耐えられると思ったから」
暗に自分の両親をそこまで信用していなかったと言われている涼だが、それで気分を害する事は無い。二人の境遇を想えばそれは当然のことで、思い至らなかった自分を恥じるべきなのだ。そしてようやく、涼は出発前に父親に渡された鍵の意味を悟った。
「せっかくここまで来たんだ。中も見ていくか」
「えっ?」
「いいん、ですか?」
二人の手を引いて、涼は青銅製の門扉の前まで歩いていく。キィ、と音を立てて開いたそれは経年による劣化はあれど、スムーズに動いた。彼が前を歩き、後を付いてくる姉妹の視線が間近で見る庭に固定されているのを見て微笑み、玄関の扉の鍵を開ける。
中は暗いが、雨戸が無い窓からの光があるので真っ暗と言うわけでもない。やはり定期的に掃除はされているのか、埃っぽいというわけでもない。
「ここがダイニングキッチンで、リビングも兼ねてましたね」
「パパとママが一階の部屋で、ボク達は二階の部屋で一緒だった。もう一部屋あったけど、それは将来一人部屋にする為なんだって」
「わたし達が使っている家具は、ここから運び出してくれたんです。だからちょっと広く感じちゃいますね」
「本もいっぱいあったもんね。パパと作った本棚、すぐに一杯になっちゃったし」
一部屋一部屋に、姉妹が語る思い出がある。いや、柱一つにしてみても、そこにある傷一つ一つにしても、全てに彼女達家族が作り出してきたであろう思い出がある。良い家だと、涼は素直にそう感じる。デザインが良いとかそういう意味ではなく、ここに住んでいた人は幸せだったのだろうとわかる痕跡がいくつも見受けられたから。
部屋を見て回り、二人が思い出を語り尽した頃には、外は夕焼け色に染まっている様子だった。今はテーブルも何もない、リビング兼ダイニングキッチンの壁に凭れ掛かって三人は並んで座っている。ここに泊まるわけにもいかないが、二人が名残惜しそうにしているのに涼が帰ろうとは言い出す事は出来ない。好きにさせておこう、と思っていれば口を開いたのは藍子だった。
「兄さん、今日は有難うございました」
「んー……これくらいなら、別にあの権利使われなくても来たけどな」
「あはは、まぁこれには理由がありまして……」
微笑む藍子の頬は少し、赤く染まっている。間に涼を挟んで反対側に居る木綿季の頬も同様に、だ。
「ねぇ、お兄ちゃん」
「何だ?」
「これからボク達がする事、受け入れてくれる?」
「……まぁ、そういう約束でもあるからな」
「じゃあ、目を閉じて」
木綿季に言われるがままに、涼は目を閉じる。彼が目を閉じたのを確認しているのか、左右から姉妹が顔を覗きこんでいる気配がある。それが十秒ほど続き、『うん』と二人が何か合図したような声が聞こえた。
「兄さん、動かないでくださいね」
藍子の言葉に、涼は返事が出来なかった。返事をする前に、彼の唇に柔らかい感触が当たり、口を塞いでしまったから。何をされたかは嫌でもわかる。涼にとっては恋人と行う馴染み深い行為であったし、自分と恋人にとっては言葉を交わすにも等しいものだから。
それもたっぷりと十秒ほど交わされた後、その熱が離れたと思えば、もう一つの熱が唇に触れた。二度の感触が伝えてくる感情は同じものだと、涼は思う。嬉しいか嬉しくないかで言えば嬉しいのも間違いではないと言える。しかし、自分はその想いに応える事は出来ない。そしてその事は自分もそうだが、二人も重々承知のはずなのだ。
「……もう、目を開けていいよ」
先ほどと同じように木綿季が告げて、涼は目を開ける。視界に入ったのは、顔を真っ赤にしている二人の姿だ。
「二人とも……」
「兄さん。わたし達は兄さんが好きです」
「家族としても、お兄ちゃんとしても……男の人としても」
「でも、兄さんには義姉さんが居ます。お二人の関係を壊す気は無いんです」
「だからと言って、何もしないままならきっと、ボク達は後悔すると思うんだ」
「ですので、誠に勝手ながらここでわたし達はこの初恋に、区切りを付けます」
「ボク達の初めてのキスと初恋は、お兄ちゃんにあげるね。返品不可の押し付けだけど」
顔を赤くしたまま、二人は笑う。本来なら、伝えないまま終わらせなければいけなかった初恋を、彼女達はあえて伝えた。家族になりつつある自分達の関係において、ここが最後のターニング・ポイントだと、彼女達は定めた。この初恋を抱えたまま、何も言わないままに、それをずっと大切に持って生きていくか。その想いを涼に渡してしまって、彼の中でその初恋を息づかせるか。
「もうこれから先、わたし達は兄さんの妹です」
「でも、妹になる前の女の子が、お兄ちゃんの事を初めて好きになった事は、覚えていてね」
「……あぁ、そうだな。忘れないよ」
自分で自分の心に決着をつけた二人に、涼から言う事は何もない。この為にあの約束を利用して、この場所で遂げる為に考えた妹達の策は、完全に成ったのだ。
「帰りましょう、兄さん。お義父さんとお義母さんが待ってる家に」
「一緒に、ね」
吹っ切れたように笑った二人の笑顔は、沈む夕焼けに照らされて、涼ですら心奪われるような美しさを纏っていた。
◇
あんな両親は初めて見た、と涼は考える。あの後家に帰り、姉妹が涼の両親を初めて『お義父さん、お義母さん』と呼んだのだが、それに対する両親の反応は涼をして『バグった』としか形容できないものだった。父親は何と言うか、息子が見た事ないくらいに顔が蕩けたし、母親は普段の泰然とした様子が一切失せて、皿を落としたりなど面白いくらい動揺していた。それから二人して祝杯を挙げて酔いつぶれたという、これまた涼の見た事の無い結末を迎え、今寝室に叩き込んできたところであった。
「お義父様とお義母様、嬉しすぎるとああなるのね……」
両親も姉妹も寝静まった家で、涼と詩乃がテーブルを挟んで向かい合っている。今の今まで片づけをしてくれていた彼女に感謝を示して、涼が淹れたお茶をゆっくりと飲んでいる穏やかな時間。
「……二人と、何かあった?」
詩乃の問いは確信の響きを内包していた。それに対して涼は何も隠す事は無い。姉妹と一緒に、彼女達が家族と過ごした土地に行ってきた事。そこで色々と話を聞いたり、色んな思い出を話してもらったりした事。住んでいた家にも行った事に、そこで姉妹に好きだったことを伝えられた事も全て、涼は詩乃に話した。
「なるほどね……二人は、本当に家族になる事を選んだ、か」
「そう、だな。好きなままだと、どうしてもそう見てしまうからって言われた」
「私の旦那はおモテになるわねぇ」
「まぁうん。客観的に見て、そうである事実は本気で否定できないな……」
揶揄いを多分に含んだ彼女の言葉に、彼は困ったように笑った。姉妹の恋慕は予想外だったが、複数の異性から好意を寄せられているという状況は、モテると言って差し支えない。それでも、涼が選び続けるのは詩乃ただ一人だという事を、姉妹は知りすぎるくらい知っていたから、それを振り切る事を選んだ。
詩乃としては、その決断に至った二人を素直に尊敬する。彼女は姉妹の想いに勘付いていたし、それが自分にも迫るものだと正確に理解していた。それを家族としての愛情に昇華していく決断は、詩乃には出来そうにない。何故なら彼女が望んでいるのは、恋人や夫婦と言った関係でのパートナーであるから。姉妹は彼の両親に引き取られたので、結婚する以外で彼と家族になれるという選択肢が存在した事は大きいけれど、恋心という物は理性でどうにかなるものではない事を詩乃も涼も、何なら当人の姉妹だってよくわかっている。
それでも、二人はその決断をしたのだ。詩乃に出来るのは、家族の一員として彼女達に接する事だけ。
「それで、明日も二人とお出かけでしょ?」
「こっちは普通に初売りに連れてけって話だな。皆一緒に行こうだってさ」
「お義父様とお義母様、明日復活できるかしら……」
「それは正直、俺も読めないんだよなぁ」
何せ息子である彼をして、生まれてから今まで見た事の無い状態だ。最悪二日酔いで動けないなんて事もあるかもしれない。そんな風に話をしながら、二人の夜は更けていく。
その頃、眠っていた藍子は何となくその目を開いた。横になったまま視線を同じ部屋で眠っているはずの妹の方に向ければ、ばっちりと目が合う。
「起きちゃった?」
「んー……そだね」
『あれ? 起きてる。珍しいね』
充電中の藍子のスマホから、ストレアの声が聞こえてきた。勝手に入って話し出す彼女にももう慣れたが、こんな時間に話すのは初めてだった。
「何となく、目が覚めましたね」
『ふぅん……そう言えば、マスターと何処か行ってたんだっけ?』
「まぁね。お兄ちゃんと出会う前に住んでた所に行ってたよ」
『どんな話したの?』
「色々ですね。わたし達の思い出話ばかりですけど」
『んー、それアタシも聞いていい?』
ストレアの問いに藍子は『もちろん』と答えて、今日話した話をぽつりぽつりと話していく。彼女は時折相槌を打ちながらも、質問などはせずに静かに聞いて、木綿季の注釈などにも耳を傾けていた。
『思い出、か……アタシにはまだ、少ないものだね』
やがて、二人が語り終えると共にストレアはそんな一言を捻りだす。
生まれ落ちて、活動を再開してから一年しか経っていない彼女に足りない物。それは活動時間の長さが齎す経験や思い出と言ったものだろう。ユイも彼女も、その学習能力の高さとAIという特性上、常に学び続けていると言っていい。その能力のおかげで、普通のやり取り程度ならば人間とほとんど変わらず、ALOでゲームをしていてもソツなく連携が取れるくらいには、知性という物が宿っている。それでもストレアには、二人の話の中で理解できない部分がある。
『二人は、マスターの事が好きだったんだよね?』
「今でも好きですよ。でもそれはもう、家族としてです」
「男の人としての好きはもう、お兄ちゃんにあげちゃったからね」
『……それが、アタシにはよくわからないよ。元々のアタシは、プレイヤーの心をケアする為のプログラムでシステムだったけど、それがまったくわからない』
人の心と言うのが、ストレアにとって理解できないものだった。『何となく』そうだろうな、『ひょっとして』こうじゃないか、何て言う曖昧な理解は確かにある。でもそれは理解とは言わないとストレアは考えている。AIである以上、演算がちゃんとできないという事はエラーに繋がる。そのエラーがいずれ自分を壊す物になるのかどうか、彼女は『不安』だった。
『恋って切り離せるものなの? 分けて考えられるものなの? マスターや奥さんを見てるとそれは同じ物であるように感じる。でも二人のそれは、似ているようで違う。ユイのパパとママのも、やっぱり少し違う。わからない、定義付けが出来ない、理解が出来ない』
「それでいいんじゃないですか? わたしも木綿季も、明確に答えられない時点でわからないんですから」
「する人も、その相手も違うんだから、恋も愛も千差万別なのは当たり前だと思うよ。極端な例で言っちゃうと、『暴力が愛だ』なんていう人もいるかもしれない」
ボクは絶対御免だけどね、と木綿季が付け加えて、ストレアは思考の……演算の海に落ちていく。実例が足りない。対象が足りない。経験が足りない。足りない足りない足りない……
『マスターに恋をすれば、アタシにもわかるかな?』
「兄さんは止めといた方が良いと思いますよ」
「お兄ちゃんは止めといた方が良いと思うよ」
ストレアの発言に二人は本気で止めるように言った。それは、自分達の様に失恋する事が分かっているのに、彼女の初恋まで散らす必要が無いという、混じりっ気のない百パーセントの善意だった。
『キリトは?』
「相手がいる人を選ぶのは、ホント止めましょう?」
「そこにチャレンジ精神はいらないよ……」