音も無く鉄格子を切断し、自前の隠形で音を立てずに疾走して、オーリはあっさりと地上へ出た。地下監獄への出入口はセントラル・カセドラルの西側にあり、太陽はすっかり沈んで月が高い位置にある夜空が彼を出迎える。周りにはツル状の植物……《薔薇》が絡みついた青銅製の柵があり、その柵の向こうにも同じような柵が幾重にも張り巡らされている事を、連行される際に乗せられた飛竜の上で確認済みだ。万が一逃げる者が居た時の為の、逃走防止用の迷路であるのは間違いないが、既に順路はオーリの頭の中にあった。
(このために何回か旋回してたからな、あの人)
地味に有り難い事ばかりしてもらっていると、オーリは内心で再びベルクーリに感謝を捧げつつ、迷路を疾走する。その間に神聖術を発動させ、両手首の鎖の付いた枷を短めの剣に、枷の付いた長い鎖を槍へと変じておく。
周囲の警戒もしながら出せる最大の速度で迷路を抜けた先、彼の背後には月が浮かんでいる事から、カセドラルの北側へと出た。正門は東側だが、勝手口らしきものは他にある可能性が高い。流石にその辺りを旋回はしなかったのは、理由が作れなかったからだろう。監獄への入口がある《薔薇》の迷路なら、死ぬ前の景色云々と言った理由が使えるから可能だったという事。
故に正門に向かうとオーリは決断した。はっきりしている入口に向かうついでに、勝手口があればそこに入るのが良いだろう。ただし、罠や待ち伏せを考慮しなければ、という前提条件は付く。それだけの思考を数瞬で処理して、その背に寒気を感じた彼はあらん限りの力を持ってその場から横に跳んだ。
一瞬前まで彼の居た所には長大な、槍と見紛う様な矢が突き刺さっていた。次に聞こえたのは何かが羽搏く音――…セントラル・カセドラルの敷地内に置いて、よく響く羽搏きをする生物は一種類しかいない。それは、整合騎士が駆る飛竜のみ。
「早速来たか整合騎士――!」
続けて飛来した矢を、鎖を変じた槍で後ろへと流す。受け流す角度やタイミング、それらが狂えば容易く自身を貫くだろう威力を感じる矢。正確であり、精密であり、しかし射る呼吸を悟らせない射撃。次々と放たれる、流石整合騎士と絶賛されるような、経験に裏打ちされた射撃に対してオーリの心に浮かんだのは戸惑いだった。
(――…これ以上の射手を、僕は知っている?)
人界における弓使いの中で、この整合騎士の右に出る者は存在しないはずだ。練度も装備も、一等爵家の自分でも望めない次元のそれと相対して、それに射抜かれる事が想像できない。
この強弓よりも速く、恐ろしい射撃を知っている。
この騎士よりも正確に、苛烈に射撃を行う射手を知っている。
違うのは、飛んでいるか否かだけ。
「《システム・コール》!」
左手に生み出すのは《凍素》。五指全ての先に生み出されたそれを矢の形へと変じさせて、左右より飛来するように曲射を指定し、更に狙いを飛竜に絞って《解放》する。それに反応した空に居る整合騎士の選択は――
「エンハンス・アーマメント!」
その手に持った弓を、真紅の火焔へと変じさせる事だった。神器であろう弓より生まれた火焔によって、《凍素》の矢は飛竜にたどり着く前に溶け落ちる。
自身が知らぬ式句に、尋常ではない神器の変化。一歩……いや、半歩でも辿る道筋を間違えれば自分の命が無い状況にありながら、オーリの心に一切の動揺は無い。
「――《熾焔弓》の炎を浴びるのは、実に二年振りだ」
そんな時、飛竜を駆る整合騎士より声が届く。人とは思えないほどの硬質な響きを持って紡がれた声が、オーリへと問いかける。
「我が放つ矢を全て流し、剰え反撃して見せる程の技を持つ咎人よ」
「――…何か?」
「それほどの技を持って何故、貴様は咎人となった? 邪心によって培われたものでは決してない技を持ちながら、貴様は何の罪を――」
「
ゴッ、と何かを突き破るような音と共に、騎士が駆る飛竜が悲鳴を上げた。何事かと騎士が飛竜を見れば、その翼の付け根に先ほどまでオーリが握っていたはずの槍が突き刺さっている。驚愕と共に騎士がオーリを見れば、彼の体勢はいつの間にか右腕を振り抜いたものになっており、騎士が見ている中ゆっくりとその体勢を戻す。
「貴様――」
「降りてこい整合騎士。それとも、見下してなきゃ咎人一人撃てないのか?」
冷え切った眼差しで、オーリは紅蓮の弓を携えた騎士を見る。投げかけられた挑発に騎士は答えぬまま、飛竜を操って芝生へと降り立たせる。飛竜が身を屈めた後に、紅蓮の騎士はオーリと同じ大地へと降り立った。
「その挑発、受けてやろう」
ゴウッ、と火焔の威力が増す。それは騎士の怒りのせいか――…それとも、咎人であるオーリを戦う相手として認めた為かは、騎士にしかわからない。
オーリは自身に填められていた枷を変じた短めの剣を取り出した。それを握り、構えないまま、騎士の方向へと倒れるように体を傾けて、疾走を開始する。騎士は不可視の弦を引き、その熱気を更に強めて立ち昇らせた。
「《システム・コール》《ジェネレート・クライオゼニック・エレメント》《フォーム・エレメント・シールド・シェイプ》《ディスチャージ》!」
「――貫け、《熾焔弓》ッ!」
オーリの前に展開されるのは、重なるように配置された五枚の《凍素》の盾。それに、騎士が解き放った強大な炎の矢――…最早、巨大な炎の鳥となったそれが、衝突する。
一枚目はぶつかった瞬間に儚く消え去った。二枚目も、三枚目も、四枚目も――…一瞬の時間を稼いだだけで消滅していく。五枚目と衝突した際にようやく勢いを緩めた炎の鳥は、しかし着実に最後の盾を溶かしていく。
(――…それだけか? 弓の整合騎士。■■なら、もっと徹底的に撃ってくるぞ)
一射に全てを賭けつつも、それだけにこだわる事のない誰かが思い浮かぶ。思い浮かんで、どうしようもない愛おしさがオーリの胸の裡に広がっていく。何故そんな事になるのか、今のオーリにはわからない。しかし、これで良いと思った――…自分に力を与えてくれる存在が居るだけで十分だと思った。
その瞬間、剣を握る右手から彼の全身を蒼い光が覆っていく。その光は剣にも伝わり、視界に映る全てが遅くなる。
「ォォォオオオオォッ!」
裂帛の気合と共に剣が振るわれ、破られる寸前の《凍素》の盾ごと炎の鳥を両断する。あり得ない光景――…少なくとも騎士は見た事が無い。力を解放し、放った矢が断ち切られる光景など。それは驚愕と動揺になり、斬り裂いた炎の鳥の真ん中を突っ切って来たオーリに懐に入る事を許し――
「……馬鹿な」
鎧の隙間を縫うように振るわれた剣の連撃により、両肩と両足の付け根を斬り飛ばさないまでも深々と斬り裂かれ、斬撃の衝撃によって後方へと飛ばされた騎士が、そのまま仰向けに倒れた。
「今の、光は一体……」
「僕も知らない……初めて見た物です」
倒れた騎士の横に立ったオーリは、《凍素》を雫として騎士の傷口へと垂らして傷口だけを凍らせる。天命を回復させる……傷口を治癒する《光素》を使えば再び彼は襲い掛かってくる。故に死なないように、しかし拘束する為にはこうするしかない。
「何故……」
「刃を向けたとしても、殺す気は無いからです。聞きたい事がいくつかありますので」
「聞きたい事……だと?」
「貴方の名は?」
問いかけに騎士は困惑したようだが、『デュソルバート・シンセシス・セブンだ』と律儀に返した。その名前を聞いて、彼がユージオの話に出てきた《アリス》をここに連行した整合騎士であると理解する。
「まず一つ。貴方はかつてノーランガルス北方第七辺境区を統括していた」
「……そうだ。八年前まで、統括していた。そして、功績大なりとして、この鎧とともにセントラル・カセドラル警護の任を与えられた」
「その功績とは?」
二つ目の問いに、騎士デュソルバートは即答できなかった。功があったと言われたのに、それを覚えていない――…迷ったように視線を彷徨わせている彼を見て、オーリは一呼吸おいて口を開く。
「八年前、ノーランガルス北方第七辺境区にあるルーリッドと言う村から、一人の少女が連行されました。少女の名はアリス」
「アリ、ス」
「……今現在、アリス・シンセシス・サーティと名乗られている騎士です」
「貴様は、何が言いたい……」
兜から覗くデュソルバートの視線を、オーリは真っ直ぐ見据えた。
「貴方の功は、彼女を見出した事。しかし、それを貴方に覚えていられるのは不都合だった。自身が罪人として捕らえた少女が、自身と同じ整合騎士の仲間として立つ事になるのだから」
「馬鹿なッ!? そんなはずはない! 我ら整合騎士は」
「天界より召喚された騎士などではないのです。任ぜられる前は、僕と同じように人界に生きる人間だった――…思い当たる事が、あるはずだ」
真摯な……どこまでも敵であったはずのデュソルバートを案じるオーリの声に、彼は力なく夜空を見上げる。遠くの何かを見るように、吐息の中に混ざるような微かな声で呟く。
「……人界に降り立った頃から……何度も何度も、同じ夢を見た……我を揺り起こす、小さな手と……その指に嵌められた銀の指輪……しかし、目覚めると……」
鋼のようだった声は、まったくの別人のように震えている。それ以上思い出せない――…その胸の裡から、声無き声で何かが叫んでいるのに、何もわからないのだ。
「整合騎士に過去は無い。それはある意味正しいでしょうが、それは貴方達の記憶が最高司祭によって操作されているから」
「最高司祭猊下が……? そんな……信じられぬ。我に、そのような術を……」
「信じる信じないは、貴方が決める事だ。僕は自分が信じる事実を話し、聞きたい事を聞いただけ」
突き放すような彼の言葉に、騎士は厳しくも優しい物を感じた。迷う者に道を示すその優しさは、自身を不利にするかもしれない選択肢すら示した。その高潔さが、自身の炎すら霞む眩さを――…まるで、地上全てを照らす太陽のようだと、彼に思わせた。
「……貴殿の、名は?」
「ノーランガルス北帝国一等爵家ヴァルゼライド家当主、オーリ・ヴァルゼライド」
「なる、ほどな……貴殿が、音に聞こえし《太陽竜》だったとは、な」
「その噂、何処から聞いてくるんですか貴方達は……」
呆れたように言うオーリに、デュソルバートが微かに笑いを漏らした。
「……行くがよい太陽の竜よ。我は貴殿を、しばらくは追えぬ」
「――…貴方に感謝を。騎士デュソルバート」
オーリが感謝を告げて立ち上がると、近くに居たデュソルパートが駆っていた飛竜が『グルル』と唸り声をあげる。
「……抜いて治せって?」
オーリが問いかければ飛竜は、彼が投擲した槍が刺さっている部分を見せる。オーリは微妙な面持ちで主であるデュソルバートを見れば、彼も彼で『治してやってくれ』と言う。一応敵なんだがな、と頭を掻きながらもオーリは飛竜へと近づくが、飛竜は敵対的な行動を取らずに大人しいままだ。
投擲された槍は、飛竜の体躯からすればそこまで深く突き刺さっているわけではなかった。オーリは治癒用の《光素》を左手に待機させながら、慎重に且つ迅速に槍を引き抜いて追加の式句を唱える。
「《フォーム・エレメント・リキッド・シェイプ》《ディスチャージ》」
光の雫が飛竜の傷口へと吸い込まれるように張り付き、その身体を癒していく。数秒後には元に戻って、そのまま流れるように飛竜がオーリの服を噛んで自分の背に乗せた。
「は?」
オーリが疑問の声を上げた瞬間、飛竜はその翼を羽ばたかせて飛び上がる。どういうことだと思考を回そうとしたところに、主が声を上げた。
「三十階の発着台に送ったら戻ってこい」
デュソルバートの言葉にオーリは驚き、飛竜は了承の意を示すように鳴いて、空へと身を躍らせたのだった。
◇
ずっと、詩乃は涼の右手を握り続けている。食事と排泄以外はずっと傍に居て、手を握り続けている。握る彼の指に額を当てて、祈りを捧げるように。自分の想いが彼に伝わらないはずなど無いと、詩乃は信じている。
本当なら今すぐにでも戻ってきて欲しい。いっぱい文句を言って、彼が困ったように笑って、それから自分がキスを強請ったり……そんないつも通りの生活に帰りたい。
ふと、脇に置かれたタブレットの画面を見る。それは加藤が『連絡用に置いておきます。ご自由にお使いください』と置いていった物で、涼の《フラクトライト》の活性率も確認できる。加藤に連絡する事はない……と思って、ふと脳裏に過る物がある。
「……まさか」
片方の手は涼の右手を握ったままだが、もう片方で詩乃はタブレットを操作する。タブレットの中には最小限の物しかなく、目当ての物はすぐに見つかる。震える指で、見つけた目当ての物……何の変哲もない通話アプリの、見知った番号をタッチする。
『やーっと掛けてきた』
「お義母様」
一度目のコールで繋がった先は、涼の母である美沙の番号だった。少なくとも、朝田詩乃が知る限りにおいて涼の母親は、その技能の数こそ異常であるが自衛隊に繋がっているような雰囲気は一切見せていない。
「涼の事、把握してるんですか?」
『流石に家から、自衛隊の施設に居る息子を勘以外で把握するのは難しいわね。というか最初の問いかけがそれって言うのは、ちょっと予想できなかったわ』
「何故なんて聞くまでも無く、お義母様の事は信頼してますから」
『嬉しい事言ってくれる嫁ねー……それで、息子の様子は?』
母は真剣な声音で嫁に問いかける。詩乃は自分が知っている限りの話を義母へと告げれば、彼女は『ふむ』と一つ唸って沈黙する。その真剣さは詩乃に様々な事を教授していた時以来の……自分の息子の命が懸かっていたあの時期以来のものだ。信頼している義母がそれだけの事態であると判断しているという事実が、詩乃にとっては衝撃だった。
「……お義母様は、知ってたんですか? 涼の、その……魂の事」
『知っていた、と言うよりは予感はあった……が正確ね。詩乃ちゃんと会った頃から急激に良くなってたんだけど』
「それは……どういう事ですか?」
『……そうね。貴女には知る権利があるし、掛けてきたら話そうとは思っていたの。私達の息子の事……小さい頃の涼の事』
義母の言葉に、詩乃は自身の記憶を探って……確かに彼の幼少時の話をほとんど知らない事に気付いた。差し障りのないエピソード……関西の出身だとか、何処の小学校に通っていただとか、そんな話しか知らない。詩乃にとって彼の過去は、関係ないとは言わないがそこまで気にしていなかった事柄だ。朝田詩乃の記憶の中では、あの事件の時に知った『桜川涼』が最も古い。それから一年後に再会した時には既に今のような感じで……今よりは子供っぽかったな、と思うくらい。
「何かあったんですか?」
『何もなかったのよ。子供……幼稚園に入る前とかの頃、家族と自分の絵とか描いた?』
「はい、まぁ……描いた、気がします」
『あの子も描いたんだけど……私や巌さんの絵はちゃんと色も付いて描けてるのに、自分の分だけ、
「……え?」
思わず、詩乃は涼の顔がある筈の方を見た。機械に覆われていてわからないが……確かにそこに、彼の顔がある筈だ。
『どうしたの? って聞いたら、あの子は顔色一つ変えずにこう言ったわ』
「なん、て……」
『……『僕には色も何も無いよ』って』
いつか聞こえた、あの言葉が脳裏に蘇る。握っている涼の手が異常に熱く感じ……自分の血の気が引いているのだと、詩乃は理解した。
「それ、は、どう、いう……」
『自我が希薄……と言うわけじゃないの。あの子は必要なら求める事があるけど……必要以上に何かに執着したり、求めたりしない』
「……心当たりは、あります」
かつて詩乃はそれで悩んでいたのだ。今以上に彼に求められるにはどうしたらいいか……そんな結果として、先には進めたわけではあるけれど。
『そんなあの子が初めて求めたのは詩乃ちゃん。貴女だった』
「求めたって……最近の話では」
『いいえ、あの子はあの強盗事件の後からずっと、貴女を求めていたのよ』
本人はわかっていなかったと思うけどね、と義母が付け加えて、溜息を一つ吐き出す。
『だからごめんなさい、詩乃ちゃん。私達が貴女の隣に越した事は偶然でも何でもないの……息子に影響を与えたであろう貴女の事を調べて、私達夫婦は貴女を利用する事を決めたから』
「り、よう?」
『貴女と事件で会ってからあの子は愛想笑いじゃなく、ちゃんと笑うようになったのよ。まぁその愛想笑いも、私を真似たのかレベルが高くて、小学校では誰にもバレなかったみたいなんだけど』
「そう言うのは良いです。私の何が、涼に影響を……」
あの事件の時に詩乃が何をしていたか。結局の所、涼に止められたが銃を手に取って撃とうとした、それだけだ。後は母親にしがみ付いていただけで、何か影響を与えたとは考えづらい。
『綺麗だった、そうよ』
「え?」
『銃を手に取った時の貴女の感情が、純粋に母親を守りたいと言う物だけだったから……それがとても綺麗だった。だから、その決意を血で汚させたくなかったと、息子が言っていた』
「感情が綺麗って……」
『あの子、そう言う強い感情が見えるのよ。だから私達は世界中連れまわして色んなモノを見せたんだけど……あの子が初めて、自分からそう言ったのが詩乃ちゃんなの。そしてあの事件の後からの変化が顕著だったから、貴女の近くに居ればもっと良くなる……そう思って貴女の事を調べて、引っ越した』
申し訳なさそうに言われた義母の言葉を、詩乃は時間を掛けて消化していく。利用したと言われても、彼女にはピンとこないのだ。義母は詩乃の母親の面倒を見てくれて、その心のケアをしてくれて、男手の少なかった朝田家の事を義父は手伝ってくれた。そこに打算があったとしても、自分達が救われたのは事実だ。
それでも、彼女には確認したい事がある。
「私が、涼に惹かれた事も……涼の婚約者にした事も?」
彼女の想いが、人の手によって仕向けられたものなのかどうかは、確認しなければならない事だった。
『再会してから、貴女達は惹かれ合った。それについて私達夫婦は何もしてないわ。あくまでも、私達の目的は息子の状態を良くする事だけだったから。そんな二人がSAO事件の後に『恋人になりました』って報告してきたんなら、そりゃ全力じゃない?』
申し訳なさそうな声が一転して、明るい調子を取り戻す。いつもの義母の調子に詩乃は溜息を吐いた。
「なら問題ないです、お義母様」
『……ありがとうね、詩乃ちゃん』
数秒沈黙が続いたが、それでお互いが気持ちを切り替える。
『今こっちは、息子がバイトに行った会社相手にちょっと働きかけをしているのよ』
「働きかけ?」
『特殊な機器で仮想空間にダイブしているんでしょ? ならそれを使えるように交渉中……と言うよりはもう恫喝に近いけど。巌さんが崖君連れて行っちゃったし』
「公権力の使用に躊躇いが無さ過ぎますよ……」
『まぁ崖君も詳細聞いてガチギレしてるし、その機器は絶対使えるようになるわ。準備が出来次第、藍子と木綿季にダイブしてもらう』
「あの二人は、了承しているんですか?」
『了承も何も、わたし達だけ蚊帳の外は嫌です』
タブレットから聞こえる声が、義母のものから義妹……藍子のものへと変わる。強い決意……詩乃の言葉では、とてもではないが覆せないと感じられるほどの物が伝わってくる。
「ペインアブソーバーは無くて、もしあの中で戦いになって斬られたりすれば……」
『仕様については聞きました。それでも、わたし達は行きます。兄さんを助ける為に今は手段を選んでる場合じゃないはずですよ、義姉さん』
『そうそう。それに出来る事があるのにしないなんて、ボクらだって耐えられないよ』
続けてタブレットから聞こえた木綿季の言葉に、詩乃は気が付いた。自分の事ばかり考えていて、二人も同じだった事に気が付いていなかった事に。
「……ダメな義姉で、ごめんね」
『そんな義姉さんだからこそ、わたし達は兄さんをお任せしたんです』
『違ったら容赦なくお兄ちゃん攫えたのにね』
「怖すぎるわよ! と言うかお義母様!?」
『当人同士で話がついてたら、私は息子が何人囲おうが息子の甲斐性の許す限り容認するわよ?』
「私は絶対認めませんからね!? 絶対ですからね!!」
最後の最後で茶化すのはどうなんだと、再び詩乃は吼えた。
◇
まさか飛竜に乗せられるとは思わなかったが、一階一階登るよりは遥かに速く三十階にオーリは辿り着いた。ただ、彼はセントラル・カセドラルの内部構造にはまったくと言っていいほど詳しくない為、今どの辺りに居るのか理解出来てないのだが。
(残りは九人……確実に行くなら、広い所に戦力を集中させているだろう)
飛竜の発着台にある扉の横に壁に張り付いて、向こう側の気配を伺いながらオーリは思考を回す。幸いと言っていいのか、ここに待機している飛竜達はオーリに襲い掛かる気配は見せずにいる為、こうして思考を回す余裕があるのだが。
(どこかしらで構造図……は多分ないだろうな。どうしたもんか……階段の場所から探すのが面倒だぞ)
内部をいたずらに探索すればそれだけ、整合騎士との遭遇率も上がる。デュソルバート戦は彼が警護として単独で行動していた為、一対一の状況になったに過ぎない。室内……例えば廊下などで挟み撃ちにされればあっさりと彼は終わるだろう。
手持ちの武器は、牢屋で手に入れた鎖を変えた剣と槍だけ。整合騎士の神器には及ばない得物だが、数打ちの武器よりは遥かにマシという現実に『罪人を繋ぐ鎖が脆ければ脱獄し放題だしな』と考え方を変えた。
それから、オーリはあの光の事を少しだけ考える。光が生まれた時に胸の裡から溢れた愛しさは、家族であるストレアに向けたものでも、キリトやユージオ、メディナと言った友に向けたものでも無い。
(あの時……僕は誰の名前を呼んだ?)
思い出そうとして、記憶に靄がかかる。自分も記憶が操作されているのか、という不安が押し寄せてくるがそれを無理やり押し殺す為に歯を食いしばる。自分が最高司祭に記憶を操作されているのなら取り戻せばいいだけだ。しかし、そうでなかった時に……自分が誰なのか、オーリは答えを出せそうにない。
だから、その思考はここで打ち切った。
死ぬ事まで考えるなら、答えは得た方がいい。しかし、答えを得るまでの間に時間を浪費するならば、全てを忘れて目的へと邁進しなければならない。胸の裡に溢れた愛しさは確かに温かく、光が溢れた右手にはまだ熱が残っている。それで今は充分満たされていると、オーリは考える。
「往くか」
「戯けめ」
立ち上がろうとした時に
「なに、が」
「こっちじゃ、早く来い」
ガチャン、と重々しく施錠されたような音が聞こえ、オーリの横を人影が歩いていく。足音を辿って視線を向ければ、人影の向こう側から光が漏れていて、目の前の人影の輪郭を薄っすらと浮かび上がらせている。
声に敵意を感じなかったため、どうしたものかとオーリは一瞬だけ考えたが、結局はついていく事にした。助けてもらったかどうかは不明だが、朧気ながら理解出来た事もある。声を聞くまで、オーリは背後に誰かが居る気配を感じる事は無かった。それだけの隠形が可能であるならば、敵だった場合そのままオーリの首を刎ねる事も出来たはずだ。それがよくわからない空間に引きずり込まれただけで、引きずり込んだであろう本人が同じ空間に居る。
ならば一先ずは命の危機ではないだろうと結論付けた。故に立ち上がって、黙ったまま人影の後を歩いていく。カサッ、と言う音が扉の向こうから聞こえたのは、そんな時だった。
「……探知されたな。ここはもう使えん。走るぞ」
「あ、あぁ」
人影……立ち上がって分かったが、体躯としては幼い少女くらいのそれが走り、その後を駆けていく。走れば数秒で漏れていた光の中へと辿り着いた。
そこは奇妙な場所だった。相当に広い真四角の部屋であり、壁には幾つものランプが取り付けられ、温かい色調の炎が部屋を照らしている。正面の壁には重厚な木製の扉が一つあり、他の三面の壁には先ほど見た廊下と同じような廊下が幾つも並んでいる。
「ほいっ」
オーリの背後で人影……照らされて分かったが、ローブを着た少女がその背丈よりも大きい杖を駆けてきた廊下へと翳して、可愛らしい掛け声をかけた。次の瞬間に展開されたのは驚愕の光景……廊下の奥から左右の壁板が順繰りに迫り出し、地響きと共に組み合わさっていく光景。少女の掛け声から十秒に満たない間に廊下は完全に閉ざされて、あった痕跡すらオーリには見つけられない。そこには継ぎ目一つない壁があるだけだった。
「ふぅっ」
一つ息を吐いて、少女が振り向く。
その姿はやはりと言うべきか、幼く人形のように可愛らしい少女であった。ベルベット生地の光沢ある黒いローブと、同じ素材で出来た大きな帽子を被り、帽子の縁から覗くのは栗色の巻き毛。肌はミルク色であり若々しい輝きを放っているが、それにしては齢を重ねた老賢者と言う雰囲気も併せ持っている。
その理由は、少女の眼だ。鼻にちょこんと載っている丸眼鏡の奥にある、長い睫毛に縁どられたブラウンの瞳に、圧倒的な知性と叡智を感じるのだ。それと同時に感じるのは、貴族社会で年老いた狸を相手に感じたモノよりも更に底知れない、深淵の輝き。オーリは総評として『見た目詐欺』と結論付けた。
「貴女様は、一体……?」
「ついて来い。奥で話そう」
少女は正面の巨大な扉へと向かって歩いていき、その扉の前で手に持った杖を振るう。すると巨大な扉が独りでに開いていくその光景に、オーリはもう驚く気力も失せていた。この少女が敵であるならば自分はここで死んでいてもおかしくない、と理解したのだ。先ほど廊下を閉ざした術を掛け声一つで行使したのであれば、それこそ瞬きの間にオーリを殺す事が出来る。
そんな少女の後について、オーリは扉を潜る。その先の光景は、驚く気力が失せていたはずの彼を再び驚愕させるものだ。様々な蔵書が収められた図書室と言う物は、学院にも存在した。ただここはそんな物とは比べ物にならないほどの規模――…《本棚と本》でのみ構成された世界が、視界全てに広がっているのだ。
全体としてみれば円筒形の空間であるが、壁面には階段と通路が幾つも設けられ、その片側かあるいは両側に巨大な書架が幾つも並んでいる。上を見上げれば、天蓋までの高さも途轍もなく……少なくとも、帝城並の高さがあるだろう。本の数に至っては、オーリでは数える事が出来ないくらいにあるのは確実だ。
「さて」
少女が再び杖を振るえば、床から小型の丸テーブルと二脚の椅子が迫り出してくる。彼女はオーリに座るように勧め、自分はもう一つの椅子へと着席する。オーリは勧められた椅子に座って真っ直ぐに少女を見据えた。
「わしが誰か、じゃったな」
「色々とお尋ねしたい事がありますが、一先ずは」
オーリの言葉に少女は一つ頷き、自分を見つめる彼の眼を見据えた。
「わしの名は《カーディナル》。かつては世界の調整者であり、今はこの大図書室のただひとりの司書じゃ」
世界を超えてイチャつくバカップル。
片方記憶無し。片方自覚無し。赤い糸で雁字搦めにでもされてんですかね……
藍子「義姉さんが隙を見せたらシーフも辞さない」
詩乃「止めなさい」
木綿季「お義姉ちゃんが諦めたら絶対盗りにいく」
詩乃「だから止めなさい。後その前提はおかしいから」
悠那「オーリ君のお母様がハーレム容認派だと聞いて!」
詩乃「アンタに対しては実力行使も厭わない」
悠那「理不尽!?」
藍子「義姉さん、悠那さんには当たり強いんですよね……」
木綿季「経緯を考えれば当然……なのかなぁ」
まっま「立ち位置が明確に詩乃ちゃんの
藍子「だから当たりが強いんですか?」
まっま「無意識にでも認めてるのよ、その想いをね。まぁあの当たりの強さは独占欲なんかもあるだろうけど」
木綿季「へぇー……」